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義両親と義姉1と2の家族を招待しました。私たち家族をいれて11人。私は大人数を一時に招くよりも、これぐらいを数回したほうが好き。20人以上を超えると、接客ばかりでだれが来ていたのかもわからないほどに、お客さんと話しをする間もないから・・・。 IMG_5719 (640x410) posted by (C)maryam f dラペというお豆と羊肉、トマトを煮込んだ状態。これに素揚げしたナスを入れて、乾燥ライムで酸味を付ける。IMG_5720 (400x347) posted by (C)maryam f d乾燥ライムをしばらく煮立てたもの。一緒に煮込むと苦味が出るため、別鍋で煮立てる。IMG_5729 (640x575) posted by (C)maryam f dイランの金属製の大きな串でつくる焼き鳥。味付けはサフランと玉ねぎと、レモン汁とオリーブオイル。この大きさのお皿二つで、20串分。鶏肉の胸の部分だけを使用。私も夫も息子も、焼き鳥(ジュジェキャバブと言う)は、外で売っているもの、たとえレストランのものであっても食べる気がしない。なぜなら、家で作ったものほどには柔らかく、焼き汁たっぷりではないから。IMG_5738 (403x420) posted by (C)maryam f d鍋の底にじゃがいもを敷いて作ったおこげ。うまくできた!IMG_5740 (318x320) posted by (C)maryam f dflashがつかなかったのでひどい画像だけど、ゼリーは3色。IMG_5724 (600x800) posted by (C)maryam f dこれにジュース、ノンアルコールビールなどのドリンクをつけた。(手作りのアセロラの酢漬けも添えた)焼き鳥には、焼きトマトが添えられる。食器を並べたのは私ではなくて、息子で、スプーンの置き方などが気になるが、ご容赦を。_(_^_)_食前食後には果物、ミックスナッツ、紅茶とコーヒー。IMG_5718 (640x427) posted by (C)maryam f dお花畑のようなサラダ。義母が来て材料をデコレーション。義姉1が鶏肉を串にさすのを手伝ってくれた。助かった。4月10日にはドイツ在住の義妹3がイランに来る予定・・・またバタバタしそう。 にほんブログ村
2013年03月31日

2013年のチャハールシャンベスリー画像 道路にも爆竹を仕掛けるので煙が立っている。 おちびも、おちびなりに参加。 大人も楽しい。 新年を翌日に控えたTehranの街の様子。 にほんブログ村
2013年03月28日

一番良くて一番楽な道 に対してOakさん:クリシュナムルティ風に言うと 作為のない 無執着な あるがままの精神の発露 エゴから発する掲げられた「愛」とやらではなくて 本来の愛・・・と言葉ですら言えないようなものでしょうかね というコメントをいただき、私:言葉では表現し難いと思います。これは愛なのか?道なのか?oakさん:道のほうが近いかも。 大道廃れて仁義あり↑の記事を教えていただきました。そして私は以下のようにお返事申し上げました。私:Oakさん記事拝見いたしました。人を法律とか規則という外側から行動とか行為の規制をすることは可能ですから、治安や平和のために法律を制定することは必要だとは思いますが、それが人の魂に響くわけではないんですよね。これは社則にしても校則にしても条約にしても・・・。oak treeさん:法律の次元の話はまたさておき、むしろ心を縛り枷になるような主義信条というものがある、ということですね。そういうものがないほうが心が自由で自然であるということです。しかし実際にはいきなり自由になれと言われても困るんですけどね(笑) 私:物事に対する認識の仕方は人それぞれです。苦労を苦労としない、嫉妬も含めて自分をのばし、磨く糧にできるっと仰った方もいましたが、私はそこまで積極的でも、向上心があるわけでもありません。嫌なものは嫌なんです!っていうわがままものですから・・・それはともかく(私にとって)苦労させられたと感じる事柄の原因を、相手に求めるよりも、相手をしらないで、(自分自身が)嫌な思いをさせられてしまうような接し方をしてしまった自分に求めて、それを今後のその人との関係や接し方の参考にすべきなんだろうな、とは思いました。ただこれには法則はないんです。それこそ経験が物を言うし、センスの世界!なんとなく・・・とか全く根拠がもてない第一印象が、実は、 一番正確なその人との関係とか距離 の答えを示していたって後から、かなり痛い目にあってからわかったりするんですよ。もちろん先入観に捉われないってことを(経験を)重視すると、こういう失敗をやらかすわけです。(なんという逆説!!)おそらく私が書くことは、きっと抽象的な表現すぎてよく伝わらないかもしれませんが、私は自分を変えようとか相手を変えようなどとは思わないほうがまず無難だろう・・・と思うのです。相手を相手として受け止める、自分ができることをして、相手とできるだけ居心地の良い距離を模索して、探り当てて、その距離を調節しながら、持続させる努力をすることのほうが実用的であるし、抵抗が少ないだろうと思うわけです。これも全て私に体力的にも、精神的にもゆとりがないからなんですけれど。そして自分の変化とか、相手との関係の変化とかいうものは、変化という革新的なものではなく(変化を目指しての変化)ではなくて、自分対相手・状況・物事との適切な距離を持続させて、知らないうちに、意図せずして、融合していく先に続いているものではないか?という気がしています。卑近なたとえで示すと、夫婦の顔が共同生活の中でだんだんと似てくるようなものです。ここでも適合とか、適応性というものが大きいと私は思うのです。私が2008年に突如薔薇が好きだった想いが憑き物が落ちたようなくなって、野草に心惹かれるようになったときから、もしかしたら・・・私はこれを無意識のうちに察知していたのだろうか?と思いました。oak treeさん:あるがまま というのは 変化しようとすることでもなく 変化に適応することでもなく 革新でも革命でもなく ことさらに流れに任せることでもなく 構えのない しなやかな精神なのでしょうね 気の抜けた脱力ではなくて 良い意味での敏感さがあって 停止ではない静止の状態 いつでも稼働可能な溌剌としている静止状態 高速に回転するコマが静止ししているようにも見える有様。私:適応しよう、順応しようという力の元にあるのは、なんとかここ(この場)で足を踏ん張りたいということが一番にあるんだと思います。それがプッチンと切れてしまったのが、私の場合は2010年の末でした。そしてそのまま身体の方もフラフラと彷徨ってしまいました。96年にイラン人として生活するようになってから、私なりに一生懸命馴染もうとしていたんです。そういう私の姿を皆、周囲は理解してなくても、見ていると私は思っていたのです。でもそう思っていたのは私だけだった!というのを思い知らされ、確かにこの時期はファミリーの緊急事態でもあり、私の緊急事態だったけれど、そんな私に冷水をかけるようなことはしないと思っていたんです。でも、冷水をかけられて、今までの自分は、この場所になんとしても留まろうと何が何でも我慢していた私の存在はなんだったんだろうか?と、プチンと張り詰めていた糸が切れてしまったんです。2010年末から2年が経過しますが、相変わらず私には余裕も、余力もありません。でも冷水をかけられて今はよかったと思っています。一つの結果が出て、私もそれから今まで紆余曲折しましたが、義両親、義姉妹の家族、夫とのちょうどいい距離を調整して、それがようやく見えてきましたから。自分が楽に息ができて、手足がのばせるようにすることが、結局は相手や周囲にとっても良いことである、そのために続かない無理はしない、相手と自分にとって良いことを考えられるようになりました。これをすご~~~く簡単にいうと、いままで私は馴染もうとしていたんですけど、、、、今はある部分に於いては、”私ってこうなの~~~、いろいろ言いたいことあなたにもあるかもしれないけど・・・この部分に関しては私に慣れてね~~~”ってさらりと対応できるようになったんです。夫に対しては以前も、自分が不愉快に感じることを示せましたが、親戚などにはどうしても、イランに住んでいるのだから、とこちらの常識と、私の日本人としての価値観がぶつかって、私が 我慢せざるを得ない部分 が存在していたのだと思います。でも、どうしても我慢できないことには、 嫌! って言葉ではっきりいわなくても、意思表示ぐらいはしないと、とてもとてもやっていけないっていうことを、私はやっと自覚し、理解したのだと思います。 コメントはこちらへにほんブログ村
2013年03月25日
ひなたぼっこねこさんのこちらの記事 天にまします という記事を拝見した。私:醜悪でも真実に近いものもあるので、背筋に冷たいものが走ることがあります。ひなねこさん:真実はどこにでも転がっていて、それをみる目、みようとする意志が無いと気がつかないのかも。輝きも絶望もどちらもありますが、それを受け止める心持ちが大事ですね。強くありたい、と思いつつ、ひ弱な私です。私:私が知らない真実を、ひなねこさんはご存知だと思います。真実はある部分では見たくてもみられない、見たくなくてもみてしまうあるいは、見させられる・・・夢のようなものです。ひなねこさん:厳しいな、と思いました。自分を律し管理して、それでもMr.サダメは赦してくれない。智識と理性と冷静さと、行動をしなければいけない。選ばれてしまった人の負荷なのでしょうけれど、こちらからはどうしようもない、重さだと思います。この間読み終えた本に、江戸川乱歩のことば「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」とありました。それが真実かどうかは、現し世にいる間はわからないのでしょうね。私:私がそれだけ 自律できない からなんです。どうしても余分な領域に踏み入るからなんです。自制できないから雷が落ちてきます。私:結局それ(智識と理性と冷静さでの行動)が徹底してないから、ひょろひょろ私が首をもたげてサダメのカナヅチがイカヅチのように振り下ろされるんです。しかも私は懲りないわけです。現世では、肉体やら、目に見えること(表面的な事象)に、どうしても視界と、思考は影響されますから仕方がないと思います。ひなねこさんが仰る通り、そこらじゅうのたわいもない事物のなかに真実は潜んでいるっと私も感じています。あるとき偶然波長があって垣間見てしまうのだと思います。立っているアンテナが高感度だと頻繁なんだと思います。夢から得る場合その例外ですけれど・・・夢は否応なしです。ひなねこさん:なんと幼児が日常に神の恩寵をみつけることか!無垢な魂は世間知にいちどまみれ、そこからまた磨かれて輝くんでしょうね、磨かれてる身は痛くてたまらないんだけど(T ^ T)。<あるとき偶然波長があって、垣間見てしまうのだと思います。>そうですね。でも、偶然なのか必然なのかは微妙ですよ・・・などということを話題にしていたら、今度はこちらの記事を拝見した。Tomさんの キエルケゴールと新渡戸稲造-早乙女禮子 この二つの記事の関連性に、どうもサダメのコーチ殿は私に知らしめたいことがあるらしいと、私は感じた。Tomさんのところには以下のようにコメントした。私:拝読いたしました。違う土地で、異なる名前で呼ばれていても、同じ流れを見出すことは多々ありますね。そこらじゅうのたわいもない事物のなかに真実は潜んでいたりします。でも、人とは、現世では、肉体やら、目に見えること(表面的な事象)にどうしても視界と、思考は影響されます。その一例として、名前が付いたところで固定観念が生まれると言えると思います。でも固定観念というものを外してみてみると、そこらじゅうのたわいもない事物のなかに真実は潜んでいることが見えてきたり、感じられたりします。あるとき偶然波長があって垣間見てしまうのだと思います。真実はある部分では見たくてもみられない、見たくなくてもみてしまうあるいは、見させられる・・・夢のようなものでもあります。ただし真実とは美しいものだけではないとも私は思っています。醜悪でも真実に近いものもあるので、背筋に冷たいものが走ることがあります。Tomさん:昨夜ヒストリーチャンネルでThe Bibleを観ました。いつもなら画像で聖書を見るのは嫌いです(ビデオはイメージ強烈過ぎて私が作るイメージの妨げになります。)が、サライとアブラムがイサクを神から授かる所とイシュマエルの誕生などがありアブラハムがイサクを生贄に捧げる前までを観ました。ご存知のようにイシュマエルはアラブ人の父、イサク(アイザック)はユダヤ人の父ですね。そしてmaryamサンからこうしてコメントを頂くのは何かの啓示なのかも知れません。此処数日、私の頭を巡っていたのはギリシャ語のアガペー、ソクラテスのダイモーン、イロニー(アイロニー)との修辞は、知恵の表れであり、これこそがアダムとイヴが食べた物ですね。アガペーは真実と共にイエスの象徴であると思いますし、旧約の唯一神はバビロニア捕囚とエジプトから得たものであり、善悪二元論もまたゾロアスター教からユダヤ人が学んだものですね。こう考えますとユダヤ教はユダヤ人古来のものでありながら、その実当時の最高の知識を集めて、自己のアイデンティティを作り上げたのではなかろうかと思えるのです。イエスを神と信じないユダヤ教は、アダムとイヴが食べた知恵の実を重視するかの如く、スピノザやアインシュタインなどその他数えきれないほどの知的な人物を輩出して来たと思います。人類の最高の頭脳を以てしても、神の深遠なる計画は推し量ることは到底出来無いことな筈です。何故なら人類の知能がより多くの事を知れば、それに数倍した未知のものが我々には見えてくるからです。こんなコメントをいただいた、その数日後には・・・Natsuさんの記事『学んだこと』を記憶に残すこと を拝見し、サダメが私に何かを知らしめようとしているのだろう・・・という想いが益々強まって、結果的に言うと、この記事に対して私は執拗すぎる程コメントしてしまった。私:私の場合は、相手の言葉の意味や内容であっても、それがイメージとなると理解しやすく、そしてそのイメージは、脳裏に写真を撮影したように残っています。そして似たような、あるいは関連した事柄に遭遇すると引き出されます。おそらく左利きの私は、言葉という普通は左脳で論理的に処理されるものでも、右脳が使われていて、イメージや画像として処理されているのかもしれません。それに対してNatsuさんからご質問があった。Natsuさん:コメントありがとうございました。私の記事の趣旨が自分でもよくわかっていないのかもしれません。例えばスピード違反で捕まった道路を通る度に怒り出す人。「捕まった」というネガティブな記憶を残すのではなく、「スピードを出さないようにしよう」と記憶をした方が、いやなことを思い出さなくていいですし、経験が活きるのではないかと思い私は忠告したのです。「事実」ではなくそこから「学んだこと」が大切だと私は思うのですが、どう思われますか?私:その方がスピードを出したことに関して、そして捕まったことに関して、どのような想いをもっていらっしゃるか?を探ってみないことには私には何も申し上げられません。捕まったという事実を運が悪かったと思っていらっしゃるのかもしれませんし・・・。事実をどのように受け取るのか?は確かに重要ではありますけれど、おそらくNatsuさまも書道を指導なさっていらっしゃる、あるいは指導の傍らにたっていらっしゃるとお感じになられると思いますが、同じことを差し出しても、受け取る側の反応は様々ではありませんか?Natsuさまには学びを得られる経験や事実が、私には締め付けだったりすることは有り得るのではないかしら?ということは私の想像に難くないのです。私は天邪鬼のへそ曲がりだからです。素直な心が如何に大切かなんです、わかってます、でも治らなかったりもします。素直な心 がないと学べないと私は思っています。Natsuさまの記事にはそれが良く感じられます。私のようなひねたものは、抗って、逆らって、見て見ぬふりをして、それでもサダメがどうしても学ばなければいけないと決められたものをドッカーンと雷落とされて学ぶのです。それでも懲りない我が性(サガ)。何を申し上げたいのかというと、善悪はともかくある状況である行為をすると、ある結果が続いていると景色として記憶する、道路で規定以上のスピードを出していると警察の御用となったことをイメージとして記憶するわけであります。イメージ化した記憶はその場所だけでなくて多場面で引き出されます。梅干という言葉を耳にしただけで口から唾液がでるような、条件反射のようなものを脳内に記憶させる感じでしょうか。私の例は特殊で参考にはならないでしょう。ひとつだけ申し上げたいのはある程度の年齢になると、考えを改めるような学びを得ることは難しいと思います、学びを得させる(悟らせる)ことも難しいかと。教育の難しさは教えるまえに育まないとなかなか。ましてや大人(成人)を育むをや!
2013年03月14日

Natsuさん:コメントありがとうございました。貴重なご意見よくわかりました。私の記事を「締め付け」と捉えられご気分を害されたのでしたら、心からお詫び申し上げます。私は決してそんなつもりもありませんし、私の意見が全てに人に当てはまるとも思っておりません。ただひとつだけ申し上げたいことがございます。年を重ねると誰しも頑なになって参ります。学んだからといって思考や行動が変わるのは大変難しいことだと思います。しかし「気付く」ことはできるのではないでしょうか。実際、私が変わったのは50歳を過ぎてからなのです。年齢に関係なく、人はいくつになっても学ぶことによって成長できると私は信じておりますし、私のブログの趣旨の趣旨もそこにあります。多くの方々に幸せになって欲しいと願う・・・私の考えはただそれだけなのです。私:締め付けは極端な表現なんです。私が如何に意固地であるかを示したかったんです。そういう天邪鬼も存在するということをお知らせしたかったのです。気付くことはできると思います。自覚を促すことは、自分にも相手にも大切なことです。しかし、気付く=治せる ということが、私にとっては疑問なんです。自覚していても、治そうとおもっても、治らないものが・・・私にはたくさんあります。だから私は、したいことをしているのではなく、できることをしているだけだと思っています。治せる、、、というのはこの場合、ある事柄から学ぶという意味になりますけれど。私はイランにきて、日本の善悪とは180度違う常識の中で、それでもそれをしなかったらイランでは非常識になったり、周囲をギョッとさせるのだろうな、ということを感じてきました。車の運転ひとつをとってもそうです。日本式の運転をして相手を思いやる、歩行者を思いやる運転をしていると、クラクションやライトをつけたり消したり、窓を開けていると睨みつけられたり、声で罵倒されます。善悪を考えると日本の運転スタイルなんですが、イラン式の車の流れ(波)を乱すことも事実なんです。そうでなくても誰の目からみても思いやりや、優しさや、親切心って善だとおもうんですが、時と場合によって、相手や状況によっては、マイナスの結果しか生まないことがあったんです。善をほどこしても悪の結果!義妹4夫婦に対してこれまで金銭だけでなく労力も時間も、心も費やして、痛めてきましたが、結局をそれは何も実を結んでこなかったし、逆に悪い状況へ彼ら夫婦関係・うちの夫婦関係、親戚関係を向けるばかりでした。私にも信じがたいことでしたが事実だったんです。そしてある日私は夫にそれを伝えました。今までこういう善行をしてきたでしょう、でも結果はこうだった、あの時もこうだった、この時もこうだったと景色というかイメージを並べたのです。そしてその行為と経過と結果の集積から、彼らにいわゆる善行、親切や助けの手を差し伸べることは、彼らのためにはならないことなんだと私は結果付けると夫に伝えました。(実際義妹3に対して同じようなことをしてきてもいたけれど、その結果は雲泥の差だったこともあったので、良い比較材料がありました。本当に同じことをしても結果は相手によってこれほどまでに異なるのです!)夫が今後も自分の末の妹を思い手助けするのも支援するのも構わないけれど、私は手を引きますということも最後に付け加えました。これをみても善悪という基準は本当にあるのか?ないのか?状況と、行為と結果をみてその経験から学んだほうが間違いがないように私は思ったのです。この結論が私にでるまで、15年以上の歳月が必要でした。(なんとまあ、長い時間を費やしたのだろうか!!!)教育というのは、教育される側が、Natsuさまのように学びたい、よりよく生きたい、もっと上を目指したいという生きることだけでなく、なんでも本人にやる気、向上心がないとなかなか結果がでないものだと私は思います。私はNatsuさまより経験の少ないものです。重々承知しております。青二才の戯言と受け取ってくださいませ。それでも私はイランで本当に何が善なのか?悪なのか?自分にとって、相手にとって何が良いことなのか?必死に考えてはいます。結果は伴いませんけれど・・・・。教育という言葉をここに用いたのは、私は生きること、日々を積み重ねていくことが教育だと感じているからです。私に何かを学ばせ、冷徹な目で監督し、時に飴を降らせ、鞭を降らせているのは、"サダメの鬼コーチ"です。過去にしても、経験したことにしても、それがどんなに嫌なものであったとしても、現在の状況が良いものだったら人は、嫌な部分をも振り返ってよかったと言えるものだとは思っています。Natsuさん:Maryamさまのお考えよくわかりました。ありがとうございました。Maryamさまが今までに経験されたご苦労は私とは比べ物にならないと思います。随分お辛い思いをされてこられたのですね。どうぞ、周りはお気にされずにご自分にもっと優しくしてあげてください。心優しいMaryamさまへ。私:苦労なのかなんなのか?正直自覚がありません。私は環境に適応する能力を信じています。それがずるいとか、図太いと見られようとも・・・そして、イランに来ることも、今もイランに居ることも、私が望んだということは、確かな事実なんです。環境適応能力がずるいとか、図太い・・・とは、ある環境から、ある環境への適応は、心変わりとか、信念がないとか、一筋ではないという部分がありますから。それでも私は 今 を大切にしたいと思っています。今・ここでできることを一生懸命考えるだけです。私も自分の中に枠を作りたくないと思っています。いつからだって変われる(環境や状況に適応できる、なんとしても足を地面に踏ん張る)と思っていますが、それが果たして成長と言えるのかどうか?まではとても言及することはできません。とにかく酷暑・極寒に耐えて春を迎えようとする意思(意志)を保つのみです。そして、2013年3月13日に私が掲載した言葉"一番良くて一番楽な道"は、実は、Natsuさんとのやり取りがあったから書いたものではなかった。この言葉は、夫がタイに言っている間(一ヶ月以上も前)に書いていたものだった。それをブログ掲載用に書き整えてはいたけれど掲載する時期を待っていたのだった。この言葉が頭にあったから、Natsuさんへのコメントがこの記事の内容に沿うものになったというのが実情。どうやらサダメの鬼コーチ殿は、どうしてもこれを私に植え付けたいようだな・・・と私は感じた。そしてこれを掲載したら・・・・Oakさんがこちらの記事 動機のない行為 をしめしてくださった。そしてああ、サダメはこの記事を私に読ませたかったのか・・・っとサダメの意図がこの記事にたどり着くことにあったのだろう、私はそんな気がした。以下この記事の引用人がなにげに生きていて、「ふっ」とその場で出てくる動きがあり、場面、場面でもっとも適切な行為だったりする場合がある。それはある意味では、心身のバランスが良好で健康、無邪気である、そんな状態が先にあってのものでもあるかもしれないが。しかし仮に病んでいても晴れ間はある。そんなことも感じる出来事だった。実は、こういうことに関心があるのも、要はぼくにとって、もっとも楽な、抵抗のない生き方というものの模索から出て来たヘリクツ話であるのだろうが。以上引用。屁理屈という表現の部分を拝見し、ああ、似てるなこの人と私・・・と正直思った。でも私の場合、心身のバランスが良好というよりは、体力的にも精神的にも、とにかく余力がない、余裕がないから!というところから出てきた、出来るだけ楽な・抵抗のない道の模索をしていて行き着いた先だったのだろうと思う。にほんブログ村
2013年03月14日

一番良くて一番楽な道何も知らないわけでも何も理解してないわけでもないけれど・・・何も考えずに行動をおこすことは可能ではあるまいか?たとえいたずらになんと長い時を費やしてしまったことだっと虚しさを感じた後でも今 現在 からでも否 そんな道程を歩いてきたからこそ今こそ何も考えずに条件反射のように行動をおこすことができるっと・・・私は思っているそしてそれが一番よい 一番楽な道を私に選ばせてくれるように感じている にほんブログ村
2013年03月13日

♪ はるる ♪ 春もいい 晴れるもいい 心もあったかで 澄んでいるといい コメントはこちらへにほんブログ村
2013年03月12日

祖国と桜日本の桜には なんとも言えない想いがありますこの地イランの桜には感じません日本に咲く桜に感じる特別の想いです桜の花をみるとその年に生まれてくる子供たちの顔や姿と重なります亡くなっていく命と 育まれる命と散っても再び春になると 毎年花を咲かせる桜と重なるのです刹那ですね 人の命は刹那だと知って なお力の限り生きる命はきっと桜のように美しいのだと思います祖国の地で 震災で亡くなられた沢山の人々の魂が平安でありますようにと毎年桜の季節が近づくたびに願わずにはいられません2012年3月4日記コメントはこちらへにほんブログ村
2013年03月10日

ここは春分の日に新年を迎える。来年をいつ迎えるのか正確な時間はまだ暦を確かめていない。。。というのは太陽が春分点を通過する瞬間に元旦を迎えるから、毎年時間が異なるのだ。私はこういう日本人には一風変わった新年をいくつ迎えたのだろうか、、、。でも私はこの時期に迎える新年が好きだ。太陽が春分点を通過する瞬間という考え方が好きだ。そう思うのは日本人的に考えても、私にとって春という季節は他の三つの季節よりも、特別なものであるからかもしれない。現在、はたしてどれぐらいの日本人が花という言葉から桜をまず第一に思い浮かべるのか?私にはわからないけれど。。。。花といったら桜というのが日本人の古来思想である。私はここへきて日本の桜は美しいと思った。ソメイヨシノという種の花が優れていることもあるのだろうけれどそれだけではなくて、、、なんというか、日本の気候、風土、、、もっとそれを具体的に書くと日本の空、青空、夜空、風、湿気を適度にたもった肌に心地よい風、そしてまた、肌に優しい、目にもやさしい太陽の光、木々の鮮やかな緑、湿気を帯びていることによって土の匂いまで感じる空気そういうものの中にソメイヨシノという桜が立つと日本の伝統的な服装をした女性、それは十二単の女性かもしれない、あるいは戦国時代の武士の女性かもしれない、または浮世絵の中の、花魁の、江戸時代の庶民の女性、そして、現代の芸者さんや舞妓さん、、、、そういう姿が背後にみえるような気がする。私にとって春も桜も、私にとっての海とはまた違った意味で深く郷愁を誘い、自分が日本人である、という気持ちを掻き立てるものなのかもしれない。2011年3月3日記コメントはこちらへにほんブログ村
2013年03月09日

朝起きたらいつの間にか雪が・・・天気予報では最低気温マイナス2度となっていましたから、予報通りではありました。しかしまさか、こんなに降るとは・・・・ 犬は喜び庭駆け回り猫は炬燵で丸くなり うちの息子は雪の上に寝転がりました・・・・とさ。 にほんブログ村
2013年03月07日

~昼の月・夜の月~ 2011年6月記今、昼間、、、でもなく午後4時頃空を見上げると 高い位置に 月 が見えます。半月です。 夜見る月と趣が異なります。 空の中で 透けて 存在するようです。 透けているけど そこ にある。 透けて見えざるを得ない 切なさ のようです。 ここでも月は自分の 姿を、 正体を はっきりとは示さないけれど、 そこ にあります。 夜の姿は 妖しさ を纏って 真の姿を見せないようですが、 昼の月は その逆で 自分の素だけ を、最小限残し その他は 空に身をあずけている ようです。 月にもいろいろな事情があって、 地球との距離や大気の状態や、太陽、光との関係やらで 自分の姿以上、あるいはそれ以下の姿で私の目に映るのかもしれません。 でも 月は それ以上でもなく、それ以下でもない。 月は ただ月 それ だけである。 惑わされているのは 私の心 の方なのかもしれません。 私にそのことがわかるまで40年以上の歳月がかかりました。 そして・・・ 妖しく、美しく、切なく 惑わされる それが 生きるということなのかもしれません。 2011年6月9日 日本滞在15日 最終日 記 追記 月光は神秘的な明かりですね。月は月だとおもっても妖魔を感じます。また 潮の干満が引力で引き起こされます。 古代の人は 引き潮にのって死者は旅立ち、満ち潮で新しい命がこの世に訪れる と考えたようですが・・・ 月をみて感じたことは そのまま、そのときの 自分の心の姿 を現しているように思います。 いま私は、いろんな姿を示す月の 素 に気がついたということは 私の心の 月 も純粋な姿をしていると言えるのでしょう。素 を見出だすことができたということは 心がとらわれていない 良い状態 なのだろうと思います。 月だけでなく、自然と心が一体となり、そこからいろんなものに気づき、知ることができたらいいなと思います。 (以下は引用文) 星座でも夜空に平面(板の上に)に星座が配置されているわけではなく三次元空間に立体的にばらぱらに存在している星を地球から見てわれわれが勝手にまとめて星座というイメージでとらえているのですね。 (以上 M先生 のコメント) 私はそういう事実の中に 創造性 や 夢や 対象を擬人化するような 人間に特別与えられた精神や頭脳の働きを 感じる のです。 それが 人として生きる ことなのではないかと思ったのです。 それは そのものの真の姿 ではないのかもしれませんが 私は それを今、 否定的 ではなく 肯定的 に見られるようになったのです。 たとえ、 マヤカシの世界に 惑わされて いるのかもしれない、そんなものに もがき苦しんでいるのかもしれない、 けれど、それが 生きるということで、 マヤカシの中で 惑う のも いいのかもしれない、騙されるのなら、存分に騙されちゃえば?! と思えるようになったのです。2011年6月11日記 にほんブログ村
2013年03月06日

人間関係で衝突する場合、相手を敵(かたき)とする場合のほうが少ないと私は思う。相手は敵ではなく共同経営者、隣組の仲間、クラスの仲間みたいな場合のほうがずっと多いのではないかと思う。それでも関係がこじれたり、お互の主張がぶつかったりする場合、真剣をつきつけ、勝負して、相手の様子をみる。任せるところはサダメに任せ、また出番がきたら、勝負そんな感じを私は抱いている。こっちも土俵際だったらそうせざるを得ない。そういう時は寝耳に水、、、なんて相手をギョッと!させるようないいタイミングを見計らって攻めてみる。だってこっちも瀬戸際だからそういう手を使って自分の体制を立ち直さないといけないから。突き詰めたり、追い詰めたり相手の一番痛いところや、弱いところを”程々に”攻めるわけ。(やりすぎはいけません)でもそれは相手をコテンパンにするのが目的ではないの。あなたここが弱いのよ、ここを自分で認めないといけないのよ!それはそのまま私たちの弱点なの!って。治らないかもしれなけど、自覚して欲しいところ。じゃないと、こちらもそのとばっちりを受けて共倒れすることになるから。そしてその戦いで見定めたことが、今後の戦いのときの指標になっていくはず。それは相手を見定めることであり、自分の中の問題点をも見定めることであり・・・でも、なかなかこれがよく咀嚼できない、認められないのも事実。攻めている側も辛い部分がある。でも、これはやはりとても大切な事であり、これからの関係を改良していくために避けて通れない道であり、今後の喧嘩の仕方の材料になるはず。辛いけど、冷静にこの事実を受け止めて、今後の両者の幸福のために利用できればいいわけ。お互の目指すある結果のために利用する。そこまでするのは、運命共同体だから。同舟者だもん、一つの舟を一緒に漕いでいるから。その時に相手が舟を漕がないどころか、別の舟に見とれたり、別の舟に乗っている人との話に夢中になっていたりしたら、舟が壊れる前にバランスを崩して転覆する。そうじゃなくても、そんなことに懸想している相手にもう片方が愛想つかしたら舟を岸につけて下船していく・・・。共同体の相手との戦いは頭脳的、かつ冷静、、かつ理性的な戦い方であるべき。私がまだ戦おうとも思わなかったとき、息子がまだ小さいとき、戦えなかったとき誰もいないと、家の中で息子の玩具のボールを壁に思いっきり蹴っ飛ばして、鬱憤はらしてた、キチガイのように大声もあげた!!どこにも当てられない私の怒りの矛先がその行為だったの。今は空手があるからいい。空手が好き。そして私には必要。自分から諦めたら、負け!きっとどこかで私はそれを知っていたんだと思う。いつでも死ねるって思っていたけど、実はそうじゃない。うんと生きるの好きで、嫌いで、でも・・・自分を諦めたら、死んだら負けなの!!負けっていうか・・・負けを認めることもできない 惨めさがある。それはいやだ、負けを認められないような存在にだけはなりたくない。そこまでの心境に行き着いたときの行動を、サダメのオッサンはたとえ、負けて、丸裸から再スタートしても、その戦いっぷりを評価した道を用意しているのだと思う。負けは惨めじゃない。負けを認められないことが惨めだと私は思う。負けても何ども懲りない、懲りない、懲りない。勝負するの、髪振り乱して、もがきながら。そうすると、負け戦の中で、あるとき何かを学ぶ。物事によっては、何度戦っても負けざるを得なくて、結局、負けを認めるんだけど、道が開けるのはその後なの!不本意な生き方だと重々承知で、それに甘んじて日々を過ごすのは、生きていながら、死んでいるのと同じ。日々を重ねて行っても、無なの。何も重なっていかない。最後はどうして身がもったのかわからない。私の場合、いつも心がぶっこわれると、身体が死に損なう感じ。精神が飲み込まれると、身体も逝っちゃいそうになる。そして、それはある日突然訪れる。結構危険なハシゴであり、綱渡りで崖でもあるんだけどね・・・それでも私が戻ってこられたのは唯、唯 自分が一番欲していたものへの 執着 だった。その執着とは、私の心の闇(病み)の部分でもあったけれど、それでも私が、崖っぷちでもどうしても捨てられないほど執着しているものだった。結局それが、私に歯を食いしばって、この世に足を踏みしめさせる原動力になったわけ。なんのことはない、私って存在は、所詮そんな程度のものだった!!なんてことまでオマケに(サダメのクソジジイに)見せつけられて。でも私はそれを素直に認めようと思う。冷静に、客観的にみつめようと思う最後の最期は、それこそ私以外の人には 闇(病んでいるよ!)って事柄だったりする、私にとっての 執着 が、ここに足を踏みとどまらせてくれれば。それに価値があるか?とか、それはあなた変です、おかしいです、病んでます・・・・そんなこといってる場合じゃないじゃない?!一寸先は 死 っていう もっと大きな闇 なんだもの。 コメントはこちらへにほんブログ村
2013年03月05日

2010年末から2011年始めにかけて、 私の心が粉々に砕けて、 そこからなんとか立ち上がって、 冷静に自分の周囲の景色を見られるようになってから、 私は自分の本音(理性と感情が合一した言葉の場合)は、 無自覚に・無意識に ”まるで自分が言ってるんじゃない” みたいに言う事にした。 それこそ、それ (あなたにとって耳が痛い、意外なこと、あるいは場合によっては拷問に感じること) を口にしたって、私のプラスには全くならない(腹いせでもないし、 優越を感じるためでもない)ことだけど・・・ というスタンスで。 でもそれを私が口にするということは、切羽詰っているとか、 余程の(重要な)ことなのよ という感じで。 私は物事の成り行きの先がみえるから 私の”切羽詰っている”は、そのような(八方塞がりの)事態になるまでに まだ時間や期間があって、軌道修正可能な時期ではある。 余程のことっていうのは、もう誰が見ても、聞いても、 ”そう思うんじゃないの??” っていう私だけの意見や感想じゃないのでは? という、普遍性を持たせて言うことにした。 それこそ、ある部分でサダメの仮面を自主的にかぶっちゃうのかもしれない。 (私達は皆、ある意味サダメのコマとして、 この世界や社会やご近所、家庭という生活空間の中で、 自分以外の人間に影響を与えているコマのような存在として、 私は常日頃から感じているのだけれど) そして、それを知らせて相手が耳を傾けないとしたら もうしりません って思い切れるようになれる。 もちろん相手の反応は様々である。 そしてこちらも相手の反応の予想はつかない。 私も相手はこう反応してくるでしょう・・・なんてことを予測して こんなことしているんじゃないし、 私がそんなことを口にしようと思うのは、 その方に対する、私の思考・感情の方も切羽詰っているからだ。 ある部分でそこまで相手が見えるというのは、 私が相手と同化しているからだろうと私は思っている。 そして後から、風の噂でもなんでも その後、その人がエゴを押し通した結果 あるいはそれとは別の道を選んで、別の結果 を出したことを耳にしたり、目にすることは、 絶対に偶然でもなんでもないと私は思っている。 相手に伝わるかもしれない、、、っと思った場合、 私はできるだけ私が感じたことは、サダメの仮面を被って伝えることにしている。 なぜなら、 サダメのきっかけ(時に崖っぷちから谷底に真っ逆さまに堕ちるように、 あるいは雷が落とされるように恐ろしいこと)が、 実際にその人に落とされるよりも、 私みたい、今まで散々サダメとの組手で負けっぱなしで、雷落とされたけれど サダメの動きが予測できる人の口から その先にある結果を口にしてあげることは、 もしかしたらその人が別の選択をして、別の道を進み、 別の結果を引き寄せるチャンスを与えるのかもしれないから。 相手にしてみれば、なんでそんな残酷なことを 敢えて、この人は言うのか?するのか?なのだと思う。 それは当然であるとも私は思っている。 どうしてもここを曖昧にしたら、曖昧なままに 変な方向、その人が無自覚のうちに、不本意な結果に向かって行ってしまうのは ある意味当然ではないか? ということを私は伝える。 もちろんその人が不本意な結果を得ようとも、 それが悪いだなんて私は思ってはいない。 批判するつもりはない。 そこに善悪はない、それこそ答えなんかないのだから。 あるのは、いろんな方向へ向かう道の中から ある方向に向かう道を選んで私たちは人生を歩んでいるという事実だけ。 そして方向をともなうある道を選んで進んだら、 たとえそれが無自覚でも、自覚していても、進んで行ったら、 その道の先に続いている場所にしか到達しないし それは当然の結果ではないか? 多分これが 傍観者の定規 なんだと思う。 そしてこれは、徹底して傍観していないと見えてこない。 私ができることは、これを相手に伝えることのみ。 あとはサダメに任せる。 そしてこのことを伝えることは、 冷たいように見えるけど、実は本当に相手のことを よく見定めないとできないことでもある。 一見、慈愛あふれ、優しい、思いやりの情けのようなものでも、 その先でその人に悪い結果を導くような 情け を遮断しなければいけないから。 当然のごとく、この点において私は他から理解されない。 非情の人のように誤解されることがよくある。 誤解されて腹が立つことは多いけれど、主観で腹を立てるわけにはいかない。腹を立てているとしたら、私の真意が伝わらないことに対して。(私が腹を立てると、相手は私が腹を立てているのはわかるけれど、 なぜ腹を立てているのか全く理解しないどころか、大きな勘違いをする。) 上から目線だと思われても仕方がない。 なぜなら私はサダメの仮面を被っているから! でもどう考えてもおかしい? というところは譲ってはいけないし、 サダメの仮面をかぶり、相手にも主張しなければいけない。 それは、 無意識だったサダメに与えられたあるコマとしての役割を、 自主的に演ずる感じなんだろう っと思う。 でも、これは決して奢りでもなんでもない と私は思っている。 上から目線どころか、私はサダメの鬼コーチーに ビシバシしごかれて 日々過ごしているから とても、とても大きな顔なんかできるわけがない。 ここ数年の私は、自分がどうしても言わないといけないことは 夫を通じて、あるいは今はこの人に言うべきだと感じたら 義両親でも義姉妹でも、言えるようになった。 もう恐れない。 こういったら、こう思われるとか、 私一人になっちゃうとかいう 私がこれまでずっと、 この結婚生活の足場にしていたものにしがみつく・・・・ そういう想いが、なくなった。 そして大胆になれた。 今もその気持ちは変わらないし、 この言動で、夫が私を見捨てるとも思わなくなった。 だって私はこれを ” 単なるエゴ ”で言ってるわけじゃないから。 喧嘩をふっかけるためでも 関係を乱したいからでもないから。 そう自信をもって言えるために、 いつも私は、あっぷっぷ・・・ サダメのオッサンとにらめっこしているんだもの。 コメントはこちらへにほんブログ村
2013年03月02日
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