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【8月28日・土曜日】 帰宅したらブログもバンバン更新しよう、掃除もバンバンやろう、なぁんちゃって実を言うと掃除はあの、安全装置が焼け焦げた日以後はまるで出来ず、ほとんど連日人さまと出会うことに明け暮れてしまった。 クライマックスの撮影で、アナトリアのとある地方に残った撮影クルーの皆さんの様子を聞くために、その間もときどきディレクター氏とは電話でやり取りが続いていた。 日本からトルコ旅行に来られた皆さんとも初対面、再会などなど、いろいろな出会いが続き、海泡石のシナンさんが日本から預かってきてくれたお土産を貰いに行ったり。 去年知り合った埼玉のかゆすさんがイスタンブール到着早々スーツケースが紛失、心細げに電話をかけて来たので、夜遅く着替えを持ってホテルに飛んでいったり・・・ 幸い翌日、紛失した荷物は、空港の貨物係の手違いで他のブースに送られてしまっていたのがわかり、ホテルに届けられたので日曜日はかゆすさんが夕飯をご馳走してくれた。 月曜日は日本の旅行会社がさるイベントのために会場探しをしていて、この件でお手伝い。そのあとオズギュル先生のところにより、さらにそのあとは台湾からイサさんと藍さん夫婦がトルコ初登場の坊やアンカ君(もうじき2歳)を連れてイスタンブールにやってきた。 彼らの友人夫婦の家の夕食会に招待を受け、ギュッルオールのバクラバ1キロを張り込んでお邪魔したが、こちらもトルコ人の夫君と台湾出身の奥さん。 料理は美味しい、話は面白い、かくて時の経つのも忘れ、11時過ぎにおいとまして翌24日は早朝、アナトリアから戻ってきた撮影クルーの皆さんを出迎えにアタテュルク空港へ。 35日にわたる撮影でエネルギ-を使い果たしたはずのお三方、どうしてどうして、ホテルでの朝食が済むとすぐ立ち上がり、スルタンアフメットの広場を通り抜けて、最後の通訳エリフ嬢を訪問、海の見えるテラスでチャイをいただき、今度は旧市街から新市街まで移動。 トラムワイや徒歩、テュネルという地下鉄などを乗ったり降りたり。ガラタ橋の上では魚を釣る人々と交流しながらイスタンブールをたっぷり楽しんだ。 昼はタキシム広場の近くにある日本料理屋「優曇也」さんで美味しい寿司定食。午後は2時間のボスポラス海峡クルーズを楽しみ、そのあとはエジプシャン・バザールからマフムットパシャ通りの大混雑を縫って坂道を登り、グランド・バザールのそばのチェンベルリ・タシュ・ハマムで旅の垢を落とすと言うことに。 そして夕飯は再びスルタンアフメット広場を抜けて海岸通りに近い韓国料理店で、ビールで乾杯し、中華料理と韓国料理のミックスを楽しんだ。「いや~、イスタンブールはやっぱりいいですねえ。食べ物が違いますよ!」とカメラマン氏と音声氏が異口同音に。 次の日、食事以外は自由行動だったので、私はディレクター氏だけを案内してまずはトプカプ宮殿から。 カラキョイ波止場に豪華客船が2隻同時に着いていたので朝から観光地は大混雑。昼は全員でタキシム広場の一画にある中華料理店で、すしと中華のバイキング。 その後ブルーモスク、アヤソフィア博物館、グランド・バザールと歩き回ってさすがにくたびれた。 お客さんのディレクター氏がときどき立ち止まって待っててくれて、案内役の私があとから小走りでやっと追いつくというコミックな有様。 夕方ホテルに戻って清算を済ませ、6時に迎えに来たマイクロバスに大量の機材も積んでカラキョイのオリンピアット・レストランで海鮮料理に舌鼓を打つ。 早めに空港に着いて、税関で夥しい数の撮影機材のチェックを受ける。ここでは係員が「ここではない、この列をまっすぐ進んだ右側でチェックを受けなさい」と言うので、皆さん重たいカートを押してそこまで行ったら診療所があるのみ。 どうやら「アタ・カルネ・コントロール」と言ったのに「サールック・コントロール(健康診断)」と勘違いして診療所を教えたらしい。 コーディネーターの面目まるつぶれ、取って返してもう一度その新米の係員にねじ込んでやっと話の分かる上司と交替させた。 あとはどうやらうまく行き、10時過ぎ身軽になった皆さんは手を振りながらパスポート・コントロールに進み、そこでお別れした。 26日、27日もずっと外出、旅から戻ったかゆすさんや、この夏もフィールドワークに来た春野雪子先生達とも出会った。 土曜日の今夜、コンヤに急に出張することになり、これから支度して夕方アジア側のサビハ・ギョクチェン空港から飛ぶところである。 これはセマーのポストニシン様達が公演でしばらく中国に行ってしまうので、その前に日曜日のイフタル・ソフラス(断食明けの食事)をポストニシン様の家族と共にするためにと、ユジェル君と再会して尽きぬ話をするためである。********************** にゃんこ達は今晩から京子さんが泊まりこみで面倒を見てくれることになりました。ありがとう、行ってきます。 帰ってきたらブログを更新しますが、ちょっとの間またお休みさせていただきます。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年08月28日
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【8月19日・木曜日】 私の留守中、V子やAkeちゃんは掃除機を使わず箒と塵取りで掃除していたらしいので、帰宅3日目の昨日の朝、久々に強力な水フィルター式の掃除機をかけることにした。 玄関口のそばにあるコンセントには、5個の差込口がついた延長コードが嵌め込まれていたので、5個のうちの1つに掃除機のプラグを差し込んだ途端、パチン!とはじけるような音がして電灯が消えてしまった。当然掃除機も動かない。 台所に通じる廊下の窪み部分には洗濯機があって、そちらのコンセントも駄目になってしまっているようだ。反対側にある風呂場と台所側のコンセントは稼動するようなので、先ほどの延長コードを持ってきて、風呂場側にあるコンセントに差込み、洗濯機のプラグをそこに嵌め込んだ途端、 バ~~ンッ!!!! とアパルトマン中に響き渡るようなものすごい破裂音がして廊下の電灯も一瞬にして消えてしまった。猫達は飛び上がって驚き、私もひぇっ、と思わずしゃがみこんでしまった。 これで家の東側にある電気回路は全部おじゃんになってしまったようである。仕方なく電気屋に電話をして修理に来てもらうことにした。 ほどなくやってきた電気屋のウスタ(職人)は、玄関の棚の上にあるシゴルタ(安全装置)の外蓋を取った途端、「アッラー・コルスン(神様、お守りください)!」と大声で言った。「加瀬ハヌム、よくまあ爆発しませんでしたね。配線が全部焼け切れて、まかり間違えば壁ごと吹っ飛んでもおかしくない状態でしたよ。あーあ、アッラーがあなたをお守りくださったんだ」 無口そうなウスタが、故障箇所を見て感極まったような声でそう言い、右手を拳骨にして脚立の踏み板をコンコンコンと3度叩き、その手を耳に持っていってなにやら口の中で呪文を唱えた。これは恐ろしい災難をよけるためや恐ろしいことを見たとき聞いたときのおまじないなのである。「よくよく大きな音がしたでしょうね、これでは」とウスタが言った。「ええ、すごい音で息が止まったわ~」「アッラー・シュキュル(神に感謝)、こんなに焼け切れていて爆発しなかったのは奇跡としか言いようがないですよ」 この正直そうなウスタが言うからには、大げさな話ではなく、まかり間違えば爆発することもあり得たのだと、改めてゾッとした。あの音だけでも十分怖かったし・・・ ウスタは手早く幾つかのコンセントを取替え、やけ切れていたケーブルも新しいのに付け替えて、全部のコンセントをテストして確認してから私を呼んだ。「この夏は異常な暑さなのでクーラーなど全開にしているうちではすぐに過熱します。この掃除機も強い電力を必要とするので、やたらに延長コードを使わないように。延長コードでもアースつきのものを買ったほうがいいですよ」 親切にこと細かく注意してウスタは仕事道具を片付けた。「ボルジュム・ネカダール(私の借金はいくら)?」「クルク(40)」「エッ? クルク、ム? サーデジェ・クルク・ム?(え、40? たった40なの?)」「タビイ(もちろん)」 正直なウスタにほっとした。以前よく同じ店から送られてきたAというウスタは、若造のくせに自慢タラタラ、料金も70だの80TLを請求されることが多かったのである。 私は40リラのほかに煙草代として5リラを差し出した。ウスタは「やあ、悪いねえ」と嬉しそうに受け取った。 電気が直ると今度は水道屋も呼んで、長い間ポタポタと水の漏っていた風呂の蛇口を取り替えて貰った。こちらも部品込みで30リラだという。 水道屋のウスタにも5リラ余計に払い、すっかり安心して掃除に取り掛かり、そのあとたっぷりとシャワーを浴び、洗濯もばんばんして、午後はコンテスの治療に行った。 コンテスは幸いすっかり元気を取り戻し、点滴の必要もなしと認められ、昨日18日で治療通院はめでたく終わりとなった。 ご機嫌で眠るコンテス 「オズギュル先生、子猫はだいぶ慣れてきましたよ。タンブルといちばんよく喧嘩していますがきっと仲良くなれそうです。私が大事に飼いますと、もとの飼い主さんに伝えてくださいね」 私は真っ白なこの子猫に「オグリ」と命名した。そう、あの忘れられないオグリキャップの愛称をつけたのである。 今年の4月23日生まれのアンゴラ、オス、生後4ヵ月。元の飼い主の苗字が「Binici・ビニジ」さん。なんと「騎手」である。騎手から「Kase・キャーセ」つまり「丼」に飼い主が変わったオグリは、タンブルと追いつ追われつ、白く長い見事な尻尾をなびかせてサロンの中を走り回るようになった。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年08月19日
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【8月18日・水曜日】 8月14日の早朝、撮影隊は最後の撮影基地に向けて出発しました。ここも、とある地方のとある小さな町、としか書けませんが、とにかく私とアシスタントの伸也君はそこでめでたく任務終了しました。 といってもコーディネーターとしての私がそのまま消えてしまうのではなく、イスタンブールに戻っても電話でサポートしていくわけです。現場では、撮影クルーの3人、後半のガイドであるマフムットさんとそのアシスタント、アフメット君。カメラマン氏のアシスタントとして新たに加わったエミル君、そして私の代わりに日本語の通訳をするエリフ嬢、その他5~6人の地元から参加の人々、などなど総勢10人くらいのメンバーになりそうです。 みなさんと手を振り合って別れ、ロケバスのカプタン、トゥンジャイさん運転の車で伸也君とともに、7月23日から投宿した2番目の撮影基地の宿に戻ってきました。 昼を食べてから訪問するところがあったので手土産を買い、隣の県の県庁所在地まで、チャーターした車ではるばる出かけて行きました。 これには伸也君も同行してくれたのですが、実は昨年10月に急逝した前ネヴシェヒール博物館長、ハリス・イエニプナル氏の墓参に行ったのでした。 思えば7年前の夏、カッパドキアを皮切りにコンヤ、ハットゥシャシュ、タルスス、そしてイスタンブールと巡り歩いた長丁場のドキュメンタリー番組の撮影で、冒頭のカッパドキアの地下都市について、解説者として登場していただいたハリス館長とは、その後も長いお付き合いが続き、毎回カッパドキアを訪れるたび博物館に訪問していたものでした。 去年の8月、大学の名誉教授夫妻のお供でカッパドキアに行ったときはあいにく訪問する時間がなく、電話で話しただけ。再会を約束したまま半年余り過ぎ、今回のドキュメンタリーのオファーが来たとき、「先生、やっとお目にかかれます」と言うつもりでかけた電話に出たのは夫人のギュルサンさんだったのでした。 挨拶やら何やらでばらく話した後、「奥さん、先生は今日、お留守なのですか?」と聞いたら、奥さんはびっくりしたように「ご存じなかったのですか。ハリス・ベイは去年の10月下旬に亡くなったのです」と答えたのです。思わず受話器を取り落としそうになりました。 トルコ随一の観光メッカ、カッパドキアを擁するネヴシェヒール博物館長の仕事は激務と言うしかなく、ハリス先生は執務中に心臓発作で倒れ、カイセリの大学病院に運ばれ緊急手術が行われたにもかかわらず、初孫誕生を目前にしてついに帰らぬ人となってしまったとのことでした。享年49歳、写真家としても著作集があります。 在りし日のハリス・イエニプナル先生。2007年撮影 未亡人や3人の息子さんが待ち合わせの場所から墓地に案内してくれました。林の中にある静かな墓地にも真夏の灼熱の陽射しは容赦なく差し込んでいました。真新しい墓碑に刻まれた懐かしい名前を見るとわれ知らず涙がこぼれました。 そのあと自宅にお邪魔し、30分ほど先生の思い出を語り合ったあと暇乞いし、再び私達は宿に戻ってきました。別れ際に奥さんは「またこちら方面にいらしたときはどうかわが家にもお泊まり下さいね。ハリス・ベイがきっと喜びます」と私の肩を抱きながら言うのでした。 宿のオーナー、ハリルさんも先生と同年代、観光事業について語り合った親友だったそうで、ネヴシェヒールに今日の隆盛をもたらしたのは、ハリスさんの功績だよ、とつぶやいていました。 その晩、宿の本館のお洒落な芝生の庭で伸也君と2人、無事に任務を次の人に引き継いで安心して帰れるのを祝って乾杯しました。 翌朝、チェックアウトしたとき、夕飯から宿泊代まで全部宿のオーナー、ハリルさんの好意だから支払いの必要はない、と言われ、伸也君と顔を見合わせてしまいました。 コンヤに向かう伸也君と別れ、ネヴシェヒール・カッパドキア空港で搭乗を待つ間、トルコ周遊旅行の日本人グループの若いお嬢さん達と知り合い、そのグループのガイド、オヌルさんが私の重い手荷物を持ってくれました。 どこに行ってもたくさんの親切な人々と出会い、コーディネーター・フィーの一部も貰って懐も豊か、私は幸せな気持ちでイスタンブールに戻ってきたのでした。 空港から乗ったタクシーの運転手さんがまた話の面白い人だったので、私は途中からAkeちゃんに電話をいれ、わが家によって彼女とコンテスを乗せそのまま獣医オズギュル先生のクリニックに直行しました。 実は老いたコンテスは暑さ負けしたようで食欲がなくなり、1週間ほど前からAkeちゃんが連日点滴を施しに連れて通ってくれていたのでした。 キャリーの籠目から指を差し入れるとコンテスは嬉しそうにゴロゴロ喉を鳴らし、私の手の甲に曲がった顎を何度も擦り付けて喜びます。 イスタンブールはかつてない暑さでした。帰宅の日から今日で4回目の通院に間もなく出かけていくところです。 昨日、わが家にはまた1匹猫が増えました。オズギュル先生の待合室に置かれた「里親を探しています」の張り紙のある檻の中で、しょんぼりと寂しそうな白い子猫が所在無げに寝そべっていました。 飼い主がこの白猫を飼い始めた直後、海外転勤になり仕方なく里子に出したのだそうです。 その白猫は、昨日、私を見るなり立ち上がって金網に鼻を擦り付け甘えてきたのです。その様子を見たオズギュル先生がぜひともあなたに飼ってほしい、と言うのです。 生後4ヵ月のオス猫はわが家に連れてきた途端、他の猫達ににらまれ苛められてたいへんでしたが、次第に慣れてゆくだろうと思います。 それより今朝、私はおっそろしい目に遭いました。 あいにく、コンテスの治療に行く時間が来たので、その話はまた後ほど・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年08月18日
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【8月11日・水曜日】 アナトリアで4番目の撮影基地に到着したのが9日の夕方。そこは人口100万になんなんとする大きな地方都市で、県庁所在地でもあり、豊かな財政を反映したきれいな街です。ここには14日の朝まで5日間滞在します。 撮影隊は行く先々で暖かな歓迎を受けながら、チームワークもよく、予想以上のよい映像もキャッチできて、本来は苦しいはずの長い日程を、アクティヴにこなしてきました。 カメラマン氏はことに業界でも有名な美しい映像を捉える名人とのこと。そして何度も思いがけない場面をキャッチ、多分本邦初公開、というような映像もあることでしょう。 8月から交替したアシスタントの伸也君も大活躍で、半年間黒海地方や東部トルコを1人で回りつつ、日本食を作って披露しながら親善に努め、身につけてきたトルコの人々との上手な付き合い方を存分に発揮しています。 トルコ語も非常に達者で、初経験なのに通訳もまずは順調に出来、現代の若者らしく巷の話題にも通じているのでクルーの皆さんを退屈させないし、言うところなしです。特に年恰好の似通う音声氏と気が合うようです。 安心して彼に現場を任せられるので、私は複雑な許可証取得の関係で官公庁回りなど別行動も出来たし、仕事は順調に非常にうまく行っていると言えましょう。 私がもう1つ嬉しいのは、仕事が終わると一風呂浴びて、みんな揃って夕食のテーブルを囲むことが出来る点です。 これはディレクター氏の方針によるところ大で、かつて、現地スタッフはまったく同席させないというチームもあったし、夕食の席になるとディレクターがぐずぐず文句を言い募って、飯がまずくなってみんなシーンとしてしまう、などということも経験してきたので、それを思えばまさに天国ですよ。 8月9日に交替した後半のガイドさんもいい味出しています。私達はロードムービーのように、何箇所かを移動しながら、今までのトルコ紹介番組とは一味も二味も違ったドキュメンタリーを作り上げることを確信しています。 今日は午前中、撮影クルーの皆さんが番組の最後、クライマックスに使用する機材や道具の点検をする間、現地スタッフは待機することになったので、詳しくは書けないまでも、撮影の様子をちょっとだけお伝えしました。 この地方は洗濯物が乾きやすく、夜シャワーを浴びるとき洗って干すと、翌朝にはもうほぼ乾いているほど。だから部屋の中に汚れ物はありません。 旅に出たときだけ超几帳面になる私は、このモードをイスタンブールまで持続して、留守中うちの娘の親友Akeちゃんがどこからどこまで拭き清めてくれたと言うわが家を、再び汚さないように心がけねば、と肝に銘じているところです。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年08月11日
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【8月8日・日曜日】 この、とある地方のとある村で私はアシスタントの伸也君に撮影クルー専任についてもらい、弁当つくりや昼食の支度をしています。 炊飯器や和食材料のほかは、宿のオーナーに頼んで台所を使わせて貰い、野菜などを分けて貰ったりしています。有り合わせのものばかりの料理ながら、撮影クルーの皆さんの後方支援に精を出しています。 宿は一族経営の小さなペンション、都市部で泊まる4つ星クラスのホテルのようには行きませんが、まずまず清潔でみんな満足しているようです。 学校が夏休みなので子供達も総出で手伝いをさせられているし、夕食はオーナーの奥さんや姉妹達が拵えています。当然田舎料理でこれがまた美味しいのなんの。 私が弁当を拵えるときには、子供達がみんなで手伝いに来てくれるので、ご褒美に午後の暑い頃、全員(6~7人いる)にペンションで売っているアイスクリームを振舞うことにしています。 宿の売り上げに協力したうえ、子供達を喜ばせる。一石二鳥というわけです。庭の一隅にある調理場へ、中の厨房から皿だの包丁だの、必要なものをせっせとで運んできてくれるのです。 柳や白樺の葉が風にそよぐ広い前庭、隣の敷地はりんご畑。それに、朝夕目の前の道路をロバに導かれた羊の群や牛の群が、カランコロンと首のチャン(すず)を鳴らしながら放牧に出かけたり帰ってきたりするのです。 りんご畑には、まだ淡い緑色をしたりんごがびっしりなっています。りんごの仲買商というおじいさん(私より年下でした)と、その息子さんも宿に泊まっており、日中は他の果樹園へも交渉に行くようです。 県庁所在地から車で1時間そこそこの村なのですが、明け方ムクドリの大群が乱舞したり、日が昇るにつれ遠くの山並みも見えてきたり、ここでは時計に追いかけられないゆっくりした時間が流れているのではないでしょうか。 明日の朝はまた宿を引き払い別なところへ移動します。大掛かりな撮影機材があるので移動はなかなかたいへんな作業ですが、キャラバンのようにあちらこちらに旅をするなかで、行く先々で今まで自分の知らなかったまた別なトルコの一面を見出すことも出来るのが、大きなアドヴァンテージと言えましょう。 すずめ百まで踊り忘れずの喩えどおり、好奇心旺盛でいる限りは、常に何かが吸収できるものだと感じています。 わが家の留守部隊7匹と、マッシモやグミちゃんなど外の猫達も元気とのことで安心しています。V子の友人Akeちゃんに感謝します。 シェビィと重なって寝ているタンブル。大きさはもうほとんど変わらない。 では今日はこの辺で・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年08月08日
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【8月6日・金曜日】 お久しぶりです。20日の夜に始まった撮影旅行、イスタンブールに一泊したクルーの皆さんとともに、21日の昼前、アタテュルク空港からアンカラに飛び、そこで2泊、必要な撮影を行い、訪問すべきところを訪問し、23日の朝、アナトリアに向かってマイクロバスで出発しました。 私は8月15日にはイスタンブールに戻りますが、撮影自体は8月23日までの長丁場、最後の10日間は前にも書いたように、この番組の最大のクライマックスです。その際は若いトルコ人の通訳と交替します。これは年齢や体力的な問題なので、最後まで現場に残りたい気持ちはいっぱいですが、どうにもなりません。 番組を牽引する役目のガイドや、私のアシスタントも、前半と後半では交代することになっています。ガイドはそれぞれの専門的な分野から選ばせてもらった、片や新進気鋭、片や老練のお2人で、既に若手のガイド、ケレムさんと私のアシスタント・ユジェル君も、和気あいあいでクルーの皆さんをフォローしています。 交替する相手のいない撮影クルーの皆さんはたいへんですが、皆さん、この手の番組の専門家なので問題はないようです。 カメラ氏と音声氏は、高い岩の上や山麓を重たいカメラや機材を担いで駆け上っていくので、私はとうてい追いつかず、ディレクター氏が「無理をしないで、こういうときは下で見ていてくださいね」と、アシスタントだけを連れて登っていくわけです。 しかし、7月26日には人生最後の冒険だと思って、深い渓谷の絶壁の中途にある、初期のクリスチャン教会の撮影に行くクルーについて登ってゆきました。 皆さんに遅れること10分余り。やっとテラス状になった岩場にたどり着き、ふと下を見ると・・・ゾーッ。 とんでもないところに来てしまった、と後悔しましたが、そこは神様に見放されたことのない私のこと、荷物を担ぎ上げるのを頼んだ屈強なお兄さんが、みんなが撮影中に私を導いて下ろす約束をしてくれました。 撮影用の大掛かりな機材を組み立てている最中、少し離れた岩の上にしばらく座り、深い谷底や、高い絶壁を見ながらその間に次々と撮影許可の申請を出してある各県庁に問い合わせの電話をかけたり、後半を受け持つガイドとの連絡を取ったり、一応コーディネーターの役割は果たしていました。 人生も晩年になってから、こんな絶景の中でテレビの仕事をするなんて、痛快な気分だなあ~。撮影クルーの皆さんからはしょうがないおばさんだなあ、と想われたかも知れないけど、冥土の土産話になるもんね。 撮影の様子をしばらく見たあと、撤収する前にお兄さんに腕を支えられ、崖の道を何の心配もなく下ろして貰いました。 渓流の淵まで私を導いた彼は、靴下を脱いで冷たい水に足を浸すように言い置き、再び岩場をサルのように、失礼、カモシカのように駆け上って行きました。 言われたとおり渓流に足を浸してみると、極楽、極楽、まあ、崖の上で汗まみれになって働いている皆さんに申し訳ないので水遊びは5分だけにしてロケバスのある駐車場まで戻りました。 このお兄さんは、渓谷の整備員だそうで、私のノートに自分の携帯番号を書いて、ぜひともまた話をしよう、と言うのでその後折を見て掛けてみたのですが、間違えて書いたようで全然通じないのですよ・・・ 8月1日にアシスタントのユジェル君とおかしんこと岡崎伸也さんの交替があり、おとといの8月4日朝には、12日間滞在した町から引き払うことになりました。大移動するにあたり、思いがけず再び同じ渓谷に行くことになり、撮影の続きが行われました。そこでめでたくお兄さんとも再会、でも今度は私が電話番号を確かめるのを忘れてしまったのです。やれやれ。 渓流に掛け渡されたヨシズ張りの小屋でお昼をいただくことになり、カメラマン氏、音声氏、ガイドのケレムさんなども童心に帰って冷たい渓流に足を浸して喜んでいました。 こういう画面を写真でお目にかけられないことが残念ですが、ラジオのように私の実況放送だけで我慢してくださいね。 さて、本日は8月6日、ヒロシマの日でしたね。私達はおとといの晩からとある地方のとある宿に泊まっています。アシスタントは三脚担ぎで撮影には大事な人材、私は居残り部隊(と言っても1人だけ)となって、撮影に行く皆さんの弁当や昼食を拵えております。 ディレクター氏が「ごめんなさい、加瀬さん。どこも見られないでご飯作りばかりさせて」と気を使ってくれますが、高原の涼しい風の中で得意のご飯炊き、文句はないです。 早朝出て行くので昼には一度宿に戻る撮影隊。カレーライスにワカメとキュウリの三杯酢、なんてトルコの僻地ではあり得ないメニューを拵えて喜んで貰っております。 前に滞在したホテルでも、今度の家族経営のペンションでも、ちゃっかりと台所を借りる交渉をし、おにぎりや海苔巻きや和風のおかずを拵えるのです。コック達やペンションの家族達とも異文化交流ばっちりです。 夜食はペンションで作って貰っていますが、今日は宿の女性達と一緒に私もこの地方の郷土料理マントゥ作りを手伝いました。なんだか餃子が食べたくなりました。 撮影のほうも非常に順調で、仕事もしながらトルコ満喫の旅、前半ハードに飛ばした分、余裕が出来て、ディレクター氏の笑顔が見られるようになり、私も嬉しい限りです。 しかしながら、なかなかネットに繋がらないのが玉に瑕、書いても更新できないブログです。では今日はこの辺で・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年08月06日
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