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【9月23日・木曜日】 去年の夏、レイラと訪ねたときのストゥク・ウスタ このところずっと準備に忙殺されていたのだが、私は8月初旬からキュタヒヤの陶芸家、ユネスコ人間国宝ストゥク・ウスタのシンポジュウムに、日本から陶芸家と新聞記者を招くよう頼まれ、さらに、イスタンブールからも陶芸に関係のある日本人を招待したい、というので、ずっとこのオーガナイズをやっていた。 いよいよ、昨日22日早朝5時半、日本から有田焼の陶芸作家、松尾嘉之氏と亮子夫人、そして記者・カメラマンの嘉納愛夏さんが到着した。車をチャーターして出迎えに行くと、6時頃すでに3人はロビーで待っていた。 かはたれ時の海岸通りをまっしぐらに、スルタンアフメットのハル・ホテルに向かった。ホテル側の好意で、早朝ながら3人一緒に休憩できる広い部屋が用意されていた。 陶芸家ご夫妻からわざわざ私の名前まで入れて焼いてくださったコーヒーカップはじめ数々のお土産をいただき、嘉納さんからは自身の大量のお土産のほかに、哲子さんやかゆすさんからのお土産まで、大きなスーツケースの半分を占領するほど。 皆様、ほんとうにありがとうございます。(これらは後日ブログにて) 松尾夫妻は主賓としての心配りも見事に、イスタンブールからシンポジュウムに参加するすべての方々に名前入りのカップやその他のお土産を用意して来られていた。もちろんストゥク・ウスタへの土産はたいそうな力作と想像される。 私もお礼に一日観光を計画、イスタンブールの絶景コース、チャムルジャの丘に案内し、帰路はボスポラス海峡をフェリーで渡り、グランド・バザールではジヤさんの食堂でお昼を。 今年の10月4日は、松尾夫妻にとって結婚30周年の記念日とか。トルコから来た思いがけない大きなプレゼントに、ストゥク・ウスタへの感謝を込めて、松尾氏は24日のシンポジュウムでスピーチを述べることになっている。 イスタンブールから参加するメンバーというのがまた、一昔も前に私にストゥク・ウスタの存在を教えてくれた、いわばストゥク・ウスタと私の交流の原点ともいうべき竹山姫子さん、トプカプ宮殿博物館学芸員、陶磁器専門家のオミュル・トゥファンさんと奥さんの江利子さん、お嬢さんのフリヤちゃん。オミュルさんもスピーチをするのである。 そして7年前からイスタンブールに住み、陶芸家として次第に実績をあげてきた山下鉄平さんとジェレン夫人。なんと、この鉄平さんが有田のそばの伊万里出身で松尾亮子夫人と同郷、そしてそのまた隣町、武雄はオミュルさんの夫人、江利子さんの出身地だという。期せずして佐賀県人会ともなりそうだ。 ほかにイスタンブールのミマル・シナン大学の修士課程を出た若い女性陶芸家鬼頭立子さんと窪田有美子さんも加わって、たいへん大所帯の日本関係グループが出来上がった。これだけ顔ぶれがそろうと、オーガナイザーとして面目躍如の感ありと自画自賛している。 しかも、キュタヒヤに着けば、こちらもストゥク・ウスタの長い友人ゲンチオールさんと露子夫人にも出会えることになった。ゲンチオール夫妻と私はストゥク・ウスタの行事があるたびに参加する、いわばストゥク・ウスタ・ファミリーのカドロ(構成員)である。 これから荷物を詰めて(!)、いよいよあと1時間後には家を出ます。今度の月曜までブログの更新、メールの交信は出来ませんがよろしくお願いします。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月23日
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【9月23・木曜日】 20日の月曜日にはリハビリも3回目。ピリピリする電気治療を受け、エクササイズも過不足なくやっているせいか、右膝の状態が大分楽になっている。 その日の夕方、とてもショックな出来事があった。リハビリのあと、京子さんと滞在許可証関係で外出した帰り、ボアズケセン通りの角を曲がってチュクルジュマ通りに入ろうとしたら、角のケバブ屋アリさんに呼び止められて、リモナータ(レモネード)をごちそうになった。そこまではいいのだが、店の外のテーブルで座っていたところ、通りがかった車の男性が私を見てにこっとし、私も思わず会釈を返したら車を道端に寄せて止まったのである。 年の頃37~8、白いワイシャツを着た男性は、長身のきりりとしたなかなかの紳士で、握手しながら私の両頬に自分の頬を軽くつけて親しい同士の挨拶をし、懐かしそうに言った。「どうしていらしたんですか、このところ、とんとお見かけしませんでしたが」「ええ、そうですね、長らくお会いできませんでしたね。この夏はしばらくアナトリア地方でテレビの仕事をしていたんですよ」「あ~あ、そうでしたか。いやあ、、ここでお会いできてよかったですよ」「私も・・・」「お話したいんですがお連れさんがあるようで。ではまた近いうちにお会いしましょう。立たせてしまってどうも失礼しました」「いえいえ、とんでもない。それではさようなら」 もう一度握手して車に乗り込んだ男性を見送り、私は席に戻った。「誰だい、あの人は?」とアリさんが聞いた。「あの人はねえ・・・」と言いかけて私は絶句した。 よく知っている顔なのにどこの誰さんか思い出せなかったのである。私は67歳の現在も記憶力抜群で、一度知り合った人の顔や名前を滅多に忘れたことはないが、そのときばかりはどう考えても出てこない。「ん? 誰だって?」再びアリさん。「友達、友達」と私は言った。しかし、家に帰ってからも、おとといも昨日も考えれば考えるほど誰だったのかわからなくなった。 これはもしかするとアルツハイマー症の始まりなのだろうか。「もしかして、向こうも加瀬さんを知らないんじゃないですか?」 京子さんが冗談にそう言って笑わせたが、いくらなんでもそれはないだろう。ど忘れというのでもないし・・・ それにしても気になる。今度出会ったとき「すみません、どちらさまでしたっけ?」と聞くのも変だし・・・いまだに思い出せずまことに困っている。 「お母さん、どうでもいいけどボクを忘れないでくれよ」 裏庭のマハッレ・アース、マッシモ 2009年12月撮影(ヨスンの息子でアトムの弟) madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月23日
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【9月18日・土曜日】 月曜日(13日)に第1回のリハビリを受けたので、その夜と次の朝、張り切って指示されたエクササイズをやりすぎてしまった。 火曜日の午後になったら、下半身のすべての筋肉が痛いのなんの。ロボットのようにギシギシ歩いている自分に気づき、ちょっと暗い気分になってしまった。 火曜日、私はいろいろ用事があって3回も家から出る羽目になったが、とにかく坂道を歩くのは出来るだけ避けるように、とリハビリのハーカン先生に言われているし、どこに行くにもその都度タクシーを呼ぶしかなかった。 アボジ(父)の1周忌で韓国に帰っていたレイラが戻ってきたのも火曜日である。夕方、彼女と会うためにその日3度目の外出。 タキシム広場までの短い距離でも急坂を登らなくてはならないので、またタクシーを呼んだ。タクシーに乗った場合は一旦トプハーネまで下って、別な坂道からタキシム広場へまっしぐらに登るのである。 イスタンブールの新市街はきわめて起伏の激しい地形なので、足の不自由な人には大問題だ。12年前、娘が今の家を買うと決めたとき言った。「お母さん、ヒップアップにちょうどいいね、このものすごい坂と階段!」「ヒップアップする前にギブアップしそうだ」と私。 それが現実となって、12年後の今、私もとうとう「おばあさん」であることを認識せざるを得なくなった。ち。 さて、私は「おばあさん」であることを認識してはいるのだが、「病人」であることを自覚するのが遅れている。 実はアナトリアのとある町から戻ってきて以来、撮影の仕事は一段落したものの、いくつもコーディネートや翻訳やオーガナイズを頼まれていて、これのために駆けずり回っている、と言っても過言ではない。 ほんとうにメール1本でいろいろ頼まれるのはもうゴメンだ、と何度も決心したり宣言したりしているにも関わらず、相変わらずメールや電話1本で救急車のように家を飛び出している。 有料でオファーをいただく仕事はお断りできるのだが、ボランティアの仕事は断れないという性格が禍して、リハビリに宛てなければいけない時間をなくしてまで、頼まれた調査だの相談事のために出かけたり、パソコンに張り付いてメールを書いたり調べものをしたり。 問題の猫達、困ったなあ、お前さん達・・・上)ミディエ 下)キウイ その上、昨日の夕方、裏庭の猫達に餌をやった帰り、アパルトマンのドアを開けようとしたら、タクシーから5階の老夫婦の娘で病人のヘルパーをしている30代半ばくらいのアイシェが降りてくるのが見えた。彼女のためにドアを細めに開けたまま、にこにこしながら待っていてやったら、彼女はむすっとした顔でいきなり私に食って掛かってきた。「なんでそうやって猫を中に入れるのよ!」 私は外のアイシェを見ていたので気づかなかったが、私の足元からそっとキウイが忍び込んだのだった。「え? あなたがタクシーから下りてきたからドアを開けて待っていたのよ」「私がいつあなたにドアを開けてって頼んだの? 猫を入れたんでしょう!」 わあ~、なんて女だ!「あらら、この子(キウイ)が入ってきたの、私には見えなかったのよ」「あなたに一言言っておくけど、自分の猫をアパルトマンの廊下で飼わないでよ!」「なんですって、いつ私が自分の猫を廊下で飼ったの。言葉に気をつけなさい。私は白黒と黄色い2匹が来ると、アパルトマンの中でうろうろさせないように自分の家に入れて出来るだけ長くうちにいさせてるのよ」「それだから猫達が自分の家だと思って入ってくるんじゃない。ここはあなたの家じゃないでしょ、アパルトマンなのよ、アパルトマン! 他の家族もいるのよ!」 アイシェという可愛い名前に似つかず、このフラストレーションの塊のような女は、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、よくよく意地の悪い喋り方が得意なのか、外国人のおばあさんである私など太刀打ちできないほど舌鋒鋭く、私の飼っている猫がどれほど自分の家の前の廊下を汚し、自分達を不愉快にしているかを言い募った。 朝であれ、夜であれ、私の猫達(!)はアイシェの家の前のゴミ袋を破いて、汁や野菜クズなどを廊下に振り撒くというのである。それもこれもみんな、あなたが廊下や階段で猫を飼うからだ、と怒っている。 私はただの一度もドアの外に置いたゴミ袋を猫に食いちぎられたことはない。カプジュが集めに来る直前に廊下に出すからである。それに汁の出るものは絞ったり、洗ったりしてからビニール袋に入れて捨てるので、廊下がびしょ濡れになることもない。 顔を突き合わせて30分も言い争っていたら、ミディエが屋根裏の自分の巣から降りてきて、「ニャー」と私を呼んだ。「ほら、見なさい。もう1匹だってあなたがこのアパルトマンの廊下で飼っているから出てきたじゃないの」「私が飼っているわけじゃないのよ。外にいたのを、猫好きな人が入り口から入るとき一緒に入れてしまうからこうなったのよ」「じゃあ、あなた以外の誰が入れたのよ、さあ、誰が入れたのよ、その入れた人の名前を言いなさいよ!」 畳み掛けるように責めてくるアイシェ。余計なことだけど、この人が面倒を見ている病人の太ももは痣だらけだったりして・・・ 私はもう、こんなことでエネルギーを使い果たすのはゴメンだ、と思ったので「誰が入れたか、いちいち名前なんか知らないわ。もういいじゃない。あとで話せばいいでしょ」と家に引っ込もうとした。 アイシェが追い討ちをかけてきた。「じゃあ、私が犬を廊下に放し飼いにして、お宅のドアのまん前にいつもおしっこやウンチをさせてもいいのね!」 言い過ぎじゃないのか、アイシェ。親ほどの年齢の私に向かって。 将棋で言えば雪隠詰めとでも言うか、自分は母国語でがなり立てているので、いくらでも私を隅っこに押し込めることが出来るが、私はこんな喧嘩をするためにトルコ語を習ったわけではないから続けられないのである。 家に入るとレイラから電話がかかってきた。「カセー、これからご飯にいくから~」「レイラ、悪いけどちょっとご飯を作っている気分じゃないのよ。明日にして」「どうした、泣きそうな声で? 言ってみな!」 私がこれこれしかじか、と説明したらレイラは「よし、これから行ってやる、その女に文句を言ってやる!」と勢いづいた。 やれやれ、レイラが喧嘩腰でやってきたらもっと面倒なことになりそうだ。私はレイラの気持ちを嬉しく思いながら明日会おう、と言って断った。 でも、どうにも収まらない気持ちを向かいのギュルセレンさんの家に行ってこぼしたのだった。ギュルセレンさんが言うには、アイシェはこのところ、カプジュの一家や、ブラック・ウスタにも噛み付いたらしいし、更年期障害にしては早すぎるので何か面白くないことでもあったのだろう、と気にしないことにした。 10時過ぎに家に戻り、何通かのメールへの返事を書いたあと、私がベッドに身を横たえてエクササイズのカリキュラムを一通りやり終えたのは午前2時半だった。 今日午後、5階に行ってアイシェの母親のハッヴァさんと話をしてきた。他の家は全然被害にあわないのに、どうしてお宅のゴミ袋だけいつも破かれるのか、を話し合った。 私は言った。そちらも予防策を考えてほしい、いつでも好きなときにゴミを廊下に出すのではなく、カプジュが大体9時頃集めに来るので、その直前に出すとか、ゴミ袋の中に食べ物の汁だのをそのまま捨てないように、とか。 だって、ここはアパルトマン、アイシェの一家だけの家ではないのだから・・・ さあて、ミディエとキウイにはどうやって説得したものだろう・・・ madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月18日
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【9月13日・月曜日】 今日はリハビリテーションの第1日目。竹山姫子さんが以前右肩の痛みを治療したいいお医者さんを紹介してくれたので、コンヤのアカデミー病院で写して貰ったMRの画像の入ったCDや診断書なども持参、姫子さんが付き添ってくれてベシクタシュ区のとある私立のリハビリ病院に。 ドイツ生まれでスポーツ選手のドクターとして経験の深いハーカン先生の、とても静かながらユーモア混じりの問診やら触診を経て、MRの画像を見た先生が第1回の治療に入り、幾つかのエクササイズを家でやるように指示された。 ハーカン先生の診立てもコンヤのメフメット・ポルタカル先生と同じで、局部は悪化しているものの、十分リハビリで改善できるとのこと。 ただ、2年余りも痛みをこらえて飛び回っていたというところで、信じられなかったらしく、かなり驚かれた。 それでも、私の気持ちは非常に楽になり、猫や人様も大事だが、自分の身体はもっと大事にしなければいけないことを身にしみて悟り、帰途についたのだった。次は木曜日の予定。 ずっとそばについていてくれた姫子さん、ありがとう。 さて、本日は猫ではなく、犬の写真をお目にかけたい。撮影で知り合った、番組後半のガイドさんの飼い犬で、シベリアン・ハスキー、オス・満1歳。名前はミスキン。まだおとなになりきっていない細身の体といい、青い左目に茶色の右目、顔の鉢ワレ模様。尻尾の先の白い毛・・・ 何から何まで、日本から連れてきたハスキー犬のビクター(トルコではビクトル)にそっくりだったのである。 撮影のあと、溜まりに溜まった写真をパソコンに取り入れようとしたら、パソコンの容量がもう満杯で受け付けてくれないのだった。 この犬の写真もしたがって、1ヵ月余り経ってからやっと数日前にインストールし、早速娘に送ってやったら、彼女はアフターファイブながらまだ残業で、休憩のときにメールチェックして発見したらしく、「涙で仕事にならない。あとでまた見る」と短い返事を寄越した。 ハスキー犬はもともとみんな顔が似ているが、これほどそっくりな、まさに瓜二つの子は初めて見た。娘に送った写真を改めて見直したら、ビクターを大きな檻に入れて、不退転の覚悟でイスタンブールに向かった日のことを思い出し、共に苦労した日々を思い、つい私も涙にくれてしまった。 バイラムのお祝いに飼い主のマフムットさんに電話したとき、ミスキンの様子を聞いたらとても元気でいるとのこと。シベリアン・ハスキーはトルコ語で「シベリア・クルドゥ(シベリアの狼犬)」、今でこそかなり見かけるようになったが、ビクターを連れてきた当時はイスタンブールですら人々を驚かす珍しい存在だった。 今度はいつマフムットさん宅を訪問出来るかわからないが、かの地でビクターにそっくりな子が暮らしていると思うととても嬉しい。最愛の犬、最愛の友、生涯の私の杖、ビクター1987年4月16日~2001年4月25日 15歳で没すシベリアン・ハスキー、オス(JKC血統書つき) 毛並み:白黒 オッド・アイ(右目茶:左目青) この写真は4歳時に撮影したものそしてこちらがミスキン 関心を引こうといろいろな格好をするミスキン2010年7月26日撮影 ビクターが15歳で天寿を全うし、私と娘の腕の中から旅立って早や9年余り。 イスタンブール郊外、ベルグラードの森の、あの大きな木の下で、あの子は今も風の音や鳥のさえずりを聞いているのだろうか。 それとも生まれ変わって遠いアナトリアのあの町で、ミスキンという名をつけられ、マフムットさん一家に可愛がられているのだろうか・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月13日
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【9月12日・日曜日】 今日は憲法改正に関しての国民投票の日。「エヴェット=イエス」か、「ハユル=ノー」か、ちょっと緊迫した状態。(夜9時頃開票完了、EVET 58% HAYIR 42%) タイイップ・エルドアン首相は早速勝利宣言を・・・これからトルコはどうなるのだろう。 世間では今日までラマザン・バイラムだけど、私はバイラム前日の8日から初日の9日まで翻訳に没頭、10日は推敲を重ね、昨日11日はNTVのスタジオでマイクの前に座った。 地下宮殿の話なのでメヴラーナと同じくらい暗~く重々しい調子で吹き込んだ。中学・高校時代、ラジオで聞く「朗読家・樫村治子さん」に憧れて真似をしていたのが、50年後に役に立っているということか。 ディレクターのマフムットさんは、吹き込みが終わったらこれはびっくり、即金で払ってくれた。こんなこと、トルコに来て以来初めてだァ。 官公庁でも会社でも個人でも、こっちが恥ずかしくなるほど催促しないと払ってくれないのがトルコなんだけど・・・ 嬉しくなって猫の面倒を見たり掃除を手伝ってくれる京子さんを呼んで一緒にお昼を食べることにした。タキシム広場のタリマト・ハーネにある優曇也レストランに程なく京子さんも到着した。 このところ、私は何度も家を留守にすることが多く、この京子さんやらAkeちゃん、真菜さん、レイラ、そしてV子などに猫の面倒を見て貰ったのだった。 そのほか、仕事の上で手伝ってくれた方々への御礼は、美味しい日本料理にご招待するのがいいと思い、このところ何度かに分けて優曇也さんに足を運んでいる。 いわば私のハレの日のお食事である。イスタンブールでもこんなに美味しい和食が食べられる時代になってほんとうによかった。 猫の治療に通うタクシー代で毎日おすしが食べられるなあ・・・とついつい思うこともあるが、それとこれとは話が別で、たとえ猫とはいえその子の一生を私が引き受けたからには自分の贅沢を控えても獣医に通うのは仕方がない。 以下、優曇也さんの女将さんにご了解いただいて、記念にいくつかのご馳走を並べてみます。 6月30日、ロケハンから戻ってきたとき。奥から真菜さん、京子さん、レイラと私 絢爛豪華、どれから手をつけたらいいのか、「すし御膳」(ディナー・メニュー) 海鮮ちらし定食 (ランチ・メニュー) すし定食 (ランチ・メニュー) 味噌ラーメン (ア・ラ・カルト) さて、下はちょっと見劣りはしますが、私の撮影旅行出発前夜、日本から到着した娘の土産のおでんもおまけにご披露します。近頃食べた美味しいものの一つ。 でも娘とは今年、2回出会って翌朝は別れるという、見るも涙、聞くも涙の物語、グスン・・・ レトルトのおでんや田楽みそ、おにぎりなど。あとは私の手製の松前づけ (これがウマイ) とろろそば、オクラと揚げ玉入りmadamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月12日
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【9月11日・土曜日】 先代の水谷八重子か森光子かという、超大御所の大女優みたいなコンテスは別格として、コメディアンだったら随一はこの子、タマオ。 まん丸目玉のタマオ 何しろ臨月のロバみたいにおなかが太っていてよたよた歩いているような感じ。1年前にわが家にやってきた頃はジャックに顔かたちの似た、ごく普通な猫だったので、よもやこんなデブチンになろうとは想像もしなかった。 タマオのおなか(豹のような模様がある) お人好しのようでもあり、たまにコンテスにパンチを食らわしたりしているのを見るとサイグスズな(礼儀を知らない)下っ端やくざみたいでもあり、砂箱でいつまでも後始末をしている並外れたきれい好きな性格は、なんだかちょっと滑稽。 でも私はこんな太っちょの猫がほしかったので文句はない。顔立ちはどらえもんを思わせるまん丸目玉。やっぱり可愛くて仕方がない。 タマオをはじめ、シェビィやアルスがいかに気楽にのうのうと寝ているかをレポートした7月末の写真です。 上から、シェビィ、アルス、タマオ、そしてコンテス madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月11日
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【9月10日・金曜日】 8月17日、オズギュル先生のクリニックの「里親を探しています」の檻に入れられていた寂しげな白い子猫を貰ってきたことはすでにお知らせしたものの、なかなかこの子のことを書く機会がなくて、3週間のうちにここに載せた写真よりも大分大きくなってしまった。 4月23日と出生日もはっきりしているところを見ると、ちゃんとしたブリーダーの生産になるアンカラ猫らしい。純白なのにわが家に来てからちょっと汚れ気味。 あいにく私のところでは「血統書つき」も何も関係なく、道端から拾ってきた、もと野良猫ちゃんと同じ扱いだけど、仲間がたくさんいて寂しくないことだけは確かだ。 わが家に来たばかりの頃の白猫ちゃん。ユキちゃんと名づけようかと思っていたが・・・ あらやだ、その子は男の子よ! タンブルと仲良く遊ぶオグリ 白猫ちゃんは最初タマオ、シェビィ、アルス、それに外から通ってくる大姐御のキウイやミディエに怯えながら逃げ回っていたが、3ヵ月誕生の早いタンブル坊やとは気が合って、早速取っ組み合いをしたり追いかけっこをしたり。たちまち大の仲良しになってしまった。 他の大きな猫に苛められると私のフトコロに飛び込んで、怖さを紛らわそうと顔や唇を嘗め回して甘えるので、私は「おー、可哀想に、可哀想に」と言いながら、母猫代わりに抱きしめてやるうちに数日が過ぎた。 真っ白い馬となって昇天したオグリキャップにちなんで「オグリ」と名づけ、私が可愛がると他の猫達もだんだん家族の一員に加わったことを認識して苛めなくなった。 タマオとも仲良くなってこのとおり 目鼻立ちも整った美少年 さて、お上品な顔立ちのオグリもさすがに8匹の中の1匹となると生存競争の必要を感じるのか、食べ物に執念深い猫の本性を発揮してあまりにうるさいので、可哀想だがキャリーに閉じ込めないとおちおちご飯も食べていられない。 知らぬ間に台所の食材箱から削り節の袋やたらこふりかけの袋などを咥えだし、牙を立てて中身を家中に振り撒いてしまったりして油断がならない。本当にもう、タンブル以上のやんちゃ振りで参ったが、ときどき母猫でも思い出すのか私に飛びついてきて顔を舐めまわす。 あの、叱られるとおろおろして私の耳に吸いついてきたジャックを思い出し、ついついオグリを甘やかす私。 本日はバイラム2日目、実はまたDVDの吹込みを頼まれ、おとといから原稿を日本語に翻訳していたところである。イスタンブールの観光名所、地下宮殿に関する管理会社のプロモーションらしい。 メヴラーナに比べると嘘みたいに易しくて昨日のうちに訳し終わり、今日は目を皿のようにして推敲を重ね、無事納品した。明日、スタジオに行ったとき滑らかな声が出るように今夜は早めに休むとしよう。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月10日
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【9月9日・木曜日】 数字の語呂合わせ大好きな日本では、9月9日はもしかして救急の日だったかな? それに合わせてこの日を選んだわけではないのだが、私がコンヤに行っていた間にお世話になったアカデミー病院のことをお伝えしたいと思う。 コンヤ・アカデミー病院の建物と、MR専用棟 コンヤでも老舗として聞こえたアカデミー病院(院長エサット・メフメット・アルスラン氏)は、今年の4月16日、コンヤのセルチュクル区が築造した日本庭園のプレ・オープン式典で、コンヤ・日本文化センター(会長メフメット・アリ・アルパジュ氏)との間にこんな約定書を取り交わし、調印式を行った。「コンヤ県に来た(或いは住んでいる)日本人の負傷や病気の際、アカデミー病院はその治療を無償で担当する」というものである。 調印から2ヵ月後くらいに、実際にコンヤに来たツーリストの日本女性が急病に罹り、ツーリスト・インフォメーションに入った連絡でユジェル君とメフメット・アリさんが付き添って治療を受け、翌日無事に退院したとのこと。 調印後初めての患者ということもあり、コンヤのテレビ局がこれを取材して、旅の途中で受けた思いがけない親切に感激する女性の姿を伝えたのである。 さて、2年ほど前に、日本から観光に来た知り合いの高齢女性の手を引いて歩いているときに、右手で杖を突き足元のおぼつかない彼女が躓いてどうと倒れそうになったのを、私が右足を踏ん張って支えた瞬間、膝に強い衝撃を受けて脳天にまで走る痛みを感じたことがあった。 そのとき、女性が私の右親指を必死に掴んだために転倒は免れたが、瞬間的に親指が強く捻られた格好となって、その後雑巾が絞れなくなり、ペットボトルのふたをねじって開けたり、コップをつかむということが出来にくくなった。痛いのである。 そのうち治るだろう、と軽く見ていたのが悪かったのか、右親指と右膝はいつも熱を持ち、我慢強いのがアダとなって2年も我慢をし続けてしまったので、十分悪化するまで放っておいたも同然なのだった。 老猫コンテスが鼻水を垂らしているのを見ただけでも大事を取って獣医に飛んでいく私が、自分のことではいつかは治ると医者に行かなかったのは大失策、5月半ばにオファーを貰ったドキュメンタリーの撮影が済んだら今度こそ医者に行こうと思っていたのだった。 右手、右膝、足首、かかとと、とにかく痛む部位をレントゲンに撮って貰い、治療に専念する気になったところで、私は1つの願望を持った。 メフメット・アリさんによれば、コンヤのアカデミー病院は外科の、ことに膝の疾患や原因不明で歩行困難になった人々の治療に成果を挙げているのだそうだ。 その病院でしっかり診て貰い、もう素人考えは捨てて医者の指示に従う気持ちになっていた。もちろん大きな仕事をした後だから、私のフトコロは豊かだったので、この際、思い切ってコンヤに行こう、と決意した。 そこにポストニシン様からの電話もあり、留学生京子さんが泊り込みで猫の面倒を見ることを快諾してくれたので、メフメット・アリさんに電話をかけ、ユジェル君には飛行機の切符を取って貰い、もうその日のうち(8月28日・土曜日)にサビハ・ギョクチェン空港から飛び立ったのだった。 土・日はもちろん、8月30日・月曜日が戦勝記念日のトルコでは3連休で、病院の一般外来ももちろん閉まっている。 日・月とも昼間は友人達に会い、夕方からはポストニシン様が迎えに来てくれたので2日連続で一族のイフタル・ソフラス(断食明けの夕食)に参加、コンヤ滞在4日目の火曜日8月31日正午に、メフメット・アリさんが予約を入れておいてくれたアカデミー病院に行った。 やがて担当医のメフメット・ポルタカル先生に呼ばれ、ズボンを捲り上げて触診から始まり、右親指の付け根が腫れていること、右膝は熱と腫れと痛みが強いこと、右足首にも捻挫した形跡があること、右足のかかと裏の痛みは骨の変形の疑いがあることなど指摘された。 すぐに右手と右足のレントゲン撮影、右膝はMR撮影の指示が出され、レントゲン撮影のあと、病院の隣の敷地に建つMR専門の撮影棟に移動、10分ほどMRのものすごい音を立てて稼動する機械に下半身を挿入、結果は2時間半後に出る、という。 メフメット・アリさんがずっと付き添ってくれていたので、待ち時間は日本文化センターに連れて行って貰い、そこでメールチェックをさせて貰った。 泊まっているホテルのネットにもう3日もパソコンがどうしても繋がらず、その間に仕事や依頼ごとのメールがたくさん入っているのが分かった。トルコ語配列のパソコンでは、日本語を書くのについ打ち間違えて、2~3通に返事を書くのがやっとだった。 やがてMRの診断結果が出る時刻になったので再び病院に行き、診断書を貰いリハビリ科に回ると、混雑していてしばらく診察室の前の廊下で待つことになった。 3~40分すると呼ばれ、担当のポルタカル先生は、MRの診断書を読み終わると、映像を見ながら言った。「膝の関節が何か大きな打撃を受けて変形してますね。上下の骨がずれて直接擦れ合うから、関節がなお磨り減ってしまっていて痛むのです。立ち上がるとき右足のバランスが崩れるのは、膝が伸びたときに骨がずれていてしっかりと所定の位置に骨が留まらないからです」 先生は膝の模型を示しながら説明してくれた。そして右手の親指にも2箇所の関節に骨のずれがあり、そのまま固まって痛んでいること、足首にも同様の骨のずれがあり、かかとの下には尖った骨が生えているのが分かった。こんなのを放っておいたのか、私は。「2年もの間、相当無理をしてしまったんですね。もう2~3ヵ月放っておいたら即手術しなくてはならない状況になるでしょう。手術をしなくても済むように、これから本気でリハビリに励んでください。幸い、まだ治る可能性は十分あるので希望を持って自分の足を大事にしてやってください」 リハビリ科のメフメット・ポルタカル先生 先生は親切に注意すべきことを事細かに説明し、使うべき薬、飲み薬などのカルテを書いてくれた。治療に希望が持てるということで私は大いに安心した。同時に2年前の夏、瞬間的に転倒しかけた女性をかばって、やっぱりよかった、と思った。その人が仰向けに転んで、石畳の固い石に後頭部でも打ち付けていたらたいへんなことになっていたかもしれない、と改めて思った。 メフメット・アリさんは病院長がちょうど在席しているので挨拶に私を連れて行ってくれた。「エサット・ベイ、加瀬ハヌムはメヴラーナ関係の本を日本語に翻訳しています。セルジュク王朝時代の研究もしている、コンヤにとって大事な人です。約定に該当する、ということでお願いできますか」 メフメット・アリさんが言うと、院長のエサット氏は高らかに言った。「もちろんですとも、喜んで」 私は何度も、自分はこの約定を知っていてきているし、費用も用意したので払わせてください、と言ったが、院長は手を振って、「メヴラーナのことを日本に紹介してくれるお礼ですよ。ここで治療を続けられれば一番いいのですが、イスタンブールにお住まいでは仕方ない。よいドクトルにめぐり合えるように祈ってます。お大事に・・・」と笑みを浮かべながら言うのだった。 私は有難く好意に甘えさせて貰った。 エサット・メフメット・アルスラン院長 アカデミー病院の建物は、メフメット・アリさんの建設会社が工事したといういきさつがあり、去る4月16日、他に例を見ない「日本人患者を無償で治療」という約定に院長が賛同し、画期的な調印式が行われたのだった。 イスタンブールに戻っての1週間、やはりずっと多忙に過ごしてしまったので、竹山姫子さんの紹介で13日のラマザン・バイラム明けから、ドイツ帰りの先生の指導を受け、私は本格的な治療に入ることになった。 コンヤ・日本文化センターは少しずつ少しずつ活動の幅を広げていこうとしている。メフメット・アリさんやユジェル君は、コンヤに行く日本人達にとって心強い味方である。 これでなお一層深い縁の出来た私も、コンヤ文化センターの発展のために微力ながら尽くさせて貰うつもりである。 アカデミー病院の先生方、メフメット・アリさん、ユジェル君、そしてコンヤで私を暖かく迎え入れてくれた皆さん、本当にありがとうございます。 ************************* 今朝、早々とカプジュの息子のジャンが母親のゼリハの作ったヤプラック・サルマス(葡萄の葉にくるんだピラフ)とこれも手作りのシェケル・パーレやバクラバなどの甘いお菓子を載せた皿を手にやってきた。 コンヤで受けた親切に感動した気持ちを、少しでも大勢の人と分かち合いたいと、コンヤ名物の砂糖菓子を彼ら一家にも土産に渡したお返しなのだろう。 ゼリハに電話して礼を言うと、彼女は弾んだ声で「ジャポン・テイゼ、アーフィエット・オルスン! イイ・バイラムラール」と嬉しそうに言った。 こちらも2年越しの大きな傷・・・私は年長の自分から手を差し伸べることで、傷口をふさぐことにしたのだった。 久しぶりのブログ、長々と書いてしまいましたが、右膝の治療に希望が持てたところで、本日はトルコもラマザン・バイラムに突入、猛暑にあえいだイスタンブールもさすがに例年の初秋らしく、涼しくしのぎやすい日となりました。 いま、緊急に頼まれたイスタンブール観光名所、「地下宮殿」の日本語訳をやっています。明日はそれを完成させ、あさってはDVDに吹き込みすることになっています。バイラムに仕事なんて、まさに怠け者の節句働き。 猫達が背後で繰り広げる運動会、駅馬車ごっこ、高いところからものを落す音、ものが割れた音、チュクルジュマのわが家は今日も賑やかで散らかっています。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2010年09月09日
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