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※鈴木製塩所について、明治42年3月7日に「実業之日本」都倉義一氏らが視察し、「世界無比の機械製塩を視る記」を寄稿している。(「黎明日本の一開拓者」309~320頁)
「鈴木藤三郎伝」では、この「世界無比の機械製塩を視る記」を分りやすく記述しているが、最後の「 氏は何故大胆に40万円の試験費を投じたるか 」については省略している。この最後の章で注目されるのは、巨額の資金を投じた理由であり、鈴木藤三郎の事業家としての信念が述べられている。
「私が事業を創始する場合、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の歌に
仮の身をもとの主に貸し渡し民安かれと願ふこの身ぞ
というのがある。これは翁の根本主義を説明したもので、翁すなわち神という大抱負を示したものである。また翁の歌に
世の中に人の捨てざるなきものを拾ひ集めて民に与へん
というのがある。ある人は「捨てざるなきもの」というのが偉い。「捨てたるものを拾ふ」といえば、何人もするが、「捨てざるなきものを拾ふ」というのは、なかなかできがたいものであると言ったものがある。私はこれにならって
世の中の人の捨てざるなき業を開きはじめて国に報いん
と詠んだことがある。翁は「なきもの」といわれ、あらゆる事物に通じた意味を示されているが、私は「業」と事業だけの狭い意味にした。世人が捨ててはいない事業を開拓し改良して、少しでも国家に益したいという微意を現したものである。 したがっていったん見込みをつけた事業に向っては、40万円でも50万円でも必要に応じて投じることを厭わない。いやしくも国家のためになるべき事業であれば、資産はもちろん、借金してまでもやる覚悟である。その代わり、この事業で利益を得なければならないとか、損をしてはならないなどということを考えない。損得はまったく別にし、事業にかかっては鉄砲玉のごとく前進する。人は事業を計画する場合利益の割合を目安とする。私は利益の有無を眼中に置かない。事業が成るかどうかを主眼としているのである。」 鈴木藤三郎氏はこの決心で事業を創始し、経営した。人が捨てたものでない、しかし現在はない事業を興して国に報いようというのが、近代日本において産業革命を自らの使命とした鈴木藤三郎の事業家としての信念であったのである。
「 世界無比の機械製塩を視る記」
○
天命を信じて経営せる醤油と製塩
常磐線の泉停車場から東北に向うた馬車は、約三十町を馳せて鈴木藤三郎氏の製塩所に着いた。
甘い世渡りさらりと止めて 辛(から)いつとめも国の為め
という賛がある。傍らに小文字で明治39年8月、自画自賛としてある。鈴木氏の戯筆に成ったものである。
氏はこれを説明していう、
『私が製塩機械の発明を思い立ったのは明治36年の5月、醤油醸造を思い立ったのは翌37年の春、日露戦端を交えんとしていた時で、その間僅かに半年の差に過ぎぬ。最初は製塩の方が早く完成すると思っていたが、実際は醤油が早く進行し39年8月に試験も完成し、事業として経営し得るに至った。
ちょうどこの時、日本精製糖会社の騒ぎが持ち上がり、私は社長を辞し、暫く煩いをこの地に避けていた。当時精製糖事業は基礎既に成り、何人が局に当るにしてもその経営を踏襲しさえすれば大過なくなっていたが、醤油は僅かに発芽せんとしたもので、今これを投げ出せばこれを継承して大成してくれるものがない。精製糖会社の騒ぎと醤油の試験が同時に完成したのは、要するに天が私に醤油を大成せよと命ぜられたのであろう。天命であると信じたので、断乎(だんこ)として辛(から)い醤油事業に従事することを決心し、折柄留任勧告に来られた人々にこの絵を画いて決心を告げたことがある。支配人がこれを保存して置き、その後額に仕立てたので、私の精神はこの時から牢(かた)く定まっていた。』
○ 現在設備の30倍にさるべき大計画
一杯の苦茗(くめい:苦いお茶)を味うた一行は、鈴木氏と支配人の案内で工場に向うた。レンガの大建築、高く積み重ねた枝条の間を過ぎて、清き浜辺に出た。
太平洋の怒涛は鼕々(とうとう)として白沫を漾(ただよ)わしている。大海の壮観は遺憾なく双眸の間に収まる。左手には小名浜の町が見える。右手は一帯の白砂が一列の青松を帯びて遠く数十町にわたり、遥かに削立したような岬に接している。鈴木氏は説明していう、
『これから彼の岬までは約30町ある。浜辺の官有地は前年仮払下げを乞い、明年は払下げを受けることになり、浜辺に沿うた民有地も既に買収が済んでいる。製塩の試験も完成したので、今後事業として経営するには単にこの敷地に工場を建築し、機械を据え付ければいい。而して地積は、現在の設備に30倍までは拡張され得る予定である。』
官民有地の買収は低廉であろう。しかしその発明の機械は世界無比の斬新なるものである。たとい自身に充分の成算あったとしても、未試験の事業である。他日いかになり行くか予知することができない。その事業に向ってかかる大地積の権利を買収するというは、氏がいかに自信に富んでいるかを示す良証である。この一事は、鈴木氏の事業的自信力と計画の遠大さを示すに足るであろう。
○ 氏は何故に製塩所をここの地に選びたるか
鈴木氏がこの大地積の権利を収める前、東京をへだてる120マイルのこの地を選んで製塩所としたについて種々の理由がある。けだし
1 常磐線に沿うた太平洋沿岸の海水は、瀬戸内海に比ぶると概して濃厚である。又
2 この地方には石炭の産出が豊富であるから燃料が低廉にかつ便利に供給される。
3 氏は沿岸18里を踏査し、小名浜のごとく南面して湾入した所が一ヶ所もなかったという。南面しているから乾燥が速い。
4 鈴木式の装置は風力を利用するのであるが、小名浜付近は平野遠く開けて西北方が遠く連山で囲まれている。風は連山を過ぎて乾燥しているから、製塩地として常磐線の沿道中他に比すべきものがない。
5 水産試験場の調査によると、小名浜は全国で晴の最も多い地方であるという。現に余が視察した前後は東京では曇天であったが、同地は常に快晴であった。
これらの理由は、鈴木氏をして製塩所をこの地に選らばしめたのである。
○ 海水は如何にして取り入れられるか
一行は先ず浜辺に出て海水を導入する装置のある所に案内された。一帯の砂浜に井戸形をしたものが34か所と、波浪の洶湧(きょうゆう:波が立ち騒ぐさま)している間にまた赤塗した鉄管のごときものが2,3見える。この井戸形と鉄筒のある所を通じて鉄管が砂中に埋設してある。干潮には赤塗鉄筒のある付近は、自ら露出するという。今は満潮で鉄管は見えないが、白沫湧く所、赤塗と対照して美観であった。
満潮の海水は、干潮の時よりも塩分に富んでいる。この比重の重い海水は満潮の時、勢い鋭く、海中に突出した鉄管に打ちこまれ、37間の鉄管を過ぎ、100余間の土管を通って貯水池に送られる。支配人が井戸形をしたものの蓋を押し開けると、海中に通ずる鉄管と貯水池に達する土管との両端は、経3尺ばかりの井戸を中央にしてその大口を開けている。井戸は深く掘られて、海水が漫々としてただようている。これが砂取タンクというのである。
導水管の先端には砂除けの装置がない。海水と共に打ち込まれた砂は、鉄管内を埋める虞がある。この設備をしておけば水と共に送られた砂は、このタンク中に沈んでしまう。3,4か所のタンクを過ぎると、海水は全く砂を混ぜなくなる。これが、この設備を設けた所以である。しかし従来の経験に出ると、砂はほとんど鉄管に打ち込まれぬという。
最初導水の管を敷設する時、地下は掘れども掘れども砂ばかりである。いかに深く掘って埋設しても、少し荒れるとすぐに破壊される。また土管も継ぎ目から真水が浸入したり、圧力で破損したこともあるという。一条の導水管に過ぎぬが、埋設して今日の状に至るまでは、種々な隠れた苦心が含まれている。
○ 海水は如何にして蒸発せしむるか
一行は逆に戻ると、竹または萩の束を高く積み重ねたものがある。海水が常に滴々としてその間を落ち飛沫が霧のごとく散る。余らはその間を潜り、案内に従い3階のハシゴを50間の高さに昇る。長さ60間、幅4間の広い運動場のごとき所に出る。脚下を見ると、気味が悪いくらいに高い。眼を放つと小名浜一帯の風光が双眸に収まる。
中央に長く樋が通じている。貯水池からポンプで押し上げられた海水は、この樋を流れている。中央の樋から左右に(-にX)形をした小樋が幾個となく設けられ、樋の底にある栓の作用で海水の滴下量を加減する。滴った海水は、脚下に積み重ねた枝条の間を伝わりながら最下の床に落ち、集って次の装置に送られる。海水は滴下する間に乾燥した風で蒸発し、非常に塩分に富んだ濃厚の水となる。従ってこの装置の為には乾燥した強風が必要である。(鈴木式風力採から装置、特許第9139号 鈴木五郎氏注)
積み重ねた枝条は最初竹の枝を束ねたものを用いたが、何分一列を積上げるに3尺1,200束を要し、付近に竹の枝の供給が乏しくなったので、今は萩の枝を用いている。枝条は最初ジグザクのごとくしたが、水の滴下が十分でないため、別にその間に枝条を積み加え、上にある樋の直下に当るようにし、でき得る限り水の滴下を多方面にし蒸発面を多くし、乾燥量を多からしめた。
(続く)補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.17
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.16
「報徳産業革命の人 報徳社徒 鈴木藤三郎… 2025.11.15