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鶴巣PA(上り線)に入ったときのことです。美味しそうだったので「鶴巣ベーカリー」さんのカレーパンとナンを食べたのですが、軽食コーナーのメニューにある「ETCカレー」に興味を持ちました。子どもも不思議がっていましたが、ひょっとしてETC割引でもあるのか、と。良く読むと、ダジャレでした。エビカツ(E)、卵(T)、キャベツ&チーズ(C)ということで。人気メニューだそうです。
2011.01.23
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改めて挑戦します。仙台以外の宮城県内の地名で、自然数9までをみつける企画。一迫(栗原市)二の倉海岸(岩沼市)、二俣(石巻市。二俣小学校など)三本木(大崎市)、三色吉(岩沼市)四竈(色麻町)、四日市場(加美町)五性橋(石巻市)、五日町(亘理町など)、五反田(涌谷町など)六本木(石巻市相野谷)、六本杉(七ケ宿町)七ケ宿町八幡町(石巻市)九条(気仙沼市。九条小学校など)■過去の記事 数字と宮城の地名(2011年1月18日) 仙台の数字が揃いました(2011年1月17日) カラフル仙台 色の付く地名を考える(2011年1月15日) 仙台と数字を考える(2011年1月12日)
2011.01.19
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仙台の数字が揃ったところで、調子に乗って、今度は宮城県に視野を広げてみました。■過去の記事 仙台の数字が揃いました(1月17日) カラフル仙台 色の付く地名を考える(2011年1月15日) 仙台と数字を考える(2011年1月12日)仙台市以外の地域で探します。今回も地名の最初に数字が入るものを見つけていきます。一迫(栗原市)二ノ関(富谷町)三本木(大崎市)四竈(色麻町)五性橋(石巻市)六本木(石巻市旧河北町)七ケ宿町八幡町(石巻市)たまたま知っている随分細かい地名も含めて、記憶を総動員しましたが、やっぱり「9」が出てきません。明日にでも思いついたら記してみます。
2011.01.18
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たこ焼きや麺類など、粉もん食文化の本を読んでいたら、巻末の年表に、昭和11年(1936)宮城県に昭和産業創立、とあった。■熊谷真菜『「粉もん」庶民の食文化』朝日新聞社(朝日選書065)、2007年さて、昭和産業とは現在どうなっているのか。仙台の企業ではきいたことがないから恐らく名前を変えて、千鳥屋製麺か何かか、などと勝手に想像していた。ところが、この昭和産業は、あの昭和天ぷら粉で有名な全国企業の昭和産業だ。堂々と創業時の名前で成長しているのだ。同社のサイト(昭和産業の歴史)に、ちゃんと書いてある。1936年2月 昭和産業株式会社創立 本店を宮城県宮城郡多賀城村に登記そして、赤塚工場(後に水戸工場)(製粉、製油)、鶴見工場(肥料、製粉、製油)、上尾工場(飴)、一の宮工場(大豆たん白繊維)を次々と稼働させている。昭和24年に東証上場、昭和26年1月に本店を東京都千代田区(現在地)に移転、とある。とすると、多賀城は事業所の実体がなく登記上の本店だけだった、ということかも知れない。創業者や出資者ゆかりの土地だろうか。そのまま多賀城に居て、事業展開もしていれば、地元の大企業になっていたのに、と残念に思う。どうも気になるが同社サイトには説明がないようだ。後ほど調べてみたい。ちなみに、この本には、昭和16年岩手県に府金製粉株式会社が製粉業開始、とある。岩手町の企業だ。
2011.01.08
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今日の東北は何といってもこの話題ではないだろうか。時折雪の舞う冬の日だが、セントラル自動車の新工場が、稼働した。宮城に新たな産業史を刻むとともに、東北の自動車産業の集積に向けて、新たな段階が、スタートしたのだ。いろいろと綴りたいことがある。21世紀になって製造業か、外来企業誘致型で地域経済が充実するのか、大企業奉仕の県政か、などなど、さまざまな意見と、それに対する反論。実に多くのことがらが論じられそうだ。ともかく、はっきりと形が見えつつあることが、現実としてある。まずは、論じるよりも、この姿を眼に受け入れておきたい。今日や明日はとても行けないが、週末にでも、大衡まで車を飛ばしたい気分に駆られている。
2011.01.06
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貴重な体験だった。登米船着場から北上川を下り、旧北上川への分流地点である脇谷閘門を船で渡った。新北上川(放水路)と旧北上川に85%対15%の割合で流れを配分しているが、本流と旧北上川では1.5mの水位差があるため、パナマ運河と同様の方法で、船体を前後のゲートで閉じられた区画に入れて、徐々に水位を下げてから旧北上川に出るのだ。待ち時間は20分くらいだったか。ちょっと解説を加える。北上川は壮大な改修の歴史を持つが、前世紀前半に本川を分流させる大工事を行った。すなわち、1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)までに柳津と飯野川の間に河道を開削、追波川を利用して新北上川を放水路として追波湾に導いた。旧北上川は1920年(大正9年)から1932年(昭和7年)までに改修を行い、分流堰として鴇波洗堰、脇谷洗堰が建設され、舟運確保のため脇谷閘門も併設された。完成した分流施設は、二本の澪筋が大きな中洲を囲む形で、それぞれの澪筋に堰(脇谷洗堰、鴇波洗堰)が設けられている。2つの洗堰は、下部にオリフィス構造を有し、平時は一定流量を旧川に分配し、大半の水は本川(放水路)に導く。大規模な出水時には堰体を越流してある程度は旧川にも洪水を流すという仕組みだ。しかし、河川計画上は洪水時の旧北上川への分派はゼロとしているため、越流する構造を改めて、洪水時の旧川への流れを阻止する改築が必要とされた。そして、文化的価値の高い既存施設を残しつつ、新たに2つの水門を設置することとし、1996年に建設に着手。こうして120億円をかけた「旧北上川分流施設」は08年3月に完成。内陸地震の影響で1年遅れて09年に落成式を登米市津山町柳津の現地で開いた。新設された2つの水門は、脇谷水門と鴇波水門。脇谷水門は、本体26m、ゲート高12.8mで、板状のゲートをワイヤウインチで上下させて開閉する。鴇波水門は本体20m、ゲート高3.5mでドラム缶を縦に切ったような特殊な形のゲートを回転させて開閉する。私たちの乗った船は、新しい脇谷水門の黄色いゲートをくぐって、歴史的価値のある閘門施設で水位調整を受けた。旧北上川に出てからは、中洲を回り込む形で鴇波洗堰の方にも船を寄せた。遡上するサケを網でつかまえる光景が見られた。■参照 北上川脇谷閘門「クルーズ船通る」-Wind of TOME-NO.6 (まさに我々の乗船したクルーズの動画のようです!) 新・旧北上川の分流地点 (大変わかりやすいので引用させていただきました。Mr.Kappaさんの北上川ガイド) 北上川の河川改修の歴史(河川事務所) 旧北上川分流施設の竣工式の記事(登米市資料) 分流施設の解説(国土交通省の資料)■関連する過去の記事 宮城県の渡船を考える(2010年6月5日)(鴇波・柳津の渡しの廃止) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) (リンクしていた流路変遷図が切れています。上記の河川事務所サイトを参照下さい。) 北上川流域の「水山」(08年2月11日)
2010.11.14
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登米市東和町の国道346号から分かれて、鱒渕(ホタルの里)方面に向かうと、集落の先の小高い山に華足寺がある。山門は寛政11年(1799)伊達9代藩主周宗公の祈願によって建てられた。見事な建築だ。開山は古く、坂上田村麻呂の霊を弔うため、大同2年(807)建立されたという。ご本尊が鱒渕馬頭観音大菩薩で、田村麻呂の乗った馬の骨が納められているとか。全国の馬や牛などを扱う人びとから信仰され、一時は競馬関係者で賑わったという。山あいの里に、静かに佇む偉容だ。■関連する過去の記事 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)
2010.11.12
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登米市米川の町を、小学校のあたりで西郡街道から国道456号に分かれて、やや北に向かうと、綱木地区に出る。道脇に綱木農村公園(綱木親和会館)があり、小高い山に登ると、海無沢の三経塚がある。1720年頃処刑された殉教者の亡骸は、経文とともに3か所に埋葬され、松を植えたと伝えられている。海無沢、朴の沢、老の沢の3か所で、老の沢経塚は訪れる人もない。海無沢の小高い山上では毎年6月第一日曜日にキリシタンの里祭りが行われ、多くの信者が山上青空ミサに集い、殉教者の心に思いを巡らせる。また、この殉教地の下にある広場では地元の芸能や市が奉納される。(カトリック米川教会のパンフレットから)綱木沢の海無沢、朴の沢、老の沢(経の森)に鉱山があって、大籠、保呂羽方面から多くのキリシタン並びに類族達が来て働いていた。享保年間のキリシタン弾圧の時召しとらえ、はりつけにされ処刑された。その遺体が、40人ずつお経と共に三か所に埋められた。これが、三経塚と呼ばれていたが、朴の沢、老の沢の松は切られ、塚は掘られ、原形をとどめているのは、この海無沢の塚一つとなっている。1639年から40年、近くの大籠(岩手県藤沢町)で約300名が殉教する。大籠は仙台藩の製鉄の場で、備中から信者の千松兄弟を招いて技術指導をさせていたために、地区にキリシタンが広まっていた。その80年後に綱木地区の狼河原で120名が殉教する。密告によるものだったという。弾圧の史実は1952年に米川の旧家で古文書により判明したものである。■関連する過去の記事 カトリック米川教会(2010年11月9日)
2010.11.11
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登米市米川。国道346号西郡街道からちょっと入ったところ。丘の上に佇む。信徒会の会長さんが説明してくれた。米川が殉教の地であることを知り、1954年小林有方司教が布教に入る。1955年には集団洗礼で311人が受洗。体育館を貸してくれた中学校も偉かったし、受洗を許した大慈寺の和尚さんも偉かった、と会長さんは語った。寄附により建てられたこの教会は1957年の落成。集団洗礼を受けた人たちは、やがて就職して出て行った人が多い。今でも何人か当時の方がミサに集まる。また、フィリピンから来たお嫁さん達が子どもと一緒に訪れるのだという。皆さん、踏み絵を迫られたらどうしますか。生きることを選ぶでしょうか。自分は殉教しても妻子は改宗して生き残れ、と思うでしょうか。でも当時の人たちは喜んで死を選んだのです。自分は何度か信徒をやめようとも思ったが、ここまで信徒でやってきたんですよ、と明るく話してくれた会長さんだった。歴史を積み重ねて、その町がある。国道を走り過ぎたことは何度もあるが、降り立ったことはなかった。ここにはここの大事な歴史がある。秋の山あいの里は美しかった。
2010.11.09
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仙台駅ホームで見かけたので、一枚撮らせてもらった。陸羽東線を経由して新庄行きである。東北本線部分は、仙台から小牛田の間は松島駅だけ。3時間をかけて新庄まで結ぶ。キハ48系気動車の3両編成だ。私以外にも、オジサンと若者がカメラを向けていた。いつの時代にも、列車は旅情を誘う。ところで、「みのり」とは良い言葉だ。実を結ぶ。豊かで美しい。かと思えば、首を垂れる稲穂のように、あくまで控えめで調和的だ。子どもに名付けようとも思ったのだが、世界に出たときに minority と揶揄されるような気がしてやめた。でも、良い名前だと思う。日本語として語感も良い。列車にローマ字が振ってあるので、そんなことを思い出した。
2010.11.09
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子供の頃から気になっている。最近でも、仙台市営バスの場合、「ノンステップバス」という白文字が車体の右の場合で、左から書く(通常の表記)のと、右から書く(車の進行方向)の2通りを発見した。何年か前には、会社名の英文表記を、右から書いているのを見つけてビックリしたことがある(下記の日記)。出だしが .OC と始まるので、一体どこの言語かと面食らってしまった。落ち着いて右から読めば良いのだが、もちろんアラビア語ではない。アルファベットを右から書いているだけなのだ。さて、きょうは登米市でたまたま並んでいる車を「発見」したので、ご紹介してみる。これも最初はびっくりした。一瞬、うぐいすの町として売り出したのか、と思ったくらい。■関連する過去の記事 車体右側の「社名」をどう書くか(07年5月24日)
2010.11.07
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七ヶ浜に入るには、仙台からだと大代橋を経由することが多いが、下馬や塩竈からだと貞山橋を渡ることが多いだろう。この橋を渡って、役場やアクアリーナなどに向かおうとする時に、誤って東宮浜の工業団地に着いてしまうことを、私は2度ほど経験している。頭に地図が入っているつもりなのに、いつの間にか「よっちゃん」の工場の看板を見てしまう、という感じだ。東宮から役場方向に登る道路を覚えてしまったりしている。そんなこともあり、東宮浜地区とは多少の縁があるのだが、しかし本当の旧来の漁村地区には入ったことがなかった。先日、下の子を伴って、初めて訪れた。さて集落に入ると、道の稠密さが工業団地と極めて対照的だ。小さな車で行ったのが幸いだった。東宮明神が鎮座する小高い岬は、たぶんあれだろうと目には見えるのだが、どこから入るのか道がわからない。集落の端の大きな道路に接する箇所に看板があり、再び挑む。漁協の脇から入る小径、本当に狭い小径なのだが、引き返せるのか不安に駆られながら、車を進めた。境内が見える。この道だった。東宮の名は、塩竈神社の末社東宮神社にちなむが、その東宮明神は、塩竈様の東方を護る神として名付けられたと伝えられる。車を転回させて引き返すと、おそらく地元の方だろう、進入しようとする車に私たちが出るまでちょっと待ってもらった。すみません。思ったより戸数も多く、町の規模も広かった。商店、床屋さん、自転車屋さん、など。オロナインのブリキ看板も懐かしい(オロナミンCの大村昆ではありません)。坂道も多くて、小高い場所を這うような道が、両脇に立ち並ぶ民家を抜けると、そのまま代ヶ崎方面に向かうのだった。東宮浜の漁村部に立ち入る前に、町の歴史資料館を訪れた。来客はわが親子のみ。大木式土器のパズルを楽しんだ。■関連する過去の記事 多聞山から偉観松島を眺める(2010年10月11日)(同じ日の行程でした)
2010.10.12
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秋晴れの下、松島四大観のビューポイントの最南である七ヶ浜町代ヶ崎の多聞山に登った。車でスムーズに入れる駐車場から、遊歩道を少し歩くと標高56メートルの多聞山(八ヶ森)。さらにほんの少し先に、毘沙門堂がある。お堂の脇からは絶景の松島湾が眺められる。町の観光パンフには、江戸末期の儒学者船山万年が選定したのが四大観で、多聞山は「美観」と紹介されている。「偉観」が通用しているように思う。パンフにも、四か所に付したコメントの方には、幽、麗、壮、と並べて「偉・雄大さ」と書いてある。ともかく、美観であり、偉観だ。庭園の石のように見える島々が、すばらしい。代ヶ崎浜には初めて訪れた(と思う)。七つの浜を周回する県道塩釜七ヶ浜多賀城線だが、吉田浜や代ヶ崎浜まで足を伸ばした記憶も、周回した記憶もない。代ヶ崎は、達磨崎、白崎、瀬崎(州崎)、扇崎の4つの岬があったことから、四ヶ崎と呼ばれたのが、後に嶼ヶ崎と書き改められ更に現在の「代ヶ崎」の表記になった。他にも説はあるが、地形の美しさ、浦々に散る島嶼の美しさから名付けられた地名に間違いない。(町の観光パンフから)実は、県道から更に海岸沿いに密集している集落部に立ち入ってみた。所々に車が通るのがやっとの狭い通りがある。漁業を主とした集落は、岩肌の陸地の間にわずかに広がる浜地に住宅が建ち並ぶから、通路も人が歩けるほどの幅は確保していても、自動車が通行するには窮屈である。近年広域を結ぶ道路は浜から上がった丘地を走ることとなり、浜に降りずに広い道路を走り去る人には、眼下の集落が気づかない。そんな漁村の風景が、私は三陸海岸や牡鹿半島に点在する集落で見てきたが、仙台にこんなに近い七ヶ浜にもあるのだ。東宮浜にも車を乗り入れてみた。こちらは坂道も多く、リアスの漁村に近い雰囲気だ。集落向けの各種小売店、オロナインのブリキ看板など、農民層出身の私でも何か懐かしくなるような空気があった。東宮明神に登る道は、狭くくねった坂道で、戻れるのか不安になりながら車を入れた。後で観光パンフに、港に車を停めて歩いて行くよう記しているのに気が付いた。普段は車で縦横無尽に陸地を走るのが、当然のように思っている。しかし、それが標準でも全てでもない。浜の世界は、洋々と外につながり、陸地では社を中心に賑やかな町が形成されてきた。こんな世界があることに、改めて気づかされ、観念を揺さぶられるとともに、何とも豊かな気持ちになる。■関連する過去の記事(松島四大観など) 双観山から見た松島(2010年9月27日) 扇谷山から幽観の松島を望む(2010年9月19日) 伊保石公園を散策する(2010年6月6日) 番ケ森山に登る(2010年3月7日) 松島湾の朝日(2007年11月13日)
2010.10.11
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1 概説勃発は寛政9年(1797)3月9日の払暁。江刺郡伊手村であった。9日には他6か村の農民二、三百人が集まり、江刺郡邑主で一門の伊達大炊(岩城氏)の岩谷堂町に押し寄せた。やがて水沢、前沢など上下伊沢郡から磐井郡に広がる。波は登米郡にも押し寄せ、寛政一揆最後の仙北諸郡大蜂起が勃発する。すなわち、西磐井郡流郷永井村で計画された一揆は、石越村に入り四方に連絡を取って一部は東進して石森村、黒沼村に屯し、登米伊達氏の城下に進出し栗原郡の一揆と合流。また、石森村からの連絡で佐沼郷7か村の農民も蜂起し瀬峰から高清水に向かった。かくして一揆は、石越若柳方面、佐沼瀬峰方面、栗原郡西部方面のものが築館、高清水に合流し、仙台城下を向かって奥州街道を南下しようとした。これに呼応して遠田、玉造の両郡下にも蜂起の形勢があり、もし栗原登米の農民が高清水を突破して大崎耕土に入るなら、遠田志田玉造の農民も合流することが明瞭の緊迫した事態となった。藩ではこの重大事態に地方邑主を動員し、できるだけ願書を受理し穏便に解散させるよう指示。4月28日29日の頃に、迫方面の一揆主流に対しては高清水邑主石母田備後が、また、瀬峰に向かった佐沼郷の一揆に対しては佐沼邑主亘理内膳が、栗原郡山間地の一揆に対しては真坂の邑主白河上野が、それぞれ一揆と交渉して嘆願書を必ず藩主に上聞すべきことを約束して群衆を解散させた。その他遠田郡西野村の一揆は大肝入がとりなし、玉造郡の一揆は岩手山の邑主御一門伊達弾正が、志田郡の一揆は三本木町で松山の邑主茂庭周防が説得した。気仙、伊沢、磐井、登米、栗原、遠田、玉造、志田の9郡を席巻し一説には宮城郡にも蜂起が伝えられる。正しく仙台藩未曾有の大事であった。2 一揆の要求と藩の対応記録が残る永井村の嘆願書は31ヶ条から成るが、(1)不当な課税や借上げに反対、(2)御買米に対する反対、(3)郡方村方役人の不正、(4)窮迫した農村に救済の要求、の4点にまとめられる。最後に、拙者共申上候通御下知不被成下候ハ拾ヶ年間御暇被下置度奉願候御事、と固い決意を述べて藩を威嚇した。藩では蜂起の落着とともに、寛政転法と称せられる民政の転換を発表した。すなわち藩としては一揆の要求を受容し、首謀者の処分は寛大にし、むしろこれを機会に藩政の改革刷新を実行しようとした。平定後1か月を経た5月2日に、奉行衆より出入司に、郡村の潤助と民間の窕(くつろぎ)のための改革を指示。地方役人の大減員、役人の廻村停止、郡村の諸償(肝入大肝入などの費用)や遣捨人足(御作事や御普請方)の厳正化、年貢先納の緩和、などが正式に村々に通知され、事務の簡素化で役人の不正も減少し農民負担も減る結果となった。ただし、一揆が最も要求した買米制度の改革と大肝入制度の廃止には、藩は一切手を触れなかった。買米制は藩財政の支柱であった。また大肝入は農民の抑えとなる重要な役割で蜂起の取り鎮めにも大きな力となった。寛政転法で地方の中間的役職はかなり整理され、実権が代官に集中したが、これがためにむしろ農民との間の緩和役である大肝入が重要となったためである。3 責任者、首謀者の処分一揆の直接の原因は、郡方役人の苛政とこれに結託する大肝入肝入への憤激であった。藩が地方役職制の改正に主眼を置いて寛政転法を実施する以上、当然ながら不正役人や役付の処分を行った。全貌を明示する史料はないが、郡奉行小松左門は免官、北条大輔、平三左衛門は役替。村方役付では、迫筋一揆の責任を負い、佐沼大肝入高橋佐戸右衛門(御買米本金を私的流用)が大肝入追放。登米郡大肝入伊藤慶治(寛政5年為登(のぼせ)米の大坂銀利潤や同6年登米佐沼上納金着服など)は城下及び登米一郡から追放。一揆首謀者側については、「張本人ハ江刺郡伊手村百姓誰(名前失念仕候)、下伊沢徳岡村百姓山伏正覚坊を始御郡々張本人有之候得共、伊手村百姓誰正覚坊ハ徒党主本人ニ付死刑に被相行、其他大体流罪被相行候事」(佐伯是保の書上)。死刑にされた2人を中心に各郡各村に連絡者組織者があったのであり、例えば永井村に発端する迫筋の蜂起は石森村の百姓嘉蔵が連絡に当たったが、主として指導したのは大肝入や肝入級の土豪的百姓ではなく、組頭級の中農層だったらしい。瀬峰に向かった南方村一揆の指導者清蔵、兵作、惣作の身許からも想定される。伊手村の百姓某や徳岡村の山伏正覚坊も恐らく同様な階層だろう。一揆が中農層に指導されたのは、耕野村や松川村の初期の一揆が、封建農村の設定をめぐり村を支配してきた土豪層と藩の支持を受けた給人との対立であって、肝入を中心に動いたのとは異なる。寛政一揆では、大肝入肝入は農民から分離し、藩と協力して鎮圧につとめた。金成村大肝入や石越村肝入は一揆の襲撃を受けている。藩の貢租が強化されると村方役付は農民からの収奪に一役買うことになるから、一般農民との間に対立が生じる。買米や貢租の重課で打撃を受けるのは組頭級の中農層であり、その強固で合理的な自衛行動が寛政一揆であった。藩としても、本百姓維持政策を継続する以上、首謀者の処分も寛大にならざるを得なかった。こうして張本人2人が極刑とされただけで、他の指導者は流罪。南方村兵作は家財欠所、網地浜へ流罪、清蔵と惣作は家財欠所の上、長渡、田代島に流罪。永井村首謀者も入牢の上7回の詮議を受け寛政10年離島へ配流。■関連する過去の記事 仙台藩領の百姓一揆(2010年10月10日) 三閉伊一揆を考える(2008年1月7日)■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から■奥州市サイト 百姓一揆
2010.10.10
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藩政時代の仙台領の百姓一揆のあらましは次の通り。(1)寛永6年 八島下野直訴 伊具郡耕野、川張、大蔵の3村は政宗が関ヶ原合戦の時、上杉方に属した白石城を攻撃した際に参加した野武士の居住した村で、村民は素年貢で永代御蔵入地たるべき保証を与えられていた。 しかし、寛永6年に3村が佐藤甚十郎の知行地に割り替えられたため、川張村の百姓八島下野が城下の大橋のたもとで政宗に直訴。割替は中止。(2)延宝3年 松川村農民訴訟 東磐井郡松川村の領主猪苗代氏の非違に対し、農民が連名で藩庁に訴訟。寛文6年頃から紛争が発生し、延宝3年に爆発。訴訟状は松川状として現在も地方の旧家に伝えられる。この後、猪苗代氏は転封されたが、訴訟がどう結着したか不明。以上2件は、郡村の支配関係の過程でおきた紛争であり、純粋な近世農村を成立させる途上の紛争。封建農民の傾斜期における一揆とは別個の意義をもつ。(3)享保9年 大平村農民騒擾 5代藩主吉村の中興政治に対抗して刈田郡大平村に起きた騒擾。吉村は停滞しがちの年貢や諸上納を厳重に取り立てた結果、多数の農民が役人を宿舎に襲い乱暴を働いた。 仙台藩で農民が集団蜂起した最初の事件である。(4)寛政9年 仙北諸郡一揆 天明飢饉で打撃を受けた農村も立ち直りはじめた頃、藩は買米政策を強化して農民の余剰米の収奪を計った。この時期に生じた仙北諸郡の蜂起は、仙台藩が体験した唯一の強力な一揆であった。(5)文政6年 菊地多兵衛直訴 阿武隈川洪水の被害と重課に困窮した伊具郡丸森町、小斎村の農民を代表して、肝入菊地多兵衛が藩主に直訴した事件。以上の3件は藩が財政を立て直そうとした過程の一揆。(6)嘉永年間 大迫村農民起訴 旱害に困窮した農民のため、志田郡大迫村の農民代表が領主茂庭氏の重課と肝入治右衛門の酷薄を仙台藩庁に越訴しようとした事件。(7)安政4年 四竈村一揆 加美郡四竈村の肝入良助が公金を着服したのに対し、山伏の良性院が指導者となり中新田町の大肝入に訴訟した。肝入に味方する農民も中新田にくり出し双方の争論となったが、良性院は早鐘をついて手段蜂起の手法をも利用した。(8)安静年間 佐沼及川東七ヶ村一揆 栗原郡佐沼郷及び登米郡川東7か村の農民が、大肝入の不正を鳴らして一揆を起こそうとしたが、大事に至らず鎮定された。(9)慶應2年 栗原郡三迫一揆 栗原郡若柳町の小昧農民百人が村内の平野神社に集合。一迫二迫の農民も蜂起し、総勢四、五千人が歎願20ヶ条を携えて仙台に押し寄せようとしたが、高清水の邑主石母田賢頼が一揆と会見し解散させる。(10)慶應4年 西磐井郡一揆 西磐井郡赤萩村に蜂起した農民は、大肝入大槻専左衛門の私曲を鳴らし、その勢は郡内に波及して鎮撫の役人を殺し、山ノ目町の大槻家を襲撃。代表者が直訴のため仙台に向かったが一ノ関で捕らえられる。殺人と破壊行動を伴った過激な一揆であった。以上の4件は、天保凶荒以降、藩政治が行き詰まり、農村も崩壊に瀕した時期のもの。さらに明治初年には、藩権力の崩壊直後の強力な蜂起が頻発した。○ 明治2年 西磐井登米両郡一揆 暴動○ 同年 登米郡佐沼13ヶ村一揆 暴動強訴○ 同年 江刺郡西方諸村一揆 暴動○ 同年 伊具郡島田枝野村一揆 蜂起強訴○ 明治3年 登米郡川西諸村一揆 蜂起○ 同年 東磐井郡小梨村一揆 暴動強訴○ 同年 栗原郡宮沢村一揆 暴動仙台藩の一揆は件数がきわめて少ない。真に一揆らしいものは、寛政9年一揆と、慶應2年の三迫一揆、同4年の西磐井郡一揆の3件だけである。■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から
2010.10.10
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仙石線は、東塩釜を過ぎてから松島町内まで、極めて近接している区間がある。利府町分の陸前浜田駅付近はまさにピタリと両線が併走し、駅の北側の松島町との境目付近では、唯一仙石線が東北本線の内陸側(北側)にせり出している部分がある。ちょうどその仙石線が内陸にせり出した区間。狭い町道が2つの鉄道路線の下をくぐり抜ける。ずいぶん以前に車で通ったことがあるが、狭くて薄暗くて、それでいてレンガ造りで産業遺産のような風も漂って、駅のすぐそばとは言え人気(ひとけ)もほとんど無いこともあって、なんだか不思議なエリアだと感じたものだ。先日、久しぶりに通ってみた。実は以前通った際は、道を知らずに偶然遭遇したのだが、今回は、敢えて目指して向かった。松島海岸IC付近から県道を分け入って、採石場を横目に浜田に向かう。ところが、雰囲気が以前と違う。最初にくぐった仙石線のトンネル(こ道橋)が、新しくなっている気がする。道路改良が進められているのだ。浜田駅前赤沼線という事業らしい(宮城県サイトの説明)。葉山ニュータウンと浜田駅、国道45号を直結するための事業らしい。写真のとおり、浜田駅前から、従来の狭いトンネル(こ道橋)ではなくてストレートに両線路をくぐって葉山・松島海岸IC方面に向かうように、道路を引く(鉄道側からすれば新こ道橋建設)ようだ。最初に通過した仙石線こ道橋(写真では4枚目)は、橋梁自体も新しいが、道路が直線に付け替わったようだ。昔の狭っこいトンネルはどこか、気づかなかった。東北本線こ道橋(写真2枚目と3枚目)は、まだ昔のままだ。引き返して写真を撮ろうとした際に、対向車があって、トンネル内からバックで戻った。最初で最後の経験だろう。最後の画像は、陸前浜田駅の南の踏切(仙石線)から県道仙台松島線(利府街道)に至る町道にかかる東北本線こ道橋。こちらは、改良の計画はないようだ。道路改良でスムーズになるのは、良いことに違いない。ただ、ちょっと寂しさを感じる。
2010.09.28
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先日、扇谷に登ったことを記しましたが、その際に、双観山からも湾内を望みました。そのときの画像です。■関連する過去の記事 扇谷山から幽観の松島を望む(2010年9月19日)国道45から海側の細い道路に入って、ほとんど平面的な感じで、すぐに車で入れるのですが、私たち親子は、山の崖下の駐車スペースに車を置いて、歩いて登りました。
2010.09.27
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葛西氏は、秩父平氏の別族で武蔵国豊島郡豊島の地に居住し、豊島氏と称していたが、豊島清光の三男清重が下総の葛西の地を領有し、葛西三郎と称し、葛西氏の祖となる。文治5年(1189)の奥州征伐に大功があり、磐井、胆沢、牡鹿外数カ所を拝領し、奥州惣奉行に任ぜられ、陸奥国在住の御家人奉行権を与えられたが、幕府の宿老として鎌倉に在住していたらしく、葛西氏が奥州に移住するのは四代清経(仙台葛西氏系図)の代(建治年間、1275年頃)と推定される。(中尊寺経蔵文書)葛西氏の奥州における居城は、初代清重以来、石巻の日和山とされるが確証はない(奥州葛西記、仙台領古城書上、奥州観蹟聞老志)。六代清貞は南朝方の大忠臣として葛西城(石巻日和山か)を中心に活躍し、16世紀には戦国大名化し、北上川流域の葛西七郡(胆沢、江刺、気仙、磐井、牡鹿、桃生、本吉)を支配し、やがて遠田、栗原方面に進出し大崎氏と対立してゆく。大崎氏は、斯波氏とも称す。斯波氏は足利氏の一族で家氏が鎌倉時代に陸中斯波郡に所領を持ち、斯波氏を称す。また、下総国大崎地方にも領地を持っていたので大崎氏とも称した。斯波家兼が奥州探題に任命されたのは文和2年(1354)頃と考えられるが、この頃は観応の擾乱がおさまり、奥州南朝勢力は一掃されつつあったが、奥州には、分裂する幕政担当者と結びついた奥州探題(管領)と称する吉良満家、畠山国詮、石塔義憲等がおり互いに対立抗争をしていた。家兼は志田郡師山(古川市)を拠点に他の三探題を次第に圧倒し一探題制を樹立し、以後、代々左京太夫に任ぜられ、仙北の大崎五郡(大崎、小野、新田、中新田、名生)に勢力を確立する。明応8年(1499)葛西氏の一族、薄衣入道が伊達氏に送った薄衣状(奥州編年史料抄)に奥州探題について「国中の事は探題御下知の上は」と述べたり、大崎氏を「上様」とか「公方」と呼んでいる。また、留守家旧記(余目文書)にも「上様」と呼び、大崎氏を頂点とする身分序列の世界を見事にえがいている。しかし、大崎氏は15世紀以降、家中統制に苦しみ次第に衰退してゆく。天文5年(1536)大崎氏に内訌があり、伊達稙宗は大崎義隆の請を受けて三千余騎をひきい大崎の乱を平定したが、それも一時的で、再び天正14年(1586)大崎家中が伊達派と反伊達派に分かれて争う大乱となり、伊達の大軍が出兵したが、伊達氏の勢力の北上を喜ばない最上義光の調停により和議が成立し、これより大崎氏は伊達氏の勢力下に入る。秀吉は天正18年(1590)小田原の北条氏を征服すると、8月9日会津黒川城に入り奥州仕置を開始し、小田原不参陣のかどで、大崎義隆、葛西晴信の所領を没収し、秀吉側近の木村吉清、清久親子に与え、検地、刀狩を強行した。木村弥一右衛門清久は、明智光秀の旧臣で亀山城を預かっていたが、光秀の乱の後、城明け渡しが神妙であったので秀吉に召し抱えられた新参者で、300騎の部将に過ぎなかったという(伊達治家記録)。木村親子は、大統治に慣れていない上方の新参者で、鎌倉以来の名門を支配するには荷が重すぎた。10月16日、大崎、葛西領の旧臣達の反乱は膽沢郡から始まって、たちまち全域に拡大し、佐沼城に木村親子を包囲した。この乱を、政宗、蒲生氏郷が鎮圧することとなったが、政宗は氏郷を出しぬき翌年7月3日討伐を完了した。しかし、政宗は一揆を教唆扇動したと秀吉に報告され、伊達、信夫、田村、安達、刈田、長井の本領を没収され、かわりに大崎、葛西の旧領12郡を新給され、米沢から岩手沢(岩出山)に移り、県南7郡と宇多郡をあわせ20郡の新領土58万石の経営に着手する。■宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会『宮城県史料集』宝文堂出版、1981年 から
2010.09.22
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留守氏の初代伊沢家景の出自、伊沢氏の名称や由来ははっきりしないものがあるが、藤原道兼の末流で、文筆を持って九條大納言光頼につかえる侍であったらしい(水沢市史)。奥州攻めにも参加し、文治5年(1189)大河兼任の乱後、陸奥留守職に任ぜられ、多賀の国府に来任した。以後、吾妻鏡には留守家景と記され、代々、留守氏を称するようになる。 伊沢なる地は陸奥伊(ママ)沢郡をはじめ、岩代、下野、信濃等に散見するが、いずれも伊沢氏の本貫地とは認められない。伊沢氏は本貫地をもたない「京都の輩」で陸奥国に来住してはじめて本領を得、伊沢氏なる号はさした重要な意味を持っていなかったのではないかと考えられる(水沢市史)。留守氏は、はじめ居城を国府に近い利府町加瀬に構え、後、岩切城(高森館、鴻の館)の東麓付近に移したらしい。岩切城は南北朝時代に築かれたと考えられる。留守氏の惣領家に伝わった世継文書が現存しないのは残念であるが、留守氏の庶流余目氏に伝わった留守文書が中世の留守氏の姿の一端を示してくれる。留守文書によれば、留守職の機能は13世紀中半までで、以後、次第に封建領主化を指向しはじめる。鎌倉時代における領地は、「高持名(たかもちみょう)」と呼ばれ、七北田川流域から利府町にわたる範囲内で、岩切、余部(目)、南宮、村岡(利府)、椿等の村々を含んでいる。このほか、留守氏は塩竈神社の神官を支配し、社領も留守一族の支配するところとなった。留守氏は南北朝時代には、南朝方の北畠顕家に従って叛徒討伐に西上したが、ほどなく足利方に転じた。足利方が二派に分かれて戦った観応の擾乱において、留守氏は尊氏方の奥州探題畠山高国、国氏に味方し、岩切城、留守城(多賀城市新田)にこもり、直義方のもう一人の探題、吉良貞家に対抗したが敗北した。大打撃を受け所領も削減され苦境におちいった留守氏は、永和3年(1377)伊達政宗と一揆契約し、伊達氏のさん下に入りその地位と安全を確保した。更に、寛正年間(1460年代)、伊達持宗の三男(ママ。通説では五男か。)郡宗の入嗣により、留守本流は滅亡するが、留守氏は伊達氏を背景に勢力を強め、周辺の在地土豪層を勢力下にいれ、一円領主化をおしすすめる。留守氏の内部にくすぶる反伊達勢力も政景(伊達晴宗三男)の入嗣により(永禄年間、1560年代)一掃され、伊達氏の統括のもとに入る。■宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会『宮城県史料集』宝文堂出版、1981年 から■参考 奥州市サイトから 余目旧記 中世留守氏 伊沢家景 留守政景
2010.09.21
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松島湾のビューポイントとして著名な四大観の一つ、「幽観」扇谷山に今朝登ってきた。まずは、現地にある町の解説。----------標高60mの扇谷は、江戸時代より松島湾が最も良く眺望できる地として、七ヶ浜町「多聞山」、鳴瀬町「大高森」、松島町「富山」とならび松島四大観の一つ「幽観」として紹介されています。山上からは、脚下の渓谷が海浜で東南に扇を広げた形に開け、松島湾と外洋に浮かぶ島々が見えます。山腹はモミジ、ケヤキなどの混合林で、春は若葉、秋は紅葉が大変美しいところです。この山谷の静寂を愛した瑞巌寺第99世雲古希膺(うんごきよう)が寛永14年(1637年)に坐禅堂を構えて以来、明治期に至るまで寺院があり、幽玄の地として文献に記載されています。(平成13年9月 松島町教育委員会)----------石段を登ると、山上に小さなお堂がある。金翅堂(こんじどう)だ。瑞巌寺が設置した案内がある。----------松島という地名発祥の伝承に、達磨大師が来て聖徳太子の成長を待った、とあり、「待島」が「松島」になったと伝える。幕末に著された『奥州名所図会』に拠れば、元禄8年(1695)瑞巌寺第101世鵬雲東搏禅師が堂を造営し、中央に聖徳太子、左に緋衣の達磨像を、右に鵬雲像を安置したと記す。(以下略)----------静かな場所だ。誰も居ない。私が子を連れて石段を下りてきたとき、乗り付けたタクシーから若い男女が降りた。国道に一旦出てからすぐ左折してパノラマラインを経由し、松島海岸IC方向へ向かう。この県道は、対向車線の松島海岸行きは県外の車でビッシリだった。
2010.09.19
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ちょっと前の話題になるが、登米東和ICから一般道を気仙沼まで向かう標識の誘導が、遠回りになってしまっていて適切でないとのニュースがあった。国土交通省では、登米ICから降りるように誘導を改めるという。どういうことか。登米東和IC降り口に設置された国道398号の案内では、気仙沼や南三陸方面が右折を指示した表示。だが、気仙沼に直行する場合は、登米市内から国道346号で気仙沼に向かう方が近い。南三陸町経由は遠回りなのだ。■国土交通省試算 登米ICから気仙沼市役所までの3ルートAルート 登米IC → 県道中田栗駒線 → R346 R45 51.1km 所要時間79.3分Bルート 登米東和IC → R398右折 → 南三陸町 → R45 58.9km 所要時間90.6分Cルート 登米東和IC → R398左折 → 県道登米東和線 R346 R45 50.8km 所要時間76.4分最短はCルート。しかし、米谷地区市街地や道路幅も狭い県道東和登米線を通ることから、沿道住民の苦情も多いらしい。国と県、登米市の三者で協議し、Cルートの誘導はせず、これに次いで最短のAルートに誘導する結論に至った。具体策として、登米IC出口に「気仙沼方面」と表示する案内補助標識を掲げることにした。一方で、現在誘導しているBルートも海岸沿いの観光ルートとして残したいことから、登米東和IC出口の案内は残すそうだ。ところで、改善のきっかけは新聞「石巻かほく」の記事だったという。批判のための批判、大衆迎合の論調、警察や検察の提灯記事、意味不明な一部見解のクローズアップなど、新聞の意義を忘れた報道や解説も多い中で、地域におけるよっぽど大事な新聞の役割だと思う。
2010.07.29
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夏の高校野球宮城県大会では、気仙沼向洋高校が初の決勝進出。6-5で東北高校に堂々打ち勝っての快進撃だ。強かった。選手達には、勝てる自信があるのだろう。序盤に逆転した後に、主戦が打たれて再逆転を喫する。しかし、7回同点に追いつくと8回には見事な2ラン。決戦は今日だ。屈指の左腕木村の仙台育英に挑む向洋ナインに、気負いはなかろう。無心の挑戦者の心意気で、是非王者をめざして欲しい。大変楽しみな大一番だ。94年に校名を変更したが、気仙沼水産高校で馴染んでいる方も多いだろう。仙台以外の夏の甲子園は、やはり気仙沼の東陵高校(1988年)にまで遡る。その前が、1962年の気仙沼高校。さらに遡ると、53年の白石高、48年石巻高。何と、実は気仙沼は、仙台以外で最も頑張っている地域だ。視点を変えて、公立高校でみると、近い順に02年仙台西高、98年仙台高校、83年69年67年仙台商、62年気仙沼などとなる。さあ快挙なるか。地元も盛り上がっているのではないだろうか。
2010.07.26
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栗原市(郡)の名は古代の伊治城に由来するものと、20年くらい前に何かで読んで、単純に地名にかんする結論だけ記憶していた。しかし、これは近時の古代史研究の進展を踏まえたものである。『続日本紀』では、神護景雲元年(767年)11月に、「陸奥国に栗原郡を置く。本是伊治城なり」とある。伊治の豪族の呰麻呂は伊治郡の大領であり、栗原郡大領ではない。この点は、栗原も伊治も同じ郡だが、後に栗原と遡称したと考えられる。もっとも、宝亀11年(780年)紀3月22日条では「陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公アザ麻呂」とあり、この上治郡と、伊治郡、栗原郡の関係が難しい。いろいろに考えられるのだが、伊治の領域の中心に伊治城(現在の栗原市築館の城生野)ができ、それを核に伊治郡ができ、伊治を上治と下治に分けて上治の方が中心だったので上治郡とも呼ばれていた。そして、後に、おそらくは呰麻呂が滅亡した後に栗原郡と呼ばれるようになった、と考えるのが一番穏当である。以上は、新野直吉『古代東北史の人々』(吉川弘文館、2009年)の第4章(紀広純と伊治呰麻呂)から整理したものである。ところで、同書は、1978(昭和53)年に初版を刊行したものの復刊である。巻末には、2009年7月と時点を明記して、新野氏の解説が収められている。30年の時の隔たりで追補すべき点などが記されたものだ。これによると、「伊治」研究の進展により多くの補記が必要になったという。以下に要約する。----------神護景雲元年紀に「陸奥国に栗原郡を置く。本是伊治城なり」とあり、宝亀11年紀に「陸奥国上治郡(中略)伊治公呰麻呂」とあることについて、本書(復刊前)では、栗原と伊治は同じ郡で、伊治の中では上治と呼ばれる方が中心だったため上治郡とも呼ばれた、と考えていた。しかし、1970年(昭和45年)の発掘調査で発見された「此治城」と記された漆紙文書の解読によって進展する。宮城県多賀城跡調査研究所は、1978年(昭和53)年に、「此治郡」が郡名であり、上治郡と伝写されてきたのは、「此」の略体「止」が「上」と誤られた事情によるとした。「伊」=「此」、つまり、「伊」はイではなくコレであると判定した。これなら、コレハルからクリハラに転化したことになり、イヂからクリハラよりはるかに自然であり、新野氏も昭和54年以降は、上記(復刊前の原版)の考えを改めて、「此治(コレハル)から栗原(クリハラ)に転じた」とする立場に立っている。なお、当時から若い研究者の間では、「墾」と解する立場からであろうが「コレハリ」と読む向きが多いが、「栗治郡」にならずに栗原郡となった文字については、西海道の西都原や田原坂などと併せて考えるのが自然と考えている。上治郡は此治郡の誤記ではなく、城完成後に移民2500余人よって建てられた、伊治郡とは別の郡だとする学説もあるが、その後に上治郡なる名は史料上見えないので、一学説にとどまるだろう。----------古代史研究とは、現代における研究の進展の歴史でもあることが、面白い。
2010.07.25
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梅雨明けの昨日、私は猛暑のKスタで子どもと一緒にガオッていたが、高校球児達の熱戦譜は続いていた。前日(17日)に4回表まで8点リードしていながら雷雨ノーゲームの塩釜高校。18日は9-1で古川に苦杯を喫した。古川の1年生投手起用が当たった、と新聞には書いていたが、それにしても塩釜ナインは士気の維持が難しかったのではないか。試合の入り方、そしてリードを許してからの焦り。17日は、愛島球場のゲーム。落雷のおそれがあって一旦中断。約1時間後に雷雨ノーゲームとされたのだそうだ。塩釜の選手達には、本当に気の毒だ。そもそも猛暑の夏に何時間もグランドに立たせて「熱戦」を強いる「高校野球」とは、本当に球児のためなのか、と思うこともないではない。ともかく、相手校とともに、夏の暑さや雷も相手に戦っている。これも野球なのだ。
2010.07.19
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山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山。これが、外国人のあげる日本の三大避暑地とされる。東北のドライブコースを案内する本に書いていた。最初はビックリしたが、外国人避暑地という視点の三大名数のようで、これなら歴史ある七ヶ浜が堂々とカウントされて良い。軽井沢や野尻湖は、日本人の観光スポットとしても今なお有名だ。これに比べれば、高山は知名度は低いだろう。実際、私も学生時代に別荘地に連れて行ってもらうまでは、知らなかった。県道の右脇、つまり学院大のセミナーハウスとは逆の海側にゲートがあり、これを開けて別荘地に入っていったように思う。別荘から歩いて林間を抜け出ると松島湾が一望できた。表浜にも降りて歩いたような気がする。明治期に外国人宣教師によって、松島を望む花淵浜高山地区に避暑地が形成された。高山に隣接する表浜(外人浜)が避暑外国人のビーチという位置づけだったのだろう。ちょうど菖蒲田浜が東北初の海水浴場として開設された頃で、海と国際交流に関しては、七ヶ浜は長い歴史をもっている。東北防衛局広報誌(08年7月)に紹介がある(岩手宮城内陸地震の記事などもありつい読み耽ってしまう)。係長さんが管理人の方に取材されたようで、良い記事が載っていた。明治21年、第二高等学校ハーレル博士が狩猟の際に当地を発見、次いで東北学院第2代院長シュネーダー博士が在仙外国人を勧誘し翌年7棟の別荘を建てたのが始まり。明治40年に村との間で、999年間の地上権設定がなされ、現在は46棟の別荘が建つ。祖父の代から3代にわたり管理をされている方は、最初は学校の教師や宣教師、戦前は在日大使館員、近年は一般の欧米人特に北欧人が多い、と語る。通信や交通が不便な昔は、各地の外国人が年に一度交流を深める重要な場所だったようだ。(記事を要約させていただきました。)■参考 はなぶし(花淵浜コミュニティ・ホームページ) (地名は鼻節神社と同源だったのかと、納得。大変面白いサイトです)
2010.07.18
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宮城県の県南部一帯を仙南と呼ぶことが多い。例えば県の保健所は仙南保健所(大河原町)だし、消防などを扱う広域行政体も仙南地区広域行政事務組合だ。他にも、仙南信用金庫(白石市)、JAみやぎ仙南(柴田町)、仙南病院(角田市)など。各種団体や大会のブロックの呼称としても、仙南の語は定着していると言えるだろう。これに対して、県北部をさす仙北は、使われてはいるものの、仙南ほどピッタリはしていないように思われる。仙南の場合は、広域行政に用いられるだけあって、指し示すエリアもおおよそ共通認識として理解されている。大河原、柴田(船岡、槻木)、白石、角田、などの伝統ある町が割拠していて都市名で一帯を呼ぶことが遠慮されていることも、仙南の名が使われやすい環境なのかも知れない。仙北の場合、そもそもどこからどこまでを想定しているのか、県民に共通認識はないのではなかろうか。私は、栗原市や登米市を思い浮かべる。石巻や気仙沼ははずれるような気がするし、黒川や大崎は、含まれるような含まれないような、微妙な雰囲気だ。もともと旧仙台領を城下からみて南北に区分したのならば、黒川や大崎も含めて現在の県土の中部、北部、北東沿岸部をもカバーして良いことになるだろう。しかし、それでは広すぎて、現実に呼称として用いる実益もない。その上、大崎、石巻、気仙沼(本吉)などは広域行政単位としても定着している呼び方なので、消去法的に、栗原や登米あたりが、特に仙北と呼ばれるエリアだろうな、というのが私の感覚だ。固有名詞として用いられている例としては、仙北信用組合(栗原市)、仙北郷土タイムス(登米市)、仙北鉄道(現在の登米市と栗原市)がまず思い浮かぶ。或いは、逆にこうした用例から私の地域イメージが形成されているのかも知れない。企業の支社や営業所なら、県北部エリア全体をカバーする拠点を仙北営業所などと呼ぶことが多いように思う。仙南、仙台、仙北の3つのフィールドに分割し、あるいは石巻などを加えることもあるかも知れないが、こうすると仙南オフィスは名取や岩沼あたり、仙北オフィスは大崎市あたりが好適なのだうか。行政のエリア区分は関係なく、交通事情や物流特性などによるのだろう。ところで、だ。仙北。読みは、「せんぽく」か「せんぼく」か。盛岡の仙北町(駅や小中学校がある)は、「せんぼ(bo)く」だ。秋田の仙北市も、「せんぼ(bo)く」だ。宮城の仙北はどうか。ホームページURL表記などから確認していくと、■仙北信用組合(栗原市) せんぽ(po)く■仙北郷土タイムス(登米市) せんぽ(po)く■有限会社サポート仙北(大郷町) せんぽ(po)く■株式会社仙北建設(大崎市) せんぽ(po)く■仙北自動車学校(大崎市) せんぽ(po)く(参考までに秋田県仙北市の仙北自動車学校は、せんぼ(bo)く)■仙北薬品株式会社(仙台市泉区) せんぽ(po)く以上の通りで、宮城はすべて「せんぽ(po)く」のようだ。宮城県人たちはどう発音しているだろうか。「あんだ、せんぽくの出身だすぺ」てな感じか。やっぱり po が主流か。私自身は、使うならば「せんほ(ho)く」と発音するんじゃないかと思うが、いややはり po か。わからない。意識などしていない。
2010.07.16
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投票率の低さのことだ。今回は53.34%で、前回07年参院選55.79%を下回り、過去3番目の低さ(最低は95年41.06%)。期日前投票は200,664人で、前回参院選比17.6%とかなり増加したのだが、ずいぶんと低いヶ投票率となった。候補8人が争う混戦で、全国の2人区の中でも注目されたが、TVではいち早く当確が打たれるなど、結果はわかりやすいものとなった。その関係もあるのか、投票率は堂々全国第2位(最下位は沖縄)。有権者の4割超を占める仙台市で52.94%。最高は七ケ宿町72.47%、最低は石巻市46.87%である。東北各県は、---------- 青森 54.55%(前回53.88) 岩手 60.36(63.40) 宮城 53.34(55.79) 秋田 65.05(67.70) 山形 63.97(67.29) 福島 61.63(61.57)----------であり、青森、福島で増えた以外は、接戦と言われた山形を含めて投票率が下がった。それにしても、どうして宮城はこうも関心が薄いのだろう。40%台は石巻市だけで、下に突出している。ちなみに前回の衆院選(昨年8月)では、県全体67.35に対して、石巻市は67.19で、低いには低いが、さほど顕著に低いわけではない(仙台市64.89、登米市66.66など)。前回の参院選(平成19年)は県全体55.79で、実は石巻市が51.96(仙台市54.91)と市町村別では、ダントツのワーストだった(ワースト2は南三陸町52.18。なお仙台市宮城野区は51.91)。投票率を規定する基調的要因としては、年齢構成や就業状況があるだろうが、そのときどきの選挙の投票行動を大きく左右するのは、争点の盛り上がりや候補者の対立状況による動員力になるのだろう。とすれば、石巻市は格段に投票所に向かわせる盛り上がりが少なかったことになる。それにしても、いつも当ジャーナルが指摘してきた宮城の低投票率。有力者を含めて選挙区8人乱立で、今回こそ汚名挽回かと思っていたが、極めて残念だ。
2010.07.13
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本日投開票の参院選挙の分析をしなければならないのですが、午前中にササッと訪れたのは、念願のバッティングセンター。超久しぶりにバットを振ってきました。予想通りあまり当たりません。好打は数本だけ。同行した子は、低速のゲージが右打席だけなので断念。左利きなもので。さて、何の意味もありませんが、これで我がイーグルスは打棒爆発で、苦手の帆足を粉砕間違いなしでしょう。まもなくプレイボールです。ところで、政治情勢の分析は当たるかどうか。こちらは午後にしっかり取り組みます。
2010.07.11
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少し前のことですが、南三陸志津川の海の幸と仙台の飲食店がコラボした企画「うまいもんまつり」に乗せられて、稲荷小路で飲食いたしました。昼の部と夜の部があったようですが、夜の部です。ホヤ、タコ、おみやげにワカメまで頂きました。画像は志津川タコの缶バッチ。子こどもが喜びました。■関連する過去の記事 南三陸キラキラ丼シリーズ(10年3月30日) 南三陸時間旅行(08年9月17日
2010.07.10
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梅雨の晴れ間。仙台の街には、選挙カーのスピーカーから候補者名の連呼が飛び交った。来月11日の投開票に向けて、本日が公示だ。宮城選挙区は、予定通りの8名が届け出。私も、4人ほどの候補の声を耳にした。いよいよ始まった。議席2を争い現職と新人が争う。民主独占か、自民分裂選挙の帰趨は、社民党は県連トップが出馬、第三極も立候補、と多彩な顔ぶれで、全国の選挙区の中でも注目度が高いだろう。誰が当選するかももちろん一大関心事だが、自民党の県議会議員の一部が、党県連公認の熊谷候補ではなく、現職の市川候補を公然と支援する動きを示している。仙台市議会の方は県連に従うのが大勢で表向き波は立っていないようだが、選挙後の自民体制の内の軋みが心配される。昨年の総選挙以来、商工、建設、農業や水産など業界の支持の構図も変容しており、県民等に軸足を移しつつある村井知事のスタンスも含めて、宮城県政の天気図がどうなるかも興味のあるところだ。ところで、明日は30度まで気温が上がるという。今年は猛暑とも言われる。明日の朝は、サッカー日本代表の熱戦を応援した後、通勤途上で8時になれば各候補の声を耳にすることに、なりそうだ。当ジャーナル政治部の総力を挙げた参院選宮城の情勢分析は、週末に第1報をお届けする予定です。
2010.06.24
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昨日の続きですが(亦楽小学校、天真小学校、明星中学校のこと(10年6月20日))、それぞれの市町史を見てみました。----------1 亦楽小学校について(七ヶ浜町史より) 明治18年4月、代ヶ崎浜字影田に校舎新築し、花淵、吉田、代ヶ崎、東宮にあった松ヶ浜小学校の枝校を統合して、代ヶ崎中等小学校と称す。明治23年5月、七ヶ浜尋常小学校と改め、松ヶ浜小学校を分校とする。明治25年7月、代ヶ崎尋常小学校とし、松ヶ浜小学校を分離。大正1年10月、現在地(代ヶ崎字細田54)に新築。大正3年3月、高等科2年を併置し、亦楽尋常小学校と改める。2 天真小学校について(多賀城市史より) 多賀城、山王の2小学校体制だったが、昭和35年、大代・笠神地区に分校を設ける(36年多賀城東小学校として独立)。昭和45年天真小学校が独立(多賀城小学校から)。昭和50年城南小学校を設立(多賀城小学校、山王小学校の学区を分離)。昭和58年、多賀城八幡小学校を設立。 なお、中学校では、昭和51年に2番目の中学校として第二中学校を山王地区に設立。昭和62年、笠神地区に東豊中学校。3 明星中学校について(大郷町史より) 昭和22年4月、戦後の学制改革で、大谷村立大谷中学校、粕川村立粕川中学校、大松沢村立大松沢中学校がそれぞれ誕生。昭和25年9月1日、大谷村粕川村学校組合立明星中学校として開校。昭和29年6月30日、合併による大郷村の開庁式が明星中学校を会場に開催される。同年12月17日午前4時、明星中学校校舎が焼失。 なお、大郷町史の巻末の年表には、昭和25年9月1日「この日募集により明星中学校と命名」と記されている。----------市史、町史を全ページめくった訳ではありませんが、上記の通りで命名のいわれまでは記されていないようでした。ただ、明星中学校については、公募の命名であることがわかりました。戦後間もない時期に、校名を募集したのは斬新な発想だったのではないでしょうか。組合立でおそらくは立派な校舎を設け、決して豊かではなかった村の人たちが、教育に力を注いだのだと思います。大きな期待を担った校舎が焼失した際には、さぞかし残念だったでしょう。ところで、明星中学校(読みはミョウジョウ)は平成20年3月に歴史を閉じました(大松沢中学校と統合して、大郷中学校と称す)。閉校記念碑の写真があります。拡大して読んでみると、「校名の由来」として、こう刻まれています。「平和の郷に明るい学校」、「郡内で一番東にある学校として東の空に一際大きく輝く明けの明星のように群を抜いて光り輝くように」という願いを込めた先人の願いが胸に迫ってくるようです。明星中の歴史は終わりましたが、貧しさの中で未来に懸けた60年前の願い、そして巣立った人たちが豊かな郷を開きました。世代を超えた人づくりの思いは、今後も大きく輝いていくのだと思います。
2010.06.21
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七ヶ浜町立の小学校で、仙台に住み始めた頃から校名は知っていた。たぶん、菖蒲田海岸に自転車で出かけたことがあって、その時地図を広げて目に入ったのではないかと思う。地名なのか論語から取ったのか不思議な名前だが、読みはマタラクだと勝手に決めつけていた。しかし、音読みで統一するのが確かに当然で、エキラクと知ったのは10年ほど前のことだ。役場のそばにあり、学区(町サイト)としては、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜の各全域と、花淵浜の大部分、それに汐見台も一部が含まれている。恐らくは、この高台にある小学校が4つの浜(村)を学区とすることからして、いずれかの浜の名前を冠するよりも、地名に関わらない校名を決めたのではないだろうか。七ヶ浜小学校の名でも良かったようにも思われるが、七ヶ浜村の役場は菖蒲田浜にあり、現在地に移ったのは町制施行の昭和34年だ。もちろん命名者の教育にこめた思いもあったとは思うが、いずれにしてもユニークな命名だと思う。鶴岡市内には朝暘第一小学校はじめ、明治初年に三島県令が設立した朝暘学校の名が息づいている。当時東北随一の大規模な校舎の3階から朝日岳が臨めたため、朝日が昇るように勉学が向上することを期して三島が命名したという。私も、致道館内で模型を見たが、藩校教育時代から人づくりに力を注ぐ庄内の人たちの意気を感じたものだ。(鶴岡を訪れて考える(05年11月5日))さて、宮城県内には、このように地域に由来しない校名を持つ学校が亦楽小学校以外にあるのだろうか。もちろん、私立学校では創始者の名を冠する者があるし、最近では公立高校でも、なにやら抽象的なイメージ語句を付けたがるのだが、こうした事例は除く。思いつくのは多賀城市で、新設小中学校には敢えて地名を採用しない方針なのだ、とかなり以前だが聞かされたことがある。そういえば、東豊中学校は合成名のようだし、小学校では、天真小学校が何か命名のいわれがありそうだ。それと、大郷町の明星中学校。何か私立学校のような、最初は不思議な名前だと思っていた。最近、大松沢中学校の廃止により、新たに大郷中学校と改称したが、なぜこのような命名だったのか、私はわからない。読みも、メイセイなのかミョウジョウなのか、わからない。天真と明星。そのうち調べます。
2010.06.20
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旧国名が最も定着していないのが、わが宮城県でないかと思うことがある。一般的に言えば、市町村名や鉄道駅名に際して、他域の同名との混同を避ける趣旨で用いられることが多いと思う。陸前原ノ町駅、陸前落合駅。陸前高田市(岩手県だけど)。もっとも、これは他との混乱を避けるいわば一般ルールに従ったものであり、積極的に旧国名を使おうというほど地域に定着しているものではないだろう。例えば、肥後銀行、但馬銀行、下野新聞、信濃毎日新聞などはあるが、東北では、旧国名を冠するものは少ない。地域名を用いるとすれば、例えば津軽、会津、庄内などが多用される。宮城県について言えば、陸奥国は広汎すぎるし、これを分割した陸中国も歴史が浅すぎて定着していない。さらに、仙台(藩)一色で主だった地域間の拮抗もないから、わざわざ特に旧国名を持ち出す積極的な理由がない、ということだろう。かつて若い頃訪れた角田でバス停の名前に旧国名の磐城が冠されていて、歴史の一コマを見たようで一種の感銘を受けたことがあるが、宮城県ではせいぜい一般ルール程度のはなしで、人々の意識に根ざして、誇らしげに地域をあらわす名としては、とても定着したものではないと思う。昭和初期までは、例えば手紙を書くときに陸前国と表していたとも聞くが、これも一般作法に従ったまでだろうと思う。ましてや、平成の合併で新自治体名に陸前の名が浮かび上がったなどの話は聞いたことがない。陸前の名を探してみると、駅名の他には、私が知っているのは、陸前浜街道という国道6号の通称と、企業名で陸前保安警備保障(栗原市)だけだ。それと、かまぼこ屋さんのコマーシャルで、ナレーションの中に「陸前女川」が登場するものがある。後は思い浮かばない。岩手県の「陸中」の場合は、観光地の陸中海岸もあり、企業や団体名など、ある程度定着しているようにも感じるが、仙台・宮城の人は自ら「陸奥」と称したくないのだろうか、やっぱり。
2010.06.19
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通常国会が閉幕し、国政は来月11日投票の参院選一色に染められる。河北新報では選挙区に246人が立候補予定と報じた。朝日新聞も同数だ。東北では、やはり2人区宮城に8人が乱立しているのが大きく注目される。もう一つの2人区福島も、民主が独占を目指して2人を立てており注目度は高い。全国の2人区を見渡すと、民主の独占狙いがやはり目立つ。人数だけで見ると、茨城、新潟、長野、兵庫、福岡が7人。北海道、静岡が6人。岐阜、京都、広島が5人。宮城の場合は、数の多さもさることながら、独占狙いの民主2人に対して、自民系が2人、これに加えて第三極で県議も出馬という構図の複雑さ。民主1で自民(系)1が想定されるひとつの結果だが、自民系が票を分け合えば、さらに第三極に流れれば、結果的に民主独占、あるいはひょっとすれば第三極もあるかも知れない。加えて元代議士を立てる社民党も一定の強い支持層があるから、その動向が結果を左右させるかも知れない。今回は、この混戦の選挙区について、当ジャーナルの総力を挙げて分析と予測を試みたいと思います。6月中に基礎的な分析と予想。そして、投票日1週間程度前に、各紙の予測も踏まえて再検討を行いたいと思います。(編集長謹白)
2010.06.17
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昨日の日記(なぜ朝日マイタウンの宮城は「みちのく宮城」なのか)の続きだが、朝日の宮城県内版紙面を見ると、表題の下に、「仙台総局」と並べて「(東北取材センター)」とある。このことと、「My Town みちのく宮城」が関係するのだろう。朝日さん、よろしければ解説をいただけると幸甚です。
2010.06.16
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気になっていた。朝日新聞の地域情報サイト マイタウン で各都道府県のメニューに入っていくと、画面上部に、例えば「My Town 北海道」とか「My Town 青森」などとロゴが出る。そして、この部分に注目すると、他の都道府県と違い、宮城だけが、「My Town みちのく宮城」とされているのだ。現在位置の表示は、:asahi.com> マイタウン> 宮城 で他と同様だし、ニュース一覧のヘッド部分も、「マイタウン宮城」なのだが、どういう訳か、画面上部のロゴのところだけが、「みちのく...」なのだ。他の県ではそのようなことはない。やや異例のケースとしては、福岡県が「マイタウン福岡・北九州」とされているが、全国都道府県マップでも「福岡・北九州」と表示されているし、画面上部のロゴも同様で、「福岡・北九州」で一貫している点では、やはり他県と同様だ。また、都道府県の区画以外に「多摩」もある。(福岡・北九州については、朝日の九州の拠点である西部本社が北九州市にあることと関連するのだろう。)いずれにしても、宮城だけは、「マイタウン宮城」のはずなのに画面上部ロゴが「My Town みちのく宮城」と、ズレている唯一の例なのだ。何故なのだろう。そもそも、なぜに「みちのく」を冠しているのだろう。朝日の宮城県内版では、「みちのくワイド」など東北全般を視野に入れた記事が結構多い。これが他の5県の紙面でも登場しているのかどうかわからないが、おそらくこのことと関係があるのだろう。インターねとでは、東北ワイドの記事は、まとめて「宮城」に入れておくから、単なる「宮城県エリアの記事」だけではないという意味で、「みちのく」を冠しておく、のだろうか。しかし、例えば「中部愛知」とか「中国広島」などのロゴがない。仙台総局と違い、広島はブロックワイドの記事を提供していないから、か。
2010.06.15
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菅内閣の船出でV字回復を狙う民主党だが、来月の参院選挙では2人区の動向が注目される。特に宮城は民主が独占を狙い、自民も実質的に2人が立候補する形。ここに、民主系会派を割って出た知名度の高い県議が第3極から立候補。さらに、社民も知名度の高い元国会議員を立てる。大変な構図になってきた。小沢前幹事長の方針を転換するとして、全国的に2人区2候補の方針を見直す動きもあるが、党本部の選対委員長も務める安住代議士は、危機的な党の状況は脱したとして2人を押し立てる方針で、菅総理や枝野幹事長の仙台入りにも言及している。当ジャーナルでも、注目して取り上げて参ります。
2010.06.12
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午前中に娘と塩竈市の伊保石公園を訪れた。いつか行こうと思っていたが、空いた時間を見つけて、午前中の1時間だけ散策してきた。利府町から、しおりトンネルを抜けてすぐ。千賀の台団地のトップにある市民の森記念館の駐車場に停める。千賀の台に上がらずに、もっと先の吉津のトンネル方面まで進んで、環境センター付近にある駐車場に停めれば、子供の森に直接入れるようなのだが、時間のある次の機会に譲る。記念館から奥に入ってすぐに遊具がある。もう7年くらい前だろうか来たことはあるのだが、娘は覚えていないという。無理もない。あの時は遊具(わんぱく広場)だけだったが、今日は自然に浸ることも目的。広場から、はぎの道。さらに、せせらぎの道を下って、鳥たちの声を聴きながら、沢沿いに歩く。途中に水車小屋。小川の流れは冷たかった、とわが子。伊保石ダムの手前地点から記念館側に戻る(ふれあいの道)。まつしまの道の見晴台まで進んで、戻る。目的のひとつだった松島湾の眺めも楽しんで、昼前には帰宅した。面積30haで、市民の森、自然探索区、子供の森、と3つの区に分かれる。散策コースも多様で、また訪れたい。
2010.06.06
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道路の発達した今日、我々は縦横無尽どこも自由に通行できると錯覚している。大河を渡り、峡谷を跨いでいることさえも気づかぬほどだ。しかし、道路網の整備される前は、当然ながら人馬は山や谷に阻まれ、川や湿地に足を止められた。今朝の河北新報には、登米市内の北上川の渡し舟が今月4日に運行を打ち切ったニュースがあった。豊里町鴇波と津山町柳津本町間をつなぐ渡船で、主に豊里の住民が津山に買物等に出掛ける際に利用した。もとは民営、1931年国営、その後に2町が作った組織が引き継ぎ、05年合併で登米市営に移る。利用者は98年度1557人あったが、09年度は262人まで落ち込み、3日に2日は利用者がない状態。毎日新聞によると、渡し舟の終了式が4日豊里町側の船着場で行われ、昭和の風景を彩った渡し舟は80年目に姿を消した。19年間渡しを担った5代目船頭さんが今春体調を崩して引退し休業状態になり、後継船頭も見つからないことから住民の承認を受け廃止に踏み切った、という。主に豊里町側の住民が津山町への買い物や塾通いなどに利用、99年度は延べ1563人が乗ったが、09年度は262人に激減。鴇波在住の88歳の方は、75年前柳津の小学校高等科に渡しで通学した、また弟2人が半世紀の間、3代目と4代目の船頭を務め、自分も忙しい時は手伝いをした、と振り返った。さて、登米の渡しは消えてしまうのだが、ほかに渡船がどこにあったのだろうか。私自身は、槻木大橋ができる前の小山の渡船は話に聞いていたが、他には不勉強にして知らない。宮城県の渡船を調べてみる。----------■小山(こやま)の渡し(阿武隈川) 槻木の対岸の亘理町小山地区の名に由来するようだ。陸路は下流の阿武隈橋と上流の東根橋のいずれも大きく迂回することになるため、槻木と対岸の小山(亘理町)及び鳩原(角田市)を結ぶ渡船が古くから利用されてきた。昭和36年には県営渡船となるが、橋梁建設の要望を受けて平成7年7月7日に777mの槻木大橋が開通したことに伴い廃止された。 県道の一部と位置づけられており、県営唯一の渡船であった。なお、道路法の第2条には、「道路」の定義として、一般交通の用に供する道で、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等道路と一体となつてその効用を全うする施設又は工作物及び道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものを含む、と規定している。■樫崎・山田の渡し(北上川) 石巻市の市道樫崎山田線の渡船区間。樫崎地区と対岸の山田地区を結ぶ。合併前の桃生町では、山田地区は北上川を挟んで飛び地のような形で、河道が変えられた歴史を反映している。1931年に開始。石巻市が山田船場維持組合に運営委託。山田地区は約50人が住み、中学生が対岸の桃生中学校に通学で利用するなど渡船の存在意義は残るものの、市は廃止を検討しているようだ。■登米市の渡し(北上川) 登米市柳津町と豊里町を結ぶ。住民の足として日曜日を除いて運航され、一般人も利用できた。今回廃止の報道。 ところで、肝心の渡しの名称が不明だ。河北も毎日も、記事では固有名詞を記さずに北上川の渡しなどと表現している。地元でもあえてネーミングなしで通用していたのだろうか。或いは片岸側だけの地名を迂闊に出すわけに行かないという深慮か。ネットで検索してみると、ブログなどでは、鴇波渡し、とも、白鳥渡、とも表記されていた。----------なお、宮城県内の北上川には、今回廃止の登米市を含めて2つの渡しが残っていたが、かつて北上川・旧北上川には多くの渡船場があった。ishinomaki-wiki によると、梨の木渡、釜谷渡、元舟場渡、新舟場渡、門脇渡などがあった。明治15年、内海橋が中瀬を挟む両岸に架けられたが、県内の北上川最初の橋である。稲井出身の内海五郎兵衛翁が個人で架橋し、時の松平正直宮城県令が翁を讃えて命名したもので、建設費を賄うための有料橋であった。明治28年に錦桜(きんおう)橋(初代)が、同38年に楓橋(米谷大橋の前身)、大正6年に来神橋(登米大橋の前身)などが、架けられる。更に、昭和8年内海橋(3代目)、昭和34年天王橋、昭和40年代には、神取橋、石巻大橋、柳津大橋(2代目)、開北橋、豊里大橋、飯野川橋などが完成。昭和51年の新北上大橋開通に際しては、釜谷渡が廃止。市内の門脇と湊を結んだ最後の渡船も、昭和63年11月に歴史を閉じた。■関連する過去の記事 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日)毎日の記事によると、県内での北上川の渡し舟は石巻市桃生の市営「樫崎・山田の渡し」だけになるという。
2010.06.05
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福島や秋田でクマ出没のニュースが相次いでいる。山菜採りの男性が死亡した喜多方市や周辺では、小学生の集団下校など、警戒を続けているそうだ。ところで、先日のTVで、日本画家の能島和明さんが2年前の被災地栗駒にあるアトリエを再訪したことを報じていた。荒砥沢の大崩落の現場から、ほんの数メートルでとどまったようなブナ林の中にあった。目の前がすっかり開けてしまったような感じだ。地域の人と語り合う能島さん。そして、アトリエのそばに、クマが現れた爪跡があった。クマも戻ってくれた、と安心したような印象だった。自然の中の東北。クマの出没もクマが悪いわけではない。
2010.06.02
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新聞のスポーツ記録の記事を見て気がついたが、高校総体陸上競技の登米栗原地区の予選は、一関市の陸上競技場で開催された。もちろん、県境はベルリンの壁ではないし、それで良いとは思うが、毎年そうなっているかどうか、気になった。そして、調べてみたら、高体連陸上競技部のサイトによると今年度の高校総体陸上競技の各地区予選の会場は次の通りだった。石巻地区 女川町民陸上競技場大崎地区 加美町陶芸の里スポーツ公園登米栗原地区 一関運動公園陸上競技場本吉地区 一関運動公園陸上競技場仙南地区 仙台市陸上競技場仙塩地区 宮城スタジアム宮城県高校総体陸上競技大会 宮城スタジアム(5月21日から)以上の通りである。地区大会はGW中に開催されているのだが、登米栗原と本吉が、いずれも一関で、しかも日程も同じで、5月3日及び4日である。地区としては別個なのだろうから、選手が一緒になって競技したのではなく、種目別に会場スケジュールは別個に編成されているのだとは思うが、どうなのだろう。いずれにしても、両地区は、地区内に適当な会場がない事情があるのだろう。そして、平成21年度も、20年度も、この2地区は一関を会場に予選を開催している。(21年度は開催日が同一。20年度は別)。
2010.05.15
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「みやぎの島めぐり」という名のパンフレットがある(宮城県離島振興協議会発行)。先日、女川のマリンパルを訪れた際に、フェリー乗り場でもらってきた。宮城県内の9つの有人離島を紹介している。この場合、金華山はカウントしないようだ。私が訪れたことがあるのは、大島、田代島、桂島。この3つだけだ。パンフレットの写真や紹介に惹かれることもあるが、ぜひ他の島にも行ってみたい。実は若い頃、例えば学生の時分には、非日常空間として離島に行ってみたい、と思ったこともある。陸続きの世界を当然と思っている人間が、ちょっと歩けば四囲は海という小宇宙で、何を感じるだろうか、などという発想。あくまでstrangerであり、意識の本籍は本土に住む自分にある。しかし今は違うように思う。自然の中で息づく歴史があって今を迎えている地域に、訪れさせていただく。コバルトの海に浮かぶ悠久の自然美。古人の遺跡と伝統の芸能。近代日本の原風景。そして、多彩な食材。島そのものを、無理ではあるだろうが意識を島に置かせて頂いて、鑑賞したい。橋を架け、トンネルを掘って、日本列島は1つになったとばかり縦横無尽に移動して、地理空間も時間をも支配の下に置いた気になっている現代の人間どもだが、それがどうした。道路がつながった便利さが、何だというのか。島を見よ。島に習え。一時の観光や開発の騒ぎも、定住者の盛衰も、まさに一炊の夢とばかりに、そんなことを気にすることなく、毎日を浪に洗われ、しかし動ぜず。何万年の自然の造形美と、何百年の人の息づかいを、ただそのまま湛えてきた島々。そこに、行きたい。
2010.05.13
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宮城県の博物館2009 という小冊子がある。宮城県博物館等連絡協議会(事務局は東北歴史博物館内)の会員施設を紹介するもので、77の「博物館」が記載されている。今なら、2010版があるのかも知れぬ。理屈を言えば、博物館とは、博物館法に定義があり(2条1項)、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関のことだ(長い!)。同法の博物館であるためには、所在県の教育委員会の登録が必要。また、これに類する事業を行う施設を、都道府県教委が博物館相当施設として指定することもある。文部科学省の社会教育調査によると(平成20年10月現在)、博物館及び博物館相当施設の数は、○ 青森 6○ 岩手 21○ 宮城 14○ 秋田 11○ 山形 16○ 福島 18○ 全国 1,248となっている。また、博物館類似施設の数も集計されていて、○ 青森 80○ 岩手 89○ 宮城 111○ 秋田 82○ 山形 66○ 福島 104である。(博物館、同相当施設、博物館類似施設についての説明)なぜ統計を見たかというと、小冊子の77施設の位置づけを知りたかったのだが、博物館(相当施設を含む)は、数の上では入っているようだが、博物館類似施設の全部は含まれない。希望するところが加入しているのだろう。ところで、その77施設。当然ながら、訪れたことのない施設も数多い。仙台市内で25施設あるが、半分は行ったことがない。仙台万華鏡美術館、福島美術館、とか。移動★みやぎ世界鉄道模型ミュージアム、というのもある。北山三丁目で、通常非公開とある。仙台市外でも、多彩な顔ぶれだ。行ったことがないものでは、アル・スィラージュ(白石市)、まるもりふるさと館、墨雪墨絵美術館(加美町)、Satoru Sato Art Museum(登米市中田町)、松島玉手箱館おくのほそ道資料館、など。なお、読んでいて気づいたが、白鳥省吾記念館は、「しろとりせいご」とかなが振ってある。しらとりしょうご、ではなかった。また、原阿佐緒記念館は、「はらあさを」だ。「お」ではないのだ。■関連する過去の記事 東北の博物館の数をみる(06年7月7日)
2010.05.12
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塩竈市の仙石線の高架複線化事業は昭和56年に完成。道路渋滞の緩和のほか、仙石線の最大の難所とされ(本塩釜駅周辺の海水浸入など)、長年の課題であった。また、仙石線の複線化によるスピードアップは、特に石巻方面の沿線住民の悲願でもあったことも背景にあった。宮城県議会の議事録を見ると、昭和54年に地元県議(佐藤)が、仙石線高架複線化事業と国鉄塩釜線の廃止に関して質問を行っている。曰く、以下の通り(要約)。----------国鉄仙石線は仙台市と塩釜市で鉄道と道路の交差個所が非常に多く、交通渋滞を惹起。交通事故撲滅のため、都市計画による都市高速鉄道事業として、日本国有鉄道仙石線の高架複線化事業を、昭和四十八年から西塩釜駅より東塩釜駅北側まで約2700mの工事に着手。まことに喜ばしいが、塩釜における高架複線化事業が完成いたしましても、国鉄塩釜線と国道45号の平面交差が依然残り、通称稲荷下踏切は全国的に交通渋滞で有名。更に県道塩釜花渕菖蒲田線も含め、市内には線路延長約4km間に、踏切が15か所もあり交通渋滞。仙石線高架複線化事業の都市計画決定の際に問題となった稲荷下踏切については、昭和47年当時の仙台鉄道管理局長、東北地方建設局長、宮城県知事の三者会談で、仙石線高架複線化事業が施行されても踏切問題は解消されないが、将来早い機会に全面撤去する旨の統一見解が確認されたと聞くが、現状と経過はどうなっているか。----------住民の総意を代弁したものと思われる。また、県議会では、本塩釜駅移転に伴う「南口」設置が何度も要望されている。さて、仙石線と塩釜線について、塩釜市内の略歴をまとめると以下の通り。■仙石線 大正14年 宮城電気鉄道が開業(仙台-西塩釜。2年後に松島公園まで) 昭和19年 国有化し仙石線と改称。市内3駅名の「釜」を「竈」に 昭和38年 市内3駅名を「釜」に戻す 昭和44年 西塩釜まで複線化 昭和47年 越の浦踏切でダンプカーと衝突。電車が脱線し海に突入 昭和56年 高架複線化完成。本塩釜駅、東塩釜駅が移転■塩釜線 明治20年 日本鉄道が郡山から塩竈まで開業(塩竈駅は現在の東北本線塩釜駅ではない) 明治39年 国有化 明治42年 岩切-塩竈間を塩竈線と呼称(利府経由の東北本線に対して支線となる) 昭和8年 多賀城前駅(後の陸前山王駅)開業。貨物支線(塩竈-塩竈港1.9km)開業 昭和19年 陸前山王-品井沼間に東北本線貨物迂回線(東北海岸線、海線)が開業 昭和31年 塩竈港駅を塩釜埠頭駅に改称。東北海岸線に塩釜駅開業。塩竈線は塩釜線に改称し、旅客営業廃止。塩竈駅を塩釜港駅に改称 昭和40年 貨物支線(塩釜港-塩釜魚市場間2.1km)開業。鮮魚貨物列車運行 昭和53年 貨物支線(塩釜港-塩釜魚市場間2.1km)廃止 昭和61年 塩釜港駅を塩釜埠頭駅へ統合(廃止) 昭和62年 国鉄分割民営化により日本貨物鉄道が承継(6.8km) 平成2年 塩釜港埠頭駅が(旧)塩釜港駅に移転 (1.9kmの距離) 平成6年 陸前山王-塩釜埠頭間休止 平成9年 陸前山王-塩釜埠頭間廃止(塩釜線全廃)手元に昭和56年発行の仙台の地図があり、裏面に広域図がある。塩釜の部分をクローズアップすると、仙石線は高架化前のルートで、塩釜港線も健在だ。よく見ると、確かにこの地図の仙石線本塩釜駅は現在の位置ではないし(現在の壱番館か)、その北は、トンネルとなっており、現在の仙石線ルートではない。現在のルートは、かつての塩釜線(魚市場線)の跡を利用したように見える。 ■関連する過去の記事 仙石線多賀城地区連続立体交差事業(10年5月5日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 宮城県内の東北本線ルートの話(05年11月27日)
2010.05.11
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初めて訪れました。建物が2つに分かれていて、1つは物産関係。もう1つは展示館。中村雅俊の歌がエンドレスで流れておりました。
2010.05.06
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漢字だらけの厳めしい名称だが、要するに多賀城駅付近の鉄道高架化により、踏切をなくす事業だ。多賀城の場合は高架化だが、宮城県で先例となった仙石線仙台地区事業は、地下化だった。いずれにしても、都市部の鉄道と道路の平面交差をなくす事業だ。約1.8kmの鉄道高架事業自体は、宮城県とJRの共同プロジェクト(県仙台土木事務所の説明)だ。昨年11月下旬には既に、「上り線」は高架上を電車が走っている。これだけでも、4か所の踏切で遮断時間がピーク時で3割から7割短縮されるのだという(説明)。平成23年度に完成だ。また、これに合わせて多賀城市が駅周辺土地区画事業を実施している。多賀城市サイトの「多賀城駅周辺整備計画」をみるとよくわかる。仙石線の踏切周辺の雑踏も、味がある。大都市圏の都心近郊の私鉄沿線の雰囲気で、それはそれで良いとも思うのだが、安全なまちづくりのために消えてもらうのもやむを得ないのだろう。
2010.05.05
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最終回は、鉄道廃線跡について。親水護岸が整備された区間の最上流。天神橋の上流には、画像のとおり、水門橋のような構造物。橋ということは上に道路か鉄路が水路か何かがあることになる。JR塩釜駅近くヨークベニマルから野田の玉川沿いに多賀城市役所や仙石線多賀城駅に南下する市道があるが、市道に直交して、盛り上げられた土塁がこの「橋」に続き、さらに先に伸びている。市道脇から入って「橋」まで歩いてみた。そう、これは鉄道の廃線跡だ。東北本線から分かれて仙石線(西塩釜駅)に合流し、塩釜港につながっていた。廃止は平成9年と言うから、比較的最近だ。野田の玉川に比べれば、ほんの最近のことだが、懐かしい歴史だ。玉川の流れのように、さらさらと陽気が降り注いでいた。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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第3回。整備された区間の上流部である天神橋からせせらぎ橋までの部分です。おもわくの橋の上流には、上から、天神、野田、せせらぎ、清水の4橋が架けられている。この辺りは、公園や向泉院などもあり、東北本線と仙石線に挟まれた市街地とは思えないほど、静かなところだ。かつては本当に鄙びた小川だったろう。玉川は、悠久の歴史をどう見てきたのか。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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第2回は、おもわくの橋からその1つ上の清水橋の風景です。おもわくの橋は、たもとに中華料理屋があって大きい広告看板があるのが、何ともおかしかったが、さりげない住宅地に存在していることが、かえって奥ゆかしさを醸し出すように思える。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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先日、うららかな初夏の朝、多賀城の歌枕めぐりをいたしました。末の松山、沖の石に続いては、野田の玉川です。■関連する記事 末の松山・沖の石(10年4月30日)宮城県民として恥ずかしながら、歌枕の地、いずれも私は初めて訪れました。近くは何度も車で走っていましたが。野田の玉川について、下流側から順次4回に分けて、画像で漫歩を振り返ります。第1回はおもわくの橋から下流の部分。川の片側は人が歩けるように整備されていて、おもわくの橋まで、間に2つの橋があるが、ちょうど「あみだ」のように、橋ごとに歩ける岸が入れ替わる。おもわくの橋の説明には、四代綱村が楓を植えたというが、紅葉山橋の名はそれにちなむそうだ。何とも歴史のある場所だ。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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