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ハイキングで歩いたr50を嵐山に向かいます。バイクだとすぐにトンネル、またすぐに「トロッコ保津川駅」でした。吊り橋を渡って対岸の駅に行ってみました。時間が早すぎて、保津川下りの川船も走っていませんし、それを撮る写真屋さんもいません。でも駅の狸の置物は健在です。だあれもいない吊り橋で、ほんの少し揺れる吊り橋を怖がってた姪の顔が浮かんできました。開店前の吊り橋袂の売店でおふくろと休憩したっけ・・・翌年のお盆はまたみんなで清和源氏ゆかりの「万願寺」からハイキングしたけど、その12月におふくろも神に召されてしまいました。う~ん、次のハイキングルートも案を練ってたのになあ。残念です。保津川に沿って南下し、「六丁峠」を越えて嵯峨野側に下りました。この峠の保津峡側は、かなりの斜度で急なカーブでした。こかさんようにローとセカンドでゆっくり上りましたが、軽快に自転車が下っていきました。「夫婦で自転車・亀岡~嵐山編」を考えています。僕ら夫婦なら、この坂はもちろん歩きですね。でもそれも楽しそうです。去年夏に、長男夫婦と僕ら夫婦で歩いた嵯峨野の石畳道をバイクで下ります。8時からは通行禁止だけど、まだ余裕があります。R162・周山街道に向けて、r29を東進すると、「大覚寺」案内板、そして「広沢池」の横に出ました。風がないので、水面が水鏡になって、対岸の山が綺麗に写っています。「R162・周山街道」に乗りました。これで一気に日本海の福井県小浜まで北上します。バイク通行不可の「嵐山高雄パークウェイ」が合流すると、清滝川に沿って感じのいい道が続きます。でも交通量が少し多いな。いくつかトンネルを経て、交通量が減ってくると、交差点の右手にちらりと神社が見えました。僕の心をくすぐったので寄り道しました。集会所の横に、火の見櫓と鐘があります。小川(清滝川の上流かな?)を渡ると「岩戸落葉神社」がありました。素敵な名前です。大銀杏の木があったので、秋の落葉が綺麗なんでしょうか?覆い屋の上にも樹の根元にも雪が残っています。手水場の水は凍ってるし。京都市街地から30分も走っていないのに、ここはまだこんなに冬です。狛犬さんが珍しい形です。いつものように高速車に道を譲りながら、順調に北上します。峠に差し掛かると路肩に雪が増えおっかなくなりますが、見慣れた周山の盆地に下りてくることが出来ました。R477との交差点「ウッディー京北」を通りすぎると、伸びやかな道になりました。同じくここの交差点から桂川に沿って東進するR477同様な道です。山岳道を走ってきた後だから、気持ちもゆるみとても気持ちがいいです。穀物経済時代は、山に囲まれながらも、ここらも豊かな集落だったのでしょう。また山岳道になってきました。路肩に雪が増え、ここでこんなんじゃ小浜までバイクで行けるのか不安になってきました。ちょうどそんな所に、あのウッディハウスが出現。何度か前を通り、気になっていた喫茶店です。開いてそうなので、店内の窓から見える路肩にバイクを停めました。中から会釈されたような。店内に入り、「何か食べる物がありますか?」と声をかけると、気さくな店主さんが、「バイクは、今日2人目やわ。さっき女性の方が、小浜に向かって出て行ったよ」みたいな話をしてくれました。「カレーをください」「特大?大?並?」。僕のお腹はもう並でいいカロリー消費になっていますので、並を注文です。お客さんが僕1人ということもあり、店主さんと2人の女性の方と楽しい会話になりました。「もう4月なので、まさか雪が降っているとは思いませんでした」「ここは地獄の1丁目やからなあ」この店主さん、元木こりで、ログハウスの展示場としてここに建て、喫茶店を開いたらお客さんが増え、こっちが本業になったのだとか。元本業は弟さんがやってて「カモノセログ」というらしい。カモノセログって、いつも見かけるあそこですね。目の前のグッズに「カモノセキャビン」と入ってるのに気づきました。時々、バイク乗りさんの話題に載ってるのはここかと気づきました。もっと手前にあると思っていました。ここは山の中の一軒家です。でも不安になってきたちょうどそこにある立地は、バイク乗りが寄る最高の立地ですね。学食のように特大まであるカレーも、若いバイク乗り男子を惹きつけそうです。でも一番は、店主さんの気さくな人柄が魅力です。僕より5才ほど年上で、お子さんやお孫さんの話も出ました。「次は奥さんとおいでよ」って、絵葉書をもらいました。
2011/03/31
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昨夜は、11時半を回っての帰宅でした。仕事のPCなどの更新で、業務終了後ゴソゴソやってました。ヘルプに来た2人と機器の撤去・設置、掃除機・雑巾で綺麗に・・・、データ移行、ネット回線チェック・・・、使用方法の最終確認・・・、今日の業務に支障がないようにしとかないとね。これで、僕の仕事場も家内のとこと同様のバージョンにアップしました。インターネットセキュリティが向上したので、今までの電話回線データ交換からインターネット回線利用に進化しました。でも、こっちのPCは今まで同様、ホームページを見るとかメールをやり取りするとかはしません。ウイルスが入ると、仕事に大きく影響します。OSが、リナックスからウィンドウズ7になりました。そんなことをしながら話してると、今まで声だけしかしらなかった若手社員君はバイクに乗ってることがわかりました。ヤマハのR1(1000cc)に乗ってて、今は逆輸入車のR6(600cc)に乗ってるとのこと。バリバリのレーサーレプリカモデルです。600ccなのに、僕の250cc150kgより少し重いだけの180kgしかない。僕の数倍の動力性能があるから、くしゃみしてアクセルが少し動くだけで、グーンと前に飛び出すそうです。今はサーキットとかに走りに行くそうだけど、R1の時は高速が楽チンなので、九州とかにもちょいちょい行ってたそうです。う~ん、膝を擦って高速でカーブを曲がるあれですね。昨夜はもちろん家内は夢の中だったので、今朝昨日の二輪教習のことを話しました。第2段階に入り、第1段階と打って変わり順調に実技をこなしていたので、上手くいくと第2段階みきわめ合格かなと、教習に臨んだそうです。ところがです・・・先生の後ろを走るトレイン走行中、オーバーランして壁に突っ込んだんだとか。クッションのあるところだったので、どもこ痛まなかったそうですが、みきわめ合格には至らなかったそうです。コケなかったので、バイクも傷んでないとのこと。「今頃、壁に突っ込んで~」って先生に呆れられてるわぁ~とか、笑ってました。ぐふ、可愛い。多分、僕が見た第1回目教習以来の壁ツッコミです。「ウインカーね、出したり消したり忙しいでしょ~。先生の後ろを走るときは、先生が出したら出して、消したら消してるから、1人じゃ忘れちゃうし。お父さんの後ろを走るときも、お父さんの真似するだけだからね」って。ぐふ。各種課題もそれなりにこなせるようになり、実技はとても楽しいそうです。僕もそうでした。最初、原付50ccの二段階右折でお縄になったので、二段階右折しなくてもいい二種原付に乗り換えるために教習所に通い始めましたが、教習があまりにたのしく、もっと大きなギアバイクを買おうと思うようになっていました。家内の教習所生活は、座学課程はほぼ終了らしいですが、実技はもうしばらく続きそうです。
2011/03/30
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カラー舗装商店街な八木R477を過ぎ、桂川を渡って山岳地帯に入っていきます。道が細くなり、ちょっとウキウキ。「廻り田池」まで行かず、途中で「越畑」に抜ける道を通ってみました。新道なんですが急です。「越畑」からr50に乗り、「JR保津峡駅」に向かって南進します。この道がこの日一番過酷な道でした。いきなり路肩に雪です。木々にも雪が乗っており、数日内にたくさん雪が降った形跡です。1車線上り道ワインディングなので、慎重に走ります。路面は適当に荒れてるので、一面の凍結路にはならなさそうですが、全面雪道になってもおかしくない路肩の残雪です。交通量はなく、傾斜は緩やかですがまだ登るので、雪の増加が心配です。「おっ、峠を越えたかな?」もう高度が上がらないので安心ですが、下りこそ慎重にならないと・・・それに雪道になったら、Uターンも厳しい道幅ですし。「桂川」から名を変えた「保津川」に向かって下る林道がありましたが、門が塞がり通行止めです。でしょうね。この雪じゃ、どんな道になってるか想像がつきます。西側の視界がひらけ、谷を隔てた対岸の山や谷筋が雄大に見えます。柚子の産地なので柚子の木が谷に向かってたくさん植えられています。桜が咲いています。我が家の近所はまだなんだけど、種類が違うのかな?我が家の柚子は、3月に入って、みんな小鳥に食べられて実がなくなっていますが、ここの柚子はまだ成っています。写真撮って少し下ると、「清和天皇陵」の案内板が立っていました。また停車して少々探索。道中はまだ長いので天皇陵までは行きませんでしたが、行ってみたいところです。でもこんな道、車で来るのは命がけです。後の時代、武士の時代幕府を開いたのは、全部この天皇の末・清和源氏流れです。ここから人家が見え出し、初めての対向車ともすれ違いました。ハイカー数組と対抗すると、見覚えのある「JR保津峡駅」の赤橋になりました。その少し手前に、保津川沿いを亀岡と結ぶ道への分岐を発見しました。未舗装部分もあるようですが、自転車で走破したい道です。「JR保津峡駅」に寄ってみました。駅前ロータリーにマイクロバスが1台待っています。時刻表もあり、バスには「水尾自治会」となっていたので、水尾の旅館や散策に向かうお客さんの送迎バスのようです。駅に入ると、ハイカーなおじさんが写真を撮っています。ここで下車したのでしょう。無人駅なのでホームに上がって写真をパチリ。駅には、「ラフティングのお客さんは、水気を拭いてから電車に乗ってね」と書いてありました。ロータリーに戻って保津川の流れを見ていると、通過電車。さらに亀岡方面に向かう各駅停車が、橋脚上のホームに停まりました。橋脚上の駅なんて珍しいと思います。桂川を渡る部分だけがお日様を拝め、嵐山側も亀岡側もいきなりトンネルです。親父が亡くなった最初のお盆に、お墓参り後おふくろと僕ら家族・弟家族の9名でこの駅に降りたのが懐かしいです。あの時は、清滝までハイキングしました。河原でお弁当を食べた楽しい思い出です。
2011/03/29
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日曜日は、コーチしてる大学ヨット部の卒業式です。俗にいう「追い出しコンパ」というもので、また挨拶を頼まれています。午後6時・京都です。毎年土曜日だったので、仕事場から電車参加でしたが、今回は何でいこう?家内はお出かけですから、1人遊び出来ます。バイクで和歌山ヨット仲間宅訪問案も浮かびましたが、近畿南部から近畿北部のルートもまとまりがないので、近畿北部探索・京都入りにしました。去年の梅雨時崩れたR477が直ったらしいので、R477経由で亀岡まで北上。R477東進、坂腰からr50で水尾経由嵐山、周山街道で日本海・福井県小浜まで北上、琵琶湖北西岸マキノまで東進、マキノでメタセコイヤ並木初見参、湖西岸を南下、近江高島から安曇川沿いを西進し、鯖街道を大原経由京都入りという長大なルートにしました。でも350kmしかなく、備中探索より短いです。朝4時台に目が覚めました。PCでのルート検索では10時間弱なので、休憩入れて11時間。朝8時までに出発すればいいです。5時半に家を出ることが出来ました。2時間半の余裕は大きいです。いつものようにr13・r12・R173、「一の鳥居」からR477に入りました。冬になりバイクで北に上がるのは自重していたので、R477も久しぶりな感じがします。「妙見山ケーブル」を過ぎ、崩壊現場を通過しました。崖が崩れて道が塞がれたのではなく、道が谷側に崩れたようです。「ほほう」と思いながら通過すると、「あれっ?」こんな道あったっけ?な綺麗な道に入りました。ずっと工事してた細い「地黄」地区を迂回するバイパスが完成していました。能勢氏の丸山城址の山のすぐ横を通ります。朝も早いので、気持のいい快走で来ましたが、何か舞ってる。なんと雪が降って来ました。あと数日で4月なので、いくら北部に行くと言っても雪はノーマークでした。篠山側に下りR372を西進。完璧冬装備で2重に履いてる靴下でも、足先が冷たいです。R372をすぐに右折して、r73で千代川に向かいます。京都縦貫道手前で左折し、R9を経由せずにR477八木に入るルートを考えていましたが、左折道があまりに貧弱なので通りすぎてしまいました。縦貫道まで来て、「さっきの道だったんだ」と気づきましたが、Uターンは面倒なので、縦貫道側道を北上しました。でもこの道は、通行止め未舗装道で途切れていました。「あちゃ~」とUターン作業に入ると、良さ気な神社が目に入りました。寄り道です。溜池があり、その護岸の一部が石垣になっており、そこに神社があります。背後の小高い山に向かって階段の参道が伸び、この位置だと、桂川の恵みを受ける八木の集落を眼下に見下ろせます。有事には陣屋にもなりそうですし、豪族の住まいだったかもしれません。源氏の守り神「八幡神社(拝田甲岩)」となっていました。謂れによると、奈良時代に蝦夷遠征したこの地の拝田(多分豪族)という方が、凱旋帰国後、戦勝祈願の約束通りここ「甲岩」に作ったとされています。「拝田甲岩」という地名の謂れにも興味が惹かれます。ミスルートしてまたいい神社に、めぐり逢えました。Uターンしてr452で八木に向かいます。この道、府道なんだけど細いです。舗装されてるのか不安になる道でしたが、峠を越えて八木側に下りることが出来ました。ちょうど山陰線八木駅に電車が入っており、踏切からゆっくりとそれを眺めていました。八木まで来ると、山陰線もローカル線の佇まいです。
2011/03/28
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今日、通勤リード110を1年点検に出した時、「KYMCO・DINK125」というスクーターを代車に貸してもらいました。おっと、外車です。台湾メーカーと言ってました。台湾は、二輪が活躍してる国なので、ちょっと期待・・・僕の通勤リード110もホンダ製ですが、タイホンダで生産されたもので、とてもいいスクーターです。ではリード110との比較インプレッションを。外観で気づいたこと。1 排気量は大きいけど、リードより小さい。よって座席とハンドルが近く、窮屈な感じがする。軽い。原付50ccぐらいな感じがする。2 鍵穴がほぼ水平に低めに開いている。キーを入れると足側に長く飛び出す。膝で蹴っ飛ばし折ることもあるので気をつけるように言われた。3 座席下ボックスが小さい。ヘルメット+アルファしか入らない。4 ヘッドライト・ウインカー位置からして、前かごが付けられない。またがって気づいたこと。1 シート位置が高い。足がつんつんしか地面につかない。125ccスクーターなのに、女子ではきついのではないか。2 シートが硬い。「これは疲れるな」とすぐに思った。走りだして気づいたこと。1 125ccあるのに、110ccのリードの加速より随分劣る。リードの感覚でアクセルをひねると、いっこも前に行かない。2 振動が大きい。単気筒でほぼ同じ排気量なのに、はっきりわかる振動の大きさ。これも疲れそうです。3 音が大きい。と、タイ同様二輪天国な国の製品なのに、ダメダメな印象を受けました。新車じゃないし、モデルチェンジもされてるから、今はもっと良くなっているとは思いますが、基本的に作りに対するポリシーが違う感じがします。品質というか、質感というか・・・これだけ乗り心地が悪かったら、価格差があっても日本メーカーに太刀打ちできないと思いました。僕は、日本製好きです。メイドイン他国の商品でも、日本メーカー製なら安心して買います。価格と品質のバランスが良く、修理などのアフターフォローが、部品調達・価格・納期で圧倒的にいいからです。僕の学生の頃は、四輪外車は高値の華だったけど、最近は日本車と価格差はそれほどないかんじです。でも外車を買おうとは思わない。ずっと外車ばっかり乗ってる友人の話を聞くと、修理部品と工賃が馬鹿高いし、出来上がりまで暇がかかる。だいたい故障が多い。弟がその辺が一番安心出来る外車であるVWに乗ってるけど、同価格ならワンランク小さい。今日は、改めて日本製品の良さを感じました。
2011/03/25
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久しぶりに、読書のことを。今月前半、戦国武将物としてはキワモノと言える梟雄の「宇喜多直家」を読んで、予想通りかなり面白かったので、梟雄No1と言える松永久秀を読んでみました。次男がヨットを始めたときのジュニアのスーパースターで、後に高校ヨット部の先輩になった方が、子孫です。フィギアスケートの織田信成が信長の子孫として大きな注目を集めたのに、この先輩はその筋からの注目はされませんでした。北京代表で7位だったのに・・・次のロンドンにも一番近いのに・・・「松永弾正久秀」黒部亨 PHP文庫 ★戦国の三梟雄の1人、宇喜多直家に続いて松永久秀を読んでみました。梟雄と言われている宇喜多直家には、それほど悪役という感じを持っていませんでした。毛利と織田の東西の大勢力に挟まれた播磨・備前・備中の地、草刈り場であるにもかかわらず、戦国武将にのし上がり、一定の力を保持したまま次世代の宇喜多秀家に家督を譲ることができたしたたかさに好感も持っていました。ちゃんとした時代小説として読み、さらに好感度が増しました。その流れで、三梟雄No1と言われている松永弾正を読んでみることにしました。こちらは直家どころではなく、陪々臣の身でありながら室町幕府現役将軍を謀殺し、奈良の東大寺大仏殿まで灰にした仏敵でもあります。でも久秀の生涯は、波乱万丈で面白いです。出生不明ながら室町幕府管領細川家の陪臣三好家に拾われ、後に京に上り実質幕府を動かすことになる三好長慶の側近として、今日の実権を掌中にする。山城・摂津・河内・大和を縦横に暴れまわり、堺の富とも結び、我が世の春を謳歌する。信長の大勢力が、久秀が討った幕府の再興を旗印に畿内に伸びてくると、ころっと信長の下に下る。信長が朝倉攻めをした時に、妹婿の浅井長政に背かれ背後を突かれます。秀吉が大きな損害を出しながら殿を勤めた退き陣で、信長はたった数騎になって京都に逃げ込みました。信長最大の危機を救い、退き道を作ったのが久秀です。でも基本信長の軍門に下っているのが性に合わず、武田信玄が上洛に動き出すと、機を逃さず信長の留守を突いて反旗を翻し、信玄病死後はまたころっと信長の下に下る。上杉謙信上洛に当たって、再び反旗を翻し、最後は信貴山城で爆死するという破天荒な生涯を送る。支配地には、かなりの重税を課したようで、死後も人気は芳しくないが、人生を思いっきり生きた人ではあったと思う。信貴山のような摂津・河内・大和を見下ろす高い山の山上城にも関わらず、物見としてではなく権威の象徴として高い櫓を立て、信長は安土城でそれを模したとされる。また大仏殿放火を真似て、比叡山も焼いたともいう。小信長とも言える。室町幕府の晩年期は、信長や秀吉の活躍の面から多く語られるが、その時期京・幕府を実質動かしたのが、阿波の三好であり松永久秀であるので、こちら側の視点で畿内の動きを読めたので、とても面白かった。地元北摂津勢・伊丹・池田などの動き、丹波の波多野の動きも登場し、親近感を持って読めた。
2011/03/24
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ツーリング時、車載ムービーを撮るようになって1年になりました。VTR250の左ハンドルに、RAMマウントという車載システムを取り付け、単3電池駆動のニコンL20というデジカメをセットして、そのムービー機能を使って撮っています。これがなかなか楽しく、信号待ちなどのいらない所をカットしただけの編集をして残しています。寝床でこれを観だすと、すぐに寝てしまいます。自転車でも撮ろうと、RAMマウントのハンドル固定部だけを購入し、それ以外は共有して撮り始めました。そして次に、通勤リード110でも撮ろうとしました。ところが、スクーターなので、ハンドルの周りにプラスチックが被さり、ハンドル固定部が固定できません。RAMマウントという固定システムは、固定部品が多数あり、バックミラーをハンドルに固定するネジ穴にセットするのがありました。バックミラーのネジより少し大きな穴が開いており、ハンドルとバックミラーとの間に挟むシステムです。「得たり」と確信し、注文しました。手に入れて早速装着しようと思ったら、ハンドルのネジ穴がプラスチックの被いの中にあり、装着できません。「う~む困った」と、いいアイデアが浮かぶまで塩漬けになりました。そして昨日の昼休み、バイク用品店でブラブラしていると、バックミラーを高くする下駄ネジを見つけてしまいました。「得たり」と早速1個だけ購入。315円。駐輪場で作業開始。バックミラーを外して下駄ネジをハンドルに取り付けます。下駄ネジの上に、RAMマウントを付けて、バックミラーを下駄ネジの穴に固定。RAMマウントがバッチリ固定できました。これで、通勤リードでも車載ムービーが撮れるようになりました。通勤リードはVTRより軽いので、より厳しい道にも突っ込めます。絶対行こうと思ってる「暗闇峠」なんかでもリードなら安心して行けるので、より素敵な子守りムービーが出来そうです。
2011/03/23
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日曜日、行く予定だった琵琶湖でのレースが中止になったので、家内の実家の墓参りに行くことにしました。クラブの先輩からは、昼から浜でバーベキューの誘いもあったけど、午後から大学ヨット部のコーチングに行くことにしました。今年初です。朝6時に家内と家を出発。中国道・山陽道を西進しました。1週間前は、災害救援の自衛隊車列とすれ違ったけど、それはなかった。燃料不足もあるので、交代までの現地滞在期間を伸ばしているのだろうか?お墓は、姉夫婦が参った後なのでお花も綺麗です。それを聞いてたので、家内は我家の庭に咲いてる黄色いスイセンを切ってきました。上手に黄色を活け、かなり素敵に色だられました。こういうセンスは、男にはないものだなあ・・・と大いに持ち上げておきました。帰路にあるSAに2ヶ所寄り、小洒落たロールケーキを探しましたが、それはなくチーズケーキを購入しました。帰宅後、家内は眼鏡屋さんに寄ってから教習所に向かいます。僕は琵琶湖行きですが、何で行くかが思案のしどころです。VTR250で亀岡・清和天皇陵回りが面白そうだけど、午後が雨予報で、しかも4mmという結構な雨、残念な帰路になりそうです。通勤リード110でもいいけど、車載ムービー撮れないし・・・災害の時でもありガソリンをより食う車は使いたくないけど、クラブに支援物資を運ぶという口実を見つけて車利用にしました。和歌山の有田で農園をやってるヨット仲間から購入したオレンジを車に積みます。オレンジは、みかんより皮が厚いので、出荷が今頃からです。冬果物でも、春に入ってから集荷する方が、甘みを増すと聞いています。塾して落ちる寸前が甘いのだとか。そういえば、我が家の柚子は、11月頃からいい色になるのですが、鳥は見向きもしません。ところが、3月に入ると大人気で、日に日に鳥に食べられて実が減っていきます。このオレンジも、みかんと比べるとずいぶん甘いです。これで皮が薄いと剥きやすいのですが。家内からは、家で食べる分は間引いたから、後は全部持って行ってあげたらいいよとのこと。チーズケーキとカッパなどを積んで出発しました。京都IC出口は混んでいます。京都東ICまでも混み気味で遅めの速度になりました。変に被災他地域経済が縮小しちゃうと被災地へも影響しちゃうから、これでいいと思う。琵琶湖到着は11時。艇庫がハーバーに移り、今までの艇庫兼合宿所前からの出艇ではありません。どっちに行こうか迷ったけど合宿所に向かいました。女子マネのHちゃん1人で昼食の用意をしています。すごいね。オレンジの箱と、女子マネさん用に買ったチーズケーキを差し入れました。学生時代、息子の健康を食の面から守ってくれたマネさん達には、どれだけ感謝しても感謝したりません。入部したとき、これで合宿・練習中だけでも、バランスの良い食事が食べられると安心しました。家内の姉夫婦は、姉の下宿に兄が飯を食いに転がり込んできて、そのまま現在に至るのですが、食はとても重要です。しばらくしてみんな帰ってきました。午前中、風がなく早めにハーバーバックして、艇庫の掃除をするそうです。来月の新人勧誘試乗会の用意などを始めました。お昼ごはんは、いつも通り美味しい。より味に厳しいマネさんは、味が濃い目とか言ってたけど、みんな美味しそうにおかわりをしています。マネさんたちを乗せてハーバーまで車移動。元ジュニアの艇庫だったところです。ジュニアは何処に行っちゃったんだろう?艇庫裏にジュニアの艇が並んでたから、外から持ってきてるみたいです。今まで砂浜出艇でしたが、スロープ出艇はいいね。桟橋にレスキュー艇が常時置かれているので、支援艇の出艇の手間もかかりません。これで合宿所が隣接地に建設できるといいです。1m/sほどの弱い風の中、ショートラウンディング。風が弱いので、タッキングやジャイビングを増やして、ロールの精度を上げて自分で風を作ってより早く走る練習です。続いてロング帆走練習。470のM組が速くなっています。風が上がるとまずまずのスベリを見せるのですが、軽風・微風が弱点でした。まだメインシートトリムが少ないので、その辺をアドバイスしました。練習時間が残り30分を切ったので、ラダーレス練習をしました。アビームにマークを打って、自由にそこに向かいます。最初おかしな方向を向いてた艇が、みんなマークを向かうようになりました。舵がないと、微妙なバランスで行き先が決まるので難しいです。船の直進性を増すには?左右ヒール・前後ヒール・乗る位置・・・いろいろ学べたと思います。4時ぐらいまで雨が降りませんでしたが、とうとう降って来ちゃいました。でも4mmまでは上がらず、霧雨~小雨まででした。6時前に練習終了。合宿所に戻り練習レポートを書き始めます。「お茶、どうですか?」ってマネさんが・・・嬉しいね。夜のミーティングが夕食後になったので、僕もご相伴になりました。唐揚げです。こりゃ家内の夕食は食べれないなと思いながら、しっかりいただきました。うまい。感じたこと・技術的なことを伝えて、帰路に着きました。帰路も小雨程度で、これならVTR250で来たら良かったなと思いました。次は来月の新人勧誘試乗会の手伝いです。楽しい1日でした。
2011/03/22
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時計を見ると4:35。ちょうどいい時間になりました。ここにちょうどバスがやってきて、乗り込んだら直ぐに出発。10分も早く出発してもいいのかな?僕と一緒に登ったおじさんはまだだけど・・・きっと4:45目指してここに来るよね。駐車場に着いたら、「これで最後かなあ?」って、駐車場内の車の数とお客さんを数えています。「往路一緒だった方がまだだと思いますよ」って言うと、向こうの計算もそのようです。バスが折り返して登って行きました。5時に駐車場を出発。もう当初予定だった「吹屋のベンガラ」探索の時間はありません。帰路に着きます。ナビに検索させると、「岡山自動車道」経由「山陽道」を指示します。せっかくの田舎なのに高速は勿体無いし、2週間前も山陽道を往復使ったし・・・で、中国道まで地道を北上することにしました。高梁川左岸R180をさらに北上し、R313に右折。この道は交通量がさらに減り、さらに気持ちがいい。途中何度も岡山自動車道のICを目指すようにナビの指示が来るが無視し北上して、中国道「北房IC」で高速に乗りました。「落合JCT」で米子道が分岐しています。バイクで米子道分岐より西に来たんだと、ちょっと誇らし気。「勝央SA」で休憩。SAなのにバイクゼロ。福崎から西の中国道は交通量が少ないけど、ゼロとは。お腹が減ったけど、家内の夕食の方がいいしと、コロッケ1個だけ口にする。ここから夜間走行です。バイクでの夜間高速道路走行は初めてです。風もなく、トラックの後ろにならない限り、250ccでも安定走行できるのでじわりとスピードが上がります。「80km/h低速走行」を肝に命じ、突然の横風でもおっかないようにセーブして走ります。僕の先祖美作菅家のお膝元「美作IC」通過。美作の地名を見るとなんだかホッとする。菅直人さんのお父さんは岡山県出身だそうです。「菅」の苗字を持つということは、僕と違い父系で美作菅家の一統として続いてきた家なのかな?昭和初期の大政治家・犬養毅邸を訪問したところだから、美作で菅直人を思い浮かべました。一時標高200mを越えていたのに、ここから全体的に下り基調。福崎に向けて本格的に下り、「加西SA」到着。CB1300が1台。1人で走ってきて人恋しいので、売店やレストラン棟に入るが、別棟の休憩室でTV見ながら1人でお茶のんで体を休める。震災関連ニュース映像で、原発のメルトダウンを心配してる。中国道に乗ったときは、宝塚西トンネル13km渋滞の表示だったが、7kmになって、今は4km。次は「西宮名塩SA」だけど、山陽道の合流後は地元に帰ってきた気分で意気軒昂。車が増えたので70km/h巡航という最適速度になり、渋滞も解消されてます。そのままSAを通過し、帰宅しました。バイクを乾拭きして、8時帰宅。440kmのロングツーリングでしたが、楽しかった。300km台だったら、もっと高速を減らし楽しい田舎のワインディングを走れるんだけどな。吉備路に行こう9
2011/03/21
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そして、備中国分寺。外来新宗教・仏教を比護拡大して精力増強を図る蘇我氏が、一族聖徳太子の武力抗争を経て、それまでの為政者物部氏を滅ぼします。聖徳太子は仏教中心の為政システムを始め、全国に中心宗教として仏教が広がっていきます。律令制各国に天皇の命令で作られた地方仏教の中心が国分寺。遠くからでもすぐにそれと分かる五重塔が目に飛び込んできます。とても立派です。周りは明日香の古寺のように田畑が広がり、伸び伸びします。カンバスを構え絵筆を動かす御仁が数人、絵心のある方には堪えられない被写体だろうなあ。気温がぐんぐん上がり暑くなったので、古墳でセーターを脱ぎました。さらにここで登山用靴下を脱いで通常の靴下のみになりました。冬用バイクジャケットが暑いので、脱いでのお参りでした。それでも暑く、ソフトクリームでも食べようかと売店に入ったのですが、遅い昼食に化けました。暑いのにそば定食580円食べて更に熱くなり、フェイスマスクも無しで次の「備中松山城」を目指します。R180を西進し、高梁川に出会ってその左岸を北上開始です。この道が気持ちのいい大きなワインディングで、街中を外れ交通量も減って楽しいです。右に左に倒すのが心地いい。川・道・鉄道という田舎によくある3本の流れが並走し、伯備線の2両編成電車が走ってきます。いいなあ。備中高梁に到着。高梁川のガードレールが城壁みたいになってます。「備中高梁城」の案内に従って右折。途中、武家屋敷筋に寄り道し、さらに登ります。高梁の町が眼下に見えるようになったとき、駐車場到着。これ以上はガードマンが通せんぼしています。お兄さんに誘導されて駐車場に入れました。お兄さんの詰所テントのすぐ横だったので、「お城までどれぐらいかかりますか?」「徒歩50分です。バスを利用されれば20分です」「バスは次々来るのですか?」「次が最終です」って。慌てて用意しました。すぐにバスが下りてきて、僕ともう1人を乗せて出発。下り最終バスが4:45だそうです。ここからおじさんと2人で登城します。横浜の方で、出稼ぎに来てるそうです。自宅に奥さん1人残しての地震だったので心配したそうですが、被害が軽微だったようで、こっちの仕事を続けるとのこと。親戚が柏にあり、そちらはお皿などが落ちて割れたそうな。うだうだ話しながら、「こんにちは」って数人の下城者とすれ違いお城の石垣に到着。ここから激写タイムが始まったので、おじさんを別れる。ト・ト・ト・トと木を打つ音がします。キツツキです。肉眼で捉えました。カメラのビデオ機能で撮影。ちゃんと撮れたかな?綺麗な小鳥です。拝観料300円払って天守閣周辺を激写。天守にも登ろうと思ったけど、靴脱ぐのが面倒で、無料のお茶飲みながらここからの下界の景色を楽しみました。高梁川の流れ、右岸の棚田・・・気持ちがいいです。家内と来たいものです。4時になったので下山開始。なんだか途中から登城路から外れたみたいで、違う景色が広がりました。別の郭や石垣、別峰の頂上にある曲輪があっただろう扁平地も眼下に見えます。途中で道が工事中になり、誘導されると登城路に合流。登城路と違う道に入ってしまって、激写がたくさん出来ました。
2011/03/19
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続いて、「備中高松城址」に向かいます。交差点を反対に曲がったりして・・・うろうろ・・・これが幸いして「犬養木堂記念館」の記念館駐車場前に出ました。犬養木堂って誰やと思いましたが、犬養毅の名が振ってあります。「おお~5.15事件の首相だ~」「話せばわかる」を最後の言葉にしたことで有名です。この5.15事件で、政治家が軍を恐れるようになり、次の2.26事件で軍の文民統制が効かなくなり、終戦まで軍は突っ走った。岡山の出身というのは知ってましたが、これはラッキーです。もちろん寄り道しました。駐車場からの小道脇にお墓がありました。ずらりと犬養家のお墓が並んでいます。意外にも毅さんのお墓は、他のお墓と同じぐらいの大きさで、我が家のお墓と同じような物でした。脇に大きな記念碑はありましたが、明治~昭和期の大政治家にしては質素そのもの。手を合わせて生家内部を拝見。一度解体修理し新調部材も加えて建て直したそうです。脇の水路はしっかりした幅があり、謂れに書いてあった通り、江戸時代は名主など藩の要職にあった篤志家らしい家屋回りでした。「備中高松城」は、信長の命で中国攻めをした秀吉が、毛利の東の防御ラインのこの城を攻めあぐねました。他の東の防御ラインを落として孤立させ、猛将清水宗治との直接の戦いでは負けてばかりなので、堤を築いて水攻めした城です。ここで我が家のご近所豪族・能勢氏の長子が討ち死にしたんじゃなかったっけ?今は、それを思わせる公園になっています。水攻めの途中で「本能寺の変」があり、宗治の自刃を条件に毛利と急遽講和し、秀吉は長駆京都に急いだ。宗治のお墓に手を合わせました。此処に来る途中、巨大な鳥居を発見しました。寄り道しませんでしたが、「最上稲荷」というお稲荷さんでした。次に向かったのが、備中国分寺。r270を西進してたら、「古墳」の文字。「国内最大級の前方後円墳」の文字も。寄り道です。「造山古墳」。駐車場には、吉備津彦神社にもおられたボランティア案内員さんと思われる方がいます。国内第4位の規模で、自由に入れる古墳としては最大。この地方の豪族の墳と考えられているようで、天皇家の古墳でないので宮内庁管轄ではない。登ってみると「前方」の部分の頂上にお宮が、「後円」の部分には先の織田・毛利備中高松城攻防の時築かれたという毛利方土塁が残っていました。頂上部は扁平に削られ、砦や櫓が建っていたのでしょう。段曲輪が作られたのか頂上下に扁平地も巡っています。
2011/03/18
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金曜日に大地震があって、「これは中止だなあ」と思っていたら、翌土曜日、月例レースの中止の連絡が入りました。僕は、日曜日に出場する予定だったのでスケジュールが空きました。家内は、教習所だし・・・土曜日には、次の週の家内が行く予定だった仕事の全国大会が中止の連絡。横浜だから仕方ないね。そして、あれが中止、これが中止・・・と言う連絡が相次ぎました。被災者は大変だと思うけど、僕には何も出来ないし・・・時々最新ニュースを得られれば、1日中かわいそうな状況を見てるのも悪い気がして・・・僕が被災者の時、家族で脇目もふらず仕事場再建のために片付けてる時、何も手伝わないのに、「ここもひどいねえ」って写真撮っていく人に閉口したから。目の前の駅ビルが倒壊して電車が大きく傾いてるのとセットみたいに写されて・・・駅ビルで人が亡くなってると思うと、それを写真に撮ることは僕には出来ませんでした。あまりの自粛ムードに、天邪鬼な僕は、被災者でないのに元気出さなきゃと、いつものように、「休日は外に出る」をすることにしました。晴れの国・岡山県の吉備路の寺社探索と、備中松山城登城に向かいました。高速に乗り西進しだすと、「災害救援」の横断幕を張った自衛隊の車両が隊列を組んで東を目指しているのとすれ違います。「うりゃ~行け~」各自治体の緊急車両も多数、東を目指しているのでしょう。「うりゃ~、地震や津波なんかにゃ負けへんど~、行け~」それらの車両とすれ違うたびに、「行け~。頑張れ~」って独り言してました。次男の会社も緊急増産体制を敷くでしょう。「しばらく休み返上して働け~、うりゃ~」意外に行楽に向かう車や観光バスも走っていました。もちろんバイクも。「龍野西SA」のインフォメーションでもらった地図を見てると、岡山ICの少し先の吉備SAにスマートICというのが書いてありました。インフォメーションのお姉さんに聞くと、バイクでも出れるらしい。SAでのICって初めてなので、体験することにしました。SAの片隅に、小さなICがあり、一旦停止しないといけませんが、ETC車のみ出入り出来ます。スムーズに通過。出たとこは、道標も小さくあるだけで迷いましたが、GPSとタンクバックの地図見ながら、吉備津神社に向けて進みます。GPSと地図で適当に田舎道を走って「吉備津神社」到着。桃太郎伝説の神社です。謂れには、桃太郎伝説になるだろう言い伝えが書かれていました。鬼さんに例えられた当初の支配者を桃太郎に例えられた新支配者が戦争で勝利したのでしょう。歴史は新しい為政者によって、都合のいいように書き換えられるからなあ。山内にポツポツと社殿が並び、相当規模の大きな神社のようです。門前売店でキビダンゴを買おうと思ったら、「これ美味しいよ」と昔お姉さんが声を掛けてくれました。桃の形のお団子というかお菓子、そちらにしました。門前の道案内図を見たら、「吉備路自転車道」というのがいろんな名所・旧跡を巡っているようで、それを頭に入れながら、次の「吉備津彦神社」に向かいました。自転車道を走ったこともあり、スポーツ自転車数台とすれ違いました。こちらが、備中の一の宮だったようです。規模も由緒も吉備津神社の方が大きいように思うのに。今回の地震で改めて感じた家族の幸せな生活と、被災者・被災地のできるだけ早い復興を願って手を合わせました。
2011/03/17
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昨夜、家内が東京にいる子供たちに電話をしていました。長男のお嫁さんに困ってる物はないかと・・・既に食料も電池なども多めに備蓄したそうで、落ち着いていたそうです。「あの子はすごいわ」と、やることやって、どっしり慌てない性格に恐れ入っていました。次男は、同期と飲み会やってたそうです。復興支援企業なので、随時被災地に入るから、第1陣を送り出す激励会でもやってるのでしょう。長男同様、次男もリーダー的に動く世話好きだから、音頭を取ったのかもしれません。東北で地震があったその日、自宅のセキュリティー向上工事をやってました。昨年11月に泥棒に入られ、家内の貴金属を盗まれてしまいました。自転車を玄関前道路に、鍵もかけずに置いといてもそのまま翌日もあるという治安がいいところに住んでるので、我が家のセキュリティは甘いです。次男なんて、大学生になった下宿初日に、自転車を盗まれてしまいました。家族揃ってのんびり屋です。そんな我家は、家内と暮らし始めて30年、雨戸があっても閉めたことなしでした。共稼ぎなので、日中家に誰もいないのに無用心です。まあ、サンデー毎日な両親が敷地内のお隣にいたこともあります。一昨年母が亡くなり、約1年お隣にも誰もいない日が過ぎたところでの空き巣被害です。我が家の方は、重くて開け閉めが面倒だった木の雨戸を、アルミの軽い雨戸に交換です。隣の実家は、両親が雨戸の戸袋を取ってしまっていたので、戸袋も含めてのアルミ雨戸一式の工事です。1年前に工事をしてもらったリフォーム業者さんに頼みました。昼間、実家の鍵を渡してお願いするので、安心出来る業者さんがいいです。遅い昼休みの時間、工事を見に行くと、電気屋さん・大工さん・リフォーム業者さんの車が道路に並び、6~7人の職人さんが工事をしてくれていました。朝、家内が作ってくれたご飯を食べ、庭の金柑を頬張りながら邪魔にならないように見ていました。工場で、我が家に合ったようにリカットした部材を持ってきてるので、サイズはピッタリです。でもカンナで木材を少し薄くしたり、穴を開けたりは、その場で臨機応変にやってはります。見てて飽きません。小学生の頃、近所に大工さんがいて、よくお邪魔していました。カンナで材木を削っていくと、つるつるピカピカになり、紐についた墨でパチンとすると真っ直ぐな黒い線が入り、寸分狂わず真っ直ぐノコギリを引いていきます。いろんな大きさのノミがあり、いろんな穴を開けていきます。夏休みの工作の宿題で、うまく出来ないところをこの大工さんに聞きに行ったことがあります。教えてもらってもうまく出来ない所を、「ちょっと貸してみ」って言って、チョチョイとやってくれました。その作品が、クラスで一番になり、先生やみんなに褒められ、喜んでいいのやら・・・困りました。一番を決めるなんて知らなかったし・・・1番の紙が貼られてて今さら言い出せないし・・・そんな幼い日を思い出しました。
2011/03/16
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VTR250を2年点検に出しに行きました。代車を借りて帰り、明後日引き取りに行きます。その行き帰りに、災害派遣の自衛隊車両とたくさんすれ違いました。京都の駐屯地の横断幕を掛けた車両も数台ありました。中部方面総監部と連隊司令部があるから、京都から一旦東のここに来てから行くのかもしれません。朝の出勤の時、国道を横切る交差点で信号待ちしてる時も、たくさん東に向けて通りました。首相が、自衛隊2万人体制から5万人体制に変更してすぐに、さらに10万人体制に増強しました。この指令を受けての対応だと思います。出勤前にも午前中にも、自衛隊基地から直接ヘリコプターが離陸していきました。ご近所自衛隊基地も、臨戦態勢になってるようです。きっと阪神大震災の時もそうだったのでしょうが、あの時は僕に余裕がなく、ここら全体が騒然としていたから、気づきませんでした。新聞に次男の会社が復興支援に名が上がっていました。建築なので当然です。次男も当分東北で仕事をすることになるだろう。次男自身が、小学生だったけど阪神での被災者だから、特別な何かが出来るかもしれません。週末に予定されていた3人乗りヨットのレースが中止になりました。今シーズンの初レースだったので残念でしたが、まあ気持ちが乗らないですね。コーチしてる大学が出場予定だった次の週末のレースも中止になりました。コーチングの予定でしたがスケジュールが空いてしまいました。同じく次の週末、横浜で予定されていた仕事関係の全国大会も中止です。家内は、司会予定で張り切っていたので、残念でしょう。自動車学校に行くのかな?
2011/03/15
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震災の起こった次の日・土曜日の朝、始発便が7:30の大阪空港なのに、多分7時前に飛行機が飛び立ちました。いつもの空路を外れ、我が家の真上を飛んでいきます。「変だなあ」と見上げると、軍用機でした。町内会に自衛隊基地があるので、その関係でしょう。急ぎの人か物資かを空路東北に向かわせたのだと思います。ここらが被災地になった阪神大震災の時、自衛隊車両は活躍していました。僕らの給水車も自衛隊だったし、仕事場の目の前で崩れた駅舎にも自衛隊員が来て救助していました。災害救助で自衛隊は、株を上げているなあ。日曜日、高速道路を西に向かっていると、「災害救助」の横断幕を張った自衛隊車列とすれ違いました。九州や中国地方の隊から、人員と装備の準備を整えた部隊が、順次東を目指しているのでしょう。阪神の時よく見た他府県救急車両も、随時所属県を離れ東を目指しているのだと思います。「うりゃ~、行け~」って応援してしまいました。僕が被災者だった時を思い出し、働き盛りの方は、すぐに生活基盤の再構築に向けて動き出しているのだろうと思う。僕のところは、ガス・水道の復旧は後になったけど、電気は予想外に早く回復しました。でも「TV見て情報を集めないと」なんて余裕は、ありませんでした。朝一番の地震をやり過ごし、すぐにバイクで仕事場を見て回りました。シャッターを開けて、火事・水漏れの有無を目測し、すぐに帰宅して家族会議。っても、ご飯食べながら10分ほど。役割分担を決めて、仕事場の復旧に急ぎました。昼休みに一旦全員集合してご飯。すぐにまた仕事場の片付けです。小4の次男が一言の発せず家内から離れず心配でしたが、家内は次男と共に家内の仕事場の片付けに。僕は長男とともに僕の方。出勤してきた従業員さんに、まずそれぞれの自宅片付けをするよう指示。交通機関がストップしてて来れない遠い従業員さんが来たので、当面自宅待機を指示しました。2日目になんとか営業再開できたので、従業員さんに頼んで、神戸の親戚の安否確認にバイクを飛ばす。自宅全壊だったけど、ご近所さんに助けだされて体育館で発見。その時点で、その体育館収容人名簿が出来てたのに。驚きました。被災した若い学生さんが、全員をチェックしてノートに管理してる。翌日、その体育館にバイクで運んだホカロンをケースで寄付。数日後、また寄付。ちょっとでも、親戚のおばあちゃんの居心地を良くするために。ほんまは自宅に連れて帰りたかったけど、車が通れないので無理だった。TVでは、被害状況や安否確認の氏名読み上げをやってたけど、被災者にそんなの見てる余裕なんてない。悲観に暮れてるのはサンデー毎日なリタイヤさんだけで、3日目に言葉が戻って回復した次男だって、我が家が片付いたら体育館に友達の見舞いとかに行ってた。何かを手伝っていたとも言ってた。僕の家よりずっとひどい津波に根こそぎ持って行かれた方もいるけど、誰かが元通りにしてくれるはずもないので、当時の僕同様、「うりゃ~」って生活再建のために動きまわってる人ばかりだと思う。ニュースの被害報告なんて糞食らえだ!政治が良くて、楽に暮らせたことなんて、過去の日本にあったか?なんもしてくれんゼヨ。ニュースアナウンサーが、「今一番被災者が望んでいるのは、正確な被害状況です」とか言ってるけど、そんなの東京の電車が止まった程度の被災者が望むことで、明日の収入の基盤がぐらついたり、家を失った被災者は、そんなの望んでないやろって思った。今は、ケツまくって、目の前のことに手をつけることじゃて。いつの時代も、「うりゃ~」って馬鹿力出して困難を乗り越えてきたんじゃ。うりゃ~、うりゃ~、うりゃ~・・・頑張らにゃ、アカンぜよ!自分が頑張って這い上がるんじゃ~。おりゃ~、頑張れ~!いっぱい、「うりゃ~」「おりゃ~」な人が動いてると思う。頑張れ~!
2011/03/14
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昨日は、仕事場でTVを見れないので、息子たちの安否だけ確認して帰宅しました。早めに帰宅して点けたTVは、僕の想像を超える映像を流していました。火の手が広範囲に上がっています。石油タンクが爆発延焼してる。そして何よりショッキングだったのは津波・・・圧倒的な水量で、防風林?の木をなぎ倒し、家を飲み込み、車を浮かし、田畑をなめ上がっていく・・・ええ~・・・何故か涙が・・・一生懸命働いて作った良質な畑を、やっと建てた家を、ローンが残ってるかもしれない車を・・・多くの家族の幸せの揺りかごを一飲みにして・・・その間にも、緊急地震情報が次々と発令されていく。長野新潟県境でも地震が起こる。「こりゃいかん」と我に返り、北関東の親戚にメールや電話を掛けました。電話は不通です。メールは、1件だけ返信がありました。父の実家・本家の長男さん、分家の我が家は、まずこの従兄弟さんに連絡を取るようにしている。「仕事で東京に出ていました。タクシーで急いで帰っている途中です」って、東京から群馬まで、長駆タクシー帰宅してるようです。さすがは本家長男。この人がしっかりしてるから、親父の方の親戚の結束は固いです。我が家が阪神大震災に被災した時は、「何でもするよ。言ってきて」と精神面で支えてくれた。今度は我が家の番です。いざという時、最後までサポートしてくれるのは血の結束です。今朝、電話もつながり、震度5の揺れにも耐え、親戚で家を失ったりした人はいないようでホッとしました。でも度々揺れるので、夜は近くに暮らす親戚が寄って過ごすのだそうです。今朝は、起きてすぐにNHKの音を大きくして流しながら、風呂に入ったりなんだりしていました。前日見た映像をなんども流すニュースを見入りながら、「被災者はニュースなんてじっくり見れないんだな」と、自分の被災者の時を思い返しました。地震報道は、確実な情報を得る手段として有効だったが、さっと見てその日やることの役割分担を家族で決め、行動あるのみ。水汲み・食料調達の後方支援部隊と、収入を得るために仕事場の復旧部隊。息子たちと道路に備品等を出し、後片付け・掃除してると、「ここもひどいねえ」って覗いていく人が絶えない。目の前で、電車の乗った駅が潰れているから名所見物みたいになってる。「うるせえや。そんなこと言うなら手伝っていけ」と言いたいところだけど、じっと我慢で黙々と復旧を頑張る。損害金額を計算すると嫌になるから、目の前の作業だけを考えようとしてたけど、その時笑顔さえ浮かべて掃除する小中学生の息子たちが、誇りにさえ思った。そんなこんなを思い浮かべましたが、津波は・・・復旧する場所も根こそぎ奪ってしまってる・・・「これはあかんやろ~」と、神様のやり過ぎに涙が流れてくる。僕には何も出来ない。ただ、「頑張れ~」って声援を送るだけしか出来ない。
2011/03/12
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遅い昼休みから職場に戻り、メールチェックすると、「今、外に避難してるけど大丈夫やわ」って、家内から。???・・・何?火事でもあったの?すぐに家内に電話を掛けました。千葉の次男からのメールの転送でした。ラジオから東北地震のニュースが流れ、関東にいる子供たちにメールしたみたいです。その返事を、それだけ僕に転送してきたから、何のことか分かりませんでした。すぐにPCでニュースを見ると・・・震度7・・・うわすごい・・・津波10m以上大津波警報発令・・・ええ~子供たちと長男のお嫁さんに、何かあればすぐ連絡するようにとメール。長男からは、愛媛に出張中で、やっと奥さんに電話がつながり、東京の家は電子レンジが落ちたり、棚が倒れたり大変な様子。帰れるのか心配とのこと。次男からは、会社は臨時休業になったようで、自宅に向かっているとのこと。誰も怪我をしていないようなので、それがなによりでした。う~む、お嫁さんが1人でワヤクチャになった自宅で悪戦苦闘してる・・・お嫁さんはメールを返す事もできないだろう。ご近所さんはいるけど、旦那は出張中で、心細いでしょう。東京は、我が家が体験した阪神淡路大震災よりはマシだろうけど、地震は予兆なしに突然来るから不安です。TVがないので、詳しい様子は帰宅後でないとわからないけど、東北はかなりの被害が出ているでしょう。大都会の仙台も震度7となってるので、あの震災の時の神戸と同じ状況が想像されます。大変な事が起こってしまいました。
2011/03/11
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三木探索から帰宅したのが16:30。家内はまだ帰っていません。家内は午前中から教習所です。今日は16:30までだったっけ?17:30までだったっけ?カッパ持って行ったのかな?点数稼ぎのチャンスです。小雨が降ってるので、車で迎えに行くことにしました。急いでバイク装束を脱ぎ、車で教習所に向かいます。家内の自転車順路を予想しながら走りだすと、500mほど走ったところでカッパを着た家内とすれ違いました。気付かなかったようなので、家に戻ると、「時計を買いに行きたいの」とのこと。仕事場の置き時計が壊れたとのことなので、ホームセンターの休もんを購入。作ってくれたちゃんこ鍋をつつきながら、家内のご機嫌教習の話を聞きました。前回の実技で、第1段階を合格したので、第2段階1時間目の実技でした。初めて、教習車も走ってるコースに出たそうです。バイクコースより広いので、気持よく乗れたようです。そしてバイクコースに戻り、家内曰く「お情けで通してくれたクランクコース」に入ると、楽々クリアできたそうです。「2週間も乗らなかったのに、すごく上手に走れたの」とニコニコです。ここぞとばかり、褒めちぎっておきました。夕食後、お土産で買ってきた「いちご大福」を頬張り、仏壇に供えていた先週のお土産「千年杉バウムクーヘン」を下げてきて1切れ食べてみました。美味い。交代で「吉野葛餅」を仏壇に供えました。そして僕がプレゼントしたNHKドラマ「10年後も君に恋して」DVD3~4話を見て、おやすみとなりました。このドラマ、とてもいいです。
2011/03/10
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急な階段を上がると城址です。眼下に美嚢川。北西の水堀にし、加古川を通して瀬戸内海と繋がる水運を利用したのでしょう。井戸跡・城址図・慰霊塔・別所長治の騎乗石像・秀吉との間に繰り広げられた三木城合戦図・供養塚・・・。小学生の年頃の娘さんと息子さんを連れたお父さんが、熱心に説明を読んでいます。足の不自由な男性が一眼レフで激写しています。城址内に「上の丸保育園」・・・素敵な名前だな。城址内に「古式鍛錬場」という覆い屋がありました。釜があります。説明によると、現在も続く三木の金物工業の古・伝統の鋳物師の古工法をここでお見せしているのだとか。ここで雨がポツポツ来ました。降ってるというより感じる程度なので、天気予報を信じるならすぐ止みそうです。次は竹中半兵衛のお墓を目指します。車載ムービーは降雨のため中止です。大体の場所しか分からないので、まずr38を東進します。r20を北に上がってみます。どうやらミスロードみたいで、枝道をr38に向けて走ってると、「岩壺神社」という曰く有りげな名前の神社がありました。寄り道。謂れ板によると、由緒不詳となってるけど、天武天皇の時代に勧進となっています。天武天皇と言えば、大海人皇子。中臣鎌足と一緒に大化の改新というクーデターを成し遂げた中大兄皇子(天智天皇)の弟です。天智天皇の息子・大友皇子を滅ぼし、次の天皇位についた方。7世紀後半ですね。日本は湿度が高いので、ヨーロッパのような石造り建築がないので、文化財として古い建物が残りにくいですが、古の時代から一定の信仰と租税免除を得てきた関係で、多くの寺社が建物は更新されても、そこに鎮守の森と共に残っています。1400年も前ここにあったものが、まだここにある・・・これだから寺社探索はやめられません。r38に戻り東進し始めると、「竹中半兵衛の墓」の道標がありました。山陽道に向かって北上すると、また道標。それに従って田んぼの中の枝道に入ると発見しました。道から20mほど入ったところに低い白土塀に囲まれ、数本の木が立っています。鎮守の森とは行きませんが、こじんまりだけど手入れされています。誰もいませんが、お墓の花壺には摘まれて間もないような花が差してあり、線香が煙を上げています。最近歴女ブームだそうですが、地元の方がずっとこうして守ってきたのでしょう。三十代の働き盛りで戦場で病に倒れた半兵衛。秀吉がまだ信長の下級武将だった頃、既に美濃の斉藤道三嫡男を城に急襲して追い出した引く手あまたの逸材武将だった半兵衛が秀吉に仕えました。秀吉は天にも登る気分だったでしょう。美濃斎藤氏に仕え、何度も信長軍を撃退する。自分を愚弄する主人を見返すため、信長が落とせなかった稲葉山城をたった十数人の自らの兵で乗っ取ってしまい、主人を追放する。美濃の主になってもおかしくないのに、その後あっさり城を主人に返し、牢人してしまう。痛快な男です。信長が家来にしようと秀吉を使いに出すが、信長家臣を嫌い秀吉の家臣になってしまう。武将の格からも実績からも半兵衛の方が上。作戦参謀半兵衛の力もあり、軍団上級武将までになった秀吉は、半兵衛の死を前に号泣したと伝えられています。秀吉の人徳が、次の作戦参謀黒田官兵衛を呼び、天下人になっていく。竹中半兵衛があと20年存命だったら、世の中はどう変わっていただろう。半兵衛は、秀吉より8才も年下だったから、天下人になった後の秀吉の様変わりの政策や部下への当たりが変わっていたかもしれない。惜しい人を亡くしたものだ。雨が止みません。カッパを着るほどの雨脚ではなく、防水にもなってるバイクジャケット・オーバーパンツなのでそのままですが、家路を急ぐことにしました。r38を往路そのまま戻ります。「道の駅淡河」横の「満月堂」という和菓子屋さんで、「いちご大福160円×2」と「吉野葛餅525円」をお土産に購入。淡河城跡登城は断念。グーンと三田まで戻り、「JR武田尾」から武庫川沿いを「川下川ダム」に向かいました。第2名神の工事状況を見に来たのですが、日曜日なのに川の中を工事していました。橋脚工事のようです。鷲が営巣してて、いつもその姿を見ることが出来たお気に入りの橋を渡ります。川沿い道からダム方面に上がると、ダムの川下の橋脚が随分立派に成長していました。ダムの水位はかなり下がっています。見通しの効かないうねり道を慎重に曲がっていくと、バズーカレンズをセットした一眼レフが山に向かっています。あの鷲の営巣地がこっちになったのかも?r33に出て、「長尾山トンネル」を抜けて帰宅しました。120km程のショートツーリングでしたが、探索の収穫は結構ありました。三田から三木に向かう道は、急坂がなく「夫婦で自転車」でも楽しめそうです。収穫多き半日でした。
2011/03/09
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思いの外時間を食ってしまいました。r38西進に戻ります。「左手に神社発見」「御坂神社」となっています。枝道に入り鳥居前に駐車。拝殿に向かう間に昔でいう長屋門をくぐります。まあ安普請の現代建築なので感慨はありませんが。ここに着物が飾ってありました。さらに鬼瓦がたくさん。拝殿増改築時に下ろされたものだろう。謂れ板によると、鎮座年代不詳・播磨五十座の1つ・醍醐天皇の時代(900年)には存在していた。横の集会所脇に、稲で作られた弓の的に使うような俵が2つ置いてありました。さっきの淡河八幡神社にもあったし、この地域は弓道が盛んなようです。こちらの本殿も銅板葺きでなかなか立派です。バイクに戻り、その前を素通りしました。バイクを止めるとき、目の前の道標に「御坂のサイホンまで40m」と書いてあったので行ってみます。外人設計の灌漑施設ということは知っていました。裏の淡河川を渡る橋に、上流の「呑吐ダム」からの放流時のサイレンのことが書いてありました。その向こうの丘に向かって、水力発電所にあるような太いパイプが掛かっています。「あれが灌漑施設?」どういう仕組かよく分かりません。下の淡河川までかなり高さがあります。いい感じの川で、少し下流に沈下橋が掛かっています。昔はあっちを渡っていたのかな?橋を渡り終えると、「御坂のサイホン(眼鏡橋)」の説明板が立っていました。『淡河川から加古台地への引水のため、淡河川疏水工事が行われた。山から志染川を渡って反対側の山に水を運ぶためのわが国初のサイホン(噴水管)工法。当時としては画期的な大事業で、志染川を渡る橋は眼鏡橋として親しまれている。この疎水は、「琵琶湖疎水」「安積川疎水(福島県)」と並ぶ三大疎水で、この2つと違うところは、住民の自費事業だったこと。設計は、横浜水道・神戸水道の設計者のイギリス人将校』これを読んで、渡ってきた橋の反対側を見ました。北側の山にも同じ口径の太い水道管が上っています。あの山の向こうからやってきた水がこの管を通って下り、南側の斜面を登っているんだ~。南側に向かって、「淡河川疏水145m」の道標が立ってるので、あの山の上を疎水が走ってるのかも?これを明治の世に地域住民がお金を出しあって作ったんだ~。こりゃすごいです。川下に歩き、土手を下りてさっき橋から見た沈下橋を渡ってみました。ここから見た眺めが眼鏡橋だったのでしょう。今はダムの影響で水量が減り、メガネの下の縁になる水面に写った橋がないので、想像するだけです。r38西進開始。急がなきゃ・・・「志染の石室」の道標が僕の目を捉えました。また寄り道です。これはそれ以上道標がなく、発見できませんでした。古代の墳墓跡かな?三木市街地に入ってきました。去年家内と北条に行ったとき乗った神戸電鉄「恵比寿」駅があります。あの時はここの近所に車を置き、ここで自転車を袋つめしました。三木城跡は、次の「上の丸」駅の裏です。上の丸駅近所にバイクを置いてと考えていましたが、駅前がない小さな駅で、裏に行く道も不明です。美嚢川でr38が道なりに左折します。左手に城址の丘が見えているので、左折のタイミングを図りながらゆっくり走ります。「ここかな?」と思って曲がった道は、道なりにアーケードの掛かる商店街の市場道になってしまいました。寂れた商店街なのでバイク通行は禁止されていないみたい。シャッター商店街ですが、往時は栄えたのだろう。電鉄の高架下をくぐると、さっき通ったr38でした。その高架の手前に、城址への道標が立っていました。高架下の商店街看板前にバイクを置いて登城です。
2011/03/08
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日曜日は仕事があったので、半日だけバイクで三木探索しました。先週半ばの予報では、夕方から雨だったので諦めていたのですが、前日の予報は夜中からの雨に変わりました。1週間前の瀬戸大橋行では夕方からの雨予報に追われての探索だったので、雨を気にせずの出発になりました。曇り空の中、三田まで北上しました。ここでR176からr38にチェンジ、一路三木を目指します。この道、1月に初めて2台ツーリングした時教えてもらった道です。最初こそ適当に交通量がありますが、しばらく走ると気持ちのいいツーリングが始まります。山陽道の南側を沿うように走る道で、低山というかなだらかな丘の間を縫う道です。人家と田んぼが織りなす里山のおだやかな風景の中の時速50kmほどで淡々と進みます。昔は僕の近所でもあった一軒家の交番があり、警察官一家が地域に溶けこんで暮らす姿があります。小学校の時の友達が交番の子で、その横の原っぱで遊び、そこのお母さんに麦茶をもらい、警官姿のお父さんがたまに遊びに加わってくる。経済成長の盛んな時代でしたが、今よりよっぽどゆったりみんな暮らしていたように思います。本日のメニューは、信長軍団中国遠征の秀吉軍と1年半も対峙し、とうとう滅ぼされた播磨の雄・別所氏の三木城登城と、秀吉出世の立役者竹中半兵衛の墓所訪問です。1月に来たとき寄った「淡河道の駅」を過ぎました。この道の駅の裏にある「淡河城」登城もしたいのですが、まずは三木城登城優先です。気になる寺社はないかな?と、左右に眼を配りながらトコトコ走ります。「おぅ?」と右手にある神社が目に入りました。後ろに迫るトラックが気になってスルー。黒のVTRとすれ違います。路肩が広がった所があったので、すかさず左ウインカー出してトラックを交わします。Uターンして神社の駐車場に入れると、さっきのVTRさんも入っていました。挨拶して、僕と同じく探索かな?と思ったのですが、何かの寄り合いみたいで、数台の車から下りておられた方々と一緒にマイクロバスでどこかに行かれました。横の新型VTRと僕のを比べると、新型の方が計器類が寝ています。「淡河八幡神社」参道横に弓場がありました。その横には「淡河川」。拝殿横には立派な馬の銅像。源氏の氏神八幡様・弓場・横の川は堀・奉納馬・・・想像が働き、豪族の館とか駐屯地とか武器庫とか、なんだかそんな場所だったのかなあ?でも土塁など、周囲に対する造作がないから、軽いものなのかな?謂れ板が立ってる。冒頭に「有馬記念」の文字。「競馬と何の関係が・・・?」このG1レースは、明治の政治家・農林大臣・有馬頼寧氏を記念しているのだとか。この地を治めていた豪族・淡河氏を有馬氏が滅ぼし、淡河城は有馬氏の居城になった。これは前回、道の駅淡河の謂れ板に書いてあったこと。その有馬氏は、秀吉に従って軍功を積み、久留米二十一万石の大名になる。その当主がこの有馬頼寧さんとのこと。有馬氏は、赤松流れ。赤松氏は、村上天皇流れの源氏。源氏流れの有馬氏が、この八幡社を氏神にしたんだ。なんとまあ、また歴史雑学知識が増えました。奉納馬の腹に桐の紋が入っていました。きっと有馬氏の紋だろう。調べてみなきゃ。「御弓神事」の謂れ板も立っていました。そう言えばこの神事、TVで見たことがあります。拝殿にお参りすると、横に「ご自由にお持ち帰りください」とパンフレットが置いてありました。当然頂きました。10円のお賽銭でパンフレットをいただくのが気が引け、9円プラスしました。19円でも図々しいですね。裏に回ると立派な本殿がありました。拝殿も囲いも本殿も新しく造作されたようで、氏子さん達の強い思いが感じられます。半ば朽ちようと荒れに任せる社が多い中、ありがたい事です。僕みたいな訪問者にたった19円で、開放してくれてるんだからなあ。この地の裕福さも感じます。本殿裏に、「大山津見神」を祀る祠がありました。日本の甲冑国宝の8割が集まるという「大山祇神社」の分祠ですね。この神も戦の神。なるほど。古い鍵の付いた土蔵がありました。いつもこうして本殿裏を回りますが、ここでこの社の裏方は成り立ち、現在の地域における立ち位置が想像でき、面白いです。手水の手ぬぐいは綺麗なものがかかり、鬼瓦に獅子が載っています。
2011/03/07
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日本経済新聞は違うけど、朝日新聞のトップニュースは、携帯電話カンニングでした。確かに驚いたことではありますが、刑法的にはそれほど重い刑にならないだろうに。単独で、罪も認めているようだし、逮捕にまで至る事件なのかなあ?というのが正直な感想でした。証拠隠滅のおそれもなさそうだし・・・でもこの逮捕。この青年の身柄を確保することで、世間からの過度のバッシングから遠ざける意味の方が強いのかもしれない。マスコミの格好の標的になるし。自刃に至るかもしれないし・・・民法的には、どうなんだろう?全国の大学入試の経費は相当に上がったろうし、これから始まる国公立後期入試もあるし・・・青年に損害賠償する大学はないと思うけどなあ・・・TVニュースで、この青年が父親を失っていることや、お母さんが入寮してた予備校のある仙台に向かったことを伝えていた。僕が一番印象に残ったのは、おじいさんの言葉でした。「私らが支えていかなければ・・・」とおじいさんがマスコミのインタビューに答えたとか。社会からは白い目で見られ、過度のバッシングがあるだろう。それは、仕方が無いこと、身から出た錆です。でも、このおじいさんがいる限り、帰る家があり、安らぎを与えてくれる場所がある。家族というものは、世間様とは違う。どんな大きな罪を犯したとしても、一緒にバッシングを受け、支えていかないと。受験という狭い世界が、世界の全てになってしまったのだろう。本人はきっと軽い気持ちだったのだろう。世間の反響の大きさに、驚いているのだろう。大反省してると思う。こんなことで入学したら、生涯喉に刺さった魚の骨が抜けない。大学生活も晴れ晴れして送れない。世間の誰もが気づかなくても、自分は生涯忘れない。我が子が受験するようになったとき、どんな言葉を掛けられるのだろう・・・薄っぺらな言葉になるだろう。世間に知られて良かったよ。一浪してるらしいが、今年はけじめとして不正なしで合格した大学にも入学しない方がいいと思う。まあ、入学許可も下りないと思うけど。職を探すのもいいし、もう一度来年に向けて勉強するのもいい。この経験を教訓として、出直して欲しいと思う。頑張れ青年・・・ご親族・・・
2011/03/04
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姫路を過ぎてから風が出てきて、雨の前触れの風だなと思いましたが、今すぐポツポツきそうな空ではなかったので、高速降りてバイク屋さんに寄ることにしました。朝、走り出してすぐチュルキュル音に気づきました。宝塚に降りる頃にはそれが大きくなってきていました。チェーンの油切れのようだなと目星はついていたのですが、それは自分でやるとして無料点検してもらうことにしました。「こんにちは。点検して欲しいんですけど」とメンテナンスの人に声をかけると、「リードの方?VTRの方?」って。「ちょっと乗ってみますね」ってそこらを一周して帰ってくると、やはり油切れによるチェーンの鳴きと、カタカタ音もするとのこと。確かに乗ってた時は気づかなかったけど、傍にいるとすぐにわかりました。これはインナーフェンダーのビスのガタつきだそうで、ワッシャを入れて直してくれました。2年半乗って、車検がない250ccだから車検的な点検は一度もしてないので、7500円の1日2年点検を受けることにしました。ついでにリードは、1年点検3000円をすることにしました。CB400のスーパーボルドールが置いてありました。5年落ち・11000kmで43万円。新車だったら80万円ぐらいかな?400ccあれば高速も楽なんだろうなあ・・・。先週のグループツーリングで、2台のCB400SBがいました。どちらも女性が乗ってました。背の低い女性が乗ってるバイクは足付きがいいということ。取り回しも楽なはず。それと女性はメカ音痴と相場が決まってるから、故障も少ないはず。今乗ってるVTR250も女性乗車率の高いバイクです。しばらく先になるだろうけど、次はこれかな?と思っています。どこかでレンタルする時、これを借りて試してみましょう。まあ、教習所と同じバイクなので、大きくは違わないのだろうけど。「そろそろ・・・」なんて、バイク屋さんが手揉みしていますが、VTR250は高速で100km/h巡航がしんどいだけで、その他は二重丸。燃費もいいし、故障知らずだし、僕にぴったりです。僕は、車でももうあかんなあと思えるまで乗るタイプだから、商売にならんよ。車載ムービー瀬戸大橋1
2011/03/03
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また気持ちのいいブルーラインを東進し始めました。あれ~。片上大橋手前で「日生催し物渋滞中」の掲示が目に入りました。「う~む、バイクだから渋滞は問題ないだろうけど、海鮮の物を口にするには問題が多いな」で、パスすることにしました。その後、R250を赤穂・相生・七曲りと海岸線を走り、姫路ぐらいから山陽道復帰の予定でしたが、そのままブルーラインを北上し、「備前IC」から山陽道に乗りました。「赤穂IC」で下りて、日生をパスしただけで後半の海岸線に復帰する手もありましたが、そうすると時間的に雨予報の午後5時を高速走行中に迎えそうです。雨中の高速走行って経験がありません。よって、このまま自宅を目指すことにしました。「龍野西SA」で休憩。TV番組で紹介されたのをビデオでながしていたので、ここの一押しお土産のバウムクーヘン「千年杉」1050円を購入しました。朝寒さで避寒休憩してたのに、今度は暑いです。次は姫路を越えて「三木SA」休憩を予定していましたが、どうも眠くて仕方ありません。「朝早かったからなあ」手前の「権現湖PA」で休憩。バイクはゼロです。眠いときは糖分補給が効きます。アイスクリームを手にしました。短い休憩とアイスで眠気がなくなりましたが、予定通り「三木SA」で休憩。バイク置き場は僕で満杯。その後にやってきたバイクは路上駐車してました。全部大型バイクです。ハーレー・ドゥカティ・BMWの外車筆頭に、いくらするんだろう・・・こんなのおっさんでないと買えないね。暑いので服装も減量し、冬用二重バイクグローブからインナーを外しました。暑さ対策が効いたようで、その後の眠気はなくなり、一気に宝塚ICまでノンストップでした。SAで横で止まってたドゥカティさんが、僕へのさよならサインを残して一気に抜いて行かれました。速い・・・。中国道に合流する前、宝塚渋滞と掲示されていて下道に降りる事も考えましたが、3km渋滞だったのでそのまま突っ込みました。渋滞と言っても2速まで落としたことが2回だけで、停滞することはなく、鈍速な僕にはちょうどいいスピードになっただけでした。姫路を過ぎてから風が出てきて、雨の前触れの風だなと思いましたが、今すぐポツポツきそうな空ではなかったので、バイク屋さんに寄ることにしました。走りだしてすぐチュルキュル音に気づきました。宝塚に降りる頃にはそれが大きくなってきて、チェーンの油切れのようです。それは自分でやるとして無料点検してもらうことにしました。「こんにちは。点検して欲しいんですけど」とメンテナンスの人に声をかけると、「リードの方?VTRの方?」って。「ちょっと乗ってみますね」ってそこらを一周して帰ってくると、やはり油切れによるチェーンの鳴きとカタカタ音もするとのこと。これはインナーフェンダーのビスのガタつきだそうで、ワッシャを入れて直してくれました。2年半乗って車検的な点検は一度もしてないので、400cc以上の車検点検に当たる7500円の1日2年点検を受けることにしました。ついでにリードは1年点検3000円を。CB400のスーパーボルドールが置いてありました。5年落ち・11000kmで43万円。400ccあれば高速も楽なんだろうなあ・・・。先週のグループツーリングで、2台のCB400SBがいました。どちらも女性が乗ってました。背の低い女性が乗ってるバイクは足付きがいいということ。取り回しも楽なはず。それと故障も少ないはず。今乗ってるVTR250も女性乗車率の高いバイクです。しばらく先になるだろうけど、次はこれかな?と思っています。結局、帰宅まで降られませんでした。楽しいツーリングになりました。
2011/03/02
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瀬戸大橋たもとの「下津井」の風情のある街並みを、バイクを駐車場に入れて歩いてみました。「ああ、いいなあ」観光客は非常に少ないですが、古い町並みの家が現役で使われている。これがまたいいです。次の目的地は、「宇高連絡船」の発着港・宇野港です。ずっとR430・海岸線を東に走ります。陽光に煌く「渋川海岸」からの海の景色が素敵です。「宇野港」到着。四国高松と小豆島へもフェリーが出ているようです。予想以上に大きな港でした。JR宇野駅もありました。そりゃそうですね。橋のかかるまでは、中国地方から四国に渡る大動脈だったからね。次は「金甲山」です。r22からr74に入り、また海岸線を走る予定でしたが、r74への分岐がわからずr45を北上してしまいました。「児島湾」という表示が出てきて、?。いつものようにGPS+タンクバックにツーリングマップルという組み合わせなので、途中で気づいてたんだけどね。Uターンも嫌なのでr405に入り一旦金甲山を正面に見ながら登って、再び下り目的の海岸線に復帰しました。気持ちのいい海岸線を気持よく走り、ここで給油。250km/7L=35.7km/L。半分以上高速だったのに、これまた素敵な数字です。ガソリンタンクの約半分だから、満タンガス欠でこの倍走れるんですね。2ヶ月前に、ガイラシールド付けてから、高速を半分以上利用したツーリングでの燃費が良くなっています。平均燃費が32km/Lなのですが、高速利用ツーリングでは28km/Lに落ちていました。ところが、ここまで3回目、34km・33km・35km/Lという数字になっています。高速燃費が、2割アップしました。空力って、こんなに影響するんだ・・・驚きました。GSで金甲山への道を聞き、r217を経てr399に乗りました。名前はないようですが、金甲山スカイラインです。児島湾干拓で出来た広大な平野と岡山市街が見えます。山頂駐車場にバイクを止め、展望台まで歩きました。ここもかつてはそれなりの賑わいだったのでしょうが、2月といえども日曜日なのに売店は閉まり寂しい山頂でした。でも景色は抜群です。ほんと瀬戸内海って素敵です。こちらは、児島湖側。次は「岡山ブルーライン」。r399を北上し、児島湾大橋で児島湾を渡りました。大橋から見える西手の川が「旭川」です。宇喜多直家が国盗り物語していた流域です。備前の国盗りは、旭川と吉井川が運んでくる恵みの穀倉地帯の取り合いだからな。R2手前のr215を東進しました。ここのR2は、「信号なくハイペース」となっていたので面白くないなと思って。吉井川に突き当たり、ここで西大寺大橋を渡ろうと思ったら、岡山ブルーライン専用の橋みたいです。やむなくブルーライン側道を西進してバックし、ブルーラインに乗りました。ブルーラインに乗ると、一気に巡航速度が上がりました。「ここは高速道路ではありません」という看板が立っていますが、元有料道路なので速度が上がるね。ここを走りに来るバイクも多いようで、バイクピースを稼げました。向こうから先にしてくれる人もいて楽しいです。吉井川を渡り、左右の里山やその山頂を見て、「山城がありそうだな」なんて大昔を想像しました。1時を回ったので、「一本松展望台」で休憩しました。ヨットレースで何度もブルーラインを走っていますが、バイクで走るのは初めてです。そしてこの展望台で休憩するのも初めて。バイクがたくさん止まっているかなと思ったら、20台ぐらいいました。それらの間に僕が入れると、「おっ、ひこにゃんが付いてる」とか「これだけ大きければ効果高いだろうな。手作り感が強いけど」「これビニールテーブルクロスです」って、いきなり話しかけられました。何でバイク乗りって、どこでもこんなにフレンドリーなんだろう。ちょうどトラックに積まれて、CB400SBが出ていくところでした。「どうしちゃったのかな?」どこも傷んでるようには見えないから、事故じゃなくてここで動かなくなったのかも?遅い昼食はラーメンにしておきました。次の目的地「日生」で海鮮のものをなんかという算段です。
2011/03/01
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