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木昌1777さんComments
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『スウェーデン国立美術館 素描コレクション展』に妻と出かけた。退職してから10年ほど、かなりの頻度でいろんな美術館に行き、私なりに熱心に絵を見ていた時期があった。登山の相棒犬が亡くなったあたりから私の行動は次第に不活発になり、地域のいろんな役を引き受けた忙しさを理由にさらに不活発になり、登山、、魚釣り、街歩きなどの趣味の激減、読書量の半減の日々が続いた。昨年の4月に決意して始まった終活の中には美術展に行くことも含まれていたが、新しく始まったカメラ修行という趣味や長引きそうな病気にじっくりつき合うという終活も突然加わってけっこう忙しくしていた。終活開始後の初めての美術展である。
妻を国立西洋美術館に誘ったのはちょっとした別の思惑もあった。夜明け、夕景、山や街の風景、花、鳥などを私のカメラは対象にしているのだが、人は含まれていない。もちろん、家族や旅先での記念写真のような人を写した写真はあるけれども、いわゆるポートレートと呼べるような写真を撮ったことがない。それで、ポートレート写真の手始めは妻をモデルにしようと企んだのである。美術館と上野恩賜公園での「79歳のモデル」も悪くない。そんなこと企んだ。美術展とカメラ、良い終活になるだろう(という予感)。
7時に家を出て、10時30分ころに国立西洋美術館に入った。妻の障害者手帳を見せると付き添いの私も美術館はすべてフリーパスである。今回は車椅子を借りた。妻はそれを歩行器がわりに押しながら絵を見て歩くのである。車椅子を私が押してもいいのだが、それでは視線が低くなって絵がよく見えないので嫌だという。たしかに美術展の絵は成人の目の高さに展示されていることが多い。

画家の個展の場合、その画家の素描も展示されることがあって、抽象画家の若い頃の素描の描写力に驚くことがある(優れた抽象画が優れた描写力をベースにしているというのは当然なのだが)。ただし、今回の素描が「ルネサンスからバロックまで」と副題にあるように抽象画家の素描は望むべくもない。
私には、素描の中でも手や腕のような人間の体の部分の絵が好きである。今、思い出せるのはアンドリュー・ワイエスが草原に座る女性像のために描いた手や背中の素描ぐらいしかないが、展示室ではそんな絵を眼で追ったが、一点しか展示されていなかった。多くは、大作のための全体構成のスケッチだったり、その一部の人間像の素描だった。中には、素描らしからぬ彩色された絵もそれなりにあった。
すごく良い絵だと感動したのは、「下から見た若い男性の頭部」という素描画である。ハンス・ハルドゥング・グリーンという始めて知った画家が1545年に描いた作品である。下絵とか習作としての素描ではなく、もうこれで完成された作品でいいのではないかと思うほどである。素描の良さは、観る者の想像力をかき立てる力が大きいことだと思う。これに彩色し、人間の顔として写実性を高めていくにつれて観る者の想像力は少しずつ削がれていくのではないかと思う。完成された顔の写実性に打たれるということはまた別の鑑賞の話である。



「眠る犬」(コルネルス・フィッセル、1658年)という小さな絵があって、評価が高いらしく、ミュージアムショップではこの絵をあしらった商品が何種類も並べられていた。私が図録と一緒に買った小さなノートの表紙もこの絵だった。ショップでは妻は必ずと言っていいほど一筆箋を探すのだが、この犬の絵の一筆箋しかなかった。いらないと頑張っていたが、ショップを出る直前に買う決心をしたらしい。この絵を見ると「ホシ」が死んだ時の事を思い出して嫌だったのだと言う。「ホシ」というのは27年前に亡くなった飼犬で、私が仕事でブラジルに行った翌日に危篤になって、動物病院に連れて行き、遺骸を引き取り、火葬にするという一切を妻が一人でやったのだ。「眠る犬」は病院で死んで戻ってきたホシの姿を思い出させるのだと言うのである。
二人ともシュンとして美術館をあとにしたが、上野公園の数か所でポートレート写真を撮った。初めてのことなので出来、不出来を語れるレベルではないが、少なくとも次のときはこうすればよいと分かったことがいくつかあった。いつか「79歳が撮った79歳のモデルのポートレート」が人に見せられるレベルになることがあるかもしれない、という気分にだけはなった。
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ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして
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