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吉岡一男編著『宮城県謎解き散歩』(新人物往来社文庫、2011年)では、吉岡さんの執筆として、ズバリ書いている。宮城県北部の東北本線ルートが不自然な理由は、東北本線が当初塩竈終着として開業したため、そして、それは、野蒜近代港の築造計画があったためである。東北本線をさらに北上させるにあたり、塩竈駅を前提に考えざるを得なかったために、吉岡や古川、築館などははずれてしまった。陸羽東線や新幹線の駅を設けた古川以外は、これによって交通の利便を失ってしまった、とズバリ。途中の経緯や地域の思いを省略して簡明に振り返れば、こういうことでしょう。たしかに。■関連する過去の記事(近代の宮城県内の鉄道敷設関係) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2012.01.01
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2年前の白石市の連続放火事件の犯人か。9日に市内の無職の男が逮捕された。20件ちかく発生した前事件に関係しているかどうかは、わからない。犯人と決めつけることはできず、慎重な捜査と刑事手続がまずは求められるが、とにかく2年ぶりに検挙に至ったことについては、関係者の努力を賞賛すべきだ。当時記事にも書いたように、何より検挙が望まれるし、懸命の捜査が行われているはずだと思っていたから、事態が進んでいることは良かった。報道によると逮捕容疑は、2009年12月、市内駐車場で車2台に放火した事件。容疑者は否認しているようだが、この容疑者が代理店をしている損保会社の車だったようだ。また、発火には有機溶剤が使われたが、容疑者の事務所からは有機溶剤が見つかっている。この容疑者は、昨年1月に窃盗罪容疑で逮捕されて公判中。また、連続放火事件の渦中の09年12月には市長や河北新報白石支局に放火を予告する年賀ハガキを送ったとして再逮捕されている。仙台地検が9日に脅迫罪で起訴しており、容疑者も放火予告年賀ハガキを送ったことは認めているという。■関連する過去の記事 白石の連続放火を憂う(2010年1月6日) 相次ぐ放火と強盗(2009年12月22日)
2011.12.10
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今日(1日)のニュースで出ていた。仙石線が一部不通のため、石巻と仙台を小牛田経由で直接結ぶ列車が運行を始めた。今日は、朝の暗いうちから50人が乗り込んだという。JRによると、この直通列車は、両駅を76分で結ぶ。現行の仙石線代行バス(矢本と松島海岸間)利用より約30分短縮。石巻643発、小牛田駅経由、仙台駅着759で、途中停車なし。気動車2両。なお、現在は上りのみで、下り列車は検討中。石巻駅を出る石巻線上り電車(小牛田方面)のダイヤを見ると、652発で小牛田732着という始発電車がある。この直前に割り込んで設定したようだ。仙台駅に向かう東北線上り列車の到着時刻を見ると、石越発列車が750仙台着。次は利府駅発が807着。なので、その間に入れたダイヤのようだ。この直通列車が経由する途中(停車せず)の小牛田駅の時刻表でみると、702発仙台行の後に入れているようだ。整理してみると...○ 2528M 石越始発632 小牛田発702 岩切発739 仙台着750○ 直通列車 (小牛田720頃か) 仙台着759○ 228M 利府始発748 岩切発755 仙台着807○ 2530M 小牛田始発735 仙台着821本数が集中する岩切仙台間でみると、2528Mと228Mの間に列車はないから(貨物列車などはわからないが)、小牛田と岩切間も含めて、東北本線上でいずれかの電車が直通列車のために待避するなどの状況ではないようだ。たぶん。
2011.12.01
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昨年春にはじめて出会った沖の石(沖の井)。芭蕉もめでた歌枕としての歴史も誇らしいが、地質学的にもわが仙台周辺では古いクラスに属する岩なのだそうだ。■関連する過去の記事 末の松山・沖の石(2010年4月30日)地学団体研究会仙台支部編『せんだい地学ハイキング 気分は宝さがし!』(宝文堂、1993年、2005年再版)によると、仙台の地盤はおもに新生代の地層だが、利府町や多賀城市の一部には中生代前期の三畳紀の地層(利府層)がわずかにみられる。利府層は2億3500万年ほども前の地層で、浜田の北にある採石場で土木材料として採掘される頁(けつ)岩や砂岩からできていて、アンモナイトなどの化石を含んでいる地層だ。そして、「沖の石」もその利府層の露頭だという。奥津春生『大仙台圏の地盤・地下水』(宝文堂、1977年)を読んでみたら、大仙台圏の表層地質からみた地盤分類として、もっとも固結した状態の固結堆積物からなる表層地層として、頁岩(白沢層)、砂岩(七北田層、綱木層)、砂岩・頁岩互層(旗立層、青麻層)、れき岩・砂岩(茂庭層)と並べて、砂質粘板岩(利府層)が説明されている。------------利府層は、中生代三畳紀の砂質粘板岩で、利府町から多賀城市にかけて分布。新鮮な岩片はかたいが、表層の岩片岩体は細かい節理が多く、風化してるのでややかたい等級に属するものが多い。利府の砂質粘板岩は人家密集のため採掘困難であるが、隣接する浜田地区のものは採石・捨石として採掘されている。利府層からは地元で蛇石とよんでいるアンモナイト(頭足類)のほかダオネラ(二枚貝)の化石を産出する。------------地球表面で平面平板な生活を営んでいると、足の下の地盤や地質などあまり思いも寄らなかった。しかし、そんな地表にも、さまざまな地質層序が顔を出し、わが県土の成り立ちや岩盤、地下水脈の様子などを教えてくれるということなのだろう。地域計画においても、大都市との距離、労働力、交通条件など経済地理的な社会条件を取り上げがちで、自然的条件についても、水運や気候などは気にするが、地盤や地質の特性は顧みられることが意外と少ないと思う。実は、地下水や地質特性は非常に重要な要素として、少し前までは必ず基礎調査に含めていたはずだが、近年は、新規開発ブームが去ったためか、はたまた既存市街地の空洞化や高齢化という対処療法に追われるためか、地質学的成果に目に行くことが少ないような気がするし、日常会話からも、地盤の話題は消えつつあるような気さえしていた。しかし、今次の大震災は、仙台圏の住宅地の崩落や、いびつな形の県内震度分布など、地盤に対する県民の関心を呼び起こし、地質学の累々たる成果である仙台・宮城の地質状況がふたたび注目されるべきではないだろうか。大地のダイナミズムと多様な個性を、みずから顔を出して教えてくれた「沖の石」。かくいう私も仙台圏の地質は不案内なので、勉強してみたい。
2011.11.27
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紀行文学の最高傑作「おくのほそ道」で、芭蕉のフィクションのもっとも大胆な例が、石の巻の条(くだり)だ。曽良の旅日記では、芭蕉が松島を出発したのは5月10日(今の暦の6月26日)で、その夜は石巻、11日に登米、12日一関と三泊を重ねて13日に平泉を訪れている。石巻の歌枕を訪ねることは予定のコースだったと思われるが、芭蕉が小説的にこの章を仕立てるために、まず、瑞巌寺参詣を、塩竈神社の記事と寺社が続くのを避けるために本来の5月9日を11日と記した上で、石巻出発も12日と記した。「つひに道踏みたがへて」「思ひかけずかかる所にも来れるかなと」「心細き長沼に添うて」など、いかにもこの旅があてどない流転の旅であるように見せかけた芭蕉の演出効果である。こうして、道に迷い、宿に苦しみながらはるかみちのくを心細い思いで旅していく演出効果を狙ったのだ。しかし、芭蕉の実際の旅は、しっかりと自分の姿を心に描きながらの旅であり、十分に行き着く地を調べつくして行動している。芭蕉は日和山から、「こがね花咲とよみて奉りたる金華山海上に見わたし」と書いている。これも完全なフィクションで、日和山からは、牡鹿半島の向こうにある金華山は絶対に見えない。芭蕉は涌谷の黄金山神社の伝統を踏まえて、黄金の奥州を思うあまりの心眼で、金華山をみていたのだろう。■石寒太『おくのほそ道 謎解きの旅』リヨン社、2004年 から十二日、平泉と志し、姉歯の松、緒絶えの橋など聞き伝えて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道踏みたがへて石の巻という港に出づ。こがね花咲くとよみて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。思ひかけずかかる所にも来れるかなと、宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添うて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十里ほどとおぼゆ。歌枕の名所である石巻を、芭蕉は目ざして旅をしてきた。そして、日和山から望んだ港町の風情。作品中で最上のフィクションを凝らしたほど、感激に浸り、そして文学的意欲をかき立てられた土地だったに違いない。遥かなる思いに焦がれて目ざした石巻の地に立って、芭蕉は最大級の讃辞を、後世の私たちに残してくれた。ことし、日和山からの眺望は変わってしまったが、400年の昔の心の旅でもっとも大切にしてくれたこの石巻を、芭蕉はきっと応援しつづけてくれる、彼にはちょっと先の復興した石巻の姿も見えているはずだと、私は思っている。
2011.11.26
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5 発掘調査東北の古代城柵官衙遺跡における初めての発掘調査は、文部省嘱託の上田三平によって行われた。昭和5年秋田県「払田柵」、翌年山形県「城輪柵」。両遺跡ともに外郭線の材木列が発見されたことから、上田は奥羽地方の古代史に散見する柵は材木を建てて築いた一種の城郭と考え、軍事的施設との見解が考古学的に検証されたと理解した。これにより、蝦夷征討の軍事拠点のイメージが一般に定着したのである。多賀城跡の本格的な発掘調査は昭和30年代から、東北大学教授伊東信雄の指揮により始められた。伊東はそれまでにも利府町春日の大沢瓦窯跡(1936年)、加美町の菜切谷廃寺跡(1955年)、仙台市の陸奥国分寺跡(1955-59年)、涌谷町の天平産金遺跡(1957年)等を次々発掘調査し、考古学的方法によって科学的な実体解明に取り組んでいた。多賀城は奈良時代に陸奥国府及び鎮守府が置かれ、古代国家の東北経営の拠点であり、太宰府と並び称され政治上軍事上の要地として知られていたにもかかわらず、その構造や規模は不明な点が少なくなかった。国史跡に指定されたが広大な面積のため維持管理が困難であると同時に、戦後の農地解放による開墾や人家の増加に伴い、不用意のうちに破壊される実情にあったことから、緊急に学術調査を行って適切な保存方法を講ずる必要が生じてきた。昭和35年、宮城県教育委員会は多賀城町と発掘調査を企画し、河北文化事業団の参加を得て「史跡多賀城跡発掘調査委員会」を組織して、多賀城廃寺跡と多賀城政庁跡(当時「内城跡」と呼ばれていた)の発掘調査に着手。さらに、昭和41年には町が設置した「特別史跡多賀城附属寺院環境整備委員会」による調査。昭和44年からは、宮城県多賀城跡調査研究所による調査が開始され現在まで継続している。6 特別史跡指定昭和35年開始の発掘調査委員会による調査では、まず航空写真測量による地形図を作成し、昭和36年、住宅地に近接し破壊の恐れがある廃寺跡から発掘を始めた。主要伽藍配置が確認され、太宰府観世音寺と酷似することなどが明らかにされた。昭和38年からは多賀城政庁跡に初めて発掘調査が入る。昭和40年までの調査で、正殿、脇殿はじめ政庁地区の主要建物跡が明らかとなり、朝堂院的建物配置をとることなどが解明される成果を挙げた。これにより、昭和41年特別史跡に指定された。指定に伴い、多賀城廃寺跡環境整備事業が昭和41年から3か年事業で行われた。遺跡の補足調査も行われ、主要伽藍の整備が44年3月に完了。これは、史跡環境整備事業としては枚方市の百済寺跡につづく全国2番目の事例。現在も歴史公園として活用されている。7 保存について多賀城跡や廃寺跡は、全国の遺跡でも極めて遺構保存状態が良好。指定地域内には国有地が所在。政庁地区の北西部にはかつて民家がありその南側は耕作され、その様子は近世末の『仙台金石志』にも記録されている。しかし正殿のある場所は「御座の間」と称され耕作されることなく削平をまぬがれたようである。明治9年、佐藤孫四郎は政庁正殿跡付近の土地1反7畝14歩を国に献上した。天皇東北巡幸を機に献納したと言われる。こうして正殿跡を含む政庁地区の7分の1が官有地として保存されることとなった。また多賀城碑付近の土地も官有地として早くから保護されている。さらに、献上した土地について明治31年には地元の佐藤文助と佐藤孫十郎が私費管理を願い出て許可されている。政庁地区の保存をはじめ多賀城跡の保護に中心的役割を果たしたのは、地元の人々であったといえる。8 多賀城神社政庁跡の北西部隣接地に、多賀城神社が建立されている。もともと政庁域内の北東部にあったもので、社殿は国から払い下げを受けた旧海軍工廠の奉安殿を昭和27年地元有志の手で移設したものである。その契機は、昭和8年の明治天皇「聖蹟」指定である。この時代の天皇中心の国家主義的体制の影響を受けて、多賀城跡も南北朝の義良親王(後村上天皇)と結びつけられ、聖蹟の性格を付与され象徴の一つとして利用されることになったものと思われる。昭和9年には、多賀城村史蹟名勝保存会が組織され、翌年同会の手で「後村上天皇御坐之處」碑が正殿跡北西隅に建立され、御霊祭が挙行されて神社創建の機運が一気に高まったのである。この年の宮城県議会には、多賀城神宮創建要望の件という意見書が提案され採択されている。しかし計画は戦争により中止となり、昭和23年にはGHQにより聖蹟の指定解除が行われた。現在の多賀城神社は昭和48年に政庁地区を史跡公園として環境整備するにあたり、現在地に遷したもの。高倉敏明『多賀城跡』(菊池・坂井 企画・監修「日本の遺跡」30)同成社、2008年 から
2011.11.19
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1 序東北の古代史に大きな位置を占める多賀城だが、その認識は戦前戦後を通じて、蝦夷討伐の軍事基地とするのが大方のイメージだった。それが一変したのは、昭和30年代からの発掘調査の成果である。防御施設と見られていた外郭、内郭の区画施設が、政治の場を囲む施設であったことが確認された。また、昭和44年から城外の調査によって町並みの存在が明らかになり、真贋論争のあった多賀城碑は、平成10年に国の重要文化財に指定され、真碑であることが明らかとなった。かくして、多賀城の環境は、それまで考えられていた多賀城跡と付属寺院たる多賀城廃寺跡だけではなく、周辺の「国府域」と捉えられる広い地域に及んでいたことが明らかになったのである。2 近世の認識多賀城跡について最初の文献は、延宝5年(1677)ごろ成立の『仙台領古城書立之覚』であり、この記述は政庁跡の規模に匹敵することから、多賀城跡を政庁地区のみの狭い範囲で捉えていたと理解される。さらに、壷の碑の記載内容と結びつけ、この遺跡を大野東人の居城と位置づけている。佐久間洞巌が享保4年(1719)刊行した『奥羽刊蹟聞老志』では、古瓦と礎石の存在を記載しており、多賀城を古代に限定して碑の記載から大野東人が築いたものと理解した。安永3年(1774)に書かれた「市川村風土記御用書出」では、かなり広い範囲が多賀城碑と認識されており、本丸、二の丸、三の丸と区別され記載されていることから、遺跡の構造を中世以降の城館と同様に捉えていたものと思われる。また、同年の「高崎村風土記御用書出」にある多賀城廃寺跡とみられる「塔の越原」の記述は、すでに多賀城と関連する寺院の跡ととらえていたことを示す。3 近代の研究明治から大正には、絵図や図面が作られる。最初は、「多賀城古趾の図」と題する絵図で、木版により明治22年に刊行された。明治天皇東北巡幸の歳に境界捜索に従事した地元の人の図面に基づき、地形の上に築地や礎石の様子を記すなどわかりやすく紹介し、遺跡研究に大きく貢献した。明治44年には、大槻文彦が「多賀城多賀国府遺蹟」を発表し、スタジア測量法によるかなり正確な実測平面図を掲載。また、大槻は、明治32年に「陸奥多賀国府所在地考」、明治35年に「多賀国府考」を発表して従来の説を批判し、多賀国府が南北朝期まで存続したと主張した。さらに、多賀城跡を積極的に「聖蹟」と位置づけようとする意識がみられ、近世以降「御座の間」と称されている地について義良親王(後村上天皇)と結びつけ、福島県の霊山に対抗して聖蹟としての正統性をも主張している。4 史跡指定大正8年に史蹟名勝天然紀念物保存法が成立すると、多賀城跡も史蹟指定の候補に挙げられる。大正11年10月、史蹟「多賀城跡附寺跡」として指定された。昭和2年刊行の『宮城県史蹟名勝天然紀念物調査報告』に、委員会会長清水東四郎調査として「多賀城址』が掲載されている。これはそれまでの研究の集成で、以降の多賀城研究に大きな役割を果たした。(つづく)高倉敏明『多賀城跡』(菊池・坂井 企画・監修「日本の遺跡」30)同成社、2008年 から
2011.11.18
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読売新聞地域版に出ていた「高点順得票」が興味深い。激戦の跡が期せずして浮き彫りになっているような気がする。 最高は斎藤氏(無元、石巻牡鹿)16,106票。次いで、渡辺氏(無元、登米)14,153と続く。第12位の熊谷氏(自現、登米)は11,585票を得ながら、落選。最高点の落選者となる。 以下、全81人中で最低点の当選者は、第68位の天下氏(共新、塩釜)で4,920票。同氏より低い人はもちろんすべて落選者だが、同氏より高点を得た候補者の中でも、上記の熊谷氏はじめ、18人が落選している。 理論的に考えてみる。高点ながら落選する条件とは、1 候補者の数が多い2 候補者が票を均等に近く分け合う3 投票率が上がる4 選挙区定数に対して有権者が多い(一票の格差)などの場合だろう。低位ながら当選するの条件は、この逆だ。 概して言えば、高点落選者の出現は、選挙の関心が高く(投票率高い)、選挙戦が盛り上がった場合(票を分け合う)ということになると言える。候補者の数そのものは決定的でなく、票を分け合う有力候補の数が意味を持つだろう。 最高点落選者が出たのは登米選挙区。いずれも保守系の現元3氏が票を取り合った。投票率53.77%は前回から11.53ポイントも落ちてしまったが、定数あたりの有権者が他より多少高いことも背景にあるだろう(分析していない)。トップの渡辺氏は冒頭記載の通り全県でも2位。選挙区2位の只野氏は全県10位で、12位の熊谷氏(落選)とほど近い順位。激戦を物語る。 対して、天下氏の塩釜選挙区の場合、2位当選の同氏と落選した3位、4位の候補者が、3千から4千票で、票を分け合ったことが、低位当選者を生んだと考えられる。トップ当選の佐藤氏(自現)が6,577票。もっと独走すれば、2位当選票数ラインがさらに下がった可能性もある。塩釜選挙区の投票率は43.54%である。前回対比2.09ポイント減は、全県的には良い方だ。 ところで、投票率の前回比でいうと、実は上昇したところもある。亘理が60.30(7.93増)、角田・伊具が65.66(3.63増)。亘理の場合は、落選した新人山本氏も10,125票を獲得し全県高点順位は22位と検討した。角田・伊具は、減員で1つだけのイスをめぐり、現職2人と新人が三つどもえの超激戦だった。 これら以外では、栗原選挙区。落選した熊谷氏(無現)は11,343票で全県第15位。全体でも熊谷氏(登米)に次ぐ、2番目の高点落選だ。栗原も現職と元職の厳しい戦いで、3人が票を分け合った地だ。■関連する過去の記事(2011宮城県議選) 低かった投票率 宮城県議選(2011年11月14日) 県議選の印象(2011年11月14日) 県議選 石巻はどうか(2011年11月11日) 県議選 激戦の仙台市内3区(2011年11月10日) 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)
2011.11.15
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投票率は、予想はしていたが、それにしても随分低調だった。県全体で41.69%で、前回50.45から9ポイントも落ちた。中でも仙台市は34.97%である(前回46.40 前々回47.79)から、前回から11ポイント以上も急落。仙台市の区別内訳は、青葉区35.59(前回46.95)、宮城野区31.24(43.69)、若林区34.65(44.85)、太白区36.76(47.10)、泉区35.69(48.22)である。投票熱の冷めたことが、みんなの党の押し上げにつながらなかったという感じだ。石巻市48.13(前回53.19)、大崎市42.77(51.35)、塩竈市43.54(45.63)、気仙沼市45.13(54.25)なども、情勢分析で伝えられた当落予想の厳しさほどには、投票率は熱していなかった。南三陸町の36.71%(なお前回、前々回とも無投票)という数字は、涙が出そうなほどだ。登米市53.77 栗原市59.25も、かなり低いと言って良いだろう。詳しい分析は時間がないが、震災でそれどころでない、民主政権の迷走に愛想尽かした、というあたりか。■関連する過去の記事 県議選の印象(2011年11月14日) 県議選 石巻はどうか(2011年11月11日) 県議選 激戦の仙台市内3区(2011年11月10日) 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)
2011.11.14
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まずは4議席を得た共産の躍進。若林も僅差の次点。投票率が下がると思ったが、仙台市が34%とは随分低調だった。このためか、みんなの党はさほど伸びなかった。角田・伊具はやはり激戦だったが、市部が勝った感じ。石巻はきれいに1万台づつ差が付いたのは意外。詳細は後ほどに。
2011.11.14
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昨日と同様に朝の河北新報記事の情勢分析に基づいて、激戦区の当落を考えたい。■前回の記事 県議選 激戦の仙台市内3区(2011年11月10日) 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)■石巻・牡鹿(定数5) 記事では、いずれも自民系無所属の2氏、元職S氏と現職M氏が優位。共産新人の元市議M氏が続き、その後を4人が追うという分析だ。2議席を争う4人とは、記載順に、自民現職S氏、自民元職I氏、民主現職K氏、民主現職S氏だ。いずれも知名度も実績もある人たちだが、それにしても共産新人が先行したのは私には意外だ。地元に浸透し実績のある人物なのだろうが、仙台や塩竈以外で共産県議誕生は珍しいだろう。反面で民主の苦しさは歴然、ということか。■角田・伊具(定数1)定数が減って現職は必ず落ちる。そこに新人も加えて3人の争い。数字だけでみれば県内最激戦とも言える。記事では、自民現職T氏、自民系無所属現職H氏、民主新人T氏の順に記載している。地理的に放射能問題が争点かとも思われそうだが、記事では触れられず。もっとも、朝日や読売の地域版では、民主新人が放射能対策を掲げて票を集めようとしているように描写していたが。選挙公報では、現職2氏は放射能対応の推進などという一般論で終わり、民主新人は、健康被害調査をやりますと約束している。どれだけ対立軸となっているのか。都市部と違い、これで浮動票が左右されるという地域でないということかも知れない。そのほか、激戦の選挙区も多く、複数区でも単独区でも現職が落ちる可能性がある。黒川は、民主の女性新人に注目していた。かつて国政にも挑んだ人物だが、世が世なら民主人気に後押しされたのだろうが、富谷で無党派と女性票をかき集め急追、という表現にとどまっていた。これも国政の混乱の反映と言えるだろう。総じて、自民現職の議席保持がめだつ。中でも石巻は象徴的だ。前回に続いて現職元職の厳しい生存競争が基本にあるとは言え、それにしても知名度ある民主現職2氏が落選もあり得ないではない異常さだ。国政の迷走だけでなかろう。いくら財務大臣を出した地元とあっても、被災地の肌で感じた投票選好が民主に流れはないということか。今回の県議選を経た勢力図は、従来とかなり様相を異にするものになりそうだ。民主の減衰、みんなの登場、共産の勇躍がキーワードか。いや、ちょっと気が早かった。開票後に、じっくり考えたい。まずは皆さん、棄権せずに投票をお願いします。
2011.11.11
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昨日も県議選について記したが、河北新報の情勢分析が今朝出ていた。もちろん分析の正確さは新聞社にかなわないので、記事を基にして、激戦区について一市民の感じる風(個人の感覚なので偏っているだろうけれど)を記してみたい。■前回の日記 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)■青葉選挙区(定数7)記事によると、青葉区(定数7)は、現職4人が先行。民主系無所属K氏。電力労組をバックにした無所属K氏。この2氏の後を、公明公認のI氏、共産公認E氏が続いて、これで4人。ここまでは「先行」との評。次いで、民主の女性現職Y氏は、失速回避に懸命との説明だが、当選圏内という評だろう。そして、後続は、4人が残るイス2席をめぐり当落線上の激しい争いを最終盤まで演じる、ということだ。順に、6選を狙う自民公認の元議長現職I氏。自民元職のN氏。民主現職の元仙台市議会議長S氏。みんな公認新人K氏。この4人だ。無所属新人I氏は離れた。当落線の4人から2人。確かに激しい戦いのように思う。特徴は、役者のカラーがはっきりしていることでないか、と私は感じる。まず、自民現職I氏はバリバリの保守論客。選挙公報にも県議会を代表する保守政治家の論客と自ら称している。TPPは日本を滅ぼすとして断固反対、郷土愛や愛国心を謳い、民主党政権の反日・左翼政策の阻止などを明記している。自民元職N氏は、水泳連盟会長。国会議員選挙にも出馬した。人脈は広く知名度も高い。ちなみに、前回はI氏が7席目に滑り込み、N氏は408票差で次点だった。民主現職S氏は前回4位だが、今回はどうか。市議会時代からの個人票をどれだけ持っているかわからないが、前回は同じ民主の女性Y氏とともに1万2千票前後を獲得した。だが、今回は民主の逆風で満帆ではないように思われる。国政与党の混乱が足を引っ張らないか。新人K氏は、みんなの党の非増税路線がどれだけ票を集めるかだろう。かなり、おもしろい存在だ。■太白選挙区(定数5)前回得票は、民主現職F氏が2万票を超えてトップ当選、次いで公明現職O氏1万3千票、自民現職K氏1万2千票、自民新人S氏11,324票、共産現職Y氏11,244票、社民現職K氏が11,196票と48票差で落選、という相当な激戦だった。今回はどうか。朝の記事によると、自民K氏と公明O氏の2現職が安泰。中位は大混戦。記事記載の順番に、民主現職F氏、みんな女性新人A氏、共産現職Y氏、自民現職K氏、そして前回苦杯の社民元職K氏が激しく追い上げているとの評。この中位5人のうち2人が落ちる。公明を除く主要5政党の当落が分かれるという意味でも、どの政党が選好されるのか注目の激戦だ。ここでも選挙公報を見てみる。放射能についての各氏の見解をみると、共産Y氏は放射能測定と除染、子どもの健康調査を明記しており、もっとも旗色鮮明。社民K氏は、測定と情報公開強化、という書き方。公明O氏は、全県民に健康調査の実施を要請、と。自民S氏は、安全監視体制の強化と風評被害対策、という書き方。党派によって相当スタンスの幅が広い。太白区でどれだけ有権者がこのイシューを重視するか。■泉選挙区(定数5)今朝の記事では、公明現職I氏、自民系無所属現職副議長O氏の2人が抜け出し、次いで自民現職K氏、みんな新人M氏が当選圏ということか。最後の1議席を争うのが、3人。記載順に、民主現職元教員S氏、自民女性現職T氏、共産新人G氏の3人だ。ここも、混乱の国政与党、放射能対策などがどれだけ重視されるかで分かれるのかも知れない。自民の現職T氏は、選挙公報にTPP反対を明確に唱えているわけではないので、女性票の動向と支援衆院議員の浸透度、また市民の民主政権批判度合い、さらに投票率などの要素で当落が決まるという感じだろうか。------------明日の朝刊には、石巻、角田・丸森、栗原、登米などの激戦区情勢が載るだろう。時間があれば明日も記してみたい。
2011.11.10
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異例中の異例措置で延期された宮城県議選。実のところ、選挙どころではないのだが、政治日程は粛々と進んで、あっという間に次の日曜が投票日だ。激戦区として挙げられるべきは、今回もまずは石巻だろうと思う。新人はなく、現元の6人が争う。 前回平成19年は定数5(石巻3桃生3牡鹿1を石巻5と東松島1に再編して最初の選挙。実質的に減員1)に現職6人全員が出るという究極のサバイバル。今回は定数5に7人が出るが、現職だった1人は女川町長選挙に転じたので、7人のうち現職は4人。そして2人が元職、割って入ろうとする共産の新人1という、やはり激戦レースだ。民主2と自民系3という構図が変わらないとすれば、元職の誰が滑り込むかが焦点。 ほかに注目は、太白区か。定数5に、県内唯一、主要政党の公認候補が出そろっている。読売地域版の記事も踏まえながら記すと、自民は、一枚岩でない民主の弱点を突き、現職2議席死守をめざす。前回2万票を超えた民主現職は逆風にあえぐ。8月の市長選で議席獲得と拍車のかかる「みんなの党」は、増税なき復興路線を掲げて、新人の議席獲得をめざす。公明は被災者支援の実績を強調し、組織戦を強化するだろう。実力者候補を擁しながら前回次点に泣いた社民は、議席奪回をめざし福島党首を投入。前回最下位ギリギリの共産は、相変わらず大企業優遇の村井県政批判。増税やTPPの方向に対する明確なアンチテーゼとして、みんなの党、共産、社民にどれだけ集まるか、という構図でもあるが、この意味での流れは、さほどないように私は感じる。候補者の個人の実績と魅力によって、たとえば社民の議席奪回はあるかも知れない。放射能と健康調査問題が争点となれば票が浮動するかも知れないが、これが明確な争点となっているかどうか、よくわからない。結局、自民2、公明1、民主1、最後を社民、みんな、共産で争うという感じだろうか。結構激しいような気がする。 定数2(減員1)を現職2元職1で争う登米、定数1(減員1)を現職2新人1で争う角田・伊具なども、激戦だ。今回は、こちらも余裕がないのでさほど分析もできない。とにかく候補者には真剣に県政を考えて欲しい。
2011.11.09
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名取市の県農業高校は海岸に近いことから津波で大きな被害を受けていたが、9月から市内丘陵部の仮設校舎に移っている。農業県宮城を支える県立高校の伝統は明治18年に起源するが、その前身の宮城農学校は明治に我が国の三農学校として讃えられた名門である。以下は、菊地勝之助編『名数みやぎ郷土小事典』(宝文堂、1973年、1987年復刻)から「日本の三農学校」の項目を下に引用する。------------我が国の農学校で創設の歴史が古く、また施設に特色があり名門校として校風が高かったのは、札幌、東京駒場、そして宮城の三農学校であった。札幌農学校はクラーク博士などの協力により明治10年に創立。札幌農大(ママ:おだずま注)の前身で、新渡戸稲造、志賀重昂、内村鑑三など多くの異才を出した。駒場農学校も明治10年代の開校で東京大学農学部の前身。横井時敬、佐藤寛治、山崎延吉などの人物が出ている。宮城農学校は、明治14年に設置した県立農事講習所を前身とし、同18年7月に改組して宮城農学校と称し、農学の研究と農事指導において全国的に重きをなしてきた。本校出身の人物に貴族院議員佐藤亀八郎、仙台市会議長佐藤長成、日本専売局勅任技師神田孝一等がある。近年農業高等学校に改組とともに宮城県農業短大を設置するなど地方農業の本山となっている。-----------札幌や駒場は、それぞれ大学農学部として受け継がれたと思われる。宮城は、高校として日本で最も伝統ある農業高校と言えるようだ。念のため、宮城県教委の公立高校ガイドブックの各校の紹介を覗いてみると、宮城農 創立明治18年小牛田農林 明治21年仙台一 明治25年宮城水産 明治29年仙台工 明治29年宮城一 明治30年古川 明治30年亘理 明治31年仙台二 明治33年加美農 明治34年黒川 明治34年佐沼 明治35年仙台二華 明治37年柴田農林 明治41年県工業 大正2年石巻 大正12年(なお、白石、角田、築館、気仙沼、塩釜などは、統合のため平成年代の近年が創立と表記されている。)明治初年に殖産興業の中心はやはり農業だったはずで、創立が早い。ちなみに、東北各県で最も伝統ありそうな農業高校をみてみると(各校サイト)...三本木農業 明治31年盛岡農業 明治12年大曲農業 明治26年村山農業 明治28年福島明成(旧福島農蚕)明治29年会津農林 明治40年人材育成をめざしていち早く設立された学校への期待は大きかっただろう。宮城県農業高校の伝統はすばらしい。がんばれ宮農、がんばれ東北。
2011.10.31
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天平21年(749)の春、奈良東大寺の大仏鋳造は完成に近づいていました。しかし銅造の仏体を鍍金する肝心の金が足らず聖武天皇をはじめ関係者の憂慮が深かったのです。このような時、陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が小田郡(遠田郡東部)の黄金山(現在の黄金山神社一帯の山)から産出した黄金を献上しました。このことは国内で最初の産金事件として祝福され、天皇は宣命を発し、年号を天平感宝と改め、大赦や税の免除、叙位などを矢継ぎ早に行いました。(中略)大仏様の鍍金には約60kgの金が必要で、百済王敬福が献上した最初の金の900両(約13kg)は4分の1弱に過ぎません。そこで政府は、天正勝宝4年(752)春、陸奥国多賀郡から北の諸郡の成年男子に黄金を納めさせることにして金の調達をはかりました。これにより黄金山はゴールドラッシュの到来で、谷(沢)という谷(沢)が、流水を利用して砂金を洗い取る大勢の人々で涌(湧)きかえりました。涌谷の地名のおこりでありましょう。■涌谷町観光ガイド(平成23年10月1日発行)より
2011.10.25
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律令国家は全国平定のため行政区として五畿七道を設け、都より国府に至る幹線道路を整備した。東北の蝦夷平定のための東山道は、陸奥東山道と出羽東山道が北上する。陸奥東山道は7世紀後半には郡山(仙台市)に朝廷の地方役所が構築され、8世紀半ばには蝦夷平定の拠点として国府多賀城が置かれた。802年には坂上田村麻呂により胆沢城が竣工、アテルイが降伏した。その後東山道は志波城まで延びている。全国の官道には30里(16km)ごとに一駅が設けられ馬が配備された。宮城県及び岩手県分では(カッコ内は比定地)、篤借(あつかし)(越河、斎川)、柴田(大河原)、小野(川崎)、玉前(たまさき)(岩沼)、名取(仙台市郡山)、栖屋(すねや)(利府)、黒川(吉岡)、色麻、玉造(岩出山)、栗原(鶯沢)、磐井(西磐井)、白鳥(前沢)、胆沢(水沢)、磐基(いわき)(花巻)である。■関連する過去の記事 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)利府を経由して吉岡に至るのは、現在の国道4号の感覚とは離れているが、多賀城の存在を考えなければならない。そして、黒川の東山道ルートについては、利府から、小鶴沢、太田、幕柳、鳥屋、北目、大崎、舞野村に出て、奥田を経由して色麻、玉造に向かったとされる。また、黒川が現在の吉岡でないことは、元禄13年(1700年)の黒川郡駒場村山林絵図に、古海道が記載されていることから明らかである。吉岡は政宗の三男宗清が下草から元和2年(1616)に居館を移して宿駅が成立し、新しい奥州街道を造成した。吉岡宿の北端から水田を横切って善川をわたり、昌源寺門前に出て、昌源寺坂(奥田坂とも)を上り、駒場村で県道に出て三本木に至る。古海道とは、この新奥州街道に対比しての呼称と見られる。舞野観音から須岐神社に至る古海道の沿道は東北自動車道が通っている。■関連する過去の記事 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)いま、現代の交通路を含めて並べてみると、国道4号は吉岡市街北辺を迂回してから大衡丘陵地の西裾を廻って三本木に至る。奥州街道は吉岡の街中から水田を突っ切って奥田の山中(今ではセントラル自動車)に向かい、駒場地区(須岐神社)へ。古代の推定東山道は、奥州街道とは交わらず、舞野地区から北上し現在の東北自動車道と絡み合うように北に延び、大衡ICの東側を併走し再び自動車道西側に出て(というより自動車道が一度西に振れているとも言えるが)、駒場須岐神社で藩政時代の街道と交わるという関係。次に仙台以北の街道ルートについて。天保4年(1833)の御城下町割絵図には、北山輪王寺脇の道に古海道と書き込まれており、城下に新しい奥州街道が造成されたので古海道と呼ぶようになったのであろう。また、中山古海道(古街道)、中山通とも呼ばれ、輪王寺脇から荒巻小学校を右にみて神明社のところで梅田川を渡る。段丘崖の外縁にそって進むと水の森公園。公園入口の叢塚の前を過ぎると、地域の方々が命名した秀衡街道という標識に出会う。上谷刈村風土記には御城下ならびに黒川郡への道とあり、江戸時代の交通路でもあった。公園の東縁を通り抜けると高柳川が流れており、橋のたもとに8基の石碑が立っている。目の前には陸橋加茂大橋。古街道は橋の東に続き、住宅裏に道の痕跡が残っている。街道は北環状線道を越えて七北田川に沿って進み、道路神社(道六神社、沼遺跡付近)がある。ここで七北田川を渡ると、本七北田。嚢塵埃捨録にいう昔の巣鎌(現菅間)の宿であろう。本七北田の名称は、政宗により北根を経由して新たに造成された奥州街道の七北田宿に住民が移されたためである。■高倉淳『仙台領の街道』無明舎出版、2006年 などから■参考サイト 七北田のルーツ(泉区サイト内)なお、七北田・富谷ルート以前に、根白石が奥州街道の宿場だったとの見方がある。■関連する過去の記事 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)
2011.10.23
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塩竈市役所発行の住民票などの市名表記はすべて「塩竈」である。常用漢字の「なべ、かま」の意の「釜」ではなく、旧漢字の「竈」(かまど)である。市内をみると、国鉄の市内4駅はすべて「釜」、塩釜警察署、塩釜保健所、塩釜郵便局、塩釜電報電話局など。市役所の電話帳表記も、塩釜市役所だ。市は昭和57年異例の市名表記アンケートを行った。分かりやすい「釜」に統一すべきだという論と、由緒ある「竈」を残すべきとする派とが、相半ばし、これまで通りの併用で落ち着くという結果となった。ただし、市民1500人を対象にしたのだが、回答は42%どまりで、必ずしも議論は弾まなかった。変更派は若者や転入組、擁護派は中高年という色分けが辛うじて出来たくらいで、暮らしへの影響は「不便を感じない」とするものが「感じる」を大きく上回った。市は、現状で支障なしとし、従来通り公文書は「塩竈市」、ただし塩釜と表記した文書も受理する併用として、市名変更は行わなかった。ところで、いつから「塩竈」なのか。市の資料では、昭和16年市制施行時に内務省令で正式に採用された。直前の町時代は「鹽釜」で、明治初年の村当時は「鹽竈」だった、とされている。わずか1世紀の間に表記だけがクルクル変わった。実はここに塩釜の歴史的な「いわく」が隠されている。市史は、塩釜の地名発祥は製塩の故事により、その起源は多賀城創建以降のこと、とする。つまり、朝廷が住民の順撫策として殖産事業の製塩をこの地に指導普及させるため、御釜神社を創建したという。御釜神社はいま塩釜神社の末社に加えられるが、創建当時はまったく関係のない独立神社だった。ここを中心に集落全体に製塩業が広まり、各家庭から塩を焼くかまどの煙が立ちこめるようになった。創建当時は国府津と呼ばれた集落も、この風情から塩竈と呼ばれるようになった。ここでいう塩は、結晶塩のことだ。従って正式には、(1)皿に盛った結晶塩(□の中に※の部分)に(2)所有者を明らかにした旗(ケの字のような部分)を立てて(3)兵士(臣)が守る、という成り立ちの「鹽」と、かまどの多い場所を示す「竈」をあわせた「鹽竈」なのである。塩釜神社はこの文字を踏襲し、正式社名としている。市制施行時の市名表記もこの故事にならったとされるが、ただ「鹽」は塩の旧字体だから、「塩竈」となった。また57年の釜竈論争も、結果的にこの伝統を尊重し、常用漢字にはない「竈」を市の象徴として存続することになった。■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から■塩竈市ホームページの解説(この説明によるとアンケートは昭和56年7月とされています。)■関連する過去の記事(塩竈市の市名表記) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日) 塩竃の花火大会(08年7月21日)(市名表記と神社名)
2011.10.18
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(前回(その2)から続く)■関連する記事シリーズ船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日)船岡と海軍火薬廠の歴史(その2)(2011年10月14日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)9 新しい需要昭和22年の第1回統一地方選で史上最年少25歳で県会議員となり連続8期、昭和53年から柴田町長の平野博さんは、20年9月末23歳で郷里船岡に復員し、米兵の柔道教師を務めるようになる。そして、一目置かれた平野さんは、米軍労務担当将校から、米兵の規律維持のためにも、キャンプの日本人従業員組合を組織するよう頼まれる。米軍は占領政策として労組結成や育成に熱心だったのだ。21年3月船岡進駐軍要員労働組合が700人の組合員で誕生、待遇改善に一役買おうという気持ちから、また、身内の規制に協力を求める米軍の率直さに打たれて、平野さんが委員長になる。しかしキャンプ内外で一部の米兵の無法ぶりは静まらなかった。町も荒廃し、火薬廠閉鎖で行き場を失った人があふれ、盗みなどに加わった。米兵相手の特飲街も現れ、船岡はいつしか東北の上海と呼ばれた。それでも、米軍進駐は火薬廠閉鎖による地域の衰退に歯止めをかけた。基地作業員は、炊事洗濯から土木工事まで一時は1500人近くに膨らんだ。こうした需要が周辺にあふれた旧火薬廠の従業員や復員軍人、引き揚げ者などに生活の道を開いた。進駐軍の規模は縮小し、船岡でも23年頃から激減、24年には100人を割って、キャンプの要員需要も急速に落ち込んだ。他方で25年6月朝鮮動乱が持ち上がると警察予備隊が創設され、空き家となった船岡米軍隊舎跡に、26年10月警察予備隊の東京の工兵1個大隊が入営。半年で普通科大隊と入れ替わり、その後も自衛隊と改称されてからも交代が続いた。火薬廠時代の建物を流用するだけで住み心地も悪かったので特定部隊の根拠地にするには無理があった。跡地は33年6月正式に米軍から全面返還されたが、最後に駐屯した自衛隊補給支援部隊も2か月後に仙台に撤収し、広大な敷地は無人地帯にかえっていた。10 自衛隊誘致敗戦以来、米軍と自衛隊でそこそこ食いつないでいた地元船岡の人々はあわてた。しかも31年に槻木町と合併し柴田町として発展を目指す矢先のことだった。町当局や町議会は、角田出身の元海軍中将、戦後は地元選出代議士として活躍中の保科善四郎(94)(前出のとおり火薬廠の船岡立地を工作した。)を前面に建てて政府に自衛隊再配備を働きかけた。この時期陸自は全国6管区を5方面隊に組み替える機構改革を進めていた。そのタイミングに働きかけたのが奏功し、全国でただ1群しかなかった豊川市の第一建設群の3つの構成部隊のうち第103建設大隊約800人の35年度内移駐が認められ、その駐屯用地として米軍からの返還時519haあった火薬廠跡地のうち65haが大蔵省から防衛庁に移管され、36年8月同大隊を中核として、東北方面隊の工作部門を受け持つ総監部直属部隊、第二施設団がここを本拠に編成された。さらに37年には82haの用地を加えて東北地区補給処の船岡弾薬支処も旧爆薬庫地帯に配置が決まった。本隊が到着した35年3月15日、家々は日の丸を掲げ大アーチを建てた国鉄駅で花火を打ち上げ一行を迎えた。中学校庭の歓迎式で熱っぽく演説をぶったのは社会党県議団長の平野博さんだった。船岡に駐屯する第二施設団、その中核の旧第103建設大隊は昔の工兵隊で、土木建設工作が任務の専門部隊。船岡移駐に先立ち、蔵王エコーラインの先触れ工事でも力を発揮した。11 産業復興米軍は跡地全体を接収したものの、実際に使ったのはほんの一部だった。手つかずで放置された工場や倉庫などは荒廃が進んだ。24年秋になると、工業用地として活用し地域の振興を図ろうとの声が高まり、副知事、仙台通産局などによる県賠償施設委員会が発足、保科善四郎元海軍中将を会長に工場誘致連盟も組織、活発に動いた。最初に誘致話が進んだシリコン樹脂製造工場はご破算に。しかし、殺虫剤BHC製造工場進出計画が保科氏のもとに持ち込まれて実った。こうして25年1月東北共同化学工業会社が設立された。資本金3百万円のほとんどは船岡火薬廠建設工事を手掛けた大木建設の創業者大木貞助氏が肩代わりし、社長には海軍元技術大佐、会長には保科氏が就任した。県工場誘致条例の適用第一号でもあった。殺虫剤BHCは、DDTをしのぐ効力と安さのため、家庭用に爆発的に売れ、続く農薬用も大成功だった。28年には総合研究所も設立。やがてドイツから技術導入した水銀系薬剤の製造も手掛けたが、協力者の東北大教授から水俣病などの中毒情報がもたらされ、非水銀系の開発研究に力を入れ、全国に先駆けて38年イモチ病防除剤の開発に成功、内外特許をとって売り出しを図った。ところが、水銀系に固執する大手製薬会社と農民に阻まれて需要は伸び悩んだ。BHCも人体残留成分の影響から使用禁止となり、経営は窮地に。結局、北興化学と業務提携に踏み切り製品販売権を譲って危機を脱した。35年頃からは原料供給を受ける三井化学工業との提携を強化、接収を解かれた火薬廠跡地内に共同出資の新農薬工場を設立した。運営会社は、三東化学工業と命名、37年10月から操業を始めた。互いに隣接し、共同化学は粉剤、三東化学は粒剤中心で競合を避けた。跡地民活のパイオニア東北共同化学工業は、現在資本金2千2百万円、38人が北興化学ブランド中心に農薬生産にあたっている。総合研究所は48年に閉鎖され、敷地の一部はガソリンスタンドや自動車整備工場となった。保科氏のおいの保科慶美さん(68)が4代目社長として経営を引き継いでいる。船岡火薬廠の建設以来、ステンレス加工を手掛ける品川区の大江工業が作業に加わり、やがて0年5月には白鳥神社わきの水田に東北工場を構えた。終戦後も特殊技術で業績を伸ばした。40年8月には東北大江工業として独立、周囲が住宅地となったため47年1月に現在地(火薬廠時代の爆薬仕上げ工場跡地)12haを県土地開発公社から購入して移転した。いまは資本金1億5千万円、札幌にも工場を持つ中堅機械メーカーに成長し、受注先も原子力発電や宇宙ロケッット実験装置まで広がっている。12 病院のその後船岡海軍共済組合病院を引き継いだ船岡鉄道病院は41年3月閉院。建物を使って翌年4月、船岡養護学校が開校した。肢体不自由児のための独立教育施設は県内初だった。43年には秋保町拓桃園の地元小中学校分教室と公立刈田病院のベッドスクールを移転させた不忘学園の2施設が、船岡養護学校の分校となる。13 大学誘致38年3月、旧火薬廠船岡門周辺の建物を流用していた陸自第二施設団は、大沼門近くに本部隊舎を完成させた。そのため船岡門周辺の跡地7.6haが不要となった。平間新午郎町長がこれに目を付け、付属高校を全国に広げていた日大に誘致を打診した。古田重良会頭は、金を貸すから地元が学校を建てて3年間は自力で経営し軌道に乗ったら引き取って付属高校にする、と条件を出した。町長は応じようとしたが、県のある課長が、高校はいずれ県が建てる、大学はどうか、と学校法人朴沢松操学園が四年制大学用地を探している話を紹介。町はこれに乗り換えた。跡地管理の大蔵省と文部省が互いに相手が先と言い張って無駄に時間が過ぎたが、大物政治家の調整で開学予定直前の41年2月に認可内示。最初は学生応募が少なく、職員給料も出ない時もあったが、50年代から志望者が急速に延びている。14 角田とロケット技術開発我が国航空技術開発は、37年スタートの第2次五か年計画でロケット技術を重点目標に加え、新たな施設用地を秘かに検討していた。角田市議会議長だった笹森賢蔵さん(82)は、横須賀で航空機開発に従事した専門家だ。かつて東大工学部航空学科で机を並べた松浦航空技術研究所次席(のち所長)との縁で、40年7月、ロケット研究のメッカとして角田市君萱地区の旧火薬廠跡約91haを敷地に、航空宇宙技術研究所角田支所が誕生した。また、角田支所と道路を挟んだ神次郎の火薬廠跡地約81haには、53年10月、宇宙開発事業団角田ロケット開発室が開所(55年開発センターと改称)。これで、600ha近い火薬廠跡地の未利用地は、細切れの断片を除いて姿を消した。(完)
2011.10.16
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涌谷伊達氏が開いた城下町涌谷は、遠田郡の中心であり、仙北の交通や水運の要衝として繁栄した。これを支えた涌谷商人の歴史を点描してみたい。■参考 ・『涌谷町史上巻』(昭和40年) ・『涌谷町史下巻』(昭和43年) ・河北新報社編集局編『仙台藩ものがたり』河北新報出版センター、2002年 ・朝日新聞宮城支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年■関連する過去の記事(涌谷商人関係) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) (日本鉄道出資者として、砂金三十郎、横山萬五郎の名がある。) 伊達家臣団の家格と一門のプロフィール(06年3月7日)1 涌谷城下の成立伊達稙宗の第12子で外祖亘理宗隆(母の父)の嗣子となっていた亘理元宗は、気宇凝重で智勇群を抜き伊達三傑の一と称され、天正19年(1591)の仙北一揆平定に嫡子重宗とともに功績があった。同年政宗の岩出山移転に伴い、遠田郡に村替えとなる。はじめ大沢村の百々城(田尻駅東南の丘陵にあり岩出山城の南の押さえとして要地)を与えられるが、間もなく19年冬に涌谷城(大崎氏家来涌谷正右衛門居住と伝えられる)に移る。軍事上の要地のみならず、未開発の平地が開け江合川を控えて経済交通の中心となりうる地点であることから、元宗の嫡子重宗がそのすぐれた立地条件に着眼したものである。(17代当主の正彦さんは旧涌谷村の村長を務めた町政の功労者。県議を6期、公安委員長の要職も歴任された。亡父の16代胤正さんは重宗公胸像のモデルとされた。)元宗は文禄3年(1595)6月死去、城下町づくりは重宗が始め本格的な建設は慶長9年に嗣いだ三代定宗(1606年伊達姓を許される)に引き継がれた。四代宗重(1671年伊達騒動で落命)になると新田開発などで2万2千6百石の大身になり、仙台街道に延びる新町や江合川に通じる川原町が整備された。また、石巻から江戸へ運ぶ江戸廻米(かいまい)盛りのころであり、江合川沿いに蔵が建ち船着き場が栄えた。涌谷大橋からやや下流の岸(城とは反対側の駅のある方の岸)に船着き場があった。2 涌谷商人の興隆江合川舟運で栄えた涌谷商人は、維新後いっそう財力を蓄えていく。多くの分家を抱えた久惣(ひさそう)一族は、それぞれが呉服、米穀、雑貨、文房具、書籍、荒物、煙草、酒造などで繁昌した。また、明治14年創立の日本鉄道会社の出資者には、砂、横山などの涌谷商人の名が見える。分家の久保(ひさやす)は明治20年代に旅館業を始めた。だが、東北線から外れ舟運も廃れる中、涌谷は昭和中期以降衰退していく。3 久惣(ひさそう)商店屋号を久惣。初代は久道(我妻)惣五郎。18世紀の人で味噌醤油醸造に始まり、太物、呉服へと商いを広げた。久惣は御用商人であり、町政を司る検断でもあった。今風に言えば、商事会社社長かつ区長。本家であることから分家の久保より更に羽振りが良かった。また本町通り南端にある紫雲山光明院(元宗移封に伴い亘理から移った)の山門には天明飢饉の供養碑が3基あるが、うち2基の功徳主は三代目惣五郎の名。のちの天保の飢饉でも久惣と久保は粥を施した。本町通に偉容を誇った久惣の大店も今はない。涌谷町史下巻には、明治の久惣当主の文章が紹介されている。曰く、曾祖父の久道惣五郎(代々襲名のよう)は味噌醤油の商いで天保年間などに涌谷を支えた。また祖父の惣五郎は仙台大町の高甚小間物店で見習い奉公し、維新前後に今の店舗で商売を始めた、などと。4 久保(ひさやす)久道保兵衛(魯因)は1797年涌谷本町に生まれ、1855年58歳で没。久保の初代。本町通りの北端に明治期に開かれた久保旅館があったが、2001年3月で暖簾を降ろした。魯因はここで、米問屋あるいは呉服屋を営んだとされている。天保の飢饉の際(1836年)には十三代義基の命を受け庄内藩に米の買い付けに走った豪商である。また光明院山門に句碑があるが、1千5句を収めた著書「四季句集」がある。天保年間でも家業を使用人に任せる余裕があったと見られる。「樅の木は残った」の著者山本周五郎は、久保旅館の昭和29年6月20日の宿泊人名簿に載っている。「横浜市...著述業山本周五郎51」、また、文芸評論家で当時山本担当編集者の「会社員木村久邇典31」とあるそうだ。山本は新聞連載に先立ち、29年6月18日から22日にかけて、船岡、青根、涌谷などを取材し紀行文「雨のみちのく」を書いた。涌谷はどこよりも城下らしい規模を遺していた、ひさやす旅館の主人が親切で旧伊達の家従の住宅を見る機会をつくってくれた、と記している。6代目の保衛さんは昨年(おだずま注:上掲の宮城風土記に掲載された昭和58年頃)涌谷高校を定年退職された。山本宿泊当時の主人久道新治郎さんは亡くなられたが(おだずま注:昭和55年頃か)、大正時代からの日記が最近みつかり、山本さんに町内を案内したことなどが記されていた。5 桜井屋本町通り光明院近くには桜井屋がある。桜井屋も供養碑に名を残す御用商人で、1800年頃当主が城下龍淵寺の総代長を務めた。京都から招いた和尚が桜井屋に伝えたのが豆腐作りで、今や涌谷の名産となった「おぼろとうふ」の始まりである。
2011.10.15
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(前回(その1)から続く)■関連する記事シリーズ船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日)船岡と海軍火薬廠の歴史(その3)(2011年10月16日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)5 学徒動員火薬廠の生産拡張に伴い、学生や若い未婚女性が投入された。県立角田中(旧制)は、5年生を平塚の航空機メーカーに、3、4年生は船岡の火薬廠に、1、2年生は近くの山に炭焼きに出すことに決めた。学生達にはケガが絶えず、機械に挟まれて死亡する者もいた。19年夏には、仙台二高、東北薬専、白石、角田の中学校と女学校、岩沼、鹿又実科女学校、大船渡や黒沢尻女学校などから送り込まれた。20年3月には閣議で4月から国民学校初等科以外の授業停止が決められた。文科系は既に戦地に駆り出され、火薬廠では二高生や薬専生に日常作業指揮を任せた職場もあったが、高校生の中には将校に反発し公然と敗戦を予告する風もあった。8月15日正午の玉音放送は学徒には聞きづらかったが、午後の作業は打ち切られ、作業が徒労に終わった喪失感が漂った。二高生や東北薬専生が放心の中学生や女学生を励ました。6 財産の帰趨16日午前5時半には廠長ら高級幹部がひそかに御真影を焼き捨て、施設内の一切の備品や資材の持ち出しを禁ずることとした。施設面積536.4ha、建物総数1,075棟、受電設備、水道設備、引込み鉄道専用線10.27km、電話400回線など。6年間に生産した火薬類総量は無煙火薬5,355t、爆薬25,083tで、この期間に我が国で生産された海軍用火薬類のうち、それぞれ15%、25%を占める。3つあった海軍火薬廠のうち無煙火薬と爆薬の双方を手掛けたのは船岡だけであった。占領軍に提出するため同廠が作成した在庫品目録によると、20種近い化学物質7、8百トンが挙げられ、かなりの規模の民間工場を設立できるほどの在庫量だった。また鋼材などの資材も豊富であり、これらは間もなく軍や県を通じて多くの民間企業や団体に、無償か超安値で払い下げられて復興の一翼を担った。ただし、純粋な民生向けの製品をつくる工場はとっくに機械ごと召し上げられていたため、譲渡先のほとんどが、それまでの軍需関連産業であった。専門知識を持つ技術将校や技術職員が再就職できたのに対して、製造現場しか知らない一般従業員の中には生活のメドがつかない者も多く、不公平感が残った。残余財産を収奪する不心得が横行し、大河原署員やMPがパトロールを行った。11月21日夜には、アルコールを盗みに侵入した男達と警備陣の乱闘が起き、MPの機関銃で犯人グループ3人が死亡し、52人が逮捕された。グループの中心は、戦時中連行されて戦後は放置されていた朝鮮人だった。廠内には火薬438tと爆薬582tが貯蔵されており、グレン中佐の米軍本隊が進駐した翌日から構内で焼却が始まった。火の回りが早い火薬は順調だったが、強い衝撃を要する爆薬ははかどらない。米軍は火薬庫ごと爆破したいと言い出し、同廠幹部は危険を指摘したが、結局司令部の方針として強行された。堅固な半地下式爆薬庫のTNT爆薬56tを建物ごと一気に処分しようとした。廠側の忠告で、周辺住民を全員白石川対岸に避難させた上で行ったが、破片は2km近くも飛び、北郷村神次郎地区で電報配達中の男性の頭を直撃して死亡させたほか、役場、学校かなりの民家の窓ガラスを割った。7 仙南最大の総合病院15年7月半ばに、船岡海軍共済組合病院が構内の一角に誕生した。100人を超す職員と最新設備をもち仙南最大の総合病院といわれた。一般にも開放したため住民の喜びも大きかった。柴田町の大泉二郎さん(74)(船岡町議、柴田町議を連続7期)は同廠総務部から志願して18年7月に病院職員に転じた。戦局悪化に伴い、入院患者の食料確保のため、構内の空き地を耕してイモや野菜類を植えた。空襲に備え20床の地下病院もつくった。軽症患者を医師看護婦付きで青根温泉に疎開させ、それでも足りず小原温泉に病院ごと移す準備のさ中、敗戦を迎えた。敗戦後も船岡共済病院として、患者のため自主営業を続けた。患者のため環境整備に力を入れていたことから、住み心地よさそうな施設が米軍に接収でもされたら患者はどうなるかと思い、大泉さんは、乗り込んで見て回ろうとする米兵を押しとどめ、消毒剤を振りまいて、伝染病患者がいるからといって退散させたという。病院は仙台の施設を空襲で失った国鉄に職員ごと62万人で身売りし、20年11月から仙台鉄道病院となる。仙台の鉄道病院が再建された23年11月には船岡分院となり、26年6月には結核専門の単科施設となり船岡鉄道病院と改称された。結核患者減少に伴い、41年3月31日を限りに仙台鉄道病院に統合され、船岡の医療活動は幕を閉じた。8 従業員のその後火薬廠の総務部長だった塚本寿雄さん(84)が敗戦でまっ先に考えたのは、1万人を越える従業員の再就職問題だ。一時占領軍管理下におかれてもいずれ何らかの工場として活用されるだろう、その工場に従業員たちの採用を頼む際に活用するため、従業員名簿が必要だ。塚本さんは、平塚時代から工夫を重ねて、個人別カードと50音順名簿をつくっていた。そのため、残務整理にあたった総務部の部下に保存を頼んでおいたのだが、残務整理が終わって引渡を求めると、うっかり焼却したと返答された。ところが、ウソが発覚する。32年に起きた旅役者が船岡の小学校庭で他殺体で見つかった事件で、町内に住むこの元部下が塚本さんに刑事を案内してやって来た。火薬廠時代にも多くの芸能人が慰安に訪れたことから、被害者も顔を出したのではないかということで尋ねて来たのだが、元部下が引き揚げた後で刑事が元部下宅で従業員名簿を見せてもらったことを話した。塚本さんは直ちに元部下を訪ね名簿の引渡しを求め、何とか借り出して4か月がかりで写した。数年前に、大泉さん(前出)は、火薬廠勤務時代の友人の遺族から、故人の遺志として山ほどの書類を託された。なんとその中には、塚本さんが苦労してつくった名簿類が含まれていた。その後2つの原本は厚生省援護局に渡り、厚生年金を戦前の分まで受給する際の証明資料として活用された。(次回その3に続きます。)
2011.10.14
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近代日本を牽引した重化学工業や軍需産業の厚みの少ない宮城県だが、船岡は違った。何といっても東洋一の火薬工場を抱えていた。巨大軍需施設の迎えた戦後と新しい産業の息吹など、船岡の昭和の歴史を記したい。(3回に分けています。)■関連する記事シリーズ船岡と海軍火薬廠の歴史(その2)(2011年10月14日)船岡と海軍火薬廠の歴史(その3)(2011年10月16日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)1 建設の決定昭和7年の上海事変のころから海軍内部で平塚の火薬廠以外に火薬工場を新設する話が出た。角田出身の元海軍中将保科善四郎さん(94)(終戦間際には軍務局長としてポツダム宣言受諾御前会議にも列席。戦後代議士4期。日本国防協会会長として軍需産業界のロビイスト活動を続ける。)は、当時軍務局課長の立場だったことから実家に近い船岡の丘陵地を推した。上司の軍務局長の主張する大分県なども候補に検討されたが、水の確保が容易で丘陵群が隠れ蓑になること、また冷水害に苦しむ農村の働き口という配慮もあり、12年秋に船岡に決定。柴田郡船岡村と伊具郡北郷村(現角田市)の丘陵595haに昭和14年8月海軍火薬本廠船岡支廠として開庁し、爆薬製造を始める。施設を拡充し本格的な生産体制が整った16年4月、第一海軍火薬廠と改名され敗戦まで操業した。東洋最大規模の火薬工場として戦争末期には毎日1万人近くが働き、明治以降さびれた城下町だった船岡村周辺は仙南で最も活気があるといわれた。2 軟弱地盤船岡海軍火薬廠の活動状況を示す公的記録は処分されたため残っていない。柴田町の塚本寿雄さん(84)は船岡工場の製造部長、海軍大佐で終戦を迎えたが、当時について細かく記録しておられた。船岡に開設が本決まりになったのが12年12月。翌年正月から地元と相場の5割高で水田や山地の用地取得交渉を始める。14年8月開廠すると、軟弱地盤に悩まされた。陸自船岡駐屯地の正門を入ると左手に渡河訓練場大池があり、20mほど離れた古い渡河器材倉庫の建物が、コンクリートの土台ごと池の方に傾いているのが見えるが、これは火薬廠時代の建物(従業員の更衣洗身場)。正門は火薬廠当時は大沼門と呼ばれたように、かつて沼地だった。明治の干拓事業で水田に変わったが、大沼の外、赤沼、内沼、鍋沼、小金沢沼などもかつて存在し、火薬廠が進出した頃でも池やヨシ原が敷地内に残っていた。塚本回顧録によると、整地のための土石が一晩で泥に沈む、コンクリート製倉庫が1mも沈む、など軟弱地盤によるトラブルが多かった。塚本さんは、戦後出身の兵庫県姫路郊外に帰るつもりだったが、郷里の田畑は農地解放で人手に渡り、やむなく建設や危険物解体などの会社を転々としながら家族を養ってきた。元職業軍人に対する異郷の目は温かいものばかりではなく、跡地の米軍接収が解け工場誘致議論がさかんになったとき、塚本さんが危険を解いてまわったにもかかわらず忠告が無視され、進出企業のいくつかは軟弱地盤のトラブルを追体験する羽目になった。また、有害廃液処分のため、白石川を渡り槻木地区を横切り岩沼市街地を抜けて貞山堀をまたぎ二の倉海岸で太平洋に注ぐ延長16kmの排水路(乙排水路)は、完工検査で通水しない。軟弱地盤のため埋設された管が折れたり外れたりしたのだ。工事責任者はノイローゼで自殺、一度も使われないまま、阿武隈川に放流する甲排水路だけでやりくりした。引き込み線は船岡駅からではなく大河原駅から引かれたが、線路敷設後の試運転で機関車は丘の間の切り通しを過ぎて埋め立て地に踏み込んだ途端、ガクンと傾き動かなくなったという。13年秋に工員実習生を募ったとき、地元が初めて建設中の施設は火薬工場と知り、近隣農村からも多数の若者が殺到した。試験の結果400人から50人が選ばれ、舞鶴の爆薬部で半年余りの実習を行い、14年5月に船岡に戻り、8月1日の開庁式を迎えた。3 船岡駅の変遷昭和10年の船岡村は604世帯、3705人が水害常襲地の田を耕す小農村に過ぎなかった。それが開廠1年後の15年には559世帯4745人、16年11月には町に昇格。生産がピークに達した19年には8475人(補正後実数約1万人)と倍増した。火薬廠近くの従業員は徒歩や自転車で通い、他県出身者には官舎や寮が用意されたが、近隣町から列車やバスで通う人たちの足の確保に、廠当局が最も悩まされた。通勤に最も使われた船岡駅は昭和4年地元の請願で設けられ、火薬廠から1km足らずだが、線路の反対側ホームの一方に小駅舎があるだけだった。ただ、開設当時の村長が周囲の反対を押し切って造った駅前の道路だけは幅が8間(15m)もあったが、火薬廠ができて千人を超す人が出退庁時間に集中し、線路に飛び降りて反対側に渡る状態になってしまった。16年春平塚から着任し、総務部で労務も担当した塚本中佐(前出)が仙台鉄道局に出かけ、駅舎やトイレの拡張、ホーム横断地下道の架設を何度も掛け合ったが、地下道の要求には抵抗された。仙台駅にさえ跨線橋しかないというのだ。それでも、事故が起きたら責任を取ってくれとはったりをかけて、結局跨線橋を造ってもらうことで妥協した。4 戦火を免れた工場火薬廠では、御真影や通信設備を移すための防空トンネルを本務事務所脇の杉山に、人力とツルハシで建設していた。また、海軍横須賀鎮守府は、空襲防備のため砲台建設を計画、船岡の上野山、亘理の三門山、角田の四方山を適地とした。上野山と三門山の頂上に口径12cmの高角砲を2門づつ据え付けたが、四方山砲台は整地作業半ばで終戦となった。火災や爆発時の被害抑止体制として、火薬庫や工場の建物は周囲に土塁を築き、周りは植樹による何層もの防火帯で囲んだ。本土空襲は19年6月から再開され、軍事施設や工場はB29の猛爆下にさらされた。20年3月10日の東京大空襲の夜は仙南地方上空にもB29が飛来、不忘山腹に3機が激突炎上した。20年秋には本土上陸も計画されていたというから、その前に都市や軍事施設は徹底的に破壊するつもりだっただろう。東洋一の船岡工場が無傷で生き残れたのは、KOパンチを浴びる寸前の命拾いだった可能性が濃厚だ。仙台大空襲のあった7月10日未明、海岸線を北上する敵機大編隊が通過し終えると思えたとき、突然沈黙していた三門山の砲台が火を噴いた。群れの中の一機が抜け出してきて爆弾を投下、やや仙台よりの民家が炎上したという。地元の人は、なんて余計なことをするんだ、といって顔を見合わせたという。(次回(その2)に続きます。)
2011.10.13
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寛永16年(1639)鎖国令を発した三代家光は、西国諸大名に命じて外国船の見張所を設置させた。7年後の正保3年にはこれを拡大して全国諸大名の領内に外国船見張りの番所(ばんどころ)を置かせ、合わせて海岸防備を命じた。仙台藩は二代忠宗の時で、同年、北は気仙郡唐丹から南は宇多郡今神浜まで全長50里(200キロ)の海岸に5か所の黒船監視所を新設するとともに、各番所に近い重臣の采地から軍勢をくり出し防備につくよう有事即応の態勢を完了した。従来の国境を監視する境目番所や、北上川の上下船舶を監視する川番所などに対しこれを新御番所と称したが、後に目的をはっきりさせるため唐船(とうせん)番所と称した。その5か所とは、気仙郡八ヶ森唐船番所(三陸町綾里字石浜)本吉郡泊浜唐船番所(歌津町泊崎)牡鹿郡鮎川唐船番所(牡鹿町鮎川)桃生郡大浜唐船番所(鳴瀬町宮戸)亘理郡磯浜唐船番所(山元町磯浜)5か所とも海岸段丘または岬角の最高所に方3メートルほどの土壇を築き監視所とし、そのふもとに方2間(約3.6メートル)の建物があって見張り要員の詰所とした。この監視所のあった場所を番ヶ森、ご番所山という地名を今に伝えているところが多い。要員は見張りに当たる者5名。これは直参足軽で2人一組となって監視を担当した。監視は士分1名、たいてい米の密輸を取り締まる脱穀改め役人の兼務で、その下に組士1名がいた。監視員は5日交代で中には1か月交代の所もあった。食事は所在村方の請け負いである。見張所には遠眼鏡を備え付けているところもあり、幕末には大砲を備えたところもあった。桃生郡大浜番所は宮戸島の嵯峨渓海岸にのぞむ萱野崎の最高所にあって標高76.60メートル、晴れた日には仙台城本丸からも望見しうるほど仙台城下に至近の場所であるだけに、遠眼鏡を備え付けてあった。代官、備頭(そなえがしら)への黒船発見の連絡通報は、昼間は発煙信号、夜間は火光信号とし、早船、早馬で急報する一方、村の半鐘、寺の梵鐘、太鼓をもてリレーすることに定められていた。かくして唐船番所が設けられてからほぼ1世紀近く、93年後の元文4年(1739)5月23日、まぎれもない三隻の黒船が三陸沖を南下するのが目撃され、一隻はボートを降ろして鮎川対岸の網地島に上陸して大騒ぎとなった。ロシアのベーリング探検隊のスペンベヤー司令官の率いるルチアナ号以下三隻であった。五代吉村の時で、臨検に行った小積浜の藩の役人2人はスペンベヤー司令官室で、「何やら油の如き焼酎のにおいこれある」ブランデーの馳走になり腰が抜けた。それ以外明治元年に至る222年の間見張りの足軽達は毎日青い海とにらめっこするだけだった。明治2年1月唐船番所は関所とともに全国すべて停廃となった。それから幾日もたたない1月13日、桃生郡大浜番所の役人で30歳になる大坂民記は番ヶ森の絶壁から嵯峨渓の海に身を投げて死んだ。大浜の番所はこのような悲劇をもって終止符を打った。墓は大浜海岸の松林にあって、遠閣要道清信士と刻まれている。宮城県内4か所の番所跡には最近各記念碑が建てられた。■三原良吉『仙臺郷土史夜話』宝文堂、1971年
2011.10.07
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前谷地の駅から北の方に2キロばかり平野を隔てて和淵山が横たわる。平凡な一山丘だが山上の展望はこれはとおどろくほどすばらしい。標高は173.9メートルで、旭山の173.8メートルと僅差で、位置も旭山より北に寄っているのに、奥羽山脈と太平洋に対する展望は和淵山に軍配があがりそうに思われる。特に斜め右に松島湾が視界に入り、松島最大の宮戸島の全体が盆石のように眺められるのは和淵山だけではないだろうか。太古、経津主(ふつぬし)命が常陸浦から八重の潮路を分けて和淵山のふもと舩沢に舟をつないで、山上の樹零峠に宮柱太しく建てて鎮座したといい伝え、これが延喜式内社の香取伊豆乃御子神社であった。延喜式神名帳にこれを牡鹿十座の一としてあるのは、宝亀2年、桃生郡の建置以前、和淵は牡鹿郡だったからであろう。これを中世、葛西氏の五代清宗が現在和淵の町の北の山上に移したという。元来ここは大同2年に坂上田村麻呂が京都鞍馬から分霊勧請した貴舩明神の社地であった。祭神は晴雨を司る竜神クラオカの神で河上神とも称し、京都では加茂川の上流にまつられているように川の上流に祀る習わしであるから、ここは北上川の支流、迫川と江合川が集まるところだけに格好の位置であった。むかしから12月晦日、塩カツオと鮭のハラコを神前に供え、3月の18日28日の両日氏子が社家に集会してこの供え物を相饗し、4月と6月の満月の日を祭礼としていた。迫、江合の二川は社の下で対岸の神取山の崖下に突き当たって渦を巻いていたので、これを明神巻と称し、水が輪を描いていたところから、むかしは輪淵といったという。和淵はその門前町で、東浜街道の宿場町でもあり、家格召出1600石の武田氏の采地であった。西隣の前谷地は家格一族570石の西大條氏の采地で、もと和淵山のふもと山根に屋敷を構え武田氏の廟所耕徳院もここにある。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.05
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仙台から日本橋まで江戸道中69次の振り出しの宿場長町が出来たのは、慶長17年(1612)12月とある(石母田文書)。仙台開府から10年後のことで城下町割りに当たった金森隠岐が政宗公の命令で計画し、国老石田豊前の監督で完成した。翌月の慶長18年1月には中田と増田の宿場が同時に出来た。これは奈良時代から名取平野の山際を通過する東(あずま)街道のバイパスであったが、もともと竹駒神社の門前聚落岩沼以北に道が開けていたと見え、慶長5年7月、関ヶ原の前哨戦に政宗公が白石城作戦のとき、北目城を前進基地として21日主力を率いて同夜岩沼に宿営しているから、大縦隊が通過するほどの道路はあったと思う。城下の人馬継ぎ立て所の北目町から長町へ1里4丁、長町と中田間は34丁とある。宿場は前田村のうちで、中田は宿場名であったが、後に前田と中田は別々の字名となり、北から、長町、中田、前田、増田の道順となった。これを昔の人は、長町と前田の真ん中だから中田、中田の前田から前田、その先の方に田を増やしたから増田(よみはマシダが正しい)、その余りが上余田、下余田だ、などと説明した。寛永2年忠宗が初めて国入りの時、政宗公の命令で重臣一同は中田まで出迎えたが、以後歴代藩主が江戸参勤から帰国の際には中田に出迎える慣例となった。仙台藩主江戸参勤の道中儀衛は3500人、三百諸侯第一の豪勢さであった。仙台城出立は七ツ立ち(午前4時)で、先頭の一隊が中田の宿場に着到すると、命令がなくとも行列は先頭から次々に停止し、沿道の民家に入って朝飯をしたためる。この時、藩主の位置は長町川(広瀬川)左岸、街道に面する赤壁楼と称する茶屋で、藩主以下一門国老の面々はここで朝飯をとる。沿道の家はみな三角形のツマを表街路に向け、その下に小前(こまえ)と称するひさしをかけて柱で支えた。土間を吹き放しとして、小前下ともコマヤとも言った。土間の正面はレンジ格子、右に並んで表がシトミ戸、内が障子の戸の口を開き座敷へ通る。ここから奥へ中間、台所、勝手、納屋、閑所とつづき、座敷が街道に面するところから、お供の侍、足軽はわらじをぬげば、すぐ座敷に上がれるようになっていた。昔は仙台市中の商家も店ガマチのそとは、このように吹き放し土間の小前下になっていたもので、さしずめアーケードの元祖みたいなものであるが、中田の表通りにはこういう民家がまだまれに残っていて、見るからに昔のゆったりしたおおようさをしのばせている。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.04
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名取駅長オススメの小さな旅行として(パンフ)、全国に2つしかないと言われる蟹を祀る寺である「蟹王山智福院」を組み込んだプランがある。秋の味覚の松茸ごはんや、実方中将の墓、熊野三社めぐりと熊野神社の神楽鑑賞、できたての笹かま、などなど歴史と味わいの旅でなかなか興味深い。いい企画です。10月9日の日曜日で、私は仕事で行けないだろうが、とりあえずパンフで楽しもう。ところで、「蟹を祀る寺」はたしかに珍しい。プランでは法話や昔話も聞けるそうだから、参加するのが一番だが、とりあえずネットでみてみると蟹の恩返しの伝説のようだ。
2011.10.03
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前回に続き、中世の館について。大和町の八谷(はちや)館と御所(ごしょ)館跡。下記出典に、宮城県内中世の城の代表例として紹介されている。写真が出ている城跡は八谷館で、文章で紹介されているのが、御所館だ。■関連する過去の記事 東北の「館」を考える(2011年9月25日)■佐々久編『郷土史事典 宮城県』昌平社、1977年から(「県内1000カ所に残るつわものどもの夢の跡」の項)御所館の説明だ。------------御所館は大和町の北東部にあり、仙台平野及び松島方面から大崎耕土に通じる交通の重要な地点に位置している。館は谷をとり囲む標高60メートルの小丘陵の尾根を利用した東西300南北400メートルほどの馬蹄形を成す大規模な山城的な城館である。館の内部には尾根を削って造った多数の郭があり、それぞれの郭は急峻な崖、堀切(空堀)、土塁で区画されている。それらの郭は通路や土橋によって連絡され、その入り口には門がある。発掘調査された面積は館跡全体の3分の1に過ぎないが、多数の掘立柱建物跡群、土倉(倉庫)、井戸、通路、土橋、門、空堀、土塁などが検出されるとともに、時に応じて改築された状況もよくわかり、迫力のある中世城館の姿を出現させた。また、中国製青磁や白磁をふくむ多数の陶磁器をはじめ、硯、古銭、石臼、青銅製小仏塔、鏡、漆塗椀、刀、釘など当時の生活をなまなましく伝える各種の遺物が発見された。この遺物の年代によって、御所館跡の年代も室町時代中・後期と推定することもできた。------------さて、この文章の御所館、そして写真の八谷館とは、どこだろうか。大和町のホームページに解説がある。「八谷館跡は、室町時代後期の豪族館跡です、東北自動車道建設に際して発掘調査が行われ土塁や空堀、建物跡が多数発見されました。現在では、館跡の南部が公園に姿をかえ、町民の憩いの場として親しまれています。七ツ森眺望に絶好の場所でもあります。」そして、「東日本大震災の影響により、現在、公園には立ち入ることができません。」とのことだ。
2011.09.30
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初めて訪れたのは一昨年の4月27日(日記)。そのあと、同年11月に登米のはっと屋台村に行った(日記)帰りにも寄りました。今年になって震災前の2月にも仕事の際に立ち寄った。なんだかすっかり気に入ってしまいました。震災の後では2度目、通算で5度目になるのですが、今日もお昼を頂きました。おだずま研究所の特別第二秘書(二番目の娘)は、これで3度目の訪問です。第二秘書はいつも座敷の一番奥のテーブルになります。今回は通常秘書(家内)も帯同。仕事半分で、半分は家族にも被災地を見てもらおうと同行してもらった。これまで被災状況の画像など出すつもりにもならなかったが、今回はあえて出してみます。南三陸町の防災対策庁舎と石巻日和山からの画像。考えてみれば連休の中日だ。県外ナンバーがやたらと多かった。死ぬも地獄、残るも地獄の現場の方々から見れば、私が何を思おうとどんな貢献ができようとも、その方々の立場に成り替わることができない限り、観光感覚の外来者といささかの違いもないだろう。ところで、予測されたことだが、被災地の惨状の劇的報道や、救助に携わる者の英雄譚、一途に復興をめざす被災者の賞賛などの型にはまった感傷的報道に自ら飽きてきた最近のマスコミは、いよいよ次なる感情のはけ口を求めて、大衆迎合のあら探しに走ってきた。標的は、行政や管理階級である。私はもとより、野にあるマスコミの体制批判としての意義は大いに認め、多少は粗雑であっても事態の透明化と多様な民意の吸い上げのために、秩序や深慮などとは無縁の多様なメディアの存在と活動を積極的に容認する立場だ。しかし、被災地やそれを眺める一般国民の感情(それもメディアが決めつける型にはまった感情)だけを崇高に位置づけて、それから逸脱する事象をみつけては、ここぞとばかりに体制批判にせっせと精力を注ぐ。その意義を否定はしないが、想定を越えた事態に(マスコミには想定外という言葉さえ許さない風潮もあるが、とても一般国民の常識とは思えない)、そもそも人はどれだけ万全で完全なのだろうか。実際に、生きた方が地獄だった、という苦難の声を私も度々聴いた。今一番被災地に必要なことは何だろうか。誰もが先の見えない状態にある。片時の感情発露より、できるならば、見えない未来をどう形作るかこそ、示唆するなり批判するなりして欲しい。メディアの質も問われてくるだろう。話を戻そう。南三陸のあの防災庁舎。ここまで波が来たのだ。何もかも流していった。11歳の我が子は何を思うのだろうか。お仕着せの説明よりも、目の当たりにした記憶が、後々に何かを呼び起こすなら、それで良い。とにかく、無心で美味しいものを食べる子どもの姿。これにまさる安心はない。ちょっとした何かの違いで、生き残る方の道に進むこととなった私たち。今を生きることの有り難さを思わずにいられない。
2011.09.18
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岩出山から真坂を経て岩ヶ崎に至る道は、古くは松山道(まつやまみち)、江戸時代からは上街道(かみかいどう)として知られ、さらに金成を通って一関に結んでいた。奥州街道の脇街道として馴染みが薄いが、古代東北経営の要路として奥州藤原氏が利用した道が、はしなくも源頼朝の奥州征伐の通る道となり、下っては芭蕉の歩いた道ともなった。この松山道・上街道は、古代律令国家の東北経営に当たって、8世紀前半につくられた多賀城を基点に北に延びるルートであった。9世紀初頭にかけて胆沢城・志波城に前線基地が設営され、多賀城と結ぶ道が必要となった。その道が奥羽山脈東沿いを通る松山道であった。松山とは道の両側に松並木が数多く存在したことから平安時代に呼称されたようで、一方の上街道は平野を通る道に対し山沿いを通ることから呼ばれたと思われる。■吉岡一男『宮城の鉄道物語-宮城の街道物語-』宝文堂、1987年■関連する過去の記事(松山街道) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日)■関連する過去の記事(東北の街道通史) 東北の道 概説(その4・完 近世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)
2011.09.16
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東北本線の福島と仙台の間は、当初は阿武隈川沿いに走る計画であったが、地元民の反対にあい、白石を通る路線に変更された。■吉岡一男『宮城の鉄道物語-宮城の街道物語-』宝文堂、1987年■関連する過去の記事 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2011.09.15
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サイコロと言えば、今では6つの目を持つ立方体が当たり前だと思う。しかし、これは比較的最近の話で、徐々に大きな数字を使うようになって立方体になったのだそうだ。サイコロの原型は表の裏だけの2面しかなかったという。現在でも中部アフリカやアメリカインディアンには2面サイコロが残っている。また、古代エジプトでは、動物の骨でできた4面体のサイコロがあった。多賀城跡では、4面の木製サイコロが見つかっており、700年代に使われていたと推定されている。■知的生活追跡班編『数字のウソにダマされない本』青春出版社、2001年 から
2011.09.14
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随分と小さい頃のことだが、祖父に連れられて東京から帰る途中、宮城県内松島あたりの仙石線で電車脱線事故があり、併走する東北本線列車の窓からその現場を目にした記憶がある。水色の電車が大きく線路から逸脱して、回りには救出のためなのか人が多数集まっている、天気は良くて、背景は海、というような構図で覚えている。ただ、私が実際に目にしたのか、それとも帰宅してからニュースで事故を知り、その映像が頭に残って自分が直接見たものと誤信してしまったのか、よくわからない。電車の水色についても、後になってから記憶の中で仙石線の定番のカラーに置き換えられたのかも知れない。いずれにしても、子どもながらに衝撃だったことは間違いない。あれは、どんな事故だったのだろうか。『仙台鉄道管理局60年史』(昭和54年5月1日)で見ると、昭和47年の項に出ていた。------------8月18日、仙石線東塩釜-陸前浜田間の新田踏切(第3種)で警報無視のダンプカーが下り電車と衝突、電車の前2両が脱線、うち1両は線路わきの沼に転落、電車運転手殉職、ダンプ運転士死亡、乗客65名が負傷するという重大踏切事故が発生した。------------写真が添えられている。1両目と2両目なのだろうが、2両の連結部が大きくレール上に「人」の字のように浮き上がり、おそらく一両目は頭を沼に突っ込んでいるのだろう。白黒なので車体の色はわからない。東塩釜駅と陸前浜田駅の間という。新田踏切とは、どこか。住宅地図を見る。浜田駅のすぐ南に踏切があるが、ダンプは通らないと思う。塩竈市との境界付近にも小さい踏切があるようだ。塩竈市域に入ると(越の浦一丁目)、やや大きな道路が仙石線と交わるようだ。もっとも、昔のことなので道路も付け変わったかも知れない。■関連する過去の記事 浜田駅付近の立体交差(10年9月28日)
2011.09.08
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東北本線の仙台以南は奥羽街道(国道4号)沿いに敷設されたが、明治の建設期における白石・大河原ルートと角田・丸森ルートの関係は一応把握しておかねばなるまい。そして、角田側は昭和期に巻き返しを図ろうとしたことも。角田・丸森側の事情も調べたいが、まず今回は『白石市史』(第1巻、昭和54年)から。------------■明治期の事情昭和15年、上野方面から鉄道が建設開通されると、やがてその延長が宮城県を南から北進することが明らかになり、各地に反対運動が起こった話は周知の通りである。(略)養蚕のさかんな角田、伊具郡では、ことに反対運動が激しかった。白石刈田地方も例外ではなかったが、東京の第一銀行頭取渋沢栄一が、当時横浜に事務所を開いていた白石第一の豪商米竹清右衛門に鉄道の有利性を説得する一幕などもあって、鉄道敷地の提供も約束させ、福島-仙台間の鉄道は白石を通過することに決定を見たのである。■昭和期の事情昭和21年12月4日、白石町綜合計画審議会は、郡山仙台間の東北本線を複線電化すべきであると答申している。(略)25年6月、北海道東北一道七県知事会が開かれ、議題として初めて北海道東北地方の開発用鉄道の建設と重要幹線の複線電化の早期実現を上程し、これこそ東北北海道開発振興の必須条件であることを強調し、議決した。(略)昭和32年5月、突如として予定線である丸森線の着工の見通しが確定したが、白石地区住民にはこのニュースは晴天の霹靂ともいうべきであった。麻生市長は急遽東北本線沿いの市町村に呼びかけ、東北本線幹線絶対確保運動を展開した。(略)そもそも丸森線建設計画は既に明治末期に始まっている。(略)関係当局の大勢はこの路線は運輸技術的、距離的などの観点から白石を通る現在の本線より有利であるとの判定に傾き、その建設やさらに幹線化が地道に策定されていた。だが、丸森線の幹線化は、瀬上、槻木間の東北本線の支線化を意味するもので、白石には死活問題であり重大な関心を持たざるを得なかった。ちなみに、東北本線福島-仙台幹線化の一大ネックは白石-藤田間の勾配1000分の25の箇所であった。そのために、白石駅に転車台、給水塔の設備を特にしてあった。しかし、この幹線化確保は地元民の強い熱意と、愛知揆一代議士、国鉄総裁顧問・白石市顧問木村逸郎その他の関係者の努力で(略)福島-仙台間電化の実現を見た。34年10月下旬、北白川-岩沼の電化工事が始まり、36年2月14日福島-仙台間の電化工事が完成した。(略)7月5日複線の起工祝賀会が開催された。(略)41年7月20日、複線拡張のため城山第二トンネルを掘削した。複線工事は順調に進み、昭和41年10月1日、福島-岩沼間の複線電化は実現し、ここに東北の近代化に力強い歩みを踏み出したのである。------------なお、白石ルート選定に際して大河原町の努力も忘れてはならないだろう。記事:大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) を参照のこと。■関連する過去の記事(東北本線ルート関係) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2011.09.05
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面白い本を手にした。ハゲに癌が少ない、男がオタフクになると子種がなくなる、味の素は頭を良くする、などなど。■宮城県医師会編『医療の言い伝え1,000題-医学迷信を考え直す-』宝文堂、1979年宮城県地域婦人団体連絡協議会が共賛とされている。かねてから宮婦連の健康教育に協力してきたが、宮婦連の会員が多数集めた県内の民間療法について、その誤りを医学の見地から正し、悪弊を一掃しようとして企画したのだという。しかし、医師会の医師達が解説にあたるうちに、迷信が多いと予想したが、古人の尊い生活の知恵が現代に生きていることに感銘を覚えた部分が少なくなく、近代医学と民間医療の接点が極めて多いことが認識された。医学的に説明できないものでも、例えば行儀を戒めたり、妊婦の体を気遣ったり、間違った子育てを正すものなど、医学を越えた幅広い生活の知恵として伝承されたものも多い。また、医学伝承に本格的な医学的解説を施したものは皆無で、企画を聞き及んだ東京の数社から出版の申し入れがあったが、県医師会会長(松川金七氏)の意向で郷土出版となった、と記されている。県民の健康を願い、誤れる民間療法を注意し、また古人の知恵に医学的解説を行う。核家族が増え、食べ物や医薬品も多様化した昭和50年代に、このような本が企画出版されたことが、とても興味深い。構成も、診療科(体の部位)別になっており、一家に一冊備えていて役に立つだろう。また、ふるさとの言い伝えを知る読み物としても楽しい。
2011.09.04
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西村京太郎『東北新幹線殺人事件』(初出1982年、文庫版は光文社1983年)によると、白石蔵王駅は政治駅とされ、その決定に至る経緯が事件のモチーフにもなっている。開業時に在来線駅と併設しない唯一の駅だった白石蔵王駅は、東海道新幹線の岐阜羽島と同様に、田んぼの中に出来た政治駅だ。新幹線建設に伴い土地買占め騒動が起きた。最初は当然、在来線の白石駅に並べて作るものと考えられ、白石駅周辺の土地が暴騰した。しかし、いざとなると新幹線は白石駅から800メートルも離れたルートとなってしまった。だが、驚いたことに、東京の大資本某興業は既にその線路に沿って土地を買い占めていた。情報が某興業に流れていたのだ。さらに、その後国鉄が、仙台と福島の間には駅は作らないと発表して線路周辺の土地はむしろ値下がりしてしまう。同様にルート情報を察知して土地を買い漁った後に落胆していた者たちから、某興業は安く買いたたいて完全に買い占めたとたんに、今度は、突然駅ができることになった。政治家を動かした某興業と国鉄に、すっかり出し抜かれたのだった。作品の中ではこのように描き、東京の土地資本が政治家を動かして無理矢理作らせた駅だとしている。実際の感覚として、白石に駅を設けるのならどうして在来駅併設にしなかったのか、不思議に思う。白石駅を避ける何らかの理由があったとしても、それならば東北本線と交差する場所に新駅を設けることも可能だったろう。まちづくりの観点からしても、是非とも在来線駅と結合させるべきだったと思うのだが、どうだろうか。■関連する過去の記事 鉄道最長の直線区間は宮城県(2011年8月28日)
2011.09.03
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日本の鉄道で最も長い直線は、東北新幹線の白石蔵王-仙台間にある約25kmの区間だそうだ。宮城県が日本一とは、知らなかった。■梅原淳『新幹線 徹底追求 謎と不思議』東京堂出版、2008年 から直線としては室蘭線の白老-沼ノ端間27.8kmが有名だが、実際には区間内に駅が5か所あり、構内で分岐のための多少の曲線が生じる。従って、線路が一直線に伸びているのは、宮城県の東北新幹線が最長なのだということ。なお、東北新幹線は東海道などと比較して高架橋の区間が多い。東京-八戸間593.05kmのうち、高架橋は308.238kmである。明かり区間(トンネルでも地下でもない区間)407.416kmのうちの実に76%が高架橋。確かに、田園地帯を高架橋で直線に突き進むのが東北新幹線のイメージだ。これは、築堤や切取り工法より用地費が安いから。高架橋は築堤より工事費で1.5倍かかるが、用地費は半分以下になる。これは、高架橋に必要な幅が管理用通路を含めて11.6mに対して、築堤式だと、斜面や28.52mの土地が必要になるからである。この他にも、自動車道路の立体交差の便宜(いちいち橋で越えるより一気に高架にするのが容易だし安価)や、スラブ軌道には沈下しにくいコンクリート路盤が適していることなどが理由である。高架式にする考えは山陽新幹線建設の際に生み出されたのだが、山陽新幹線延長562.27kmのうち、高架橋は289.744km(52%)と実は長くない。トンネルが280.492km(50%)もあり、また筑豊地区など地盤が弱く高架橋が設置できなかったからである。東北新幹線は、トンネル延長が185.63kmと山陽より短く、しかも地盤が比較的良い。
2011.08.28
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宮城県北の不自然な東北本線のルートについて。前回(宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日))は、小牛田や田尻など、敷設が実現した地域の町史を読んでみた。今回は、外された地域の公的文献を見てみよう。------------涌谷町 涌谷町史下巻(昭和43)から 日本鉄道株式会社は(中略)、遠田郡では北浦村の鎌田常之助(1万円)、馬場谷地村砂金三十郎(5千円)、横山萬五郎(5千円)の3人が名を連ねた。(砂金三十郎は涌谷伊達家の御用商人の家の次男、質屋小間物度量衡火薬商を営業。横山萬五郎は江合川の河川交通盛んな頃にひたら船の船頭、維新後、三井組石巻出張所の東京引き上げに際し手形の残処理で産を成したという。〔この部分おだずまジャーナル要約〕) (中略)本線は鹿島台から涌谷を通る予定であった。ところが陸蒸気が走るとその火の粉で火災になるとか、振動で線路近くの田圃に植えた苗は活着しないとかの流言が飛んで、涌谷駅の開設を拒み、鉄道を小牛田に追いやった。小牛田でも停車場を街には作らせず、南端の田圃中の元停車場の地に建てたのであった。いわゆる鉄道反対説が堂々と罷り通って涌谷は本線筋からはずれたのであると伝える。これは各地でよく語られる話であるが、真偽は不明であり、もし事実とすれば誠に遺憾事で、爾後の涌谷町の発展に大きな影響を与えたといえる。 鉄道の開通によって陸運は飛躍的な発展をしていった。従来振るわなかった塩竈の市況はとみに活発化し、小牛田新市街が生まれていった。三本木町 三本木町史上巻(昭和41年)から 東北本線の通過している宮城県内の地点を見るに、仙台以南の地と一関以北の地とは、大体国道すなわち奥州街道に沿うているが、仙台から北方一関に至るまでの間は、鉄道は国道の東方を走っている。従って、かつて奥州街道に沿うていた七北田、富谷、吉岡、三本木、古川、高清水、築館、金成等の旧宿駅であった町々は、遠く鉄道から離れ、一方比較的人口の疎らな地方を縦走している。 これは色々と敷設に当たっての理由もあったことであろうが、一般の鉄道敷設条件の例外とも見られる。その理由として考えられることは、鉄道を敷設する地方は可成り平地であるということである。従って丘陵地帯である七北田、三本木とか築館、金成などの地を避けたものと見られる。また、鉄道の通過することによって従来からの徒歩の往来客が減少するとか、桑の栽培とか稲作に被害などの関係から地元民の要望、反対もあったので、現在の場所を通過することになったとも言われている。 この鉄道の便から遠ざかった三本木は、汽車に乗るためには当時小牛田とか松島の駅まで出ねばならなかったのである。かくて旧道に沿った各宿場町は、衰微の一途を辿った。特に川の運輸の便を失った三本木などは、その代表的なものであった。古川市 古川市史第4巻(平成19年)から なぜ、東北線は古川を通らなかったのか。東北線から外れた理由は何だったのだろうか。地元民の反対の声が強かったためとも言われるが定かではない。(中略)各地の鉄道反対の声(中略)の多くは、鉄道の便利であることは認めつつも、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。 東北線のルート決定に当たっては、明治13年(1880年)12月開拓使傭ジョセフ・クロフォードが松本荘一郎とともに東京-青森間を測量したが、それによると、一関-仙台間は現在の路線と同じである。このことから、古川は当初から外れていたとも推定されるが、これより古い図面には古川を通る路線が書き込まれたものもあったとされ、詳細は不明である。 ルート決定の基準として、(1)東京と野蒜(後に塩竈)、八戸の各港を結び、更には青森港に達する、(2)街道沿いの人口の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ、(3)急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける、の3点があった。路線が古川などの国道から離れ、東側を通ることになったのは、やはり国道筋の反対と仙台-塩竈間を本線としたためかも知れない。(この後、本線との連結が課題となる。明治27年石巻鉄道株式会社の設立申請があり、石巻-小牛田-古川-鍛冶屋沢(川渡)の開通をめざした。明治30年に測量、31年に免許下付もされたが、結局実現できず。後の陸羽東線まで待つことに。〔この部分おだずまジャーナル要約〕)------------以上がルートから外れた地域の「正史」であり、現代から振り返って、やはり残念だったという色がどうしても濃い。涌谷が原案ではルートだったのに反対論で変更した、というのは、真相ではなく、やっぱり強がりから来る言い訳なのだろう。東北線が走った後には各地で横断線の熱意が上がっていることから、よく理由とされる鉄道反対論も、当時にどれだけ人々が信じていたのかと考えると、相当疑わしいと思う。ただ、実際に鉄道が走る前の段階では、見たこともない黒船に疑心暗鬼だったろうことは、考えられる。ある程度は、反対論があって、多少なりともルート選定に影響したのかも知れない。もし古川が商工界挙って出資も増強し政治運動などすれば小牛田ルートから変更されたかも知れぬ、という消極的な意味での影響だが。それにしても、古川、築館が東北本線で結ばれている県土を想像してみる。例えば、泉区や富谷の大型団地も今ほどでなかったかも知れない、などと。■関連する過去の記事(東北本線ルートなど) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)■関連する過去の記事(県北部の駅) 我らが準秘境駅 梅ヶ沢駅(2011年8月14日) 小牛田駅前 20時(08年5月10日) エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)
2011.08.24
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奥州街道筋(吉岡-古川-築館)でもないし、野蒜港の関係で塩竈駅まで開業したことで、塩竈や松島から北上するのなら、涌谷、佐沼、若柳などの町を通ることも考えられただろう。それにしても、小牛田-田尻-瀬峰-石越-花泉というのは、かなり不自然なルートに思える。田尻町史によると以下の通り記されている。------------東北鉄道株式会社は仙北の路線については、当初、吉岡、古川、築館、一関に通ずる奥羽街道沿いに計画したが、のちに右回して小牛田、瀬峰地方に変更したと言われる。理由は、三本木、金成地域が難工事であること、逆に海岸部に遊行地松島や漁港があり海運の拠点でもある塩竈などがあるためだった。(中略)田尻、沼辺両村は概して鉄道建設には正しい理解や関心は薄かったと思われる。これは地方商業資本の未成熟から来るもので、関心は別の側面から強められた〔おだずまジャーナル注:別の側面とは、農作物に悪い、旅館や商店が寂れるなどの鉄道害悪論〕。(中略)会社はできるだけ金のかからぬひき方〔おだずま注:ルートのひき方〕をねらっていた。そのため、山地の少ない田尻地方を選び、山地の多い古川を避けた。また、野蒜、塩竈など海岸地方の利便も考慮した。当時小牛田村長だった鎌田整一郎や森亮三郎は、住民の反対理由は杞憂に過ぎないことを力説し、遂に現在の路線を迎え入れることにしたといわれる。〔おだずま注:この後の部分に、見堀部落は鉄道で分断され、架橋が実現するまでの50年間は、不便で事故の原因にもなったことが記されている。〕------------次は、小牛田町史から該当部分を記す。------------ 仙北の路線については、吉岡、古川、築館を通って一関に達する奥州街道旧宿駅沿いとするのが常識であったのにかかわらず、右回して小牛田、瀬峰地方に敷設されることとなった。この理由には、奥州街道沿いには三本木、金成付近にけわしい山坂があり難工事が予想されたこと、逆に海岸沿いには遊行地松島や、漁港であり海運の拠点でもある塩竈港が隣接しているといった条件があったといわれる。 当時は、鉄道沿線住民の賛否両論が相当はげしく、西は吉岡、古川、東は涌谷あたりの反対論が広がった結果、小牛田住民の動揺も強かったともいわれる。反対理由は(1)線路脇の作物は振動で根付きが悪くなる、(2)煤煙のため草木が枯れる、(3)川魚は逃げてしまう、(4)旅館や商店は客を他に奪われる、というものであった。これに対し当時の村長鎌田整一郎は、「安産の神様山神社があるのだから、むしろ他所他県からの参詣客が多くなる」といって反対論をおさえたという。 しかし(略)100株以上の株券応募者の分布をみると、志田郡や古川その他奥州街道沿いの応募者が見えないこと、逆に北浦の鎌田氏が200株という大量応募者となっていることからすれば、こうした反対論とは別に会社として早くから右回り路線を予定していたとみるのが妥当のようである。汽車に接したことのない農民が素朴な疑念を持つことは考えられるけれども、むしろその根底には、鉄道敷地として買収される土地に対する不安が強くあったのではないかと思われる。これは会社が買上価格を時価の倍額とし、敷設に使役する労役賃金を倍額にするという条件を出してきていることからも肯けよう。 〔以降要約〕小牛田付近はそれほど難工事ではなかったと思われるが、江合、鳴瀬両川の架橋工事は難渋を極めたらしく犠牲者を出した。本小牛田真證寺に供養碑がある。------------建設工事上の問題で奥州街道が避けられたことと、賛否両論の中で小牛田が熱心だったことがポイントになったと伺える。もし奥州街道ルートが実現したとしたら、塩竈あるいは利府か岩切から、丘陵部を避けて(例えば県道塩釜吉岡線に沿って)西北に進み吉岡に出て古川に北進したのだろう。■関連する過去の記事 我らが準秘境駅 梅ヶ沢駅(2011年8月14日) 小牛田駅前 20時(08年5月10日) エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)■鉄道敷設など 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2011.08.20
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学生の頃に各駅停車の旅で、梅ヶ沢駅でしばらくホームに降り立っていたことがある。車両トラブルだったのか、それとも先に行かせる電車を待っていたのか事情は忘れた。各駅停車の旅で眺める風物はさまざまな連想を呼ぶ。一つ前の瀬峰は、ホームのローマ字駅名がフランス語風だ。スミーヌ。次の梅ヶ沢はドイツ語的。ウンメガザヴァとでも。それはともかく、梅ヶ沢駅のホームは静かだった。瀬峰駅から梅ヶ沢駅に至るあたりは、丘陵部を切り開いて線路が敷かれているため、駅も閑静なのだ。そもそも何故ここに駅があるのだろう。駅間距離も意外と近いが、無理して設けるほどの必然性も感じられない。この梅ヶ沢駅は、一体「どこに」あるのか。鉄道の旅で通過するとしても、車で駅に行こうとすると、いざどこからどう道をたどっていくか思い浮かばない。もとより宮城県北部の東北本線は奥羽街道からはずれて特殊なルートをとっていることもあるが、それでも瀬峰や新田は何とか車で行ける。しかし、梅ヶ沢だけは、どうやって駅に行けるのか、よほど地図を丹念にみないとわからない。そこで、地図をもとに先日ついに訪れた。瀬峰駅前から県道を北上。信号を右折して県道は佐沼方向に向かうが、道はそのまま上り坂となって丘陵部を駆け上り、切り通しとなった東北本線を眼下に跨ごうとする。そのオーバーパスする直前に、普段は気にも留めない細い道に左折して入り込んでみる。舗装はされているが、鬱蒼と繁る木々に囲まれたズバリ山道だ。しばらく北に向かって道を進むと、開墾地のような水田と畑の丘陵に出る。山道なのだが実は、切り通しの東北本線と概ね平行に走っており、それが証拠には1キロほど進むと、道路右側に実にさりげない踏切が登場する。これを渡って(東方向に)道を進むと、新田第二小学校や長沼に出るようだが、いったん道を戻って、ふたたび例の併走山道を北に進む。やや線路とは離れてくるが、丘の上の風情のある辻を右に(東に)折れて線路方向に降りていくと、新生園踏切に出る。実は、さきほどの辻を踏切方向とは逆に(西に)進むと東北新生園に至るようだ。さて、丘の上の辻から新生園踏切に降りていく道も、段々の水田と数軒の農家が見える、実に穏やかな東北の農村風景だ。踏切を渡るとまた山道が続くが、両側に家屋が並び出す。街村の中に駅に降りる取り付け道があり、駅にたどり着くことが出来る。この十字路付近には駅前簡易郵便局などもある。駅には数台の車が停めてある。通勤客のものだろうか。駅からもどって一本道の街村をさらに東に行くと、やっと平坦部に降りて県道に出くわす。これを北に行けば本線をガードでくぐって、築館や新田駅方面に行くことが出来る。なお、私は敢えてなるべく鉄道に近い山道を選んで瀬峰側から入って新田側に抜け出てみたが、もし梅ヶ沢駅へのアクセスを的確に案内するなら、県道佐沼登米線(瀬峰から佐沼に至る)の、上述した東北本線オーバーパス部分を過ぎてしばらく行ってから左折して「駅前集落」に行くルートが良いようだ。■関連する過去の記事 秘境駅ランキングと東北(10年8月22日)
2011.08.14
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宮城県民なら誰もが気にしているこの話題。夜のTBCラジオで今村先生が語っていた。地震の直後は宮城県沖地震に該当とされたが、ちょっと後になってから、宮城県沖とは別だとの説が有力になった。なんでも、金華山の移動の仕方が想定された宮城県沖地震とは逆の方向に動いたとか。しかし、宮城県沖地震のエネルギーは、M9.0の今回の大地震で放出されたという報告がなされている、とコメントしていた。これが現在の見解なのだろう。いずれにしても、予測に絶対はないし、地震や津波への備えは何時になっても必要だろう。
2011.05.30
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夫婦1万組あたりのDV相談件数が最も少ないのが、宮城県の1.4だそうだ。次いで、三重県1.9や新潟県2.1などが続く。最低は佐賀県の15.5で、これをもって、夫婦円満の宮城、DVの佐賀、と評している本があった。(佐藤拓『データ比較「住みにくい県」には理由がある』祥伝社、2009年)データ比較と地域分析を単純に結びつけるのは良くないし、ましてや住みやすさをランク付けすることなどは、慎重を要するべきである。科学ジャーナリストという肩書きのようだが、タイトルのとおりに理由がそれこそ社会科学の観点からしっかり説明されているわけでもない。もっとも、数字そのものは客観的な事実であるだろうから、一応統計を見てみた(内閣府)。平成22年の4月から6月までの相談件数である。青森148岩手336宮城163秋田218山形130福島332佐賀477全国 19,149たしかに宮城は少なめではある。これが傾向的に統計上有意だとすれば、地域性を論じるためには、まずは相談体制の事情(相談しやすさ、他の窓口の状況、電話受付体制など)、また、同一相談者の数え方、などを丹念に調べることが必要だろう。児童虐待、家族間暴力などは、個人主義に反するパターナリズムの原理だろう。そこにある生命や身体の危機を救うべきは、誰しも異論がない。しかし、どこまで行政や社会が介入できるか、あるいはすべきか、難しい問題だ。
2011.05.15
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日本原産の野菜は実は少なく、ミツバ、ウド、セリ、フキぐらい。現在食べている主な野菜は外国から入って明治以降に広まった物ばかりだ。キャベツ、タマネギ、トマトなどがそうだ。漬け物や鍋物に欠かせないハクサイも、英語で chinese cabbage とよばれるように、中国から来たが、栽培が難しいためか普及しなかった。明治8年に3株だけ中国から送られて東京の博物館に展示。うち2株が愛知県試作所に払い下げられた。うまく結球するよう工夫を重ねて、明治18年頃に「愛知ハクサイ」の栽培法を確立する。明治28年頃日清日露で中国に入った仙台師団の将校が、中国ハクサイの種を持ち帰り、宮城県立農学校の沼倉吉兵衛が栽培して、宮城県の結球ハクサイの草分けとなった。ただし、ハクサイは同じ十字科植物のナッパ類と交雑しやすいため、3年も経つと結球が半分くらいになってしまう難点があった。そこで、また新しく中国から種を取り寄せ、今度は仙台の種苗園が松島で栽培、ようやく優秀な種子がとれるようになった。それから急速にハクサイが普及した。大正も終わりに近い頃だ。今では日本でいろんな改良品種のハクサイが作られているが、その主流は松島で初めに栽培された中国の芝罘(チーフー)の種で育成された「チーフー系」だという。■藤岡幹恭編著『農業の雑学事典』日本実業出版社、1990年 から
2011.05.01
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仙台市の西山中学校は、なぜ東仙台方面なのに西山と称するのかと疑問に思ったことがある。燕沢字西山という昔の地名を使ったのだそうだ。昭和60年代の比較的新しい学校で、学校の所在地も東仙台中学校と結構近いが、生徒急増のため、鶴ヶ谷団地の東側、安養寺、燕沢などを学区とする新設校を必要としたのだろう。公立の中学校どうしが近接する、と言えば、何といっても石巻市の門脇中と石巻中だろう。近いどころか、隣り合っているのだから。全国的にも珍しいと聞いたことがある。この両校の所在する泉町4丁目7番は、石巻中の学区だ。つまり、門脇中は自校の学区の外に位置していることになる。自分の学区の外にある中学校なら、塩竈市立第三中学校も特筆ものだ。学区はおろか、塩竈市ではなくて隣の多賀城市域内に学校があるのだから。学区と学校の珍しい関係など、時間があったらコレクションしてみたい。
2011.03.10
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仙台藩の財政構造について。土屋喬夫(『封建社会崩壊過程の研究』1927年)によると、萱場木工氏章『古伝密要』(寛政9年)に次のように著されている。------------元和偃武後も家臣リストラをしなかったことから、仙台藩は藩の禄高に比較して家臣の数が大かった。そして、支藩一ノ関藩田村氏に3万1572石余の知行を給し、御一門衆から諸士凡下、御扶持人にまで知行を給したので、その知行高合計は62万159石5斗になり、禄高を100石ばかり上回る計算になっている。その他に玄米扶持方への支給分、御役料(職務手当)、御切米石(米でのボーナス)、御膳米(藩主と家族用の飯米)、御仏供米(仏事に供する米)、奥方女中渡の米、海上粮米(藩船乗組員航海中の糧米)、江戸御国御用穀(江戸屋敷の糧米)に昔から合わせて9万3千石と、御切米(ボーナス)の金銭支給分1万3千両が必要と見積もられている。年によって過不足はあれど、これらをどう継続するかが課題であった。享保3年(1718)の調査で新田37万5823石4斗6升5合を藩の蔵入地とすることができたので、蔵入分から上記の御扶持方御用穀9万3千石分は間に合わせることができたが、それでも享保年間中10年間をみると年平均で10万23千石余りの物成(貢租)が得られてようやく間に合うことであって、これ以外の御公務御国用に関する御雑用については、御年貢、諸上納金、諸運上金を集めて、その頃までに7万両ばかり出て行っているとのことである。この数字を見ればいつも歳入不足がはっきりしている。藩では百姓作徳米の購入独占による専売制ともいうべき買米制を実施し、民の継続的な再生産を第一にするとともに、第二に御公務御国用の不足分を補って支配を続け、連綿とやりくりしてきた。------------こうした歳入欠陥を抱えた財政のもとで、まとまった歳出がが臨時に必要となると、富商を御用商人として取り立てて依存するしかなかった。これは他藩でもあることだが、大藩仙台となればなまじの富商では対応できなかったことも事実である。政宗は大坂冬の陣出陣の際に、京都の大文字屋宗怡から3千両の借金をして戦費の不足を補い、その後たびたび借り入れを行い2代忠宗の代には借金が8万9千両にのぼり、そのうち7万9千両を上納させたこと、さらに江戸上屋敷の作事費用や買米本金として11万両を上納させたことが萱場氏章『古伝密要』に明らかにされている(土屋前掲書)。この過程で大文字屋が仙台藩最初の蔵元になったとみることができる。ほかにも、京都の阿形作兵衛宗珍-甚兵衛、江戸の海保平兵衛らが仙台藩の蔵元を務めたことがわかっている。三井家4代目の八郎右衛門高房が享保13年(1728)に著した『町人考見録』には、大文字屋奥州公に潰され今御扶持千石の家来なり、などと記されており、宗珍や海保も同様。仙台藩の蔵元を務めた富商が貸し倒れから破産の憂き目に遭い家臣に取り立てられたことを明らかにしている。ほかにも、大坂の平野屋三郎左衛門、江戸の紀伊国屋九郎兵衛、中川作右衛門、宗屋与四郎なども仙台藩の蔵元を務めたことがあり、航路整備を行った江戸の河村瑞賢も一時仙台藩の用達を申しつけられている。近世後期には大坂の富商升屋(山片)4代目の平右衛門重芳が宝暦年間に仙台藩が大坂屋敷を設けたときに調達金御用を務め、買米本金の調達に応じたことから関係を深める。重芳が相続した当時の升屋は没落寸前といわれたが、升屋の別家番頭升屋久兵衛の養子となった長谷川小兵衛の二男有躬が4代目升屋久兵衛となり、升屋番頭を努めて升屋小右衛門を名乗り、経営立て直しに成功する。この小右衛門が、文政3年『夢の代』を著した山片蟠桃である。徹底した合理主義思考をもつ蟠桃(升屋小右衛門)は、主家升屋と仙台藩財政双方の再建のために、仙台藩産米の江戸廻送にあたっての条件として、1俵当たり1合の「差し米」を出願して認められる。差し米は、米質を吟味する時に「刺」という竹筒を作って俵から米を取り出すが、その米を升屋の取り分とすることを認めたのである。吟味は、仙台積出し時(石巻、荒浜)、銚子(利根川河口)、江戸(深川の仙台堀屋敷)の3か所で行われるが、そのたびに取り出される米が升屋の取り分となるから、廻送が多いほど利益も大きかった。こうして正式に蔵元に就く以前だが、寛政3年、4年の仙台藩領の豊作で巨利を上げ経営基盤を確立し、寛政11年(1799)に正式に蔵元になった(土屋前掲書)。その後、升屋は、文化5年(1808)に仙台藩領限り通用の米札(米切手・米手形)を発行するが、買米代金をこの一種の兌換紙幣で支払、升屋が扱った廻米を売った代金は金で受け取り、大坂で運用して利を生ませて、升屋と藩の利益をはかるというのが建前だった。たしかに升屋に大きな利益をもたらしたが、それで仙台藩が多いに富むに至ったようでもない(土屋喬夫)。升屋の米札は俗に「升屋札」と呼ばれた。要するに藩札である。升屋が蔵元を辞した安政3年(1856)以降も升屋札は償却されずに残り、明治5年の大蔵省布告で新貨幣と交換が布告されている。升屋が差し米と米札で経営が順調に見えるのは、海保青陵(『稽古談』『升小談』)も紹介しているが、これも文政4年(1821)升屋小右衛門(山片蟠桃)が死去するまでである。文化14年(1817)に没した海保青陵は、小右衛門死去の後を知らないのである。仙台藩は升屋を通して文化10年現在で大坂から20万両を調達し、その後も毎年4万両内外、多い年には5万両から6.5万両を買米本金として調達したほか、臨時的歳出の借り入れも行っていた。当然ながら藩の返済は滞りがちで、しばしば利下げや年賦償還協定が行われているが、やり手の小右衛門の生前中は何とか切り抜けていたものの、小右衛門死去後は、升屋の信用が低下した。利下げや年賦協定が始まると、それまでの升屋の好調が粉飾であるように大坂商人に見えたからであろう。そこに天保の飢饉が到来した。天保7年(1836)には升屋では主人の平右衛門重芳が亡くなり、弘化年間には升屋を介した大坂商人の仙台藩への滞貸が100万両に達したと云われる。升屋は窮地に立たされ、新たな調達を渋るようになり、安政3年(1856)には、升屋平右衛門(5代目)、千葉屋、鴻池、山家屋、米屋、加島屋、早川など9人連名で、仙台藩財用方の熊谷純之丞及び三浦平介あてに滞貸返済の嘆願書を提出し、同年9月に升屋平右衛門は仙台藩の蔵元を辞任している(土屋前掲書)。升屋は維新後、新政権に対して藩債償還運動を展開したが不成功、企業活動から撤退する。升屋平右衛門が辞任した後仙台藩の蔵元を引き受けたのは近江日野出身の富商中井新三郎光基である。■参考 岩本由輝『本石米と仙台藩の経済』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書15)(大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会、2009年)■関連する過去の記事 仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度)(2011年2月20日) 仙台藩の経済と財政を考える(2 仙台藩の歳入歳出)(08年1月3日) 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年07月25日)
2011.03.05
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ある本に出ていた。鎌倉時代の御成敗式目には、他人の悪口は重罪とされている。これは名誉感情の高い武士の喧嘩の原因となるからだそうだが、悪口には人を動かす言霊の力が宿るとも考えられたという。各地に「悪口祭り」が伝わっており、例えば悪口で見事言い負かした側が一年間福に恵まれるというのが典型だ。栃木県足利市の最勝寺の悪態祭、茨城県岩間町の悪たれ祭などが知られる。昔は京都祗園社の「おけら詣で」でも行われた。これらの祭には、素行の悪い人間を戒めることで共同体の秩序を保つ効果がある。祭の日に神様の名を借りて不心得者を思いきり罵倒し、不満をぶちまけるのだが、糾弾の矛先がたとえ村の有力者であっても、背景に神様がいる以上、怒りたくても怒れないだろう。宮城県塩竈(注)の「ざっとな」:夜中に子ども達が集まり行状の悪い人物の家の戸口で悪口を大声で言い立てる(おだずまジャーナル注:下記文献中では「宮城・塩釜の...」と表記されています。)千葉寺の「笑い」:夜に顔を隠した人が集まり、素行の悪い人物を笑いのめすなどの記録もある。子どもに言わせたり、顔を隠し匿名性を持たせるのは、その後の人間関係への配慮だろう。悪口祭は庶民の知恵とも言える。■奥武則・大島透『にっぽん一千年紀の物語』毎日新聞社、2001年 から塩竈にこのような習俗があるのは知らなかった。興味があるので調べてみたい。■関連する過去の記事(奇祭と匿名性) 奇祭 鶴岡化けもの祭り(2011年1月3日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日)
2011.02.27
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1 本石米江戸の米消費量の3分の1を賄ったことから、仙台藩産米は「本穀米」と呼ばれ、米取引の建米(価格基準米)の役割を果たしたことが窺える。本来は本穀米(ほんごくまい)だが、記帳の際に本石米(ほんこくまい)と当てられることが多くなった。江戸に出る米の格付けとしては、奥州仙台本石米は中ノ上(4番目)で決して最上級ではない。しかし、中位の価格でまとまった量を供給したことが建米として重要だった。本石米が着くと江戸の米価が下がると言われたが、米価が高まると社会不安につながることから、本石米が定期的に到着することは幕府にとって好ましかった。ところで近世には城米(幕府天領からの貢租米)、蔵米(各藩の貢租米)、納屋米(商人が集荷した米)の区分があったが、仙台藩域内に天領はないものの、信達地方の天領からの城米が阿武隈舟運により荒浜から海路で江戸に運ばれた。北上川では、仙台藩蔵米が石巻に運ばれたほか、盛岡藩蔵米と志和地方に飛び地を有する八戸藩蔵米も石巻に送られた。本石米の主産地大崎耕土のからは、北上川支流の迫川と江合川を使って石巻へ、また鳴瀬川で野蒜まで運んでいる。2 買米制度仙台藩には納屋米の移動がないのが特徴だが、これは仙台藩が貢租米徴収後の余剰米を強制的に買い付ける買米制度のためである。江戸の米格付けでは、中ノ上(4等)の奥州仙台本石米のほか、中ノ中(5等米)の奥州仙台前金米があり、これが買米制度に由来するものとされている。買米制度は藩祖伊達政宗の創始した「御祖法の御買米」とされる。藩庁に買米本金と称する基金を備え、早春農民の望みに従い無利息前金を貸し下げて農事百般の使途に充用せしめ、晩秋収穫時期にいたりその貸下げ本金に応ずる時価の米を収納し、租米、雑穀と共に江戸に廻送して販売し、相場の高低によって生ずる利益を藩庫に収得した。この制度は当時上下共に歓迎し、称して御買米と云い、貸下金を御恵金と唱えていた。藩財政の状況もあり、万治年間3代藩主綱宗のときに強制的に実施された「御割付御買米」は、4代綱村の延宝3年(1675)頃に提出された田村図書顕住の口上書において御先代よりの御非分、すなわち理に合わない不道徳な行為として非難され、廃止に追い込まれた。このように、運用に変化や盛衰はあったものの、何回も再興され、幕末に至るまで、無利息前金の制はなくなっても、現金買いは続き、極難渋の農民に対する貸下げ(御恵金と呼ばれる前渡し金)は、農民の希望に応じる任意の買上げ制として続いたようである。3 仙台藩の米の実収表高62万56石5斗4升4合の仙台藩だが、内高は享保3年(1718)に99万5879石余、宝暦4年(1754)には102万1831石余、文政7年(1824)に100万9461石余、天保9年(1838)101万4909石余とされている。しかし、享保以降も新田開発が続いたから内高も表向きのものだったとも思える。帆足万里は250万石(『東潜夫論』)、安井息軒は200万石(『読書余適』)の実収があると見ている。しかし藩財政はほとんど常に窮乏に苦しんでいた。米や大豆の現物による収入があっても、歳出は金銭による物が増加の一途をたどっていたから、歳入欠陥に悩まされていたのである。さらに特別会計として、御直行(藩営事業)があり、製塩、金山、鉄山、山林などがあり、買米制度もその一つだった。また幕末には城下町仙台の商人に特権を付与して御用金を賦課することもあった。加えて、臨時的歳出には、商人から御貸上金、御為替金、御手伝金などの名目の徴収もあり、武士や百姓にも、手伝米、貸上米、上納金を命ずることもあった。臨時的歳出の大きいのは幕府から課される土木普請などのいわゆる「御手伝」であり、政宗以来13藩主は一代の間に1回から数回の課役を命じられている。また凶作による減収に際しても臨時的な措置を必要とした。『東藩史稿』などによると幕府に申達された仙台藩の減収高は、天保7年(1836)91万5784石、天保9年(1838)82万6000石などである(土屋喬雄)。(続く)■参考 岩本由輝『本石米と仙台藩の経済』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書15)(大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会、2009年)■関連する過去の記事 仙台藩の経済と財政を考える(2 仙台藩の歳入歳出)(08年1月3日) 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年07月25日)
2011.02.20
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報道によると、気仙沼署の亡くなった前署長が市民に拳銃を見せていた問題で、県警察本部は副署長らを訓戒処分にした。最初の報道は先月20日の署長が自殺したとのニュースで、併せて、前日に事情聴取を受けていたことも報じられていた。直観的に感じたのは、署長が個人的なつながりで誰かに渡そうとした、あるいは極めてプライベートな席で誰かに親しく触らせた、などのような場面だった。もちろん、蓋然性をもって予想したのではなく、極端な場合として一応念頭に置いてみたものだ。つまり、本来なら当の署長も非公表の文脈で行動した「私事」だったものが、何らかの事情で外部に漏れ伝わり、本部の事情聴取に至ったのではなかろうか、と悪い方に考えてみたのだった。今回の報道では、宿舎で署員や地元市民との夕食会を開いた。幹部8人と市民5人ほどで酒を伴うもの。会の後に、片づけにやって来た当直の署員に、署長が拳銃を出せと命じる。署員は再三拒んだが、結局署長は銃弾を抜いた銃を、市民2人に見せたという。心配した公私のけじめの点は一応安心したが、こんどは逆にパブリックな場での挙動だったことが、意外である。いったい署長宿舎で地元市民と行う夕食会とは何なのか。市民とは誰なのか。ちなみに経費はどうしたのか。銃弾を抜いたのは安全のためという説明だろうが、酒の席の後の場で現実の危険性はどの程度だったのか。公安委員会規則に反したという形式犯的な解説だけではなくて、市民との関わりと安全確保のための警察の意識それ自体について、もう少し丁寧な説明があっても良いのでないか。もっともマスコミもあまり突っこまないのだろうけれど。
2011.02.11
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以前、仙北をsenbokuと読むのが秋田県(仙北郡)、senpokuと読むのが宮城県(県北部一帯)だと記した。■仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月16日)ところで、先日大崎市鹿島台を通ったときに、オッこれだ、やっぱりネ、と頷いてしまった。鹿島台小学校や病院の付近の歩道橋のある交差点(国道346)から、少しだけ松山、小牛田方面に県道を北上すると、道路脇の商店の白い壁に堂々と大書している。平仮名で「せんぽく」と。衣料品とか贈答品の店舗だったように思う。「○○と○○の店せんぽく」とか書いていて、前半部分は忘れたが、筆書き風のロゴだった。人名や屋号ではなく、おそらく県北部を指し示す「仙北」からのネーミングだろうから、この地の人はやっぱり仙北をsenpokuと読むのだ、という動かぬ証拠だろう。
2011.02.08
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東京ドームシティの転落死亡事故を受けて、宮城県では県内9か所の遊園地の安全状況について調査をするという。調査の上で国に報告するというのだが、ということは国から通知が来ているのだろうか。そもそも、遊園地の所管官庁はどこなのだろう。全国のニュースを検索したら、国土交通省が2日、全国の遊園地など約2200か所について都道府県などを通じ遊戯施設の運行管理の状況を緊急調査することを決めたという。たしかに国土交通省リリース資料に出ていて、所管は建築安全部門だという。とすると、建築基準法が根拠なのだろうか。それはともかく、宮城県内の9か所の遊園地とはどこなのだろう。思いつくのは...八木山ベニーランド西仙台ハイランドみちのく杜の湖畔公園スポーツランドSUGO以上の辺りはカウントされていそうだ。チャチャワールド石越漁火パーク船岡城址公園これらはたぶん入らないだろう。さて一体、9か所とはどこか。遊具として一定以上の規模の建築物を届けている施設がある場所ということなのだろうか。それにしても、気になる。
2011.02.03
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いや寒いですね。昨日のニュースで、宮城県ではかなり温暖で雪もほとんど積もらない亘理町で朝にマイナス13度だった、と信じれない報道がありました。仙台は昨日今日と朝に冷え込んで、今日の朝は我が家を出るとき車内の温度表示(外気)はマイナス6度でした。公式には今朝の仙台の最低気温は-5.8度のようです。気象庁のサイトを見てみると、2011年1月30日、つまり昨日朝の亘理の-13.0は最低のレコード更新です。ちなみに第2位と3位はいずれも昨年2月上旬で、去年も寒い冬だったのですね。さて、仙台はというと、最低気温の記録は第1位 -11.7(1945/ 1/26)第2位 -11.5(1936/ 1/18)第3位 -11.5(1931/ 2/12)ということで、戦後の記録はベストテン(ワーストテンというべきか)には含まれておりません。昨日(1月30日)の最低気温も仙台は-7.0度で、亘理ほどには冷え込んでいません。亘理と仙台。近いようでもかなり事情がことなるようです。その中間の名取では、第1位 -9.6(2011/1/30)つまり昨日です!第2位 -9.4(2010/2/7)ということで、パターンは亘理に似ています。ともかく、寒い冬ですね。
2011.01.31
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牡鹿半島にある石巻市鮎川は、「鮎川の捕鯨か、捕鯨の鮎川か」とうたわれた鯨の町だ。1 近代捕鯨と県外資本1906年(明治39)4月、東洋漁業株式会社(山口県下関)が鮎川字向田に事業場を開設し、金華山沖で捕鯨をはじめた。この会社は、1899年創立の日本遠洋漁業株式会社(山口県仙崎)を前身に、1904年にノルウェー式捕鯨を導入して創立された会社である。ついで1907年11月、土佐捕鯨合資会社(高知県奈半利)が、1908年には花伊水産株式会社(和歌山県串本)と長門捕鯨株式会社(山口県仙崎)がそれぞれ鮎川に事業場を設ける。鮎川に近い荻浜にも、1907年に内外水産株式会社(大阪)と大東漁業株式会社(高知)が、1908年に帝国水産株式会社(神戸)が事業場を開く。さらに、1910年藤村捕鯨株式会社(奈半利)が十八成浜字清崎に、大日本水産株式会社(東京)が小淵字走りに、開設する。この間、1909年5月に、東洋漁業株式会社、長崎捕鯨合資会社(長崎)、大日本捕鯨株式会社(東京)、帝国水産株式会社が合併し、東洋漁業株式会社(大阪)となり、東洋漁業鮎川事業場は、東洋捕鯨鮎川事業場となり、帝国水産荻浜事業場もここに統一される。東洋捕鯨は、まもなく東海捕鯨(千葉県館山)と岩谷商会捕鯨部(東京)を買収し、1916年には紀伊水産、長門捕鯨、内外水産を合併し、これらの事業場を鮎川にまとめる。なお、この年、大東漁業が荻浜事業場を紀伊水産鮎川事業場跡に移し、また、大日本水産は小渕事業場を閉鎖する。2 仙台藩捕鯨の前史こうして金華山沖近代捕鯨の基地としての鮎川が県外資本によって確立するが、前史はある。文政年間、仙台藩養賢堂学頭の大槻清華は「鯨志稿」を著し関心を示す。天保8年(1837)仙台藩は捕鯨取開方を設け、その主立(おもだち)に、牡鹿郡狐崎組大肝入平塚雄五郎と桃生郡大須浜大肝入格阿部源左衛門を命じた。阿部は同年、銛を用いて4頭を仕留めているが、安政6年には他5名と共に鯨蝋製造のため捕鯨を出願している。明治20年(1887)仙台区の村上国三が自作の捕鯨銃で1頭を捕獲したが資金不足で頓挫。このあと田代の阿部久八郎、渡波の浜谷兼兵衛、仙台の石川進らの捕鯨計画があったが実現せず。東洋漁業進出直後の1906年10月、寄磯浜字前浜の遠藤栄四郎が金華山漁業株式会社を設立するが、アメリカ式捕鯨法を採用した同社は、1907年に260頭を捕獲し鯨油280石を生産。しかし、ノルウェー式に技術が及ばず、他県資本の進出会社に後れを取って、1916年遠藤の死に伴い捕鯨から撤退する。3 鯨肥製造業の成立鯨上がると七浦枯れる、と言われ、他県資本の捕鯨進出に対して、鯨の解体による地先海面の汚染を恐れて反対の動きもあった。しかし、鮎川村長和泉恒太郎や鮎川漁業組合幹部(鈴木吉松、岡田菊之助、和泉太三郎)らが説得に努め、また東洋漁業が村に年300円を寄附することで反対派も納得。寄附金は鮎川小学校の基本財産とした。しかし操業により鯨骨や内臓が事業場から海に投棄され、海草や貝に付着したことから反対派の心配が現実となった。1907年(明治40)6月下関から来た小林惣太郎が鯨皮から鯨油とゼラチンを製造する工場をつくり、石巻の松田庄助が鯨肥工場を建てたことで事態は好転。1908年には和泉恒太郎が村長を辞め鯨〆粕などの肥料売買に乗り出したのを手始めに、岡田菊之助、鈴木亀吉、岡田宜太郎らが続き、空き地や海岸を埋め立てて肥料工場を建設し、鯨肥の製造販売を開始することになる。1919年までに、鮎川から十八成浜にかけて28業者が誕生し、活況を呈した。4 捕鯨独占と地元釜石に一時事業場を移していた土佐捕鯨株式会社は、1928(昭和3)年、十八成浜に進出していた藤村捕鯨を買収して戻ってくるが、1934年には大東漁業を合併してその鮎川漁業場を利用することになる。1937年同社は株式会社林兼商店捕鯨部(下関)と改称。東洋捕鯨は、1934年日本捕鯨を改称、後に共同漁業、1937年には日本水産株式会社となる。さらに、1937年に極洋捕鯨株式会社(東京)が設立される。この会社の鮎川での操業は戦前にはないが、いずれにしても、捕鯨を独占するビッグスリーが登場したことになり、南氷洋での捕鯨も始まる。地元では、1923年(大正12)に十八成浜の後藤善三郎が林兼商店の出資を受けて遠洋捕鯨合資会社を設立、1930年に遠洋捕鯨株式会社。また、1925年鮎川と十八成浜の鯨肥業者30人が出資し、原料確保を目的に鮎川捕鯨株式会社を設立。鮎川字田の浜に事業場を置いたが、1937年に捕鯨船などをスマトラ拓殖株式会社捕鯨部(東京)に譲渡。鮎川捕鯨株式会社の内部はもともと原料需給を巡って複雑で、社長和泉恒太郎、安部儀助、稲井商店などはマルハ土佐捕鯨株式会社に、監査役和泉総之助らは東洋捕鯨株式会社に、十八成浜の業者は遠洋捕鯨株式会社に、それぞれつながりを有し勢力が拮抗してまとまりが悪かった。1936年には和泉哲之助を組合長とする鮎川肥料組合が設立され、日本捕鯨、共同漁業(旧東洋捕鯨)から原料を得て鯨肥製造を進め、また1940年には、日本水産(旧東洋捕鯨)から原料を受けてきた業者が鮎川肥料合同株式会社を設立。この間、土佐捕鯨、林兼商店の系列化の業者はこの動きから排除された。5 戦後戦後、日本水産株式会社は統制会社から社名を回復し、林兼商店は大洋漁業株式会社(東京)と改称する。大洋漁業は1946年に遠洋捕鯨株式会社を合併。また、極洋捕鯨株式会社は、1950年名称が存続していた鮎川捕鯨株式会社を合併し鮎川に進出。おりから南氷洋捕鯨が本格化した時代で、鮎川からビッグスリーの南氷洋捕鯨船団に乗り込む者も多かった。こうなると交通の便が悪い鮎川は地の利を失い、1949年頃から女川町石浜に移転を考えていた日本水産は1950年に移転をはじめ52年には東洋漁業以来の鮎川事業場を廃止した。この間、46年には近海小型捕鯨も開始されたが、1947年に許可制となり船も30トン以下に制限された。1954年には、宮城と和歌山両県の関係者で日本近海捕鯨株式会社(東京)が設立されたが、まもなく大洋漁業の傘下に。1956年には日本小型捕鯨組合が、58年には鈴木良吉による北洋捕鯨株式会社が設立されたが、近海捕鯨は資源枯渇で衰退を迎えていた。1965年極洋捕鯨が鮎川から撤退。1970年、日本近海捕鯨株式会社が日本捕鯨株式会社と改称。71年には外房捕鯨株式会社(千葉)が極洋捕鯨鮎川事業場跡に進出。1976年には、ビッグスリーが捕鯨部門を切り離し、日本共同捕鯨株式会社を設立。1977年大洋漁業は鮎川事業場を閉鎖し、従業員を日本捕鯨に移す。同年、日本水産も女川事業場を閉鎖。1982年IWC商業捕鯨全面禁止決議で、88年日本は商業捕鯨から撤退。鮎川の捕鯨基地としての歴史も終焉を迎えた。■参考文献 大石・難波編『街道の日本史7 平泉と奥州道中』吉川弘文館、2003年 (岩本由輝執筆部分)
2011.01.29
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