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【6月30日・水曜日】 29日の夜、私はアナトリアのとある町からイスタンブールに戻ってきた。今日はそれに伴う用事で出歩き、夕方7時過ぎに家に戻ってきた。 留守中、猫達の面倒を見てもらったお礼に、真菜さん、京子さん、そしてレイラと日本食レストランで夕食を共にする約束があった。 裏庭の階段を下りるとき、一番下に白い猫が倒れているのを見つけた。ニケだった。私は持っていた荷物を京子さんに預け、ニケを抱き上げた。 事切れてくたんとしてしまったニケは車に撥ねられたに違いなかった。アパルトマンの西側に出て、窓から身を乗り出していたブラック・ウスタの妻アイシェに尋ねた。「アイシェさん、この猫、どうしたの?」「車に撥ねられたのよ」「やっぱり・・・何時頃だった?」「4時頃だと思うわ」「階段の下で見つけたのよ。撥ねられてから、あそこまで自分で歩いていったの?」「そうよ、あそこまで行ったのよ」「・・・・・」 撥ねられてから3時間以上経っているというのに、ニケの体は柔らかくまだ暖かかった。それはおそらく撥ねられたまま長い時間、死に切れずにいたということだ。 誰も獣医に連れて行ってくれる人がいなかったなんて、余りにも可哀想・・・ニケは私がこの道から戻ってくるのを知っていてじっと待っていたに違いない。 私は物言わぬ猫に頬ずりし、胸に抱きしめてやった。半開きになった口からはみ出た舌が私の頬に触れた。ニケが最後のお別れに私をなめてくれたような気がした。「ニケ、お前の子供3匹は私が大事に預かっているから心配しないでね」と私は囁いた。 チュクルジュマに初登場した頃のニケ(右)とビリー 生後7ヵ月シェビィとアルスの母となる。 余りに美しすぎて・・・(生後10ヵ月の頃=2009年10月撮影) ブラック・ウスタに古新聞を貰い、幾重にも包んで、最後に黒いビニール袋でしっかりくるみこんだ。そしてもう一度ニケのために祈りを捧げてから街路樹の下に運んで行き、そのあとモスクのチェシュメ(泉=水道)で手を清めた。 思えば、5月には、息子達ネイとクドゥム、6月には子猫の父アサオ、娘テフのニケのファミリーが全部車の犠牲になってしまい、最後の最後にこのチュクルジュマ通りに慣れているはずのニケまでが撥ねられてしまったことは、どれほどこの細い通りを車が猛スピードで、残酷に無慈悲に猫を跳ね飛ばし、轢き殺しながら通り過ぎていくかを明確に物語っていると言えよう。 去年の4月におそらく生後2~3ヵ月でチュクルジュマに連れてこられたニケと兄のビリー。 ニケはたった1年半程度の寿命だったことになり、美人薄命というが、まさにそんなはかない猫人生を歩んだのだった。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年06月30日
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【6月21日・月曜日】 19日・20日はコンヤに行ってきた。そして23日夜にはアンカラに飛びそこから数ヵ所を回るので、またイスタンブールを1週間ほど留守にする。 5月半ばから約1ヵ月半近くに渡って調査やオーガナイズをしてきた、あるドキュメンタリー番組のロケハンに来るディレクター氏を案内して、アナドル(アナトリア)に行くのである。 特に本番撮影には40日近い日数を要することになるので、コンヤ行きやロケハンも含めて猫の世話をどうするかが一番深刻な課題だった。 レイラはずっとツアーや通訳の仕事が入っていて今度ばかりは頼めない。 ああ、でも神様、ありがとうございます。コンヤ行きとロケハンの期間は、留学生の真菜さんと京子さんがわが家に泊り込みで見てくれることになり、15日の夜、まず真菜さんがやってきた。 真菜さんのおかげでわが家の猫達も寂しい思いをせずに今朝の私の帰りを待っていた。私と交替で真菜さんは旅行に出かけ、23日以降は再び彼女が見てくれる。そして京子さんも25日からわが家に来て猫の世話に加わることになるのだ。 本番の撮影は7月20日に始まるので、前日の19日にV子が日本から友人を伴って猫の世話にやってくる。この友人はV子が12日後には帰ってゆくため、そのあとを引き受けて、私が帰る日まで猫の世話をしながら待ってくれることになるのである。 もちろん、トルコ語を知らない彼女のために、折々レイラや真菜さん、京子さんが応援に駆けつけてくれるという。なんと、撮影クルー以上の大部隊が猫の面倒をみることになるのである。7匹の猫達にペットホテルではなく、わが家でいつもと変わらぬ生活をさせるために考えたことである。 コンヤでの2日間のことは、まだ写真の整理もついていないので、このロケハンが終わった後でゆっくり書くことにしたい。またロケハンについてもどこでどうした、ということは現時点では書けないので、ブログはしばらく休むことになりそうだ。 コンヤから戻ったら、いつも悪い知らせが待っているのがジンクスみたいになってしまったが、外でたった1匹だけ残っていたニケの娘、テフも帰らぬ猫になってしまっていた。 4匹もいたのに、わが家のタンブルだけが残った。タンブルは兄弟達の不幸は知らず、今日もドタバタと大きな猫達に飛びかかってゆき、一番のやんちゃ振りを発揮している。表では心なしか、しょんぼりしたニケが私の足に擦り寄ってきて、なかなか離れようとしなかった。 タンブルをそばに返してやれば、タンブルも車の犠牲になる恐れがある。この上は、ニケやその兄のビリー、そしてコマちゃんの忘れ形見ポップが坂道を疾走してくる車の餌食にならないようにと祈るしかない。 もう、タンブル(右から2匹目の白い猫)しか残っていない4兄弟madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月21日
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【6月18日・金曜日】 ちょうど1週間前、私は用事でアジア側のカドゥキョイに出かけ、友人yokocanさんと5ヵ月ぶりに出会ってお昼を一緒に食べ、楽しいひとときを過ごしてきたが、その晩にはもう1つ出かける用事があった。 かつてレイラのルームメイトだったイラン人のペリンは、イスタンブールのさる大学の報道科に学ぶカメラマン(フォトグラファー)志望の女子大生である。 昨年、同じくイスタンブールに留学していた彼女の次兄が、現イラン政府を批判して投獄されすぐに絞首刑になった友人を弁護するような記事をどこかに書いたために、イラン政府にかぎつけられ、強制送還、そして逮捕されて獄中にいるのだそうだ。 彼女のもう1人の兄(長兄)も、両親も政府の監視下にあり、ペリンも帰国すれば当然監視下に置かれることになるので、二度と国外に出ることは出来ない。だから夏休みにも帰郷は出来なくなってしまったのだそうだ。 両親からの学費援助も受けられなくなったペリンは、アルバイトをしながら頑張り、テヘランにいる家族の安否を気遣っている。 自分にも迫る政治的な圧力の影響をひしひしと感じながら、それでも沈黙はせず、自由を獲得するために、小さな運動を始めたのだった。イスタンブールに暮らすたくさんの外国人に出演してもらい、ペルシャ語と英語とトルコ語で「自由」と書いた紙を捧げ持つ写真を撮りためてきたのである。 レイラが彼女のために知り合いの外国人に頼み込んでいるうち、私と下の階に住むフランス人のイザベルさんにも話を持ってきた。 私達は1ヵ月くらい前にジハンギルに訪ねてきたペリンと出会い、その辺りでスローガンを書いた紙を捧げ持ち、モデルとして協力したのだった。 そして6月11日の金曜日、ささやかな展示会を開くまでに漕ぎ付けたペリンは、レイラや私、イザベルさんにも招待のメールを送ってくれたのだった。 レイラは会場に直行し、イザベルさんと私はタクシーで、渋滞に巻き込まれながらも路上でジプシーが売るバラの花束を買い、1時間もかかって会場に到着した。 ペリンとイザベルさんと私(レイラ撮影) ペリンはモデルになってくれた人や知り合いを含めて100人くらいの人に連絡したのだそうだが、会場に来たのは友達他、20人足らず。 彼女は自国の領事館の目を逃れるためにごく目立たないサロンを借りて展示会を開いたのだが、それでも写真と展示会に費やした費用は2000トルコリラ(約12万円)とのこと。 この日の午後、さんざん遅れていたメヴラーナ映画の日本語・韓国語の翻訳料が入金されてきたので、レイラと私はその一部をペリンに差し出した。ペリンの大きな目がたちまち潤んだ。レイラと私は「メヴラーナからのプレゼントだよ」と言って、彼女と硬く抱き合った。 イザベルさんも今後どういう形で彼女を援助していくのか、レイラや私が決めたら自分も参加する、と言ってくれた。 フランス、韓国、日本と、母国に何の問題もない自由な国を持っている私達は、ついつい自由の有難さを忘れがちである。 いつか、ペリンが堂々と両親に会いに行ける日が来ることを願って、私達は会場をあとにしたのだった。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月18日
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【6月14日・月曜日】 12日の土曜日に、アヤソフィア博物館の脇の通りで、切りスイカを買って食べたときに、頭上から降りてくるウフラームルの高貴な香りに心身ともに癒された。 ウフラームルはドイツ語でリンデンバウム、日本語なら西洋菩提樹。成木は30メートル、40メートルにも達する喬木である。 ウフラームルの花と、裏白の葉 (2009年6月撮影 コンヤにて) 丸型の葉の先は少しとがって裏側が白っぽい。ちょうど今ごろ、黄色い花をつけ、その馥郁たる香りはえもいわれぬものがある。 ちょっと似た感じなのはデフネ、雌雄別種、雌の木に同じように香気に満ちた花をつける。デフネは月桂樹のことで、ロリエとかローレルと言われているあの香ばしい葉は洋風料理に欠かせない。 デフネ(月桂樹)は雌雄別種。雌の木に咲いたこれも薫り高い花。(2009年4月撮影 ファーティヒ・ジャーミイで) 香気に満ちた、と言えば、トルコでもヤセミン(ジャスミン)や、ハヌムエリ(貴婦人の手、スイカズラ)、ミネ・チチェイ(ランタナ)などがこれから最盛期を迎える。 どこに行っても薫り高い花にめぐり会えるのは、人生の大きな幸せの1つであろう。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月14日
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【6月13日・日曜日】 来ました、爆発記念日、今年でめでたく?12回目。 よく人に言われる。「波瀾万丈の人生ですね」と。たしかに波瀾は多かったが、万丈というほどでもない。いつの間にかこうなっていたのだ、気づいたら。 200平米近い、屋上の広いレストランが一瞬で吹き飛んだフロンガスの威力。せいぜい脇の下用の携帯スプレーほどの小さな冷蔵庫の冷却ボンベから漏れていたガスが、朝から35℃もあった上に、土曜日なので従業員は3時出勤、窓はサッシで密閉されているので、空気の流通がなく、飽和状態に達していたところに、エレベーターの作動装置から散った火花で引火し、ドッド~~ン!! その古い冷蔵庫を好意で貸してくれたホテルに恨みはないけれど、せめてエレベーターの上に取り付けられたモーターを、鉄板で覆ってあったらよかったのにねえ、とまあその当時は思ったが、事件はそんな人間の思い及ばないところで発生するのだ。 人にあらず、天なり。 その事故で誰一人死者もなく怪我人もなしに済んだのは奇跡に近いことである。自分だってまさにその時刻にホテル最上階のレストランにいるはずだったのが、家に忘れた1本の口紅を取りに走って戻ったために死から免れた。 そのときは無一文になってしまったことを嘆いたが、その日から26日後、再建なったかせレストランの調味料を買いにエジプシャン・バザールに行こうとしていたとき、急に篠突くように降り出した雨にさえぎられ、出られずにいたら30分後にエジプシャン・バザールの入り口付近で大爆発が起きた。(1998年7月9日) 10人の犠牲者と200人を超す大量の重傷者を出したことは、私の人生観をすっかり変えた。ここまで助けてもらった命は粗末にせず、金儲けは二の次にして、少しでも誰かの役に立つように生きようと・・・ そう想ったら、途端にお金とは縁が切れてしまい、誰かの役に立とうとしたっていまのところ、猫の役にしか立っていないが、それでもまあ、何もしないよりはいいかも。 爆発で消えてしまっていたら、こんなにのどかな光景も見られなかったし・・・ 安心しきって居眠りする太っちょタマオmadamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月13日
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【6月12日・土曜日】 イスタンブールにやっと夏が戻ってきた。 一点の曇りもなく晴れ上がった青い空。 昨日は用事で船に乗り、アジア側のカドゥキョイへ。友人のyokocanさんと船着場で待ち合わせ、まずは私の用向きで、とある店のオーナーを訪問した。 そのあと、yokocanさんと食べた昼がなんとも美味しく、5ヵ月ぶりの再会ということもあって話が弾んだ。 今日はまたまた昼少し過ぎに親しい夫妻が引越しを控えて電話をくれた。イスタンブールでも郊外のちょっと遠いところに行ってしまうのである。 当分会えなくなりそうなので、思い切って家を出、夫妻とお嬢ちゃんに会いに行った。ベヤジット駅で待ち合わせ、いつもの店Ziyadeで昼ごはん。 ここでも楽しいひとときを過ごしたあと、夫妻と別れた私はてくてくと長い道のりを歩いてトプカプ宮殿の、日本の秘宝展を見に行った。 アヤソフィア博物館の角を曲がって、トプカプ宮殿の皇帝門が見えてきたが、さすがに歩きつかれて木陰に入った。 するとリヤカーにスイカを山と載せて氷で冷やし、切り身にして売っているのが目に付いた。「いくら?」「1パック4リラだよ」「1つちょうだい」「合点だ、ブユルン!(はいどうぞ)」「お兄さん、塩ある?」「塩? なんでさ?」「かけて食べるの」「よせやい、塩だとぉぉぉぉ?」「お願い、塩がないと食べられないのよ」 スイカ売りの2人のお兄さんは目を丸くしたが、そばにいたシミット(浮き輪形のゴマのついたパン)売りのおじさんに頼んで塩を借りてくれた。 おじさんはウフラームル(菩提樹)の木陰においてあった自分の腰掛を私に勧めてくれた。 いま、ウフラームルは花の季節で、甘くミスティックな香りが漂ってくる。 至福のひとときって、まさにこれね。 塩をいっぱい振りかけた真っ赤なスイカを頬張る記念写真がほしかったので、右隣にいた水売りのおじさんに頼んだ。 アヤソフィア博物館の脇通り。ウフラームルの香りの中で 美味しい~~~「やあ、アブラ(姐さん)。俺達夏場はずっとここにいるからさ、ときどき塩掛けスイカを食べにおいでよ。今度のときは俺の奢りだ!」 水売りのおじさんがご機嫌で言う。でも悪いよ、1本1リラで水を売っているのに、4リラのスイカをご馳走になったんでは。 甘みたっぷりのスイカの汁で私の手がべとついている。スイカ売りのお兄さんが1リットルのペットボトルのふたに穴を開けた手洗い用のシャワーをふりかけてくれた。 ♪幸せってなんだろね? こんなひとときのことを言うんじゃないだろうか。 たっぷりとスイカを食べて汗も引っ込み、私は立ち上がってみんなに別れを告げた。宮殿の門はすぐそこだった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月13日
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【6月9日・水曜日】 朝からもったりとした蒸し暑い陽気だった日曜日、午後になったら、一天にわかに掻き曇り、と言うような感じでみるみるうちに叩きつけるような豪雨が襲ってきた。 最初は真っ黒な急流、20分位したらいくらか水もきれいになった。 たちまち目の前に急流が出現、チュクルジュマは低いところ、とはいえ、タキシム広場を頂上とする丘の中腹にあるので、洪水の恐れはないが、イスタンブールでは去年に続きあちらこちらで大水害に見舞われたらしい。 らしい、というのは、このところ私はテレビのニュースをまったく見ていないし、新聞も買っていないので世間のことが分からないのだった。 それと言うのもさる会社から調査を頼まれていて、実に多方面に手を回していろいろやっているために、電話で問い合わせたり、パソコンと首っ引き、気がつけば朝も昼も食べずに午後3時、などということも続いているのである。 当然、家のことなどほったらかし、元気者の4匹が駅馬車ごっこをしようが、台所の棚からものを落そうが、掃除をしている時間がない。 土曜日は約束していたギュレルさんが腰痛で来られなかったし、うちは散らかったまま目をつぶって仕事をしている。いや、まあパソコンは見ているけど。 月曜日・火曜日は終日雨。洗濯物を寝室で干し、憂鬱な気分で朝6時頃からメール書き、論文の翻訳、メールの翻訳など仕事は尽きない。 でも、これって日本の仕事だからちゃんと払ってもらえる希望があるのだ。 2月下旬から半月かけて翻訳し、あと半月かけて推敲したメヴラーナ映画の字幕。3月下旬に支払ってくれる約束が、電話をするたび監督さんはいつも雲隠れ。 延びに延びて6月に突入してもなお、払って貰えないので韓国語をやったレイラと2人、夕方まだ怪しい空模様の中を、ウムット・オジャックバシュであきれ半分、あきらめ半分でぼやきながらビールを飲んだ。 明日は晴れると言う天気予報だそうだ。外出しなくてはならない仕事も溜まってしまっているので、夜9時近く、チュクルジュマへの道を下りながら空を見上げると、星のかけらも見えないので重い気分になった。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月09日
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【6月7日・月曜日】 先週は蒸し暑いが夏らしい日が続いていた。土曜日の午後、わが家の向いの店の前にある大きな鈴懸の木の上で、猫が一匹午睡を楽しんでいるのが見えた。 ところが、はっと気がついた。鈴懸の木が枯れてしまっていることに。 樹齢は100年を超えていようという大木もついに・・・ 2002年の秋、私が2週間かけて地中海地方の友人達の協力で、古城を訪ね歩く風雅な旅を楽しんで帰ってきてみると、ベランダから見た鈴懸の木の周辺がいやに明るく広々としているように見えた。 それもそのはず、近くにある2本とともに亭々と空に聳えていた鈴懸が、根元から5メートルくらい残してぼっきりと折れてしまっていたのである。 狭い坂道を、ハンドル制御を誤ったタンクローリー車が上の方から猛スピードでチュクルジュマ通りに突っ込んできて、鈴懸の大木に衝突してようやく止まったのだそうだ。 もしそこに鈴懸がなかったとしたら、タンクローリーはさらに暴走して坂の下の方で遊んでいた子供達に突っ込まないとも限らなかった。あの木は大惨事を身をもって防いでくれたのである。 人間で言えば上半身がなくなってしまったような瀕死の重傷を負いながらも、鈴懸は毎春芽吹いて、夏には小さな日陰を作っていてくれたのだが、去年は左側半分の枝が枯れてやっぱり駄目になってしまうのか、と寂しい思いで眺めたものだった。 今年、今頃になって鈴懸が力尽きたことに気づいた私。 いかに余裕もなく日々を過ごしていたかにも思い当たった。 そういえば、今年は裏庭の柿の木も枯れた太い枝が目立った。去年の秋、害虫にでもやられたのか、柿の実は早々と熟す前に赤くなりぼたぼたと下に落ちてしまったのである。 ことし3月、柿の木には枯れ枝が目立った。 悪いことの前兆でなければいいのだが、と枯れ枝が残る鈴懸を、なすすべもなく眺めていると、木の上にいたのはニケの兄のビリーらしく、木の切り口がうろになったところで大きく伸びをして下りてきた。 チュクルジュマの猫達に悪いことが起きませんように・・・なんとなく私は祈った。心の中で手を合わせた。 ネイもクドゥムもアサオ父さんも、その木のそばで車に轢かれてしまっている。 ああ、鈴懸さん、残ったテフを連れて行かないでね・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月07日
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【6月6日・日曜日】 去年の6月3日、私は猫の餌をやりに行った裏庭の階段で、足を踏み外して顔面強打、数秒間人事不省となった出来事から早や1年が過ぎた。 おととしの同じ頃、日本からやってきた高齢のお客さんの手を引いて歩いていたときに、彼女が転びそうになって私の手にしがみついた瞬間、右手親指の付け根と、右膝に電撃的な痛みが走った。 それ以来2年間、右親指の付け根の痛みと右膝の痛みはずっと続いていた。右膝はことに去年の転倒でさらに痛みが増したような気がする。 正座も出来なくなってしまったし、歩いていても右足の重い感じはつきまとい、イスティクラール通りあたりを歩くとき、大きな店のショーウィンドなどをさりげなく横目で見てみると、向こう側にも片足を不自由そうに引きずり加減に歩いているお婆さんが一人、私を見ているのである。 わ、わっ、わ~っ。これが私か。 そういえば、この6月3日午後、近所の友人アイシェンさんが、イスティクラール通りで敷石の穴につま先を引っ掛けて転倒、今病院で治療してきたばかり、というところに出会った。 彼女の左眉の上はざっくり切れてなんと10針も縫ったのだそうだ。左目周辺や左頬が赤紫に内出血し、ひどい状態なのを見て、去年の同じ日に転倒した私が、瘤だけで縫合を受けるような切り傷のなかったことを幸運だと思った。 彼女にとってもこの日が転倒記念日ということになる。 私も1年過ぎたから写真を公開しちゃうけど、その晩は思い切り膏薬を貼り、氷で冷やしたりしたのでやっと腫れも引き、病院通いをしなくて済んだ。 裏庭で転倒したあと、こんな風に手当てした。 まことに丈夫な体である。神様と両親に改めて感謝し、右膝もオイル・マッサージや膏薬、メンソール効果の高いクリームなどをすり込んで、毎日揉み揉みしているうちに最近少し良くなってきた。 2004年夏の日記には、今は何でもない左膝が当時ひどく痛んだことが書いてあるので、右膝もやがては同じように治るだろうと信じている。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月06日
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【6月5日・土曜日】 先日、フォトグラファー嘉納愛夏さんが「チュクルジュマ猫会」というブログを立ち上げ、私とともに暮らしたり、晩餐にやってくる野良ちゃん達の図鑑を作ってくれることになりました。 嘉納さんも忙しい人なので、更新はときどきですが、今は流れ星になってしまっていても忘れられないあの猫、この猫を、私のブログから拾い出して載せてくれます。 ヨスンとアトム 2006年2月撮影 思えば、盲目の貴婦人コンテスが2度目の交通事故で瀕死の重傷を負った2004年夏から、V子とイタリア語の先生ビルジニアさんの猫助けが始まり、実際に飼ったり面倒を見たりするのは、いつの間にか私の役目になっていました。 第1回は「カラクズ」 知能指数抜群の黒猫でしたが、2007年12月に私がコンヤに行った後、姿が見えなくなりました。 この7年近くで私が育て上げたり、腕の中で看取ったりした猫は一体どれほどいたことでしょうか。 どうして私の関わった猫は次々と命を落とすのだろう、と嘆かわしく思ったことも一度や二度ではありません。 でも今は、確信していることがあります。私の飼ったり関わったりした猫を、私が不注意で早死にさせてしまうのではなく、短命に生まれついた猫達が、最期のひとときを私のもとで過ごすために来るのだ、ということです。 毎朝の私の日課で、まず目覚めるとすぐ起きて猫達の砂箱を清掃し、子猫達の目やにやハナクソを拭いてやってから1日が始まります。 「チュクルジュマ猫会」 のブログをこれからもどうぞよろしくお願いします。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記
2010年06月05日
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【6月4日・金曜日】 去年の夏から裏庭に顔を出すようになったオスの野良猫に、その顔つきがよく似ていたのでアサショウリュウと名づけた。 今年初場所で見事優勝した横綱が、思いがけず傷害事件が明るみに出て引退させられてしまったので、私もがっかり、猫の名前も短めに「アサオ」と改称したのだった。 晩秋の頃、ニケを追い掛け回していたオス猫グループの中に混じっていたアサオは、それでも思いを遂げたらしく、ニケの産んだ4匹のうち2匹は、父親とまったく同じ毛色をして、顔だけは幸い母猫ニケに似て愛くるしいひとみをしていた。 愛くるしいひとみの2匹、テフ(♀)とクドゥム(♂) ブラック・ウスタも子猫達が大きくなってきたので店の外に出したのが4月の半ば頃だった。 アサオはその頃、裏庭から表通りにやってきて、ニケ親子が遊ぶのを物陰からじっと見ているようになった。 のっそりと図体のでかいアサオは全身汚れているので近所の人からつまはじき。でも夕方私が餌をぶら下げて出てくると嬉しそうに近寄って、ズボンに汚れた顔や腹をこすり付けてくるのだった。 ちょっと辟易するけれど、おとなしい猫なので私は頭もなでてやるし、餌も食べやすい位置においてやる。 マッシモには敵対視されていつでも唸られていたが、それでもアサオはやってきて、餌を食べ終わると再び子供達のいるブラック・ウスタの店の前や、もう1つの空き家になっている店の窓辺に座って、遊ぶ子猫達を眺めているのだった。 在りし日のアサオ(アサショウリュウ改め) 3月中旬撮影「バク、バク、ババス・イーネ・ゲルディ」(ほらほら、お父さんがまた来たよ)と、向かいの窓から身を乗り出してギュルセレンさんが私に教えてくれる。「毎日来てるわね。やっぱりあの2匹が自分の子供だって分かっているのね」 私は、見かけはやや醜いが心優しいお父さん猫アサオを前よりずっと好きになっていた。 だが、それからほどなく小さなクドゥムが轢かれてしまったのである。 このところ、アサオは感冒にかかっていて、食欲が余りない様子だった。マッシモの一唸りですごすごと退散していた。病気なのはわかっていたが、残念ながら時間的にも経済的にもよそからやってきた猫まで獣医に連れて行ってやる余裕はなかった。 夕方、昨日も今日もアサオは夕飯に姿を見せないな、と思いながら洗ったばかりの餌入れ(ショコラさんに貰ったヨーグルトの空き容器)をならべ、缶詰肉でまぶしたマカロニを配ってやった。 誰かのいたずらで水がこぼされてしまっていたので、5リットル入りのペットボトルを提げてモスクの前のチェシュメ(手洗い場)に行くとき、ギュルセレンさんが私を手招きした。「マダム、昨日も1匹猫が轢かれたのよ」「え、この辺の猫?」「お父さん猫よ、あの子達の」 えーっ、アサオが轢かれたって?「この前、子猫の1匹(クドゥムのこと)が轢かれたところあるでしょ。大体同じところで、ものすごいスピードで来た車に轢かれちゃったのよ。マダム、あなたはうちにいなかったの?」とギュルセレンさんが言った。 私がちょうど昨日の午後、用事があってジハンギルに出かけている間のことだったようだ。「あの猫は病気だったみたいね、マダム。のっそりと歩いていて車の音も何も聞こえなかったのかしら。車の方も、止まらなければ轢いてしまうのが分かっていながらそのまま突っ込んできたのよ、残酷すぎるわ、マダム。その場にいなくてよかったわ」 一部始終を窓から見たギュルセレンさんは首を悲しげに横に振りながら言った。 ネイも、クドゥムも、そしてとうとうお父さん猫アサオも・・・ がっくりして放心状態になっている暇はなかった。やりきれない思いで私は家に戻った。ある調査のために、朝からたくさんの質問事項を調べておいたので、それらのリポートを書かなくてはならない。 一つだけ救いがあった。たとえ短い間だけでも、毎日アサオ~と呼びかけ、思い切り汚れてはいたが、頭をなでてやったりしてよかったと思った。 飼い主に捨てられたアサオは、警戒心の塊のような猫だったのに私と親しみ、ニケに子供を産ませ、物陰からその子達をじっと眺めて、お父さんらしい日々を味わうことが出来たのだから・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月04日
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【6月2日・水曜日】 イズニック日帰り旅行は楽しかったが、家に戻ると、ガ、ガ、ガ~ン、と落胆に見舞われた。朝とはまるで違う光景が・・・ はいはい、怒る人がいないもの、なんでもやってしまうわよね。何が壊れていようと、散らかっていようと、雷を落とすわけにはいかない。猫もおなかを空かして待っていたのだからまずはご飯、ご飯。 満腹となった猫達は思い思いの場所でしずかになり、シェビィとアルス、タンブルの3兄弟はソファーを占領。 ああ、アトムを思い出させる長~い猫達。眺めているうち私も眠たくなって・・・ 左からおねえちゃんアルス、小さなタンブル、食いしん坊シェビィ ああ、神様、今日も平穏な一日をありがとうございました。(1日夜)。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月02日
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【6月1日・火曜日】 去る2月9日、にじいろジーンの撮影で、ブルサ県のイズニック(陶器の町)に行ったとき、カイマカム(郡庁の長官)のヌレッティン・カキルオールさんの好意ですぐに撮影許可を出していただき、クムジュ・チニという陶器製作会社の協力にも助けられた。その日はあいにく雨がちな空模様だったので、山の上から俯瞰図を撮るとき湖が写るかどうか心配されたが、その時刻だけ嘘のように雨が止み、イズニック湖が無事撮影できた。 放送後、製作プロから送ってくれたDVDは、イスタンブール市内で取材に協力してくれた人々には配り終わったが、遠いのでどうしてもイズニックの分だけが残ってしまっていたのだった。 この撮影に関わったウスキュダルのアフメットさんは、私がなかなか届けにいかないので気が気でなかったらしく、 「いつまでも行かないでは恥です。自分だけでも行ってきますから同意してください」などと言い出した。 私は怠けていて行かないのではなく、仕事やら用事が錯綜している上に、運転手つきレンタカーだ、土産だ、フェリー代だ、ガソリン代だといろいろ物入りなのでそれがひねり出せず、腰が上げられなかったのである。 どうにか工面して車を頼み、ショコラさんとはしばらく前から一緒に行く約束をしていたので誘い合わせ、今日という日に決まったのである。彼女が経費の一部を負担してくれると言うので私も助かった。 今朝は良く晴れていた。家を出るとき、エレベーターに乗った途端停電となり、真っ暗な中で私は非常ボタンを押す、という手があるのを忘れ、大声で喚いた。 7階の家が引越しするので、その家の電気を止めようとして、誰かが間違って一斉ブレーカーを落としてしまったらしかった。犯人は何食わぬ顔をしていたけど、カの字のつくあの人しか考えられない。 さて、ギュッルオールのバクラバを2箇所分買い、ファーティヒ・スルタン・メフメット大橋を渡る手前が渋滞していたほかは、イズミット湾を横断するフェリーも1回待ちで対岸に渡り、順調に旅は続いた。 エスキヒサールをあとにしてイズミット湾横断中 後部座席で私達はお喋りに花が咲いたが、アフメットさんと運転手さんの声はまったくせず、気が合わないのかと心配になった。 途中、オルハンガーズィの町外れの生垣の続く道に、ちょっと見逃してしまいそうな目立たない入り口の休憩所があった。 寄ってみるとこれはびっくり、湖畔に打ち寄せる波の上に突き出して造られた板張りのテラスがひなびた風情で面白いのだった。 イズニック湖畔の休憩所、自家製の野菜や湖のナマズの揚げ物料理があるらしい 木々の間にハンモックが吊られ、ところどころにテーブルと椅子が置かれていて、食事も出来るようになっている。 レンタカーの運転手さんがこの食堂を経営している老婦人を知っていたので、私達はここでしばらく休憩しようということになった。 4匹が交互にお母さん犬のおっぱいにしがみつく 飼われているメス犬が生後2ヵ月くらいの4匹の子犬を引き連れて現れた。尻尾を千切れるほど振ってヨロヨロしながら飛びついてくる子犬達。 六十何年ぶりにハンモックに乗って横たわると、たちまち子犬がやってきて、網の目から私の首筋を嘗め回すのでくすぐったくて降参、せっかく気持ちのいいハンモックだったがここで眠ってしまってはたいへん、ショコラさんやアフメットさんに手伝って貰ってやっと下りた。 キャーッ、くすぐったいよ、やめてくれ~!ハンモックも地面すれすれに伸び切って、やめてくれ~と? 湖水は風に波立っている。板張りのテラスでチャイを待つうち、今度はこんな親子がやってきた。 ほらほらほらほら、坊や達、ちゃんと前を向いて泳ぐのよ! 生後何日くらいだろうか、まだ産毛で覆われた赤ちゃん鴨7匹を引き連れて、泳ぎの練習か、水面散歩か、この鴨達も一度は陸に上がって足を休め、その後また来た方向へ戻っていった。 午後1時、イズニックの街中に入り、昼食より先にカイマカムのヌレッティンさんを訪問すると、外出中なので1時間かそこら、戻らないと言う話。 私達もその間に食事をしておくことにした。イズニックへ行く目的の第2が、おいしいキョフテ屋さんだった。キョフテ屋さんに入る前にクムジュ・チニのオフィスに寄り、社長にDVDを手渡した。「撮影隊の皆様からくれぐれもよろしく、と言付かっています」と言うと、社長は相好を崩して喜び、チャイを勧められたが食事に行くからと断って店を出た。 いつものようにアフメットさんがジョギングに行ってしまったので、ショコラさんと私と運転手さんの3人で、大きな丸いキョフテを頼み、帰りに生のキョフテも買っていくことにした。 本当はこれがお目当てだった? さて、1時間半ばかり後、カイマカム庁舎を訪れると、ヌレッティンさんはまだ戻っていなかった。ジャンダルマ(軍警察)の本部にいるのだそうで、そちらに訪ねていった。 会議のあとらしく、カイマカム・ベイや軍警察の幹部の人達が数人集まって、庭のあずまやでチャイを飲んでおり、ヌレッティンさんは私達にも勧めてくれたが雨が降り出しそうなので辞退した。 わざわざここまでご迷惑なことでしたね、と言いながら、ヌレッティンさんは嬉しそうに私達4人と握手を交わし、みんなに新しいイズニック紹介DVDを土産に持たせてくれた。 午後から広がってきた黒雲は、アブデュルヴァハップの丘の上をも覆ってしまっていた。私達は山の上にと急いだ。 幸い通り雨だったようで、頂上に登りきったとき地面は濡れていたがもう降ってはいなかった。 再会した犬がずっとついてきた。 いつかのあの子犬が大分背丈が伸びて少し痩せ気味に見えたが尻尾を振って近づいてきた。撮影に来たのは2月9日でまだ厳しい寒さの中だったが、今回は緑滴る初夏である。 ところが展望台から見ると、あの時と同じように、湖は暗い色に沈んで見えた。 暗雲の下に広がるイズニック湖 山を下るとき、カーブの外側に自然に育ったらしい大きな桑の木があった。「ちょっと車を止めてくれますか。カーセさん、ドゥットをもいで食べましょう!」 アフメットさんが勢いよく桑の木に走り寄った。運転手さんが笑いながら車を道端に寄せた。 白いむちむちした桑の実が地面にもたくさん落ちている。枝にもたわわになっている。「桑の木のオーナーが来たらどうするんです?」と運転手さんがからかい顔でアフメットさんに尋ねた。「あーっはっは、さっきカイマカムを訪ねていったところからジャンダルマが来て、私達はまたあそこに逆戻りするかも知れないですよ」と冗談を返すアフメットさん。 みんなで童心に返り桑の実を食べる。 うっすらと甘いミルクのような味のする桑の実をもいで口に含み、しばし私達はそこで過ごした。ショコラさんも私も2年前、ワン湖の畔の別荘で過ごした日々を思い出していた。 15,000人収容の円形劇場あと。8世紀頃の建造らしい。 廃墟の一隅にひっそりと咲いた野アザミの花 町を出る前にキョフテ屋さんに寄って、それぞれに生の半製品を買い求め、私達は最後にローマ時代のティヤトロを見学、今度はフェリーを使わず陸路家路についたのだった。誰もが素敵な一日だったと、異口同音に語り合った。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)カメラマン・嘉納愛夏さんのコンヤ訪問記おかしんのブログ
2010年06月01日
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