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東大西洋のクロマグロそう漁獲枠を、09年、10年に2割づつ削減することがICCATで合意されたとの報道。科学的知見に基づき大幅削減を主張する日本や米国と、漸減案のEUとの対立を経て合意されたもの。合意に際して、EU加盟国による違法操業を踏まえて、まき網漁船の監視強化などの資源管理方策も決定された。三陸沖など近海マグロで日本を代表する塩釜、遠洋マグロ基地の気仙沼などを抱える宮城県には影響が必至だ。削減幅が予想したより小さかったとの安堵の声や、欧州勢の監視強化を勝ち取ったことで日本の対外姿勢を評価する声もあるようだが、もともと漁獲管理に厳しく望んで来ただけに、国の姿勢に不満が多かったようだ。TVにも塩釜の「しらはた」さんが出ていたが、漁獲枠削減で近海マグロも値上がりが避けられない。輸入冷凍マグロが減れば、東京の業者が生マグロを買い付けに来て仕入れ値が上がるおそれがあるという。また、遠洋基地の気仙沼では、働き口がなくなることを心配する。クロマグロ船がインド洋にまれば、今度はミナミマグロ船が減り仕事がなくなり、台湾など外国船に回って行かざるを得ない、という。仙台市内の和食店などでは、大西洋の輸入冷凍ものが減少すれば、近海ものに頼らざるを得ないことになり、単価高になる懸念。水産庁は短期的価格に影響はないとするが、宮城県ではさまざまな影響が生じそうだ。
2008.11.26
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4日の朝日新聞(県内版)に、「お釜は『共有財産』」との見出しで、お釜周辺の市町村界は確定していないが、むしろ周辺自治体は共有財産として共同で盛り立てようと意識している、との記事があった。たしかに、川崎町のサイトの地図(かわさきマップ)では、お釜も町域の一部のように見える。蔵王町の蔵王エリアマップでも、お釜は蔵王町の区域のようだ。いずれにしても、共同で盛り立てようとの意識はすばらしい。自然にもともと境目などないのだから。私自身は、お釜は七ヶ宿町ではないかと実は思っていた。というのは、蔵王ハイラインを登ったところにある県営のレストハウスの所在地が七ヶ宿町と表示されている記憶があるからだ。しかし七ヶ宿町(マップ)では、お釜もレストハウスも特段に表示していない。奥ゆかしいというべきか。ちょっと検索すると、レストハウスの位置を、蔵王町遠刈田温泉倉石岳国有林内とするものと、七ヶ宿町刈田岳国有林地内とするものがある。たぶん後者が正しいと私は思うが確信はない。ともかく、蔵王にも観光客にも市町村境は関係ないから、山形県も含めて、周辺みんなで盛り立てましょう。ということで。
2008.11.05
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栗原市で大復興市が開催された。察するに、農産物の販売などをベースにした地元の物産向けの物産展を、今回は復興をテーマにしてとにかく盛り上げようと関係者の方々が頑張ったのだろう。宗さんと共に来場したかの香織さんが今朝の河北の写真に出ていたが、高清水のご出身だそうだ。一昔前はラジオでよく聞きました。そう言えば、狩野英孝は確か若柳だろうか。栗原に縁のある人は東京にも、勿論仙台にもたくさんいる。いろんな形で復興を支えております。
2008.11.03
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鳴子を訪れた。峡谷の紅葉を歩くのは3度目。子ども達も大きくなり、ずんずん歩いて自分でカメラを撮ったり。花淵山口から降りて、急に雨が強くなって、ほどなく戻った。それにしても観光客の多さ。47号線は岩出山からほとんど渋滞。仙台から車で3時間近くかかった。他県ナンバーが半数以上だろうか。たくさん来訪してもらうのは有り難いことだ。日帰り入浴は、川渡の公共系のT荘。案の定混んではいない。地元の方々中心だと思われるが、我が家も大座敷で昼寝。お風呂にも2度入って、帰宅は午後5時半。帰途にラジオでフランク永井さんの訃報を聞いた。ちょうど出身地と同じ大崎市を走っている時だから、偶然だったが。有楽町で会いましょう、君恋し、を代表作としていたが、私は山下達郎が作曲したウーマンを思い出していた。
2008.11.02
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去る日曜日(26日)の白石市長は接戦と伝えられ、あるいは現職が負けるのではないかと思っていたが、現職が二選を果たした。ところで、今回の投票では「白票」が全体の1.3%に相当する288票にも上ったという。毎日新聞(28日)によると、「電子投票機の操作を途中で終了した者」が288票。モニター画面には候補者氏名のほかに、「投票しないで終了する」の選択肢があり、これが白票に該当するのだそうだ。電子投票は全国で18回実施されているが、白石市もこれに取り組む先進自治体だが、04年11月の四日市市の市議補選では投票者総数の14%にも当たる13千票が途中終了を選択。今年2月の京都市長選挙でも突出した「途中終了」が議会で取り上げられた。白石では、前回04年も224票(1.2%)が生じた。市選管は、制度が浸透して誰も選びたくないときに「終了」を選択できることが周知されてきた可能性があると見ている。総務省選挙部では、「途中終了」は誰にも投票したくない意思を尊重して設けた選択肢だが、投票行動を左右する恐れがあるため積極的に広報はしないという。従来の選挙では、(1)候補者でない人物名、(2)読み取れない、(3)白票、はいずれも「無効票」と扱われたが、電子投票では(1)(2)は皆無となり、判読の時間も短縮される。しかし、このような新たな「白票」増加を招くような素地がある、とも言えそうだ。広島市のサイトに電子投票のQ&Aがあって、次のように書いてある。----------【問9】白票を投じることができるのですか。【答9】電磁記録投票法では、電子投票機に白紙投票の表示をすることは認められていませんが、候補者を選択しないまま操作を途中で終了させることは認められています。このため、結果として、投票用紙による投票と同様に、いずれの候補者にも投票しないという意思を表すことは可能です。【問10】電子投票で棄権をすることができるのですか。【答10】投票所に来られた方が「棄権」しようとする場合は、投票カードを受け取らないか、投票カードを受け取った後でも電子投票機を操作する前に、「棄権」する旨を投票所の係員に伝えて、投票カードを返却していただくことになります。なお、電子投票機の操作を開始した場合は、候補者を選択して操作を終了するか、あるいは、いずれの候補者も選択しないで操作を終了していただくことになります。この場合は、「棄権」の取扱いとはなりません。----------なるほど、法制上は白紙投票や棄権は認められない建前だが、それは従来のペーパー投票でもそうなのだろう。ただし、事実上白紙投票の存在は認知されており(時に白紙投票の自由や権利が言われたり、さらには白紙投票や棄権の運動もあったりする)、事実上白紙投票と同様の選択を可能にしてやっている、ということか。白票や棄権をどう考えるかは、憲法論的に言えば、選挙を公務と見るか権利とみるかの基本的姿勢にもよるのだろう。また、より実務的には、白票も投票率をあげる効果はあるのだろう。政治的な側面、あるいは社会学的な側面で考えれば、どうなのだろうか。
2008.10.30
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私はほぼ毎日、東北の各新聞のサイトを斜め読みしているが、それぞれの新聞社に特長や個性があって、面白いと感じる。例えば、仙北郷土タイムスさん。お知らせのコーナーがあって、交通事故や犯罪の被疑者情報などが出ている。警察署から情報を得ているのだろうが、地域のかわら版という感じで、とても良いと思う。もちろん、犯罪情報が出ていて良いですナ、というのは変なのだが、こんな事件があって地元の誰が逮捕された、なんていう情報を実名で報じていることが、逆に顔の見える生き生きした地域とい感じがして。失礼ながら、月刊とされる紙面の内容も掲載されず、ホットなイベントなどの話題もなくて、トップページにいきなり犯罪情報中心に「お知らせ」が並ぶのだが、私はこれも十分アリだと思っている。
2008.10.06
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今朝の河北ウイークリーせんだい。丸森町の筆甫(ひっぽ)に暮らす4人の若者を取り上げて、筆甫の自然と彼らの生き生きとした暮らし方を紹介しています。私、宮城県人でありますが県内未踏の地の1つが、七ヶ宿町の稲子地区や、この筆甫です。テレビなどで見るたびに、いつか行きたいとは思っていたのですが。不動尊公園までは2度ほど行きました。その先は、まさしく筆甫に行くためでないと、行かない所。いいですね。こんな特集を組んだ河北ウイークリーの眼にも、敬服。
2008.09.25
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痛ましい事故だ。横断歩道を渡っていた。信号がないとは言え、場所は横断歩道だ。25歳の会社員が現行犯逮捕されたが、横断歩道で止まろうとしない車が多いことに、私は普段から問題意識を抱いていた。宮城県の特徴なのだろうか、歩道を渡ろうとしているのに止まらない車が多い。ひどい場合は、渡るなとクラクションを鳴らす。もっとも、この場合は歩行者を眼にしているのだから、まだ良い方かも知れない。今回の石巻高校の女子生徒が亡くなった事故では、おそらく横断歩道も何もお構いなしで堂々海沿いの道を突っ走っていたのではないだろうか。信号をつけるべき、という議論はあるだろう。それにしても、運転者のマナー、いやマナー以前の人間としての感覚が薄れているのではないか。宮城県のドライバーたちは、強く自覚すべきことでないか。
2008.09.20
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仙台・宮城デスティネーションキャンペーンでいよいよ盛り上がる宮城の観光ですが、その一環でJRが出したパンフレット。県内のさまざまな旅のメニューがあり、見ているだけでも楽しいです。主催者も、公私さまざま。以前ブログで拝見したこだわり社長さんの仙台バスさんも出ています。杜の都ナイトツアー、大人の旅ですね。伊達の歳時記ツアーも出ています。好評だということで、がんばれ、仙バスさん。全国の観光客に仙台の魅力を、お願いします。ところで、主催者(問い合わせ先)の表示に注目すると、市町村があったり、企業組合があったり、タクシー協会があったり、まさしく県を挙げての取り組みですが、南三陸のエリアでは、○ とっておき♪南三陸ワゴンの旅○ 志津川湾クルージングの2つがラインナップされており、問い合わせ先は「南三陸時間旅行サポートセンター」となっています。時間旅行って何?南三陸町観光協会HPを訪れると、さあ南三陸時間旅行へ! というキャッチフレーズで、海時間、山時間、寛ぎ時間、ご馳走時間、など南三陸時間の紹介がある。なるほど、南三陸ならではの時間をタップリ楽しむ旅、ということですか。サポートセンターは、役場内の観光協会のことのようだ。南三陸ならではの時間割。ひころの里、さんさん館、自然環境活用センターなどもあるし、海の幸もすばらしい。10月2日には企画列車タコDC号も運行されるそうで。県内あっちこっちで色んな旅の形で盛り上がるとすばらしいと思います。
2008.09.17
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明治天皇の御料馬として名馬と讃えられた金華山号は鬼首の産だが、当地はかつて仙台藩の隠し牧場で、それも慶長遣欧使節の支倉常長が連れ帰った外国馬が発端だとの伝説がある。■関連する過去の記事 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日)今回は、高橋克彦さんの企画からまとめてみたい。■出典 高橋克彦編『東北(みちのく)歴史推理行』(徳間文庫、1993年) この文庫本は、NHKで放映したテーマをもとにした熊谷印刷出版部1987年刊行の『高橋克彦の歴史ズームイン』を増補改題したもの----------金華山号は他の日本の馬と異なり、外国の血が混じっているとの説があるが、明治初期しかも山深い鬼首になぜ外国馬の血が混じった馬がいたのか。金華山号は明治2年鬼首村の高橋七右衛門に産まれ、後に馬の育成地水沢の家畜商佐野善兵衛の手に落ち、大林寺なる寺で飼われたという。明治9年東北巡幸の際に付き人が目をつけて御料場として買い上げた。(佐野の子孫の話)親から聞いた話として、四肢の構造が当時の日本馬と異なり、乾燥した立派な四肢だったこと、また、大柄な馬であったこと。(馬事研究家の村井秀夫さんの話)残っている金華山号の写真からすると、母親は南部馬、父親は明らかにアラブ系である。南部馬は首、背中、腰の線が直線的だが、金華山号は父親似で首が立って、形も大きい。 資料からも裏付けられる。最近、江戸時代の川渡の御湯守藤嶋吉郎右衛門の後裔の藤嶋孝雄さん(真癒の湯)宅で見つかった古文書。明治5年の租税真高調べで、アラビア飼料と書いている。アラビア馬の飼養者が川渡で15人、馬が30頭いたことがわかった。 これは藩政時代を通じて当地が伊達の秘牧場になっていたと考えられる。(郷土史家の只野義男さんの話)鬼首は、鳴子、花山、横堀(秋田県)、最上(山形県)とはそれぞれ峠があって看視されていたから、馬生産には最も環境が良い。盗人滝(ぬすっとたき)という滝がある。他藩の者が夜陰に乗じて鬼首の名馬を盗み、沢の流れを利用して逃げようとしてこの滝に出くわしたのではないか。水沢の郷右近家には、常長が持ち帰ったとされる銅版画が残っている。その上、郷右近家には、常長が馬を持ち帰って鬼首に隠したとの話まで残っている。(紫桃正隆さんの話)サン・ファン・バプチスタ号なら馬の10頭や20頭は船倉に積めただろう。記録にはないが、馬を持ち帰った可能性はあると思う。政宗の時代は馬に乗れる資格は今の将校クラスで貴重だった。だから、宣教師の口から欧州には名馬がいると聞いただろうし、支倉派遣の裏には、馬の改良や馬術などの調査研究も含まれていたと言われている。 支倉一行はスペインを横断して往復したが、バルセロナから船でフランス領地中海を航海してイタリアに行く。その辺が馬の産地。またバルセロナまでは陸路を馬で行った可能性があり、常長には立派な馬が驚異的に映ったのだと思う。是非とも故国に持ち帰りたいとの願望が、武士として当然の判断だったのでないか。 そもそも下級武士の常長を派遣したのは、天下制覇の野望を抱く政宗の賭け。失敗する可能性の強い賭けで、失敗の際どうするかの含みを彼は読んでいた。常長自身も主君に迷惑をかけないよう覚悟はできていただろう。常長の晩年は謎に包まれている。伝えでは帰国して2年後52歳で没したとされ仙台の光明寺に墓がある。しかし、墓は他にも4カ所有り、どこに葬られたかは謎だ。(松島円通院住職天野明道さんの話)円通院は政宗の孫の光宗をまつってあるが、欧州の図案を日本建築にマッチさせようとの工夫がうかがえる。葵の紋だとしてスペードをカモフラージュして入れるとか。御禁制時代だからいかに申し開きができるか全部考えて描いてあるわけである。ガーベラ、葡萄や十字架も図案化され、伊達藩はここを秘物と称して立ち入り禁止にして全然見せなかった。(紫桃さんの話)キリシタン禁制下だから、持ってきた請来品は全部仙台藩の評定所の蔵に納めて、日の目を見ずに来た。文化年間に大槻玄沢がこれを調べて「金城秘オン」にまとめている。 馬や製鉄なども同じで、人目のつかない所に隠していた。製鉄は登米郡や東磐井郡の山の中に秘かに設けた。 馬に外国の血が入っているかどうかは一目で分かるから、絶対に見つかってはいけなかっただろう。(村井さんの話)文久3年にナポレオン三世が家茂にアラブ馬二十数頭を送っており、付き添いの者が六年で2万5千頭、8年で4万頭にすると豪語している。とすると、常長が持ってきた20頭から、六、七年で日本有数の騎馬軍団を作れる可能性も、あった。高橋克彦さんは、政宗の野望が文献ではなくして馬の血に秘められていた、金華山号はその生きた証だ、と結んでいる。(おだずまジャーナル注:上記では各ゲストの話として整理しましたが、司会者の対話の中で説明されており司会者の発言部分も含めて整理している。)----------円通院の霊廟三慧殿(国重文)は、昨秋に編集長も夜のライトアップを見物にお邪魔した際に一枚撮らせてもらった。常長が持ち帰ったバラが描かれている。ちょいと画像がブレていますが。■関連する過去の記事 松島円通院のライトアップ(07年11月15日)
2008.09.16
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昨日(14日)は芭蕉が涙を流した壺の碑を子ども達に見せようと出かけた。思いがけず、観光ボランティアガイドさんに丁寧に説明していただいた。親の私が言い聞かせるより、こどもたちにとっては、ずっと良かっただろう。大化の改新の意味は、単に蘇我入鹿を討っただけではなく、律令の政治を及ぼしたこと。全員の戸籍を作った。この多賀城も単に蝦夷征伐の拠点とかつては考えられたが、今では律令政治の統治拠点(遠の朝廷)と考えられている。ちょうど多賀城碑のある辺りは、外郭の南門があったが大変立派なもので、また外郭はすべて瓦の屋根で、しかも基礎工事には土管のような高度な排水技術が施されていた。ここから政庁に至る直線道路は一般人は通れない。などと、子ども達にわかりやすく説明していただいた。編集長も質問した。城内の政庁以外には人が住んでいたのですか。いいえ、外郭の内部は政庁のほか役所があり、人々は仙石線の方に住んでいました。もう1つ。碑のあるここの土の盛り上がりは最近のでしょう。いいえ、これこそ当時の外郭なのです。エーッそうですか。これは驚きました。そんな訳で私も大変勉強になりました。そして、碑を見学。日本三古碑の一つだが、その大きさと形状は比類がない。約400年土中に眠っていたために風化を避けて文字が読める。などの説明をいただいた。碑の上に西の文字があるが、意味は不明。また、奈良時代の1里は5百メートルくらい、靺鞨の国界を去ること三千里の靺鞨とは沿海州のことで、当時は秋田を経由して交易があった、など。編集長の質問。この石材はこの辺の産だとわかっているのですか。そうです、この辺の石。太古は海だったので、貝が付着した名残があるのですよ。ということで、碑の裏側(東側)にある二つの穴を教えて頂いた。これは面白い。それにしても、素朴な疑問にわかりやすく的確に答えていただいた、観光ボランティアさん、本当にありがとうございました。編集長もちょっとした修学旅行気分。最後の画像は碑の付近から望む政庁方向。今回思い立ったのは、先週おくのほそ道の写真と俳句から成る紀行書を読んだから(植田正治 黒田杏子『「おくのほそ道」をゆく』小学館、1997年)。芭蕉は、この碑を眼前にして、古人の心を閲し、行脚の一徳、存命の悦び、旅の労を忘れて泪も落つるばかりに感激した。それにしても、多賀城は古代の東北経営の拠点だけでなく、歌枕に詠まれて日との京人の憧れとなり、芭蕉が涙し、かと思えば太古の海の名残も。悠久の歴史を感じます。■関連する過去の記事 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2008.09.15
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読売新聞の記事(宮城県版、8月28日)によると、07年の県内宿泊客は、香港便就航などで外国人客が対前年3割増加し、国内外の全体の宿泊客数も10年ぶりに800万人を超えた。宮城県の平成19年観光統計概要によると、昨年10月から12月のプレ・デスティネーションキャンペーン期間中は、前年同期比で観光客入り込み数で6.4%、宿泊観光客数で3.6%増加している。この効果も大きかったようだ。少し個別に見てみる。(1)外国人宿泊観光客数 ○148,517人(対前年30.4%増) ○地域別には、仙台市91,620人(42.2%増)、松島・塩竈22,028人(2.0%減)、蔵王18,030人(32.7%増)など。 秋保の5,163人が101.3%増と倍増以上の伸び。 ○旅行者の地域別では、台湾33,988人(10.1%減)、香港30,437人(126.8%)、米国17,943人(88.4%増)、韓国16,573人(7.9%増)、中国8,934人(33.4%増)、フランス4,807人(13.2%増)など。 香港の倍増以上の伸びが突出しているが、米国も大幅に伸びている。 ○先日記した記事で、JNTOの調査(06-07)によれば、東北地方は台湾と韓国からの旅行客が伸び、香港は減っているということだが、まだまだ全体の絶対数が少ないから、国際定期便の設定の有無で大きく左右されてしまうのだろう。(2)圏域(地区)別観光客入込み数○全県 57,876,741人(対前年3.8%増)○蔵王 4,019,275人(0.5%増)○旧仙台市 10,493,294人(3.5%増)○松島 6,217,250人(0.5%増)○鳴子温泉郷 2,156,300人(1.7%減)○栗原圏域 1,910,876人(12.1%増)最も伸びが大きい。読売の記事では細倉住宅跡の人気と分析されていた。○登米圏域 2,125,374人(3.0%減)○石巻圏域 4,615,074人(3.4%増)○南三陸・気仙沼圏域 3,576,287人(0.4%増)(3)圏域(地区)別観光宿泊客数○全県 8,226,706人(対前年2.8%増)○蔵王 650,604人(2.1%減)○旧仙台市 3,121,332人(5.6%増)○松島 735,276人(0.6%増)○二口峡谷(秋保温泉や作並温泉を含む) 1,210,242人(2.0%減)○鳴子温泉郷 801,000人(0.1%減)○栗原圏域 160,218人(0.3%減)○登米圏域 36,362人(6.4%減)○石巻圏域 379,928人(1.0%増)○南三陸・気仙沼圏域 491,824人(0.2%減)栗原は登米より入込み全体は少ないが宿泊は多いことになる。気仙沼と石巻の関係もそうだ。(4)居住地別宿泊観光客数 旅行者の居住地別のデータだが、「県外」からの宿泊客の比率と、そのうち代表例として「関東」の比率を見てみる。○全県 県外39.0% 関東18.4○蔵王 県外35.8% 関東18.9○旧仙台市 県外43.5% 関東20.9○松島 県外4.1% 関東1.9○二口峡谷 県外49.6% 関東22.8○鳴子温泉郷 県外29.4% 関東16.2○栗原圏域 県外33.4% 関東14.4○登米圏域 県外51.0% 関東24.9○石巻圏域 県外39.5% 関東16.0○南三陸・気仙沼圏域 県外55.7% 関東23.0これだと日本三景松島が全く県外から来ないようにも思えるが、実は「不明」が92.2%もある。地元の観光協会やホテルの調べ方の問題だろう。「不明」の僅少な栗原、登米、石巻、気仙沼をみると、絶対数は少ないものの、宿泊者には一定の県外層があることがわかる。(5)主要観光地点入り込み数絶対数の多いところを中心に拾う。○遠刈田温泉 836,388人(1.7%増)○仙台城址、瑞鳳殿、博物館等 1,000,730人(5.5%増)○クリネックススタジアム宮城 1,087,690(20.1%増)○仙台七夕まつり 2,030,000(5.1%減)○SENDAI光のページェント 2,570,000(1.2%減)○松島海岸 3,685,000(0.7%減)○塩竈神社 858,630(3.2%増)○秋保温泉 1,197,893(0.9%減)○定義如来 1,073,766(16.8%増)○竹駒神社 1,641,000(0.5%増)○宮城県総合運動公園 1,044,870(68.6%増)○鳴子温泉 1,115,900(1.7%増)○あ・ら・伊達な道の駅 3,422,423(18.1%増)○いわかがみ平・栗駒山 755,800(7.3%増)(6)市町村別観光客入込み数増減の顕著な市町村をみると、○柴田町 46.7%減○多賀城市 21.5%増○利府町 35.6%増○富谷町 64.8%減などとなっている。■関連する過去の日記 東北を訪れる国際観光客(08年8月29日) 東北の映画ロケ地(07年10月28日)
2008.09.02
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沖縄でどこから来たのと何度か聞かれ、仙台です、と答える。ああ、良い所だね、行きたいね、などとさまざまな返事があった。首里城を訪れた帰り際、間もなく店じまいのおみやげ屋さんのオジサンには、仙台なら青葉城に行ったよ、と言われた。首里城は素晴らしいですね、などと話す。こんなさりげない会話も旅行の楽しみです。首里城は本当に素晴らしかった。写真は夕日に照らされる光景です。最後に、沖縄で発見した宮城に関する余談。名護市内のスーパー(タウンプラザかねひで)に立ち寄って夕食などを買った際のこと。娘たちと一緒に宮城の米があるかどうか捜していたら、あったのは嬉しかったのですが、「ひとまぼれ」陳列カードにはこう書いてありました。ガクッ。店員さんに言わないの、と子どもに聞かれたが、結局言いませんでした。■関連する記事 沖縄と宮城(その2)(08年8月20日) 沖縄と宮城(その1)(08年8月19日)
2008.08.21
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特別現地調査の成果シリーズ第2弾です。沖縄美ら海水族館を訪れました。大きな水槽やイルカのオキちゃんショーに子ども達も大満足でした。ところで、その世界一の水槽の観客席の脇に、サメのコーナー「サメ博士の部屋」があります。巨大なサメのアゴ(上下の歯)の実物大の模型などがありみんな写真を撮っているのですが、その奥の壁に展示棚があって、そこに、ありました。わが宮城の気仙沼のことが書いてありました。フカヒレの名産地として、気仙沼港のことが出ているのです。何か嬉しいですね。(写真はちょっとブレていて不鮮明です。)■関連する過去の記事 沖縄と宮城(その1)(08年8月19日)
2008.08.20
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おだずまジャーナルでは編集局の総力を挙げて「沖縄から見た東北」をテーマに特別現地調査を敢行してまいりました。(はい。単なる家族旅行です。)今回から何点か、その成果をシリーズでお知らせします。第1回。沖縄では宮城の物産がどう売られているか。初日に那覇空港からほど近く、豊見城市内のスーパーでさっそく市場調査をいたしました。主任研究員(上の娘)と米のコーナーを調査。福島、山口、栃木の米などが平積みにされています。たしかに沖縄だと自県産米は少ないのでしょう。宮城の米はないか、と捜していたところ、主任研究員があったよ~、との声。ありました。宮城ひとめぼれ。写真ではわかりにくいかも知れませんが、1袋だけありました。3kgで1480円。お隣に山形こしひかりも、同じ値段。上段に魚沼こしひかり。1520円。しかも2kgです。ウ~ン悔しい。でも置いてあっただけ嬉しいし、山形と一緒というのもオツなもの。他の県よりは多少高めだったように思います。主任研究員の所見。米の袋が真空パックみたいになっていること。仙台だと、普通は中に空気が入っていますが、沖縄ではピッチリして米粒が袋の表面にザラザラと感じられるように密封されていました。(たしかサンエーとかいう店でした。スーパーの皆さん、ご協力ありがとうございました。)
2008.08.19
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昨夜は塩竈湊まつりの前夜祭の花火大会。本塩釜駅の海側のロイヤルホームセンター辺りで見物いたしました。色とりどりの光がパッと咲き乱れて、きれいですね。やっぱり夏は花火大会です。関係者の皆さんご苦労様でした。ベイエリアの雰囲気があって、塩竈は大変すばらしい町です。水産業や加工産業の不況、さらには市財政の窮乏で暗さもありますが、何といっても若い人は多く住んでいるし、交通基盤も大変恵まれている。花火大会の際も感じましたが、夜空と町灯りの間を水平に泳ぐような仙石線の高架の電車の光。仙台近郊にあり、文化面でも独自性があって由緒は随一、風情もあるし、こんな町は東北には他にないのですから。水産にとらわれずに、仙台を利用する気概で、新しい都市再生を。(そんな議論は後ほどに。)ところで、いつも迷うのですが、塩竈と書く時、「釜」「竃」「竈」のどれを選択しようか。市の表示は最後が本当なのですが、私はこれまで、その1つ前の略字のようなもの(縦の線が複線でなく単線で、亀みたいなヤツ)を選択していたような気がします。漢和辞典を見てみました。竈部首はウかんむりではなくて、「穴」のようで、21画。ちなみに市のホームページに、丁寧な説明があります。書き順もバッチリ習得できます。では、あの亀みたいな字は何かというと、竃これは17画で、竈の異体字なのだそうです。変換候補リストに出るので手っ取り早く使っていましたが、これからはちゃんと竈を使いましょう。そういえばあの有名なラーメン屋さん(本竈)もこれですね。塩竈神社近くの交差点には素晴らしい道路標識があります。画像を取り忘れたのですが、1枚の案内の中に、「塩釜駅」「塩竈市役所」「鹽竈神社」の3パターンの「しおがま」が収まっているのです。上の子に教えたら、興味を持ったようでした。「釜」と「竈」は字義が異なるため本来代用できないがJRや国県の表示では常用漢字を用いている、塩と鹽は字義が同じなので代用可能だが、神社は由緒を重んじている、とこんな説明で良いでしょう。鹽部首は鹵(しお)で、通常使う「塩」の異体字です。さすがに由緒ある土地柄です。最後に素晴らしい和歌を一つ。(詠み人オダズマ)しほかまの ひかりあつめし 千賀の浦 ドカンと一発 今日は頼むぜ(解釈)由緒ある塩竈の良さをあつめたような美しい花火が、歌枕の千賀の浦(塩釜湾)に咲き誇った。ああ、このように今日はホセと山崎に一発がでてくれることだろうなあ。
2008.07.21
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毎日新聞の記事(24日)に、バレーボール日本女子のエース栗原恵選手が栗原市被災者にあてた激励メッセージが栗原市役所の1階ロビーに飾られている、という内容が出ていた。17日に合宿先の大阪から寄せてくれたのだそうだ。栗原選手の所属チーム(パイオニア)は天童市が拠点だが、旅館「駒の湯温泉」が流されるなど深刻な被害が出た栗原市栗駒の耕英地区の開拓団は、ナメコ栽培や製炭で生計を立ててきた。天童市からナメコの買い付けに訪れる人がいるなど、天童市と耕英地区の交流は以前から続いてきたという。記事には特に書いていないが、栗原選手としては同名の栗原市に対する思いもあったのではないだろうか。河北新報の記事(23日)では、バレー女子が北京五輪出場を決めた後、栗原市瀬峰の農業グループや栗っこ農協が農産物などの「栗原の恵み」を栗原選手に贈ることを提案。それを知った栗原選手が被災者を励まそうと合宿先の大阪から17日、飲料水などと一緒に送ってきた。激励メッセージは「一日も早い復旧と皆様のご健康を願っております」との内容。農業グループの関係者は「本当にうれしい。つらい時こそ、みんなで心一つに頑張りたい」と。栗原の旬の農産物などは、天童市で7月14日に開かれる壮行会で、栗原選手に手渡されるそうだ。がんばろう栗原。そう言えば、がんばろう耕英のTシャツが贈られたという記事もあった。こういう時は、リクツは抜きに、何かの縁でつながっている人間の力で、何でも良いから励まし合いたい。脈絡もなく思い出すのだが、阪神大震災の後「がんばろうKOBE」をオリックスのユニフォームに縫い込んで復興の希望を灯し、その年見事優勝に導いたのは故仰木監督。頑張れ神戸、ではなく、監督自らの発案で、あえて「がんばろう」としたと聞いた記憶がある。この共助と共感の「がんばろう」スピリットが広まっているような気がする。災害は、いつでも誰もが出会うものだ。人ごとではない。スポーツと人間の力を感じる時がある。一生懸命やることはスポーツも人生も同じ、などと一般論をぶってみるが、そんなことより、今栗原の人たちは本当に真剣なのだ。がんばろう栗原。私は何もできないが、それでも他人として応援するだけでなく、自分も主語になって、がんばろう、と言いたくなる。栗原選手のメッセージ、私はとりあえず栗原市民ではないが、県民としてその心意気が有り難いです。がんばろう栗原。栗原の人たちも、バレー日本代表も、それから、オレも。
2008.06.25
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7日に名取市内のスーパーで販売された食パンに、5センチの縫い針が刺さっていた。警察で捜査を始めているが、地下鉄やバスの事件に次ぐ、許せない悪事だ。同じ系列店で2月にもカップ麺などの商品に針が発見されたというので、関連があるのかも知れない。このような事件は極めて難しい捜査になるのだろうが、警察には頑張っていただきたい。
2008.06.09
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初夏の朝、子ども達のTVタイムの後、県民の森へ。子ども達のストレス発散と大人の運動不足解消を兼ねて、(お金をかけずに)楽しめる施設。よくお世話になっています。9時半頃からお昼まで。アスレチック1週して中央記念館で休む。画像は記念館にある「おみくじ」です。右の方に束になってある竹のくじを1本引き、出てきた草や虫の名前に従って、扉を開けると、運勢がわかるという、自然派なごみ系のくじです。子ども達は、どうしても必ず全部の扉を開けてしまいます。
2008.06.08
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河北ウイークリー(イは大文字)に特集されていました。30年前の記憶の投稿特集。読んでみると、仙台の皆さんの生の記憶から、その時の状況が伝わってきます。私はまだ岩手県にいましたが、その日は家の2階で机に向かっていた。普通なら部活のはずで、珍しいことなのだが、中間テストか何かのため。何か揺れているなと思ったが、記憶にあるのは、窓の外を見たら母親が畑で野菜につかまるようにして、こらえるような格好をしていたこと。地面も波打ったのだと思う。岩手でこうなのだから、仙台の揺れは相当だったのでしょう。ウイークリーにの記事には実感こもった体験談が出ています。私のような仙台の30年前を知らない者にとって、体験を語り継ぐこのような企画は大変貴重で大事だと思います。そう言えば、「車が揺さぶられて、後ろのアベックが何かやっているのかと思ったが、道路が波を打っていたよ」とタクシーの運転手さんに聞いたことがあります。身の回りの人に「30年前」を聞いてみよう。
2008.06.07
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来ましたね。夜中の1時ちょっと前。我が家は夜9時就寝なので完璧に熟睡中。なにか地中でモゾモゾ岩盤が動き出したか、と気づいたその直後。意外とユラユラ感はなく、微動程度。何だ、震度1だね、コリャ、と思ってまた熟睡。明けてから確認したら震度3。石巻(桃生町)と福島県田村市で。震源は宮城県沖、深さは約50km、推定マグニチュード5.0とのこと。あっ!ついに来たか宮城県沖! とっさの覚悟をした方も多いでしょう。こんなことをあと何年(何十年)繰り返していくのだろう。
2008.06.02
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お陰で編集長の休日の仕事も増えました。田植えを終えた田園地帯を、さわやかにわたる朝の風。気温が高くなるのでしょうか、もやが立ちこめる中を、今日もわが宮城を盛り上げようと県北部を疾走してまいりました。前回に引き続き、自分の見聞も広めようと鹿島台(大崎市)で1カ所立ち寄りました。道路地図に記してある「竹谷の町並み」。書かれている場所がちょっと違うのですが、鳴瀬川の西岸一帯に、堀を中央に配する直線道路を中心に南北に延びた集落。鹿島台から美里町(南郷)、石巻市方面を結ぶ木間塚橋に近い。橋に至る県道が堤防の高さに達するよう高架されているので、その直交オーバーパスする県道を見上げるように、佇んでいるのが竹谷の集落なのです。仙台藩の大身侍、茂庭氏の家中が集住した町並み。現在、住宅の多くはすでに改築・新築されているが、中には茅葺民家の姿も見られ、道路の中央には用水路(堀割)が敷かれ、旧集落・旧町並みが依然としてそのかたちを残している、ということです。前回も思ったが、旧佐沼街道とはどういうルートだったのだろう。現在の鹿島台駅の東口から国道346を斜めに横切るように伸びる道路がそれだっただろうか。東北本線と、それをオーバーパスしてカギ型に進む国道346号によって、昔の街道筋が分断されているのだと思われます。とすると、この竹谷の武家屋敷はそれからは外れていると思うのですが。わざわざ川土手沿いに、堀を引き込んで町を作ったということでしょうか。写真は集落の北端と南端から、それぞれ撮影しました。中央の掘り割りをあえて暗渠にしないで残しています。風情があります。■関連する過去の日記 エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)
2008.05.18
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小牛田駅は何度も通過し、また乗り換えもしているが、駅前の風景は今まで全く知らなかった。電車で通ってはいても、町としての小牛田駅前は知らないのだ。昨夜は小牛田(美里町)を通る帰り道に、駅前で車を停めて歩いてみた。交通の要衝の町と言われるだけあって、駅前は道路が整備され、常夜灯も明るく、店構えも古くない。少し脇にはいると、飲食店も集中している。知人にも何人かいる。特に小牛田や遠田にゆかりはないが家を小牛田に建てた。便利だから。なるほどそうだ。仙台に通勤も軽快。宮城県北部のスコープなら、海に行くにも山に行くにもすぐ行ける。人通りもほとんどない。車も渋滞するでもない。静かだ。ただ、淋しさは感じない。いまの瞬間は静かでも、確実に人の往来があるまちだ、とわかる。駅前には家族を待つのだろう、自家用車が多数待っていた。金曜の夜とあってかタクシーも多数待機している。まもなく電車が入ります。駅のホームのアナウンスが聞こえてきた。田植えを終えた初夏の田園地帯は、蛙の声も聞こえる夜に包まれている。その中にストローで吸い込まれるように、明るく光る電車がすべり込んでくるのだ。
2008.05.10
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先日のこと。仙台空港アクセス線美田園駅そばに堂々オープンした「だてもん市場」を訪れました(3日昼ころ)。報道通りのたくさんの人たち。中には飛行機で帰国する前に訪れたのでしょうかアジアの人たちも結構多くいました。一回りして試食するだけでも楽しいもの。空の玄関から仙台に入る人にとって魅力ある食の拠点となれば良いと思いますし、鉄道駅至近なので何か面白い仕掛けができないか、と思いを巡らしながら、せっかく国際色豊かなので、家族で韓国料理をいただきました。ところで関係ないのですが、「一場」さんの方も、自信を持って頑張って欲しいです。
2008.05.06
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暖かく穏やかなこどもの日の朝。霧雨がしっとりと初夏の青葉を包み込む。県北部某町の仕事の帰り道、ふと思い立って朝の鹿島台駅(大崎市)の裏側に立ち寄ってみた。普段通る国道筋は、失礼ながら典型的なシャッター通りだ。現在の国道346号は、東北本線の西側を通り、南方から来るとすると、町中心部で駅のやや北側で直角に折れて東北本線を跨ぎ、再び北に向かって涌谷町・登米市方向へ抜ける。バイパスの計画もあるから、この駅西側は一層さびれるのだろう。しかし、駅東は、普段は立ち寄ることもない。どんなところなのだろう。歩行者専用の踏切ぐらいはあるのだろうか。思い切って立ち寄ってみた。駅東には新し目のアパートや歯科医院、コンビニなどがあって、ちょっとした都市近郊の駅前、という雰囲気。人の背丈ギリギリくらいの歩行者用通路が線路の下をくぐって線路西に通じている。私も車を降りて通ってみた。線路が駅構内で複々線になっている為だろう、結構長いトンネルで20メートルくらいはあるだろうか。何台かの車が来てこのトンネルの前で誰かを降ろして、引き返していった。また、近くの家やアパートからなのだろう、歩いてトンネルに吸い込まれる人たちも結構いた。まもなく仙台行きの電車か。ここに住んだらどんなだろう、と想像してみた。近くには新規分譲の看板もあった。朝8時05分の電車に乗ると、仙台駅に8時43分に到着。片道570円、定期は1か月17,000円。もっと早く仕事したいなら、始発は5時20分で5時56分に仙台駅。朝は7時台8時台いずれも3本づつある。終電は仙台駅発23時20分(小牛田行き)で、鹿島台駅には24時03分。これだけあれば十分だろう。この「東口」の月極駐車場は月額3,500円と看板に書いてあった。ちなみに、このあと「西口」の鹿島台駅周辺に回ってみたら、月額4千円から5千円くらいだった。美里町や石巻市あたりから、鹿島台駅を利用して仙台に通勤する人も多いと聞く。画像はその「東口」の歩行者通路(トンネル)。右手に入り口。画像左手が駅のホームです。
2008.05.05
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昨日(3日)は名取市閖上のサイクルスポーツセンターで、サイクリング。午前9時過ぎに訪れた時はまだ駐車場も10台くらいでしたが、お昼前にはかなりの人出でした。天気も良く、健康にも良いと言うことで、たまにはサイクリングも良いもの。おもしろ自転車コーナーで、下の子が気に入った2人乗り自転車に何度も乗らされて、脚に苦痛が走りました。
2008.05.04
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登米市のクーポンマガジン「まちナビ」を見ると、登米市出身の俳優木村昇さんが載っていた。29歳で石原プロ所属だそうで、私は知らなかったが、旧中田町浅水の出身、佐沼高校、日大でボートをやったのだそうだ。小学校時代の先生の言葉で芸能界を決意したという。故郷を大事にする心を忘れずに、大きく飛躍を期待します。そして、地元出身の木村さんを特集した「まちナビ」には、やはり登米市出身の歌手(シンガーソングライター)の美菜さんも。07年メジャーデビュー。中学まで佐沼で暮らしたのだそうだ。これまた私は知らないのだが、美菜さんは2月に迫養護学校で生徒とライブを楽しんだり、地元大型店でホームタウンライブ。地元を大事にして、大きく羽ばたいて下さい。このフリーペーパーを私は過日行楽の道すがら立ち寄った店で手にした(その日の日記)。米谷のA店。実は行きも帰りも立ち寄った。缶コーヒー2本で115円とオトクだったので。発行部数2万部。07年夏の創刊のようだが、これからも、地元を盛り上げて行って欲しい。
2008.05.02
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朝日新聞の記事(宮城県内版)に出ていた。すり身原料の不足と原油高(漁船燃料)により、ちくわの穴が大きくなるなど業界は苦心の対応を迫られているという。原料の米国産すり身は、昨年2月の1.4倍のキロあたり330円に値上がり。県内業者の対応が紹介されている。 ○ 阿部かまぼこ店(仙台市) 5月から主力商品を値上げ 140円→150円 ○ 白謙(石巻市)、高政(女川町) 4月からすでに10円値上げ ○最大手の鐘崎(仙台市) 4月から主力2品を1割減量 ○ 佐々直(名取市) 5月15日から一部商品を1割減量ところで、宮城県内のかまぼこ業者はどれだけあるのか。改めて気になってしまった。全国かまぼこ連合会のHPでは、その会員として、・仙台蒲鉾協同組合(大町の阿部蒲鉾店に事務局を置くようだ)・石巻市蒲鉾水産加工業協同組合・石巻焼竹輪工業協同組合・気仙沼蒲鉾組合・塩釜蒲鉾連合商工業協同組合が紹介されている。また、同HPのリンク集として紹介されている個々の業者(宮城県分)は、49もある。○塩竃市(塩竃が仙台より前にあるのが新鮮!)24○女川町 1○気仙沼市 5○松島町 1○石巻市 19○仙台市 6○南三陸町 1○名取市 3○亘理町 2となっている。仙台市は名の通った業者が多いが、塩竃に比べれば6件というのは意外と少ない。それにしても塩竃はさすが。かまぼこの町だ。
2008.04.25
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春休み初日の5年生の娘。ヒマだったらしく、昨日(25日)は、新聞の公立学校教職員異動を読んだそうだ。自分の小学校に転入される先生を一番先に捜したのは当然だが、他にもいろいろ気が付いたようだ。今度離任する先生が一目で分かるように、異動する前の学校で「見出し」があるといいね。あの先生はどうなったかな、とわかるように、先生のあいうえお順とか。なるほど、それはそうだ。そういえば、昨日の朝に新聞を読みながら、通っている小学校の先生以外でもお世話になった先生の名前を私が見つけたので、教えてやったのだ。あ、あの先生今度校長先生だよ、と子ども達も喜んでいた。栄転を喜ぶというより、見つけた喜びだろうが。これスゴイよ。女川一の人が女川二で、女川二の人が女川四で、女川四の人が女川六で... 何でこんな近くでだけ動くんだろう。(親)女川はね、離島があって、島の学校との間で異動するということなんだよ。新田一とかたくさん出ているよ。(親)それはね、新田一小と新田二小を統合するんだ。異動先が、新田とあるが、これが新設校だ。登米管内には他にもなくなる小学校があるんだ。嵯峨立もそうだと思うが、小規模校なんだ。宮城一女がずらっと並んでいるよ。(親)宮城一高と名前が変わるから、先生のいる学校は変わらないけどみんな新しい学校に異動する形になるんだね。女子校が共学になるんだよ。などなど。異動の一覧を読むのも結構社会勉強になるものだ。
2008.03.26
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この際正確に知識を蓄えよう。知っているようで曖昧な、東北の大河北上川の改修と流路変更の歴史について。1 前史最も古い改修は、宝亀11年(780)から24年にわたって坂上田村麻呂が行った舟運を目的とした低水工事とされる。また洪水対策も原野を田畑にするのに応じて行われてきた。北上川の舟運は各豪族の関心事であり、安倍氏により河畔に城柵が数多く建立されていたとされる。現在も、一関市川崎に石積みの跡が確認でき、石積みの技術が存した以上当然河川改修も行われていたと考えられる。(慶長以前の流路図)2 伊達宗直の改修1604年に登米に移された白石(伊達)相模宗直は、慶長10年(1605)に暴れ川北上川河道の変更に着手。北上川を川面付近で遮断し、約5年の歳月をかけ、米谷へ湾曲させて二股川に合流させる堤防(相模土手)を完成。息子の宗貞と親子二代にわたり北上川改修工事は続けられた。こうして森と吉田の流路はなくなり、北上川は平野の東に寄せられ、かつての流域は広大な新田として開発された。(宗直工事後の流路図)3 川村孫兵衛の改修伊達政宗は仙台藩の基盤をより強固にするため北上川をはじめとする河川の改修と利用を押し進めようと考えた。そのため、長州出身で冶金や土木にすぐれた川村孫兵衛を招き、数々の治水・利水事業を手掛けた。中でも最大の功績は、元和9年(1623)から4年の歳月をかけた北上川改修工事。柳津-飯野川間の遮断、北上川・迫川・江合川の流路を和渕で合流させ、後に、その合流に北上川の西流を戻すことで、北上川、迫川、江合川の三大河川を一本化し、舟運路としての北上川の機能を飛躍的に高めたものである。この付替工事により、河口石巻は、江戸廻米の一大集積地となり、奥州の中心的な港として栄えた。(川村孫兵衛工事後の流路図)孫兵衛は1648年に没するまで牡鹿郡門脇村に住み、屋敷跡が普誓寺とされ、墓が残っている。しかし、孫兵衛の改修では、迫川、江合川は北上川に合流させられ、川幅が絞られたこの合流点上流域では毎年のように水があふれた。繰り返される氾濫に人々は水山(盛り上げた土の上に建てられた小屋)を作り、洪水と共存した生活を営むことを余儀なくされた。4 明治以後明治13年(1880)から35年にわたって、河口の石巻から盛岡まで、航路改良を目的とした低水工事を実施。明治43年の2度にわたる大洪水をきっかけに明治政府は北上川改修に着手。明治44年(1911)から昭和9年(1934)にかけて、河口部の放水路として開削を実施。柳津から飯野川までの新水路の開削、追波川の拡幅による新北上川の整備という抜本的な改修が行われ、飯野川可動堰の完成をみる。昭和22年、カスリン台風は登米市中田町大泉で北上川の堤防を破り、翌23年アイオン台風が再び北上川流域を襲い、迫川などの支川で破堤氾濫を引き起こす。これら多大な被害を受け、従来の治水計画を再検討とし、上流部(岩手県内)には5大ダム(石淵、田瀬、湯田、四十四田、御所)を整備し、下流部でも洪水調整のためのダム建設を行う、上下流一貫した北上川改修計画を確立。昭和53年には飯野川可動堰に代わり、北上大堰が竣工。現在もこれらの計画を基本に治水事業が行なわれている。(明治以後の流路図)■参考 北上川下流河川事務所のサイト(河川改修の歴史) 『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1■関連する過去の記事 北上川流域の「水山」(08年2月11日
2008.02.17
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東松島市の野蒜海岸と宮戸島は橋でつながり、自由に道路で行き来できるが、もともとは自然の水路で隔てられていた。この松島湾と石巻湾をつなぐ水路が、昨年秋に大量の砂の堆積でふさがってしまった。嵯峨渓遊覧船乗り場の南側から宮戸島・二本松鼻まで、もともとは幅150メートル、長さ200メートルあった水路だが、ここ数年の間に、砂がたまり始め浅瀬状態になり、昨年10月末に一気に埋没。埋没は初めてのことで、完全に陸続きになってしまった。松島湾側からすると、鳴瀬川などから供給される栄養分が松島湾に注ぐ重要な水路で、東名前にはノリとカキ養殖の有力な漁場がある。海水の循環が途絶えたため、特産の養殖カキに被害が出始めている。危機感を募らせた地元の養殖業者が県や市に抜本的な対策を求めている。砂は、1984年に石巻工業港防波堤の建設が始まってから、たまるようになったという。地元漁業者の間では、南防波堤の延長に伴い潮流に変化が生じ、大曲浜の砂が流れるようになったという考え方が主流だが、はっきりした原因は分かっていない。水路を管轄する県は、船の航路を確保するため毎年、約一千万円をかけて、しゅんせつによる砂の撤去作業を実施しているが、堆積のスピードに追いつかないのが現状。15日には、県、市、漁協、学識経験者らで組織する潜ケ浦(かつぎらうら)地区海域環境対策コラボ事業検討懇談会が設置され、初会合。県は埋没した水路の応急対策を説明するとともに、恒久対策の整備方針や工法選定スケジュールなどを示した。応急対策は四月から水路復元を目指して埋没現場を延長百メートル、幅十-十五メートル、深さ三メートルにわたって掘削する。しかし、地元漁協幹部から「せっかく掘っても、海が荒れた場合はまた埋まってしまう。恒久対策を示して対応してほしい」との意見が出されたため、応急対策は検討し直すことになった。また「近くの航路が浅くなっており、しゅんせつしてほしい」との要望も出された。(三陸河北の記事などから)野蒜から宮戸地区に入ると、しばらく海沿いに県道が走るが、このあたりは以前は海だったと聴かされたことがある。工業港建設より前から堆積は進んでいたのだろうか。自然の力。漁業関係者の立場と行政(財政)の役割など、考えると難しい課題だ。
2008.02.16
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水山とは初めて知ることばだった。不勉強を恥じる。小学1年生でも書ける字句だが、わが宮城の生活に根ざした風景だ。■登米市視聴覚センターの記録映像「永遠の伝承 遊水地帯に生きた先人の遺構 水山」 (旧豊里町のもののようだ) 国土交通省資料 宮城県登米振興事務所資料 東北学院大学の研究室のサイトの資料北上川や迫川流域は水害常襲地帯でもあったので、2m程度の微高地を作り、水害に備えた。これが水山である。水山には井戸も備えて長期間の水害に対処した。江戸時代には買米制のため一般農家には蔵はなく、近代以降に蔵のある水山の風景が出現した、という。(『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1)
2008.02.11
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最近新聞広告によく出る。よしもとお笑いEXPOin仙台というやつで、お笑いタレントの顔が一堂に揃って、出演予定とか決定とか書かれている。何日か前のには、うなずきコンビが出ていて、出演決定、と。今までは出ていなかったと思う。吉本とどういう関係なのかこの世界のことは知らないが、とにかく目にとまった。ビートきよしと洋八さんだ。私はビートきよしが好きだが、最近はめったにTVでも見ない。仙台に来るなら見たいな、と思う。■過去の記事 山形出身の芸人(07年3月27日)
2008.02.09
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日本製紙の環境偽装とKスタ命名権問題は一応決着したようだが、宮城県と仙台市以外で初めて塩竃市が命名権取引に乗り出す(市サイトのお知らせ)。さる1日、塩竃市は市体育館の命名権の購入先を募集すると発表した。希望価格は年500万円で3年程度。公共スポーツ施設にふさわしい企業を求めるそうだ。2月から当分の間随時受け付け、ということだ。そこで、おだずま流で考えてみた。由緒ある歴史のまち塩竃(塩竃市サイトでは塩「竈」の文字を使っているが)にふさわしい企業とネーミング。塩竃にゆかりの企業で勝手に考えました。1 カメイしおがま体育館(やっぱり塩竃発祥の企業と言えばカメイでしょう。亀井文藏氏が名誉市民です。)2 塩竃うらがすみアリーナ(佐浦さんがスポンサー)3 亀喜すし哲しらはた体育館(とにかく寿司屋を並べて寿司海道をPR)4 やまやワールドリカースタジアム5 守屋記念総合体育館6 おだずまジャーナル東北ギムナジアム(これは無理です。500万円出せないので。)ふざけた方に持って行ってしまったが、まずは、どこか企業が名乗りを挙げてくれれば良いと思うのが本音です。
2008.02.08
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国道6号線沿いに看板があり、西に折れるとすぐ山門が見える。曹洞宗の大雄寺(だいおうじ)で、一門亘理伊達氏の菩提寺。武石氏の小堤城跡の場所になるそうだ。当初は信夫郡小倉郷(現福島市)にあって陽林寺と称したが、伊達実元(成実の父)の戒名にちなみ雄山寺とし、慶長9年(1604年)に現地に移転。のち3代藩主綱宗の諡号の雄山をはばかり寺号を大雄寺と改める。画像の正面は成実の霊屋である。霊廟の中には成実の木造彩色甲冑像があるという。霊屋の左手で堂宇の補修工事だろうか、足場が組まれて職人さんが登っていた。冬のおだやかな陽を受けていたが、やっぱり亘理は暖かい。仙台は氷点下続きなのに、気温が7度くらいだった。成実は、勇猛にして才知あふれる武将。TV画面の三浦友和の印象も残るが、実は私は子どもに成実の名を付けたかった。娘が生まれ、それでも「なるみ」と読ませて名付けようかと思ったほどだ。亘理2万3千石は、伊達成実が領主となり明治まで14代にわたって治めた。亘理城(御館)は現在の亘理高校、旧舘公園。戊辰の戦では仙台藩の降伏文書調印が亘理城で行われた。亘理町は由緒ある宮城の要の地で、城下町の風情も幾分残っている立派な町なのだが、宮城県全体の中で見ると、現在の交通の枢軸から外れているためもあってか、注目が集まらないような感じもする。私の勝手な印象に過ぎぬかも知れぬが。実際に6号線を南下しても、現在の国道は旧市街地を通らないから町を感じ取ることもできない。しかし、歴史も食べ物も豊かなところだ。ホッキ、はらこめし、いちご、何度か我が家でも訪れている。鳥の海に新しい温泉施設もできたから、またゆっくり訪れてみたい。■参考 『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1
2008.02.07
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写真は栗原市一迫の川口納豆。村松博士製法との文字。しばらく前のことなのだが、栗原市(旧花山村)の道の駅で見かけた瞬間に、記憶の堆積層に埋もれたものにカチンと当たったような感覚をおぼえた。小さい頃の納豆といえば、こんな独特な折りたたみ方をした赤い紙の包装だった。家で食べていたのもこの納豆だったと思う。あるいは、当時はどこの納豆も同様の包装だったのかも知れないが、たぶんこの川口納豆だったのだと思う。川口納豆さんのホームページ(これでしょうか。他に紹介記事)を見ると、昔ながらの地域企業として顔の見える信頼感がある、などと勝手ながら思っている。地域企業などという枠に納めては失礼か。商品は全国に広がっているのだろう。栗原発、宮城発バンザイ。我が家は納豆一家。上の娘などは幼少の頃に食べさせたお陰?か、朝はもちろん、夕食にも納豆パックを引っ張り出して食べている。妻とその母は昨冬の納豆ブーム崩壊後も平常ペースで食している。生協さんのパックだが、たまには川口納豆にしようか。食べ応えがあって美味そうだ。子ども達にも知って欲しいし。さて、6時です。そろそろ朝飯にするか。■関連する過去の日記 納豆大国? 山形と仙台(07年3月8日) 納豆ブームを考える・続(07年1月22日) 納豆ブームを考える(07年1月13日)
2008.02.06
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一昨日(16日)の宮城県内の一日の電力消費量が過去最高を記録した。この日の仙台市は強い寒気のせいで、一日の平均気温が0度5分と、寒かった。一日の県内の電力消費量は、5566万9千kwh。これまで最高は去年8月10日に記録した5510万6千kwhだが、これを上回る記録。■関連する過去の記事 山形県で1日電力消費量が最大に(07年1月14日)
2008.01.18
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今年の正月三が日は、好天に恵まれ、昨年より5万5千人多い、延べ156万人あまりが初詣に参拝したそうだ。県民の大半はお参りしていることになる。参拝客の多い順に1 塩釜神社 44万3700人(去年より1万3200人増)2 竹駒神社 43万7000人(1万7000人増)3 大崎八幡宮 9万6500人(4500人減)など(NHKローカルから。県警調べ。)いや~、竹駒さんはいま一歩で、接戦でしたね。あまり意味はないですが。私は元旦8時頃に市内の近くの神社に、一人歩いてお参りして来ました。小さな社ですが由緒があります。上の娘が今年も正月から1週間合宿に出発するので、安全で楽しく過ごせるようにと出発前に参拝しました。その後、3日には上の子以外の家族でこれまた由緒ある大きな神社へ。去年もやりましたが、この後東北の参拝客数を整理してみたいと思います。■関連する過去の日記 2007年東北の初詣でデータ(07年1月7日)
2008.01.05
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昨日(30日)家族で県北部を周回。途中お昼に、国道4号沿いの赤い看板が目印の西屋ラーメンにお邪魔する。実は市役所近くの著名なそば屋に入ろうと、右折しようとしたら準備中の看板。あわててそのまま北進、なんとか西屋さんの駐車場の3台目スペースに滑り込む。この店、以前から国道4号を通る度に目には入っていたが、一度も訪れたことがない。ケガの功名とは言え、家族4名で入ることができたのも幸い。時刻はちょうど12時過ぎ。店内は満杯状態。お客さん達は近所の家族連れという雰囲気。ラフな格好や、お年寄り連れなので、そうわかる。ご家族だけでやっているのだろうか、客が多いのに調理はご主人とおぼしき1人だけで、あとはホール係など2人でやっている。メニューも豊富で、かなり大変だろう。我が家は、中華大盛り(編集長=父)、みそラーメン(母)、とんこつ(姉)、ワンタン麺(妹)。どれも美味かったが、みそのスープ、豚骨のスープが良かった。5年生のお姉ちゃんはちょっと冒険でとんこつを頼んでみたのだが、大当たりだったようだ。皆でスープをすくいあって楽しんだ。ところでこの西屋さん、入ったことはないのだけど私には思い出がある。たしか上の子が2歳か3歳くらいの頃。車で上の子を後部のベビーシートに乗せて夜の国道4号を仙台方向に走っていた。どういうわけか子どもが泣きやまず、運転しながらなだめていた私もついに爆発して大声でどなってしまった。子どもに怒鳴っても仕方ないのだが。すっかり頭に血が上って、車を止めて降り、後部に回ってドアを開けて、たぶん、そんなにイヤなら降りるかオイ、とか言ったのだろう。短気な性格から直情的に行動する時があるが、ストレス状態を継続するよりも何らかの行動に出ることで同時に頭を冷やす、という無意識の機制なのかも知れない。その降り立った場所が、まさに西屋さんの駐車場。夜で店は閉まっていたと思う。そんなことがあってここを通るたびに、若干の悔悟を含む記憶がよみがえっていたのだ。そこに初めて入店できた。ラーメンが届くまでのやや長い間、上の子は店内を観察してあれこれ話題にする余裕も。豚骨を味わった後は、小上がりの空くのを待っている子ども連れの家族のために席を空けてあげた。西屋さん。成長しました、この子も。ありがとう。
2007.12.31
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NHKのニュースによると宮城県内で飲酒運転による人身事故や違反の市町村別の人数が公表された。免許保有者1万人あたりで、事故が最も多かったのは大郷町(3.23人)、違反者が最も多かったのは村田町(12.4人)だそうだ。事故 1大郷町 2大和町 3丸森町違反 1村田町 2大衡村 3栗原市いずれもゼロを達成したのはひとり七ケ宿町だけ。不名誉な第1位となった両町だが、摘発されない飲酒運転も相当横行しているとみなければならない。昨日は県北部で小学校の教頭の飲酒運転で信号無視が報道された。年の暮れにガッカリ。今までもやって来た。みんなもやっている。事故にならないなら良いだろう。見つかるはずもない... ひとえに意識の問題なのだが、無くならないから、法制度やらPRやら何かとコストをかけて世の中がいろいろ考えなければならない。
2007.12.30
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明治天皇に奉仕した名馬金華山号は、明治2年栗原郡鬼首村(後に玉造郡に編入)軍澤に生まれ、高橋七右衛門と妻みよに育て上げられた。純粋和種、丈は4尺9寸、栗毛。明治3年の馬市で売られ岩ヶ崎馬喰油屋丁吉の手に5両で帰した。明治9年天皇のご巡幸で水沢に御注ひつ遊ばされた折、警衛の警部の乗りし馬の非凡なるを供奉の馭者矢野宣温が認め、これを購って帰り、名を金華山と改めた。宮内庁調教師目賀田雅周が調養し、明治12年竜御に供することを聖上お許しになる。明治13年7月三重、愛知2県の陸軍大演習に臨せ給いし折りに初めて玉鞍を戴く。21年には浦和付近の機動演習の天覧に際し、奉供の馬が皆驚き逸する中、ひとり金華山は泰然とこともなげに歩き、真の軍馬と激賞される。あるとき観兵式で土盛りして一段高くした場所に金華山号を召された天皇がお立ちになった。その台地土盛りが崩れたが、金華山号は片足を浮かしたまま泰然自若とご盛儀を終えたという逸話もある。また聖上が乗御されるときは膝を折ってお乗せしたという。明治28年6月に老衰して死去。玉鞍を戴いたのは明治13年から26年まで14年間に及ぶ。後藤貞行氏の超克、また五姓田由松氏の油絵が神駿を後世に伝える。木彫が鬼首荒雄川神社境内の主馬(しゅめ)神社にまつられる。ところで、鬼首には名馬にまつわる伝説も多いようだ。支倉六右衛門は隠し馬を1頭鬼首に連れてきた。政宗が軍馬の改良に意を注ぎ、支倉の渡欧に際してその意を含めた、というのだ。洋馬を連れて舟で北上川を上り、登米あたりで陸揚げし、栗原から鬼首に入ったという。鬼首には伊達家の隠し牧(牧場)が2百町歩あったという。また、宇治川の先陣争いの佐々木四郎高綱の乗馬池月号は玉造池月の産といわれるが、もとは鬼首にいた野生の馬ともされる。
2007.12.26
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食材王国宮城の究極の味わい。松島の四季彩食料理コンテスト入賞作品をいただいた。昨日(23日)に松島一の坊で。一昨年も来たのだが、今回も一家総勢6名にて。大人は最優秀作品を、また子どもたちは優秀賞をいただいた。最優秀の「冬の松島・四大観」は出てくるどの品も素晴らしい。四大観を日の出から夕日まで見立てた。初めのトマト豆腐のサッパリした食味に始まるが、これは松島湾の朝日をイメージしているそうだ。鱈の昆布締めは扇谷に見立てているそうだが、とても美味かった。大高森見立ての茶碗蒸し。そして、写真は、多聞山に見立てた牡蠣岩石揚げ、富山に見立てた穴子の一夜干しからすみ焼。食事の雲丹炊き込みご飯に、牡蠣白菜巻の汁。その後は展望露天風呂でゆっくり松島湾を眺めた。普段は昼飯で100円でも高いと文句を言い、質より量の、はんだや系人間だが、今日ばかりは宮城の食材と板前さんの技を堪能させていただいた。名勝松島に浸り、食材を味わい、これ宮城ならではの楽しみですな。食事や風呂の代金はともかく(書くだけヤッパリ貧乏性)、場所と時間と味を楽しむのだから。風呂の後でマッサージ機に座っていたら、娘たちが男風呂にドカドカ走って来た。ああ、予想通り。二年前と同じだ。■関連する過去の日記 松島在住の浅井元義さんの画集に出会う(05年12月26日)
2007.12.24
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家具のニトリは今は国道4号バイパスの松森にあるが、昔は運転免許センター交差点から、今で言う泉ヶ岳通りをチョットだけ泉区役所方面に入った所にあった。15年くらい前だろうか、初めて訪れたときには、秘かにその名前が気に入っていた。県内でも最も由緒ある地名の一つ、名取郡の古名「丹取」(にとり)のことか、と勝手に結びつけたりしていた。なんて素晴らしい名前なのだろう。何でも社長さんが似鳥さんらしい。しかも全国展開だから、名取も何も関係ない。次はニトリ、ニトリ。バスの乗客がみんな降りてしまい、運転士も気になって降りてしまう、というテレビコマーシャルもあった。なぜか思い出した。
2007.12.15
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報道によると、日本製紙が宮城球場の命名権を取得するらしい。全国的にネーミングライツは新進企業が多いように感じていたので、従来型の大企業、しかも県内に拠点工場を構える日本製紙の取得は、県民にとっても良いことだと思う。もちろん新進企業がダメというわけではないが、やっぱり公共施設だから、県民や野球ファンと一緒に歩んでいける企業が良い。2億円という金額で連想したのは、先日黒石市のこけしを買ったとされる仙台の企業。ここならば、カニスタか!と勝手に思っていた。日本製紙なので、代表的ブランドのクリネックスを冠して、クリスタでしょうか。クリスタルキングを思い出すのは、私だけか。球場名も決まって、来季は気分一新みんなで上位進出をめざそう。新陣容も決まりつつあります。試合日程も決まりました。来春が待ち遠しい。ホーム開幕は3月29日で対ハム。今年は岩隈の先発回避に強風の開幕でした。来季こそ。行けイーグルス!ゆくぞプレーオフ!と、日本製紙の記事を手にひとり盛り上がっています。
2007.12.08
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共産党が宮城県の総選挙小選挙区の候補者を発表した。全区擁立の方針を改め、立てるのは1区と4区だけ。共産党が力のある地区がよくわかる。改めて思う。4区の塩釜は強いのだ。1区は仙台の中心部だからと理由づけているが、青葉区と太白区で、従来県議の議席を保ってきたところ。全選挙区擁立方針をやめるのは中央の方針だが、この点は時代の変わりを感じる。
2007.11.26
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円通院の夜です。ライトアップされた紅葉が見事。ここは入り口なのですが、中を歩いて回ると、幽玄の世界に浸ってしまいます。琴の演奏もあり、また、紅葉が夜の湖面に映る様も一興でした。
2007.11.15
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晩秋の朝、私は早朝から松島湾を望む宿で、カメラを構えていた。刻一刻と明けゆく空と海を眺めていると、飽きないものです。これがその画像の1枚。どうでしょう、絶景ですな。しばらくすると海面はもう初夏のように輝き出す。一日の始まりだ。どんな時でもお日さまは東の空に上がってくれる。ありがたいものだ。皆さん、何があっても諦めてはいけません。明るい明日はきっと来る。眠い体を電車に乗せて仙台に出勤したのでした。
2007.11.13
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心残りなのだが、結局くりでんには乗車しないでしまった。11月に地元のNPOが体験乗車会を開催するそうで、このような取り組みには敬服するし、行ければ是非車両に乗ってみたい。先日、初めてくりでんのレールを「踏みしめて」みた。これまで、沢辺でレールをまたいで(4号線のオーバーパス)、あるいは若柳や岩ヶ崎で踏切を横断することはあっても、車で通過しただけのこと。場所は鶯沢の国道脇、金田森公園入口の踏切。国道のすぐ脇なのだが、標高差があるので道路から急な坂を登るとすぐ踏切になっていた。最初の画像は鶯沢駅方面(石越駅行き方面)。次は、細倉マインパーク駅方面。■関連する過去の記事 くりでんメモリアル乗車(07年2月15日)
2007.10.27
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かつての津山町は、柳津町と横山村が合併してできた町で、町名は典型的な合成地名。本吉郡に属していたが、登米郡下8町との合併を選択し、新しい登米市の一部になった。この柳津と横山には、それぞれ誇るべき名所がある。柳津には柳津虚空蔵尊。日本三大虚空蔵尊のひとつに数えられる。726年に行基が東国巡遊した際に、この地で刻んだと伝えられる。 そして横山不動尊。こちらは日本三大不動。弘法大師作と伝わる木造不動明王坐像がある。今月にそれぞれで催事がある。12日、13日には、柳津虚空蔵尊大祭があった。正午から山海の珍味を膳に盛り行列をして、その後護摩祈祷。また27日、28日には、横山不動尊大祭。不動尊の体内には金の秘仏があり、12年に一度に開帳されるが、次回は平成30年だそうだ。とすると昨年が該当年だったのだろう。それにしても並んだ2つの地域に、日本三大名数の名所がこれまた並んでいる。素晴らしいことです。■歴史探訪(登米市ホームページ) なお、漢字の誤り。弘法「大師」なのに、(マグマ)「大使」になっていた。■イベントスケジュール(宮城県ホームページ)■関連する過去の記事 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)
2007.10.26
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先日、我が家は栗原市花山に釣りに出かけた。道の駅の脇の釣り堀だが、とにかく良く釣れる。2年生の娘も大ハッスル。子ども達は釣りが大好きだ。と言うわけで、その日(日曜日)の夜の食卓はもちろん、魚たち、でした。
2007.10.25
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