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長男から、帰国したとのメールが入りました。仕事でフロリダであった学会に出席していました。10日間ほどの日程でしたが、アメリカで旅客機のハイジャック未遂・犯人逮捕事件があり、アルカイダが犯行声明を出したので、少々心配していました。フロリダ半島の南にあるハイチで大きな地震もあったし。彼も同じだったのか、親を安心させようと「今から行ってくるわ」と、往路・復路の詳しい日程と予定フライト便まで知らせてきていました。学生時代の海外旅行は日程を知っていましたが、働き出してからの出張や遊びでの海外旅行は、「・・に行ってきてん」の事後報告になっていたから異例でした。成田-シカゴ、ニューヨークJFK-成田は話題のJALはわかるのですが、シカゴ-オーランドもJLとなっていたのでJALのようでした。アメリカ国内便にもJALは就航しているのでしょうか?宿泊ホテルのことを知らせてきていたので、どんなとこで学会が開かれるのか、そのホテルのウェブサイトにアクセスしてみました。フロリダ半島の先っぽの方なんだろうか?キーウエストなんかだったら暖かそうです。でもアメリカ国内の学会ではなく、世界中から集まる大きな学会のようなので、オーランドの空港の近くでした。池があって、ゴルフコースがある大きなホテルでした。1年ぶりぐらいにグーグルアースを立ち上がてそこを拡大してみると、そこら辺はゴルフコースを思われる緑は散在し、池も散らばっていました。元は湿地だったのだろうか?フロリダには今でも大きな湿地があったような・・・長男からの帰国メールには、「帰ってきたら仕事が山ほどあって、今週は土日も休めそうにないから四十九日には帰れそうにないわ。ごめん」とも書かれていました。院生時代、毎週英文のコピーを山のように持って帰ってきて、格闘していた姿が蘇りました。ネイチャーとかの科学雑誌のウェブ版を、研究員で手分けして読み要約して発表していました。日々進歩する最先端から遅れるわけにはいかないからと言ってました。結局、「研究はハードすぎる」と会社に就職する道に進みました。iPS細胞研究をしてたから、今最もホットな分野だったのでしょう。今頃、学会の報告書を書き上げているのかな?四十九日は、その次の2月の最初の日曜日で間違えているのかも?と思いましたが、それを指摘すると無理して帰って来るかもしれないので、「大丈夫だよ」とだけ返しておきました。子供たちが元気に活躍してることを聞くだけで、子供たちに他の望みはないなと言う感じです。親ってこういう心境になるんだなと、しみじみ感じています。
2010/01/30
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今朝の実家の片付けのことです。居間など生活スペースの片付けを終え、先週元弟の部屋を終えました。そして月曜日から突入した元僕の部屋に、ことの他苦戦しています。先に実家を出た僕の部屋の方が、倉庫化が激しいのもあり、まだ1/3というところです。今朝、とうとう僕の勉強机の所まで片付けが進みました。ワクワク感満点で、引き出しを開けました。小学校と中学の成績表がありました。小学校の時は抜群だったけど、猛勉強して入った中学では普通、席次も中の中から上というところを行ったり来たりです。小学校の時使ってたソロバンが2丁。小さな桐の箱が出てきました。むむ・・・なんやこれ?ひょっとして・・・予想は当たりましたが、何故か僕の勉強机の中に弟の臍帯・・・そう弟のへその緒が入っていました。僕の高校生の頃から、ずっと行方不明だったものです。僕のは昔住んでたお店の2Fのタンスのあそこに入ってて、それを見つけた弟が「僕のは何処?」と母と3人で探し回りました。「捨ててないからどっかにあるよ」でそのままになっていたと思います。中学生の時からこの家に住んだから、弟の臍帯を行方不明にした犯人は僕だったのかもしれません。また同じような桐の箱が出てきました。「え~、僕のもここにあるやん」いつの間にここに持ってきたのでしょう。僕ら兄弟のお宝発見です。大昔の大学のパンフレットを発見。高2の時、ここを受験しようと、大学と予備校のパンフレットを持って、塾に行かせてくれと親に頼んだ記憶が蘇りました。「ヨットばっかりしてて受かるわけないやろ」とさんざん言われ資金援助はしてもらえませんでした。ならばとガソリンスタンドのバイトを探してきて、「これで資金捻出するから」と言ったら、「そんなことしたら、落第するやろ。1年落第したらなんぼ掛かると思うんや」と、ここでもボロクソに言われました。そして高3になって、「お金は出したるから」と裏口入学の話を持ってきました。僕はバカにされたと思い、即効で断り、中高に続く大学にエスカレーター式に入学しました。ほんとはその時、怒鳴りあげたら親にも僕の怒りや悔しさが伝わったと思います。でも僕は「イヤや」とだけ言って自室に戻りました。あの時それを受けていれば、今でも大学時代を抹消したい気持ちで生きていたのかもしれない。あの時、ほんとに断ってよかった。子供の素直なチャレンジを応援せず、わが子の能力をバカにする仕打ちに碌な親じゃねえと思いました。結婚してからまた学生になりました。その経験から、僕の子供たちにアルバイトもクラブも子供たちの言ってくるままみんなOKしました。結果は、落第することもなく、ストレートで僕が目指した大学より偏差値の高い学校に合格しました。長男は高3の夏休み前までアルバイトでしっかり稼ぎ、夏休み前に河合塾のパンフレットを手に、「アルバイトやめて受験勉強するわ。英語と数学だけここに通いたいねん」と言ってきました。もちろんOK。次男は、中3のお盆前のインターハイまでクラブをやり、同級生たちと一緒にクラブを引退しました。塾も行かずにこれまた一発合格しました。このとき、親に密かにリベンジ出来たと思いました。「人なんて、二兎でも三兎でもなんぼでも追える能力を持ってんねん」「あの時」を親に言うと、腹が立つだけだし、親も辛いだろうから親との会話で封印してきました。きっと過去の僕は、「あの時」を忘れないように引き出しに残しておいたのだろう。そして今日、そのパンフレットを燃えるゴミに捨てました。僕が鬼界入りして親に会っても、「あの時」は口にしないでしょう。子供って、親が子供を想う数十倍親を想ってると思う。親を傷つけないようにしてると思う。親が子供のヤリタイを無視したり拒否したりしなければ、親子喧嘩なんて起きない。僕の息子たちだって、僕が気づかないだけで僕の行動を見て、「ああはなりたくないものだ」と思った時があったかもしれない。でも子供って言わずに我慢してる。主がいなくなった実家の片付けというものは、僕が子供として関わった家族との濃い時間へのインナートリップの旅のようです。
2010/01/29
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今朝も変わらず実家の片付けをしました。早朝自転車や早朝バイクをやってた時は、いくらでもネタがあったのですが、最近はネタがありません。実家を片付け出したときに一番最初に探したのが、母の実家の本家の明治の中興の祖の方のことが書かれた本でした。中学だったか高校だったかの時、母から借りて読みました。「僕の先祖ってすごい」と思いました。以来ずっと、僕の中で一番大切な本です。母もそうだったのでしょう。書棚ですぐに見つかりました。それ以来毎日読んでるのですが、大切な本を風呂で読めるはずもなく、食事時間他だけだからなかなか進みません。これからは僕が宝物として保管しましょう。子供たちにも読んでもらわけりゃと思っています。翁の3回忌に出版された本なので大正時代のものです。翁の追悼録なので非売品で、親戚や関係者に配られたものです。序文が、公爵大隈重信だったりします。もう1冊は、翁の作った苦学生を支援する財団の50周年記念を記念して作られた同じく追悼録です。山持ちで農家、呉服商でもあります。銀行・鉄道会社・糸へん会社など多くの会社の経営もやり、財産の一部で財団を作り、苦学生に資金援助していました。お盆に本家に親戚が集まる席が毎年あり、母の実家の町内なので、僕も数度参加しています。財団は今でも続き、書生さん達が本家の敷地内にある寮にいました。本家は門からえっちらおっちら山道を上がったところにあります。歩いて10分ぐらいかかった記憶があり、日ごろ暮らす平地の家にも招かれましたが、庭が僕の通っていた小学校の運動場より大きくてたまげました。足尾鉱毒事件で有名な田中正造さんのパトロンで、田中さんが衆議院議員を辞職した後、推されて次の県選出衆議院議員になりました。その時の名刺の肩書きが「商人百姓兼衆議院議員」で、偉大な田中正造の次だからなめられたらあかんと思い、顔一面にヒゲを蓄えたエピソードとかもその本に載っています。「どうせ自分は百姓議員だ。名輩の顧みるものなく、才幹の秀るものはない。しかも偉人田中正造翁の後継者として選出された自分が唯碌々として議員の一隅にその存在を無視されることは心外だ。自分はこの独特な風貌と奇抜な名刺を振り回して足半議員には足半議員の主義主張と骨がある事を長袖議員に見せてやる」だって。田中さんに頼まれて学資援助した人に黒沢酉蔵という人がいます。富国強兵が国是であった時代に大資本に拳を振り上げた田中さんに感銘を受け、学業を中断して手足となって動いた青年です。田中さんから「そろそろ学業に戻れ」と言われ学業に戻りました。資金が殆どない田中さんからの学資援助なので、大切に使わなくてはと励んだそうですが、じつは本家から出ていた資金でした。黒澤さんの本に載っていました。後に雪印を創業なさいました。本家から娘さんが嫁いだ先が正田醤油で、そこから天皇家とのつながったりしています。そんな関係で、母は「雪印を買え」「キッコーマンを買え」「JRでなく東武電車に乗れ」と・・・母は、翁のお母さんが書かれた家訓を墨で清書し、額に入れて飾っていました。僕も貰ったので、弟も貰ってると思います。実家を片付けていると、清書がまだ何枚も出てきました。大正時代に書かれた本は、旧仮名遣いなので読みにくいですが、多くの方が翁の想い出を書かれており、当時の時代が偲ばれなかなか面白いです。書いていただいた方を調べると、当時の大立者の方々らしく、電子辞書に名前が載っている方ばかりでした。その後代々衆議院議員さんを輩出されていたり、僕の趣味の謂れ読みからの広がり同様、こちらもなかなか面白いです。当時、家に伝わる祖の記述があり、菅公と書かれた所や、大鉄冠鎌足と書かれた所もありました。僕が母から聞いていたのは菅公で、勉強をしっかりやりなさいと言われていました。菅公は、菅原道真さんで、我が家が氏子になってるのも天満宮です。子供たちの名前もここで付けてもらいました。大鉄冠鎌足って?調べてみるとやはり中大兄皇子(天智天皇)の部下として、蘇我入鹿をクーデターで倒し大化の改新を遂行した中臣(藤原)鎌足でした。菅原氏と藤原氏からは、後年多くの堂上家を輩出していますが、両方が祖というのも眉唾だなあと思いました。長い年月の間には、いろんな結びつきがあっただろうから、それもあるのかなと思いながら、今暮らすほとんどの人の家系を辿れば、こういうのはごくありふれてるようにも思います。翁のような先祖に比べると、僕なんてどうしようもないです。でも、子供達の勉学にだけは惜しみなく応援出来たと思います。これを代々続けていると、伝記になるような子孫を輩出できるなるのかも?です。
2010/01/28
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こないだの日曜日に、法事のために実家にやってきた義理妹が、元僕の部屋で「うわあ~」ってすごいものを見つけました。りんごのミイラです。12個ぐらいケース箱に入ったまま干からびていました。みんなで「こうなるんだ」と覗き込みました。その時家内がいなかったので、僕はそれを台所に箱のまま置いておきました。そして今日、やっと家内はそれに気づきました。「うわあ~何これ?」「りんごみたい」「へ~こうなるんだ」とみんなと同じ感想を述べていました。実家の片付けですが、昨日から最後の部屋元僕の部屋の片付けに突入しました。先週、元弟の部屋の両親の遺物の片付けを終え、弟の荷物をどうするか相談すると、レコードのターンテーブルとアンプを家に持って帰るそうです。レコードがあるのかなあ?そう言えば弟のLP盤などが見当たらないような気がします。僕も結婚してから実家にあったLPをみんな家に移動させたから、そうしたのかもしれません。ターンテーブルの電源は入りましたが、果たして実働するのか?疑問です。元僕の部屋も物置状態になっていてます。箱のままのお皿など食器類や鍋、シーツやカーテン生地など糸編物が多いようです。もうすぐ僕の机に到達します。引き出しの中に何が残されているのでしょうか?弟の机の引き出しの中身も弟が使っていた物ばかりだったので、僕の机の中身も僕の物ばかりでしょう。ちょっと楽しみです。1週間あれば僕の部屋もあらかた片付くでしょう。終えたら、3年前に片付けた父の部屋をもう一度やってみようと思っています。まだ母も健在だったので、父の下着など使う人がいない衣類を中心に片付けました。今一度総ざらえしてみましょう。昼間、実家のミニ改装の最終打ち合わせをして発注しました。風呂のドア、勝手口、ついでに僕の家の風呂ドアの見積を出して頂いていたのですが、職人さんとの打ち合わせで、風呂とトイレの窓をすりガラスに変更することを追加しました。道路を隔てて向こう側が、古寺跡の為建築物が建てられないので、立ち退き跡が国に買い上げられベンチだけが置かれた公園になっています。お風呂で立ち上がると、クリアガラス越しにきれいに見渡せます。我が家の敷地は道路から1m以上上がってるので道路から見えないのですが、同じく上がってる公園からは見えます。窓の外にカーポートによくあるアクリル屋根があるから安心してたのでしょうが、「これはちょっとねえ」と家内からの提案で、すりガラスにすることにしました。子供たちの奥さんが泊まると、気になると思われるからです。
2010/01/27
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日曜日は午後から神戸で仕事でした。朝は先週同様母の法要、五・七日です。あと2回でひとつの区切り満中陰・四十九日法要になります。何故毎週法要をするのか、お寺さんから聞いたことがあります。故人本人は、自分が亡くなったことにまだ半信半疑なんだそうです。「ほんまに自分は死んでしまったのか?寝てるだけじゃないのか?」なんて思いながら、そこらをうろうろしてるそうです。「あんたは死んだんやから、こっちの世界に住んだらあきません。はよあっちの世界に行きなはれ」みたいな感じで、毎週法要をするのだそうです。そうするとだんだん「私は死んだんだなあ」とわかって、向こうの世界に旅立っていくのだとか。そういう知識を持ってお寺さんのお経を聞くと、「往生するぞと・・・」という言葉が聞き取れます。僕がきちんと送るから、往生してください。3年前父が亡くなった時、父が息を引き取ってすぐ母は「お葬式は家族だけで・・・」なんて僕に言い出しました。「お父ちゃんもそう言ってたから・・・」僕はその言葉を信用しませんでした。我が家は分家で仏様がいないのに、簡易仏壇を作って祖父母の写真を飾ったり、仏像やそのようなものを旅先で買ってきてそこに飾っていた父がそういうことを言ったとは思えませんでした。「質素で十分」と話していたとは思いますが、「家族だけで」は極端です。最近家族葬が増えているようですが、友人や親戚にまで内緒で、「亡くなりました。もう葬儀を終えました」は、あまりにお世話になった親戚や友人にひどいんじゃないかなと思うわけです。そうした家がありましたが、「死因が・・・」「親戚仲が・・・」「なんか変だなあ」なんて僕は思ってしまいます。経済的に苦しくもないのに、友人や親戚を排他してしまうと、「経済的に相当苦しいんじゃないか」と思われて、お金さんが寄ってくれなくなりそうです。お金さんだって、賑やかで明るい笑顔の家に寄りたいと思ってるはずです。友人は、故人のだけじゃなくて、残された家族の友人も含みます。こういう機会で、家族の別の面を見せることは、より深い関係になるはずです。それが経済的なことも、人生の楽しみや幅につながっていくように思います。母特有の「実質的に何の得もないものは、めんどくさいから簡素にする」と言い出したと思いました。そして何より「喪主をするのがかなわん」からなんでしょう。ははあ・・・「僕が喪主をするから、お母さんは何もしなくていいから。僕も弟家族もみんな揃ってるし、大丈夫だから」と言うと、いっぺんに楽になったようでした。僕が大学生の時、東京の大学を卒業した母の同窓会が京都でありました。関西在住の同窓生が2人集まって頑張って準備しました。ところが先頭に立ってた方が行けなくなり、母に幹事役が回ってきました。すると・・・「どうも最近調子が悪いから、代わりに幹事やってくれないかなあ・・・」なんて、僕に役が振られました。「まいるなあ」と思いながら、母の性格には慣れてるから「まあしゃあないか」と幹事の代役をやりました。こういうのは嫌いな方じゃないので、好評裏に終わりました。本気で「娘と見合いしないか?」という同窓生の方もいました。面倒になるとドタキャンする人だから、面倒でない状況にしてあげると、明るく楽しそうにやっています。親戚への連絡等みんな僕ら夫婦でやりました。長男だから当たり前といえば当たり前ですが。父の時も今回の母の時も、ごく普通の葬儀をやりました。その後も普通に毎週法要して、四十九日には皆さんに報告して、百ヶ日以降に納骨するつもりです。この日はお客さんがありました。法要を終え、母の友達の方を迎えに行きました。僕と弟は西宮の私立幼稚園に通いましたが、弟の時の同級生のお母さんです。この幼稚園、親も保育を手伝う(と言っても、当番制で子供に内緒でお昼やオヤツを作りに来るなど)親子が一緒になって子供たちを育もうとする濃~い幼稚園です。当時他にはなかった4才からの3年間保育で、週に2回しかなく、1日は音楽しかしない、そして3時ぐらいまでの長時間、独特の幼稚園でした。僕が通った頃は、4才の1ヶ月目から家から電車とバスを使って1人で通わないといけなかった。そんな教育に共感した親が、遠くから子供を通わせていました。僕の同級生は未だに同窓会をやってるし、母親同士も母友同窓会をたまにやります。だから母の葬儀に、母友5人、僕の同級生3人が来てくれました。同窓生がたったの15人なのに、素晴らしい出席率です。僕が母の死を正月明けに母の名簿の方にハガキで知らせたので連絡をしてきてくれました。「是非線香を上げさせて・・・」というありがたい連絡でした。2人の子を同じ幼稚園に通わせた弟家族と一緒に、1時間以上いろいろとおしゃべりさせてもらいました。弟が幼稚園時代、小4の僕が弟とこの方のお嬢さんを小学校帰りに電車とバスを使ってお迎えに何度も行きました。「面影があるね」と言われてしまいました。親が縁付けてくれた方々・・・僕が縁を引き継いでいかなきゃな。
2010/01/26
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昼休みに画材屋さんに行ってきました。文房具屋さんや百貨店の画材売り場に踏み込んだことはありますが、真っ直ぐに画材屋さんを訪問したのは初めてではないだろうか?小学生の時、授業で描いた絵が校内で選ばれ、阪神間の小学生展覧会の学校代表になったことはあります。クラスみんなでその展覧会に行き、飾ってある僕の絵が恥ずかしかったのを覚えています。たぶんあまり下手くそではないと思うのですが、絵を書くのは好きではありません。絵が適当に描けるのは、母親から受け継いだ血だと思います。そしてそれは次男に行ってると思います。彼の絵は、かなり上手です。まあそういうことは関係なく、今回は母の絵にからんで画材屋さんを訪問しました。僕が実家に帰った50才で、母は仕事を引退し、絵画・フラダンス・ヨガ・・・いろんな習い事を始めました。絵は元々かなり上手で、水彩画・墨絵・油絵といろんな絵に挑戦しました。僕の家の壁にも2作品飾られています。大家の作品とは月とスッポンの絵なのでしょうが、僕的には一番値打ちのある作品です。描いた絵をそこらに放ったらかしているので、「これ頂戴。飾るわ」と貰いました。するといつの間にか僕の家の壁に飾られています。額や飾る器具を買って、僕らのいない昼間作業をしたのだと思います。お婆ちゃんの絵が飾られている家で育つというのは、きっと子供たちにとってもいい影響があると思いました。母宅を片付けていると、墨絵が大量に出てきました。絵の具や墨もたくさん出てきて、捨てるのが忍びなく1つにまとめました。元弟の部屋に無造作に置かれていた油絵もたくさんあります。毎年のように展覧会に出品していたので、その時の額が付いたままのものや、母の名前と賞が書かれたものがぶら下がってるものもありました。でも大半は、カンバスのままの作品です。それらを見ながら、ふと思いました。トイレの壁にピカソ展のポスターが貼られていたけど、母の絵に変えたろう。壁に合う大きさの気に入った作品を居間に下ろしていたら、家内が「これいい絵ね」と言うものだから、早速画材屋さんをうかがうことにしました。店員さんに事情を話し相談します。額にもたくさんあります。油絵用の厚みがある額を選ばないといけない。ガラスかアクリルの正面があり裏蓋のある額と、作品に額を釘付けする簡易額がある。額を下げる器具が必要です。トイレなど水気のあるところには、湿気に注意しないといけない。写真のプラスチックパネルのような軽い額を考えていたけど、そうも行かないようで安くても1万円コースになるそうです。「絵を持ってきてください。絵に合うのを探してあげますよ」。そんなたいそうに考えていないんですけど・・・横で社長さんが、「この絵に合う額選んで下さい」と初老のご婦人が持ってきた写真を見ながら考えています。絵画友達なんでしょうか、3にんのご婦人に囲まれて・・・嬉しそうです。
2010/01/25
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僕は毎年冬になるとパジャマの上に「どてら」を着ます。年間3ヶ月ぐらい着てるかもしれません。低反発マットを敷布団にする前は、電気カーペット・敷きふとん・敷きふとん・毛布・身体・毛布・掛け布団だったのですが、以降は電気カーペットがいらなくなりました。電気カーペットの時代は、暑すぎて掛け布団を蹴ってしまい朝方寒くて目が覚めていたのですが、カーペットなしにしたら朝まで快調です。家内は新しい電気カーペットを使っているのですが、安全設計で途中で自動的にスイッチが切れてしまい「肝心の朝寒いの」と言っています。低反発マットを勧めているのですが、どうもあのしっくり感が好きくないらしいです。極寒の2ヶ月ぐらいだけですが、ドテラのまま寝ます。このぬくぬく感がいいです。僕はエアコンが好きではないので、僕の部屋のエアコンはずっと開店休業です。ドテラがないとサバイバル生活になってしまいます。このドテラ、ものすごく長く使っています。数十年です。中学生の頃からだと思います。僕の母方のお爺ちゃんの形見の着物を、母親がドテラにしてくれました。お爺ちゃんは、近衛兵の隊長をしていました。実家には、天皇陛下からもらったという勲章があります。秋の叙勲とかで聞く名前の勲章ですが、勲章のランキングはよくわかっていません。でもそのお爺ちゃんが着ていたものが着れると、大喜びした覚えがあります。綿がモコモコ入っています。着物がすり切れると継ぎを当て、綿のモコモコがヘタってくると、新しい綿が入るのか綿を打ち直すのか、古い薄っぺらになった布団が復活するように元通りになって帰ってきます。「あんた、みすぼらしくなってきたね」と母に言われて渡すと、復活して帰ってきます。その母がいなくなり、限界に来ていた紐を新調することにしました。これだけ使っていると、ドテラ本体を新調しようとは思いません。だいたい形見の着物を他に変えようなんて思いもしません。母が3才の時亡くなった祖父の形見なので、僕よりも長寿命で80年以上生きています。家内に「どっかに紐ないかなあ?」と聞くと、えらくカラフルな紐がたくさん出てきました。僕らが結婚し次男が2才ぐらいになった夏休みに、車で北関東の僕の両親の実家を回りました。弟も誘い5人で帰りました。その時健在だった父方の祖母からもらったそうです。着れなくなった着物が雑巾になったり紐になったりして再利用されるのでしょう。子供たちの年齢を考えたら、この紐も二十年以上の選手です。「よう、こんなん置いてたなあ」「大事に使いなさいよって、渡されたから捨てられないもの」家内は、その紐達をじっくり見ながら、「昔の人は丁寧に作ってるね」と関心しています。その横で僕は裁縫です。無事紐が復活しまたこのドテラの寿命が伸びました。きっとこのドテラ、死ぬまで着てるでしょう。写真でしか見たことがないお爺ちゃん、母親自慢のお爺ちゃん、母親の手で何度も何度も再生してきたドテラ、こいつ僕にとっては濃いです。今度父方のおばあちゃんの紐も加わって更に濃くなりました。今朝も1時間、母の家の整理をしていました。軍服姿のお爺ちゃんが、くすんだ写真の中から僕を見ていました。僕は、押し付ける母より父の方がずっと好きだったけど、父親が亡くなった時感じなかったものを感じます。なんだかんだ言いながら、男の子は母親との結びつきが濃いんだろう。男の子は・・・というより子供はみんなそうなのかもしれない。涙を流すような感傷に浸ることはないけど、1つ1つの遺物に想い出がくっついて思い出されます。しかも、やだったことは消えてしまい、楽しかったことや嬉しかったことばかり思い出されます。母の家がある程度整理されるまで、早朝自転車も早朝バイクもお預けになりそうです。乗ろうという気にならず、母親の家に吸い寄せられてしまいます。何なんだろう、これは・・・
2010/01/23
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日曜日、篠山と柏原の境にあるR176「明治のトンネル」の後、黒井城址に登ることにしました。上天気なので登山にはもってこいの日です。遠くからでも、人工的な造作がされたと思われる平たい山頂が見えます。中腹に赤い建物も見えます。近づいてみると、麓からの比高差が随分あるように見え、僕らの貧脚では無理かも?中腹の赤い建物まででも絶景が楽しめそうなので、無理ならそこから下山していいなと。「黒井城址」の看板に従って進むと小さな駐車場がありました。その横には「登山口」の看板と、杖が10本ほど置いてあります。いきなり長い階段です。そこを上がった所に杖が落ちていたので家内に渡します。いきなりの階段で先が思いやられましたが、羽束山の九十九折りよりは斜度がマシな道のりでした。途中2箇所に獣よけフェンスがあり、扉の開閉をして登ります。「ハチに注意」と大きく書かれています。いかにもそういう場所ですが、冬はスズメバチは壊滅してるので安心です。僕は少し早めに先に行き、振り返って写真を撮ったり、ムービーを回したりで、家内はいつものように規則正しいマイペースを刻んでいます。途中何度も眼下の絶景を見ながら赤い建物のところまで上がってきました。下草が刈り取られこれまた絶景です。ここは3段に山が削られており、赤井氏や光秀の腹心だった斉藤利三が主だったいた往時は、ここに相当な防衛線が作られていたのでしょう。この赤い建物は、曲輪跡に建てられた模様です。やだけ・・・矢竹・・・武具栽培?ここまでで頂上までの3/4、頂上まで登っても日没までには麓に降りれそうで、体力的にも大丈夫そうで上を目指すことにしました。相変わらず、家内の前に行ったり後ろになったりしながら登っていると、先にいる家内から「石垣が見えてきたよ」。麓からも肉眼で石垣らしきものが見えていたからあるだろうと思っていましたが、江戸時代前に造作された割にはきれいに石垣が残っています。竹田城ほど立派ではありませんが、山頂にこれだけ残っているだけでも素晴らしい保存状態です。世の中が平和になった江戸時代以降の平地に大きな堀をめぐらし、壮大な天守閣が周囲を圧するお城も綺麗ですが、それ以前の最後の防衛砦としての山城がいいです。石垣の石積みも粗いですが、質実剛健な感じがします。日頃は麓の館で政務を執るので、住まいとしての快適さや豪華な室内装飾もなかったのでしょう。風の強い山頂だから、天守閣と呼べない低い本丸が建ち、二の丸跡と立て札は建ってるけど曲輪程度の建物だったと思う。でも、そういうのを想像しながらここを見ていると、ほおが緩んでしまいます。必死で防戦した赤井氏、不利な麓から防衛線を押し上げながら攻撃してきた明智軍の圧倒的な兵力、双方の攻防戦が400年以上前にここで繰り広げられたんだなあ・・・眼下に広がる雄大な景色を見ながら、うれしくなってしまいました。二の丸と本丸との間には、僕のような素人でもわかる堀切の跡も残っています。さらにきれいに下草が刈られ、地元の人のこの城跡を想う気持ちを感じられます。南の黒井駅側の景色はもちろんですが、東西南北全ての下界が見事に見えます。なるほど、ここの城に詰めていれば近隣の動きは手にとるように分かります。時折走るJR線の音や踏切の音も、間近にあるように聞こえます。すごいところです。黒井城を攻め上がりました。1月ですが800mの山登りでしっかり汗をかき、背中の下着から冷えてきます。家内に言われてハンカチで家内の奥襟から拭きましたが、流石に水分が多い女子、僕以上に濡れていました。入山料も要らないし、おみやげ屋さんもないので、僕らのような観光客の地元に落とすお金なんて知れてると思うけど大したものです。きっと地元の方自身がたくさん登り、愛してやまないお山だからでしょう。時折聞こえるキツツキなのか木を打つ音がする中、下山しました。上りに40分、下りで20分、トータル1時間の登山でした。駐車場近くにある「春日局」が生まれたお寺に回ってみました。信長を討った逆賊光秀の参謀格の斉藤利三の娘が家康に引かれて家光の乳母役(教育係)に抜擢されるところをみると、家康の光秀に対する気持ちを感じます。家康が信長接見のために京都に入る予定だった当日に起こった本能寺の変。定説になってる光秀裏切り説にはどうも無理があるように思えてならない。黒井城の赤井氏・浅井長政・篠山の波多野氏・伊丹の荒木村重・三木の別所氏・・・元信長寄騎の将に冷たい仕打ちで次々裏切らせ、豪族滅亡に追い込んだ信長の次のターゲットは家康だったのではないだろうか?定説を書物として後世に残した秀吉には、光秀は逆臣でなければ織田家から政権をもぎ取った自分の立場の正当性が保てない。秀吉自身が後年信長に反旗を翻し、自分の腹心であった黒田官兵衛を監禁されてしまった村重と茶飲み友達になったのをみても何かおかしい。このお寺はお堀もあり当時の館跡でしょう。堅牢な山城を背に日頃はここで政務を取ったのでしょう。もうすぐ5時、夕景が迫った黒井城を後にして、春日ICから一気に高速で帰宅しました。「今日は面白かったね」と言ってもらえ、僕の真冬登山メニューも好評だったようです。かいた汗で背中から冷えてくるので、すぐに風呂に入り着替えました。
2010/01/22
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日曜日の法事後、篠山を目指しました。r12が最短ですが、西峠付近の雪や凍結が心配で、長尾山トンネル・r33・r68で三田に抜けR176を北上することにしました。R176も三田から北は空いています。高速に乗るとすぐなのですが、昨年2人で自転車で走った所で話題が咲き、「あの山はね・・・」なんて寺社の謂れ読みで得た歴史を披露しながら地形を楽しみます。篠山を越え、篠山と柏原を隔てる「鐘ヶ崎トンネル」に来ました。「そうだ」と平成の鐘ヶ崎トンネルを通らず昭和の鐘ヶ崎トンネルに向かいます。閉ざされたトンネルを指さして「これがね・・・」、「バイクで来たときこの上にあるだろう明治のトンネルを見ようと、この細い道に入っていったんだ。でもね・・・」。平成のトンネルを通って柏原側に抜け、すぐに明治のトンネルへの道に入りました。金山登山の基地でもある公園に駐車し、ここから徒歩です。昭和のトンネルを柏原側から見て、フェンスで車両が入れないようになって落ち葉に埋もれる道を歩いて行きます。トンネルまで800mの距離の緩い勾配の道です。鹿の糞がたくさん落ちてるので足元に注意しながら歩きますが、たくさん踏んでるでしょう。鹿の鳴き声は聞こえませんでした。熊も冬眠中だし、この時期最も注意しないといけないのは猟師でしょう。トンネルに着き、謂れを読み、明治時代の工事資金の寄付者を眺めていると、筆頭に「織田信・」の名があるのに家内がありました。「寄付金は一番じゃないけど一番に載るのね」と家内が気づきました。寄付金額は3番目だったけど、さすがに明治時代まで柏原藩の殿様だった名家、筆頭に記されていました。5~6番目に黒井の荻野・・という名前もありました。黒井の荻野と言えば、明智光秀の丹波平定で篠山の波多野氏とともに敗れた黒井城の荻野(赤井)氏の子孫でしょう。このような名家は、財を脈々と受け継ぐ素封家が多いですが、貧してもドンと寄付しないと先祖に申開きが出来ないし、近隣の方々にも示しが付かないでしょうね。以前行けなかったいくつかのお寺に行こうと思っていましたが、柏原の織田、黒井の荻野の名を見たので、戦国ツアーに行き先を変更しました。既に2時なのでJR柏原駅ロータリーに駐車し、駅舎内の「森のレストラン」というところで昼食にしました。「猪と黒豆コロッケ定食」を家内はたのみ、僕は「鹿スパゲティ」を注文しました。家内が駅の方にトイレに行ってる間、パンフレットを見ていると、ここが雑誌に紹介された記事が目に入りました。「名物猪ラーメン」となっていたので、注文を変更してもらいました。家内と交代で僕も駅の改札の方の探索に向かいました。JRのパンフレットを数種類お持ち帰りです。持ってきてくれた僕のラーメンを見て「あれっ?スパゲティじゃなかった?」「ここではスパゲティがこれなんだって」「へ~そうなんだ」と信用しています。慌てて「これに変えてもらったの」と経緯を説明します。冗談が通じないというか・・・僕を信用しすぎるというか・・・まあそれがいいところです。付き合い始めた頃、「今日は僕、男のあの日オンスで隊長が優れないんだ」なんて冗談を言ったら、「そうなの」とまともに信じられてしまって、数週間後まだ信じているので謝ったことを思い出しました。柏原で織田さんの長屋門などを見て黒田に向かいました。
2010/01/21
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日曜日のあの時刻の震災追悼イベントから帰宅すると、家内は起きていました。朝食・お風呂・着替えをしながら、午後からのメニューを考えていました。母の家に行き、母の四・七日法要の準備をして、やってきた弟家族と共に片付けの続きです。母の宝石箱が出てきました。姪に「いいのが出てきたぞ。好きなのがあったら持って帰り」義理妹と姪にたくさん持って帰ってもらいました。小2の姪は無邪気に「これかわいい」と言い、義理妹は少し恐縮気味でしたが、母の形見は置いとくより使ってもらう方がいいので、家内も欲しいのがあるだろうけど弟のところが優先です。「遠慮することはないよ。好きなものがあったら、これに入れてみんな持って帰り」と、宝石箱も渡しました。残った宝石箱に残りの宝石を詰めて整理終了です。法要後、お寺さんとしばらく15年前の話をし、11時頃丹波の寺社巡りに出発しました。お寺さんとこも本堂が傾き、「引き起こし屋」さんに起こしてもらい、造作をやりかえて再建させたそうです。我が家のアパートも2Fから上の縦柱が折れ、屋根の部分だけが横に傾きました。建て替えようとお住まいの方に相談したら、「住む家がなくなる」と言われ「引き起こし屋」さんにお願いしました。数日掛けてゆっくり紐とクレーンで引っ張り、柱を補強して出来上がりです。壁や窓など痛んだ造作を修理しました。世の中には、すごい商売があるものだと感心しました。でもお寺さんの話だと、需要が少なくもう廃業してしまったそうです。家や仕事場の修理も嵩み、大きな資金を借りることになりました。お寺さんとこもそうでしょう。リュック&マスク姿と、「ここらはまだマシだったね」という言葉が飛び交いました。僕もそう言っていましたが、心の中では泣きそうでした。皆さんそうだったと思います。自分の口から泣き言を出したら、一気に心が崩れてしまいます。特に家長の僕が泣き言を言うわけにはいきません。家族全員を不安に落としてしまいます。火事場の空元気でもいいから、笑わなくっちゃと。長男が頑張って私立中に入ったばかりで、次男が小5で小6の受験勉強本番に突入しようとするときでした。石にかじりついても教育費を捻出しなければなりません。先祖はみんな高い教育を子供に授けました。家系の将来を握ってる一番若い子供への投資を怠ったら、家系は消えて行く。そしてそれが最も効率のいい投資になる。僕はそう思っています。トップランナーである必要はないけど、時代のフロントランナーに属していられる子供時代を送らせてあげたい。いつかまた我が家の家系の子孫からトップランナーが出るはずです。ご近所で一番大きなおうちの門が壊れたまま、何故かそのままお住みになっています。「なんで直さないんだろう?」、お仕事は建築屋なのに。中規模マンションやホテルを建築するお金持ちなのに・・・ある日引越されました。会社が倒産したのだとか・・・地震で需要が急拡大するのに・・・大きな会社だったから被害も甚大だったようです。ご贔屓にねがっていたので、社長さんが来られました。サラリーマンになって再起を目指しているそうです。頑張ってください。びっくりするような値段で売りに出される土地がたくさんありました。外見はちゃんと立ってる家が取り壊され空き地になります。直接うちに「買ってくれないか」と言ってくる人もいましたが、先が見えないので更に借金することになるので自重しました。あれ以来15年。常に京阪神地区は、他の地域に比べて常に経済指標が低いままでした。東京に次ぐ地区なのに・・・経済マインドが、下を向いているから仕方ありません。実感として、神戸大学の先生が提案された「自宅再建資金を1000万上限で国から無償提供する」案のすごさを感じました。誰でもが属している最小の社会基盤の家への再建資金不安が消えれば、消費マインドはそれほど冷え込まないのではないかと感じました。仕事なんて、最後は家庭の消費から波及してくるもので連鎖します。元が冷え込まなければ、返って復興経済が活況するはずです。「無償提供資金は、10年で税金として国庫に戻る。消費マインドの落ち込みは長く続く」と先生が言ってましたが、後半はその通りでした。関東を襲うであろう大きな震災が来る前に、小さな震災で理論通りなのか実験した方がいいと思う。まず電気屋さんとホームセンターで、母の家の畳表などを購入しました。勝手口や御風呂のドアなどの修理の打ち合わせが今後入り、住む人はいないけど綺麗にしようと思っています。自転車を積んで行くと楽しいのですが、なんせ寒い時期なのでもうしばらく「夫婦で自転車」は自重です。
2010/01/20
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16日土曜日の夜、例年同様仕事帰りに「追悼ろうそく灯火イベント」に寄ることにしました。家内を誘うと「行く」とのこと、通勤リードに2人乗りして昆陽池公園に出かけました。今年は節目の15年目だからか、少し参加者が多い感じです。記帳と寄付をしてシートで囲った広場に入ると、たくさんのろうそくが灯っていました。手前では、夜9時だというのに、手作りろうそくに列をなしています。ろうそくの芯になる紐を液体になったロウのツボに突っ込みます。糸にロウが付着し、ツボから上げるとすぐに冷えて豆ろうそくになります。これを繰り返して少しずつ太くしてオリジナルろうそくを作ります。震災の翌年のイベントに子供たちと参加したとき、3人で何度も往復して作ったものです。この日も並んでいるのは子供たちが多かったようです。でもわが子と並んだ時は夕方だったけど、もう9時を過ぎてるのに・・・良い子は家に帰らないといけないのに・・・でもこの子達は、震災当時まだ生まれていなかった。単なるろうそく立てのイベントと思って毎年来てくれたらいいな。だんだん親から子に伝わり、百年後もお地蔵さんじゃなくてイベントとして残るかもしれない。家内と僕は、それをスルーして、箱から太めのろうそくを取り出し、広場に並べられたろうそくから火をもらい並べました。手を合わせている方、はしゃいでる子、ろうそくに書かれた文字を読んでる方・・・思い思いに揺らぐ火を見つめています。僕の横で見つめている家内の横顔が、ちょっと素敵に見えてしまいました。翌朝目を覚ますと5時半、「行ける」とガバっと起きだし速攻で着替え、再び昆陽池公園に向かいました。多くの方の人生を変えたあの時刻を皆さんと共に黙祷しました。昨日の広場の灯火は、きれいに流さの揃ったろうそくに変わっていました。多くの方が一斉にろうそくを入れ替えたようです。これも含めての黙祷だったようです。イベントコーディネーターさんの挨拶が終わり、撤収が始まりました。外の囲いなどから片付け、ろうそくは最後のようです。だんだん少なくなる灯火の周りの人・・・僕はしばらくそこにとどまり、じっとじっと灯火を眺めていました。また来年だな。
2010/01/19
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日曜日は1月17日でした。日本中の多くの地区では、「それで・・・」なんでしょうが、我が家のある兵庫県南東部は特別な日です。15年前のこの日早朝5時46分「阪神淡路大震災」が起こりました。多くの建物を倒壊させ、6000余人の命を奪う甚大な被害を起こした揺れはたったの15秒ほどだったそうです。僕はその瞬間に目が覚めたのできっちり覚えている。その数カ月前から群発地震が続いていたから、「また地震だ」程度しか思わなかったけど、揺れがガクンと大きくなり、布団を被って小さくなった。頭の上にバラバラと本などが落ちてきました。家が壊れるんじゃないかと思ったけど、幸いその前に揺れが収まった。そのままの姿勢でしばらく様子をみていた。どうやら収まったみたい。布団から顔を出しても真っ暗で何も見えない。「生きてる~」中1の長男の部屋から声が聞こえました。「大丈夫」、みんなから声が出てどうやら大丈夫だったみたい。起き上がって電気を点けようと思ったけど停電になってました。僕の部屋と次男の部屋の結婚した時に買った大型家具、台所の水屋は、ドイツ製で当時珍しかった天井まであるタイプだったのでビクともしませんでしたが、他の家具はみんな移動し、テレビも台から落ちゴロンとひっくり返っていました。隣の両親も無事のようで、火災にならないようガス栓を元から止めました。我が家のガス栓は、家内が毎日元から締めるので大丈夫です。最初水が出てたように記憶してるけどすぐに断水してしまった。最も心配したのが次男です。彼の震えが止まらず、全く言葉が出ません。失語しちゃったんだろうか?またしゃべれるんだろうか?家内の手を離そうとしません。小5なのに、大きなショックだったようです。家族6人のサバイバル生活が始まりました。僕はすぐに、数カ所の仕事場を回り、被害状況を把握し帰宅しました。長男は平気なようで、「しばらく学校を休んで手伝う」と宣言しました。実に頼もしく仕事場の再開に向けて、大活躍でした。僕の仕事場の目の前の駅が倒壊し、プラットホームの電車が大変なことになっています。1Fの派出所では勤務の警官が数人命を落としました。我が家の被害額は、笑いたくなるほど大きなものでしたが、僕は「どうしたらいいんだ」なんて考えにならず将来への悲観も不思議とありませんでした。時々ニュースで、家がなくなってるのに悟ったように明るい人がいます。笑顔さえ見せる人もいます。僕もあれでした。小さな被害だと、いろいろ考えるけど、大きすぎる被害だと麻痺しちゃう人種のようです。「よっしゃ~、やったるぞ」と妙にファイトが湧いてきました。こんなこと言うと、被災者に悪いけど、家族の結束が更に固まった良き日でもありました。学校を卒業してすぐの父の余名3ヶ月宣言、父の死、母の死、僕はこういうことに遭遇すると悲しみが引込み頭がクリアになるようです。次、成すべきことを冷静に考え出し、即行動に移る性質のようです。家内もかなり怯えているようで、昼食を家族全員で食べるように懇願されました。お昼ご飯をみんなで食べることと、夕方4時には帰宅することを約束し、家内は次男と僕は長男とそれぞれの仕事場の片付けに向かいました。10時頃やってきた市内に住む従業員さんに、「まず自宅を片付けて」と返し、翌日連絡が付いた電車でやってくる従業員さんには自宅待機してもらうことにしました。長男と2人で散乱した商品を外に出し、まず棚を元通りの位置に戻しました。1つ1つ元に並べるのですが、ほぼ全部が落ちてるし、液体物が割れて他の商品も汚しておしゃかにしてるし・・・でも黙々とやってると、「これ売ってくれないかなあ」と、道端で露天商のような商売が始まりました。販売してると片付けられないし、でも非常に困ってそうな顔ばかりだし、片付けのスピードが落ちてきましたが仕方ないです。昼過ぎ頃から表の人通りが増えてきました。ある人は、「手伝いましょうか」と言ってくれ、ある人は体験話を始めます。「この状況を考えてよ」と思いましたが、お客さんに向かってそんなこと言えるはずもなく、手だけは動かしていました。一番悔しかったのは、「ここもひどいね」と仕事場を覗き込んだりして、カメラに収める人がいたことです。崩れてる目の前の駅を多くの人が写真に撮っています。生き埋めになってる警官などを助けだそうとしてる自衛隊などの救助作業を、物見遊山の対象にしています。同じ被災者として、何も感じないのだろうかと思いました。長男は「写真を撮らないで下さい」と、一度大声で抗議の声をあげました。必死で我が家を再建しようと行動してる自分が被写体になってるのが悔しかったのだと思います。僕は手を休め、「ここはガマンだ」と言いました。でもお父さんの気持ちも同じなので、そのことも伝えました。僕はその時の写真を1枚も撮っていません。というより撮れませんでした。保険で必要になるかもしれないなと思って撮った仕事場の写真だけです。翌日、家の片付けを終えた従業員さんが来てくれました。関西で唯一の両親の方の親戚の連絡が付きません。僕はバイクで東灘区を目指しました。武庫川を越えると、状況は一気にひどくなり、倒れた電信柱やマンションが道路を塞ぎ結局おばさんの家までバイクでたどり着けませんでしたが、徒歩でなんとか。その時見た光景は今でも頭に焼き付いています。地面にいきなり屋根でした。「うわあ、こりゃいかん」寝室のあったところに向かい屋根の隙間を入っていきます。布団があったけど、おばさんはおらず懐中電灯で照らすと血痕もありません。「絶対生きてる」と避難所を回り、3箇所目で発見しました。被災2日目で、避難所になってる体育館の入り口には学生がおり、「どなたをお探しですか?」と聞かれ、すぐにノートを繰って探してくれました。「ここにいますよ」おばさんは、助け出してくれたご近所さんと一緒にいました。お礼を言い、翌日カイロをケースで運び込み皆さんに配りました。3日で次男もしゃべりだしました。家内とべったりがなくなったので、遅れている僕の仕事場を手伝ってもらうことにしました。我が家が落ち着くと、子供たちは小学校に手伝いに行きだしました。東灘の避難所での学生さん達といい、わが子と言い、若者はすごいなと思いました。ある程度食えて、平和だから表にでないけど、いざとなったらすごい力を発揮します。
2010/01/18
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数日前の晩御飯は、「鳥の巣」でした。細く切ったジャガイモをいっぱいフライパンで炒め、その中心に目玉焼きを1つ。僕の大好物です。「うわあ、久しぶりやなあ」と言うと、「お母さんの追悼週間だからね」とのことで、母親が作ってくれていた僕の好物メニューが続くそうです。これは家内の持ちネタではなく、新婚時代僕が作って教えたメニューです。当時は、家内と母親が交代で家族7人の食事を作っていたから、母親の持ちネタも自然に家内に伝わりました。僕でも30分あれば出来ます。昨日の晩御飯はスープスパゲティでした。一昨日の晩御飯と同じ、たくさん作ってくれたので2日連続になりました。これも僕の大好物です。元々好きでしたが、家内の方が美味しいので、結婚後に大好物に昇格したメニューです。他に吸い物とか小皿が用意されてるのですが、メインディッシュはこれです。その前が、水餃子。カレイの煮付け、焼き魚全般・・・続く僕の好物メニューをみると、僕の好みはカロリーの低いものばかりです。しかも簡単で、子供の好物メニューと重なっています。お肉料理はあまり好きではなく、ステーキなんて学生の頃に数度付き合っただけで、注文することなんてありません。更に、ホテルなどで出る俗に言う高級メニューなんて食べた気がしません。学生の頃僕は、「お前は鳥か」とよく言われました。友達が残すのに、僕は葉っぱ物を全部食べ、友達から葉っぱが僕のお皿に乗ってきました。母親が野菜不足になるとすぐにストロフルスというアレルギーの水ぶくれを作るので、僕に思いっきり野菜を食べさせた影響です。そんなに好きでもなかったのですが、慣れてしまいたくさん食べるようになりました。ジャガイモは、野菜でありながらお腹持ちもよく、これも好きです。これは僕が小1の時、10円玉を飲み込んでしまったのが影響しています。レントゲンで撮ると、僕の胃の中に10円玉が映りました。これをウンチに出すために、繊維の多いメニューばかりの毎日になりました。そのメイン材料がジャガイモでした。おやつは毎日、じゃがいもの粉ふきいも+バターでした。追悼メニューの最初の時に、「ポテトサラダは、ちょっと時間がかかるから後でね」と言われています。ジャガイモとマカロニたっぷりで、市販のポテトサラダよりマヨネーズが効いていてスプーンですくうとビチャっと言うぐらいです。これが僕の大好物のNo1です。なんとなく、追悼メニューのトリを飾るのではないかと思っています。これが作られるときは、大きな鍋いっぱい作られるので、僕は3日は楽しんでいます。きっと母の追悼メニューとして作られるポテトサラダは、これが最初で最後でしょう。味わって食べなくちゃ。ここ2日間、朝の母宅の片付けは僕一人です。その前の片付けの時、家内は「なんか情けなくなっちゃう」と涙目で片付けていたので、少し時間を置いているのかもしれません。今日、先週業者さんと打ち合わせた御風呂の扉と勝手口の扉のやり替えを発注しました。少しずつ、両親の面影が消えて行きます。来月は、今は物置と化している2階の元僕と弟の部屋の片付けに手が付けられると思います。物の向こうに僕と弟の勉強机、ステレオ、本棚、百科事典・・・いろいろ見えます。僕と弟の子供時代の遺産もたくさん捨てられることになりそうです。僕の父親の家族は、先月の母の旅立ちで解散です。でも僕と弟の2家族に増えたからいいでしょう。そして今年、僕の家族から長男が新しい家族を作るために独立します。「これでいいのだ」
2010/01/16
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今朝、母親の家の引き出しを整理していたら、ポチ袋がたくさん出てきました。「・・ちゃん おばあちゃんより」と姪や甥の名前が書かれたものも数枚ありました。お正月に向けて準備してて引き出しに入れたまま忘れてまた書いて・・・のようだったのかもしれません。物忘れがひどくなっていたから仕方ないです。今年のお正月、母からのお年玉がなくなった甥や姪に家内はいくらあげたのかしらないけど、弟家族からお礼を言われたから適当な金額だったのでしょう。母親からの大きな収入が減るから、家内は少し奮発したのかもしれません。大晦日の夜、息子たちに「働きだしたんだから、少しあげたらどうかな?まだそんなに稼げてないから、1000円と3000円でいいと思うよ」と、家内が甥達へのお年玉のことを言っていました。お正月に弟夫婦からお礼を言われていたので、渡したのでしょう。長男が「ター君(次男)と話して、3000円と5000円にしたんだ」と教えてくれました。どうやらこの原資は、本人たちから出たようです。息子たちそれぞれの名で出した母の葬儀の供花もそうですが、帰省した時の交通費なども家内が裏で渡しています。息子たちの鞄の上に置いてあったりするのですぐわかります。家内の母親がそういう人でした。介護なしでは歩けなくなった最期の入院の時でさえ、僕が病室に顔を出すと帰り際、「よっちゃん遠くからありがとね。そこの引き出しに入ってる封筒1つ持っていってね」と言うのを忘れない人でした。僕は一度もそれを持って帰ったことはありませんが、家内が持たされていました。母親の気が済むように持って帰るのでしょうが、実際の交通費の数倍の金額が入ってるので、家内から姉に還流していました。そうしなければ、焼け太りのように、見舞いに行く度に僕らの不労所得が膨らんでしまいます。子供たちが一人で行った後、「こんなに入ってた。お織すぎるわ」と母親にどうしたらいいか尋ねていました。「おばあちゃんは嬉しいんやからもらったき」と家内は答えていました。誰が来てもすぐ出せるように、姉が母に言われて、母のお金を数人分包んで用意しているようでした。姉妹でいろいろ相談していたのでしょう。家内は、子供たちが中学生になると、時々子供たちの財布をチェックし、金欠気味だったらそっとお金を入れていました。「小遣い帳をつけて毎月見せなさい」と言われて育った僕には異文化で、「そんなことしたらお金にルーズになるんじゃないかな」と家内に一度言ったことがありました。家内は「大丈夫よ。いざって時もあるだろうし」「でも、必要ないものを買うよ」と言っても、「いいのよ、親はだまされてたら。大丈夫よ」と、自分の産んだ子達に絶対の自信を持っていました。いっとき無駄使いが増えたように思いましたが、すぐに収まり、高校生になると自分でアルバイトして家内に援助されないように行動するようになりました。時代が違いますが、僕も高校生の時アルバイトをしようと思い親に話した時、「そんなヒマがあったら勉強しろ」と一括されたのと大違いです。僕らが小さな時から小言を言わなかったからか、反対されるなんて考えず、アルバイト先を決めてから事後報告して来るので、「最近の子はすごいな」と感心してしまいました。NHK好きの僕は土曜日の夕食時、面白い土曜ドラマがやっていなければ教育TVの子育て番組を見ています。子育て真っ只中の女流漫画家さんが出てる番組です。確か先週のお題は、「お金」でした。僕の帰宅時間が遅いのでいつも途中からだからわからないですが、小遣い帳のこともやってたんじゃないかな?僕は小1の時から、1ヶ月の小遣いを母から貰い、小遣い帳に収支をつける生活をしていました。母の残高と帳面の検査があり、合ってないと叱られるのでとてもいやでした。いつしか知恵が付き、漫画やおやつが多いと小言を言われるので、最強の文房具を適当に書くようになりました。真面目じゃない男には、こんなの無駄だと自分で体験し、子供たちにはそんなことをさせませんでした。毎月の小遣いが決まっておらず、言えば母親から出てくるし、言わなくてもお財布の中でお札が生まれる生活だった子供たちの方が、かえってお金の使い方をしっかりするようになりました。母親が毎日お客さんに頭を下げて稼いでいる姿を見て育ったからでしょうか。家内も自分で稼いでいるから、旦那の僕に相談もしないし遠慮もしていません。子供たちは母親に信用されてると感じただろうと思う。全面的に信用されたら、それに応えようとするのが喜びになるからなあ。家内のやり方は、家内の実家のやり方なんでしょう。家内の母親も、死ぬまで従業員さんを雇って稼いでいたので、堂々としていました。母親の実家も姫路で大きな商売をしています。終戦の時に街中に増えた浮浪少年を家に連れて帰り、何十人も育て上げた家です。養子として家族に入った子もいます。そういう子達が、結局絶対に信用出来る従業員さんになっています。うちの母の本家も多くの書生さんを抱えた家でしたが、同じようなものです。僕のように小1から小遣い帳の1円に叱られて育つと、細かい事務作業には向いてるけど、その上で動いている大きな流れへの目がにぶるかもしれません。人の心の機微に深く食い込む人間的魅力は、別の所で育つ感じがします。家内のやり方は、お金に信用が乗ったいい文化だなと思っています。僕の家より一枚上の子育てが、家内の実家ではなされていたように思う。
2010/01/15
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元旦、家族4人で家内の実家のお墓に参りました。その時助手席に乗ってた長男から、「あれ、これ裏から来る道?」って聞かれました。「高速で来たらコッチの方が早いからね」「ああ、ここに出るのか」昨年フィアンセさんと来たときは海の方から来たようです。次男に「1人で来たことある?」と聞くと、「裏から来たこともあるよ」とのこと。そう言えば、一度道順を教えたこともあったな。次男もGFさんと墓参りに来たようです。父のお見舞いに2人で病院に行ったこともありました。僕は、家内と付き合っている時、デートで親戚周りをしたけど、子供たちはお墓参りデートのようです。家内の実家のお墓には大変お世話になりました。子供たちが小さな時、我が家のお墓には仏様がまだいませんでした。家内の父親が亡くなってから、家内の部屋に簡易仏壇が出来たけど、家内だけが毎日水換えとかしてたけど、僕らはチンして手を合わせるだけでした。両親の実家は北関東で遠く、お墓参りといえば家内の実家のお墓だけでした。長男が小学生、次男が保育園の時に家内の父親が亡くなりました。「これは大変な悪さだ」と思った時、僕は子供たちを叱りませんでしたが、「お爺ちゃんに会いに行くぞ」と、仕事後に車を走らせました。夜9時を回ってから出発するので真っ暗です。懐中電灯を持って、しっかり手をつないでお墓までの道を歩きましたが、小学生には恐ろしかったと思います。家内の祖父の代まで住んでた集落の裏山にある明かりがない昔からのお墓だったので、僕でも怖かったです。2人で線香をあげ手を合わせ、また暗い道を慎重に歩いて車に戻りました。僕からの苦言はなくても、僕の気持ちはご先祖様から息子に伝わったと思います。キツイ失敗でへこたれそうな時も、お墓に連れてきました。「大丈夫やって。たくさんのご先祖様がついてくれてるから」親の一言が、ここでの言葉になると、数百倍の力になったように思います。義理母の死を契機に、姉夫婦はもう少し実家に近い近代的な墓地に引っ越したけど、子供たちには年に何度もお参りする所だから愛着があるようです。「うちのお墓に行こか」と誘われたGFさんはどう思ったろう?僕には、自分の先祖のお墓参りに誘うBFさんはカッコいいと思う。遊園地や景色のいい海に行くのもいいですが、たまに先祖がいるお墓参りデートに行くと、お互いのもっと内面を知ることになると思う。きっとGFさんのお家のお墓にも2人で参っているのだと思う。僕にこういう場所を与えてくれた家内に感謝です。僕は親戚が遠く、毎夏休みに田舎に帰省した時にお墓参りするだけで、仏事の経験を子供のときに積めませんでした。だからお墓参りする習慣が僕には希薄です。親戚周りは思いつくけど、子供たちのようにお墓参りは思いつきませんでした。でも家内の実家は、同居していたおばあちゃんが小学生の時に亡くなってから、月命日を欠かさない家だったので、我が家に来ても毎日の仏壇は日常です。今は、親戚の仏事に家内以上に出張る僕ですが、家内の真似をしているうちに、今を暮らす我が家や子孫にいい影響が出るとその良さに気づいただけで、ほとんど家内の影響です。デートでお墓参りするカッコいい息子に育ててくれて・・・僕は最高の奥さんを持ったようです。
2010/01/14
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昨年、上杉謙信好きの僕は久しぶりに熱心に大河ドラマ「天地人」を見ました。といっても後半1/4はあまり面白くなかったけど。前半、僕を惹きつけたのは直江兼続の子供時代をやった子役さんです。「この子、すごいな」しばらくすると、そう思った大人たちが多かったようで、「こども店長」はじめ多くのCMに登場しました。ところで、「こども店長」を登場させたトヨタのエコカー宣伝を見ながら、僕にはほんとにこれがエコになるなのかな?と疑問に思いました。電気は石油に比べると太陽エネルギーとか自然エネルギーで作れるので、環境負荷が少ないのかもしれませんが、今のようなバッテリーでは石油自動車に比べそんなに割安ではないように思います。再生可能なバッテリーがスタンダードにならないとあかんのんちゃうかなと思っています。携帯電化製品のバッテリーは、だんだんと蓄電量が減っていきます。新品の頃は、一度満充電したら随分長く使用出来たのですが、だんだんと使える時間が短くなっていきます。そしてバッテリーを交換しないといけなくなります。こないだ近所の自転車屋さんに行った時、店頭に並んでる電動自転車を見ながらバッテリーの寿命を聞いてみました。3年だそうで、価格が2万円もするそうです。自転車本体は壊れなくても、3年ごとに2万円かかるのか・・・トヨタのプリウスに長く乗ってる方に、燃費のことを聞いたことがあります。1リッター17kmぐらいだそうで、同グレードの車と比べれば7kmほどいいようです。謳い文句の25kmとか30kmとかとは大きく違い、「そうなんだ」とちょっとがっかりしたものです。その時その方はバッテリーのことを言われました。一度バッテリー交換をしたそうです。でもそれは無料だったそうな・・・ほんとなら交換技術料も含めて15万から20万かかるのだけれど、初期型プリウスなので今後の技術開発に役立てる為にタダだったとか。元が高いハイブリッド車や電気自動車が、安くつく燃料代で初期投資を取り戻す為のシュミレーションがありますが、ここにバッテリー交換が入ってくれば大きなマイナス要因です。僕の前の車はディーゼル車でしたが、ガソリン車に比べると20万高かったけど、燃料費が半分だったので3年で取り戻しました。その後、ガソリンエンジンより単純構造ゆえの故障の少なさとトルクの高さで、絶対ディーゼルの方がいいと確信しました。船に使われるエンジンの大半がディーゼルなのも、水没しても使える丈夫さゆえです。それとバッテリーの弱点は、再生できないことです。あれだけ使われている車のバッテリーですが、再生バッテリーなんて売っていません。通常の車やバイクのバッテリーの寿命は3年と言われています。それとは別に、数十倍の大きさのバッテリーを積むことになる電気自動車やハイブリッドカーは、大きな資源の無駄遣いになるのではないだろうか?現状のエコカーは、地球にもお財布にもエコではないように思えて仕方ありません。まだ走れる車をエコカー減税で買い替えを促すことより、「もったいない」の修理・リユース促進の方がエコなんじゃないだろうか?
2010/01/13
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「貴志長吉神社」を訪問した後、帰路につきました。もと来た道を戻り西宮戎を目指そうとGPSをセットしましたが、なんとなく左折の指示がないなとGPSを見ると、なんと画面が消えてるじゃないか。外部バッテリーが切れちゃったみたいです。出かけるとき残量を見て、最後まで持たないかなと思ってたのが現実になってしまいました。Uターンして間違ったと思われる道まで帰ればいいのですが、せっかく小回りの利くスクーターで来たのだからと、西北に進んで大阪市内に突っ込もうと思いました。面白いところに出くわすかな?と寄り道好きの性です。「布施」の駅前通りにはテキヤさんが軒を並べています。お祭りがあると何処からともなく集まってくるテキヤさんが日銭を稼いでいるところですね。商店街前の広い歩道にテキヤさんが長く続き、この辺を仕切るテキ屋の親分が上手に警察と付き合ってる風が見えます。「高井田」ってよく聞くところやけど何処や?と言うところまでやってきて、東西に走る阪神高速の下を西に進路を取りました。「深江橋」「緑橋」「森ノ宮」を過ぎると、左手に大きな空き地です。遺跡跡風の造作になっていたので停車します。「難波宮跡」でした。大阪市内に不案内な僕では、ここが大阪市街地のどのあたりになるのか分かりませんが、いいところに出てきました。後で地図を見ると大坂城外堀横でした。「大坂城に寄ってみたらよかった」難波宮は「大化の改新」の舞台ではなかったかな?飛鳥奈良時代に天皇の交代のたびに大阪と奈良で遷都を繰り返すややこしい時代の遺物です。大阪城の横なら、大和川と淀川の水運にも恵まれ、海にも近く、奈良よりずっと便利な立地ですね。GPSに表示される時計がなくなったので、あとどれくらい寄り道の時間があるのかわかりません。日が落ちると危険度が増すので、もう少し地理に明るいところまで帰ろうと、家に向かうことにしました。そのまま道なりに西に進み弁天町からR43に乗りました。大阪市内をウロウロしたので西宮戎はお預けにして、R43でr13を目指しました。尼崎に入り1本手前の道を曲がってしまい・・・「おっとよさげな神社発見」寄り道しましょう。「大物神社」・・・誰も人はいません。普通の神社はこんなものです。謂れを読むと、「頼朝の反感を買った義経と弁慶が西に逃れる為に船に乗ろうと大物浦に来たが、風が強く一時身を寄せたのがこの大物宮。静御前と別れを惜しんだ」そうだ。r13を北上して阪急神戸線が見えてきたので、先月偶然見つけた「塚口城」を探索することにしました。もう僕の守備範囲まで戻ってきてるので安心です。横道にそれウロウロ、前回の記憶ですぐに発見、小さな小さな祠がそこだけ高くなったところに建っています。城跡の土塁がここだけ残ったのでしょう。周りは市街化されているので、どんどん削られてこんなに小さくなったのかな。行政の「謂れ」が立っていたので、このまま残りそうです。土塁の上に祠の前に立つと、向こう側がストンと切り立っています。そこには用水路が・・・ひょっとして堀の跡では・・・道路に下りウロウロすると看板がありました。やはり堀跡だそうです。助走をつけてば飛び越えられそうに幅のない堀になってしまっていますが、紛れもなく当時から続いているもののようです。看板に「道標」と書いてあったので探すと細い道の横に石があり、「右昆陽、左?」と書いてありました。この細い道は「旧有馬道」だそうです。旧有馬道は旧西国街道の昆陽寺を経由し有馬に向かっていたようです。旧有馬道を進みます。車が入ってこないような狭い生活道路をゆっくり走ります。塚口城の堀跡をトレースするような道でしたが、しばらくするとr13に合流してしまいました。ここから伊丹までのどこかで、有馬道と多田道に分かれるのでしょう。もう旧道はなくなっているようです。時々今でも使われている旧道に出くわしますが、細切れになった道を頭の中で組み合わせると楽しいです。夕闇が迫った4時半になって遅い昼食を食べることにしました。寄り道は楽しい。面白い半日でした。
2010/01/12
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日曜日は、真田幸村ゆかりの「志紀長吉神社」に行ってきました。今月いっぱい日曜日ごとに母の法要なので、午前10時から三・七日法要を自宅でしました。その後家内は仕事関係の集まりで姫路に出かけたので、僕は位牌を持って仏壇の浜屋さんに出かけました。母の法要後、お寺さんに父の位牌のお性根抜きをしてもらいました。夫婦で同じ位牌に名を刻むように、父の位牌の左半分のスペースが空いています。この位牌に母の名を刻んでいただくのですが、このままでは父を刻むことになるのでお性根抜きが必要です。浜屋さんで手続きをしていると、うちのお客さんでもある店長さんが出てきて、「どないしたん?」「母が亡くなりまして・・・」てな具合で一通りのおしゃべりになりました。自宅に戻ると12時半を回っています。冬は日没が早いのでお昼を食べずに出発することにしました。ちょうど十日戎の日なので、西宮戎にも時間があれば回りたいです。さて「志紀長吉神社」ですが、ここは大坂夏の陣で徳川方の伊達政宗軍と戦った真田軍が大坂城に戻るとき休憩したところだそうです。幸村が休憩した木があり、この神社に戦勝を祈願して太刀一振りと陣旗を奉納したとか。太刀は太平洋戦争の時軍部に接収されたけど、陣旗はこの神社の宝物として健在だそうです。その縁で真田家の家紋六文銭のお守りがあるのだそうで、今年は六文銭のお守りを身に着けようかと思った次第です。いつもなら氏子である近所の神社のお守りをぶら下げているのですが、年末から海音寺潮五郎の「武将列伝」を読んでるから浮気心が湧きました。上杉謙信・明智光秀に続く惹かれる武将です。三途の川の渡し賃六文を旗印にするなんて真田家はかっこよすぎます。地図を調べると長吉長原は近畿道の長原ICの所です。普通ならVTR250で高速をひとっ飛びを選択するのですが、時速80kmを1時間弱走ると凍え死んでしまいそうです。車じゃ面白くないし。ということで通勤リード110の出番です。今まで連続で50km弱しか乗ったことがないので一抹の不安があります。前車ジョグ50ccでは20kmを越えるとお尻と腰が痛くなったので、リードではどれぐらい持つのでしょうか。せめてVTR250の半分100kmぐらいは大丈夫であって欲しいです。結果は往復80km平気でした。このスクーターなかなか優秀な乗り心地です。リードにGPSをセットします。GPSバックに入れて両方のバックミラーステイにバック付属のバンドを巻いてちょうど斜めにセットできグッドです。でも原付にGPSは似合わないねえ。r13を南下し、尼崎でR43に乗り換えひたすら東進します。伝法大橋から続く高架部分は50km制限なんだけど70kmぐらい出さないと車の流れに乗れません。このスピードは厳しいですが、法定速度を守って横を大きなスピード差で車に抜かれる方が危険です。50ccより車重があるのでハンドルがフラフラすることもなく乗り切れました。でもせめて60km/hまでで走りたいです。ここを越えると、地理不案内な所で、大阪市の南の方を走ってるぐらいしかわかりません。いつの間にかR25に乗り、天王寺駅横を通り近畿道の高架のところまで来ました。ここから少しなんかしたらもう長吉でした。距離的には近畿道を使うより随分短そうです。道も実に簡単です。バイクだから渋滞も関係ないし、調子よく来れました。GPSを使うと楽です。「志紀長吉神社」は意外に立派なお宮でした。お宮自体はよくある規模のものでしたが、立派な外鳥居からの参道がカラータイルが敷き詰められ、地元の方に大事にされているのが分かりました。足利尊氏ゆかりの神社でも寂れたところが多い中、流石に真田幸村だなあとも思いましたが、それ以前に由緒ある地元の氏神様だからでしょう。リードを内鳥居横の道路に停め、拝殿に参拝します。参拝の方が切れずに続き、昼過ぎの時間帯でも境内には常に10人以上の方がいます。観光神社でない限り、こんなに人の入ってるお宮はそうそうないです。いつものように拝殿の後ろに回り本殿を見ます。でもそれは今一でした。何故かと言うと拝殿も本殿もコンクリート造りだからです。諸事情によりこうなったのでしょうが、やはり木造でないと・・・。そしてお目当てのお守りを・・・「へ?売り切れ・・・」。「なんてこったい」子供の頃見てたポパイのセリフが頭の中で炸裂です。キティーちゃんのお守りとか交通安全とかは沢山あるのですが、六文銭はありません。外鳥居のさらに外にある幸村休憩の松に行ってみました。松は枯れちゃったようです。もうそれらしき木はありませんが、石碑が建ちしっかり守られていました。お守りは残念でしたが、なかなか良かったです。次回は大坂冬の陣で徳川方に多大な損害を出した真田丸付近を探索してみましょう。上本町とかもっと大阪市内です。暖かくなってから家内と自転車探訪するのがいいかもしれません。
2010/01/11
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今朝も主のいなくなった母の家の片付けをしていました。明るくなってきた7時頃から1時間がんばりました。今朝は僕の方が早かったですが、途中から自宅の家事を終えた家内もやってきました。僕は母の居間兼寝室を、家内はダイニングキッチンを担当してやっています。この2部屋が片付くと、あとは幾分楽です。僕は棚の片付けが終わったので、押し入れを開け布団や毛布・衣類に仕事を移しました。こういうのは主婦の意見を尊重しないといけないので、捨てるか残すか迷ったものが出てきたら家内に、「これどうする?」と声を掛けていました。最初はいい返事が返ってきていたのですが、だんだん言葉が少なくなり・・・おかしいなと家内を見に行くと、どうやら泣いているようでした。「え?何故?」数日「うわあ、これはあかんわ」と、後回しにしていた冷蔵庫に整理に手を付けていましたが、残った食材や調味用をゴミ箱に捨てながら、涙をこぼしていました。それを見ながら、それ以上声を掛けるのをやめることにしました。家族の食を預かる主婦には、台所や冷蔵庫、食材・調味料・食器などに対する気持ちは僕とは違うものなんだろうな、と感じました。「Mちゃん、Mちゃん」と、実の息子の僕なんかよりずっとずっと頼りにされていた家内ですが、「おばあちゃんとこの冷蔵庫に期限切れの食材が入ってたよ。コッソリ捨てちゃった」と、やりすぎないように母に気を使っていました。主がいなくなり、自分が片付けだし、「もっと綺麗に掃除してあげた方がよかったのでは・・・」なんて思ってるのかもしれません。8時に自宅に戻ると、先に戻っていた家内が流しで母の使っていた調味料の入れ物を綺麗に水洗いしています。ビンやプラスチックに仕分けしゴミ袋に入れています。どうやらまだ泣いているようなので、何かしないとなと思い、いつものおふざけではなく、後ろから「僕も家族もみんないるからさあ」と抱きしめました。無反応でした。そういうのが必要なんじゃないんだろうな・・・と思いながら、「行ってきま~す」といつも以上に明るく仕事に出発しました。日中、仕事場同士での連絡ではいつもと同じですが、男には分からない何かがあるのでしょう。日にち薬が必要のようです。
2010/01/09
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僕の年賀状は、ずっと写真年賀状でした。そこに少し説明を入れて、我が家の成長(ほとんど子供の成長)をお伝えするものでした。ところがある年、細かい字でびっしりと家族の1年間が書かれた年賀状を頂きました。その方の顔を思い浮かべながら、これはいいなと思い、写真を薄く補正し、全面に家族の出来事を書く形式に変更しました。よそ様の評判はともかく、自分で作っていて楽しいので、それ以来この形式を続けています。3年前のクリスマス、家内の母親が亡くなりました。年が開けてすぐに、欠礼ハガキを出しましたが、どうも面白くない。2ヶ月後今度は父が亡くなり、12月に欠礼ハガキを出しましたが、また面白くない。そこで今度は年明けに、家族の1年の出来事を書いたハガキを出しました。前年、「おまえの親ばか年賀状が来なくて・・・」と言ってくれる友人が数人いたからです。頭の片隅に記憶してくれる読者がいるんだと認識しました。そして今年、母が年末に亡くなったけど、また同じように出すことにしました。家族の不幸に対し喪に服するというのも大事だと思いますが、数々の法事を経験してきて、悲しい出来事だけどみんなで落ち込んでいても仕方ないし、そんなの故人は希望していないと思うようになりました。今回は母で、僕を育ててくれた一番の大恩人に違いありませんが、葬儀の時も「苦しまずに逝けたので幸せだったと思います」と、むしろ笑顔で弔いに来てくださった方々に応えました。子供の頃は、田舎が北関東で遠くほとんど経験出来なかった法事を、親戚が県内に集まる家内と結婚し、たくさん経験してきました。そこで、不幸な出来事も、今を生きる血縁との縁を深くする行事だなと考えるようになりました。故人が血縁に提供する寄合の場が法事だと思うようになりました。家内の親戚が皆さんいい方ばかりだということもありますが、僕は家内の親戚が好きです。家族は四十九日まで毎週集いますが、親戚でも四十九日・百ヶ日と集い、食べ、話します。これがイザという時に血縁が助け合う原動力になるように思います。我が家は子供が成人したのでもう安心ですが、もしその前に僕ら夫婦がいなくなっても、親戚がわが子たちを喜んで育ててくれると思っていました。僕も喜んでできるだけのことをしようと思うようになりました。どんなにご近所付き合いをやっていても、最後まで喜んで手を差し伸べてくれるのは血縁です。法事はそれを深める大チャンスです。年賀状の習慣は、付き合いのある、あるいは付き合いの無くなった友人・知人・親戚との年に一度のコンタクトです。これで縁が更に続くと思っています。そんなこんなで今年も少し遅れて年始の挨拶状を送ることにしました。
2010/01/08
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今朝も早朝自転車をお預けにして母宅の片付けをし、ビン・缶等の燃えないゴミをたくさん出しました。年が開けても毎日仏事の続きのようなものをしていますが、親が亡くなる僕らの年代は、子供が巣立ち新たな家族を構える年代でもあります。数日前、正月に家に帰っていた次男からメールが届きました。「・・・今度A君が結婚するんだけど、お父さん出席出来る?」お~ついに結婚に至ったか・・・「行けるよ」と返信しておきました。数時間後、A君から仕事場に電話が入り、「Aですけど、今度結婚することになりまして、是非出席していただきたく・・・お仕事の方は・・・」「行かせてもらうよ。よかったなあ振られんで」「一刻やばかったんですが、なんとか。つきましては挨拶をお願いしたく・・・」「ああ、いいよ」A君は、次男の大学ヨット部の同期です。お相手のB子さんは、やはり同期のマネジャーさん。芸術系の他大学の学生さんだったけど、マネージャーとして部を支えてくれました。卒業時には3人マネージャーさんがいた学年で、みんな美人でした。僕も部の手伝い甲斐がありました。いや手伝いに行くモチベーションが上がりました。中でも一番熱心だったのがB子さんです。船舶免許も取り、1人でレスキューを運転してサポートした日もたくさんあったんじゃないでしょうか。4回生の時は、琵琶湖水域の学連でも活躍し、いつしか「ボスマネ」と呼ばれるようになっていました。美人でしっかり者のB子さんは、いい奥さんになるんじゃないかなと思っていたのですが、僕が2人の仲を知ったのは彼らの卒業後でした。後輩達から聞いたのですが、「1回生の時からでみんな知ってましたよ。でもクラブではそういうのを感じさせませんでした」。僕がわからなかったのも当たり前のようです。卒業後も院に進んで京都にいたA君とは、艇庫などで何度も会いました。2年前に就職してから会った時には、「あんまり放っておいたら逃げられるぞ」と冗談ながら脅したこともあります。僕も学生時代から家内と付き合っていたので、この子を逃がしたら大きな後悔をすると思って、働き出して2年後に結婚しました。結婚なんて勢いだと思います。自分に最も適した相手を・・・なんて思ってると、いい子から売り切れてしまいます。数年間身近でみて、いいなと思える気心の知れた相手なら、突き進めばいいように思います。結婚してから、相手を束縛しないようにやんわり守る感じで接していれば相手もそのように接してくれ、お互いのいい面を殺さず、自由にいいところを伸ばし合い出し合い、素敵な家庭になって行くと思います。旦那は、自分の決めたある一線を越えることを言われ、またされなければ、いつも奥さんにチヤホヤする言葉を掛けていたらいいように思います。懐の深い女性は、上手に旦那を立ててくれます。いつも笑顔やいたわりがあるそんな家庭環境だったら、子供なんて何も言わなくても、何もしなくてもすくすくといい子に育つものです。この子なら大丈夫と奥さんに任せるように、何もできない子供を信じてやると伝わるものです。小言やマイナス言葉からは、「信じているよ」のメッセージが伝わりません。「おまえはアカンな」が伝わり、自分への自信が削られて行きます。「大丈夫」「よくやったね」「うまいねえ」などのプラス言葉から、「信じているよ」が伝わり、自信がますます大きくなり、更に積極的に人生を切り開いていきます。この正月に、次男の1回上の先輩夫婦からの年賀状が届きました。2年前にこの夫婦の結婚式に出席しました。このカップルも部内カップルです。やはりスピーチをさせていただきました。写真に写った長男君は子供らしくなっていました。2人目がお腹に宿ったらしいです。嬉しいです。何の関係もなかった若い子達と僕を結びつけてくれた次男に感謝感謝です。母の家を片付けていて、僕の幼稚園時代の名簿が残っていたり、僕と弟の写真の裏に書かれたメッセージを読むと、子供の成長をとても喜んでいる当時の母の姿が浮かんできます。子供たちが我が家から離れ、新たな家庭を持とうとしつつある今振り返っても、世間でよく言われる苦しい子育てなんて経験しませんでした。悪さはたくさんあり、何度も尻拭いで頭を下げに行きましたが、辛いと一度も感じたことがありません。友達の親に謝り、学校に謝り、警察にも裁判所にも行きましたが、どんどん成長して行く子供たちが眩しくて仕方ありませんでした。A君とB子さんは、笑いのある楽しい家庭を築いて行くでしょう。次男達同期が気軽に集まる家庭になるような気がします。
2010/01/07
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今朝も早朝自転車が出来ませんでした。先月は、母の一大事があってから10日間で1日だけ。今月はまだ2日しか乗っていません。寒いこともありますが、夜明けが遅いことも原因です。隣の家の片付けという仕事が入ったので、自転車に乗る時間がなくなりました。昼の長さが最も短い冬至は12/20頃ですが、夜明けの一番遅いのはそれから10日ほど遅れる丁度今頃です。夕方暗くなるのは、日に日に遅くなっているのがわかりますが、夜明けが早くなるのは来月にならないと実感できないかもしれません。ということで、今朝も隣の家の片付けをしました。月曜日から我が家のゴミ出しは一気に増えています。TVを録画した大量のビデオテープやカセットテープを月曜日にゴミ出ししました。家庭用のとこでは難しいほどの量だったので、仕事場に持って行きました。仕事場は、ゴミ屋さんに毎月お金を払っているので、何でも持っていってくれます。分別されていなくても向こうでやってくれます。火曜日は一般ゴミ、そして今日は月1回のややこしいゴミの日でした。毛布など紐でくくったものを4つ、白いゴミ袋を10個ほど出しました。ゴミ袋の方は、衣類などのようでした。家内の指示に従って、ごみステーションと我が家の往復を何度もしました。1軒でこれだけたくさん出していいのか疑問でしたが、朝8時でもごみステーションはガラガラだったので、持っていってくれるかもしれません。ダメだったら残ってるだろうから、今夜持って帰り来月まで置いておかないといけませんね。これが今月中ずっと続きそうです。40年間の家族の軌跡が詰まった家ですから、手付かずのものがまだまだ残っています。棚や引き出しから1つずつ手に取って分別し、棚に戻すものと捨てるものに分けていきます。家内は明るくなるまで自宅の用事をし、1時間ほど隣の片付けをして仕事に出る為にお風呂から始まる身支度に戻ります。僕の実家なのにすまんことです。僕は身支度が簡単なので、もう少し隣で頑張るようにしていますが、基本家内の手下に徹しています。こういうことは女子の方が得意です。今月中にあらかた片付け、ゲストが泊まれるようにしようと思っています。今日NTTに電話し電話を解約しました。鍵やドアなど修理するところは修理すべく、今週後半から業者さんに来てもらいます。四十九日までは、毎週日曜日はお寺さんがやってきて法要・・・今月はこういう生活リズムで動きそうです。
2010/01/06
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喪中欠礼のハガキ制作を終えました。喪中につき年賀状を失礼させていただく旨のハガキです。普通は、11月下旬から12月上旬、先様の年賀状準備前に送るのが礼儀ですが、母が亡くなったのが12月21日で23日まで喪主をやっていたので、とてもそちらに手が回りませんでした。21日にどうしようか考えて、今更出しても混乱させるだけだと思って年明けに出すことにしていました。そのことを家内に話すと、「あの年賀状、出したかった~」との返事でした。家内の年賀状も僕の仕事で、ずっと製作発送していました。僕の年賀状は、トーンを落とした全面写真をバックに、我が家の1年の出来事を面白おかしく書いたもので、読ませる年賀状です。友人からは「親ばか年賀状」と命名されています。あんな年賀状、他家からいただいたことはありません。家内用の年賀状文面制作を始め・・・といっても大抵1日で完成・・・母の亡くなる前日の夜、家内の店に置いておきました。母の死でてんやわんやしてる時、仕事の段取りで店に行ってそれを見た家内は、「いいのが出来たのに、出せなくなっちゃったね」と残念そうでした。今年いただいた年賀状で、住所等のチェックをして、親戚へ・家内の・僕のの順にハガキを制作して行きました。普通ハガキのオモテ面、宛名の下に、喪中欠礼のお詫びと母の最期の様子を少し書き、裏面は当初の年賀状とほぼ同じにしました。親戚関係と家内関係は昨日発送し、僕関係は今夜投函する予定です。親しい友人等には、メールで母のことを書きお詫びしましたが、「いつもの親ばか年賀状が届かないから、何かあったんじゃないかなと思ってた」との反応ばかりでした。変わった年賀状だから目立つので、何も連絡しなかったら「あいつは死んだ」と思われてしまいます。これで一段落です。
2010/01/05
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昨日は1/3日曜日、例年通り三ヶ日だけ仕事をお休みしました。正月やお盆・お彼岸は母が主役だったのに、突然主役が降板してしまい何か変なお正月でした。ここ数年、自分たちの用事があればそちらを優先してた子供たちが、2人とも年末年始に家にいるのも何か変でした。何か母の供養というより、私たち親を心配してるようで・・・まあ来年からは、元に戻るでしょう。元旦は、4人で家内の実家のお墓に参り、前から行ってみたかった「石の宝殿」に回りました。3年前に亡くなった家内の母親が入院してた部屋から見えていた石の山です。帰宅すると弟家族がやってきて、主人のいなくなった母宅でゴソゴソ。僕らが買い物に行ってる間に、息子たちは翌日行う「ふた七日法要」に向けて仏間を片付けてくれました。供花や供物でいっぱいになってるので、TVを別の部屋に移動させたようです。家内と2人ではきついけど、男の子が2人いると楽です。2日は、10時から法要です。朝風呂で温まり、箱根駅伝見ながら朝食食べて1時間前に隣に行くと、食卓の上が綺麗に片付いていました。家内が頑張ってたようです。「しまった。もう少し早く行くべきだった」そこからこまめに働きお寺さんを迎える準備が整えました。法要を終え、お寺さんと今後の法要の日程と時間を詰めました。四十九日まで毎週日曜日は法要です。四十九日までに位牌を準備し、百ヶ日法要&納骨を墓地と相談しなければなりません。まだまだやることはたくさんあります。弟家族とみんなで、今後の家のことなどを話す。まあ事前に弟に僕の案を打診していたので、「頼むわ」と言われて10分で終わりました。父の時は百ヶ日を終えてから動き出したけど、母が亡くなり前世代がいなくなったので、さっさと片付けようと動き出しています。前と同じ行政書士さんに諸事手続きをお願いしました。弟夫婦は僕らにみんな任せてくれるので楽です。僕らも家内の実家関係は全部姉夫婦に任せました。ご近所で、こういうことで兄弟に亀裂が入るのを見ています。長男の僕がしっかりしないといけません。一刻のことで、僕らや子供達孫達の長い将来に関わる大きな味方を失ってしまうのは、勿体無いことです。なんだかんだ言いながら、家族に大事が起こった時に最後まで助けてくれるのは血のつながりです。僕は、親戚の冠婚葬祭・法事を最優先でやってきました。顔を合わせ、会話することはとても大切なことです。3回忌・7回忌・13回忌・・・先祖の供養でもありますが、今を生きる親族の絆を強く結ぶ機会でもあります。親は亡くなっても、子供たち孫たちのことを考え、顔を合わす機会を提供してくれます。2家族でお墓参りです。どうも主役の母がいないので変な感じですが、みんなでわいわい食事をして解散しました。3日は、早朝自転車で「中山寺」に参拝、「売布神社」を横目に「清荒神」にもお参りしました。中山寺より清荒神の方が、お参りの方が多かったのが意外でした。家内によると、清荒神の方が駅から遠いのでテキヤさんが多いから、お客さんも多いのではとのこと。いつも乗りながら荒神さんまで上がるのですが、流石にお正月、参拝の方が多く延々押してあがりました。まあ自転車が軽いからほとんど問題なかったけどね。その後は、母の家の片付けをしていました。出るわ出るわ、捨てるものの山です。母も本好きなので、やたらと本が多いです。前から、「こんなに本置いといてどうすんねん」と思っていましたが、僕も本を捨てられない人だから何も言えませんでした。母-僕-長男と、本好きの遺伝子がつながっているようです。今朝も少し片付けをやりましたが、1ヶ月では終わらないのではないかと思います。まあ離れとして置いておくだけなので、ボチボチやりましょう。
2010/01/04
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