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今日は大変寒い1日です。お客さんの話によると、明日朝はもっと寒くなるらしい。う~、きびし~。暑いのはどれだけ暑くても平気だが、寒いのは勘弁して欲しい。特に今年は、夏からバイク通勤し始めたので、帰るとき風を切る寒さには参る。一旦停止左右確認動作の首を動かすのが寒い、目だけ左右に動かしている。車の場合、自宅から駐車場までと、駐車場から店までを歩くことになり、バイクならドアtoドア。バイクの楽さと通勤時間の短さは魅力的でずっとこのまま続けている。数日前、ジュニアヨットクラブの息子の先輩のお父さんが来られた。31日、つまり今日から兵庫県北部のスキー場に行くそうだ。息子がヨットを始めた時のクラブ代表の方と一緒に行かれるそうだ。その元代表の方は、60才台後半だと思う。相変わらず元気だ。ほんの数年前までは、子供抜きでも一緒に行っていたのだが、スノーボードが多くなってから行かなくなってしまった。「また一緒に行きましょう」と強く誘われた。そういえば、スキーによく行っていた頃は、寒波が待ち遠しかった。ビューっと北西風が吹くと、よっしゃと思ってウキウキしていた。寒いなんてちっとも思わなかったなあ。先週に入り暖かい日が続いていたが、今日からこの寒さ、新雪が降って今日なんて雪質はかなりいいだろう。志賀や東北・北海道のように気温が低くないので、気温の変化で雪質がかなり変わる。いいなあ、いいなあ、いいな~。
2005/01/31
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堀江さんのHPを見ていると、「西の風m/s、昨夜急に海水温が10.6度から8.6度に下がった。流氷が近いのかと思いましたが、そのうち上がりました。海水温のアラームをセットしていますが、まだまだ気をつけないといけないですね。」という書き込みがあった。緯度が高くなっていくと、氷山の危険が増すが、寝ない訳には行かない。海の真中、セールを全部下ろしても海流で流される。どのように危険回避するのだろうと思っていたら、海水温アラームなどというものを積んでいることがわかった。流氷は、海流に流されるので、水温の低い海流に乗ってやってくる。常に溶けているので周りの水温を下げる。それをキャッチするんだ。なるほど、なるほど、そうなってるのか。堀江さんと斎藤さんの航跡を比べていると、ポリシーの違いをなんとなく感じる。日本を出発してから堀江さんは、斜めに南米最南端目指して走った。途中赤道無風帯通過時間を短縮する為に、赤道付近は直角に下るのは常套手段。それに引き換え斎藤さんは、早めに南に下り、風の強い高緯度にたどり着き、その風を使って速く走ろうとしていた。また高緯度に位置すると、走る距離が短くなる。地球はボールのように球なので、同じ地球一周でも高緯度の方が明らかに赤道1周の4万キロより短い。南米最南端、ケープホーンを抜けてから、堀江さんは一気に南緯43度まで北上し、氷山の危険地域から早く抜けようとしている。ここまで北上すると、アフリカ最南端の喜望峰南緯40度にはまだ北上できるが、オーストラリア最南端タスマニア島南緯45度をクリアする為には、再び南下しないといけない。それとも、喜望峰からインド洋に入り、年末に地震があったインドネシアとマレーシアの間の狭いマラッカ海峡を通り、日本に帰るコースを予定しているのだろうか?あそこは巨大タンカーの航行が頻繁で、海賊もいるのでシングルハンドヨットには危険だと思うのだが・・・それに引き換え、斎藤さんは堀江さんほど北上せず、現在南緯48度に位置している。堀江さんの航跡より南のコースを取っており、航跡がドンドンずれていってる。斎藤さんは、オーストラリア最南端を回って、風が強いと言われているニュージーランドとオーストラリアの間から、一気に北上して日本を目指しているので、多分南緯45度よりあまり北上しないのだろう。堀江さんは、冒険家だけど安全第一。斎藤さんはレーサーなので、強風を乗り切る快感を求めているのだろうか?西宮沖でシェイクダウンしていた堀江さんの新艇の写真を載せようと探したが、どうやら行方不明。沖で何度も見かけて、ハーバー入口で声をかけた時など、写真を何枚か撮ったと思ったがあれは幻か?今度の堀江さんの船は、幅が狭い。スピードは出るが、風が強くなると大きく傾くので、居住性が悪い印象を受けた。その時同じ風を受けていた私の乗っていたクルーザーよりかなり傾いて走っていたので、正直こんなんで地球一周するの?と思った。一昨年、サントリーのビヤ樽リサイクルで作った船で、サンフランシスコに向けて西宮を出発した時の写真が見つかったので、こちらを載せておきます。この船のサイズは、堀江青年24才世界で最初に太平洋横断した航海と同じサイズ、ほとんど同じ設計です。24フィート(全長7mほど)、小さいです。見送る私たちの船の方が大きく、見下して見送りました。そういえばこの時、我々は西宮沖まで見送ったが、堀江さんの出身校ヨット部関係者は大阪湾をかなり遠くまで伴走して行った。次男の出身中学の後輩になった子のお父さんが監督しているクラブで、あの子が堀江さん出発セレモニーの時、花束贈呈したなあ。そんな写真も同じフォルダに入っていて懐かしかった。
2005/01/29
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ジュニアヨットの国際OP協会のHPに、ドバイインターナショナル1日目のリザルトと記事が載っていた。14カ国・74人のジュニアセーラーが集まったようだ。主催地域の湾岸諸国でトップはクウェートの選手で全体では7位、国際レースに初めてパラダイスアイランドのモーリタニアから参加者があったと喜びのコメント付だった。。 6レースまで終わって、1・2・3位がスウェーデン、4位モーリタニア、デンマーク、スイス、クウェート、オランダ、UAEってアラブ首長国連邦だったっけ?、エジプト、アイルランド、イタリア、ブルガリア、JASCって何処?、パキスタン、MRIってアフリカのマリかな?、DOSCも不明、フランス、ヨーロッパの寒い地域からの参加が多いようだ。全日本もそうだが、OP協会のレースは、海外選手の参加に対してはほとんどがオープン参加OKになっている。全日本に日本選手は予選で参加権利をとらないといけないが、海外選手はフリーパス。そして、全日本選手の表彰の他に、オープン選手を加えた表彰もある。私が引率した時もそうだったが、開会式で参加国の中で一番遠くから来た日本チームと紹介され、壇上に上がると特別にお土産をもらってしまった。何故そうなっているかというと、タイトルも大切だが、もっと大事にしたいのが国際交流だから。何処の親も考えることは同じです。小さな時にいろんな国の子と友達になって欲しい。大きな視野をもって育って欲しい。スポーツはルールという共通言語が存在する。言葉は話せなくても、動作やルールで会話してすぐに仲良くなる。私が全日本の事務局をした時も、各国に参加を働きかけた。アジアの国からは、日本での滞在費用がネックになる場合があるので、日本への渡航費用以外すべて日本OP協会でスポンサーを集めて無料にした。空港のピックアップから、ホテル・チャーターボート費用・オールミールすべてフリーにした。ホテルで、にわかサッカー国際試合が始まり、ホテルのものを壊して弁償するというハプニングもあったけど、まあ仕方がない。世界選手権など国際レースに参加すると、世界情勢などとは無縁の世界がある。中国オリンピックのヨット競技会場になる、青島であったワールドでは、イラクもイランもロシアもアメリカもフランスもポーランドも韓国もみんな同じ所に集まってレースをした。各国OP協会役員もサポーターの選手の親もみんな笑顔だった。小さな子達の国際イベントでの交流がもっと広がり、この子たちが大人になって、疑心暗鬼の国の関係をもっと笑顔に持っていって欲しい。
2005/01/28
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長女の受験勉強に協力しない旦那さんに、不満をもっておられたお母さんからいい話があった。お子さんは、塾に行き始めて、80点や90点を取って来ても全然喜ばず不満そうな顔をして帰ってくる。なぜかというと、小学校ではすぐに100点が取れたのに、塾ではなかなか取れないから。お母さんが、いくらすごいと誉めても不機嫌。ある時、家族でスケートに行ったそうだ。お父さんはスポーツ万能で、スケートも得意。周りの人もビックリの大技を披露したそうだ。それを見て、お子さん達も挑戦しましたが、なかなか出来ません。お子さん達に大技のコツをひつこく聞かれて、休憩時間に、お父さんが話されました。「他の動物に比べて人間は弱く生まれてくる。食事も排泄もひとつひとつゆっくり会得していく。大人になるスピードもゆっくり。それに寿命も長い。そやから、ゆっくり丸を増やしていくのが楽しい。いきなり丸やったら、面白くないし退屈になってしまう。だから、別に早く丸にならなくてもいいねん。自分なりの形で、自分なりの時期でいいねん。そうやって昇った階段を、いつかゆっくり降りていく。パパは、丸になるまでが一番楽しいと思うねん。」それを聞いていたお子さん達は、一斉に、「ず~っと丸にならへんかったらどうするん?」それに答えて、「ず~っと楽しみが続くやん」お子さん、ズッコケ。結局、1日練習したが、大技はできなかった。その帰り、「パパだって、やっとこさできたんや、そんなに簡単にできるわけないやん」いつもうまくできないと不満顔の長女さんもニコニコだったそうです。それ以来、長女さんは変わったそうです。みんな持って生まれたものがあるから、得手や不得手がある。でも、どうしても他の人と比べてしまう。比べて競争することもとても大事なことで、その気持ちがあるから人は進化してきたのだと思うが、出来ないことで過剰に落ち込んだり、自信を無くしたりしない方がいいよな。またチャレンジすれば、前よりほんの少しできるようになる。この気持ちってとても大事だと思う。今年に入って、長男が少し元気ないように感じる。次男はお兄ちゃんに負けないように、一生懸命してがんばってやっとこさできたことでも、長男はなんでも楽に出来る子だった。大学で始めたライフルだってすぐに頭角を現した。去年の国家試験前だって、時間がないといいながら、俺にはこっちも大事だとライフルの試合には出ていた。ところが最近はライフルにあまり行っていないようだ。日曜日になると朝早く、ライフルかついで出かけていたのに、最近はいつもライフルは置いてある。表面上は、何も変わってないように見えるが、長年彼の親をやっていると、なんとなく分かるんだよな。調子のいいときは、別の何かも楽しそうにやってる。本職の研究の方がうまく行っていないのではないだろうか?細胞や遺伝子レベルの最先端技術の研究室なので、学部時代と違って正解がない。未知のものにチャレンジするので、実験の失敗の連続の中にたまに成功がある世界だと想像する。自分の立てた仮説が実証できなくて元気がなくなってるのだろうか?親には何も出来ないが、壁を乗り越えてほしいな。がんばれ。応援してるよ。
2005/01/27
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昨夜、見事中学受験に合格し、息子の学校の後輩になることになった子のお父さんが店に寄った。このお父さんも大学ヨット部出身です。隣の艇庫のライバル校出身で、現在その大学の監督をしています。数年前ハーバーでなんだかんだしゃべっていて、次男のヨットの話になり、「うちもやらせたい」ということで、お子さんがジュニアヨットクラブに入ってきました。ここの家は奥さんまで同校ヨット部出身ですが、我が家同様勉強もしっかりやらねばという家庭でとても気が合います。スポーツはいろんなことを学べるが、スポーツ中心になってしまって、子供の別の才能・可能性を摘み取ってはいけない。勉強はいろんなことの土台なので、しっかりやらせたい。と強い信念を持っておられる。次男のような活動を願っているようで、ヨット部もあるが進学校の次男の学校を目指された。身近に目標があって良かったですと、お礼を言われてしまった。昨日の話は、もう入学後のヨット活動と勉強の事で、土曜日の授業と補習をやらないと、クラスのみんなについていけない事を話しました。そのあと、先輩とチームを組んでいるヨットの連絡メールが入ってきました。いよいよ、わがダンシングクイーンチームも今年の始動です。2月の中旬に集合して整備をします。海に出てもいいのですが、おじさんたちにはまだ少し寒いので、自重します。そして、最年少の私にメンバーを増やすように御達しが届きました。まだみんな仕事をしなければ食べていけないので、仕事とバッティングした時はなくなくヨットはお預けです。去年はメンバーが揃わず、出艇できなかった日もあったので、メンバーを増やして、いつも3名は揃うようにもっていくそうです。早速、同期と昨年まで大学ヨット部の監督とヘッドコーチをしていた後輩に連絡を取りました。同期は、昨年女子大という天国のような職場に転職したのですが、落ち着いてきたようで、「乗せてくれ」返信が届きました。後輩は、しばらく監督・コーチ業メインでレースも自重していたので、元のチームを復活させるそうで、試乗会という形で乗せて欲しいということでした。私たちが乗っているレーシングヨットは、これぞヨットというエレガントな形をしていて、あこがれでもあります。今はスピードの出る船形が研究されて、きれいな流線型より速いヨットはたくさん出ているのだけれど、根強い人気があります。先輩とチームを組んでいるドラゴン級ヨットはこんなヨットです。といっても、私が前のデッキから中央から後ろを写した写真なのでよく分かりませんね。先輩と、ヘルプで京都から来てもらった次男の大学ヨット部の1回生。 こちらは、私が作ったチームロゴ1月の終わりになると、私の周りのヨット乗りというかヨットバカは、春が待ち遠しい虫さんのように、ゴソゴソ動き出します。
2005/01/26
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アンダー15・ジュニアヨットの2005ナショナルチーム最終選考会の案内がアップされた。3月の春休みに浜名湖でレースがあるそうだ。昨年11月に行われた全日本のトップ40人だけが参加できる。最終選考会のトップ5名が世界選手権に出場する。次にヨーロッパ選手権・アジア選手権・北米選手権、総勢20名ほどがナショナルチームに選ばれ日の丸を胸につけて世界にチャレンジする。昨年の世界選手権は南米エクアドルだったが、今年はスイス。サンモリッツという、むしろ冬のスキーで有名な場所にある湖で開催される。兵庫ジュニアのHPの関係で、ワールドのHPを見ていると、ウェブカムがリンクされていた。現在の湖は、こんな感じ。 やっぱり、雪に埋もれている。水が見えないくらいだから、全面的に凍っているのかもしれない。それが夏になると、こんな感じになる。 去年行われたオリンピッククラスのレースはこんな感じ。 ワールドが開催される今年の夏は、高原の風が気持ちいい避暑地になるのだろう。写真を見ているだけで、羨ましい。昨年エクアドルに行った兵庫ジュニアの子も今年15才になり、最後のジュニアとしてここを再び目指すだろう。そして、日曜日に合格して次男の後輩になる子、この子は昨年ヨーロッパ選手権でスウェーデンに行ったが、今年はワールド狙いだろう。今が寒さのピーク、ここを我慢すると海の季節が始まる。楽しみな季節がまた始まる。
2005/01/25
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次男の出身校を受けた子のお母さんから、「おかげさまで・・・」連絡がありました。いやあ良かったです。ヨットもそうですが、勉強もがんばってたからね。お父さんとお母さんに、おめでとうメールを送ったら、お父さんからメールが返ってきました。当時全国理事だったので、数年前の和歌山正月合宿の事務局をしました。すごい風と波で、子供達のヨットは沖にでましたが、私とそのお父さんの乗った小さなボートでは無理で、他の大型レスキュー達に任せて、防波堤内から沖を見ていました。その時の話が参考になり、ヨット部があり運動部と勉強両方力を入れている、次男の学校を目指すようになったそうです。あの学校のあのクラス、入ってからもハードです。塾のように成績でクラス替えがあり、下のクラスになると勉強のスピードが違うので、おっこちないようにがんばらないといけません。土曜日ももちろん授業があり、放課後補習を選択することもできます。さて、1月に入ってからの日曜日は、18切符三昧で、毎週どこかに小旅行していましたが、23日は店のあるマンションの臨時総会でそちらに出席しました。新しく1Fの並びに京風居酒屋さんが入ったのですが、その排気設備を外に置くことにマンション理事会が反対で、店内に置くように促された。さらに、道路に面している外壁のところまで店を拡張してはいけないと、工事中止命令を出した。明示されている占有面積を計算すると、外壁まであるのだが、道路に面した所1m幅くらいは、共有面積になるということを主張されている。この物件は近所の不動産屋さんが持っていて、居酒屋さんに貸したのだが、以前のお店も壁まで店を作っていたし、うちの店だってそうだ。この物件を私が買った時、前に入っていた店も壁まで店があった。当然壁の面まで店を作っても平気だと疑問にも思っていなかった。え~、どうなってるの?不動産屋さんは、本職なので、ちゃんと業者を入れて実測し、それを元に居酒屋さんに賃貸して、抜き差しならぬ状況になり、弁護士にマンションのいろんな書類を精査してもらって、強行突破された。さあ、だまっていないのは理事会。というか、理事長さんら2~3人だけなのだが、法的措置に訴えるということになって、臨時総会が開催された。そんなことしたって、弁護士費用ばかりかかって、すでにオープンして繁盛しているお店を取り壊すことになったら、お店は出て行くかもしれない。損害賠償請求されたり、どう転んでもいいことはないと思う。数年前に屋上のセントラルヒーティングシステムが壊れた時も難儀した。店舗用のシステムだったが、ちょいとガタが来ており、うちが店を作った時、工事業者が管理人さんに聞きにいくと、いつ壊れるか分からないから、自分の費用で個別に作った方がいい旨言われ、室外機を置くスペースを用意された。店の裏の壁に沿った場所でマンションの敷地内。費用は余計に掛かるが仕方ないと思って工事した。しばらくして、屋上設備が壊れ、困ったのがその設備を使っていたお店。慌てて個別空調を入れようとしたら、室外機を置く場所がないと拒否された。うちが置いている場所はまだまだ空いているのだが、そこは共有スペースだからあかんと言われてしまった。理事長さんが変わると、見解が変わってしまう。美観がどうのこうのというご意見だったが、そのスペースは裏の道路に面しているので、不法駐輪自転車に占領されている。店の裏全面に一定の幅であるので、元々そのような設備を置く為に作っているとも言える。自転車か室外機かの問題のように私には写るが、そうでないようだ。暖房やクーラーのないお店は死活問題なので、毎月使用料を払うことで決着した。そのスペースはまだ空いているのだから、今回も裏のスペースに食べ物屋さん特有の設備を置いて使用料をもらったらOKだと思うのだが・・・不動産屋さんはその費用は払うのでと言ってるのだから、穏便に収めて欲しいものだ。訴訟費用って、理事長さんは簡単に言うが、みんなから集めた共益費や修繕積立金。美観を損なってるとも思えないし、騒音だってない。こんなことにお金を使って欲しくない。ところで、理事長さんが変わると、方針がかなり変わるが、管理委託されている管理会社さんはまったく発言しない。管理人も常駐しているのに、他のマンションの場合など例にあげて、揉め事にならないようにすることはしないのだろうか?他のマンションはどうしているのだろう?
2005/01/24
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以前紹介した東回り世界1周を目指している斎藤さんも、堀江謙一さんに遅れること9日目に無事南米最南端ケープホーンを通過したようです。南半球に入るまでの勢いで堀江さんを追いかけると、大西洋に入ってアルゼンチン沖フォークランド付近では、追い抜かすのかと思っていましたが、あれから1日しか差が縮まっていません。こうなれば、日本近海で追いつきデッドヒートというのが、ニュースとしてはいいのでしょうが、堀江さんはレーサーじゃなく冒険家でビール空き缶再生ヨットという環境コンセプトなので、ちょっと違うかな?元レーサーの私としては、個人的に楽しんでおきます。それにしても、最近の高年?老年?パワーには負けますわ。ところで、今日は天下分け目の中学受験大阪・京都・兵庫統一受験日初日。数年間家族のパワーを結集した本番の日。中学正門前は相当な盛り上がりだっただろう。特に親御さんは、塾に投資したのは半端な額じゃないので、子供のためと言葉に出しても表面上だけで、心の中では「元を取り返せ~」のハッパとともにわが子を試験場に送り出したはず。そんな方の集まるページでは、行きの電車の中から、試験中待っている間、帰宅後、と臨場感あふれる携帯からの書き込みが踊っている。写メール画像では、門の前で最後のアドバイスを送る大手塾や、塾の旗が入り乱れている中を進む受験生親子も写っている。受験生と同数以上大人がいるのが、高校以上の受験と違う所。う~ん、思い出すなあ。大手塾の即席出陣式に送り出されたわが子に向かって、「よっしゃ、わが家の名誉のためにも一発やっつけてこいよ」と心の中で叫んでたな。そんな盛り上がりがある。元体育会なので、こういう雰囲気になると、どうしても鼻息が荒くなって乗ってしまう。それと同時に、数年間塾でがんばった子供の努力を知っているので、結果はもうどうでもいい、よくがんばったなあ、よくここまでやり通した、たどり着いた。と人間同士として、尊敬する目で見ている私がいた。これを経験し、近所の子と別の学校に電車で、身体より大きく見える重いかばんを背負って通い、1年の夏休みには、はるかに頼もしくなる。全国的には、中学受験は東京圏と京阪神が盛んで、都市圏でも名古屋や福岡はまだ公立高校が優勢だ。兵庫ジュニアからは、昨年私の母校に合格し、今年は次男の母校を受ける子がいるはず。「さくらさく」を願っている。さくらさくってとてもきれいないい言葉だなあ・・・これから、大学・高校受験と受験シーズンになるが、みんな「さくらさく」をもらって欲しい。
2005/01/22
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大きな利益をあげている好きな社長さんが、人に対価を求めない気持ちが大切だと言っていた。人はそれぞれの都合で動いている。だから自分の都合を他人様に押し付けると、うまく行かなくなることが多いそうだ。特に気をつけなければいけないのが、親切の押し売り。あの人が大変だろうと、私はこれだけの事をしてあげたのに、何も御礼がないと思った瞬間に、本当の親切じゃなくなる。相手に何も求めず、こうしたら喜ばれるだろうなと思うことをしてあげる。そこまでで、それを受けた相手の反応は、相手の都合なので、もう自分には関係ない。そうしてあげた自分に満足したらいい。年賀状を書くとき、この人は返事をくれるだろうかなどと考えて、出す人を選んじゃいけない。お世話になった「ありがとう」は、相手の反応を予測してするものじゃなくって、自分がありがとうと思った人に素直に「ありがとう」と出すことでもう完璧です。この人は去年出したけど、返事がこなかったから、今年は書くのをよそうと思った瞬間に、心からの「ありがとう」じゃなくなる。相手の都合で決まってしまう対価を求めないようになると、気持ちが楽に、ありがとうや親切ができるようになる。一番良くないのが、恩の押し売り。私はあなたの事をここまで考えて、ここまで真剣にアドバイスしているのに、何故聞く耳を持たないんだと、きつい言葉や暴力にまで発展する。相手は今はそこまで真剣に悩んでいないので、聞かないだけややらないだけ。真剣に困ればやりだす。人にはそれぞれ学ぶ時期がある。そして人は10万回生まれ変わる。今はまだそれを学ぶ時期じゃないだけ。自分が知っているいい解決策は、知らないとかわいそうだから、アドバイスはする。そこまででアドバイスしてあげた自分に満足していたらいい。いつか学ぶ時期になって、自分のアドバイスが感謝されるようになるし、お客様にそのように接していれば、必ず後から返ってくる。対価を求めず、与えれば与えるほど、心配しなくても大きなものが必ず返ってくるように世の中できてる。何かでうまく行ったとき、それを周りの人に教えていますか?教えることができるようになると、人生ドンドンうまく回るようになりますよ。みなさん親切をしていますか?親切の押し売りになっていませんか?なるほど、そんなものか・・・
2005/01/21
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いよいよ関西の中学受験が始まった。今週の初めから奈良県で始まり、22日が大阪・兵庫・京都の統一受験日です。阪神間の方は、奈良県の学校を前受け校にして、入試本番の雰囲気に慣れ、22日に本命校の受験をし、その後第2志望の学校を2次募集で受けるのが、ひとつのパターンです。大手塾がこんなコースを塾生に勧めている。長男は、奈良を2校受け丸とバツ、統一日本命バツ、その後丸・丸で、結局第2志望に進学した。統一受験日前に奈良の入学金払込がありますが、家から通えず寮に入ることになるのでパス。本命校バツの時は、合格発表の帰り長男が荒れてしまいました。勝手に喫茶店に入り、勝手にジュースなどを注文する。付き添った家内は、ただおろおろしてついていってお金を払うだけ。そんなのを数件して、自宅に帰って来て私の天体望遠鏡を投げつけて壊してしまいました。家内は危ないと思い、私にヘルプをかけてきました。すぐ家に帰り、2階の自室にこもった長男を1階の居間から観察していました。大手塾に通っていたので、毎年合格する人数が一定数あり、志望校別クラスの席次で大体合否が読めるので、長男にとっては不合格という文字はなかったのでしょう。自分のふがいなさに腹が立っての行動だったのでしょうが、自分を傷つけることがなく助かりました。確か、1晩中横の部屋で起きていたと記憶しています。次男の時は、通うことのできない奈良受験をやめて、2校だけ受けました。震災の翌年が受験だったので、大阪と兵庫の統一受験日がずれたので、2校とも第1志望校でした。塾からはもう少し偏差値の高いところの受験を勧められましたが、第1志望不合格のダメージを長男の時知ったので、余裕を持って受験しました。彼は丸丸で、ついでに大学も丸丸、幸せもんです。長男の受験には、全部家内が付き添いましたが、腰の据わっている家内でさえ試験中はソワソワして落ち着かなかったそうです。家内は精神的なものと寒さで勘弁してほしいということで、次男の時は、私が2校の受験と1校の合格発表に付き合いました。私は、試験中本を読んだり寝ていました。1校はちょうど取引先銀行の前担当者の息子さんも受験したようで、偶然控え室で会い、しゃべっていました。がんばって欲しいとは願っていましたが、特に落ち着かないようなことはありませんでした。母親と父親の違いでしょうね、所詮母子の近さにかなうはずはありません。合格発表の時は、駅を降りて学校に向かう道で、発表からの帰りの親子に多数すれ違いました。その雰囲気で合否が分かり、同じ志望校クラスの子の表情を数人見て、「僕合格したわ」と次男が確信したようでうれしそうでした。彼の中での第1志望の学校からは、前日に合格通知が届いていたので、こちらも気楽でした。正門のところで、ここで待つように指示され、次男は1人で掲示板を見に行きました。自分の番号を見つけて私を呼びに来て、合格した塾友としばらく遊んでいました。自分の時はもう忘れてしまいましたが、番号を見つけると親でも結構感動するものです。奈良の合格発表が昨日・今日だったようで、学校があるので親が1人で掲示板を見に行ってるのでしょう。合格なら、事務所に手続き封筒をもらいに行き、ちょっと誇らしげにそれを持って帰ります。残念なら、本人にどう話そうか悩みながら帰ることになります。本命校の統一受験日は2日後、みんな「さくらさく」といいのですが、半分以上の子は残念な結果になります。でも今は、2次募集が結構あり、その日程は各校の戦略で微妙にずれているので、受験機会が多数あり、チャレンジ校・本命校・滑り止め校、何処かには合格できるようです。高校以上になると、親はあまり関係なくなるので、この時期が家族の総力を結集した最もエキサイティングな受験です。しかも大手塾が、ここに気持ちを盛り上げるべく、正月から過熱過剰気味のサポート体制を組み、受験日は塾の先生が鉢巻巻いて、旗を立てて正門前に並び、塾生に最後の一言をかけていきます。
2005/01/20
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2日前に、日曜日に行った「ろうそくイベント」の事を書いたが、そのとき印象に残ったのが、中学生ボランティアの子が一心にろうそくを立てる畝を直している姿でした。何故印象に残ったかというと、震災当時中1だった長男が、家や店の片付けが一段落した震災3日目くらいから、午後出身の小学校に行っていたからです。小学校は確か1週間ほど授業が出来ませんでした。家を無くした方が避難している体育館などで、彼なりに何かを学ぶだろうと、長男が行きたいと言って来たとき、気軽に行かせました。平常時なら、最寄の小学校に行くことに親の許可などわざわざ取りませんが、余震が毎日数度あり、家族が離れること自体躊躇する状態でした。家内は行かないでと言っていました。そんな時、自分の家がある程度片付いたからと、最初は興味で行ったのでしょう。しかしその後、被災を免れた大阪の中学に1週間お休みする連絡をして、毎日数時間小学校に行っていました。次男も一緒に行くこともあったように記憶しています。隣の市では水道が出ていたので、「水を友達と一緒に運んだ」などと言っていました。その流れで、長男は翌年からの震災イベントのボランティアに参加するようになったと思います。長男と日曜日に畝を直していた中学生が重なって見えました。ボランティアの主力は、20代30代の大人です。要所要所に立って、来られた方の誘導や流れに気を使っています。そんな中で、自分のできることを畝直しに見つけたのでしょう。あれから10年、神戸市や芦屋・西宮では、震災ボランティア出身の若い議員さん、県会議員さんもいます。不祥事で残念ながら国会議員を辞されましたが、確か辻本さんもボランティア活動での活躍で、皆さんに推された方です。国を具体的に動かすのは官僚ですが、大きな国の方針を決めるのが国会。議員さんになるためには、議員の秘書からが多かったのですが、松下政経塾などの政治家志望の若者を受け入れる学校が出来、そこ出身者も1つの勢力ですが、ボランティア出身もこれから多くなってくるでしょう。ボランティアで皆さんに推されるようになる為には、パフォーマンスでは無理です。コツコツの毎日の努力が認められて、みんなに頼りにされ、議員になります。ボランティアというのは、高い奉仕精神が必要ですが、経済的基盤がないとできません。1人のボランティアを人様のお世話に出しても、その人の分まで稼ぐ家族や周りの協力がないとできません。明日食べるものがないのにボランティアなどできません。今日本は、過去にないほど豊かになり、ごく普通の人が明日の心配をせずに暮らしていけます。かつてイギリスから、赤十字・赤新月社が始まったように、国内や国際貢献できる非政府組織が日本にも生まれつつあります。またボランティア出身政治家が、別の何かを国の中枢に注入すると思っています。もし私が小さな時に震災にあったら、長男のように、小学校に手伝いに行こうと思っただろうか?と思うんです。ハンガリー人の日本ナショナルチームコーチの運転手を買って出た長男、次男の大学ヨット部に入ってきたスウェーデン人の世話係をしていた次男。英語はスクールイングリッシュに毛が生えた程度なのに、平気で「じゃあ僕がするわ」と手をあげるのが今時の子です。新世代の方が、私より進化していると思っています。高遠菜穂子さんのHPを覗いた。11月にファルージャが米軍に攻撃され、ほぼ破壊された。そこから逃げてきた市民を受け入れた村も、米軍から無差別攻撃をされているようだ。英語のできる人を立てて、米軍に村に入らないように要請したが聞く耳持たずのようだ。動くものみんな撃たれるらしい。一方で、高遠さんがかんでいる学校再建プロジェクトで小学校が再建されたようだ。たった400万円で再建され、ファルージャから逃げてきた小学生も受け入れて定員の倍近くが、机に鈴なりになって勉強しているようだ。お金は日本からのものかもしれないが、穴を塞ぎブロックを積んだのはイラクの方。自然に学校の備品が、近所や親から寄付されているらしい。こんなのが一番いいんじゃないかなあ?もらったんじゃなくって、胸をはって再建したと言える。震災の時見た、若い子達の働きが、確実に少しづつ世界に広がっていると感じている。NGO・NPOの主力は、20代30代。このような法人格を取らなくても、昨年の台風被害や数年前のタンカー油流出事故、後始末に全国から駆けつけたのは、若い子たちなんだよな。10年前では考えられなかったのではないだろうか?彼らはまだ日本人としては先駆者です。小さな時既に親に連れられてなどで海外を経験しているので、平気で海外にもドンドン出て行くだろう。当然失敗の連続です。そしてそこから何かを学んで、同じような道を目指す次の子達に伝えて、安全で永続的なノウハウを築いていくのでしょう。その失敗のとき、私のような1世代前の人間は、「それみたことか」などと、出る杭を打ち過ぎないようにしたいものだ。高遠さんによると、以前のイラクは、日本人自身が驚くほど親日的な国だった。欧米に占領されなかった、アジアの国アフガニスタン・タイ・日本に対する尊敬を学校で教えられているのかもしれない。戦後復興を成し遂げて、欧米に匹敵する経済力を作ったことも影響しているだろう。それが、自衛隊派遣以来大きく変わり、日本人であることが危険な国になった。でも、このような方の地道な活躍がまた親日の国に戻して行くのだろう。このような活動は私にはできないが、若者のパワーと行動力を応援したい。自分の仕事をしっかりやる、大げさに言えば足元の経済を安定させるのも関節的に彼らを助ける。年上に受け入れられて育った若者は、やがて次の世代も受け入れるようになるだろう。
2005/01/19
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震災関連の報道が数日前から増えていましたが、今日はヘリコプターが上空を飛んでいました。うちの周りは、様変わりしたから、震災当時と今との比較にちょうどいいのかもしれない。毎年この日には、ヘリが飛来します。天皇さんか?皇族の方が今日近所に来られたようです。確か昨日神戸にいたはずだから、その流れで来られたのだろうか?16日の日曜日、青春18切符が3枚残っているので、兵庫県から福井県の日本海側を走っている小浜線に行く計画を立てていました。ところがその数日前、18切符の事を教えてくれた近所の知り合いから、「18切符、余ってたら買うよ」とのメールが入りました。夫婦で金沢の方に行こうかと計画を立てているそうです。行こうかなと計画したら、その人数に合わせて金券ショップで買うそうです。あと数日しか使える期間が残っていないから、今ならさらに安く買えるそうです。「あと3枚あります。2枚あげるから、よかったら私もご一緒させて」と返事を返しておいたら、即一緒に行こうということになりました。その方の息子さんも、次男と同じジュニアヨットクラブ出身で同学年。交通費を下げる為に、よく2家族でシェアしていました。一緒に全国をまたにかけてレースしていた口です。今も、大学ヨット部で次男と同じ琵琶湖で練習をしています。もう10年もライバルをしています。次男は全日本学生団体戦予選で負けてしまったが、彼の学校は全日本に行き優勝してしまった。そして今年彼はキャプテン。次男の学校と違って、学生ヨットの世界では全国制覇が一番多いので、プレッシャーがあるだろう。まあそこを乗り切ってまた一回り大きな人間になるのだけれど。さて日曜日は、18切符ベテランのお母さんに日程・行き先もお任せしました。さすが18切符のベテラン、お母さんは朝が早い。朝6時に駅集合、一路日本海目指して北上しました。山間部はもやがかかっていましたが、雪はあまり残っていませんでした。今日の行き先は、福井県小浜。兵庫県を北上して、日本海を京都府、そして福井県に入り、滋賀県から琵琶湖の東を通り大阪に帰ってきます。大きく近畿周遊です。阪神間を抜けてすぐ、セルフサービスで扉が開くタイプになりました。正月に、自分でドアを開ける珍しい電車があると知りましたが、実はこのタイプの方が全国的には多いとわかっています。福知山から小浜線に乗り換え、左に原発銀座の日本海を見ながら、楽しいおしゃべりが続きます。舞鶴から北、高浜・美浜付近には、海水浴やキャンプでよく来ていました。電車の駅から案外海水浴場が近いです。昼前、小浜につきました。お母さんは、さっさと駅横の旅行案内所に入っていきます。たくさん並んでいるパンフレットからめぼしいものを物色し、壁の地図を見て、「レンタサイクル2時間300円を3台」お父さんと私は、「はい」って言うだけ。先ほどせしめた地図をお父さんに渡し、「この地図の青い線を行きましょう。私は一番後ろをついていきますから」しか~し、しばらくすると先頭にたってみんなを先導しています。お父さんから小声で、「一番後ろをついてくるって言ったのに・・・夫婦関係がわかるでしょ」って。「わはは、どこでも一緒・・・」お寺や神社を回っていると、若い女の子のグループがいます。「あっちの方がいいな」と横目で見ながらペダルをこぐ。マーメイド像・武家屋敷街などを通りながら、今一盛り上がりに欠けるなあ。「武家屋敷の横にガレージがあるもん」次は昼食です。何やらお母さんは、めぼしいお店をガイドで探したようで、15分くらいその店を探してうろうろする。大体の場所をつかんで、駅に自転車を返し、次はテクテクテクシーでその店に行く。お父さんの自転車が途中でパンクしてしまいました。お父さんがすまなさそうに、「すいません、パンクしました」「あら~、ごめんなさい。お尻いたかった出しょ。300円お返ししますね」ってお父さんは無料になってしまった。さっき駅に戻る手前でパンクしたのに、290円普通の自転車で最後の10円だけパンクしただけなのに・・・大阪だったら、パンク代1000円請求されたかも?なんてみんなでラッキー。今日もついてる。日曜日なのにあまり人が歩いていないなあと、入口の見過ごしそうな2Fの店に入ると結構人がいる。「これがおいしいらしいよ」とお母さんのおすすめを注文する。ご飯の上に、イカ・イクラ・はまち・・・いろいろ刺身がたっぷり乗ってご飯が掘り出さないと出て来ない。それにお汁と漬物、干物。ご飯・お汁はいくらでもお代わりOK。店内でいい香りを放っている干物など、みんなかなり安く、試食のものを持ってきておかずにするのもOK。「安~、ようこんな店見つけて来るね」とお母さんに聞くと、かばんからガイドブックが出てきた。しかも図書館のラベル付。「普通、買わない?」「だっていろいろ行くでしょ。買って置いといてもすぐ古くなっちゃうから、本屋の立ち読みと図書館で借りるのが一番よ」お~そんなものか。このお母さん、非常に活発で、山登りなどにもよく行く。たった500円で、満腹になった。「これうちの店で出したら、ようお客さん入るやろな」「隣に市役所があるので、ウィークデーの昼は満員やろな」と言ってはりました。お母さんは、お土産にさば寿司と干物を買い込んでいました。さば寿司もさば1匹分くらいの長さがあって1本500円。すぐに売り切れてしまいました。次はフィッシャーマンズワーフです。とことこテクシーで、海まで10分。フィッシャーマンズワーフに入ったと思ったら、そのまま通り抜けて、観覧船の切符を購入です。タイミングよくすぐに船は出ます。小浜は日本海に面していますが、大きく湾になっていて大きなうねりが入ってきません。小浜の城跡、お宝伝説などよくある説明を聞きながら、だんだん眠くなってきました。帰りに、遠くに見える高浜原発の説明。全基フル稼働すると、京都府・滋賀県・奈良県の使用量がまかなえるんだったかな?1秒間に使う海水が25mプール1杯分だって。とにかくすごいです。船から上がり、フィッシャーマンズワーフを物色していると、時々試食が出てくる。さば寿司食べました。うまかった。「よく歩いたわね、お風呂に行きましょうか」一応そういう予定を聞いていたのでタオルは持ってきています。横に大きなお風呂のあるきれいな建物がありました。まず、風呂に入ることにする。泡風呂・サウナ・米ぬか風呂・海藻風呂・露天風呂などがあり、海藻風呂は「まこも」風呂で、お肌がつるつるになります。ぬるぬると表現した方がいいかな?ここには人魚伝説があり、何とかという女性が、人魚を食べて800才まで若々しく生きたそうだ。その方が、もういいわと入っていった洞窟にさっき自転車で行ってきたが、人魚の主食がまこもですとお風呂の説明に書いてあった。「この風呂の水を飲むと800才まで生きられるかな?」風呂上りは、冷たいものと相場は決まっています。カキ氷があるじゃないか。メロンカキ氷を注文。お母さんも揃い、下の階にある福井県の物産展のようなところに行く。和紙製作体験30分、箸製作体験30分、ガラス工芸体験30分。うわ~、こんなのがあるじゃない。1人なら迷わず、和紙すきに挑戦するところだ。残念ながら次回に回す。「まこもの影響か?いや~ぬくもりました。身体がホコホコ」15分駅まで歩いたが全然寒くない。カキ氷で冷やしておかなかったら、きっと体温が40度近くになっていただろう。予定では次敦賀で降りることになっていましたが、電車の中で予定変更、長浜に行くことにしました。でかい椎茸が入ったうどんを食べさせる店があるそうで、そこを目指しました。駅を出てすぐ、壁にある駅前観光地図を見ながら、ガイドブックとにらめっこ。すぐに目指す店を発見。入ると、寅さん・山田洋二監督などのサイン色紙が所狭しと並んでいます。間口はあまり大きくありませんが、奥行きがある。歴史を感じさせるお店です。長浜は、秀吉の最初のお城があったところ。浅井・朝倉連合軍を破った信長から、元浅井領だったここをもらったのだったと思うが、間違ってたらごめんなさい。壁には、昔のメニューが飾ってありました。ビフテキ25銭に対して、オムライス35銭だって。オムライスは高級料理だったんだ。はい、パチリ。普通にこのお品書きが壁に掛かっているので、ひょとするとビフテキを4人前注文すると1円で食べられるのか・・・なんて考えてしまった。出てきました。おばけ椎茸入りうどん。お父さんが、「顔の大きさと一緒や」私はうどんだけだったら、お腹が減ると思って、かやくご飯とのセットを注文しましたが、なんとうどんの器が小さく、入っている椎茸も普通の大きさ・・・う~ん、失敗や、ワハハ。長浜から新快速に乗って、一気に大阪まで帰ってきました。9時過ぎに駅で解散したら、「まだ2時間はいろいろ行けたね」だって。「え~、これで満喫でしょ」「いつも12時過ぎ着よ、だってもったいない」「12時回ったら18切符使えないでしょ?」「大抵使えるよ」だって。2300円でこれだけいろんな所に行って・・・まだもったいないの・・・この夫婦と18切符のお供をする時は覚悟がいりそうだ。駅で預かってもらっていたバイクに乗り、昨日日記に書いた「ろうそくイベント」に参加した。これから、イベントに行く私もかなりタフかもしれない。初めて買った青春18切符、とうとう全部使い切ってしまった。めでたし、めでたし。
2005/01/18
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今日1月17日は、阪神淡路大震災の起こった日です。我が家は最悪の状態までは行きませんでしたが、相当な被害を受けました。店のコンクリートの内壁には、わざと直していない部分があります。いろんなところに亀裂が入りましたが、ここはお客様から見えない部分で、建物の強度的にも問題がないので、そのままにしています。壁紙を張っていましたが、亀裂に沿ってその壁紙も破れました。ビルの1階で、そのビルは一部損壊という指定を受けました。一部損壊でも、入口ドアが開かなくなってしばらく窓から出入りした上の階の方もいました。ビルの壁に無数の亀裂が入り、柱に致命的な亀裂が入らなかったので、半壊や全壊を免れました。しばらくして、亀裂に応急処理がなされ、とりあえず雨水の浸入をしのぎました。「雨漏りがする」「天井にしみが出来た」「ふすまが開かなくなった」・・・などまあいろいろなことを上階の方から聞きました。ビルは上のほうが揺れが大きいようです。一時、亀裂を塞いだ応急処理のパテと元の壁の色が一致せず、フランケンシュタイン状態になりましたが、2年目に改修工事をしてきれいになりました。うちの前のビルも半壊を免れましたが、結局その隣の駅ビルが壊れたので、一時両方とも更地になり、建て替えになりました。横のビルは半壊になり、今は建て替えられた新しいビルに変わっています。大変な経験をしましたが、家族はみんな無事で、怪我も病気もせず暮らして来れたのは幸いでした。また、当時中1・小5だった子供たちの力を認識するいい機会でした。家や店の片付け・通常業務が最優先と、率先して動いてくれました。いざとなったときはやっぱり家族が頼りということを知ったのは私にとって収穫でした。従業員さんたちもみんな被災者で、自分の家の事を優先する指示を出しました。一番大変だった、最初の3日間を家族だけで乗り切りました。電気・水道・ガス・電話が止まり、余震が続き不安な日々でした。子供達の笑顔や無邪気なおしゃべりには勇気づけられました。ボランティア元年と言われますが、若い学生の子達が自然発生的に協力し合って周りを助けている姿に、「今の若い子は・・・」なんて言ってるが、やっぱり人類は進歩というか進化していると感じました。住宅が全壊し学校の避難した方は、今時の若い子にいっぱい勇気をもらったに違いありません。震災から1週間や10日たって、やってきたセールスさんから聞く慰めの言葉は、内心冷めた心で聞いていました。やっぱりその時、即一緒に片付けた家族、子供達です。少し落ち着いてきてからは、慰めの言葉より仕事の話です。食っていく為には、仕事をしてより多くの人に喜んでもらわないと。当事者になり、不安でいっぱいの被災者の本当の心を知りました。あの体験をして、少し考えが変わったように思います。紛争や災害後すぐは手を貸し、その後は仕事。その地域に仕事を持って行くのが一番の支援。「かわいそうねえ」「どうだった」「元気出してね」・・・はもういりません。どうせ当事者や家族で乗り越えなければならないので、むしろ以前と同じように接していただく方が楽です。この10年で、災害などがありました。ボランティア元年の主力だった10代20代の学生達の働きが、NPO法律を作り、NGOに市民権を与えたように思います。無数に出来た元ボランティアリーダーが、それらの非政府団体を作り、主力になり、国内災害や世界の紛争・災害に即応しています。すばらしいことです。昨日から、今朝1/17午前5:46まで、毎年行われている公園のろうそくイベントに参加しました。夜9時から30分くらいいました。 わが子が通った保育園から100mほどの所にある公園、毎日のようにこの広場に連れてきてもらっていました。そこに運動会などに使うテントを立て、防火・防炎シートを敷き、土の畝が作ってあります。そこにろうそくを立てて行きます。風よけに広くシートが囲っています。 「ゆうあい」というNPO(非営利ボランティア組織)がイベントを仕切っています。自治体や企業がベースになる資金を出しているのかも知れませんが、テント無償貸与やろうそく購入資金でしょう。派手さは全くないのでほとんどお金もかかっていないと思います。長男もしばらく「ゆうあい」ボランティアをしていました。こんなので何かを学び伝えるのだろうなと思います。 中央のおそろいのジャンパーを着た「ゆうあい」メンバーが畝や安全に気を使っています。バイクで公園に行き、まず記帳しました。記帳するとろうそくをいただけます。9時頃でしたが、大勢の人がいました。小さな子供を連れた家族もいました。もう少し早い時間帯ならもっと小さな子が多かったでしょう。募金箱が目に付き、募金しました。ほとんどの人が募金している感じがします。ろうそくに火をつけ畝にさします。横では、ろうそく作りが子供たちに人気です。ボランティアさんから、ひもをもらい、熱く溶けたろうそく入りの石油缶にひもをたらします。ゆっくり上げると、蝋がひもにつきます。すぐ冷えて固まるので、また缶に入れます。それを繰り返すと、段々太いろうそくになり、満足できる大きさになったら、はさみで下を切ってもらいます。オリジナルろうそくの出来上がり。 慰霊碑の前もろうそくでいっぱいです。一心にろうそくに火をつけている人、ろうそくの前でじっと手を合わせている人、燃え尽きたろうそくを取り除いて畝を作り直している中学生くらいの男の子ボランティア。いろんな人がいます。特に順路があるわけでもなし、参加費が必要なわけでもなく、どんどん来る参加者が暗黙の了解のように動いて何かを得て帰っていく。ピラミッド型ではないボランティアの雰囲気がそうさせると感じたが、気持ちのいい一時を過ごすことが出来ました。公園から外れてバイクの所に向かっていると、小さな子を連れた家族連れ、暗いので抱っこされている男の子が、「お父さん、お祭り?」「ちょっと違うけどな・・・」それに続いてお父さんが、当時まだ生まれていなかったお子さんにどう説明したかわかりませんが、ろうそく祭りと思って毎年参加してもいいな、もう少し大きくなると、段々分かってくるだろう。こんな自然な感じで、次の世代に語り継がれるのだろうな。 こんなろうそくです。
2005/01/17
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今月に入って、「美しき日々」の挿入歌の日本語吹き替え版が、よく有線から流れる。有線のチャンネルをバラードにしているが、リクエストの多い曲がよく流れるようになっているので、世の中の動きが少し見えるような気がする。NHKが「冬のソナタ」を放送して以来、土曜日の夜、韓国ドラマを楽しみにしている自分がいる。「変なの」「役者さんの演技が大げさだなあ」と思いながら、「冬のソナタ」を何気なく見ていたが、完全にはまってしまった。元々、NHK夜から深夜に放送している海外ドラマは好きだった。「ダーマ&グレッグ」「ミスタービーン」「ER」「ホワイトハウス」「ロズウェル」「アリーマイラブ」・・・NHK受信料の事がいろいろ話題に上っているが、私は受信料分は取り戻しているように思う。とりあえずNHKというところがある。「冬のソナタ」の後に始まったのが、「美しき日々」。役者さんもストーリーも、「冬のソナタ」の方がいいと思うが、なんとなく見てしまう。やっぱり、ペさんの方が色気がある。チェ・ジウさんは魅力的だ。韓国ドラマの吹き替え版が、ここまで多く有線で流れるようになったのは、35才以上の女性が好むドラマを時代が欲したからだろうと思う。「いつまでも魅力いっぱいでいたい」「いつまでも好かれていたい」という、母でも、仕事でもなく、女性の部分をいつまでも大切にしていたい現われだと思う。我が家にもその年齢の女性が1人いる。きれいにお化粧し、休みにエステ・ウインドーショッピング、会合に積極的に出て行く姿に、少しそれを感じたりする。残念ながら女の子を授からなかったので、がさつな男3人の中で、かわいそうだなと思う時もあった。でも反対に女3人の中に私1人では、私の居場所がないような気がする。今まで以上に大切にしなくちゃ。ペさんの落ち着いた口元と、少し頼りなさげなやさしさもヒントになる。彼女はまた1歩踏み出した。「PC買ったから。ちょっとやってみるわ」「え、そうなの」以前から、ネットやらなくちゃ、時代に遅れちゃうよと薦めていたが、やる気にならなかったようだ。気が変わったのは、彼女の店の周りに、光ファイバーが敷設されて売り込みがあったから。店が、POSレジと連動して問屋・メーカーにEOS発注しているので、毎日キーボードを叩いているし、レジ売価変更・設定、売上データ・顧客管理などみんなPCでしている。PCには慣れているが大変重要なシステムなので、ウイルスが入ると大変なことになる。よって、電話回線利用のクローズシステムで構築している。インターネット発注のところもあり、私の店に別のPCを置いてネットにつなげている。そこから彼女にもいろんな情報を流していたが、自分でしたくなったようだ。光はまだ高いのでADSLにしたが、PC設定など自分でしてみるそうだ。私がやればすぐだが、おかしくなった時自分で設定した経験が生きる。昨夜自宅にもADSL回線を引っ張った。長男の要望で、自宅にもブロードバンド回線を引くことにした。研究室の居心地がいいのか、半分以上自宅に帰ってこない。車ですぐなのに帰ってこない。大体彼は自宅で勉強するのを好きではないようだ。小学生時代は家内の店、塾の合間に私の店や塾で勉強していた。図書館は快適な勉強部屋だと思っている。今まで主に研究室で使っていたPCを、自宅にも持って帰ってきて使うそうだ。一昨日、モデムが届いたので、夜私のノートPCを自宅に持って帰って接続・設定しすぐネットに繋げることが出来たが、電話の調子がなんか変になってしまった。2Fの電話・FAXはOKなのだが、1Fのから私の携帯を呼び出さない。昨日NTTに問い合わせると、スプリッターの後ろに2台の電話を配線しないとダメみたい。早速、配線などを買い、昨夜配線しなおした。家族みんなPC持ちになったので、自宅でも長男以外もするようになるだろう。10年前には想像すら出来なかった。
2005/01/15
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またまた続ききで。さて、バスに乗って永平寺口まで戻った。駅員さんがバス降り場まできて、「次の電車は2:03です。少し時間がありますから、あちらの待合室で暖まっててください」待合室に入ると、007がビデオ放送されていた。また雑誌や漫画本が置いてある本棚があった。みんなここでのんびり待つんだなあ。ここから大体30分で福井駅に着く。こころのたびさんが作ってくれた日程表では、金沢15:10発だからそれには大分早いのでどの列車に乗るかなあと、時刻表を見ると、なんと電車がない。福井で次の列車に乗っても、敦賀で1時間半待ち。結局同じ電車になってしまう。「う~ん、どうしようか?特急に乗れば早いが、18切符で乗れないぞ。結論、当初予定どおり福井と反対の勝山まで行ってそのまままた帰ってくる」えちぜん鉄道は単線です。この駅で両方向の電車がすれ違うらしく、同時に入ってくる。少し早くホームに上がり、これから向かう方向をパチリ。 私以外の人は全員福井方面行きに乗った。アテンダントさんが会釈してくれた。今度のアテンダントさんは飛び切りの美人。乗ってきたお客さんは私だけだから、私に対してだよね。また無人駅が続くので前の車両に行ってしまった。外の白い景色、横を流れる川、きれいな風景。途中の無人駅は、まるで庭に駅があるように家の横に停まる。お勝手を開けて、「運転手さん、今行くからちょっと待って」と声をかけられる距離。垣根というものがある家が少ない。いい所だなあ。でも暮らしていると、大変なことが多いのだろう。私なんてきっとすぐ音を上げるのだろうなあ。30分で終点勝山駅。「次は終点勝山です。ご乗車ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」アテンダントさんがまた後ろの車両に移ってきた。私の前で腰を降ろした。小さな木屑を拾って、私と目が合った。にこっ!「おきれいですね」007ならさりげなく微笑んで、その後・・・お決まりの・・・なんて言えるわけないです。口をついて出たのは、別の言葉、「この電車、そのまま福井に折り返しますよね」にこっ!「はい、そうです」2度も、にこっとしてくれたぞ。ただそれだけなのに嬉しい。情けなや、男の性?・・・私だけの性?勝山から10人くらいお客さんが乗ってきた。1人福井の観光の本を片手に、熱心に写真を撮っている方がいました。私もつられてパチリ。運転席後ろの右に立っているのがアテンダントさん、左に立ってるのが熱心な青年カメラマン 2両にこれだけのお客さん。料金。1時間に2本の運行本数。雪の日曜日のお客さんの数。ウィークデー通勤通学時間はもっと多いのだろうなあ。なんて考えながら計算してみると、車両費用が償却できるのかなあ・・・「ここでこんなこと考えるなよ、今日は休みの日なんだからさ」と心の声。有人駅は終点駅と永平寺駅だけの3つだけで、他は無人駅、車掌さんも若い女性で経費削減しています。でも、駅員さんの愛想よさと、アテンダントさんのおしゃれと笑顔で私には魅力満点に写りました。どうしたら魅力アップできるか、新規お客さんを集めるために努力してるんだろうなあ。真冬は雪ばかりの寒いところで、往復2時間立ちっぱなしで、スカートの寒さを笑顔の裏に隠して、みんながんばってるんだよな。お客さんが来てくれるうちなんて天国みたいなものだよな。まだまだできるよな。勝山まで来てよかった。帰りの電車がなくてついてた。いろんなことが感じられた幸せな1日だった。Special thanks to こころのたびさん。
2005/01/14
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昨日の日記の続きです。雪が積もっていたので、20分くらいかかったのかなあ?無事永平寺参道前に着きました。最後の案内で、「お帰りは、参道から300m下った所に永平寺停留所があります」なるほど、その間にお土産屋さんがいっぱいあります。参道は、時折雪の重みで枝から雪がバサッと降って来るいい感じ。でパチリ。 横の永平寺川はもっといい感じで、またパチリ。 中に入る前に、おもな伽藍の配置図をパチリ。 拝観料500円を払い中に入ると、まず拝観の説明を受ける部屋に通される。前で雲水さんが、歴史・各伽藍の説明・注意事項を説明してくれる。その前後に、合掌するのだが、肘を真横に張ってかっこいい。今から760年前、京都の公家の家に生まれた道元が、両親の早死に接し比叡山に出家した。24才で中国に渡り、坐禅に出会い2年間修行して開いた坐禅修行道場。毎年春に100名以上の修行志願者が訪れ、1年間坐禅修行をする。生活全部が修行で、朝4時から夜9時まで決められた作法に沿いお勤めをして、自由時間はない。道元から歴代住職全員の法要を行っており、ちょうど今日は2人の住職の法要の日。注意は、雲水の写真を写さないこと。雲水が修行で集団移動しているのに出会ったら、左側通行で道を譲って欲しい。山門を通ることができるのは住職のみ、それと雲水が修行に入る時と修行が終わって出る時の生涯2回だけ、だから山門はまたがないこと。主要伽藍は、廊下で繋がっている。天井絵の間を見学し、次に山門に行ってみました。ここから雲水修行僧が入ってくるんだ。中から外をパチリ。 ちょうど説明の雲水さんが来られた。「山門には扉がありません。ですから邪気が自由に入ることが出来ます。それを防ぐ為に左右に四天王が守っています」パチリ。 法要が行われる伽藍に行く途中、雲水さんの2列集団が下りて来た。左側に避けると、僧堂という雲水さんが坐禅を組み、食事をし、眠る伽藍に入っていった。足にはサンダルを履いていたがいかにも寒そうです。袈裟の袖に両手を入れて、しっかり前を見ている方、寒そうにうつむいている方、いろいろですが足並みだけは揃っていました。暖房というものはなく、吹きさらしの廊下も多いので、ほぼ外の気温そのままのだ。雲水の生活に慣れたが、春の卒業前の一番厳しい時期なのだろう。薄い布3枚くらいしか着ていないんじゃないかなあ?粗食と薄着に鍛えられ、風邪を引かない身体になったのだろうか?100名くらいの雲水さんでセキをする方はいなかった。法要の伽藍に着くと、雲水さんの他に少し違う着物を着た地位の高い僧もおられた。次に移動しようとすると、布にくるまれた小さな箱を持った雲水さんが2人、数人の雲水さんと通られた。あれが元住職さんかなあ?仏殿の外はこんな感じ、パチリ。 伽藍をつなぐ階段はこんな感じ、パチリ。 そこから外を見ると、パチリ。 そうだ、記念に東司に行っておこう。東司は、ご想像にお任せします。廊下に、道元禅師からのメッセージが壁に貼ってあった。その中の1つ、「どう生きるか生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるかそれが仏法の根本問題です長生きをすることが幸せでしょうかそうでもありません短命で死ぬのが不幸でしょうかそうでもありません問題はどう生きるかなのです」最後お土産に、道元禅師からのメッセージと今左腕に巻いている水晶の腕輪を購入した。外に出ると、さらに雪は強く降っていた。転ぶのに注意しながら、バス停まで下っていると、元お姉さんから、「お団子おいしいよ、お食事もうすんだ?」の声がかかった。そういえば、お腹がすいたなあ。精進料理などメニューが並んでいたが、おろしそばを注文した。永平寺にはこれで3度目だ。1回目は親に連れられて、確か中学時代。その時、入口でくつを脱いでいると、外人さんがおられてざわついていた。英語で話し掛けている。「誰か英語の分かる方おられませんか?」と誰かが叫んだ。「はい、ここにいます」となんと母親が手を上げた。へえ~と母を見ていると、こっちに来た外人さんにこの子が話せますと私を指差す。「うそやろ~」確かに中学で英語習ってるよ、確かに英会話の授業は外人教師だよ、LL教室ある学校だよ。でも外人さんと話したことは、先生と近くに住む先生の娘さんがあまりにかわいく、下心も手伝って話してるだけだよ。「そりゃないよ」しかし、玄関で多くの人が私を見ている。逃げるわけには行かないので、とりあえず聞いたがわからない。今でもはっきり覚えているが、最初に発した言葉。wait, please more slowlyとっさに出た言葉。英会話の先生がいつも言っていた言葉は、相手の目を見て、はっきりとゆっくりしゃべれば伝わる。文法の間違いを気にせず、身振り手振りも使って、とにかくしゃべれ。今でも中学時代とあまり変わらないので、単語に毛が生えている程度だが、笑顔でなんとかごまかしている。坐禅をしに来たが何処で受付しているか尋ねていた。近くにいた雲水さんに場所を聞いて、受付まで案内した。please follow meと言ったと思う。そこで事情を話し、記入欄を指差して、name age address ・・・とか説明した。これでドキドキの英会話が終了し、無罪放免された。これでちょっと自信がつき、神戸港や大阪港に入港した軍艦の一般公開があると、友達と連れ立って見に行った。みんなバラバラになって、暇そうでやさしそうな水兵さんを見つけてしゃべりかけた。しゃべった人数を競争した。大抵は答えてくれるが、フランス軍艦を訪れた時はフランス語?で返された。2人で行ったが、全滅だった。英語は分かっているようだったが英語で答えないので、フランス人は気位が高いという結論に達した。2度目に訪れたのは、子供が小さい時。多分雪の少なかった正月スキーの半日だったと思う。1度目は、いきなり親に度肝を抜かれて、また呼ばれたらどうしようと、半分そんなことを考えて、大体お寺なんて面白くない。2度目は、子供達の世話ばかりしていたように思う。初めてゆっくり観た。そして年齢から来るのだろう、心に染みるものを感じた。
2005/01/13
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堀江謙一さんが無事ケープホーンを通過しました。この南米最南端の岬、南極大陸と南米大陸の間、強風と大波で有名ですが、どうやら今回は楽だったようです。堀江さんによると、初めて陸地がきれいにみれたようです。それでも北西の風7m/sで後ろから追われている風で、HPの写真を見ると結構大きなうねりが見られます。「こりゃ完全に酔うなあ」という感じです。島影からチリ海軍の出迎えを受けセレモニーをしたそうです。今回は余裕があったようで良かったです。----------さて昨日の続きです。昨日は、18切符で琵琶湖を過ぎ、今庄までやってきたところまで書きました。スキー場までは、まあまあ皆さんが座ってるなあくらいの込みようでしたが、それを過ぎてからはすいています。雪たっぷりの山の中を過ぎて、日本海側に出ました。あんがいこっちの方が雪が少ないです。ずっと雪ばかりかと思っていましたが、そうでもありません。先ほどの3人組おっちゃん達はパンフレットを出して、いろいろ今日の行動を相談しています。どうやら今日のお宿は温泉のようです。この中の1人がリーダー役のようで、旅行関係は取り仕切っているらしい。韓国がどうのこうの、タイがどうのこうの、かなりお詳しい。琵琶湖を過ぎたあたりで、鉄道の電気のことを話しておられました。直流と交流と言っておられたような?「もうすぐ、切り替えだから停電するで」なるほど、しばらくするとその案内が流れ停電しました。むむ、元鉄チャンかな?「鉄道研究会」というクラブがありました。文化祭の出展が、いろんな所の写真や列車の顔写真。いろんな説明が事細かに書かれていたが、全く興味がなかったので、ふ~んと通り過ぎていただけでした。だけど、ここの部員、楽しそうに話してくれます。草を掻き分け、苦労して写した鉄橋を渡る蒸気機関車の写真だけで、いくらでもしゃべります。今で言う「おたく」だが、昔は鉄ちゃんって呼んでたなあ。それから、PCおたくが「おたく」の市民権を得て、ゾロゾロいろんなおたくが出てきました。本を読みながら、自然に入ってくる回りの人の会話を聞きながら、列車は進みます。何処にも行かない日曜日ならNHKの日曜討論なんかの、難しい顔をしたおじさん達、いやおじいさん達を見ていた時間にこんな楽しい時間を過ごせるなんて、今日はついています。北陸を北上しながら、外は天気予報どおり、雪はずっと降っています。ここでふと考えました。こころのたびさんに金沢兼六園を薦められましたが、あの庭園の中は除雪されてないよね。靴は雪が入ってビチャビチャになるかなあ?カッパを着て、手袋をしても、帽子には雪が積もるだろうなあ・・・早速、時刻表の路線図を開きました。駅名を追いかけていると、勝山が目に入りました。正月スキーに行っていた頃、道路から川向こうのがけ沿いに走る電車を見ました。あの電車に乗ろうと思いました。さらに途中に永平寺口という駅名が・・・永平寺にも行こう。ということで、急遽予定変更です。10時に終点福井に着きました。最初の予定ではここで乗り換えでしたが、JRからえちぜん鉄道に乗り換えです。永平寺口まで410円・往復820円ですが、1日フリー切符というのがあり、800円で1日乗り放題だそうです。迷わずフリー切符を買い、改札口に行くと、「今掃除してるから、もう少し待ってね」と駅員さんの笑顔。大阪とは全然違う温かさで、時間的余裕を感じます。2両連結の電車に乗ると、定員の1/4くらいかなあ。車掌さんがお姉さんです。しかも、客室とは隔離された後部運転席に乗っているのではありません。客席の後ろのドア付近に乗っています。出発の案内をマイクでしています。ミニスカートではありませんが、まるでイベントコンパニオンのようです。「・・・終点勝山駅までは、アテンダントの・・・がご案内します」しばらくすると、最後の方に乗ってきたおばさんのところに行き、回数券をもらっています。そのまま前の車両に行ってしまいました。前を通る時、胸の名札が目に入りました。「アテンダント・・・」と書いてありました。最近はJRでも女性車掌さんがいるが、アテンダントと名前が変わるだけで、エレガントな感じがするのは、男の性だろうか?見慣れた紺色の制服じゃなくって、ANAのフライトアテンダントのようなきれいな制服です。当然ズボンじゃなくってスカート。首にはスカーフを巻いています。しかも、後ろ手でゴロゴロ、フライトアテンダントさんの定番、コマ付旅行バッグです。「無人駅は、先頭車両の一番前のドアが開閉します」の案内が流れました。そうか、それで前の車両に移動なんだ。30分で永平寺口駅に着きました。ここから永平寺までバスに乗ります。ここも410円。バスが来るまで少し時間があるので、ある用のためにあるところに行きました。用をしながら、前を見ると、「急ぐとも、そっと手を添え、気合込め、外に漏らすな、松葉の露」思わず唸って書き留める私って変だろうか?どんな用事だったかは、想像にお任せします。バス停から記念にパチリ。
2005/01/12
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昨年の事件で、なくなったと思っていた西宮えびす神社の一番福男競争は、今年も健在でした。ああ、よかった。門から神殿までの短距離競争なので、スタートラインの第一線でスタートできれば有利になる。さらに、スタートが号砲ではなく、門が開くので、中央がさらに有利。そのため、そこを陣取るため、数日前から陣取り合戦が繰り広げられる。どうしても組織力がものを言うようになり、昨年の事件にまでエスカレートしてしまったようだ。今朝の朝日新聞阪神版のトップニュースがこの話題でした。私の記憶では、昨年の事件で、えべっさんがもう一番福をやめるやめないというところまでいっていたと思う。でも長年続いていた神事がもったいないと思っていたし、イベントはいっぱいあったほうが世の中面白い。氏子さんが、抽選でスタート位置を決めることにしたそうで、実施要綱を門前で数日間手配りしていたようです。当日午前0時に門前に集まった人300人でくじを引いたそうです。そして、門が開く午前6時には、2000人が集まったそうです。すごいですね。2000人だって、下手なマラソンの参加者を凌駕しているなあ。門が開き、一斉スタートして、曲がりくねった石畳230mを走って、今年の一番福を射止めたのは25才の方で、過去二番福2度、三番福1度、6度目の挑戦でとうとう頂点に。元短距離選手の走力に加えてくじ運もよかったようです。おめでとうです。-------9日青春18切符と、「こころのたび」さんに紹介してもらった行程表を持って、北陸を目指しました。天気を調べると、北陸は雪のようで、先週より暖かい服装にしました。ヨットの時よく使う長靴も考えましたが、くるぶしまで高さがある靴にし、ズボンの上から履くようになってる釣具屋さんで買ったアクリル綿入りズボンを履き、防水カッパをかばんに入れました。「こころのたび」さんの案内に、もっと早く大阪を発ったら、湖西線から琵琶湖と朝日が見れるとあったので、早起きしてそれを目標に出発しました。山科で湖西線に乗り換えです。スキー・スノボにむかうであろう若者と、中高年の雪山トレッキングをする方が多く乗っていました。山登りの靴を履き、靴の上から雪が入らないようにカバーを履いたり、リュックにカバーをして、手にはスティック。琵琶湖バレイのある駅で一斉に降りて行かれました。スノボをしようと思っている高校生風のグループの1人は、大阪から志賀駅まで自転車で来た事があるそうです。同じ職場の若者グループは、お互いのスノボの腕を探っています。特に女の子の腕前が気になるらしく、「私初めてです」とか「雪山自体初めて」という言葉に男の子達は勇気づけられているようでした。ニコニコ会話を聞いていたショートカットの女の子は、きっとかなりうまいと見ました。男の子の小さな自信は一気に崩れる光景が目に浮かびます。先週同様、本を3冊持っていきました。私はずっと読んでいると段々飽きてきて、ただ活字を追っているだけになり、頭に入らなくなります。そんな時は、ちょっと休憩して別の本を読むという読み方をするので、途中の本がどうしてもたまります。本を読みながら、グループの楽しい会話を聞いていると、琵琶湖と朝日の光景になってきました。ここで写真をパチリ。 琵琶湖大橋を過ぎて湖北に入ると、一気に琵琶湖が大きくなり、湖面が風で波立っています。日本海とはいきませんが、男性的な琵琶湖に変わります。そして、山側は雪景色になっていき、雪も舞ってきました。琵琶湖を離れ今庄まで来ると一面の銀世界です。ここで、後続特急2本に抜かれるので、外に出てみました。「うわ~きれい」一番に出て行く方は、ヘビースモーカーの方のようで、出たところでタバコに火をつけています。それから、俗に言う「鉄っちゃん」。雪の積もっているプラットホームを一番前まで歩いて行き、列車の顔を写真を写しています。それを見ていると、南に下る列車が来たので、私も思わずパチリしてしまいました。鉄っちゃんの入口になる写真になるか? 駅に着く前におっちゃん3人組が、じゃんけんをしていました。列車をパチリしたあと、まだ少し時間があるので駅の外に出てみることにしました。改札では駅員さんが、外の待合のお客さんとお話中で、私のことを気にしていない。手にした18切符を持ったまま改札の外を見ると、「歩いたら濡れるなあ」状態だったので、横の売店を覗いていると、列車に乗っていたお客さんが数人いました。こんな感じでのんびりしてるんだ。ここにいたら駅員さんから、「もうすぐ列車出るで」なんて言ってくれそうです。じゃんけんに負けたおっちゃんが缶コーヒーをまとめ買いしていました。「そういうことか」
2005/01/11
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今日は、えべっさんと成人式です。朝、店に来ると、並びにある美容室の前に、きれいな着物を来たたぶん20才、きっと20才のお嬢さん達が数人いました。店の前を着飾ったお嬢さんと普段着のお母さん、あるいはお父さん。娘の晴れ姿を見て、感慨にふけっているのでしょう。これから写真館に行くのかなあ?この日にお見合い用写真を撮るのが普通らしい。私の時も、当時付き合っていた彼女がそのようにしたらしい。とにかく前日と当日午前中の成人式が終わるまではハードスケジュールで、午後彼女の家に行って、床の間をバックに一緒に写真に納まり、神社に行った。この時の写真、思い出トランクにしまってあります。たまにしか着ない振袖姿を多くの皆さんに見てもらう日。苦しくて何にも食べずにひたすら我慢し、愛想を振り撒いて・・・その半日を私にくれたのになあ・・・私は成人式なんて・・・というさめた気持ちで・・・2月から始まる後期テストに向けて勉強していた。と言えばかっこいいが、午前中何をしていたのだろう。家内に何をしていたか聞いたことがある。彼女の家も商売人だったので、1日仕事をしていたらしい。家内はえらい、学校がない日は家業を手伝っていた。というか跡取娘だったので、当然だったのだろう。それなのに私が取ってしまった。結婚してから今年行ったら?と家内に言ったことがある。美貌は全く負けてないよ。振袖実家にあるでしょ。成人式会場に入らないまでも、繁華街をうろうろしてたら声をかけられるよ。なんやったら、兄貴の付き添いの感じで写真館に行ってみる?と言った。まあ、当然一笑にふされた。が、きっといけるかもなんて内心思っていたに違いないと確信している。顔にそう書いてあったぞ。私の息子達は成人式に出席した。私の頃は、成人式に行くことがかっこ悪いことだったけど、時代が変わった。去年成人式を迎えた次男は、正月に続きまた下宿から帰ってきた。9月と正月に1泊くらいしか帰ってこない彼が帰ってくるとは思っていなかった。家内にはちゃんと連絡してあったようだが、前日家に帰ると次男がいてビックリした。どうやら小学校の同窓会に行く感覚で、中学から私立に行ったので、たくさんの友人に会えた事を喜んでいた。その晩遅く帰ってきて、翌日朝早く京都に帰っていった。店の前のバスターミナルに、毎年恒例の臨時のバス停が出来ていた。「西宮えびす神社行き直通バス乗り場」バス会社の社員さんが、お客さんの整理に当たっている。時刻表があるのだろうか?段々お客さんがたまってくると、バスが来て捌く。積み残しがありそうな時は、続いてバスが来て一時お客さんがゼロになる。これの繰り返し。1月10日の本えびすを挟んだ3日間続く。西宮えびすは、全国のえべっさんの総本山。毎年、本えびすの日の拝殿に真っ先に到達し最初に福を授かる一番福を目指して、前日や前々日から門の前の場所取り合戦がある。福を授ける福娘を目指すオーディションも熾烈らしいが、一番福は相当なものだ。昨年、大阪府の消防団員が団員の1人を勝たせる為に数人で最前列を抑え、門が開くと同時に一斉に走り出す時両手を広げて妨害したということで、新聞をにぎわせた。結局、この消防団員は何年もトライしてやっと手に入れた一番福を返上し、所長さんや大阪府消防局のえらいさんまで記者会見で頭を下げることになった。だって、この一番福短距離レースは、何台ものカメラが要所要所に設置され、スタートからフィニッシュまで完全中継される。そしてこの新年の行事は、解説付でニュースで何度も流される。「ここのコーナーで大きく膨らんだのが敗因です」とか、「後続を5m離して、この時点で一番福間違いなしでしたが、最終の石段を上がりながらのコーナーで足がもつれ転倒し、残念な結果に終わりました」また、今までの苦しい数年間を振り返って男泣きする一番福男のインタビューが感動を呼びます。まるで箱根駅伝のようだ。阪神間だけのローカルニュースだろうが、この辺では一番福の男はステータスがある。ちゃんと一番福認定書は西宮えびす神社から発行される。一生ついて回る勲章だ。不正はしっかり映像に残っている。門が開くと同時に、一斉に手を横に広げた数人の前を1人の男が・・・相当数の不正指摘や抗議が殺到し、確か3~4日で一番福返上に追い込まれ、一生物のステータス一番福認定書をえべっさんに返すはめになった。とうとう神前で福を奪う不正まで現われて、今年から一番福認定書が廃止されたのではなかっただろうか。今年はどのようになったか今ははっきりわからないが、「あ~あ、せっかく楽しみにしていたのに・・・大阪府消防局の不正は、今後ずっと語り継がれるだろう」関東の箱根駅伝に唯一対抗できるレースだったのに・・・正月の楽しみを奪われた私の気持ちをどうしてくれるんだ~、かつては友人もチャレンジしてたんだぞ~
2005/01/10
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スキースクールは、その日の初めに体操をして、全員が少し滑る。そのレベルを見て先生が、クラス分けする。長男が4年だったか5年だったか?白峰正月スキーで入ったクラスは、小学生1・高校生1・他は大人。その高校生と友達になった。というより、彼に遊んでもらったのだろう。「友達が出来た」と待ち合わせのレストランに入ってきて、その相手が肩まで届く長髪の高校生のお兄ちゃんでビックリした。午前レッスンを終え、午後からのレッスンまでに昼食を食べるのだが、そのお兄ちゃんと食べたいらしい。そのお兄ちゃんも両親ときているらしいが、帰る時間を決めているだけで、昼食も一緒に取らず夫婦で滑っているらしい。そこで、私家族に彼を加えて5人で昼食を取った。このお兄ちゃん、神戸の子で灘高校在学中だった。灘といえば全国でも有名な進学校で、少し前までは東大合格者No1を誇っていた。神戸灘の酒蔵さんの師弟を教育するために作られた中高一貫校だが、ここは関西一難しい。特に算数が難しい。私も中学受験経験者なので、灘の過去問など相当やったが、他校より算数は一段と難しかった。私と同じ小学校から、10回生で初めて灘に合格した子がいた。彼とも受験友達で、よく家を行き来していた。彼のお父さんは近くの自衛隊の医官で官舎に住んでいた。背が高く走るのも1番、もちろん勉強も1番、性格は飄々としていて勉強をがんばってる感じがない。家庭教師についてもらっていることもなく、家で私が家庭教師から習っていた受験問題集を独学でしているようだった。なんであんなに賢いのか不思議だった。長男の連れてきた友達の学校を聞いて、「なに~、灘といえば、灘・東大・高級官僚というエリートコースではないか」私たち夫婦も中学受験組で、息子達にも受験して欲しいと考えていたので、お兄ちゃんにいろいろ聞いた。高2なのだが、考えることが私らとは違っていた。小学生の時は勉強したらしいが、中学入学してからギター三昧の生活になり、高2になり大学をどうしようかなと考えたそうだ。そして、やっぱり東大に行くことにしたそうだ。この辺をさらっと言ってのける高校生なんて、世の中にどれだけいるだろうか?なんでも、東工大が生徒1人当りの国家予算が一番かかっており、次が東大。3位の京大の倍以上だそうだ。東工大は理系がほとんどなので、実質やっぱり東大が一番自由になるお金があり、大学で自分の好きなことをお金に一番不自由なくできるのは東大だから。ということを言っていた。「なんというヤツや、私なんか高2のとき、何も考えていなかった」全部自分で調べて、いろんな詳しいデータを披露してくれたが、今は全て忘れた。興味深い話をいろいろ聞かせてくれた。結局国を動かしているのは当時の大蔵省で、中でも主計局出身者、明治政府の頃から、昭和の戦争の流れまで自分なりに筋立てて、誰がどの組織が動かしていたかを話してくれた。それで大蔵官僚になるために東大に行くそうだ。国を動かしてみたいらしい。夏にギターを置いて、また勉強しはじめたらしい。音楽とスポーツを何か1つ、それに英語ができれば、間違いないらしい。歴史好きの長男は目を輝かせて聞いていた。このお兄ちゃんと一緒だった確か2日間、長男に少なからず影響を与えたような気がする。お兄ちゃんの小学生の時の塾が、長男が通っていた浜学園というのにも親近感を覚えたようだった。彼は今財務官僚として活躍しているのだろうか?長男は、がんばって勉強し塾からは灘受験も勧められたが、毎年の塾からの合格者数と自分の位置を考えたのだろう、灘受験は言ってこなかった。次男のジュニアからのヨット友達に、理3の子がいるが、なんか3人ともちょっと違う雰囲気を持っている。「人は人、自分は自分」という感じがする。このお兄ちゃんの両親にも挨拶をした。翌日は一緒に昼食を食べた。この親、ほとんど子供に干渉してこなかったと言っていた。せっかく灘に入ったのに、バンドを組んでギター三昧の日々を送る息子さんも、ほとんど気にならなかったそうだ。私にもそんなところがあるが、さすがにギター三昧の数年間は耐えられないだろうと思ったが、今はその気持ちがよく分かる。男の子のその年頃に、父親が干渉してもまず変わらないだろうし、親子の絆を無くすだけだと思うから。
2005/01/08
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冬の時期になると、新聞のスポーツ欄の片隅に載る積雪情報。先月20日頃は、近畿・北陸のスキー場は何処も少なかったが、年末に寒波が入り何とか正月に間に合ったようだ。正月休みはスキーと決めていたときは、気になっていたが最近はそうでもない。雪がない時も行っていたのでキャンセルすることはないのだが。次男の中学受験の6年生の時、正月スキーが途切れて以降、息子達はついてこなくなり自然消滅した。というか次男との正月ヨットに切り替わった。正月スキーの定宿は、石川県白峰スキー場の民宿で、最後は毎年前年帰るときに予約していた。子供が生まれた頃は、信州に2回ほど行ったが、ドライバー1人で時間がかかると危険だし、標高が高く気温が低いと道中のアイスバーンが怖く、家族で行くのはやめた。常連さんが多く、のんびりやってる宿で、最初は白峰観光協会に紹介してもらった。1年目は別の宿だったが、2年目12月半ば過ぎにやっと雪が降ってすべれるようになったので予約を入れると満室で、その宿が「探したげるわ」ということで待っていると、1時間後くらいに、「あったよ、ここにしな」と電話をいただいた。山奥なので集落みんなが助け合って生きてきたのだろう。この白峰村は、多数の雪だるまの中にろうそくを灯すので有名、そして恐竜の化石が出土する地層があってこれでも有名なところです。恐竜博物館もある。ここは福井市側と金沢市側を結ぶ山奥の国道沿いにあり、どちらからも同じくらいの距離がある。金沢側からは、白山のビッグな複数のスキー場の方が近く、福井市側からはスキージャムという大きなスキー場より奥にあるので、正月でもリフト待ちでうんざりということにはならない。国道に面しており、急勾配がないので、スタッドレスで十分上がれる。ここに宿を取ると、福井側や金沢側のいろんなスキー場に1時間以内で行ける。大抵元旦は、スキージャムに行き、2日からは込むので、白峰や白山セナという縦長スキー場に行っていた。どっちもすいていました。ただ、子供がもっと小さな時は白峰で、雪だるま作ったり、ソリで滑ったりしていた。家内の姉家族と行ったこともあった。それぞれの楽しみ方をしていた。家内はちょっと滑ると休憩、滑ると休憩パターンで、1日券を買っても得してるのか疑問のスキー。よって私が子供達の面倒を見る事になるのだが、学年は2年違いだが、4月生まれと3月生まれなのでほぼ3年違う。下にあわせるとお兄ちゃんがつまらない。上にあわせると下が心配で家内のご足労を願う。上が4年生の時、ためしにスキー学校に入れた。嫌がってるような行きたいような・・・感じだったが、学校にはまってしまった。結局4年・5年・中1とオールスキー学校で、学校のない時間帯だけ一緒に滑った。私もスキー学校が好きだ。ウィークデーに休日をとっていた時期、毎週兵庫県のスキー場で日帰りスキーをしていた。1人で滑っても仕方がないのでスキー学校に入り楽しんでいた。しかし、我流でスキーを覚えたので、なかなかその癖が抜けない。SIAという国際的なスキー団体のゴールドメダルを取ったが、意識して滑らないとすぐ癖が出てしまう。SAJで言うと、1級か準指くらいかなあ。とりあえずかなり滑れないと取れないメダルなのだが、ここ数年行っていないので怪しくなっているかもしれない。ところが長男は、お遊びスキーからすぐにプロの先生に教えてもらったので変な癖がない。入ってすぐ、筋がいいと誉められて、2日目には上のコースにステップアップし、4年生の4日間終わった時には、ちゃんと板を揃えて回れるようになっていた。翌年5年生でシルバーメダルを取ってしまった。子供たちは、正月以外にスキーに行くことは年間2日ほどなのに、上達スピードにはビックリする。「長いボーゲン君からたった10日くらいでそこまで行くか」中学ではセミゴールドを取り、SAJでは2級と1級の間くらいか?中学から全員で行くスキーでは学年で一番うまかったそうだ。まあ、大阪の学校なのでレベルはしれているのですが。次男も3年生になり、お兄ちゃんと一緒にスキー学校に入れようと思ったが、拒否されてしまった。「お兄ちゃん、面白いって言ってるよ」と言ってもダメ。お兄ちゃんも勧めていたがダメ。どうやら従兄弟のお姉ちゃん達の世話をする方がいいらしい。チビの時からスキーに親しんでいるので、ヒュンヒュンとかっこよくとは行かないが、急斜面でもちゃんと安全に降りてくる。従兄弟達は、スキー経験が少ないので、ゲレンデを突っ切って深雪によく突っ込む。次男もかつてそうだったが、私が毎回助け出したように、チビさんがお姉ちゃん達に声をかけながら助けている。白峰のスキースクールで、強烈に印象に残るお兄ちゃんに会った。また明日書きます。
2005/01/07
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大晦日の夜、高校の時の同期ヨット部仲間と会った。毎年恒例の忘年会。次男中3の正月の兵庫ジュニアヨットクラブ合宿を思い出した。出身大学に艇庫を借りて合宿をした。初日の晩、親たちの宴会になった。忘年会兼新年会。このクラブを通して知り合ったが、親友と言っていいほどになっていた。そこで、次男が成績が下がったので猛勉強中で、成績が上がるまでヨットをしないことを話した。フロリダ合宿もキャンセルして、成績が沈んだままではもうヨットを辞めるかもしれないとも話した。Uさんから大変残念がられた。U君は前年ナショナルチームに入りヨーロッパ遠征している。そのナショナルチームを決める最終選考会で、次男の方がU君よりいい成績できていた。3日目の風の上がったあるレースで、次男はスタートして風上第1マークまでの途中で船を止めてしまった。結局そのレースは時間内にフィニッシュできず、痛恨の大量失点で最終総合成績がU君の2人後になった。その間にナショナルチームのボーダーラインがあった。ジュニアのレース艇には、自動で中に入った水を出す装置がついていない。走りながら片手で小さな水出し用バケツを手にとって手動で出す。その動作をすると、少し艇速は遅くなるが、水がたまって走れなくなることはない。風上に向かう時は、この動作が難しく、風上マークを回ると楽にできる。クラブの子達は、いつも風上マークまではその動作をせず、回航してから動作をしていた。前年にジュニアのトップクラスになってきて、20m/sオーバーのレースを体験するようになってきて、どうしても風上マークまでに水出し動作をしないと走れなくなることをコーチ達が知った。練習で模擬動作を時々練習するようにした。でも次男は、そのような風がほとんど吹かないので、その練習の意味が見出せなかったのか、この練習をしなかった。U君もほとんどしなかったが、お父さんは強制的にやらせていた。本番でそれをしたかどうかが分かれ道になった。「何故、首根っこひっ捕まえてもやらせなかったのか?チーフコーチならそうするのが当たり前。それがやさしさでしょ。一緒にヨーロッパ遠征させたかった」と、お酒の勢いもあって次男を思う言葉を私に投げかけてこられた。そこまで次男の事を考えてくれて嬉しかったが、我が家の子育てではそれでよかったと答えた。水を出す重要性をコーチングしたが、それを採用するかどうかは選手の問題で、強制することはできない。選手の問題で、痛い目にあって、自分で修正するかどうか考えるのは選手。それが一番身につく。そんな感じで子供と接してきたから、私には何も悔いはないと言った。強制していたら、そう接してこなかったので、次男とケンカになったかもしれないし、芯がフラフラする親と思われる。確かに私は冷たいのかもしれない。やさしさがないのかもしれない。不得手を強制してまで克服させてやろうという意欲がないような気がする。音楽のある生活に憧れて、ピアノを習わせた時もそうだった。練習してこない息子達を叱る先生に腹を立てて、2人で辞めると言ってきた時も、「そう、わかった、月謝はしばらく払っとくから行きたくなった行きな」だけだった。実は次男はヨット部なのに水泳が不得手だ。泳げるがきれいな泳ぎ方ではない。夏休み水泳教室の話をしたが、行かないと言ったのでそのまま。清風はプールのない学校で、水泳授業を市民プールに年3回ほど行ってする。「お腹が痛い」などと仮病を言って、見学になるよう書類を書いてくれと言ってきた。仮病と分かっているし、水泳をしたくないというのもミエミエだが、何も聞かずそのまま書いたので7割くらい見学していた。なんでもさぼる子じゃないし、嫌なものをさせても・・・したくなったらしたらいいし、出来ないものがあってもどうってことないと思っている。「だからあの時した方がいいって言ったでしょ」なんて言葉は言わない。言わなくても「しといたらよかった」と思うこともあるだろうし、「別にできなくてもいいもん」と思うかもしれない。どちらも自分で決めることで、自分で決めないと本気でしようと思わない。自分で決めたからこそ、成功した時の喜びが大きく、自信もつく。うまく行かなくても他人に責任転嫁せず、尻拭いも自分ででき、それを引きずらずに次の行動だできる。前述のナショナルチーム落ちの後、水を出す練習を自らしていた。私はこれでいいと思っている。さめてるなあ?冷たいかなあ?やさしくないかなあ?でも機会は作ってるからいいと思うんだけど。
2005/01/06
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1月2日に、青春18切符を使って四国讃岐の琴平金毘羅さんに行って来ようと思いました。あの長い石段を登って本場讃岐うどんでも食べようかなと計画しました。青春18切符ってご存知ですか?私は夏に知りました。知人が、1人2300円で大阪から下関まで夫婦でフグを食べに行ったと聞いて、その交通費の安さに驚きました。奥さんが旅行好きで、いろんなことを知っているのですが、私はこんなJRの割引切符があるとは知りませんでした。この夫婦、よく日帰りや1泊旅行に行ってるのですが、これをよく利用していたようです。息子に聞くと、下宿生が実家に帰る時の定番のようで、当然のように知っていました。「知らなかったのは私だけか・・・」春・夏・冬の学生の長期休み期間中にだけ使える、新幹線・特急以外のJR列車1日乗り放題が5枚つづり11500円の回数券切符のようなものです。こころの旅さんの日記を読んでいると、どうしてもこの切符を体験したくなって、年末に旅行社に買いに行きました。ネーミングがなんと言ってもいい。「おっちゃんが使っても青春18切符」1/20が期限なので、初めて体験したというわけです。初心者は、ベテランのコピーをするのが無難なので、琴平に行かれた体験談の真似をすることにしました。前述の友人夫婦も、讃岐うどんを食べに行くと言ってたし。さて朝早く、家を出て山陽本線で一路新快速で姫路まで走りました。新快速は速いです。一気に走ります。神戸を過ぎ、海が見えてきました。読みかけの本を3冊持って行ったのですが、本を読む手を休めてボーっと窓の外の海を見ていました。やがて明石になり、明石と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が見えてきました。船で下をくぐったのは何度もあるのですが、陸上から見るのはいつ以来だろう。確か開通した時、ライトアップあれていて、それを見に家族で車に乗って行ったことはあります。横の道路はそれから2~3度は通ったことがあるのだろうが、車を運転していたのでゆっくり見た記憶がありません。電車からゆっくり見るとやはり壮大でした。天気もよくいい景色でした。ここでカメラを持ってくるのを忘れたことを悔やみました。「あ~、写真が撮れない」写真好きの私としては不覚です。程なく姫路に着いて、ここで岡山に向けて乗り換えです。お腹がすいてきたので、駅の外に出ましたが、食べるところが目につかず、また改札を通り構内のお店でカレーを食べました。チラッと見せるだけで、改札を出入りするのは定期を持っていた学生以来で、ちょっと嬉しかったりしました。駅員さんもチラッと見るだけで、この切符がかなりポピュラーなことが分かりました。「う~ん、知らなかったのは私だけか?」路線図と時刻表を見ていると、山陽本線から離れて海側を通る赤穂線という支線があります。これも、こころの旅さんの日記から情報として仕入れていたので、そっちに行くことにしました。相生から赤穂線に乗り換えて、2両の列車になりました。赤穂で下車して、見学しようかな?との誘惑にかられましたが、ここはパス。時々海が見えて、日生に着きました。ここには数度車で来たことがあります。これから先は海沿いに電車は走るはずです。その眺めもいいかなと思いましたが、駅に出ていた「小豆島行きフェリー」に心を奪われ、下車してしまいました。改札を出て、フェリーの方に歩いていくと、昔何度か寄った切符売り場がそのままあり、切符を買いフェリーに乗りました。このフェリーに乗るのは、子供が小さかった時以来です。船に乗るときは、いつもマイライフジャケットを家族みんなで着るのですが、今回は持参していません。とりあえず、ライジャケの位置を確認してしまいました。小型ヨット乗りを長年していると、悲しい性になってしまっているようです。フェリーでもライフジャケットを着ている家族なんて変ですね。子供が「かっこ悪いから脱いでいい?」と何度か言われましたが、ここはぴしゃりノーと答えました。ヨット用だからかなりかっこいいのですが、やはりういていたな。いい天気の穏やかな海面をフェリーは走ります。左右の島がきれいに見えます。本を読まずにずっと外を見ていました。着岸のときは、舵と2機のスクリューの操作だけで、見事にあの大きな船体をピタリと桟橋に着ける技術を窓越しに見ていました。きっと変なヤツがいると思われただろう。さすがに見事な操船だった。さて小豆島に上陸したものの車はないし、どうしたものかとブラブラ昔家族キャンプをしたところ目指して歩き始めました。ほどなく着いた懐かしい場所は、当然真冬にキャンプしている人はいませんでしたが、なんとなく面影がありました。沖の小さな島まで子供達を乗せたボートを持って泳いだな。全員ライジャケを着ているので沈む心配がなく、ゆっくりバタ足です。確かここでキャンプしたのは、淡路島に次いで2度目、「泳いでいる魚が見たい」と言われ、もっと透明度の高い海じゃなきゃということで、翌年のお盆休みから日本海になったような記憶がある。さらに、ここで最新キャンプ用品を持ち込んでいた回りの方に圧倒されて、ドンドン買い揃えるきっかけになったような気がする。特にガスバーナーコンロの火力と調理のスピードに驚かされた。「なんじゃこりゃ、家と変わらんやん」ここから帰る途中にお遍路さん札所のお寺に寄り、お参りをして鐘をついてきました。そして、フェリー乗り場に戻ると、出発までかなり時間があります。正月小豆島の最高峰に上がり、猿に車のお飾りみかんを取られ、家内の帽子についていた飾りの花をもぎ取られたことも思い出しました。花を取られたのは夏に来た時だったっけ?本でも読もうと待合所に上がると、箱根駅伝の往路の最終区山登りコースを中継していました。報徳や西脇工業という兵庫県の高校出身の選手もおり、なんとなく応援していました。日体大と中央大の選手が、脅威のスピードで歴代区間新の勢いで快走していました。1人は最後に故障してしまい記録には届きませんでしたが、中央の選手は11人?抜きの記録と従来の区間新を1分も縮める驚愕の記録を打ち立てました。しかも笑顔でゴールして、そのままもう1区走れそうな余裕でした。帰りの赤穂線は前の車両に乗りました。運転席のドアが開いていて、そこにバスによくある料金箱がついていました。無人駅があるからでしょうか?駅に着くと運転手さんが料金を頂戴し、駅員さんも兼務のようでした。しかも、バスについている電光の料金表がついてるし・・・そういえば、行きしの電車はドアを手で開けて乗る電車でしたし、折りたたみ自転車と乗っている方もいました。結局讃岐うどんは食べられませんでしたが、かなり楽しい小旅行になりました。次は北陸に雪でも見に行こうかな?なんて思いました。電車でしかもゆっくり走ると、今まで見えていなかったところが見えました。
2005/01/05
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今日から仕事をしています。今年の正月は去年に続き、家にいました。家にいる正月は、結婚以来3回目です。24年前の3月に結婚し、次の正月は長男がお腹にいたので、(おっと私のお腹にいたんじゃないですよ、家内のです、当たり前ですね)、家内の実家に帰ったくらいですが、翌年から毎年正月スキーに行っていました。12/31仕事後、車に一式積んで石川県のスキー場が定番でした。ワゴン車なので、布団も積んで、私だけが運転し、家内と子供たちは後ろの布団の中でスヤスヤ。年が明ける頃、高速のパーキングで私もおやすみ。翌朝起きて、1時間ちょっとでスキー場です。一番行ったのは、白峰スキー場。ここは山の中ですいています。よって正月なのに安いです。毎年同じ民宿で、帰りに翌年の予約をして帰ります。おいしい料理が2食ついて、ずっと1泊5000円くらいでした。30分くらい走れば回りのスキー場にいけるので、はしごしていました。温泉はあるし、ほんといい所でした。それが、次男の小学校5年まで続きました。長男が中学受験のときも、3人で行きました。隣に両親が住んでいるので安心ですし、長男は1人というのを体験したかったのか、しきりに「行ってきていいで」と言ってました。次男が中学に上がり、受験が終わったので本格的にヨットにのめりこみ、冬も練習するようになりました。正月はもちろん正月合宿で海に出ました。そしてナショナルチーム合宿に参加できるようになり、唐津などに正月遠征。それを卒業すると、私が全国理事になったので、よそさんのお子さんを集めて合宿をする方になりました。一昨年それを卒業して、去年家で正月を過ごしました。去年の正月はとてもいいことがありました。次男が京都に下宿してから2回目のお正月。1回目は年末の470級ナショナルチーム合宿に、大した成績を上げていないのに若手伸び盛り?ということで参加させてもらい、横浜八景島合宿が終わってすぐ帰ってきました。2回目は、おせち料理詰めのバイトを31日夜中までして、そのまま帰ってきました。日付が変わってすぐ、自分でつめたおせち料理をぶら下げて帰ってきました。玄関でその姿を見て、「これで酔っ払ってたら、忘年会帰りのおっちゃんやなあ」なんて思いました。「おかえり」と言うとすぐ、「隣、まだ起きてるかなあ」と裏から隣の明かりを確認し、祖父母の所にそのおせちを置きに行っていました。30分ほどして帰ってくると、「お父さん、明日お墓行くの?」「そうやな、明日行くかな。どうして?」と聞くと、「いっつも行ってるから」そういえば、スキーに行ってた時は次の休みの日に、その後は元旦に家内の実家のお墓に行っていました。家内は先に墓参りして、ホテルエステコースだったので、次男と2人で元旦に墓参りしました。小学生までは、「お墓の帰りにおばあちゃんとこに寄るから、お年玉があるかもな~」とか言って誘い、中学になると、めんどくさそうについてきていましたが、少しづつ洗脳されたようです。その1年前に、長男が先輩からもらった車で彼女と家内の実家に寄ったことを義母から聞きました。それを長男に聞くと、「あはは、墓参りの帰りに寄ってん」との返事が返ってきました。私が、家内とのデートで親戚回りをしたのと同様、親に似て変なヤツやと思いながら、墓参りとは泣けてきました。それに続いて次男から墓参りに行こうと言われたのが嬉しかったですね。「なんとなく、人並みになってるやん」長男はお墓には思いが強いように思います。もう忘れましたが、いろんな悪さをしました。私は、親にきつく怒られ、鬼のような顔でスリッパで何度も叩かれたので、今でもあまり親が好きではなく、なんとなく怖いので積極的には話しません。親が圧倒的に強い子供時ほど、対等に接することが大切で、この頃の親に対する感情は消えないと体験しています。だから子供にはどんなことがあっても、叩かない、そしてきつく叱らないと決めて接してきました。これはという悪さの時は、2人で仕事後の夜中、お墓に走りました。1時間でお墓に着き、懐中電灯を持って手をつないで真っ暗な山道を2分ほど上がり、爺ちゃんのお墓に手を合わせて、戦没者の共同墓地の縁に腰掛けて、空を見上げたり、高台なので、下の道路を走る車のライトを見て帰ります。長男とは数度行ったことがあります。夏に苦肉の策で思いついた作戦で、最初はとても怖がって手をぎゅっと握っていましたが、最後の時は、仕事から帰ってくると「墓行く?」と聞いてきて、「今日は1人で上がるから、ちょっと遅れて上がって来て」と言われてしまいました。一度大人に怒られれば十分と思っているので、何も言わずにたわいもない会話をします。いろんな人に怒られて、言い訳をブツブツ言うのを、ただ聞くようにしていました。なんとなく、長男の言い訳を言う心境がわかるんです。半分は、悪いことをしたと悔いているんです。誰も言ってくれないから、自分でそれを言うことで、心のバランスを取っているんです。私はしつこく怒られると、言い訳を言う。するとそれに対してさらに怒られる、さらに言い訳するの繰り返しで、結局自室に閉じこもります。私がそうだったから分かるんです。お墓の帰りは、明るいいつもの長男に戻っているので、先祖の力はすごいなと思います。今年の正月はどうだったかというと、まず家内は定番のエステコース。長男は、研究室の細胞培養か?毎日学校に行ってたようです。昨夜は地球環境保全のTVを真剣に見ていました。ヤツは、馬鹿笑い番組と歴史物、それにNHK教育番組を大抵見ています。彼の頭とこれから身につけるであろう技術で、世界に貢献して欲しいと思っています。リーダーシップと馬力・センスがあるので、流れに乗ったらノーベル賞を取るくらいになると思っているのですが、親の欲目ってやつでしょうか。次男は、元旦の夕方に帰ってきました。「誰かと初詣に行ったのかなあ?」とも思いましたが、バイトで遅くなったので下宿で寝て、昼頃起きだして帰ってきたのでしょう。ヤツは、3月にあるナショナルチーム選考レースのために軍資金を貯めていると思われます。1月に後期試験があるので、勉強もしないといけないし、2日に帰って行きました。今日もダラダラした、取り留めのない日記になってしまった。思いつくまま書いてるからなあ・・・
2005/01/04
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