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2025.11.17
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カテゴリ: 報徳記を読む
二宮翁夜話巻之1

「孟子はやさしいが、中庸は難しい」と。
尊徳先生はこうおっしゃった。
「私は、文字の事はしらないが、これを実地正業に移して考える時は、孟子は難しく、中庸はやさしい。
なぜかといえば、孟子の時代には、道は行われず、異端の説が盛んであった。
だからその弁明をするため、道を開いたのだ。
従って仁義を説いて、結局仁義そのものの実践からは遠ざかっている。
あなたたちがが孟子をやさしいといって孟子を好むのは、自分の心に合うためだ。
あなたたちが学問する心は、仁義を行おうとするために学んでいるのではない、
道を実践するために修行しているのではない。
ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それだけで学問の道は足りるとしている。
議論が達者で、人を言い負かしさえすれば、それだけで儒者の勤めは果たしたと思っている。
聖人の道というものが、どうしてそのようなものだろうか。
聖人の道は仁を勤めることにある。
五倫五常を行うにある。
どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。
人を言い負かすことをもって勤めとしようか。
孟子はすなわちこれである。
このようなことを聖人の道とする時は大変に難道である。容易には実行しがたい。
だから孟子は難しいというのだ。
中庸は通常・平易の道であって、 一歩より二歩、三歩と行くように、近きより遠きに及んで、低い所から高いところに登り、小より大に至る道であって、誠に行いやすい。
たとえば100石の収入の者が、勤倹を勤めて、50石で暮し、50石を譲って、国益を勤めることは、誠に行いやすい。愚夫・愚婦にもできない事はない。
この道を行えば、学ばないでも、仁であり、義である。
忠であり、孝である。
神の道、聖人の道が一挙に行われるであろう。
とても行いやすい道である。
だから中庸というのだ。
私が人に教えるのに、私の道は分限を守るをもって本とし、分内を譲るをもって仁とする と教える。
なんと中庸であって、行いやすい道ではないか。



□二宮先生語録【204】程子が孔子と孟子とを比較して、玉と氷とになぞらえたのは、至当と言うべきだ。
孔子が衛の霊公に答えた言葉(1)と孟子が梁(りょう)の恵王に答えた言葉とを比較すれば、玉と氷との区別がはっきりとわかる。
(1) 論語、衛霊公篇に、「衛の霊公、陣を孔子に問う。孔子こたえて曰く、『爼豆(そとう)の事は即ちかつてこれを聞けるも、軍旅の事は未だこれを学ばざるなり。』と。明くる日遂にさる。』とある。
 すなわち孔子は、ひたすら仁の本質を説き、王に行わせようとして、できなかったのである。
(2) 孟子が梁恵王上篇に、「孟子こたえていわく、『王、戦を好む。請う、戦をもって喩(たと)えん。テン然(てんぜん)として鼓うち、兵刃すでに接す。甲を棄て兵をすててにげ、あるものは百歩にして後とどまり、あるものは五十歩にして後とどまる。五十歩をもって百歩を笑わば即ち如何』と。いわく『不可なり。ただ百歩ならざりしのみ。これまた逃げたるなり』と。いわく、『王もしこれを知らば、即ち民の隣国より多からんことを望むなかれ。』と。」
 すなわち孟子は、仁政とかけはなれた戦争のことなどを談じてでも相手を説破すればよいとした。孟子は弁論の士に過ぎなかったと先生は見られる。(佐々井典比古氏評)

■報徳秘稿【612】先生は横山氏(宇津家家臣横山周平)に言われた。
「あなたは「孟子」を見てはならない。孟子は悪人を防いで善人にならせるために説く。だからその説は劣っている。あなたは、孟子のような世話にはならない生れつきの性質を備えている。





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最終更新日  2025.11.17 06:58:23


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