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暑い日が続きます。今日は聖カタリナ女子高校での講義でしたが、2時50分からの講義でちょうど暑い時に出かけることになり、大変でした。教室は学生の熱気なのか、あまりクーラーが効いてないように感じました。手術後、何でも初めてという気がするのですが、夏の暑さを乗り切りたいです。今のところ前よりも血圧、脈拍ともにかなり低く、少なくなったので、身体は楽のようです。例年のようにいつもクーラーの効いた部屋で仕事をするということはなくなりました。でも、まだまだ暑いのはこれからですね。いついつまでにこれだけのことをやりとげるというようなことをしてはいけないと主治医にいわれたこともあって、前のような粘り強さがなくなったような気がしないわけではありませんが、隠者のように外にあまり出かけない分、家でできる仕事に取り組んでいます。 google版のIchiro's home pageの方に日記を更新しています。
2006年06月29日
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日曜日は朝はいつも通り起きて食事をしたが、その後、体調がすぐれず、長く横になって休んでいた。きっと心臓とは関係ないことであるが、身体の声に耳を傾けず、休むことなく仕事をし続けたのが、今回の病気の原因の一つであることはまちがいないので、再発しないように生活のあり方を変えたいと思う。入院した時から数えたらもう二ヶ月、以前とは劇的に違う生活をしている。食事の制限は慣れたが、本を読んだり原稿を書くという毎日の生活の中で外を歩く時間を見出すのは難しい。時間はもちろん今は外での仕事はほとんどしていないのでたっぷりあるわけだが。 少しずつ遠くへ出かけられるようになっている。新しい本が出版されたばかりだが、次の仕事に向けて動き出している。そのうち一つは入院する直前まで毎日朝方まで取り組んでいた。あの頃は仕事をするために徹夜していたというよりも、少しも眠れなかった。そのことが既に異常だったことに気づくべきだったのだが。 相変わらず鼻の閉塞感はあるが、土曜日から呼吸が少し楽になった。
2006年06月26日
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新しい本が出版され、反響があれば、と毎日気になって仕方ありません。 奈良の事件をめぐっていろいろと報道がされていますが、勉強について親がどんな援助ができるかについて書きました。子どもを追い詰めないために何ができて、何ができないか考えないといけません。急性心筋生還記を連載している(最新は第56回)google版のIchiro's home pageで、新しく「京都だより」の連載を始めました。よろしければお読みください。
2006年06月24日
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申請していた身体障害者手帳が交付されたので市役所に取りに行ってきた。係の人は申請に行った時と同じ人で(覚えられてないと思うが)丁寧に説明してくださった。僕のは心臓機能障害4級(第1種)。一年後に再認定が必要である。更生医療(手術費の一部公費負担)の手続きは、手帳が交付されたのでこれからだそうである。 明日は聖カタリナ女子高。後、4回しかない(7月7日が最後)。これがすめば、4月まではもう学校で教えることはない。
2006年06月22日
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外を歩こうと思うのだが、昼間はこの暑さでは無理なので、夕方まで外に出るチャンスをなくしてしまった。 「急性心筋梗塞生還記」は療養記と名を変えて、更新している。そこにも引いたが、読書会でお世話になった森先生の小説の中にこんなことが書いた。「昔の人が、「汝人間よ」と呼びかける代わりに、「汝死すべきものよ」と語る習慣をもっていたことは、美しい知恵だと思う」(『冬日向』) 母が49歳で亡くなった時のことをいつも思い出す。母の看病のために三ヶ月学校に行けなくなった。結局、母が生きて家に帰ることはなかった。ずっと先まで続く人生を漠然と思い描いていたのに、母を見ていて空しくなってしまって、その後は長らく生きる意欲を失ってしまった。研究室からも離れてしまった。今回は生還できたが、母の時とは違って、いわば一人称の死を経験してした。生還したので臨死というべきなのだろうが。母の時とはまた違うものを見てしまったように思う。それをいい表す言葉を今はまだ持たないのだが、身体は(おそらく)元気になってきているのに、時々ふといろいろなことが空しくなってしまうことがある。
2006年06月20日
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学生の頃、読書会でお世話になった森進一先生を偲ぶ会に行ってきた。会は、近鉄の駅でいえば、桃山御陵であったが、京都駅から近鉄に乗り継いで、僕としては退院後一番の遠出だった。このような場でのスピーチは苦手でうまく話せなかった。おおよそ次のような話をした。「「先生の最後にお目にかかったのは2年前の2月、藤澤令夫先生の葬儀でした。奥様と一緒にこられた先生に挨拶をした時に、笑ってくださったことを今もよく覚えています。(森先生に出会うことになった偶然の導きについてこの後話す)初めて会った日、先生は僕にいわれました。『これはきっと君のほうに縁があったのですね。でも、これが君にとってよかったのか、そうでなかったのかはわからない。君の命がもつか、ギリシア語がものになるか』(このあたり、『不幸の心理 幸福の哲学』のp.223に書いた)。幸か不幸かギリシア語はものになったとは思わないのですが、私ごとで恐縮ですが、実はその命のほうも実は危なくて四月に急性心筋梗塞で倒れ入院していたのです。入院している時に、会のご案内をいただいたのですが、その時はとても出られないと思いましたが、今日、こうして奥様、そして先生に縁のあった皆様に会うことができて嬉しく思います」 お世話になったのに長年会うこともなく、そうこうするうちに昨年亡くなられたので、会の案内がきた時はなんとか出たいと思ったのに、なにしろ入院していたので無理かもしれないと半ば諦めていた。死んでいたかもしれない病気の中にあって持っていた生への執着の一つだった。 帰ったら出版社から、明日出版される『アドラーを読む』(アルテ)が届いていた。手にすることができて本当に嬉しい。装丁はこれまでの僕の本とは違っているので驚いたが、気に入っている。ソフトカバーで182ページ。手術の前にはいろいろなことを思ったが、せっかく(文字通り)命を削って書き上げた本をこの目にすることなく死ぬのは、なんとも寂しいことだと思った。 三木清はこんなふうに書いている。「執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである」(『人生論ノート』全集1、p.199)
2006年06月18日
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退院して4週間経ちました。入院していた時と同じくらい長く感じました。今のところ、聖カタリナ女子高校で講義をしているだけですが、少しずつ復帰できれば、と思っています。カウンセリングが再開できなくて、ご迷惑おかけしています。「心筋梗塞生還記」は今は「退院後の日々」と題して、更新を続けています。リアルタイムに追いついてきました(第44回まで)。 入院中に校正をした『アドラーを読む』(アルテ/星雲社)が6月19日に刊行されます。amazon.comや楽天ブックスで予約できます。入院した時は原稿を出していましたが、このまま完成を待つことなく死ぬのか、と救急処置室で思っていただけに、嬉しいです。
2006年06月17日
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今日は退院後初の受診。皮膚科と循環器内科の両方を受けないといけなくてその手続きが初めてで慣れなくて少しとまどった。診察券を入れればいいだけなので受付の機械を操作することにとまどったわけではないのだが、たくさん並んでいる内科の診察室のどこに行けばいいのか、とか、内科の受付らしい窓口がないのだがどうしたらいいのかというようなことがすぐにはわからなかった。病院には10時頃ついた。皮膚科は予約制ではないので、最初に受付窓口に行ったところ、先に皮膚科から受診するようにいわれた。予約票を内科の方に持っていくと(窓口はなくて「6診7診」と書いてある部屋のドアを開けて中に入っていかなくてはならない)、まず採血をするように、といわれた。この時点で予約時間は30分遅れという掲示が出ていた。僕の時間は11時半だった。 皮膚科では待ったが思いがけず早く番が回ってきて、10時には診察が終わった。よくなっているので飲み薬は変わらないが、ステロイドとワセリンの混合比率が変わった。入院中、二回目に受診した時は車椅子で第2病棟から診察室のある第1病棟まで下りてきた。この時診察が終わってから話した看護師さんが僕のことを覚えてくださっていたのが嬉しかった。「あの時はパジャマだったので感じが違うのですぐにわからなかったのですけど、そうですよねえ、退院されたのですね」と声をかけてくださった。 その後、内科の様子を見にいったら1時間遅れという表示があった。待合室の椅子はいっぱいで最初すわれそうにもなかった。内科7診の前でそれから1時間ほど待つことになった。 待っている間にも、救急の患者さんが何人も処置を終えてストレッチャーで病室で運ばれるのを見た。救急病棟にいた時にお世話になった看護師さんを見かけた。もちろん、声をかけてないが、覚えてられないと思う。ICUから救急病棟の個室に移ってからもなお酸素吸入のために鼻にカニューレを付けていたが、これが外せた日に僕の顔を「顔が違って見えますよ」といってくださったのが嬉しかったのを覚えている。6診(呼吸器)から出てこられた高齢の女性と息子さんらしい男性。「大変なことになってしまったねえ。やっぱり入院しないといけないかい?」検査を受け、すぐに入院することになるらしい。家族の一人が入院するというのは大変なことである。「どうしてこんなに遠い病院にしたの?」「一般の内科なら近くの病院にもあるけど、専門的なところはここしかないんや。遠いといってもバイパスを使えばすぐなんだから」「そうかい…」「部屋は一人やろうか」「それは聞いてみないとわからん」一人になることを不安に思ってられるのだろう。 そうこうするうちに診察の番が回ってきた。診察の時には採血の結果が出ていて、それによると、まだコレステロール値が高い。これを下げるのを目標に頑張りましょうといわれた。中性脂肪など下がっている数値もあるのだが、一月頑張って食事制限をし、運動をしてきたのに、十分ではないようだ。心臓のほうは問題なしで、次回7月13日に予約を入れて、すぐに診察は終わった。待ち時間が長かったのと初めての外来受診だったので疲れた。
2006年06月15日
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今日で退院して三週間経った。まだ外に出かける時以外は入院していた時と同様浴衣で過ごしていて、疲れたら横になっていることが多いが、出かける機会が少しずつ増えてきた。とはいっても、聖カタリナ女子高に出講するだけで、この講義も7月には終わる。 今日は京大会館まで出かけた。円町駅からタクシーに乗ればすぐに行けた。ヴァイツゼッカーの研究会に参加した。長い時間にすわるのは退院以来初めてのことだった。 今も疲れたり、体調がすぐれないことがないわけではないが、心臓に由来するのか、飲んでいる薬の副作用なのか、それとも、病気とは関係なしにただ疲れているのかわからないことがある。 「急性心筋梗塞生還記」は目下、第20回まで。リハビリが進んできたのに体調を崩して延期になったことや、主治医と退院後のことについて話した夜のことなど。やがてアップする21回では、初めて今回何が起こったかを医師から説明を受けた話になる。退院して回顧すれば、入院していた期間は短く感じられるが、入院して間は長く感じられた。生涯でこれほど密度の濃い日々はなかったと思っていたし、実際その通りだった。
2006年06月10日
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入院していた時、この人は私のために自分の時間を割いてくださったと思えることがしばしばあった。そのことを素直にありがたく思える自分になりたい。 「急性心筋梗塞生還記」は、第12回まで。写真は僕が過ごした一般病棟の病室。もう一つはかなたに入院していた病院の第2病棟が見える。5月24日に診断書を取りに行った時に駅のホームから撮った。線路をまたぐ形で第1病棟と結ぶ連絡通路は片道100メートルほどだが、二回の部屋から階段を使って三階まで行き、第1病棟まで往復して部屋に帰ることができるようになったのはようやく退院間近のことだった。体調を悪くしてリハビリが延期になったこともあるのだが、概してリハビリには慎重だった。 退院後一週間は緊張して一生懸命だったのに次の週は茫然自失で過ごすことが多かった。今週は、力が出てきたのを感じる。粘り強く考えることが少しできるようになったように思う。 心筋梗塞で入院していたというと一様に驚かれるのだが、おいしいものたくさん食べて、贅沢していたんちがうか、とある人にいわれ、いやな気持ちになった。もちろん、贅沢などしてなかったから。
2006年06月07日
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今日は父が見舞いにきてくれた。いつも電車に乗る前に京都駅から電話をくれるので、その時に駅からタクシーでくるようにいおうと思っていたのに、父は電話もしないできてくれた。暑い中、歩いてきたようで、ひどい息切れをしているので驚いてしまった。父は狭心症と肺気腫を病んでいるのである。どう見ても僕のほうが元気なのに(そのことはきっと父を安心させただろう)、昼間一人でいる時のことを心配してくれた。 食事をして駅まで送っていく。亀岡駅にはエレベータがない。階段を昇り降りすることは父はあまりに大変なので、駅員さんに「向こうのホームまで階段を使わないで行く方法はありませんか?」とたずねてみた。「車椅子がないとだめです。それに障害者の方でないとだめです」ときつい口調でいわれる。きっと僕のことだと思われたのだろう(僕も障害者手帳を申請しているところなのだが)。「わかりました」と引き下がり、入場券を買おうとしたところでとぼとぼ歩く父を見て、駅員さんはやっと状況がわかったようで、手のひらを返したように態度を変えて、「そういうことでしたらいっていただかないと」という。「心臓と肺を病んでいるのです。向こうまで付き添ってやってください」といい、わかりました、といわれたけれど、父が階段を昇ることには変わりはないわけである。駅には車椅子は用意してないのだろうか。 昨日、聖カタリナ女子高校で退院後三回目の講義。帰りに入院中お世話になった看護師さんに挨拶をしに病院に立ち寄った。後ろ姿を見て声をかけてくださる方があるのは嬉しかった。 「急性心筋梗塞生還記」は目下、第7回まで。
2006年06月06日
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退院して二週間経った。まだ世間の流れに乗り切れてないので、高校へ講義に出かける以外の時間は、ゆったりと流れている。見た目には元気なので何でもできそうなものだが、依然、できないことがある。退院はしたが、治癒したのではなく、緩解であったことは忘れてはいけない、と自分を戒めている。 入院中に書きためていた日記などをもとに、「急性心筋梗塞生還記」を書いてみた。30回ほど連載してみたい。入院していた時は「闘病記」という題で書いていたが、この身体とこれからつきあっていかないので、病と闘うという表現はあまり適切ではないかもしれない、と思った。生還というのも大げさに聞こえるかもしれないが、死の淵まで行ってしまったという思いはたしかにある。 これから何年もかけて今回の経験について考え続けることになるだろう。読んでもらえばわかると思うが、入院中は粘り強く考えるだけの力がなかった。しかし、忘れたくはないので、細かいことまでその日にあったことを書き留めた。
2006年06月04日
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病院にいる時は、たとえて見れば、電車の中にいるようなもので、目的地に着くまでは他に何もできないから本を読んだり、闘病記を書くことだけに気持ちを向けることができたのに、退院してからは世間(家族も含む)からのさまざまな働きかけが押し寄せてきて、心が散漫になっているように思う。それと同時に力がすっかり抜けてしまったかのようで、まだ何かをしようという強い意欲が出てこない。 それでもその働きかけが同時に少しずつ僕を社会に戻っていくことを助けてくれるようにも思う。先週から、望む形で復帰を、といっていただけた聖カタリナ女子高での講義を再開した。地理的には自宅から遠くはなく、僕が入院していた南丹病院は自宅と学校の中間にあるので、たとえ何かがあったとしても病院に行けないことはない。 この学校の看護専攻科で講義を始めて数年になる。今年初めて出講した日、前の方にいる何人かの学生の教科書を見たら(僕が買いた『アドラー心理学入門』)、先の方まで読みラインマーカであちらこちら線を引いてあったので今年はなかなかおもしろそうだ、と思ったのに、この最初の講義からほどなくして心筋梗塞で倒れてしまい、長らく講義を中断していたのである。病院では再び講義ができるとは思えなかったし、もし可能だとしてもかなり先のことになると覚悟していたので、学生と再会できて嬉しい。生きているという実感がある。
2006年06月02日
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