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◆小説のあらすじ・登場人物◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 病院を出る頃には、もう昼を過ぎていた。「やだ、お昼ご飯、とっくに来てる時間じゃない。もう冷めちゃってるかも」 ロビーの壁に掛けられた時計を見て、紗英は慌てて立ち上がった。「そろそろ部屋に戻るね」「ああ、それじゃあ、またな」 紗英はホスピスへと続く通路の方に、僕は紗英とは反対に、正面玄関へと向かった。 紗英が笑ってくれてよかった。 開きかけた自動ドアの隙間から冷たい外気が流れ込むのとほぼ同時に、ロビーの向こう端で紗英が大きな声でこう言った。「吾朗ちゃん、また来てよ。絶対だよ」 その声は外からの光が反射する真っ白なロビーに、明るく響き渡った。 僕が事実を知ってしまったことで、紗英を余計に傷付けてしまうのであれば、いっそこのまま会わない方がいいのかもしれないとも考えていた。 だが、会いに来てよかった。今はそう思えた。 辛くない訳がない。紗英が無理をしているのは痛いほど伝わってきた。 それでも心に突き刺さった尖った氷柱(つらら)のような現実が、僕たちの体温に温められ、ゆっくりと溶け始めたのは確かだった。 昔の彼女だから、妹だから、そんな理由などどうでもいい。坂下が願っていたように、僕も紗英を呪縛のようなものから少しでも解放してやりたい。残された時間があとどのくらいあるのか分からないが、きっとまだ何かできることがあるはずだから。 そんな僕の顔を見て、くるみもまた安心したように笑みを浮かべた。「いつもの吾朗君に戻ったね」 紗英との関係が変わったように、僕とくるみの関係にも変化があった。 一度離れてしまった距離は縮まってこそいなかったが、それぞれの場所からお互いの顔を自然に眺めていられるような、そんな雰囲気が漂い始めていた。 もう未練はないと言えば嘘になる。だが僕には、お互いの関係をどうこうする余裕はまだなかった。それはくるみも察してくれていたと思う。 ただ何となく、今はこのままがいい、二人ともそう思っていた。それが一番無理のないカタチだと、僕たちはお互いに感じていた。 くるみを送って一人になってから、僕は紗英が病院で言った言葉を思い出していた。「現実はいつだって、私には冷たかった。でもどんな状況の中でも、夢を見ることは誰にでも許されていることだから。一つ駄目になったらまた新しく、そうやっていつも夢を見ながら、明日に繋いできたの」 子供の頃は父親のいない寂しさを抱えてきた紗英。その父親が見つかった途端に、突き付けられた残酷な事実。 そこから立ち直り、幸せな家庭を築いていたところに、今度は早過ぎる母親の病死と自分の病気。「お母さんがまだ入院してた頃ね、体調を崩しちゃった時があって、最初は看病疲れかなって思っていたんだけど、琢人に話したら、検査を勧められてね。検査の結果、お母さんと同じ薬が処方されたの」 母親の葬儀や実家の後片付けなど一通り済んだら、紗英は病気のことを夫に話すつもりだった。そのことを知った上で、本当は最後まで自分のそばにいて欲しいと願っていた。 だが紗英を待っていたのは、思いもしない悪夢だった。夫の浮気、そして相手の女性の妊娠。「私たちには子供がいなかったし、いっそここで別れちゃった方が、あの人も私のことで悲しまずに済むのかなぁって。別れればあの人は相手の女の人と一緒になれるし、そうしたら生まれて来る子供も幸せになれるんじゃないかな、って思ったんだ」 自分の夫と浮気相手の女性との間にできた子供の幸せ。それすらも紗英の夢の一つだった。紗英自身が同じ立場の子供だったから。 そう言えば、親父が死ぬ前に母さんが見付けたあの通帳。母さんにも内緒で、親父はかなりの額を貯め込んでいた。最期まで何のために貯めていたのか親父は口を割らなかったが、あれはひょっとすると紗英の母親と紗英のためのものだったのかも知れない。「優しいと言うより、気が弱い人なのよ。喧嘩にもなりゃしない」 不器用な親父の優しさを、母さんはいつもそう言って笑っていた。 野球が好きで、スタジアムで試合があると、よく連れて行ってくれた。 僕が地元の少年野球のチームに入ってからは、試合の時はいつも応援に来てくれた。初めてホームランを打ったあの日。試合が終わってから母さんが作ってくれた弁当を、家族三人、陽だまりの中で囲んで食べた。 何やってたんだよ、親父。 僕はどうしても、親父の不倫を家族への裏切りだとは思いたくなかった。そう思うことはできなかった。捨てることのできない愛情と、捨てるしかなかった恋心。僕や母さんを大切にしてくれた親父の、男としての苦しみはどれほどのものだったのか。恋愛を遊び事でできるような小狡さは、欠片も持たない人だったから。 信号待ちをしている僕の車の前を、どこにでもいそうな家族が横断歩道を渡って通り過ぎて行く。小さな女の子を肩車している父親。その隣には母親が、肩車された女の子より少し大きい男の子と手をつないで歩いていた。 男の子の空いている方の手には、しっかりと一本の糸が握られていた。真っ直ぐに空に向かって伸びるその糸の先には、空よりもずっと青い風船が、乾いた冬の風の中で弾むように揺れていた。(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○読んでくださり、ありがとうございました!ランキングに参加中です。応援していただけると、かなり嬉しいです こんなアンケートもやっています♪ご協力ください。「poincare」の登場人物で一番応援したいのは誰ですか?投票は こちら から!(12/31締切)更新のお知らせ・コメントへのお返事どころか、すっかりご無沙汰しちゃっている方々、大変申し訳ございません。m(__)m先週は皆さんの温かいお気使い、大変嬉しかったです。励ましのコメント、メッセージ、ありがとうございましたお陰さまですっかり体調はよくなりました。が、まだ忙しさは続いています。というか、これから年末年始に向けて、ますます忙しくなっていくじゃあ、あ~りませんかっ!( ̄⊥ ̄lll)思うように皆様のところへにお邪魔できなくなりそうですが、出来る限り時間を作って御伺いしますので、どうか見捨てないでくださいね~それと皆様もくれぐれも体調にはお気を付けくださいね。(*^^)vさて今回の本文補足・参考までに… <吾朗の父親が隠していた通帳 第17話> <紗英の夫の浮気と離婚の話 第30話> <琢人が願っていた紗英の心の解放 第44話>今日もありがとうございました ブログ管理人・ぽあんかれ
November 29, 2008
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先週末は「poincare」の更新をお休みしてしまい、ご心配おかけ致しました温かなコメント・メッセージをお寄せいただき、心より感謝致します。10月後半から子供の学校行事も多く、個人的にも色々と予定が重なり、多忙が続き、疲れがたまってきたな…と感じていた矢先、先週、急な寒さで小学校で流行りだした風邪を流行に敏感な(?)子供が早速もらってきて、これまた流行りモノ好きな私も早速ご相伴にあずかってしまった次第であります。笑お蔭様でしっかり回復致しました。ちょうど連休だったため、旦那や子供たちに随分助けられ、ゆっくり休むことができて、連休最終日はドライブやショッピングも楽しむことができました~本当に家族のありがたさが身にしみました先週は頭がぼ~っとして何も書けずにいましたが、今週はしっかり更新できるよう、今日から準備を開始します。PC開くのは4日ぶりくらいなのですが、みなさんからいただいたコメントやメッセージは携帯から拝見させていただいてました。残念ながらBBSは携帯からでは見れないので、BBSは先ほど読ませていただきました。皆さん、本当にありがとうございます。順次、ご訪問&お返事させていただきますね。それから前回の更新のご案内も、まださせていただいていない方もいらっしゃるので、こちらも今からご案内させていただきます。ご訪問の際のコメント、今回はほとんど読み逃げコピペになるかと思いますが、お許しください。皆さんもどうぞ体調にはお気を付けくださいね。(*^^)v 今日もありがとうございました ブログ管理人・ぽあんかれ 更新していないと一気に順位が… ★お時間がありましたら、簡単なアンケート↓にご協力ください今、読んでみたい本の内容は? 無記名でOKです。(^_-)-☆ ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・° 11/15更新の最新話は◆「第49話 ~ sae(15) 再 ~」◆ 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、 ◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°
November 25, 2008
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すいません! 11/19(水)あたりから体調がイマイチで、 昨日(金)からすっかりダウンしています。 そのため今週の更新はお休みします。 先週更新した49話(紗英と吾朗の病院での再会の話)も 更新をお知らせできていない方も多いので、 まだ見ていないかな?という方は覗いてみてくださいね。 またコメント・メッセージ・メールへのお返事、お礼も 遅くなりますが体調が回復次第、順次させていただきます。 ご迷惑おかけしますが、どうぞ宜しくお願いします。 皆様も体調にはお気をつけくださいませ。 楽しい連休を♪( ^^)v
November 22, 2008
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◆小説のあらすじ・登場人物◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 「紗英」 聞き覚えのある声に驚いて振り向くと、こっちに向かって吾朗ちゃんが歩いていた。 慌てて立ち上がった私につられて、一緒に池を覗いていた夢芽(むめ)ちゃんも立ち上がった。「お姉ちゃん、この人だぁれ?」「あのね、お姉ちゃんの、お友達の…」「初めまして。僕はこのお姉ちゃんの、お兄ちゃんなんだ」 何も言い返せずに突っ立ったままでいる私をよそに、吾朗ちゃんは夢芽ちゃんに微笑みかけた。「お名前は?」「夢芽っていうの。波岡夢芽。あ、お母さんだ」 少し離れたところから手を振っているお母さんに向かって、夢芽ちゃんが駆けだした。夢芽ちゃんのお母さんは、その場で私たちに軽く会釈をして娘と一緒に病棟に戻った。「どうして吾朗ちゃんが、ここにいるの?」「それはこっちのセリフだよ。留学するなんて嘘までついて。今日は、嘘つきの妹の面会に来たんだ」 何をどこまで知っているの? 迂闊に言葉を出すわけにはいかず、ただ彼を見つめ返した。「その顔、坂下からは何も聞いてないのか? ズルイな、あいつ。傍観者になりやがって」 少し困ったように笑いながら、吾朗ちゃんはそう言った。「坂下から、聞いたんだ。十年前、どうして僕が振られなきゃならなかったのかも、お前の病気のことも」 何もかも知ってしまったことを、疲れ果てて落ち窪んだ彼の目が物語っていた。 耳障りな程に激しい鼓動が、今にもザクッと凍り付いてしまいそうだった。「なぁんだ、バレちゃったの? せっかくここまで隠してたのに」「なぁんだ、って、そんな言い方はないだろう? あいつに話聞いてから三日間、ろくに飯も食えなかったのに」「だって私にとっては今更なんだもの。十年前に、そんなのとっくに経験済みだし。私なんか一ヶ月近くちゃんとご飯食べられなかったのよ。ま、おかげでダイエットできたけど」 そのショックがどれ程のものか知っていただけに、かけてあげるべき言葉が見つからなかった。「何だか拍子抜けしたな。相当悩んだのに、お前は相変わらずで」「何よ、相変わらずで悪かったわね。駆け寄って手に手を取って、お兄ちゃん、妹よ、とか言いながら涙でも流したかった?」「そういう訳じゃないけど。でも、もう少し感動的な再会でも良かったんじゃないか?」「ドラマじゃあるまいし、バカみたい」 強がって笑うことしかできなかった。あなたに私と同じ思いはさせたくなかったのに。 こぼれ落ちそうになる涙を、冷たい木枯らしがさらっていく。 会いに行っちゃいけないと思いつつ、どうしても一目だけと会いに行ってしまったあの日。 そばにいちゃいけないと分かっていながら、少しだけ一緒にいたいと願ってしまったあの日々。 止めた筈の時間が、また全部繋がってゆっくりと動き出したような気がした。「ねぇ、寒いから、中に入ろっか」 自販機で温かい缶コーヒーを買い、祝日で誰もいない待合ロビーの長椅子に並んで腰をかけた。「会いに来ていいものかどうか、随分迷ったんだ。僕が知ってしまったことをお前が知ったら、余計に辛い思いをさせるんじゃないかって思ったし。それに」「それに?」「急にアニキ面もできないだろう?」「それ、見てみたい気はするけどね」 笑いながら見つめた床の先に、非常ベルの赤いランプが滲んだように映っている。「どうしたらいいのか、分からなくて…。元カレなのか、今は友達なのか、それとも兄なのか。どういう態度でいればいいのか。お前はどんな感覚なんだ?」「吾朗ちゃんは元カレで本当はお兄ちゃんだけど、今は友達みたいな人。どれも全部、本当のこと。その中のどれか一つだけなんて選べないよ。全部ひっくるめて私にとって、吾朗ちゃんは吾朗ちゃん。十年経った今、やっとそう思えるようになったんだから。昨日今日で悟ってもらっちゃ困るわ」 正面玄関の自動ドアが開いて、コートの襟を立てた女性が入って来た。誰かのお見舞いに来たと思われるその人は、こちらには目もくれずに病棟の方に向かって足早に去って行った。「ねぇ、ポアンカレの話、覚えてる?」「ポアンカレ予想の?」「うん。ポアンカレ予想は百年かかって、やっと証明されたでしょう。それと同じで、私は十年かけてやっと事実を心に収められたの。更にあと九十年経って百年過ぎる頃には、私たちはこの複雑な関係から解放されてるわけだし、それにその頃になったら未来の誰かが、こんがらがった私たちの関係をスパッと解決する法則とか発見してくれるかもしれないでしょ? そう思ったら少しは楽にならない?」「何だよ、それ。壮大な他力本願だな」 呆れたように吾朗ちゃんが笑う。「いいじゃん。そう思ったら、気持ちが軽くなるんだもん」「僕も焦るなってことか」「うん。今は混乱して訳が分からなくても、それはずっとは続かないよ。経験者が語るんだから間違いないわ」 両手で握った缶コーヒーの温かさに、いつの間にか先程までの緊張は解(ほぐ)れていた。「可笑しいね」「何が?」「まさかポアンカレも百年後に、こんなふうに名前を出されるとは思ってもみなかっただろうなって思って。それも数学には全く関係ないことなのに」「まあな」 可笑しいというより、ただ嬉しかった。もう会わない、もう二度と会えないと思っていたから。 会いに来てくれてありがとう。私ね、もう泣いてもいいかなぁ?(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでいただき、ありがとうございました! よかったら応援を… 更新のお知らせも、コメントへのお返事もますます滞りがちで大変申し訳ございません少しずつ回らせていただきますので、何卒ご容赦くださいませ。 m(__)m今回登場した「ポアンカレの話」は第29話を、「ポアンカレ予想」はこちらを参照してください。さて、今さら47話の話で恐縮ですが、この回のタグの欄に異変が起きていたことにお気付きでしたか?紗英の母親が吾朗の父親への想いを綴った手紙が出てきたこの回、紗英と吾朗の“子供としての悲劇”を強調したい気持ちもあり、タグに“子供”という言葉を選びました。その結果、親同士の不倫、異母兄弟、そんなどろどろにも関わらず、“子供”というタグに反応して、自動的に“親子チャレンジ特集”に選ばれました~ …へ?(lll゚Д゚)内容が内容なので“子供”というタグを外そうかとも思いましたが、勝手に選ばれちゃったわけですし、既に終わった夏休みの特集ですし、リンク先の公文さんにこっちの記事が載るわけでもなさそうだし。ま、ある意味、親子でチャレンジには違いないか? とかなり不謹慎ではありますが、そのままにしています。タグだけで、何でもかんでも手当たり次第にというのは如何なものかな~。f(^_^;)関係者の皆様、もしご迷惑ならご連絡ください。今回、字数の関係で、こちらに掲載できませんでしたが、トップページで引き続き「遠位型ミオパチー」の患者さんのための署名及び兵庫での迷子犬捜索・及びボランティア協力をお願いしています。ご協力いただける方は、トップページのランキングのバナーの下から内容をお確かめくださいますよう、お願い申し上げます。今日もありがとうございました ブログ管理人・ぽあんかれ
November 15, 2008
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◆小説のあらすじ・登場人物◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 朝まで熟睡できたのは、三日ぶりのことだった。 余程眠りが深かかったのか、昨夜くるみが訪ねてきたのも、その前に聞いた坂下の話も、全てが遠く、夢の中の出来事のような気がした。何もかもが夢だったら、どんなに良かっただろう。 ベランダのガラス戸越しに、冬の朝日が柔らかく広がる。戸を開けて外を覗くと、冷たい風が部屋の中、そして僕の中にもさっと流れ込んできた。 くるみに全てを打ち明けたことを、今になって後悔していた。くるみには、何も関係ないことなのに。だがそのお陰で、だいぶ救われたのも事実だった。 混乱することに疲れ果て、半ば投げ遣りになっていたところにくるみが現れた。 基盤との間にズレを生じ、持ちこたえることができなくなって崩れるしかない山肌の土砂崩れのように、くるみの顔を見ていたら、僕は何もかも崩せるだけ崩して流し出してしまいたくなった。 話し終えた後、考える力も無く、ただ途方に暮れていた僕に、くるみは震える声で言った。「会いに行った方がいいと思うの。お兄さんとして。じゃなきゃ、後悔する」「病気のことも、妹であることも、僕には隠そうとしていたのに?」 言葉を一つ一つ手繰り寄せるかのように、くるみは慎重に続けた。「紗英さんが隠していたのは、吾朗君を苦しませたくなかったからだよね。だから、吾朗君さえ、ちゃんと受け止めることができれば、紗英さんももう隠す必要はなくなるでしょう? 二度と会えなくなる前に、吾朗君はできるだけ早く会いに行かなくちゃ」 話している間にすっかり冷め切ってしまったコーヒーを温め直そうとでもするかのように、くるみはカップを両手で包み、涙声でそう言った。「明日は祝日だから、会社お休みでしょ? 明日、会いに行こうよ。私も一緒に行くから」 そう約束してくるみは帰っていった。 一夜明けて、だいぶ落ち着きを取り戻したものの、僕はまだ紗英に会うことを躊躇していた。 待ち合わせしていた場所でくるみを車に乗せ、まだ迷っていることを正直に告げた。「紗英に会って、どうすればいいのか分からないんだ。こんな苦しみを背負わせてしまったのは、僕の親父のせいなのに。今更何も知らないふりもできないし、だからと言って兄としてなんて、どんな顔をすればいいのか。紗英に、何って言ったらいいのか僕には分からない」 くるみは黙って俯いていた。僕も車を出す気にならず、しばらくそこにとどまっていた。「何も言わなくてもいいんじゃないかな」 ようやく顔を上げたくるみが言った。「何を言っていいのか分からないなら、何も言わなくてもいいと思う。とりあえず顔を見て、笑いかけてあげればいいんじゃないかな。それも難しいことかもしれないけれど。後は必要なら、自然に言葉が出てくるよ。何も心配しないで。ただ会いに行くだけで、きっと大丈夫」 後ろから来たバイクが、僕たちの車の横をあっと言う間に通り抜けて行った。「昨日の私がそうだったから」 はにかむようにくるみが笑う。「吾朗君のところへ行く前は、会ってどうすればいいのか分からなかった。もう私は彼女でもないのに、何しに行くんだろうって思ってた。今もよく考えると、何で私はここにいるのかなって思う。でもね、それでいいかなって。答えが出そうにもない問題を、ただじっと考えているだけじゃ、きっと何もできないまま終わってしまうから。こんな時は答えを用意してから行動するんじゃなくて、答えを出すための行動をした方がいいんじゃないのかなって」 反対車線にあるコンビニでは、店員が外に出て入口のガラスを磨き始めた。暇を持て余していたのか、雑巾を持ったまま両腕を高く伸ばして、大きなあくびを一つした。その側を今年街でよく見かけるブーツを履いた若い女性が、片手で携帯を操作しながら通り過ぎて行く。 僕はくるみの言葉に頷いて、車のエンジンをかけた。 そうだ今は余計なことは考えなくていい。大切なのは、何をするか、何ができるか。ただそれだけ。 祝日の午前中の道路は比較的空いていて、思っていた時間より早く病院に着いた。 一般診療も休みのようで、誰もいない待合室はとても静かだった。「じゃあ、行こうか」 壁に貼られた案内図でホスピスの場所はだいたい分かった。だが、くるみはその場に立ち止まったまま歩き出そうとはしなかった。「くるみ?」「私はここまで。ここから先は吾朗君、あなたが一人で行って」 今にも泣き崩れてしまいそうな顔でくるみが言った。「今日は、吾朗君が一人で行かなくちゃ。私はまた今度。どこかで待ってるから、終わったら電話して。時間はいくらかかってもいいからね。紗英さんと会った後、もし吾朗君が一人になりたい気分だったら、そう言ってね。その時は、私一人で帰るから」「でも…」「大丈夫。しっかりして、お兄ちゃんなんだから」 守ってやりたいと思い続けた小さな存在が、僕のために目にいっぱいの涙をためながら、それを一粒もこぼすまいと精一杯の笑顔を作っている。「分かった。行ってくるよ」 黙って頷いたくるみの頬に、こらえ切れなかった一粒が小さく光った。 紗英はホスピスの自分の部屋にはいなかった。たまたま出てきた隣の部屋の人が、中庭にいるかもしれないと教えてくれた。そこが紗英のお気に入りの場所らしい。 一般病棟へと続くガラス張りの通路の外に、その中庭があった。 木で囲まれたところに池のようなものが見え、小学生くらいの女の子がしゃがみ込んで、一生懸命何かを目で追っていた。 その横に紗英がいた。 紗英も同じようにしゃがみ込み、女の子と同じ方向を見つめて何か話している。 穏やかな青空には、いくつのも冬の雲。 扉を開け、冷たい空気の中へと歩きだす。一歩、一歩、ゆっくりと。僕の妹のいる方へ。(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでいただいたことに感謝! よかったら応援も… 更新のお知らせも、コメントへのお返事も相変わらず、滞りがちで大変申し訳ございません。m(__)mこんな中、11/6にブログ開設1周年を迎えました!半年くらいの連載のつもりで始めた「poincare」ですが、当初の予定「3~4日に1話UP」にはとても及ばず、最近になってようやく「1週間に1話UP」のペースが定着してきました。これくらいが、ちょっと頑張らなきゃいけない、でも無理のないペースかな。これまで一人で原稿用紙やワープロに向かっていくつかの物語を書き始めては、根気のない私はいつも途中で止まって、最後まで書きあげたためしがありませんでしたそれが今回初めて、ちゃんと最後まで書き上げられそう!これも皆様の温かい応援があったからこそ。心からでっかく感謝 デス♪物語はもう最終章に入っていますが、予定より長引くかも…。最終話は年末か、あるいは年明けくらいかと。あともう少し、お付き合いいただければと思います。(*^^)v■ ご協力のお願い ■「遠位型ミオパチー」の患者さんのための署名兵庫での迷子犬捜索・及びボランティア協力↓ 詳細は「わんこ情報」にて今日もありがとうございました ブログ管理人・ぽあんかれ
November 8, 2008
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◆小説のあらすじ・登場人物◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ テーブルの上には、昨日から置かれたままになっている何本ものビールの空き缶。 それを見て、くるみは顔を強張らせていた。 空き缶はテーブルの上だけでなく、床にもいくつか転がったままになっていた。「くるみ、 どうしてここに?」 僕の問いに、くるみは訝しげな目を向けた。「昨日、私に電話したでしょ? でも吾朗君、何も言わないまま電話切っちゃって、それきり連絡つかないし。今日、会社に電話したら、休みだっていうし。友達には何かあったんじゃないかって言われて、それで…」「電話?」 そんな覚えはなかった。ただそれは電話に限ったことだけではなく、記憶を手繰ろうにも、酒で鈍った頭には何もかもが曖昧で、おぼろげだった。 呷(あお)るようにして飲み続けていたビールの空き缶をかき分けて、テーブルの上にあった携帯を開いた。いつの間にか電池切れになっている。仕方がないのでアダプタを接続して履歴を確認すると、確かにあった。十五時二十二分、小枝くるみ。「これか。確かに僕からかけてるけど、ごめん、覚えがない。昨日も、随分飲んで、酔ってしまって…。すまない。本当に」 うつろな僕の目に、悲しげなくるみが映る。「このビール、まさか全部一人で飲んだの?」「ああ」「何かあったの? だって吾朗君、今までこんなことなかったじゃない。几帳面できれい好きで、部屋はいつだって片付いていたし、こんなに飲むことも、携帯の充電忘れちゃうこともなかったでしょ。それに玄関の鍵だって開けっ放しにしてるし、こんなこと」「うるさいな、関係ないだろ、ほっといてくれ」 あれこれ責められているような気がして、ついイラっとしてしまった。 くるみは黙って、僕を見つめ返した。 暗くなった窓の外を、うねりを上げて風が通る。「すまない。疲れているんだ。電話のこと、本当にごめん。別れた後まで心配させてしまって、僕はつくづく情けない男だ」「ううん」 くるみは小さく首をふった。「私、帰るね」 ここにいても仕方がないことを思い知ったような、今にも泣き出しそうな精一杯の笑顔。「あ、あの、さ、くるみ」「ん?」「コーヒーを淹れてもらえないか。コーヒー、一杯だけ、付き合ってくれないか?」 突拍子もない僕の言葉に、くるみは静かに微笑んで、コーヒーを淹れ始めた。 程なく、こぽこぽという音とともに、部屋に香りが広がりだした。 一人になってからも、コーヒーは毎朝自分で淹れていた。だが今は、次第に部屋を満たしていく豊かなこの香りが、ひどく懐かしく感じられた。「はい」 そう言って渡されたコーヒーカップの温もりに、張りつめていた気持ちが緩んでいく。 くるみは僕の横には座らずに、向い合せになるようにカーペットに直接腰を下ろした。「あ、これ」 マガジンラックから、くるみが何気なく手に取ったのは、紗英に渡してくれと言ってくるみが買った雑誌『Without』。「なんだか、懐かしい」 コーヒーをすすりながら、くるみは雑誌を見はじめた。 それとは別に、紗英が最初に持っていた同じ雑誌の一つ前の号は、昨日から床に放り出されていた。僕はそれを拾い上げて、あのページを開いた。「これを読んで欲しいんだ」「病と生きる女性たち?」 僕は黙ったまま、「伝えられなかった想いを」という投稿コーナーに掲載されている、一つの記事を指さした。ひでおさん、今日も元気にしていますか。今日はとても天気が良く、病室の窓からもきれいな青空が見えています。こんなにお天気がいいと、どこかへ出かけたくなりますね。いつかあなたと一緒に出かけた、大きな池のある公園、もう一度、あなたと一緒に歩きたかった。あの時、あなたはまだ一歳半くらいの息子さんを連れていましたね。私はお腹の中に、あなたの子を宿していました。あなたはその子を産むことを許してくれました。でもあなたは私が産むことを、本当は望んでいなかったのかもしれない。あのとき息子さんを連れてきていたのは、自分には家族がいるということを、私に伝えたかったからではないかと、最近になって思うようになりました。それでもあなたは、娘が生まれた時に、喜んでくれました。そして家族にはなれないことを申し訳ないと言いました。あの時の娘は大きくなりましたよ。結婚して京都に住んでいるのですが、今は戻って来てくれて、私の看病をしてくれています。娘を産んで良かったと、思っています。そしてあなたを愛したことも後悔したことはありません。ただ、もう会えないのかと思うと辛いです。声をかけることはできなくとも、せめて遠くからでも一目あなたの姿を見ることができたら…。いけませんね。どうしてもだんだん気が弱くなっていきます。もうすぐ娘がやって来ます。笑っていないとね。 美紗子「これが、何?」 どうしてそれを読まされたのか分からないでいるくるみは、不思議そうにその記事を眺めていた。「それを投稿したのは紗英で、それを書いた美紗子というのは、紗英の母親なんだ」 くるみが驚いて、顔を上げる。「それと、そこに書かれている、ひでおという男は、僕の…、親父なんだ」(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでいただいたことに感謝! ランキング、応援してくださると嬉しいです 相変わらず、更新のお知らせも、いただいたコメントへのお礼も滞りがちで大変申し訳ございません。m(__)mまた今回も、更新が遅くなってしまいました先週の火曜日くらいから、今回はkurumiで書いていたのですが、どうもうまくまとまらず、土曜の午後になって急遽goroに変更して、最初から書き直し…。(@_@;)展開も内容も最初に書いていたものと同じなのですが、目線が違うだけで随分変わり、今回はgoroの方がすんなり書けました。とは言え、いつもよりだいぶ遅いUP。う~ん、次回は誰で書こう? よく考えておかなくちゃ。さて、朝晩、随分冷えるようになってきました。体調管理には十分にお気を付けくださいませ。 引き続き、ご協力お願いします 「遠位型ミオパチー」の患者さんのための署名お名前のみの簡単なオンライン署名もできます。実際の署名の他、ブログで記事にしてくださる方も、よろしくお願いします。兵庫での迷子犬捜索・及びボランティア協力↓ 迷子の犬の捜索とそのお手伝いをしていただける方バナーリンクしていただけるブローガーさんを募集中です。詳細は「わんこ情報」にてご確認ください。どうぞ宜しくお願いします。(o^^o)「拡張型心筋症」と闘ってきた猫・プリンちゃん、最後まで頑張りました。飼い主さんも惜しみなく愛情を注ぎ、最期まで頑張りました。そして10月30日の夜、プリンちゃんは、大好きなご家族に見守られて、「虹の橋」へと旅立ちました。ご協力くださった皆様に感謝するとともに、ここにご報告いたします。今日もありがとうございました ブログ管理人・ぽあんかれ
November 1, 2008
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