ここらでちょっと途中下車

ここらでちょっと途中下車

2013.02.26
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カテゴリ: 懐かしい昔のこと


共働きの私たちは、4才の息子のことが気がかりだった。
保育所の間はいいけれど、小学校に入るとお昼に帰る。
子どもが学校から帰ったら、実家に歩いて行ける距離に、
20代の薄給の私たちが買ったのは、
2戸1の小さな家。
うちの周辺は、第一種住居専用の風致地区。
隣の家との境界線から1m以上空けて、
建ぺい率(敷地面積に対する建築面積の割合)60%の
条件を満たすように、凹型にして、
一間の風呂の壁だけを共有するように建てられた家だった。
くっついた隣の家には、息子と同じ年の男の子と、
4歳上の女の子がいて、仲良くさせてもらった。
でも2年後に転勤。
「うちの家、買う?」と聞かれたけれど、
とてもそんな余裕はなかった。

隣の家は、食品会社が買い取り、社宅になった。
最初は、若い夫婦が住んでいたけれど、
1年ぐらいで転勤し、
その後男性社員が住んだけれど、
私たちの勤めているし、交流はなかった。
その後バブルの時代が来て、
関空ができる前の大阪南部の不動産は異常な高値になった。
そのうち、隣は誰も住まなくなり、
時々、神戸に家があると言う社長さんが泊まるぐらい。

だんだん子どもたちも大きくなってきて、
男の子と女の子なので個室を欲しがるし、
3DKの家では、狭くなってきた。
隣の家は、ほとんど留守で、庭の草も伸び放題。
不用心なので、ついでに隣の庭も掃除するようになった。
バブルがはじけ、価格も落ち着いてきたので、
何度か、時々来る社長さんに、売ってくれないか聞いてみた。
でも、いつもとんでもない金額を言われる。
時々来るとき、奥さんじゃない女の人と連れてきて、
逢引のための家にしているような感じだった。

40坪弱の土地だけれど、山地を削っているので、
斜面の法面があり、実質は30坪ほどの土地で、
建て直すことは難しいし、
2戸1で、売って買い替えるのも難しい。
私が、隣の市に転勤した1990年。
忙しい学校で、毎日私の帰りが遅くなり、
夕飯も不規則に。
その年の7月、ダンナは胃潰瘍から胃穿孔を起こし、
胃の3分の2を切除する手術をした。
手術後、腸が癒着し、何度も腸閉塞を起こし、
その後5年間は、最悪の日々。
そして、1995年、3月、父も亡くなった。






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最終更新日  2013.02.27 10:28:15
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