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2025.11.17
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 240ページ

 明治38年3月30日に、五男の十郎が生まれた。この年には、また、前述のように福島県岩城郡小名浜に鈴木製塩所を設立した。そして低圧蒸発缶、多管内自働掃除装置、永久製塩装置、風力採から装置など、すべて製塩に関するものばかり14件を発明して特許を得た。

 明治39年(1906年)は、日露戦役大勝の余勢で、わが国の産業革命も一大飛躍を遂げた年であるが、藤三郎にとっても、その運命に一大方向転換を与えた年であった。

 藤三郎は明治22年(1889年)6月に、33歳で郷里の静岡県森町から東京の小名木川岸に工場を移して、鈴木製糖所と名づけた。それを明治29年(1896年)1月に資本金30万円の日本精製糖株式会社と組織を改め、その後、次第に増資して、明治38年(1905年)1月には、資本金400万円のわが国第一の精製糖会社にまで発展したのである。

※蘭領爪哇嶋(オランダ領ジャワ島)旅行記 

日本精製糖株式会社創立者 報徳社員 鈴木藤三郎 農談100号 1900年7月

(一部漢字をひらかな化するなどして、読みやすくした。)

 編者言う。本編は鈴木氏が帰朝の当時その親友の請いに応じ演説された中の一節で、特に本協会に寄せられたものである。今、氏が履歴中編者が知るところの一斑を左に序し読者をして氏が不世出の卓見を以て艱難辛苦をなめ百折不撓の精神を全うせし結果、今日あるに至りたる所以を知らしめ、氏が熱血、凝って遂に今回の探検を全うせし事を明らかにせん。氏は安政2年を以て遠江国周智郡森町太田某(文四郎、通称平助)家に生まれ、少(おさの)うして同町鈴木某(伊三郎)の子となり、その姓を襲(おそ)う。鈴木家、素菓子製造を以て業とす。氏、幼より、穎悟(えいご:才知がすぐれていること)大志あり。家もと富めるにあらざれば充分なる教育を受けたるにあらざれば、蛍雪の苦を積みて普通の学を修め報徳学を尊信し、これを新村豊作(新村有功員の父なり)岡田良一郎氏に学び、勤倹報徳の旨を固守し、得るところ甚だ多しという。

たまたま野州桜町に二宮翁の碑成る《1882(明15)10月二宮尊徳27回忌法会》、よって有志とともにこれに臨み、翁が事業の蹟を実見し、慨然として、大いに経世の志を立て、帰路宇都宮に宿し《稲屋》、隣室に学生の理化学の討論を為すあり。試みにこれを聞けば、図らざりき、かつて志すところのところの氷砂糖製造法についての学論なれば、意豁然として得るところ多し。帰宅後、専心一意に考慮を凝らし縷々試験をなしけるに意の如くならざりければ、友人猪原吉次郎氏(医学士猪原吉郎氏の弟)が東京工部大学校に学生たりし時、上京して、同氏の研究せる業を見るを楽しみとして幇助を与えし事も少なざりしが、明治16年の春、遂に無色透明なる氷砂糖を創製するを得たり。これ我が国において無色透明なる氷砂糖を製するの始めなれば、氏が喜び譬うるに物なく、多年苦辛の甲斐有りというべき。氏はまずこれを東京虎の門なる猪原氏に贈りたれば、猪原氏はこれを学校に持ち行きたれば、一時校内の大評判となり、なかにもお雇教師アメリカ人某は大いに賞賛せられ、かくのごとき良品は本国にもいまだ見ざるところなればとてその国へ送られたりしとぞ。然りといえども、収支の計算あい償わざりしかば、一方には生産の費用を減じ、一方には売先を拡張する工夫をめぐらし、東京の砂糖問屋へ見本として、積み出したるも、何分事の創始に際し、いまだ信用厚からず、販路広からざれば思わしからず、かつ研究に貧財を残りなく費消しつくして無一物となり、製造に従事する事あたわざるの苦境に陥れり。ここに至りて、策の出ずべきなく、同町の出ずべきなく、同町の豪家福川泉吾氏が義侠心に富むをたのみ、一伍一汁(いちごいちじゅう:始めから終りまで)を説いて資本を借らんを乞いたりしに、福川氏快く承諾して資本を借しければ、16年の秋、森町に一工場を創設して製造に着手せしに、追々世間の好評を博し、価も福州産チリまじりなる黄褐色の氷砂糖よりは一割ないし二割も低廉に販売するヲ得たりしかば、需用の増加するに随い模造品も出て来たりしが皆久しからず失敗せり。氏思えらく、氷砂糖の結晶は我が意のごとく運びたるが、いつまでも香港製の白砂糖を使用し氷砂糖を製造してあらんには、いたずらに輸入増加を来すのみ。しかじ、方針を改めて粗製糖の精製に従事せんにはと、これより氷砂糖製造工場内に少部の精製糖試験場を設け、かたわら製糖に有益なる書類を求め、欧米の製法を実験せり。21年末に至り、ようやく若干の資本を積み得たれば、東京府下か小名木川に地を卜し、工場を建設して規模を広めることを得。かたわら小工場をも設立して諸種の小機械の注文を引受けてこれを製作するかたわら、製糖機械の改良を研究して大いに得るところあり。23年には北海道におもむき、テンサイ糖製造の実況を視察し、帰京の後、多年の苦辛にて己れが胸にたくわえたる製法にテンサイ製糖の一要部を折衷し、遂に粗糖精製の方法を案出したり。これにおいて翌24年中自己の考案に係る粗糖精製の機械を据え付け、いよいよ営業的の製造に着手せしが何分収支の点において償わざりしが、たわまず屈せずますます研究に怠らざりければ26年の末に至りて、苦辛むなしからず終に黒砂糖を原料として舶来糖に劣らざる再製糖を精製し得て収支もまた償うに至れり。同氏の喜び知るべきのみ。然るに不幸なるかな、27年3月20日工場、火を失して器械材料ことごとく灰燼に帰し、辛うじて居宅のみ災を免れたりしかば、一時は途方に暮れたりしか、さていつまでもかくてあるべきにあらねば、かねて交際ある長尾三十郎氏に謀りしが、氏快く資金運転の道を開き、直に工場の再建に着手し、器械をも改良し、その年の8,9月頃より引続き精製糖の製造なしつつあり、その後組織を改め、資本金30万株数、6,000株の株式会社として、28年10月1日許可を得たり。後幾千もなく拡張し資本金30万円を増し60万円となし、氏は常にその重役たり。今回の行や、至るところ、つぶさに調査をなし、その記録数巻をなしたり。また氏は絵画をよくし、ことに肖像画に巧みなれば、至るところ、風景面語する人多く抽きて記録中にありという。






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最終更新日  2025.11.17 05:40:05


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