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◆前回までの小説のあらすじ◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 吾朗君に対して、どういう態度をとればいいの?紗英さんに会った後、ずっと悩んでいた。「ほとんど強制的に私が転がり込んだ感じだけど、吾朗ちゃん本人が私の同居を許してくれているわけだし、今さらくるみさんに許しをもらうつもりもないの。ただ隠したままだと、私も吾朗ちゃんも何かと不自由だし」 自信に満ちた彼女の目が、自分の方が吾朗君を理解してる、そう挑発している気がした。 ただ部屋を借りたいだけというのは本音だとは思えない。 何か裏がある?考えてみたところで、分かるはずもなかった。いっそのこと、吾朗君を好きだって言ってくれれば、もっとはっきりした態度もとれたのに。 吾朗君のことも許せなかったけど、もし私が吾朗君を許さなければ紗英さんはどうするつもりなの? もっと突っ込んで話を聞くべきだった。一人になってからそう思ったけれど、あの時の私にはあれが精一杯だった。「ごめん・・・」 黙って私の話を聞いた後、波の音にかき消されそうな声で吾朗君が言った。 港の方から吹きつける風が強くなってきて、潮の香りが苦しく感じるほどだった。「僕がもっと早く、ちゃんと話すべきだったのに」「黙っていて、隠し通すつもりだったの?」「そんなつもりはなかったよ。従兄妹だって言ったのも、くるみに余計な心配させたくなかったからだし、そんな心配させるようなこと、本当に何もないんだ」 そう言った後、吾朗君はすがるような視線を力なく地面に落とした。「いや、僕が悪いんだ。くるみを傷付けてしまって」 泣いてすがってでも、この同居をやめさせるべき? だけど、同居をやめてとは、私は言いだせなかった。その言葉を口にしてしまったら、逆に彼女の勝ち誇った声が聞こえてきそうな気がしたから。「ふーん、やっぱり不安なのね。吾朗ちゃんのこと信じ切れないんだ。私の方が吾朗ちゃんのこと分かってあげてるみたいね」 想像したくなくとも浮かんできてしまう紗英さんの大胆不敵な笑み。女の意地みたいなものが、私の中で密かに頭をもたげ始めていた。 いいわ、同居は認めてあげる。だけど、それ以上は譲らない。紗英さんにその気があろうとなかろうと、吾朗君の心の中にまで、あなたを入り込ませたりはしない。「本当に紗英さんのこと何とも思っていないのね?同居は二ヶ月だけなのね?」「ああ、特別な感情はないし、ずっと同居するつもりもない」「分かった。私、吾朗君を信じるわ」「えっ?」 吾朗君はとても驚いた顔をした。そうだよね、私が許すなんて、思ってもいなかったよね。 波は次第に高さを増し、防波堤で砕け散った飛沫が闇を舞う。 本当は怖い。紗英さんが?それとも私たちのこれからが? 私は黙って、吾朗君の胸に顔をうずめた。疲れ切った心が求めているのは、もう安らぎだけだった。 駅までの道を吾朗君と並んで歩きながら、もう後には引けないと、心の中で何度も繰り返した。 付き合いだして一年半、こんなことは一度もなかったのに。 灯りの消えたオフィス・ビルが立ち並ぶ通りは、街灯があるとはいえ、夜になるととても暗い。駅に近付くと構内から溢れてくる光がやけに眩しく感じる。その灯りに、少しほっとした。 そう言えば今日発売の雑誌『Without』、帰りに買ってきてって妹に頼まれてたんだけっけ。改札に向かう通路の途中で、私はふと思い出した。「ごめん、ちょっとコンビニに寄るね。妹に頼まれた雑誌を買いたいの」 私たちは改札のすぐ手前にあるコンビニに入った。妹に頼まれた雑誌は一番手前の目立つ所にあったのですぐに見つかった。「あれ?それって、この前の特集、『魅せる!大人の下着選び』の?」「やだ、吾朗君、何でそんなこと知ってるの?まさかタイトルに惹かれて、どこかで立ち読みでもした?」 吾朗君の言葉に私はやっと笑いを取り戻した。「まさか、僕はそんなの見ないよ。紗英が持ってたんだ」 言った後で、吾朗君ははっとしていた。 きっとこれからはこんなふうに、何気ない会話の中にも彼女が出てくるんだろうな。だけど、今日はもうその名前は聞きたくないのに。私の心は再び沈み始めた。その代わりに、意地の悪い考えがゆっくりと浮かび上がってきた。「これ、今日発売なんだけど、紗英さん、もう買ったかな?」「いや、多分まだ買ってないんじゃないかな」「何でそう思うの?」 私の問いかけに、少し困ったような表情で吾朗君が答えた。「今日は夕飯はいらないって電話した時に、外で食べてくるならちょうど良かった、今日は疲れてて体調が悪いから一日中寝てた、って言ってたから」 食事の世話まで紗英さんが?夕飯はいらないという連絡を、吾朗君が紗英さんにしているという事実が、私の意地悪な思い付きを実行に移す起爆剤になった。ジェラシーでどうにかなりそうな自分を抑えながら、私は同じ雑誌をもう一冊手に取った。「じゃあ、二冊買うから、私からお見舞いだって、紗英さんに渡して」「紗英に?」 きょとんとしている吾朗君にくるりと背を向けて、私は同じ雑誌を二冊持ってレジに向かった。 お見舞い?自分でも笑ってしまう。本当はそんなんじゃない。それは、今夜、吾朗君と一緒だったのは私だと、紗英さんに伝えるためのメッセージ。 どうしても紗英さんの話は宣戦布告だとしか思えない。あれが宣戦布告なら、私、受けて立つ。(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでくださって、ありがとうございます! ぽちっと二つのバナーを、応援クリックしてくださるとかなり幸せです。 よろしければこちらもクリックお願いします。 リンク先の記事・広告の下に、投票フォームがあります。 簡単投票に参加して、この作品を評価してくださいね! コメント欄の ◆作者より ご挨拶◆ も、ご覧ください。(*^^)v
April 25, 2008
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◆前回までの小説のあらすじ◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 鎌倉で吾朗君を見かけた二日後の夜、突然、紗英さんからメールが来た。『こんばんは。以前、居村吾朗の家でお会いした、月野紗英です。吾朗ちゃんの従妹だと言えば思い出してもらえるかもしれません。お話したいことがあるのですが、吾朗ちゃんに内緒で、会ってもらえませんか?』 内緒で?吾朗君の従妹が私に何の話があるというの? 送信者のアドレスは、吾朗君のアドレスになっている。つまり今、紗英さんは吾朗君の携帯を勝手に触れる距離にいるっていうこと?ふと、この前の亜矢の言葉が心をよぎる。「何か怪しくない?」 何があるのか確かめるのは怖かった。でも、こんなふうに憶測で不安に苦しむのも、もう嫌。『都合が悪くなければ、明日の夜、お会いしましょう』 返事は紗英さんからのメールの最後に書いてあった、彼女のアドレスに送った。 仕事を定時で終え、私は急いで待ち合わせたカフェに向かった。 紗英さんは先に来て、席に着いて私を待っていた。彼女は明らかに周りの人達とは違う、人一倍華やかな雰囲気を存在感たっぷりに漂わせていた。「こんばんは。小枝くるみです」「月野紗英です。ごめんなさい、突然メールしちゃって」 瞬きすると音がしそうな程、長くてボリュームのある睫毛の下から、磨かれた宝石のような瞳が私を捕らえた。何て綺麗な人なんだろう。威圧感すら感じさせる。それだけで私はもう十分臆してしまった。「あの、お話って?」 今思えば、多分この時から勝負は始まっていた。私が席に着くのを合図に、サイは投げられた。「最初に謝っておくことがあります。以前、吾朗ちゃんの部屋で偶然会った時、くるみさんに嘘をつきました。私は吾朗ちゃんの従妹なんかじゃありません」「それじゃあ、一体・・・」 嫌な予感が的中?「私は今、吾朗ちゃんと一緒に同じアパートで暮らしているの」 息が止まりそうになるくらい、強い衝撃が胸を打った。鼓動がどんどん大きくなって、耳の奥まで脈打つ音が膨張する。「どういうことですか?」 震える声で精一杯、聞き返した。「吾朗ちゃんと別れて欲しいって言ったら、別れてくれますか?」 この人何を言ってるの?耳の奥が急激に熱くなって、紗英さんの言葉を聞き取ることができない。「ダメですか?吾朗ちゃんと別れるのは」 混乱する私に、畳み掛けるように紗英さんが言った。「あなた、吾朗君の何なんですか?」 私の精一杯の質問に、彼女は涼しい顔で、こう答えた。「従妹ではないけれど、遠い親戚ですね。でも気持ち的にはかなり近くて、そうね、昔からの友達っていうか、兄妹みたいな感じかな。この前会った時は突然だったし、いちいち説明するのも面倒だったので、従妹ってことにしちゃいました」 彼女は悪戯な目つきをして軽く笑った。何なの、この人?沸々と怒りの感情が湧き上がる。「それで一緒に暮らしているというのは、どういう・・・」 私が全部言い終わらないうちに、紗英さんが話し出した。「ちょっと訳があって、今、吾朗ちゃんと一緒に暮らしてるの。彼のアパートでね。でもそれは同棲とかじゃなくて、ただ私が一部屋借りているっていうだけで、決して男女の仲じゃないってことをくるみさんに解ってもらいたくて」 男女の仲じゃない?急に肩透かしを食らい、私はますます困惑した。 彼女は最近離婚したことや、たった一人の肉親だった母親が亡くなったことで、人生をやり直そうと思って留学の準備をしていること、そのためにお金が必要で家も売り、留学までの期間、高い家賃を無駄に払いたくないから、吾朗君の家にルームメイトとして転がり込んでいると、話し出した。「それじゃあ、さっき私に吾朗君と別れて欲しいって言ったのは、あれはどういうつもりだったんですか?」「くるみさんが、どの程度、吾朗ちゃんに本気なのかなって思って」「私が本気だったら、どうだって言うんですか?」「本気なら、私のことはともかく、吾朗ちゃんのことは信じてあげられるでしょう?しばらくの間、彼の家に女友達が間借りしてても、浮気してるわけじゃないんだし、問題ないよね?」 紗英さんの話を聞いて、憶測が消えるどころか、ますます分からなくなっていった。 いくら遠い親戚で兄妹みたいな仲だと言っても、そんな事情で男の人の家に同居なんて普通する? 俄かには信じられない紗英さんの話。私はただ唖然とするばかりだった。この人、何を考えてるの?「本当に、吾朗君とは何でもないんですね?吾朗君に対して、特別な感情はないんですか?」 念を押すように聞いた私に、彼女はなぜか勝ち誇ったような表情をちらっと覗かせた気がした。「恋愛感情?誓ってないです。私も吾朗ちゃんも、お互いにね」(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでくださって、ありがとうございます! ぽちっと二つのバナーを、応援クリックしてくださるとかなり幸せです。 よろしければこちらもクリックお願いします。 リンク先の記事・広告の下に、投票フォームがあります。 簡単投票に参加して、この作品を評価してくださいね! コメント欄の ◆作者より ご挨拶◆ も、ご覧ください。(*^^)v
April 14, 2008
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◆前回までの小説のあらすじ◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ いつものように目は伝票に書き込まれた文字と数字を追いかけ、指先は見たままの情報をパソコンに打ち込んでいた。 隣の席では亜矢が、計算が合わないと課長から突き返された書類を広げて、電卓と睨めっこしている。 普段とたいして変わらない、平日の社内。 でも私は、全く仕事に集中できなかった。 今朝、会社に向かう途中で吾朗君からもらったメール。『今日は仕事が早く終わりそうなんだけど、会えないかな?』 ついに来た。そう感じた。きっとあの事だ。すぐには返信できずに、私は震える指で携帯を閉じてしまった。 どうすればいいの? 吾朗君が女の人と一緒にいるのを見てしまった日から、私は彼に連絡できずにいた。電話が繋がらないのも不安だったけど、繋がるのも怖かった。 それに・・・。「って、くるみぃ、聞いてる?」「あ、ごめん、何?」 亜矢は訝しげに私の顔をじーっと見詰めていた。「何かあったでしょ?」「別に、何も・・・」 私は亜矢にも玲菜にも、何も話していなかった。自分自身が混乱していて、何を話せばいいのかわからなかったから。「ふーん、まぁ、いいけど。もうお昼だよ。今日、何食べる?」 昼休みが終わるころになって、私はようやく吾朗君にメールの返事を送った。『OK 今日、大丈夫だと思う。返事が遅くなってごめんね。また後で連絡して。』 本当は『今日は会えない』そう送りたい気分だった。とりあえず返事は送ったものの、私はまだ、会ってどういう態度をとればいいのか決めかねていた。 隠され続けるよりはずっといい。正直に話してくれた方が。でも、吾朗君の口から聞くのはやっぱり怖い。 吾朗君からの返信メールに書かれた約束の時間は午後七時。長いような、短いような、重苦しい時間が刻一刻と過ぎていった。 待ち合わせた駅は人込みでごった返していた。それでも改札口から出てきた吾朗君は、すぐに私を見つけて笑顔で手を振った。 もう覚悟はできたつもりだった。でも、いざとなると、やっぱり逃げ出したい。「早かったね。結構待った?」 私は小さく首を振った。「とりあえず、腹減ったし、何か食べようか?どこか行きたいところある?特になければ前に行った、夜景のきれいな和食の店、どう?」「うん、いいよ」 精一杯返した私の笑顔は、ちゃんと笑顔になっていただろうか? 食事をした後、私たちは少し歩こうということになり外に出た。駅からはだいぶ離れて、港の近くにある、海に臨んだ公園まで来ていた。 何か話があるんでしょ?なかなか言い出せないでいるのは、私を傷付けたくないから?それとも私が嫌がると困るから? 微かに潮の香りを含んだ風が、暗い木々の間を縫って、向こうに明るく見えている車道へと抜けていく。「前にくるみが、夕方ウチに来たときに、僕の従妹に会っただろ?」 しばらく他愛もない話が続いた後、ふいに吾朗君が本題に触れた。「実は、その、色々あって。この前もちょっと話したけど、ほら、くるみがピアスを拾った日。あいつ、ちょっと前に離婚したり、母親が亡くなったりで、なんだか不安定になっててさ」 私は黙って聞いていた。そのまま並んで歩きながら、吾朗君は話を続けた。「それで、その、一人にしておくと危ないと言うか・・・。紗英って言うんだけど、あ、軽く挨拶はしてたよな?それで、その、紗英がさ、しばらくウチで暮らすことになったんだ。しばらくっていうか、二ヶ月間って期間限定でなんだけど」 言い難そうに話し出した吾朗君もここまで話して、後は勢いで一気に喋った。「誤解しないで聞いて欲しいんだけど、別に他意は全くなくて、僕たちは何て言うか、従妹なわけだし、僕から見たら紗英は妹みたいな存在で、それにあいつ、昔から言い出したら聞かないやつで、僕の意思も何も尊重するようなやつじゃないから、無理やり押し切られたっていうか・・・」 はっとしたように吾朗君は我に返って、私を見た。「ごめん、こんな話、驚いたよな。怒ってる?」 ふいに紗英さんの言葉が、私の胸に甦る。『それでね、吾朗ちゃん、くるみさんに必死で言い訳すると思うの、だってくるみさんにだけは誤解されたら困るから。吾朗ちゃんにとって、くるみさんは本当に大切な人でしょう?だから私のわがままを快く理解して欲しいとは言わないけれど、吾朗ちゃんのことは誤解しないであげて。ね?吾朗ちゃんって、基本的に優しいじゃない?だから私のこと見放せなかっただけで、どんなに誠実で真面目な奴かは、私なんかより、くるみさんの方がよっぽど分かってるでしょ?』 何もかも分り切ったような彼女の余裕が、余計に私の神経を逆なでた。もう限界。「私、全部知ってるの。この前、紗英さんに会って、彼女から直接聞いたから。本当は従妹なんかじゃないってことも」「えっ?」 事態が飲み込めずに、吾朗君は黙ったまま私の顔を見つめていた。 防波堤に打ちつける波の音だけが、耳の奥で木霊する。(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでくださって、ありがとうございます! ぽちっと二つのバナーを、応援クリックしてくださるとかなり幸せです。 よろしければこちらもクリックお願いします。 リンク先の記事・広告の下に、投票フォームがあります。 簡単投票に参加して、この作品を評価してくださいね! コメント欄の ◆作者より ご挨拶◆ も、ご覧ください。(*^^)v ちょっと必要になって、バナー作っちゃいました。(o^^o)ゞ
April 8, 2008
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◆前回までの小説のあらすじ◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 鎌倉に出かけた翌日、私は琢人が勤めている病院に行った。 ここに来るたびに、どうしても母が入院していた時のことをリアルに思い出す。 手摺りが取り付けられた真っ白な壁、ピカピカに磨かれた床、車椅子が楽に通れるスロープ、患者さんの名前を呼ぶ看護師さん、点滴の台を押して歩く患者さん。 どこの病院でもよく見る光景のあちこちに、まだあの日の自分がいるような気がする。「すみません」「あら、月野さん。今日は?」 外来の窓口で声をかけると、よく知っている看護師さんが応対してくれた。「あの、坂下先生は?」「坂下先生、今日は午後の外来はないので、病棟だと思います。連絡してみましょうか?」「すみません、お願いします」 彼女は朗らかな笑顔で、内線電話をかけてくれた。良かった、知っている看護師さんで。 電話を切ると、彼女は笑いながらこう言った。「中庭でお待ちください。先生もそこに来るそうです。僕の恋人にそう伝えてくれって言ってましたよ」 私は苦笑いしたまま、琢人に言われた中庭に向かった。 中庭には、小さな池があった。まわりを取り囲むように木が植えられているこの池は、入院患者や付き添いに来る人たちのちょっとしたオアシスになっている。 私も母が入院中、何度もここを訪れた。自販機で缶コーヒーを買い、傍にあるベンチに一人で座って冷たそうな池を眺めていた。 倒れそうになる心と体を何度も立て直した場所。母の病状の説明を受けるたびに、少しずつ覚悟を固めていった場所。そしてあの日、打ちのめされて嗚咽した場所。 琢人は先に来て私を待っていた。白衣ではない、私服の琢人を見るのは久しぶりだった。 そのまま私たちは職員用の駐車場へと向かい、琢人の車で病院を後にした。「あのさ、看護師さんたちに私のこと、恋人って言うの止めてくれないかな?」 琢人は運転しながら、軽く笑い飛ばした。「家の方、何とか片付きそうなんだって?」 私の言葉をさらっとかわす。琢人はいつもこんな調子だった。「うん。予想以上に早く決まった。いい不動産屋さん、紹介してくれてありがとう。事情が事情だったから、頑張ってくれたみたい」「かなり安くしたらしいじゃないか。家はきれいで、周りの環境もいいし。値段は教えてくれなかったけど、あの低価格なら誰だって飛びつくって、あいつが言ってた」「金額より何より、一刻も早く売りたかったからね。それでも十分なお金が入ってくる訳だし」 母が生前、私の名義に書き換えてくれた実家の家は、転勤者とその家族向けの社宅として、大手の会社が買い上げてくれることになった。既に手続きも進んでいる。「家が売れたら、ウチの病院に近い手頃な物件を紹介するように言っといたんだけど、断ったんだって?家の中、家具一つなくて、いつでも引き渡せる状態だって聞いたけど、今どこに住んでるだ?」 来た来た。ここで慌てないように、私は落ち着いて用意してきた通りに言った。「一人暮らししている友達のところに、居候させてもらってるの」 さらっと言ったその友達というのが、吾朗ちゃんだとは、まさか夢にも思わないだろうな。「それは残念。紗英が一人暮らし始めたら、俺の仮眠用の別宅にしようと思ってたのに。ま、いいか。僕のところに来るまでの話だ」 道がだいぶ混んできた。渋滞の始まる時間帯だった。ビルの向こうに見える西の空が、徐々に茜色に染まっていく。 予約していたレストランに着く頃には、すっかり陽も落ちて、街は薄闇に包まれていた。「何か落としてるぞ」 私が降りた後、助手席で琢人が何かを見つけた。昨日、鎌倉の海の近くで買った天然石の携帯ストラップだった。「ありがとう。キレイでしょ。昨日鎌倉で買ったの。母のお墓のあるお寺に行って来たんだ。色々相談してきた。それから、母にも報告してきた。琢人のこともね」「俺のことも?何て?」 琢人は私が笑いながらつけ加えた、最後の言葉にだけ反応した。「琢人からは逃げられないって」「よしよし、良く分っているじゃないか」 どこまでが冗談で、どこからが本気なのか。いつもそんな調子の琢人。 ただその次の言葉は、やや硬い表情だった。「こんな状況で言うことじゃないかもしれないけど、とりあえず何もかも順調ってとこか」 何もかも順調?ううん、問題がまだ一つ残っている。 店の中はやや暗めの落ち着いた雰囲気で、壁の所々にあるウォールランプが幻想的な影を作り出していた。耳触りにならない程度の静かな音楽も心地いい。 ウエイターに従って、席に着く。ウォールランプに照らされた私の心の中に、最も気がかりな影が浮かび上がった。吾朗ちゃんの恋人のくるみさん。彼女のこと、なんとかしなきゃ。(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 読んでくださって、ありがとうございます! ぽちっと二つのバナーを、応援クリックしてくださるとかなり幸せです。 よろしければこちらもクリックお願いします。 リンク先の記事・広告の下に、投票フォームがあります。 簡単投票に参加して、この作品を評価してくださいね! コメント欄の ◆作者より ご挨拶◆ も、ご覧ください。(*^^)v
April 2, 2008
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