三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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あ と が き 第100大隊の話については、TVなどで早くから知ってはいた。しかし実際に書こうと思ったのは前著『マウナケアの雪』の中に第100大隊について少し書いたのがきっかけであり、この本の出版後のことであった。ただどう書くかについては構想が決まらず、しばらく眺めていたのであるが、「それなら今のうち、実際に経験した人たちの生の声を集めてみたらどうか」と思ったのである。今考えれば、実に甘かったと思う。 『マウナケアの雪』の主人公の孫のジョージ スズキ氏の協力により、第100大隊の資料館、そして退役兵たちに会えたのは、『マウナケアの雪』の出版後、一年半を経過していた。自分としては意気揚々と出掛けたのであったが、まず自分の不勉強に愕然とさせられた。しかし関係者たちの暖かい励ましを頂き、ドウス昌代氏にもお会いでき、その上で数冊の関係書を頂くことになったのである。ところがその中に、私が書こうと思っていた主旨の本(Japanese Eyes American Heart )が混じっていたのである。 ││これは困った。 そう思っていたときに、第100大隊の退役兵・ロバート サトウ氏のご紹介を頂いた。そのとき彼が見せてくれた二〇〇一年一月一日発行のハワイ報知新聞に掲載されていた日本語による第100大隊特集記事が、彼の戦争の記憶と短歌であったのである。 ││よし、それならこれらの短歌を中心に書いてみよう。 咄嗟にそう思った私は、この他の作品を見せてくれるよう頼んだのであるが、照れくさいのか断られてしまったのである。その後私は、後ろ髪を引かれる思いで資料館を後にしたのであるが、その別れ際に何人かの退役兵に、この本が「いつ出来る?」と訊かれ、これは大変なことに手を染めてしまったと思った。ともかく下手を承知で、なんとかしなければならない立場に自分を追い込んでしまったことに気付いたからである。 この本のサブタイトルについてはロバート サトウ氏のご教示により、『日系二世アメリカ兵』としました。こうすることで、逆に第100大隊と第442連隊のみではなく、不足とは言え第522野砲大隊や情報兵についても載せることが可能となりこのタイトルに変更したものです。心から感謝いたします。 なお二〇〇七年三月二十五日、第442連隊退役兵クラブの記念パーティがホノルルのパシフィック・ビーチ・ホテルで開かれました。この席上、私は、U.S Samurais in Bruyeresの著者・ピエール・モーリン氏を紹介され、著書を贈られました。その時この本からの引用、写真の転載の許可を受けたものです。彼は一九四八年に、激戦地であったフランスのブリュエールで生まれています。この関係もあって、ブリュエールの郷土史家としても活躍されておられます。 しかしこうしている間にも、取材に尽力して頂いたジョージ・スズキ氏の妹のサチコ・セラーノの訃報に接することになりました。心からご冥福を祈ります。 参 考 文 献一九四三 日本布哇交流史 山下草園 大東出版社一九五四 Ambassadorユs in Arms Thomas D Murphy Club 100一九五六 太平洋戦争 ロバート・シャーロッド 中野五郎 光文社一九六四 ハワイ日本人移民史 ハワイ日本人移民史刊行委員会一九七六 日系アメリカ人 鶴木眞 凸版印刷一九七八 福島県移民の記録第一号 菊池義昭 福島県移民史研究会一九七九 福島県移民の記録第二号菊池義昭 福島県移民史研究会 昭和万葉集 巻六 講談社一九八三 ブリエアの解放者たち ドウス昌代 文藝春秋 大和魂と星条旗 トマス・K・タケシタ 猿谷要 朝日新聞社一九八五 The Japanese on Hawaii, A century of struggle, Roland Kotani, The official Program Booklet of Oahu Kanyaku imin Centennial comittee一九八七 ハワイ報知創刊七十五周年記念誌 ハワイ報知新聞社 Stalag Wisconsin ~ Inside WW2 Prisoner-of-war Camps Betty Cowley一九九三 ハワイ・さまよえる楽園 中嶋弓子 東京書籍 U.S Samurais in Bruyeres Pierre Moulin一九九四 八・二〇 秘話! 封印された日系米兵のナチ収容所・裏 で親衛隊処刑 TV朝日 九・二 日系アメリカ人部隊・彼らは何のために戦ったか NHK一九九七 Japanese Eyes American Heart Tendai Edcational Foundation Honolulu Remembrances Sons and Daughters of 100th Infantory Battalion一九九八 "Fire For Effect" (unit history of 522nd Field Artillery Battalion) 522nd Historical Committee二〇〇一 一・一 日本語による第一〇〇大隊特集記事 ハワイ報知新聞社二〇〇三 Autobiography Saburo Nishime二〇〇六 八・十四 日本と戦った日系人~GHQ通訳・苦悩の歳月 NHK二〇〇七 四 文藝春秋 『小倉庫次侍従日記』・昭和天皇戦時下の肉声 Dachau, Holocaust and U S Samurais Pierre MoulinH P 二世部隊物語 http://hawkeye.m78.com/442nd.htmH P 日米を架けたMIS日系アメリカ人の足跡 未来を繋げる 歌に ~グラントヒラバヤシ氏へのインタビュー 長沼亜紀 清水美香http://www.google.com/search?client=safari&rls=ja- jp&q=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%82%92%E6%9E%B6%E3%81%91%E3%81%9F%EF%BC%AD%EF%BC%A9%EF%BC%B3%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1&ie=UTF-8&oe=UTF-8HP 玉砕の島サイパン http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/saipan0.htmlHP 硫黄島の戦い http://72.14.235.104/search?q=cache:AwlV2enNBN8J:www.tokyo-np.co.jp/kioku/txt/20051213.html+%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%80%80%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%82%AB&hl=ja&ct=clnk&cd=5&client=safariHP こちらフジテレビhttp://72.14.235.104/search?q=cache:kmnf3i3K0dIJ:www.fujitv.co.jp/z_cx/fujitv/topics/2006/06-261.html+%E9%80%9A%E8%A8%B3%E5%85%B5&hl=ja&ct=clnk&cd=24&client=safariHP 沖縄タイムスhttp://72.14.235.104/search?q=cache:QNUlDo07In8J:www.okinawatimes.co.jp/kaigai/kaigai20050716.html+%E6%B2%96%E7%B8%84%E4%B8%8A%E9%99%B8%E3%80%80%E6%AF%94%E5%98%89&hl=ja&ct=clnk&cd=1&client=safariHP 歌われた太平洋戦争http://72.14.235.104/search?q=cache:w1tbMkHUVD4J:asianimprov.at.webry.info/200606/article_9.html+%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E9%9F%B3%E9%A0%AD%E3%80%8C%E3%81%82%E3%81%82+%E7%AC%AC442+%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%8D&hl=ja&ct=clnk&cd=1&client=safari お 世 話 に な っ た 方 々 エルシー・オオキ。エベリン・ツダ。ドウス昌代。 ドロシーラ・タナカ。ドリス・タカタ・キムラ。 ジョージ・スズキ。ヒデオ・トウカイリン。ジーナ・シーファー。 カツミ・マエダ。カズオ・ヒラナカ。ナンシー・ナカムラ。 オバタ・タカシゲ・ノハラ。リチャード・ヤマシナ。 リキオ・ツダ。ロバート・サトウ。サブロウ・ニシメ。 スミオ・イトウ。スタンレー・キムラ。テッド・ツキヤマ。 ウォーレン・イワイ。ピエール・モーリン。 佐藤ムツ子 氷室利彦 山口篤二 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.10.03
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歌 集 『第100大隊行進曲』One Two Three Four One Puka Puka InfantryWe are the boys from Hawaii Nei,We are fighting for you and the red-white and blue,Weユre going to the frontAnd back to Honolulu Lu LuFighting for dear old Uncle Sam.What the hell! we donユt give a damn!Let the come and run, At the point of the gun,When One Hundred leads the way,I mua EI mua EFrom Pearl Harbor to Italy and FranceI mua EI mua EMarch on to victoryAll hail, our fighting team! 注*Nei 故郷 *Lu Lu ホノルル美人 *I mua E 進め 『第442歩兵連隊歌(GO FOR BROKE)』One Two Three FourFour-Forty-Second InfantryWe are boys from Hawaii Nei,Fighting for you and the red-white and blue,Weユre going to the frontAnd back to HonoluluFighting for dear old Uncle Sam.Go for broke. We donユt give a damn!Weユve got the Hums on the runAt the point of the gunAnd victory will be ours. (第100大隊資料館にて) 『AJA行進曲』 ハワイ男(お)の子だ銃をとり 願い叶ってイタリーへ 着けば砲火の洗礼を 激しいカシノの思い出でで 飛び散る砲火なんのその とどろく吾らの百大隊 ゴーフォーブローク名も高き 四百四十二連隊 華と散りたる戦友も 安らかなれよ永久(とこしえ)に 二世の誠貫きて 世界に輝く星条旗 『ハワイ二世部隊』 若きわれらが戦えば 誰が祖国を守るべき いざ嵐吹け東へ西へ 国の守りを誓いたる ハワイ部隊バンと行く 太平洋に開かれし われらハワイの若人よ ああ父母幾年(いくとせ)かけて 国の基を開きたる ハワイ部隊バンと行く 『パラダイス ホノルル』 ハワイ ショウチク オーケストラより引用。 『ああ 第442部隊』 ハー時これ昭和の十六年 極月七日の朝まだき 世紀のあらし雲をよび 夢を破りて楽園は ついに火を噴く真珠湾 汗と涙で五十年 わが同胞の築きたる その礎もぐらつきて 安き心も荒波の 黒潮さわぐ太平洋 (アリャサコリャドッコイトナー) ハー大義は親を滅すとか 国土の恩に身を捨てて 勇躍出征志願する 星条旗下に若人の 二世部隊のけなげさよ ハワイを遠く大陸の マコイキャンプにセルビーに 猛訓練をつづけつつ 再び渡る大西洋 (アリャサコリャドッコイトナー) ハー炎熱やくるアフリカも 二世男の子の行くところ 鬼神も避けて火と燃える 雪のカシノの戦線に 泥濘続くアンゼオに たてる功の100大隊 月の夕べの塹壕に 遠きハワイに残したる 母を思うて書く文は 母さん御無沙汰しましたが 僕も元気でイタリーの 雪のカシノの戦いに ローマも近くなりました (アリャサコリャドッコイトナー) ハー胸なでおろす子の便り 武運長久祈りつつ 朝夕供える陰膳も 焼野のきぎす夜の鶴 442部隊の 自由正義の旗じるし 欧州の野辺になびくとき アルプ(ママ)の雪も解けて行く 砲声落ちて月高く 虫の音スダく戦線に (アリャサコリャドッコイトナー) ハー手を取り合っていつの日か 共にハワイに帰らんと 誓った友は今はなく 万里異郷の幾山河 二世男の子の流したる 血汐は尊く合わす手に 男の涙は雨となる ローマを視呼に望みつつ 無き戦友におくつきの 花をたむけていざさらば 砲火は煙る欧州の フランス戦に参加する (アリャサコリャドッコイトナー) ハー時は昭和の十九年 十月二十日の夜も更けて 所はアルザスローレンの 敵の包囲の中にして 猛突撃を敢行し 怒濤の如く突きいれば くだけて逃げる敵の陣 二世男の子の叫ぶ声 万歳ヒールの名は残る 息つく暇も戦線に 孤立無援に七日間 消息断ったテキママセスの 部隊援助の命下る (アリャサコリャドッコイトナー) ハー戦友のため身をすてて 見事救ったいさおしに 心をこめて贈られし 感謝のしるしの銀の楯 壮烈無比の語り草 世界のはてまでひびきゆく ハワイをいでて幾年か 泥にまみれて新しき 世界平和につくしたる ハワイの誇る100大隊 442部隊の (アリャサコリャドッコイトナー) ハー功を称えて今日の日に 遠く異郷の戦線に 護国の鬼と化しませし 勇士の御霊に心より 感謝のまこと捧げつつ 盆の供養に焚く香は 天の川にもとどくらん たたえよハワイ二世部隊 ほまれは世よにのこるらん (アリャサコリャドッコイトナー)http://72.14.235.104/search?q=cache:w1tbMkHUVD4J:asianimprov.at.webry.info/200606/article_9.html+%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%94%EF%BC%92%E9%80%A3%E9%9A%8A&hl=ja&ct=clnk&cd=191&client=safari (HP 『歌われた太平洋戦争』 岩国音頭『ああ 第442 部隊』より引用。作詞:尾崎無音 音頭:豊岡安子 太鼓:沖広重Teichiku P-51, P-52録音年:1951 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.10.02
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●パットン将軍の略歴 ジョージ パットンは、カリフォルニア州インディオに砂漠戦訓練センターを設立した。 一九四二年十一月にパットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団を指揮しトーチ作戦でモロッコに上陸、その後中将に昇進して第2軍団を率いた。パットンは北アフリカでロンメル将軍率いるドイツ軍戦車部隊を破ったことで有名である。なお一九四三年五月までには、米英軍の攻撃によりドイツ軍は北アフリカから撤退した。 一九四三年八月、アメリカ第7軍を指揮してシチリア島に上陸した。島の西半分の占領を担当していたが、イギリス第8軍とは対照的に迅速な進撃を行った結果、イギリス軍の担当箇所であった島北東端のメッシナをイギリス軍より先に占領した。 ノルマンディー地方の戦いにおいてはアメリカ第3軍の指揮を執った。またコブラ作戦においてはドイツ軍の戦線を突破する大進撃を実行し、フランス西部のドイツ軍を包囲・殲滅した。 一九四四年八月、パットン率いる第3軍もフランス東部ロレーヌ地方に進撃する。 一九四四年十二月、ドイツ軍が攻勢に転じたバルジの戦いで、パットンはバストーニュで包囲されているアメリカ第101空挺師団を救出するために軍を出動させ、果敢な進撃により同師団を救出した。 パットン将軍.Wikipedia●ウォルター マッカラン法(排日移民法改正) アメリカは憲法により自国で生まれた人々すべてに市民権を与えてきた。これにより二世は自動的に市民となりえるのに対し、一世はその機会が得られなかった。当時、インド人や中国人が帰化権を与えられ、アメリカ市民になれたこともあって、帰化権獲得は世代を越えて日系人の悲願となっていた。 ジャッド議員の改正案は「まずアメリカに永住している約9万の帰化不能の日本人に帰化権を与える。次に日本人、朝鮮人、その他の帰化不能のアジア人に対してすでに中国人、フィリピン人、インド人などに与えられているような移民割り当てを適用する」というものであった。 一九四九年にジャッド議員の提出した法案は下院で圧倒的多数で可決されたが、上院にて南部を代表する議員の反対にあい、棚上げとなってしまった。その後も移民帰化法改正は何度となく試みられた。この権利は、第100歩兵大隊や第442連隊の活躍、ジャッド議員のような人々の努力、そしてJACL(日系アメリカ市民協会)の議会、世論への積極的な働きかけがあればこそはじめて勝ち取れたものであるが、それでも第二次大戦後の七年を要したのである。実際に一世が帰化する権利を手にするのは、一九五二年の、ウォルター マッカラン法が成立してからであった。 一九五二年十二月六日、ロサンゼルスではこの法案成立を祝う盛大な祝賀会が開かれた。そのときジャッド議員は、壇上で次のように語っている。 「新移民帰化法の成立によって、差別的条項は除去されました。私は不公平な法律に終止符がうたれたことを、日系人のためにはもちろん、アメリカのためにも深く喜んでおります。アメリカの精神がこの新しい法律によって生かされたことを、アメリカ人としてもこれ以上の喜びはないと思っております。 私は二年前に帰化法を成立させて日系人へのクリスマスギフトとして贈りたいと考えたのですが、それは頑迷な一部の人々の反対にあって実現できませんでした。しかし二年後の今日、ようやくクリスマスギフトとしてお贈りすることができたわけです。この新しい法律はアメリカの独立記念日の直前に成立して、クリスマスから発効します。実に意義深いことではありませんか。 (「大和魂と星条旗」p192) なおこの法律は一九五〇年九月に下院を通過したのであるが、実際に上院を通過して法律となるのに、さらに二年を必要としたのである。 ウォルター・ジャッド.Wikipedia● 第二次大戦での日系二世軍人 総数一六、〇〇〇名。 うち、戦死者数、七〇〇名。 第442連隊戦闘チームの終戦時の記録。 議会名誉勲章 七個。 個人勲章 一八,一四三個(米史上最多) 戦死傷率 三一四%(米史上最多) 日系人部隊が編成されてからの2年間で、第442連隊はアメリカ陸軍史上、一連隊としては、最も多く勲章を受勲した部隊となった。 また、太平洋戦線に投入されたMISLS(軍情報語学学校)卒業の日系兵士の働きは太平洋戦争での「情報戦」を制するものであった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.10.01
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●沖縄戦 一九四五年三月二十六日、アメリカ軍は沖縄本島西方二五キロの慶良間(けらま)諸島に上陸,沖縄戦が開始された。しかし持久戦を想定した日本軍にとって住民は足手まといであるばかりか食糧不足の要因にもなるため、結果として住民に集団自決を強いることとなった。悲惨な事実である。そしてそのようなことが、沖縄県全域に拡大することになる。 激戦の中で劣勢に追い込まれていった日本軍は、五月三日以降二度の総攻撃を行ったが六四、〇〇〇の戦死者を出した。この悲惨な戦いの最中,九州・台湾の日本軍は沖縄航空特攻作戦(菊水作戦)と,不沈戦艦「大和」を中心とした海上特攻作戦を敢行したが,大和は九州の南方海上で撃沈された。 六月十八日、アメリカ軍のバクナー中将が,降伏勧告状を送ったが牛島司令官はこれを拒否,訣別電報を送った。そしてこの日、ひめゆり部隊が伊原の壕内で最期を遂げた。 六月二十三日未明、牛島司令官は長勇参謀長と共に摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決し、日本軍の組織的抵抗が終了した。 最近の調査では死者二〇〇,〇〇〇人を超え、いまだ数多くの遺骨が見つかっていないという。また,地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため,この戦闘を沖縄では鉄の雨・鉄の暴風などと呼び、英語でも The typhoon of steel と呼ばれている。●戦死者の親 ホノルルの自宅で次男の戦死を知らされた父親が「死にゃせん、死にゃせん」と繰り返しながら、台所の丸テーブルの周りを何時間も回り続けていた。 (L中隊・ノゴル・フジナカ軍曹の父) コナのゴロウ・マツダ一等兵の遺族からは、丸い黄銅の壺に入って五男が戻った時、山口県大島出身の今は亡き母が「これが五郎ちゃんか?」と絶句した話を聞いた。母は息子の骨の一片を、つかれたごとく口にすると、いとおしげに噛み、呑み下したという。 同じコナの故ツヨシ・イワモト伍長の母ミサオは、「やはり早く亡くなる子だった」と思うほど優しい長男だったと語る。 アイダホからの故キヨシ・ムラカミ一等兵の母家野(やの)は、本人が行きたくて志願しての戦死だからと自分に言い聞かせてきた。「正直な話、いまだに諦めきれん。二〇歳でしたがなあ」そう語った時、いまだに声をひそめて回りを見回したのが印象に強く残っている。 亡き人のかたみとなりて朝夕に我が眼に触るるものみな悲し一区 岡田文枝 ハートマウンテン収容所新聞 1945/3/10●日本本土空襲 戦後、本土空襲の指揮官カーチス ルメイ大将は回想記のなかで次の様に述べている。 「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか・・。」 郡山空襲郡山は、一九四四年、国から軍都として指定され、民間企業は軍需産業へと転換していった。中島航空機製造工場、保土ヶ谷化学工場、金屋の海軍航空隊などがあった。一九四五年には、空襲の被害を抑えるために、市内中央部・駅東の工場附近など建物強制疎開をおこなった。_郡山の初空襲は一九四四年四月十二日で、死者四六〇名。遺体は、戸板に乗せて運ばれた。 その後、七月二十九日(駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近)八月八、九日(金屋の海軍航空隊)の計四回の空襲を受けた。 一九四五年四月十二日の郡山空襲の被害。保土ヶ谷化学工場(二〇四人)、日東紡績富久山工場(九十二人)、東北振興アルミ工場(四十七人)、浜津鉄工場(四人)、郡山駅(十一人)、方八町(七人)、横塚(二十二人)、市内(五人)、航空隊(五人)、不明(三十三人、勤労動員で保土ヶ谷化学工場で働いていた白河高等女学校(現在の白河旭高校)十四名、郡山商業学校(郡山商業高校)六名、安積中学校(安積高校)五名、安積高等女学校(安積黎明高校)一名の二十六名が死亡。住宅焼失・倒壊五〇〇戸以上であった。 郡山空襲で被弾した敵戦闘機が、須賀川に墜落した。二人の搭乗員はパラシュートで脱出したが、猟銃や鎌を持ち、殺気だった須賀川市民に鉄橋の上に追いつめられ、抵抗することなく捕らえられた。警察官の必死の制止で捕虜は危害を加えられることはなかったが、町の目抜き通りを多くの町民が見守るなか消防自動車に乗せられ警察署まで連行された。なおこのとき、大越の町の半分が焼き払われ、三春にも爆弾が一個が投下され、機銃掃射を受けた。 空爆を受けて燃え上がる、郡山市の日東紡績冨久山工場。郡山市歴史資料館蔵●ダッハウ強制収容所 ダッハウ強制収容所は一九三三年三月二十二日ダッハウ近郊にあった軍需工場跡地に建てられたドイツ最初の強制収容所であり、その後に出来る強制収容所司令官の養成施設であった。戦後イスラエルで死刑となった強制移民局のアドルフ アイヒマンも、ここで特訓を受けた。国家社会主義ドイツにとって望ましくない要素と見られた政治的反対者、ユダヤ人、聖職者等は国家の敵として隔離収容されねばならないとされた。ダッハウ強制収容所は、建設当時五〇〇〇人収容を目的として作られたが、一九三七年には既に収容人数を大幅に越えたため、一九三八年に被収容者自身の手による増築拡張が行われた。現存する収容所の記録資料によれば、一九三三年から一九四五年の間に二〇六,〇〇〇人以上の被収容者数が記録されている。 他の強制収容所のモデルとされていたダッハウ強制収容所には、一二年間に二〇〇,〇〇〇人を超える捕虜が様々な国から連行されてきた。そのダッハウには中心にある大きなキャンプと、周辺に一〇〇以上のサブキャンプそしていくつもの軍需工場があった。メーンキャンプにはユダヤ人もいたが、主に政治犯と外国人の捕虜が収容されていた。 一方多くのユダヤ人は、人目のつかないサブキャンプに入れられていた。これは正に、死の労働キャンプであった。収容者は食事もほとんど与えられず、奴隷のように働かされ、あげくの果てに抹殺された。三五,〇〇〇人以上が殺され、その八〇%がユダヤ人であったという。彼らはジェット戦闘機製造用の巨大な地下工場を作らされたり、そのほかにも、これら強制収容所の労働力がドイツ戦争経済の不可欠の構成要素となっていた。 一九四五年に入るとこうした痕跡を消そうとして、ダッハウの看守たちは気が狂ったように収容者を殺しはじめた。戦争の最後のこの数日間に、ダッハウとその周辺から、五〇,〇〇〇人の捕虜が発見された。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.30
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●リリー マルレーン (Lili Marleen )* 第二次世界大戦中に流行した ドイツのラヴソングで、歌詞は兵舎で最前線から自分が帰ってくるのを待っているであろう『リリー マルレーン』という恋人を思う一兵卒を歌ったものである。 この歌は枢軸軍としてドイツ兵と共に戦うイタリア兵の間で広がり、ロンメル軍団とモンゴメリーのイギリス第八軍との砂漠の戦いで捕虜になったドイツ軍兵士たちは、収容所の中でもこの『リリー マルレーン』を歌い続けた。やがて監視のイギリス軍兵士たちも口ずさみ、後から北アフリカ戦線に参戦してきたアメリカ軍の間にも広がった。毎日二一時五七分から「今夜は『兵士たちの唄』をお送りします」で始まる、ベオグラードのからの放送に耳を傾け、その間は戦闘が停止したと伝えられる、世にも稀有な歌である。今の日本でも、リリー マルレーンの歌を知っている人は少なくない。●米陸軍第442連隊戦闘団 第442連隊もまた、初期の第100大隊が所属する連隊がなかったように、『親』であるべき『師団』が存在しなかった。そのため第442連隊には主力の歩兵二個大隊に加え、傘下に同じく日系二世兵士で編成された野戦砲兵大隊と戦闘工兵中隊を擁していた。これが歩兵連隊ではなく『第442連隊戦闘団』と呼ばれる理由である。つまり、師団の編成を連隊規模に縮小したものと考えられよう。 第100大隊が編入された時点での第442連隊の編成は以下の通りであった。 米陸軍第442連隊戦闘団The 442nd Regimental Combat Team 司令部中隊 Regimental Headquarters Co. 対戦車砲中隊 Anti-Tank Co. 砲兵中隊 Cannon Co. 医療衛生分遣隊 Medical Detachment 戦務(補給)中隊 Service Co. 第100歩兵大隊(第1歩兵大隊に相当) 100th Battalion 大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co. A中隊(ライフル歩兵中隊) Company A B中隊(ライフル歩兵中隊) Company B C中隊(ライフル歩兵中隊) Company C D中隊(重火器歩兵中隊) Company D 第2歩兵大隊 2nd Battalion 大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co. E中隊(ライフル歩兵中隊) Company E F中隊(ライフル歩兵中隊) Company F G中隊(ライフル歩兵中隊) Company G H中隊(重火器歩兵中隊) Company H 第3歩兵大隊 3rd Battalion 大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co. I中隊(ライフル歩兵中隊) Company I K中隊(ライフル歩兵中隊) Company K L中隊(ライフル歩兵中隊) Company L M中隊(重火器歩兵中隊) Company M 第522野戦砲兵大隊 522nd Field Artillerry Battlion 大隊本部中隊 Headquarters Battery 砲兵A中隊 A Battery 砲兵B中隊 B Battery 砲兵C中隊 C Battery 砲兵戦務中焉@Service Battery 医療衛生分遣隊 Medical Detachment 第232戦闘工兵中隊 232nd Combat Engineer Co. ● 特攻隊 海軍 神風特攻隊 真珠湾で大きな損害を出したアメリカ軍は、対空砲火を充実し、さらに直径二五〇キロメートルの範囲をカバーする長距離レーダーを増強した。これにより特攻機の接近を早く知ってこれを補足、艦に至る以前に上空で待ち伏せ攻撃をした。初期の神風特攻隊の戦果もあり、陸軍としても無言の戦果獲得競争の意識もあって振武特攻隊を発足させた。 陸軍 振武隊 陸軍の仮想敵国は大陸のソ連であった。そのため陸軍の飛行機は航続力が短く、地上戦の援護が目的であったため水平飛行に向いていた。一点集中爆撃の急降下攻撃には向いていなかったのである。自重を利用した急降下には飛行機の能力を超えたスピードのため舵が効かなくなった。しかも練習機を転用したものが多かった。エンジントラブルなどが続出した。隊員の中からも「これでは戦えない」との声も出たが、上層部はこれを無視して出撃命令を下した。 特攻機の実態 陸海軍ともに、積載する爆弾の重量の見返りに外せるものは全部外し、軽くする必要があった。無線機、機銃、あげくには飛び上がると車輪まで落とさせられた。飛び上がれば隣の飛行機とも連絡がとれず故障などで引き返して着陸も出来ず、その多くは丸腰のまま待ち構えている敵の飛行機群に飛び込んでいったことになる。このためアメリカ空軍の餌食となり、戦う手を縛られたままただひたすら艦影を求め続けたのである。 それでも滑走路から飛び上がれなかった者、なんらかのトラブルで戦場に達しなかった者、その他の理由で生き残った者は六〇〇名を超えるという。 陸軍は離陸した飛行機のすべてが突っ込んで戦死し、戦果を上げたと発表したから、生存者の存在を隠す必要に迫られた。そのため福岡に振武寮を作り、彼らを隔離した。そこで彼らは再び特攻要員として再精神教育を受けさせられた。死ねなかったのは飛行機の低い能力のためではなく、「操縦するお前らの腕がないからである。タルンでいる」という理由からである。余りの苦しみに自殺者も出た。 陸軍海上挺身兵 さらに戦争の末期、各地の基地に配属されたのが陸軍海上挺身兵である。飛行機の払底した陸軍は、簡単なベニヤ板で作られたボートに爆弾を積載し、人そのものを突っ込ませたのである。学徒兵だった彼らに「お前らはすでに軍神である」と発破をかけた。 陸軍兵器学校(http://www1.ocn.ne.jp/~to5si4/index.html)より ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.29
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●強制収容所 日本軍による開戦当初の怒涛の進撃を受けて、アメリカ本土への侵攻計画は可能性が高いと分析され、開戦から三ヶ月を経た一九四二年二月に行われた日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州の製油施設砲撃の成功もあってアメリカ人の反日感情はピークに達していた。このため日本人の血が十六分の一以上混ざっている日系人はすべて逮捕、拘束されて収容所へ送られることとなり、カリフォルニア州などの西海岸沿岸州とハワイに居住する日系人約一二〇,〇〇〇人は強制的に立ち退きを命ぜられ、砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた『戦時転住所』と呼ばれた次の十ヶ所の強制収容所に入れられた。 カリフォルニア州 マンザナール (Manzanar) 一〇,〇四五名 カリフォルニア州 ツール レイク (Tule Lake) 一八、七八九名 アリゾナ州 ポストン (Poston) 一七,八一四名 アリゾナ州 ギラ リバー (Gila River) 一三,三四八名 ワイオミング州 ハート マウンテン (Heart Mountain) 一〇,七六七名 アイダホ州 ミニドカ (Minidoka) 九,三九七名 ユタ州 トパーズ (Topaz) 八、一三〇名 アーカンソー州 ローワー (Rohwer) 八,四七五名 アーカンソー州 ジェローム (Jerome) 八,四九七名 コロラド州 アマチ (Amache) 七,三一八名 テキサス州 クリスタル シティー (Crystal City) (司法省が管轄した拘置所) なお後に、ツールレイクには日本への帰国希望者が集められ送還された。 明日の日の住まひは知らずハート嶺にスヰートピーの種集めけり 豊留たか 昭和万葉集 巻六 二三一頁 北米短歌 19/5 注 ハート嶺*ハート マウンテン強制収容所。 強制収当所位置図 この他にもアメリカ政府は、中南米十三カ国に住む二、二六四人の日系人を現地の警察に逮捕させてアメリカ海軍の艦艇で強制連行、そうしておいて『正規の入国手続きを経ていない不法入国』という理由付けをして逮捕し、テキサス州クリスタルシティのキャンプに強制収容した。さらに戦争終結後にアメリカは彼らに国外強制退去を命じたが、ペルー政府の入国拒否により九〇〇人が日本に送還、三〇〇人はアメリカ政府に対して異議申し立てをおこなって残留し、一九五二年に市民権を獲得している。これらの強制収容所は、ツールレイクが一九四六年三月二十一日に閉鎖されることで全部が閉鎖された。●ミッドウェイ海戦の彼我比較(アメリカ) 参戦 沈没 (日本) 参戦 沈没 大破 中破 航空母艦 三 一 六 四 〇 〇 戦 艦 〇 〇 十一 〇 〇 〇 重巡洋艦 七 〇 十 一 一 〇 軽巡洋艦 一 〇 六 〇 〇 〇 駆逐艦 十五 一 五三 〇 〇 一 注 両者損失については、説が複数ある。●第二次大戦大戦中におけるアメリカ軍の編成軍集団 Army Group 必要に応じて編成する。軍 Army 配下に軍団を持つ。指揮官は中将。軍団 Corps 2個師団以上から成り、通常は支援のため機 甲騎兵連隊が付属する。指揮官は中将。師団 Division 3個以上の旅団から成る。指揮官は少将。旅団 Brigade 戦闘団 Group連隊 Infantry大隊 Battalion Squadron 歩兵、砲兵、機甲部隊が Battalion、 騎兵がSquadron、指揮官は中佐。中隊 Company,Battery, Troop, 大部分がCompany、砲兵は Battery、騎兵はTroop、指揮官は大尉。小隊 Platoon 指揮官は中尉あるいは少尉。分隊 Squad班 Section●日本兵捕虜収容所 一九四三年五月以降、キャンプ マッコイは日本兵の捕虜収容所になっている。そこには真珠湾攻撃のとき捕虜となった酒巻少尉や、米本土を最初に攻撃した潜水艦の乗組員二名を含む約五〇人が収容されていた。ちなみにこの施設は、現在はまったく使用されていない。 なお、ウィスコンシン~第二次世界大戦の内幕「戦争の囚人キャンプ」(著者 ベティ・コーレイ)によると、ウィスコンシン州内には三十八ヶ所のキャンプがあり、そこの捕虜たちの大部分が農場に入ってエンドウ豆や他の農作物を収穫していた。そしてこれら捕虜の多くは居酒屋にも出入りが許され、ときにドイツの捕虜は地元の若い女性たちとデートさえして地元と溶け合っていた。しかしこのようなドイツの捕虜と一般住民の親密さは、ヨーロッパやアジアで戦っていた兵士をもつ家族と、他の住民との間に悶着を引き起こすことにもなったという。●ドイツ軍ロンメル将軍(砂漠の狐)の略歴一九四〇年二月 第15装甲軍団主力第7機甲師団長に就任、西方戦 線攻略に貢献する。一九四一年、中将に昇進し、ド イツ アフリカ軍団司令官に就任。 七月 英軍をエジプト領エルアラメインに追い詰める。 八月 アフリカ、北アフリカ戦線でドイツアフリカ軍団を 指揮して大将に昇進し、アフリカ機甲軍司令官拝命。 一九四二年六月 トゥブルク要塞攻略の功により、ドイツ軍史上最年 少で元帥に昇進した 九月 病気のため一時帰国。一九四三年 再び病気のためアフリカを去る。 一九四四年 フランス方面B軍集団司令官に就任し連合軍上陸作 戦阻止の任に就く。 七月 英軍戦闘機の攻撃を受け重傷を負う。 七月二十日に起きたヒトラー暗殺未遂事件に関与した疑いで十月 十四日に服毒自殺を強要された。 ロンメル将軍 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.28
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資 料●ハワイの徴兵 ハワイ準州では日系二世に対して、次の四回の徴兵が行われ、第298部隊と第299部隊が編成されていた。 第一回 一九四〇年十二月 第二回 一九四一年 三月 第三回 一九四一年 四月 第四回 一九四一年十二月●山本五十六 明治十七(一八八四)年四月四日 新潟県長岡市に生まれる 明治三十七(一九〇四)年十一月十四日 海軍兵学校卒業 昭和九(一九三四)年九月 海軍軍縮会議予備交渉代表 十一月 中将 昭和 十(一九三五)年十二月 航空本部長 昭和 十一(一九三六)年十二月 海軍次官 昭和 十三(一九三八)年 四月 兼・航空本部長 昭和 十四(一九三九)年 八月 連合艦隊司令長官 昭和 十五(1940)年十一月 大将 昭和 十六(一九四一)年十二月 八日 ハワイ真珠湾攻撃 昭和 十八(一九四三)年 四月十八日 ソロモン上空にて戦死 日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していたといわれる山本五十六は、日米開戦後の見通しを近衛文麿首相から聞かれたとき、「初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」と答えたという。 皮肉にもその山本五十六が連合艦隊司令長官として真珠湾への航海中に、士官たちが、「出撃中止の命令が出て中途反転するは武士に非ず。このまま出撃すべし」との話を聞きつけ「我が命に反するものは即刻辞表を提出せよ。百年兵を養うは、ただ平和を守るため」と諭したという。 いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ (山本五十六の手記より) 山本五十六●アメリカの軍組織 ハワイの陸軍の組織は戦場になったこともあって混乱し、非常に分かりにくい。 1 ハワイには陸軍はなく海軍が駐留していた。そこでハワイ準 州国土防衛軍第298部隊(オアフ島)と299部隊(その 他の島々)が創設されたが翌年五月に解散させられた。直後 ハワイ緊急大隊 (HPI・Hawaiian Provisional Infantry) として再編成、メーンランドに送られて第100歩兵大隊と なった。ここには地元の人が六人、白人も若干おり、出身地 別の人数としては、広島、山口、熊本、沖縄、福島、新潟、 和歌山の順序であったという。 2 戦前よりハワイ大学の学生による予備役将校訓練部隊(RO TC・Reserve Officer Training Course 訓練終了ととも に少尉に任官)があったが、開戦と同時にハワイ準州守備隊 (HTG・Hawaii Territorial Guard) となり、これが大学必 勝義勇隊(VVV・Versity Victory Volunteers)に名称 が変更された。正式名称は陸軍工兵連隊所属技術予備労務隊 である。 3 一九四三年二月、第442歩兵連隊が発足。VVVから第4 42連隊に志願した者が多かった。 4 一九四四年六月、第442連隊がイタリアに上陸、先陣部隊 である第100大隊はその名称はそのままに、第442連隊 の第1大隊(The first battalion)となった。●ハワイの強制収容 一九四一年十二月九日、約一〇〇名の日本人が捕らえられ、サンド島のアメリカ陸軍第35連隊の管轄下に拘留された。その後も翌年二月までに二百数十名の日本人が逮捕され、サンド島に送られた。これらの人々は約二ヶ月半、言語に絶する過酷な取り扱いを受けた。やがて彼らは、アメリカメーンランドの強制収容所へ船で移されているが、その回数は無慮十回、人数も男子六九四名、女子八名、七〇二名であった。その他に、ホノウリウリ抑留所に抑留された人々は、三〇〇名以上に上った。 第一回船組 一九四二年二月二十日、輸送船グラント号で一七二名 の日本人、ドイツ人が二十九名、それに捕虜第一号と いわれた坂巻和夫海軍少尉らのうち半数がモンタナ州 フォート ミゾラへ、残りがニューメキシコ州サンタ フェとテキサス州クリスタル・シティに収容された。 なおこのときの乗船名簿の中に、ヒデオ トウカイリ ンの父の東海林甚七の名が記録されている。 第二回船組 三月十九日、グラント号で日本人一六六名が送られ、 そのうちの約半数がフォート・ミゾラへ、残りがサン タフェに収容された。 第三回船組 五月二十三日、軍用船マウイ号で日本人が一〇九名が 送られ、サンタフェに収容された。 第四回船組・婦人組 六月二十一日、船名不詳、日本人男子が三十 九名、女子が六名送られた。男子はローズバーグ、女 子はテキサス州ダラスに収容された。 第五回船組 八月七日、マッソニア号で日本人四十九名が送られ、 ローズバーグに収容された。 第六回船組 九月十六日、船名不詳、日本人二十九名が送られ、ロ ーズバーグに収容された。 第七回船組 十月十一日、船名不詳、日本人二十三名が送られ、サ ンタフェに収容された。 第八回船組 一九四三年三月二日、船名不詳、日本人四十二名と朝 鮮系一名が送られ、サンタフェに収容された。 第九回船組 七月一日、船名不詳、日本人三十四名が送られ、サン タフェに収容された。 第十回船組 十二月二日、船名不詳、日本人二十九名が送られ、サ ンタフェに収容された。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.27
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──ところでツキヤマさんは『ワン プカ プカ に敬礼を』という文 を『Japanese Eyes American Heart 』に書いていますね。 ギニーピッグ・バタリアンは挫けない 祖国の愛と恩恵を 深い感謝に包み込む。 心からの敬礼を ワン プカ プカ のこの旗に。 このギニーピッグの意味が分からないのですが。T ああそれについて我々は、『捨て石部隊』という意味で用いまし た。 (注)Guinea Pig Battalion・テンジクネズミ。モルモットと思 われているが全く別の実験用動物。○ 日本は戦争に負けて勝った。──そうかも知れません。○ しかし考えてみると、日本の教育程度は高いのに、なぜ戦争に 踏み切ったのですか?──当時の日本では、外国からの放送を聞くことや新聞を見ることを 禁じられていました。外国からの短波放送を聞くと、逮捕されま した。ですから政府や軍部からの情報しかありませんし、「日本 が勝った勝った」と報道されましたから、そうだと思っていまし た。 戦争中、私は国民学校(小学校)三年生でしたが、先生に「この 戦争は一〇〇年戦争だ、お前らが天皇陛下の御為に命を捨てる時 間の余裕は充分にある。しっかり勉強しろ」と教育されていまし た。○ なるほどね。──国民に本当のことを知られて戦争に反対されるのを恐れた日本は、 負けても勝ったと放送するから、国民に本当のことを知りません でした。政府を批判する人は、すべてアカ(共産主義者)と呼ば れて検挙拘束され、拷問を受けました。○ あー、困ったもんだね。──それに兵隊たちも負けたことは「軍事機密だから家族にも言う な」と命令されていました。国民の誰もが、本当のことを知りま せんでした。○ 恥ずかしいが私の親も『日本が勝った組』だった。四~五人寄 って毛布をかぶって日本のレディオ聞いて、「なんで勝っている 日本が負けた?」と言っていた。──一方的な情報とは、そういうものかも知れません。○ 僕がユニフォーム(軍服)着ていたのに親父が引っ張られて・・・、 そういうこともあったんだ。○ 日本ってどう書くか? 日の元だ。日の元の国のお日様がなく なったらどうなるか? 親父さんのいない家庭はあり得ない。日 本のない世界の存在はあり得ないって教えられた。──なるほどね。日本で私たちも、同じような教育を受けていました。 「天皇陛下は現人神である。神様の統治する神の国だから負ける 訳がない」(笑)と・・・。ひどい教育ですね。でも私たち子ど もは、そんなものだと素直に受け入れていました。(爆笑)○ そうか。しかし我々も覚えさせられたな。神武、綏靖、安寧、 懿徳・・・。 私は彼らが延々と続ける天皇の諡号の記憶に、ハワイにおける戦前の教育を隙間見る思いであった。──ブラジルでは『勝ち組と負け組』が喧嘩をして、殺人事件まで起 きたそうです。○ それは知らなかったね。ハワイではそれはなかった、しかしホ ノルルのアレワの丘に『日本が勝った組』が毎日のように集まっ て、日本の軍艦が自分たちを迎えに来るのを見ようとして待って いた。──そうですか。日本では八月十五日に天皇が「耐え難きを耐え、忍 び難きを忍び」と放送したので負けたと分かった人は多かったの ですが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」んで戦えと解釈した 人もいました。○ 僕は戦後の日本の町で「お前は日系人か?」と聞かれ「そうだ」 と答えると、「敵として戦ったあげく負けた国にやってきて、お 前は楽しいのか」と責められた。何とも答えられなかった若き日 の自分が、今も情けないよ。彼は寂しそうに言って肩をすくめた。○ しかし我々は祖国のために戦うことができたのを誇りに思う。R 我々は見かけこそ日本人だが、れっきとしたアメリカ人だ。忠誠 心を持ち、祖国を守るという義務を果たしただけだ。戦後しばら くしてから、二世という単語は、我々に誇りを与えてくれる単語 となった。すなわち、彼らが、我々がアメリカの地で生まれたア メリカ人であるということを認めてくれるようになったからです。 (D ドロシーラ・タナカ。 G ジョージ・スズキ。 H ヒ デオ トウカイリン。 R ロバート・サトウ。 S サブロウ・ニシメ。 T テッド・ツキヤマ。 W ウォーレン イワイ。 (なお○印は、資料館での会合の話であったので、発言者が特定できなかったことによる) 私が第100大隊資料館を辞する際、彼らから「いつ、本が出来る?」と尋ねられた。返事に窮したが、彼らの年齢はすでに八〇歳を超えている。「ハワイは虹のきれいな所です。本の題に虹を使うといいよ」そう言ってくれる人もいた。 ロバート・サトウは私をパンチボウル国立墓地に案内しながら言った。「僕らはアメリカ本土で強制収容所に入れられた日系人、つまり親や親戚、時には兄弟を助け出したいと思って徴兵に応じました。それはまた、戦前から長く続いてきた僕らに対する人種偏見との戦いでもあったのです。しかし今、僕はパンチボウルで一番いい場所を第100大隊にくれたアメリカに感謝しています。僕らアメリカで生まれ育った者への素晴らしい配慮だと思っています」 傷跡に手をやる毎に思いけりイタリーの山に栗拾いし頃 (ロバート・サトウ)「今でも第100大隊の寡婦で、週に二回欠かさずお参りに来る人がいます。ここには第100大隊でも、ホノルル出身者が多く祀られているのです。それぞれの島にも国立墓地があります。親がお参りし易いように、出身地の島に祀った人も多いのです」 (ドロシーラ・タナカ) ロバート・サトウ氏とパンチボウルの第100大隊記念碑を前に (終) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.26
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第100大隊資料館──それから私は(日本で)ジーナに、第100大隊の歌を知ってい るか聞いてみました。○ バトルフィールドではあまり日本の歌を歌いませんでした。ハ ワイの日系兵隊は、ウクレレ、ギター、ハーモニカを戦争に持っ て行って、ハワイの歌を歌いました。○ ハワイが懐かしくなりましたから。流行っていたアメリカのフ ォークソングも、歌っていました。 ──で、第100大隊の歌はいつ頃作られたものですか?○ あれは戦争が終わってからかな・・・。──えっ、戦争が終わってから作られた? あれは戦争中に士気を 鼓舞するために歌われたのとは違いますか?○ 歌わなかった。──じゃ、第442連隊の歌は?○ あれもそうだと思いますよ。──へーえ、驚いたな・・・。そうだったのですか。○ 歌わなかったけど、ゴーフォーブロークという言葉はありまし た。(見せてもらった歌詞は、第100大隊、第442連隊とも、 よく似ていた)○ ギャンブルのダイスゲームからゴーフォーブロークの言葉がと られた。──それにしても、詩も詩の流れも似ていますね。○ メロディも同じだよ。──えっ、メロディもですか? ここでその歌を、みんなで歌ってみ てくれませんか? 誰かがウクレレを持ち出し、みんなで第100大隊の歌を歌ってくれた。○ 戦後は日本の歌がとても流行った。○ 『美空ひばり』が来たしね。○ ボンダンスの太鼓の音はいいね、ノスタルジーを感じる。D 橋本さん、これ(第100大隊資料館のバッチ)を記念に差し上 げます。○ おー・・・。(拍手が起きた)──あぁ、これにもリメンバー・パールハーバーと書いてありますね。 ところでこのリメンバーという単語はアメリカの歴史に何度か出 てきますね。例えば対スペイン戦争の時のリメンバー・メインと か戦争に関して使われたと思うのですが?R そうですね。リメンバー・ザ・アラモとか・・・。リメンバーに は、単に『記憶する』という意味ばかりではなく、復讐という意 味が隠されています。──復讐?・・・ですか。なるほどね。それであなた方がその単語を 使った理由が分かったような気がします。R メイン号は当時のアメリカが建造した最大の戦艦で、海軍の象徴 でした。一八九八年にハバナ港に入港したこの船が爆発し、スペ インに攻撃されたとして戦争になりました。リメンバー・ザ・ア ラモもそうです。西部劇のアラモの砦やデビー・クロケットで有 名です。──するとリメンバー・パールハーバーも同じ流れに・・・?R そうです。我々は日本に復讐をしたいという意志を、アメリカと いう国に知らせる必要がありました。S 僕は第四十六師団に入って、アメリカの命令でスパイの立場だっ たの。こんなに年が過ぎて、はじめて言うの。僕は辛い立場でし たの。 サブロウ・ニシメは皆の前で立ち上がり、六〇年ぶりの朴訥な日本語でこう言った。S やっぱりこういう風な日本人の大和魂を思っている連中の間で、 このような仕事やってきた。これは今六〇年以上過ぎているから 言うが、友だち、誰も知らないよ。はじめて今、話してる。 一瞬、周囲の空気が固まったかに見えた。その微妙な雰囲気の中で、私はスパイの意を問えないでいた。同じ部隊の彼らは当時知っていたのであろうかそれともはじめて知ったのであろうか。しかし日本に戻ってから調べてみると、第四十六師団は第二次世界大戦時の欺瞞用の師団で、その実体はなかったと言う。彼は憲兵の役ででもあったのであろうか?──ツキヤマさん、失礼ですが、あなたがビルマにいたとき、東京ロ ーズの放送を聞いたことがありましたか? それを聞いてどう感 じましたか?T 兵役にいた間、私は東京ローズの放送について何も知りませんで した。我々のラジオは厳密に軍の公式の機能しか含まれていませ んでしたから受信周波数がまったく違っていたのです。──すると一般兵士がラジオを携行していたとは考えられませんから、 日本軍部の思惑はまったく外れていたことになりますね。T そうなります。 第100大隊除隊兵の皆さん ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.25
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第 1 0 0 大 隊 資 料 館 に て 二〇〇七年三月、私は取材のため再びホノルルを訪れた。当日は時差の関係があったので、予定を入れずホテルでゆっくり過ごしていた。 ベランダへ出て行った娘が、驚いたように声をかけてきた。「お父さん、虹よ。虹!」「ふーん」 ベッドで横になったまま、私は気のない返事をした。「しかも二重の虹よ!」 私は、のそのそと起き出した。ダイヤモンドヘッドをバックに、それは鮮やかに出ていた。「ほお、案外低い所に架かるもんだな。まるでさわれるかのようだ。歓迎の印かな」「そうよ、家の家族は日頃の行いがいいから」 軽口を言う妻と娘にカメラのレンズを向けた。目を下にやると水泳やサーフィンを楽しんでいる人たちの姿が見えていた。「日本人の観光客も多いし言葉も通じて・・・。老後はこんな所に住めるといいわね」 妻が言った。「そうか、それならジョージさんにいい家を探してもらうか」 辛酸をなめつくしたハワイの日系人のことを考慮すれば、日本人はもう少し謙虚であるべきと思っていたので、私は冗談で応じた。 ちょっと見えにくいのですが、二重の虹です 翌日の約束の時間に、私たちは第100大隊資料館を訪ねた。十五人位の人が待っていてくれた。除隊兵たちだけではなく、ご主人を亡くされた婦人たちもいた。「あなた方のためにみんなで作ったのよ。食べなさい」 そう言ってくれている小さなホールのそこここで笑い声が起き、同窓会のような雰囲気であった。私たちは、丸い大きなテーブルを囲んだ。R 僕は野戦病院で治療を受けた後、北アフリカの病院にヘリコプタ ーで運ばれ、一ヶ月程病院生活を送ったが、本格的治療を受ける ために軍用船でアメリカ本土に帰された。約十一ヶ月の間病院生 活を送ったが、それが辛かった。入院している間にもハワイから 一緒に出征した友だちが敵の銃弾の下をかいくぐって戦っている のを考えると、本当に気がもめた。「早く直してみんなの所へ戻 り一緒に戦いたい」と思いながら安全な病院のベッドに横たわっ ているのが何とも切なかった。そのようなとき、何気なく窓から 外を見ていると、雀が数羽、忙しげに餌をついばんでいた。そん なとき作った短歌が、これです。 ふと見れば翼濡れいる雀の子恋い来たりしか一人居の窓──戦争が終わって、ハワイに帰ったときの様子を教えてください。W みんな別々に帰った。──えっ、別々って・・・バラバラで? 個人個人で?W そう。──では第522野砲大隊は?W それもバラバラ。──それではハワイに帰ったとき、凱旋帰国の歓迎式はなかった?W なかった。第442連隊は、ワーって帰ってなかった。──それでは第100大隊はハワイから行くときそーっと行って、こ んなに沢山手柄を立てて、帰ったときもまたそーっと?W そう、可哀想ね。 このようにイタリアで、フランスで。ドイツで、そしてアジアで戦ったどの日系人部隊からも、自らの戦功を誇る言葉を話す者は誰一人としてなかった。それは日本人特有とされる『謙譲の美徳』からなされたとされる考えもあろうがそればかりではなく、日本人への人種差別、それに基づく強制収容への反発が『アメリカ国のため』という一事に昇華したためであったのかも知れない。彼らがこの激烈な戦いを通じて体験したのは、多くの友人の戦死と戦傷の実態であった。矛を収めてはじめて知った第100大隊の死傷率三一四%という数字に、おそらく愕然としたのは彼等自身であったのではあるまいか。彼らがハワイに戻ったとき、何の凱旋帰国のセレモニーもなかったという。このことは何を意味するのであろうか? そしてここで言う三一四%という死傷率は、三一・四%の間違いではない。最初に第100大隊が編成されたときの全隊員の三倍以上の死傷者が出た、という意味である。 ある除隊兵が言った。──我々は原爆を落とした側だ。今でも日系アメリカ人としての気持 ちを聞かれることがあるが、答えるのは本当に難しい。日本では 女性までもが竹槍で特攻攻撃をすると噂されていた。それが恐怖 であったとしても、自分たち日系人が日本の破壊に加わったとい う罪悪感から逃れられないでいる」──あなたは何のために戦ったと思いますか? アメリカ? 家族? それとも日系人のため?H 日系人だろうね。100大隊帰米が多かったから・・・。帰米二 世は日本語も英語も半端だ。可哀想だよ。それで(日本に)帰っ た人がいる。みんな死んでしもうた日本で、日本の戦争日本の兵 隊・・・。それで日本は何のために戦ったのですか?──・・・。(戦後の日本を知っている私は、返事に窮していた)G 橋本さんの質問は、ハワイの一世と二世は戦争の時から今までい つも考えています。 一世と二世は、日本がアメリカを攻撃することはほとんどしまい、 出来ない、不可能と思っていました。何故そう思ったかは、小さ い、資源のない、(中国での)戦争に疲れた国は、アメリカみた いな大きい天然資源が余るほど多い国に勝つことは不可能と思っ ていました。山本五十六大将もアメリカを見物して、同じ結論で した。二世は日本、祖先の国を愛していました。その代わりアメ リカは生まれた国、食べさせてくれる国、教育してくれた国は愛 の上に恩と義理がありました。日本人はこの概念をよく理解する と思います。でも一世はアメリカ、養ってくれている国、子供が 生まれた国を傷つけることは絶対出来ないことでした。日本人は 一番これを理解する人々です。 なかには日本で生まれて教育を受けた一世は最後まで日本が戦争 に負けると信じませんでした。信じたくない状態でした。日系人 たちは、アメリカと日本が戦争をするのは本当に嫌なアイデアで しかないと思っていました。(なおジョージ・スズキ氏はハワイの医師である。彼は戦後長期間にわたって、祖父母の国・日本の広島原爆病院に関わって貢献し、二〇〇五年の秋の叙勲において『旭日双光章』を受けられた) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.24
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四月二十三日。ビルマの日本軍はラングーンを脱出、モールメンに撤退した。何人かの捕虜が捕らえられた。「君は何のために戦っているのですか?」 このアーネストの質問に怪訝そうな顔をしたその捕虜は急に立ち上がると不動の姿勢をとり大きな声で、「天皇陛下の御為である」と答えた。アーネストは一瞬戸惑ったが。福島県での中学時代を思い出した。それは校長が朝礼などで「気を付け!」と声をかけ、生徒たちが不動の姿勢を取る中で「畏くも天皇陛下におかせられましては・・・」と話すことをであった。「家族の為ではないのか」と問うと、「いや違う。鬼畜米英撃滅と、大東亜共栄圏の建設をするためである」 そう言うと捕虜は、どーんと腰を下ろした。 ──これは駄目だ。まるで洗脳されている。 そう思ったアーネストに、その捕虜は急に態度を変えた。今までの強気の態度とは裏腹に、落ち着かない様子を見せはじめた。「捕虜になってこのような形で命を永らえて・・・。自分の戦友たちの死になんの意味があったのか、分からなくなった。どうせ日本に帰っても戸籍もないだろう。これからどうしたらよいか迷っている。しかし日本を見たい。故郷を見たら死のうと思っている」と言い出した。「あなたたちは折角助けられたのに、そんなことを言っては駄目ですよ」と言うと、しばらくしてから捕虜が言った。「我々は、アメリカが堕落した国だと教えられたが、アメリカの個人主義や自由主義をもっと学ぶべきだった。日本は大和魂に頼りすぎた」 捕虜は気の弱そうな笑みを浮かべた。その後、彼は、多くの情報をアーネストに与えてくれたのである。 四月二十四日 連合軍、デッサウを占領。 四月二十五日 連合軍、ライプチィッヒを占領。 四月二十七日 ソ連軍、ベルリンを包囲。 四月三十日 ヒトラーが自殺。連合軍はミュンヘンを占領した。 第522野砲大隊のタダシからも手紙が届いた。『親愛なるアーネスト。 ヨーロッパでの戦争終結にともない、第522野砲大隊は第30砲兵グループ101空挺師団に配属替えされた。 五月九日、第522野砲大隊はシャフラッファとミュンヘンを過ぎた所のアウグスブルグの郊外のステパッハに移動し、占領業務に入っている。間もなく僕たちも、太平洋に回されるだろう。そうしたら戦場で会おう。そしてこの戦いを勝ち抜こう。 アロハ 忠実なる友人 タダシ・トウジョウ』 六月二十三日 沖縄の日本軍は玉砕した。 八月六日 広島に原爆投下。 八月八日 ソ連軍が満州に攻め入った。 八月九日 長崎へ原爆投下。 八月十五日 日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をした。「我々は勝った! 戦争は終わった!」 しかし情報兵たちの間に、歓声は上がらなかった。父母の国への深い問いかけが、残されていた。 ロバートから手紙が届いた。『親愛なるアーネスト。 戦争が終わった今、本土の陸軍病院で心置きなく治療に専念している。平和とはありがたいもの、今度はこの平和が続くよう、世界が戦わないで済むよう、みんなで努力しよう。世界はあまりにも多くの命を失った。この多くの命が無駄死であってはならない。そうならないためにも、我らは今後のアメリカと日本の、平和の架け橋となろう。 アロハ 忠実なる友人 ロバート・サトウ』(この稿に関連した『父の死』を、『閑話休題・父の死』に掲載しました) 第二次大戦中、インドシナには約九万五千人のフランス軍が駐留していたが、本国がドイツに一時占領されたりして日本軍進駐を容認したため、武力衝突は起きなかった。しかし日本の敗色が濃くなると、連合軍の攻勢にフランス軍が呼応するのではないかという懸念から日本軍はフランス軍の武装を解除し、スパイ取り締まりなどを行った。しかし日本の敗戦は、その日本とフランスの立場を逆転させることになる。 ガダルカナルで大きな損害を受け、その後補充再建された第29若松連隊は、ヴェトナムのサイゴン(ホーチミン)で敗戦を迎えていた。それを知ったアーネストは、この近くに囚われている若松連隊の兵士たちに是非会ってみたいという強い衝動に駆られた。友だちがいるのかも知れないのである。しかし勝者と敗者に分かれた今、それはいかにも不味いと思った。 ──何年か経って戦いのわだかまりが消えた時、懐かしいみんなに笑って会いたいな。 そう思いながら額に皺を寄せて目を閉じたアーネストの頭の中に、椰子の木とワイキキの青い海と白い波が一杯になって広がっていった。 アーネストがホノルルの我が家に戻ってきたのは、一九四六年の秋であった。イギリス軍管理下の捕虜収容所とBC級戦犯裁判の通訳を命じられたからである。そこでアーネストは、泰緬鉄道建設やインパール作戦などにおける連合軍と日本軍の惨状を知った。それはまた今までの経験とは違った恐ろしいものであった。 アーネストは一週間眠り続けた。戦場での悪夢にうなされ続けた。そして半年、自分の部屋に籠もり人目を避け続けた。時に壁を叩き、窓のガラスを割ったこともあった。 ある朝、心配する母や妹の目をかすめるようにして出掛けたのはワイキキの浜辺であった。眼前の大海原は、あの日の朝のように静かにうねっていた。 ──戦いで多くの友人が死んだ。そしてさらに多くの日本人、ドイツ人、イタリア人いやもっと多くの国々の人が傷つき、死んだ。その地獄を見た僕が生きて帰ったのに、どうして命だけは安全な筈の強制収容所に行っていたお父さんが亡くなったのですか! なぜ僕らはあなた方の生まれた国・日本と戦わなければならなかったのですか? アーネストにとっての戦後は、祖国アメリカが自分と自分の家族に残した傷を癒すための長い時間となった。 日本語が出来たがために、アメリカ軍情報兵として日本と戦うことを余儀なくされた二世たちには、また別の試練が待っていた。日本軍捕虜の尋問により得た情報からの勝利は、日本人の父母から血を受けた自分とのジレンマであり、自らの存在意義を問うことであった。この深い心の傷と葛藤、そして日米双方から疎まれるというさらなる現実の中で、『敵国日本人』のレッテルを貼られた親兄弟そして妻子を人質同然にして強制収容所に残しての戦いであった。実際、強制収容所内では、息子を情報兵として兵役に出している一世の親に対して「スパイを送り出した」と誹謗する人たちもいたという。このように強制収容所という閉鎖された社会の中であるからこそ、中傷する話が出たのかも知れない。 これら情報兵の存在は一九七〇年代まで機密事項とされ、微妙な立場に追い込まれた彼らは、その後も多くを語りたがらないでいた。銃を構えての戦歴のない彼らは、一種の後ろめたさも感じているようであった。その彼らの存在は、ようやく九〇年代に入って情報公開が進み、隊員たちも体験を語りはじめたことから知られてきた。しかし知られはじめたがトラウマとなってしまった彼らは、今もなお多くを語りたがらないでいる。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.22
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六月六日、英米軍はフランス・ノルマンディー海岸へ上陸を敢行した。 再び太平洋に赴任していたアーネストは、六月十五日、アメリカ軍がサイパン島に上陸橋頭堡を確保した後、上陸した。そして翌十六日、アメリカ軍はアスリート飛行場に向けて進撃を開始した。その夜、日本軍の反撃があったがこれを排除、しかし日本軍は洞窟を利用して頑強に抵抗した。『生きて虜囚の辱めを受けず』この戦陣訓の教えは軍人だけでなく、民間人にも叩き込まれていた。アーネストはそれをサイパン島で目撃した。壊滅した日本の守備隊と日本人在住者は、散り散りとなって島内の壕や洞窟に身を隠していた。「山の奥に隠れている人、白旗を持って出てきなさい」 アーネストらはマイクで呼びかけて歩いた。スーサイドクリフ(自決の崖)では、我々の目の前で海へ走って自殺している人たちがいた。ちょうど女の人が飛び降りるのに出くわした。それを見てアーネストは、子供の頃、日本からの移民のもとへ写真花嫁で航海していた娘が白人の船員に犯され、思い余って飛び込み自殺をした話を聞いたことを思い出した。本来なら犯した船員こそが責められるべきなのに、同乗していた日本人たちもそれを隠したという。日本人には、どうしようもない災難であってもそれを自身の恥とし、自分の身を滅ぼすことでそれを消すという考え方があるのかも知れない。そう思うと、とてつもなく可哀想であった。 その後再びアメリカ本土に戻されたアーネストらは、八月、ミネソタ州のフォート スネリングに移され、臨時として第6軍航空隊無線隊に異動させられた。その時アーネストは、ガダルカナル島の戦況を知った。日本軍は、この撤退作戦において身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは処分することが大規模に行われたという。そしてアーネストは、そのガダルカナル島の日本軍守備部隊の中に、第2仙台師団麾下の歩兵第29若松連隊がいたことを知ったのである。若松連隊は福島県出身者で構成されている筈である。福島県での中学時代の同級生などを思い、鳥肌の立つのを感じた。 九月、アーネストらはオーストラリア軍の管轄下に移され、太平洋を離れてインドのボンベイに到着した。 十月に入ると、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸、レイテ沖海戦で日本海軍の組織的戦力を粉砕した。それに対して日本海軍は、究極の兵器を投入した。兵士の命の尊厳を無視した神風特別攻撃である。この戦法はアメリカ軍を恐怖の淵に落とした。 ロバートからの手紙が届いた。『親愛なるアーネスト。 九月三十日、第442連隊はイタリア戦線からフランス戦線に回され、マルセーユに上陸、すぐに北上を開始した。しかしそれは家畜輸送用の貨車によるもので、それは四時間もかけながら中途までの旅であった。その先はトラックもなく、冷雨の降り続く泥濘の中の行軍となった。まもなく現地に到着予定だ。 アロハ 忠実なる友人 ロバート・サトウ』 この十月、ルツからの手紙が届いた。ハワイではようやく戒厳令が全面解除となったというのである。開戦以来、あしかけ三年の長きにわたったものであったが、ハワイはこの時期まで、日本軍の攻撃に備えていたことになる。 一九四五年一月、アーネストらは陸路でボンベイ(ムンバイ)からカルカッタ(コルカタ)へ、さらにインド北東部アッサムまで移動した。 一月三日、英印軍はビルマのアキャブ島を占領した。このころアーネストらはミートキーナまで飛行機で移動した。ミートキーナはアキャブ島、チンジット、インパール、フーコン、イラワジを俯瞰するビルマ北部の重要拠点である。ここは日本兵と顔つき合わせての戦場であった。二世たちは顔が日本人であるため、味方のアメリカ兵からも日本兵と間違えて撃たれる危険があり、情報兵にはそれぞれ一人のボディーガードがついた。 英印軍は前線に転がっている日本軍兵士の遺体や撤退時に放棄された荷物を徹底的に収集し、日本軍の機密文書から防衛プランや軍隊の位置を示した文書、地図、個人的なメモや手紙や日記など文字の書かれたものを全部回収した。それらを情報兵が解読し、そこから得た情報によって英印軍の戦略を構築していた。アーネストらは八ヶ月の間、第10軍の四〇人のチームで日本軍の無線通信を傍受し、日本軍砲兵隊の位置を示した地図などの日本語文書を訳していた。アーネストはこの資料の中に、再び第29若松連隊の名を発見した。彼らは、アーネストたち連合軍の砲口の先にいたのである。『アーネスト済まない、ご無沙汰した』 サブロウから手紙が届いた。『実はブリュエールでロバートが負傷した。本人は言い難いだろうから、僕から知らせる。彼は敵の銃弾に撃たれて負傷、直ちに野戦病院に送られ治療を受けた。僕は一寸の間だったが、彼に付き添うことができた。どうも僕の時と違って、傷は重いようだ。しかし命に別条はないから安心してくれ。また落ちついたら手紙を書く。 アロハ 忠実なる友人 サブロウ・ニシメ』 二月十九日、アーネストたちは、アメリカ海兵隊とともに硫黄島に上陸した。 三月五日 連合軍はケルンを占領した。 三月五日 東京大空襲。 三月十二日 名古屋爆撃。 三月十三日 大阪爆撃。 三月十七日 神戸爆撃。 三月十八~二十日 艦載機延二五〇〇機による西日本空襲と名古屋 空襲。 三月二十三日 沖縄戦がはじまる。 三月二十六日 硫黄島の日本軍守備隊が玉砕した。 同日 アメリカ軍は沖縄県の座間味島と他の数島に上 陸した。 四月一日 アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦をはじめた。 MISの二世兵士たちが、日本軍の防衛プラン や軍隊の位置を示した文書、砲兵隊の位置を示 した地図などの日本語文書を訳し無線連絡など を傍受して沖縄での戦闘を優勢に展開するのに 寄与していた。 四月七日 アメリカ軍、戦艦・大和を撃沈。 四月十二日 ルーズヴェルト死去、トルーマンが大統領とな る。 郡山空襲。 四月十五日 連合軍、ドイツ軍戦線を突破して前進。 四月十六日 ソ連軍、オーデル河畔から攻撃を開始。 四月十八日 ソ連軍、ウィーンを占領。 四月二十日 連合軍、ニュールンベルクを占領。 アーネストらには、本国からも刻々と多くの情報が寄せられていた。それらは、連合軍の全面的攻勢を伝えていた。 グアム島「ノースフィールド基地」から1945年4月10日マウグ島あるいは4月12日郡山爆撃に出撃する第39部隊第60爆撃中隊のB-29爆撃機;尾翼にPのマークが入っているP号機。「エノラゲイ」はR号機だった。鳥飼行博研究室http://www.geocities.jp/torikai007/war/1944/b29.html ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.21
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太 平 洋 戦 線 (1943/10 ~ 1945/8) 一九四三年十月の末、アーネストら数名に、ハワイへの転属命令が出た。秘密命令であったため、家族との面会は禁じられた。アーネストは基地から外出はしなかったが、無性に母や妹に会いたいと思った。心の中で「お母さん、ルツ。僕は今ここにいるよ。すぐそばだよ」と声をかけていた。頬を打つ故郷の風は優しかった。しかしその優しい風は、アーネストにとって『嵐の前の静けさ』に過ぎないことを知らせていた。 アーネストたちは、真珠湾に停泊中の戦艦メリーランドへの乗船命令が発せられた。そして十一月十日、真珠湾を出撃した船内で、はじめて行先であるマキン島、タラワ島が明示された。「いよいよだな」 武者震いはしたが、戦いの覚悟はできていた。しかし同乗している白人兵からは、冷たい視線を浴びせられていた。「お前らは日本人だろう。なんのためにここにいる!」 衆人看視のうちに罵倒されることもあった。 夜になって、同じ情報兵がハンモックの上に伏せて声を忍んで嗚咽するのを見るのは辛かった。それは自分の姿でもあったからである。それでもアーネストが慰めようと彼の肩を揺すった時、彼は母からの手紙を差し出した。短かい文章ではあったが心遣り溢れるその内容に、アーネストは言葉をかける気力を失い、自分のハンモックによじ登った。 そうした彼らに白人兵のガードがついた。日系人であったからである、指揮官のなかには情報兵を信用せず、言語能力を活かす任務に付けること拒んだり、日系人への嫌悪をあらわにする同僚兵士もいたからであった。日系アメリカ人の情報兵を味方の白人アメリカ兵から守るという皮肉な形であった。トイレに行く時までも付いてきた。 十一月十九日、マキン、タラワの両島に対して砲爆撃を開始した。九隻の駆逐艦による三日三晩の艦砲射撃は、太平洋戦争最大の砲撃と海兵隊に言わしめた。血だらけの日本兵が捕まった。これら戦場に置き去りにされた兵士たちは、最新の情報を持っていた。尋問は三人でチームを組んで実施した。一人は尋問係、一人は記録係、そしてもう一人は観察係であった。観察係は白人で捕虜が返答する目つきや態度、嘘を言ったりしないかを観察すると同時に情報兵をも監視した。 ライフルを持った二人のMP(憲兵)に監視されていた重傷の捕虜は、ベッドの上でうわごとを言っていた。軍医はその捕虜の命は保証できないと言っていたが、アーネストは「アメリカの医者は最高だ」と言って捕虜を励ました。「君は助かるよ」と。捕虜は目を開けるとアーネストを見た。日本人と思ったのであろう、捕虜が言った。「貴様、日本人か! 日本人のくせに、こんな所で何をしている」 この言葉は、アーネストの肺腑をえぐった、情報をとるのが任務であったから、黙ってはいたが、捕虜は事情を察したらしい、口をつぐんでしまったのである。しかも五分か十分尋問しているうちに捕虜は死んでしまっだ。それは辛いことであった。 アーネストらは捕虜から物資不足に苦慮する日本の内情を暴いていたその日、日本軍の作戦命令書が手に入った。また別の捕虜からは、重要な拠点である飛行場を退却した日本軍が、再度ここを占領する計画であるという情報を得ていた。アーネストがこの二つを翻訳、合わせて解釈して報告すると駆逐艦隊は島を砲弾の嵐にした。日本兵の捕虜を追い詰めながらも、アメリカ人としての自分自身に、苦悩していた。『親愛なるアーネスト。 僕は負傷した。戦場近くの緊急救護所に運ばれ、そこでパープルハート章を授与され、カセルタの病院に後送された。僕の傷は、最初自分で考えたほどひどくはなかった。一週間ほどで退院した。僕が100に戻ったとき、「何だ、そのまま国へ帰ればよかったのに」と言いながらも、仲間は早い回復を喜んでくれた』 忠実なる友人 サブロウ・ニシメ』 一九四四年二月八日、太平洋のアメリカ軍はクエッゼリン環礁のルオット・ナムルの両島を占領した。この作戦でアメリカ軍は戦死三七二、戦傷者一五八二名を出したが、日本軍の守備隊九千名の内、投降した約一〇〇名を除いて全員が玉砕した。これら投降者の大部分は、気絶していて捕らわれたものである。 日本軍の兵士は捕虜となっても、頑なに証言を拒む者が多かった。彼らは負傷していても「殺してくれ」と言う言葉を発した。しかし一方で、よく情報を話す者もいた。『生きて虜囚の辱めを受けず、死んで罪禍の汚辱を残すこと勿かれ』 捕虜となることでその教えを破った形となった彼らは、自分たちに帰る場所はないと考えたらしい。その教育からか、捕虜になった時の心構えがなかった。日本軍の上層部は、捕虜になったときは自決も含め、全員が死ぬことを想定していたのではないか、むしろ日本軍の状況を自分から積極的に話すことも少なくなかった。偵察機に乗せてくれたら陣地についての情報を教える、と申し出た者もいて驚かされた。 飛行機の組立工場で働いていて捕虜になった名古屋出身の兵士は、日本では様々な場所で部品を作り、それを一ヶ所に運んで戦闘機を製造していると言って、最終的な組立工場の場所と図面とその工程について詳細な文書を提出した。アメリカ軍はその戦闘機の製造場所を特定し爆撃するために、突き止める必要があったのである。捕虜たちは、自分の話が戦略に生かされるとは考えてもいなかったようであった。さらに驚いたことは、捕虜たちは日本が無条件降伏することはアメリカの奴隷になることだと信じ込んでいることである。 それらを知ることからアーネストは、もし逆に自分が日本軍の捕虜になったら二世であるが故に残酷な扱いを受けるのではあるまいか? 自分が捕虜になれば日本に住む親戚が迫害を受けるではあるまいか? と恐れさえ感じていた。 確保された日本軍捕虜 心配していたロバートから、手紙が届いた。『親愛なるアーネスト。ジェームズ・ヨシダ。君も知っているだろう? ヨシダ家の一人息子のジェームズだ。以前にも彼は僕に二度ほど手紙を見せてくれていた。そしてその都度「このことは人に言うな」と言って唇に人差し指を当てて見せた。陰膳のことだよ。本当はみんなに知られるのが恥ずかしかったのだろうが、素晴らしいお母さんだ。戦場にある息子ためにハワイで出来る最高のことをしているのだから。 アーネスト。今日はどうしても君に辛い知らせをしなければならなくなった。リチャードがカッシーノ近くで戦死した。俺たち六人の親の出身地は、同じ村だった。だから六人は常に仲良しだった。そのうちの一人が欠けてしまった。子どもの頃からの友が目の前で死んでいく。数分前までは一緒に笑っていた友が・・・。その友だちを目の前で失うことは、気が狂いそうに辛かった。 忠実なる友人 ロバート・サトウ』「リチャードが戦死!」 軍の命令とは言え、より安全な場所でこのような任務を遂行していることに、アーネストは苦痛を感じていた。 三月、アーネストらの八〇人以上の情報兵が、妨害電波の再訓練のためフロリダ州マックディフィールドの第6軍航空隊に異動となった。 キャンプシェルビーのタダシから、短い手紙が届いた。『親愛なるアーネスト。 我々第442連隊は、某日某港を出港、イタリアの第100大隊と合流の予定』ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.20
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この事件は戦後長い間秘密とされ、その周辺で掃討作戦に従事していた第522野砲大隊の日系兵士はもちろん、一般に知られることもほとんどなかった。しかしそれらを目にした少数の人の口により、少しずつ知られるようになってきた。 五月二日、ついにベルリンが陥落した。この日から四日にかけて第522野砲大隊は、ワーキルヘンの村に到達したことになっている。もう一つのサブキャンプ・グムンドがその先五キロくらいのところにあったが、周辺の掃討作戦で第522野砲大隊が解放した可能性は高い。 この事件とは別に、敗戦を知ったドイツ軍が八千人という多くのユダヤ人たちをダッハウやその周辺の強制収容所から人質に取って逃げ出した。彼らはユダヤ人たちに雪に覆われたバイエルンの山々を歩かせたので、生き延びたのは五千人だけとなった。三千人もの死となる。そのやつれきったユダヤ人たちを、ミュンヘンの南の町で発見したのは第522野砲大隊の兵士たちであった。このドイツ軍によるダッハウからオーストリア国境のワーキルヘンまでのおよそ三〇~四〇キロを、一週間ほどかけてユダヤ人たちを人質として歩かせてのこの逃走は、『死の行進』と言われた。 死の行進。Dachau,Holocaste and US Samurai 発見されたのは雪の日で、彼らの足はボロでくるまれていただけで靴を履いていなかった。しかし歩くことができなかった人たちは撃たれ、生きているユダヤ人はボロをその死者の足から取り外して自分の物として使っていた。それでもあるのはいい方で、そのほとんどが裸足であった。彼らは一日中歩かされ、走って、転んで、ライフル銃の台尻で殴られて侮辱され、軍用犬に駆り立てられた。雪の中を歩いてきたため足がふくれて黒くなり、血が出ており、その目には恐怖の色が浮かんでいた。まるで怯えた動物のようであった。そして彼らの周辺には、死臭が漂っていた。 ある一人の収容者が証言している。「食べ物もない死の行進の後、私たちは殺されるところでした。夜遅く、生きていた私たちはどこか分からない所にストップを命じられました。ここに来るまでに多くの人が死んでいました。ナチは私たちに死刑執行を実行するために完璧と思える場所の峡谷に入るよう命じました。いくらかの数の人びとが撃たれ、丸太のように崩れ落ちました。私は生きていたのですが、死んだふりをして倒れたのです。衰弱していた私の体の上を雪が覆っていました。 数時間後、ドイツ兵が見えなくなった峡谷の縁に向かって、私たちは巨石と切り株を頼りに手探りで進みはじめました。ドイツ兵たちはすでに、我々を見捨てていたのです。 奇妙なことに、白い星を付けたタンクが五台、道路を渡っていきました。私は思わずかがみ込んで身を隠しました。「これらは一体どこの戦車か? ロシアは赤い星を付ける。しかしあれは白い星だ。敵か味方か?」 一台の戦車が止まりました。一人の兵士が微笑みながら我々に手招きをしたのです。それを見てどうすればいいのか知っていながら、信じることができませんでした。この恐怖と希望の間で、私は希望に賭けたのです。近づいてきた日系アメリカ人兵士は、微笑みながら車列から食べ物を投げ与えてくれました。しかし私たちは、与えられる食べ物そのものを恐れたのです。それに毒が入っているのではないかと考えたからです。皆が食べるのを見て安全だと分かったので、私も食べました。その私を、英語が出迎えてくれました。やがて戦車の縦隊が去って行きました。私たちが解放者としての日本人の顔を見たのは、これが最初で最後でした。しかしそれでも、いつかSSが戻ってくるのではないかと恐れていました」 五月四日、第522野砲大隊はノビとリグレに移動、ここで軍装を解き、シャワーを使い、髭を剃ってリラックスした。 五月八日、正式にドイツが降伏した。それを知らされた兵士たちはボトルを開け、乾杯をし、歓声の嵐が吹いた。第一次世界大戦終結のときも、かくやと思われた。しかししばらくすると、皆今後の日本のことを考え、呆然として静まり返ってしまった。 第552野砲大隊は五月十八日から十月五日までドナウウォルス(ドナウ川の南)で占領業務を行っていた。本当に戦争が終わったことが信じられなかったが、戦争の終結を神に感謝した。「あの狐穴(塹壕)から解放されるのだ」「すぐにではないが、生きてアロハランドに戻れる」「ダイヤモンドヘッドをもう一度見られるのが嬉しい」「ハワイは多くの有為の人を失った。この悲嘆が最後となることを望む」 五月九日、第552野砲大隊はシャフラッファとミュンヘンを過ぎたアウグスブルグの郊外のステパッハに移動し、五月十七日まで滞在していた。 第522野砲大隊の兵士らは帰国してからも、『ダッハウ解放』や『死の行進からの解放』の美名を要求しなかった。ワーキルヘンの道路上を飢えて弱った五千人もの人たちを解放した最初のアメリカ軍であったのにである。さらに第552野砲大隊の兵士たちは、白人部隊によるSS虐殺についての話も頑ななまでに口を閉ざしていた。あのとき上官に「師団が公表するまで黙っていろ」と口封じをされたこともその理由であったが、むしろ話すことによって、強制収容されている自分たちの家族に新たな災禍が下されるのではないかという疑惑が恐怖感となっていたという。そのため彼らはダッハウで目撃した衝撃的事実に目を閉じ、それらを秘密にしたまま自分の死とともに墓に葬り去ろうと覚悟していた。そのため、ほとんど誰にも語ろうとはしなかったのである。 ダイヤモンドヘッド。U.S. Samurai in Bruyeres. ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.18
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その後我々は、周辺の土地の低い部分など、強制収容所が見えなくなるほど遠くの丘の周辺まで捜索の手を伸ばした。窪地などで何人かが助け出された。彼らは自分を助け出してくれたアジアの青年の軍服に付いていた、松明を持った白い手の青いエンブレムが強い記憶として残っているという。 しばらくしてタダシが大隊に戻った時、隊で炊事に使った排水を飲む多数の人々を見た。 虚弱な生き残っていた収容者たちは、タダシが配属されていた炊事中隊によって捨てられたごみ箱の周りに群がっていた。「なぜ捨てる?」 一人の収容者がそう言うのを、タダシははっきり聞いた。 「キャンプにいた三万人のユダヤ人たちは広場に集められ、五〇 歳以上と十三歳以下の働けない者たちが選択されました。彼らは キャンプから十キロ離れた山の中に連れて行かれ全員射殺されま した。山の下にいた私たちは、この銃声を三日三晩の間聞かされ ました」 手で耳をふさぎながらそう訴える話も聞いた。そして、女性の 話も聞いた。 「私は射殺の順番が来るのを、目隠しされたまま立って待ってい ました。しかし撃たれなかったので後ろにいた女性に尋ねました。 ──ナチはクレージーにも私たちを射撃の訓練に使うのでしょ うか? 私たちを撃つのに良心の呵責はないのでしょうか? しばらくすると周囲が静かになりました、すると不意に、誰か が私の目隠しを引っ張ったのですが駄目で、次にはジャンプして 私の目隠しを外しました。なぜなら彼は背が低かったのです。私 はそこに日本人がいるのが分かりました。 ──オー、今度は日本人が私たちを殺しに来た。 しかし私はもう命がないと覚悟していたので、なにも心配しな かった。 「私を殺すの? そんなら殺ってよ」 彼はアメリカ人で私たちを殺しに来たのではないことを、納得 させようと努力していた。 私は言った。 「オー・ノー。あなたは日本人だ、私たちを殺しに来たのでしょ う?」 ついに業を煮やした彼は自分の膝を叩き、自分の顔を打ちなが ら叫んだ。 「あなたがたは今から自由だ。我々は日系アメリカ人だ。あなた は自由になったのだ」 (TV朝日 秘話! 封印された日系米兵のナチ収容所・裏で親衛隊処刑) 四月二十九日、ダッハウのメーンキャンプで、白人の編成による第42師団と第45師団によるドイツ軍捕虜の虐殺事件が発生した。このような虐殺事件が発生した理由の一つに、ここを解放したアメリカ第7軍は『バルジの戦い』でドイツ軍の戦車部隊によって破られて苦戦したあげくに『マルメディ事件』と呼ばれる虐殺事件で大量の犠牲者を出しており、その報復をもとめる戦場心理があったのではないかと推測されている。 その日、第45師団(白人部隊)が線路伝いにダッハウ強制収容所に近づくと、収容所のそばに約四〇台の貨車が止まっていた。その積荷は、何千人ものユダヤ人の餓死死体であった。その後SS(ナチス親衛隊)と小規模な銃撃戦が行われた後、メーンキャンプが解放された。収容所の中は、至る所にユダヤ人の死体が散乱していた。その上、ガス室と焼却室も見付かった。病院の施設などに隠れていた監視のSSやドイツ兵が次々と捕虜にされた。彼らはユダヤ人を虐殺していたSSだけを石炭置場の壁の前に並べ、マシンガンとライフルを一斉に乱射したのである。これは明らかに。捕虜の扱いに関する国際法に抵触する。 収容者の死体。Dachau,Holocaste and US Samurai なぜSSとドイツ兵を分けて、SSだけを壁の前に並ばせたか? それを指示したのは第45師団ウィリアム・ウォルッシュ中尉であった。「動いたら撃て」と部下に命令して立ち去り、現場にはいなかった。しかし中尉は、捕らえられたSSガードが壁の前に立たされたとき、いままで彼ら自身が、収容者たちをそういう行為をさせて殺戮してきたのであるから、殺されても当然と考えていたという。 このとき自動ライフルの引き金を引いたのは、ジャン・リー二等兵であった。彼が聞いた命令は、「SSを見張れ。逃げようとしたら撃て」ということであった。ところが何人かが前に向かって動き出したので、誰かが「撃て!」と叫んだ。そしてマシンガンが炸裂した。「全員は殺されていないと思う。一〇〇人と言われているが、私は六〇人か七〇人と思います」 一九七七年のクリスマスにこの世を去った彼は、生前、TVの取材にそう証言している。 ところが二時四十五分に二度目の事件が起きた。インディアンのジャック・ヘッド中尉が、三四六人のSSを機関銃で撃ち殺したというのである。その現場を第45師団医療部隊大佐であったハワード・ブリュックナーが見ていたという。 慌てて止めに入った第45師団の指揮官のフィリックス・スパーク中佐が五〇メートルほど走ってジャック・ヘッド中尉の手からマシンガンを叩き落とすと、「何をしているんだ!」と怒鳴った。すると彼は、「逃げようとしていました」と答えた。 しかしスパーク中佐には、そうは思えなかったという。 壁の前で手を上げるドイツSS。U.S. Samurai in Bruyeres. 戦後、癌で死亡した元日系兵士が、死に際にこんな話を残していた。彼はこの白人部隊が解放していたメーンキャンプに連絡に行き、そこで見てはいけないものを見てしまい、そこに居合わせた白人将校に、「事実をしゃべれば軍法会議にかける」と脅されたというのである。 また処刑寸前に救われたヤニーナ・スウェンスは、白人の軍人がアジア人の兵士に、「この話はするな。私が司令官と話をするまで黙っていろ!」と言ったのを憶えているという証言もある。 この二つの事件はすぐ第7軍で調査が行われ、軍法会議で裁かれる筈であった。しかし調査書はパットン将軍が破り捨て、箝口令をしいた。これはパットン将軍自身が率いていた白人部隊が起こした残虐行為であったためこれを隠そうとしたものらしい。それと第522砲兵大隊がサブ・キャンプを解放した事実が公式文書として残されていないのは、この事件の隠蔽工作のためであったらしい。何らかの理由で、日系人部隊をダッハウ強制収容所の解放者にしたくなかったとも言われている。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.17
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虐 殺 (1945/3 ~ 1945/8) 一九四五年三月、第442連隊がイタリア戦線に復帰とき、北部フランスの西部戦線からドイツ戦線に残留させられた第442連隊・第522野砲大隊はドナウ川の渡河を命じられた。 四月中旬、ドイツ南部でアメリカ軍に追われ退却していたドイツ軍は、完全に混乱の中にあった。第522野砲大隊もアウトバーン沿いに追撃していた。第522野砲大隊は最前線にある各連隊の動きを確認し、野砲での援護射撃をして全軍をバックアップする立場にあった。キャンプ・シェルビー時代、タダシとロバート・スガイは無線の訓練を受けていた。この二人のチームワークは、これら全作戦において続いていた。当時の戦線は、急速に変化していた。 四月二十二日、ドナウ川の北部の町ワッセルアルフォンゲンに入った第522野砲大隊は、翌四月二十三日にはアーレン、四月二十六日にはワイジンゲンとアリンゲンに入り渡河の体勢に入った。 第522野砲大隊は第7軍の前進をリードしていた。しかし、オーストリアに国境に逃げるドイツ軍を追っていた第522野砲大隊は、それが何かを知らぬままにアウグスブルグとミュンヘンの南の悪名高いダッハウ強制収容所とそれに付随する一四〇ものサブキャンプが点在していたホロコースト回廊を行軍していた。つまり第522野砲大隊の兵士たちは、ここに作り上げられていた組織的なナチ強制収容所のシステムに、まったく気がつかなかった。それであるから、それら極悪なナチの強制収容所が彼らの進路の先にあり、そのため当然大量虐殺という獣性の現場に遭遇するはずであったにもかかわらず、まったくその心の準備ができていなかったのである。 四月二十七日、ドナウ川を越えた第522野砲大隊は、ラウインゲンから一〇キロ離れたホルツハイムに橋頭堡を築いた。この時点でも、ラウインゲンに、ダッハウ強制収容所のサブキャンプがあったことを連合軍の誰もが知らぬことであった。この日、第522野砲大隊は、全軍でドナウ川を越えてアルテンミュインスターにまで進出した。 この四月二十七日から二十八日にかけて第522野砲大隊は、ホルガウ、ロメルスライド、そしてアンハウゼン、ボビンゲンへと進撃した。この間は決して長い距離ではない。しかしすでにドイツの国内に入っている以上、地理に詳しいドイツ軍の反抗がどこでどう起こるか分からなかった。当然進撃は慎重になった。 虐殺街道。Fire for effect その後、この周辺にナチの強制収容所のあるらしいことが情報として流された。しかもミュンヘンの北西ダッハウにナチの大規模な強制収容所があり、脱走者が出ているらしいという話が広がっていた。それに対して師団より、『ダッハウからの脱走者に糧食を配るな』という命令が下された。理由は「あまりにも飢えの期間が長すぎる人が急に物を食べると命にかかわる」というものであった。この辺りになにかあるなという認識は、全軍に知られていた。 このころダッハウの看守たちは、気が狂ったようにユダヤ人を殺しはじめた。痕跡を消そうとしたのであろうが死体の処置が遅れ、結果的には大量虐殺の証拠を白日の下にさらすことになってしまったのである。 四月二十七日、第522野砲大隊は、それとは知らずホルガウの北十二キロにあったアスバッハのサブキャンプ近くに至った。第522野砲大隊のタダシとロバート・スガイは、M35戦車に乗り組んでいた。そして偶然、ダッハウの強制収容所サブキャンプの一つに出会ったのである。タダシとスガイの戦車は、二重にロックされたゲートに乗り入れて破壊した。そして長大な有刺鉄線の道路に導かれて行くと、沼地が現れた。その沼は育ったブッシュに隠されてはいたが強制収容所の周囲に巡らされた堀であった。そこで建物を見つけた兵士たちは、その鉄条網と門を踏みつぶして中へ入った。 最初タダシは、何が起きているのかさっぱり分からなかった。そこにいたのは白と黒の縦縞の服を着た人たちで、髪が短く、青白く痩せていた。それにそれが何のための施設なのか、見当もつかなかった。彼らは人間なのにあんな扱いを・・・と思った時、その時まであまり考えなかったアメリカ本土の強制収容所に拘留されている日系人たちのことを強烈に思い出した。 それら大多数のユダヤ人たちは頭が混乱したまま、強制収容所の構内を無表情で足を引きずり、その姿は死体が歩いているかのようであった。後続してきたあるアメリカ兵は、チョコレートやフルーツバーを投げた。一人の収容者がそれを地面から拾い上げ、貪るようにして食った。それを見たタダシは、「収容者に食べ物をやるな!」と叫んだ。 食べ物を乞う収容者の手。U.S. Samurai in Bruyeres. 四月二十日から二十九日の間、第522野砲大隊はダッハウ地域の強制収容所のサブキャンプのいくつかを解放した最初の連合軍である。別のサブキャンプでは、第522野砲大隊の兵士たちがカービン銃でゲートを閉じていたチェーンを撃ち切った。兵士たちがゲートを開いたとき、五〇人かそれ以上の二つのグループの収容者たちを見つけた。彼らは二メートルもの雪の積もった大地に横たわり、弱々しくうごめいていた。彼らは新たに侵入してきた兵士を凝視した。それを見た兵士たちが最初に考えたのは、彼らは死んではいないということであった。それは多くのユダヤ人であった。彼らは白と黒の縦縞の囚人服を着、丸い帽子をかぶっていた。肩に羽織られた毛布がぼろぼろに裂けていた。そこには大隊がキャンプに着く前に逃げ出したらしく、ドイツ兵は一人もいなかった。 ゲートが開けられた後も、収容者たちは栄養失調で動けないでいた。それでも彼らは収容所の構外に弱々しい足を引きずりながら出てきた。彼らは、骨と皮だけに見えた。外へ出た彼らの事態は、さらに悪化していた。彼らは道路上に死んで横たわっていた馬の生肉を切り取り、小さな火の上で焼いてむさぼり食った。彼らは腹ぺこであったのである。食べ終わった彼らは、近くにあった大きな馬小屋の方へ歩いていった。彼らは収容所の建物で夜を過ごすことを拒否し、馬小屋に留まることを主張したのである。解放されたユダヤ人らは飢え、痩せ、混乱していた。 第522野砲大隊はミュンヘンに近い一〇キロ南を、進撃していた。そして新たに見つけたサブキャンプで、悲惨なものを見つけた。大隊が強制収容所のゲートの前に到着したとき、ゲートはロックされていた。そこには数人の収容者がいた。錠をカービン銃で撃ち壊して入ったサブキャンプの構内の貨車の中で、とんでもない死体の山を見つけ出したのである。それらのほとんどはユダヤ人であったが、ポーランド人も含まれていた。そこへ多くの収容者たちが集まってきた。その数おそらく八千人。彼らはキャンプの外に出た。しかしそれはダッハウ強制収容所の一つであり、一つのゲートに過ぎない。そのときタダシは、いったい全部でどのくらいの人数になるのか、考えさえしなかった。彼らは生きているのか死んでいるのか、分からない状態であった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.16
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四月五日のリグリオン作戦開始以来、第100大隊は戦死者三十九名、負傷者一九四名を出していた。 五月十六日、第442連隊はミラノから東へ一三〇キロ離れた元のドイツ軍の空軍基地であったゲーディにトラックで入り、そこをドイツ軍捕虜収容所として警備にあたった。その周辺は農業地帯であり、ハワイのマノアの谷のように緑が一杯であった。それからの八日間は敗残兵を捜索し、捕虜とした二万五千人を超える元ドイツやファッシスト・イタリア軍の兵士たちに、DDTを散布していた。そのとき英語を話せるドイツの士官が反抗的態度を崩さず、こんなことを言って脅かしていた。「この戦争にアメリカはまだ勝っていない。次にアメリカは、自国民とソビエト連邦と戦うようになる」 六月十四日、コモ湖畔の町レッコへ移動した。美しい湖の町である。心和む平和の中で、サブロウは太平洋での戦況を心配していた。「アーネストはどうしているであろうか?」 ミラノとコモ湖周辺 六月二十三日、日本軍は沖縄で玉砕した。ハワイ移民の最大多数はその沖縄県人であったから、第442連隊を構成する沖縄出身者の数もまた最大であった。当然その死傷者数も最大となる。 沖縄からの移民であったシンエイ(真栄)・ナカミネ二等兵の 母ウシは、キャンプ・マッコイからの手紙でメーンランドへ送ら れていたことをはじめて知った。妹アニタ・キミエの名で毎月二 等兵の給料の中から戦時公債を買って送ってきた。イタリアの戦 地に渡ってからもそれは続いた。 シンエイの命日は六月二日、連合軍がローマに入城の二日前、 第100大隊がついに第5軍にローマへの引導を渡す戦闘での死 であった。同じ沖縄からの者が集まってくれて、東本願寺派での 葬式であった。ジョー・タカタが日系兵として初めて貰ったと同 じDSC(殊勲十字章)を、シンエイも形見として残している。 小さい時から文句一つ言うことなく働いてくれた孝行息子の軍服 姿の写真の額を、母は胸でかき抱くようにしてから私をじっと見 た。 「お国のためじゃけに……」 喉にからむような小さな声で一言そう言った。涙がにじんでい た。 沖縄の家族は、アメリカ軍の沖縄上陸作戦で全滅した。まだ元 気だったウシの老母も、姉とその子供たちも皆、アメリカ軍の沖 縄上陸作戦に巻き込まれての犠牲であった。日本帝国陸軍の最後 のあがきは住民を戦禍に巻き込み、死者十数万人を出すに至って いる。米軍の集中砲爆を逃げ切れなかったのか、壕の中で自決し たのか、故国の家族の最後を、仲嶺ウシは知らない。 (ブリエアの解放者たち) 六月二十九日、第442連隊に休暇が与えられた。恐らくこの休暇は、太平洋で日本軍と戦うための準備であろうと誰もが考えていた。その日本では、多くの都市が爆撃を受けていた。「アーネスト待っていてくれ。僕たちもそちらへ行くから!」 七月七日、第442連隊はピサ、フィレンツェ、リボルノ地域に入り、捕虜キャンプの看視と兵器弾薬、車両や軍用品の整理に当たっていた。 七月十七日、ドイツのポツダムで日本に対しての会談が開かれ、七月二十六日、『ポツダム宣言』がなされた。二世の兵士たちは、日本がこの宣言を受け入れてくれることを、心から念じていた。それは日本との戦いを恐れたからではなかった。早く平和が欲しいという気持ちからであった。 八月六日の広島や長崎への原爆投下のニュースが伝わったとき、 周りにいた日系兵たちは、「日本人のあなたの前では使えないよ うなスラングで、『日本をやりこめた』と大喜びだったのよ」ホ ノルル・スター・ブリテン紙からの特派従軍記者として、再びイ タリア戦線に戻った日系部隊に付いて回ったという白人女性がそ う言っていた。 日系兵たちは、日本のことなど意にかけてもいなかった。一〇 〇%以上のアメリカ人であった。彼女が日系兵から受けたこの時 の印象を、疑うというのではない。それはそれで日系兵の一つの 顔であったと思われる。日系兵の親の出身地で一番多いのが広 という事実一つから考えても、その思いは複雑であって当然であ ろう。 (ブリエアの解放者たち) この広島や長崎に落とされた超大型の新型爆弾(原爆)投下のニュースは、これから戦われるであろう日本本土上陸作戦の、大きな弾みになると思われた。しかしあの小さな硫黄島でアメリカ側二万八千名、沖縄では一万九千名の戦死傷者を出している。これから先の日本軍の抵抗はより強くなるものと考えられた。しかしそれだからこそ、我々第442連隊は太平洋へ行き日本本土上陸に参加すべきだ、と考えていた。まだ日本が、『ポツダム宣言』の受諾をしたとのニュースはなかった。「こうなれば、我々が太平洋に行く他はあるまい」「我らの旗印はリメンバー・パールハーバーだ! 日本への復讐だ!」「そうだ、我ら戦いの原点はそこにある!」「我々は、アメリカ人だ!」 八月八日、ソ連軍が日ソ中立条約の期間を残したまま一方的に破棄、満州で攻勢に入った。 八月十五日、ついに日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をした。「我々は勝った! そして戦争は終わった!」 しかし歓声は上がらなかった。これで地球上のすべての場所での戦争が終わったのは分かっていたが、それぞれの心の中には、父母の国への深い問いかけが澱のようによどんでいた。 連合軍の兵士たちはそれぞれの任務を遂行しながら、それぞれの国への帰国命令を待っていた。第442連隊でも、戦争が終わった今、いつハワイに戻れるかが最大の関心事であった。多くの兵士たちは、早くハワイに帰りたいと願っていた。実際に彼らは、家に帰れさえすれば形式などどうでもいいと思っていた。 第442連隊ではまとまった人数を乗せる船がなく、船が来るたび少しずつイタリアを離れた。乗れなかった100大隊の兵士たちは、できるだけイタリアで残された生活を楽しもうとしていた。彼らはキャンプ・マッコイ以来の野球チームやフットボール・チーム(ブルー・デビルズ)を復活してトリエステやリボルノで地元のチームと試合をした。また楽器に心得のある者たちはビーチコンバース・オーケストラを結成し、ローマでハワイのセレナードを演奏したり、イタリア王国のウンベルト王に謁見したりしていた。 彼らは戦士でありながら、平和のためのアメリカ大使の役を果たそうとしていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.15
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四月十日、第3大隊は無抵抗のうちにフリジド川を渡り、カララの南、そしてマッサの北東の高地を占領した。第2大隊E中隊は南東からカララ近くにそびえる千メートルのブリジアノ山を確保した。この戦線を急速に北へ押し上げる第442連隊に、連合軍の賞賛が高まっていた。 四月十一日、L中隊が最初にカララに入城した時、イタリアのパルチザンに追われて逃げるドイツ兵を見た。住民は中隊の通る道に花を撒き、歓迎の声をあげ、ワインを提供した。その中には、第一次大戦でアメリカ軍の一員として戦った者もいたという。この進撃中にルーズベルト大統領の死が報じられた。中隊はショックを受け悲しみに沈んだ。「アメリカニズムは、人種や先祖と拘わることは決してない。アメリカニズムは精神と情熱の内容(問題)によるものである」 この大統領の声明を思い出せない兵士は誰もいなかった。この声明こそが日系二世兵士たちの心に秘めた思いそのものであったからである。 四月二十四日、ドイツ軍はアウッラから逃走、住民は花とワインで第442連隊を歓迎した。第5軍はボローニャの東のドイツ軍陣地を打ち砕きポー川を渡った。農村地帯に入ったとき、村の人たちがコメや卵を持って通りに出て、武器との交換を望んだ。ポー川周辺はコメの産地である。イタリア人たちは、日系二世兵士がコメをどう料理するのか珍し気に見守っていたが、ポカ・アクアであると論評した。これは水が少ないという意味である。日系二世兵士の人気料理は、熱い飯に生卵をかけるものであった。 このような時、ヤマモト中尉が、サブロウにハワイへ戻る順番が来たことを知らせに来た。チャールズ・タカシマ、タケオ・コヤナギ、サカイ・ワカクワ、キヨシ・イズミ、ミチユキ・フジモト、ジツオ・サイキ、マサオ・シラキ、などであった。嬉しかったのであろう、その夜からサブロウの見る夢はハワイの夢ばかりになった。 四月二十七日、ジェノヴァからドイツ軍が撤退、その後をパルチザンが確保した。その翌日、第100大隊はトラックでこの町に入った。喝采と口笛と花と「ヴィヴァ」の感激の声が沸き上がった。第100大隊は町に入ると直ちにジェノヴァとロンバルディア平野の間の峠をドイツ軍から閉鎖するため、イソラデッレとカントーネへ進出した。 ジェノバ周辺図 米の飯を食べたかった隊員は、地理も分からないところを何十キロもジープを飛ばし、捕獲した敵の武器を持ってパルチザンと交換に行った。戦闘の後、敵の死体が持っていたものとか。捨てていった武器もあった。こちらとすればはただ無料の武器であったが、向こうの連中は大喜びで交換してくれた。オカズなんかは、もうどうでもよかった。とにかくあの真っ白な御飯を充分に食べてみたい、それだけであった。 ポー川のそばに来た時は、ドイツ軍が米など一切の食料を持って逃げてしまっていた。しかしみすぼらしい農家にたった一羽残されていた鶏を見つけて、皆で懸命に追って捕まえたが鶏一羽ではどうしようもない。ところがそこで、放れ牛を見つけた。今夜は牛肉の御馳走に預かれるとはしゃいでいたが、肉の中に血が混じっていてどうにもならなかった。 五月二日、ドイツ軍が降伏し、イタリアでの戦いが終了した。第442連隊はアレッサンドリアの北にトラックと列車で移動した。昨日までドイツ軍の占領下にあった所である。 いままでの戦いの間は、本当に刃物の上を歩いているような危険の中にあった。日々これほどの緊張を強いられたことはなかった。戦いが終わって素晴らしい兵士であったことを終わりにしようとしていた彼らのたった二つの中隊に、軍服を着たままの千七百人のものドイツ兵が巧妙に堀った塹壕から手を上げて一団となって出て来た。彼らは明白に打ち負かされ、そして諦めきっている表情をしていた。このようなこのような形でのそしてこんなに大勢の降伏は、本当に驚きであった。「我々は勝ったのだ!」 歓声が渦巻いていた。ところがサブロウらのハワイ休暇は、取りやめとなってしまったのである。「何故だ?」 内示されていた兵士たちに不満はあったが、平和への期待がそれを補っていた。「いずれにせよイタリアでの戦いは終わった。家に帰れるのは時間の問題だ」 五月四日、第442連隊はアレッサンドリアの南東の休息地・ノーヴィ・リグレに移った。そこで彼らは戦塵にまみれた戦闘服を脱ぎ、バスを使い、髭を剃ってようやくリラックスした。彼らにとって対ドイツ戦の終了のニュースは、心弾むものではなかった。まだその後の先行きが見えなかったからである。ただ「ダイヤモンドヘッドをもう一度見られるのが、嬉しい」という気持ちのみが先行していた。 五月八日、ドイツ本国から武装解除命令が入り、ドイツのイタリア駐屯軍は正式に降伏した。このニュースに兵士たちはワインの瓶を持って外に飛び出し、乾杯を繰り返した。「戦いに勝った。終戦だ!」「ハワイへ帰れるぞ!」「いや、そうはいかない。今度は太平洋だ!」 ドイツ降伏のニュースを病院で聞きながら、ロバートは考えていた。 ──伊仏戦線において連合軍の掘った塹壕の数は、恐らく何十万、何百万に達したに違いない。漸く掘り終わった頃に出動命令が下ったりして、一日に三つも塹壕を掘ったこともあった。自分も何百かの塹壕を掘ったことを記憶している。我々の生命を守ってくれた懐かしい塹壕の数々は、その後どうなったであろうか。山中に掘ったものは風雨にさらされ、雑草がほしいままに繁茂し見る影もなく「古強者共の夢のあと」を想わせるに充分であるかも知れない。農地に掘ったものは、農夫の皆さんが穴埋めのために多くの時日を費やすことになるに違いない。町や農家の姿は変わっていても、山や川の流れはそのままであることを念じて止まない。 幾百の塹壕掘りしか名も知れぬイタリーの山に雪かき分けて (ロバート・サトウ) Dachau,Holocaste and US Samurai ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.14
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メントンにはアメリカもドイツも互いにスパイを送っていた。ここでは目に見えない敵と味方が入り乱れ、互いにしのぎを削っていた。そのためいくつかのハプニングが起きていた。 あるとき監視塔の上から敵側を看視していた砲兵隊の監視員が、彼らからそう遠くない国境線との間の場所で、イタリアの女性と思われた人のそばで爆弾が爆発するのを見た。看視隊員がその場所を双眼鏡で確認したとき、倒れたその女性の懐から何かを取り出し、ドイツ側に走って行く男の姿を見たという。 サブロウ・カラツはレスカレンから北へとさらに登った山腹で、警備についていた壕の中に砲弾が落ちて即死した。その彼が十二月三十日に、故郷『アマチ強制収容所』の母に送った手紙が『ブリエアの解放者たち』に記述されている。 今僕は日本の流行歌を習っています。僕の得意なのは「支那の 夜」「ビルの窓から」ともう一つとてもよい歌です。これは斯う はじめます。 淋しく今日も暮れて行き 夕日は遠く海のはて 誰を呼ぶのか探すのか 波間に叫ぶ浜千鳥 僕が家に帰ったら母さんに唄って聞かせますよ。妹から手紙が 無いので心配しています。此の間僕の教会の近藤さんからクリス マスプレゼント送って頂きましたから今度逢った時お礼言って下 さい。 十二月三十日 フランスにて 三郎 戦死公報を受けたこの母は、人目のない鉄条網まで雪の中を漕 ぐようにして歩き、初めて声を上げて泣いたという。 (ブリエアの解放者たち) 三月、本土より到着した増強の兵とともに、サブロウらの第442連隊はイタリアへ、タダシらの第522野砲大隊(およそ六五〇名)は第7軍に編入されて中部フランスとドイツの間のジークフリート要塞線で戦うために戻されることになった。そして三月十六日、長いようで短かかった第442連隊の休暇が、ついに終わってしまった。住民との『お別れパーティ』で、皆でフラダンスを踊り、大喝采を受けた。我々がフランスから離れるとき、ポカと子犬たちがどうなっていたか、ロバートには記憶がない。 出発のため第442連隊のトラックの隊列がメントンの町中を行進したとき、多くの住民が二世の兵士たちに「ボン・ボヤージェ」ではなく「アロハ」と言って手を振って見送ってくれた。今まで共に戦ってきた第522野砲大隊との別離に、一抹の寂しさがよぎっていた。しかし日系兵士たちは、多くの楽しい思い出を持ってメントンを離れた。 一時、ニースに立ち寄った第442連隊は、間もなくマルセーユへ出発した。第100大隊は四日の間、港に近い待機地点に留まった。 三月二十三日、日曜の朝の礼拝の説教が終わるとともに、三隻のLST(揚陸艦)に乗り込んだ。その日の午後、第442連隊はイタリアのリボルノの港に着いた。リボルノで軍服、ヘルメット、階級章を付け直し、さらにトラックで三日をかけてピサの近くに移動して新しい武器や車両を受け取った。ところが前年の九月五日に第442連隊がフランスに発つ前に戦っていたのは、ピサの近くであった。しかるにイタリアの連合軍は、いまだピエトラサンタの近くでドイツ軍と膠着状態あった。この間の距離はほぼ二十五キロメートルである。この戦況を聞かされた第442連隊は、暗澹たる気持ちとなった。 ││我々がブリュエールで戦い、大損害を受けながら『消えた大隊』を救出していた間、何をしていたのか! とは言っても連合軍とて手をこまねいていた訳ではない。一言で言えばイタリアから追い出されようとするドイツ軍が、頑強に抵抗したというのがその実情であろう。このため在伊米軍としては第442連隊の復帰は大いなる幸運、と感じたのは事実のようである。 三月二十八日、第442連隊は、キャンプシェルビーから到着した新兵を受け入れ、兵力を整えた。この日第100大隊は新兵とともにルッカの北八キロに集結し、新しい武器での訓練が六日間実施された。そして第442連隊は黒人兵からなる第92師団に配属され、第5軍の右翼としてリグーレ海岸に沿って北上した。 四月三日、北上中の第442連隊にマーク・クラーク将軍が訪れ、特に第100大隊を訪れてこう訓示した。「私は第100大隊がイタリアに戻って来たのを歓迎する。私は第100大隊が第5軍を二度と離れないことを望む。しかしそれでも、この間、第100大隊がフランスでドイツ軍を打ち破ったことは非常に重要なことであった。私はいままでに第100大隊が一〇〇以上も勲章を授与されたことを憶えている。私は諸君の能力と行動を高く評価している。第100大隊の諸君! 私は誓約する。私は諸君の隠された軍功を公にしよう。そして共に偉大なる勝利への貢献をしよう」 四月四日の夜から翌五日の夜明けにかけ、第442連隊はヴァッレッキアの北のモンテ・カウアッラ山へ進出した。ジョージア、フロリダ、オハイオなどのニックネームが付けられたこれらの山々でドイツ軍を急襲してナチ・ゴシック要塞線を一日で突破し、マッサ北東のモンテ・セルヴェデーレ山などアントーナまでの西部を確保、第100大隊はモンティニョーゾに迫り、二つの戦車大隊がマッサの中心部に到達した。 ピサ北部図 この日にサダオ・ムネモリは、二人のアメリカ兵の命を救うためにドイツ軍の手榴弾に飛び込んだ。彼は日系アメリカ人でただひとり、第二次世界大戦中に戦闘員として受ける最高の栄誉である名誉勲章を受章したのである。 この第92師団の黒人兵たちは、同じように人種差別に苦しむマイノリティとして第442連隊に親しみの感情を見せたが、第442連隊の兵士たちは完全にそれを無視した。なぜなら、黒人兵はすぐ敵に後を見せて逃げ出したからである。すでに戦闘第一日目において、左翼の黒人連隊との差は五キロにも広がっていた。我々が命にかかわる重傷の仲間を担ぎ込んだ応急救護班で見たのは、頭が痛い、腹が痛いという黒人兵の長い列であった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.13
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コメタニ軍医は、毎週火曜の夜に第442連隊の音楽隊に演奏させて、ダンスパーティを開いた。第442連隊も、シチュウポットを満たす軍用の缶詰の食料と一緒に、チョコレートやシガレットでウェルカムディナーを行った。兵士たちは慣れないホストとなって話をし、混ぜもののないワインを飲み、そして娘たちと優雅なダンスを舞った。地元の少女たちは、アメリカン・ダンスステップを習いたがった。 ジョニーの酒場は素敵なバーであった。彼は上手な英語を話す愉快なフランス人で、自分で新鮮な野菜を見つけそれを皆に提供した。彼はスイス人の妻と可憐な娘がいた。一人の兵士が彼の娘に惚れ込み、婿として彼の家族になろうとする無駄な努力で、ほとんどすべての休暇を失った者もいた。 兵士たちには、一人あたり週に半ダースのアメリカンビールの配給があった。真冬ではあっても、火の揺れる暖炉のそばでそれを楽しんだ。そして兵士たちは上手いことを考えついた。配給されたシガレットを一カートン二〇ドル、またチョコレートを二ドルで売り、それらを資金とした幾人かが、カジノへ賭けに行ったのである。ニューイヤーにはフランスのリカーではなくヘネシーやマテーニを飲んだ。品質の問題ではなく、アメリカのウィスキーの味を懐かしんだのである。 サブロウは酒が好きだった。特に寒い冬の戦場では水筒に水を入れずに強いコニャック入れていた。しかしタバコは吸わなかったから、タバコはいくらでもあった。それを売ってカネ儲けをした。そのようにして遊ぶカネを得た人は多かった。ここで何人かの士官は十八日間の休暇を取り、パリまで遊びに行った。フランスは、公娼制度の国である。「フランスの女性は確かに美しい。特にプロポーションがよく、乳房の形も細い足もアメリカ人好みだ。ともかくパリジェンヌは本当に美しい。彼女らに会い、話しができたことはとても嬉しいことであった。しかしまたあの戦争に行かなければならないかと思うと、無性に悲しくなった」 我々の守備範囲の外に白い桃の熟した木があった。夜になるのを待って、実を採ってきた。また我々の農場(冗談)では、何羽かの鶏が走り回っていた。それを捕まえて、チキンデナーを開いた。この頃サブロウは、ローマの休息センターに行けることになった。 ローマに着いたサブロウは、街頭の写真屋でスナップを撮って貰った。しかし何と、そのカメラは敵国ドイツ製のライカであった。それでもできた写真がとても気に入ったので、戦いの間中持ち歩いていた。 ところで、メントン周辺は正確には戦闘地域である。第442連隊にはここでの任務があった。フランスとイタリア国境地帯のパトロールである。その期間中、第100大隊は対戦車、対空、砲兵隊、そして工兵大隊によってバックアップされていた。その第100大隊のパトロール地区の東では、毎日、イギリスの駆逐艦がイタリア側のドイツ軍陣地に艦砲射撃を繰り返していた。また陸上では、時折パトロール中の兵士がドイツ軍の地雷を見つけ、それを狙撃兵が撃って破壊していた。それでも散発的に、国境を挟んで撃ち合いがあったが、その撃ち合いに勝とうという積極的な意志もなかったが、攻め込まれるという無様(ぶざま)なこともなかった。第442連隊は、命令通り毎日パトロールを実施していたが、その報告書には『異常なし』の文字が並んでいった。そこでは、病院から戻ってきた傷兵とキャンプ・マッコイから来た補充兵の訓練がはじめられていた。 凄まじい爆発音が聞こえた。(兵舎に転用していた)中学校の 二階で通信機に向かっていたK中隊本部付通信軍曹チカ・ニタハ ラは、音を聞いてすぐ窓に駆け寄ると、イタリア側の山腹に消え る一台のドイツ軍の戦車を垣間見た。同時に唸り声を聞く。血だ らけで校庭になぎ倒された三人の姿があった。ニタハラが階段を 飛び降りて校庭に出た時には、同じように助けに出た数名の兵が 校庭の一方で手当に懸命だった。ニタハラは腹の臓物が飛び出た スガワラを抱きかかえようとして、すでに事切れていることに気 付く。(中略) ニタハラは救急車を見送った後、まだ校庭にころがったままの ゴトウのブーツに気付いた。拾い上げると、ゴトウの足が入った ままのブーツはずっしりと手ごたえがあった。 「ごみと一緒に燃しておけ」 と、近くにたたずんでいた二等兵を呼んで手渡した。まだ少年っ ぽい顔つきのその兵は、ゴトウのブーツを両手で受け取った途端 に卒倒していた。 (ブリエアの解放者たち) 何日か後、ドイツ海軍の二人乗りの小さな潜水艇が、間違えてメントンに入港し、浅瀬に乗り上げてしまった。第100大隊の兵士たちがその乗組員を捕らえ、捕虜とした。ドイツ軍は、この地に進入しようと試みているように見えた。第442連隊の全部隊は自分たちの背後に降下するかも知れないドイツ落下傘部隊に対して、厳重な警戒態勢に入ったが、何も事件は起きなかった。 一九四五年の一月に入って間もなく、第100大隊のパトロール隊九名が、警戒線のそばの狩猟小屋の中に隠れていた敵の小部隊を見つけて小競り合いが起きた。ドイツ兵六名、イタリア兵八名の十四名を捕虜にしようとしたが敵方の二名が負傷し、その後に死亡した。 夜のパトロールは、凍えるほど寒い仕事であった。「パトロール中は、いつでもワイキキビーチを思い出すようにしている。生きてこの戦争が終わったら俺は神に誓う。『二度とこの島を離れない』とね。あの暖かさに戻ってビーチでぶらぶらして生活をするんだ」「そうか、俺は戦争が終わってもここに住めるというなら、それはそれでOKだね」 このような軽口が、皆の口から出るようになっていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.12
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勝 利 (1944/11/13 ~ 1945/8)戦後、フランスとブリュエール市民が第442連隊に感謝して建立した記念碑。街のメーンストリートは、「第442連隊通り」と改められた。U.S. Samurai in Bruyeres. 一九四四年十一月十六日、この日、第100大隊は、フランス、リベエラ海岸の有名なリゾート地ニース近くのキャネスに移動した。そして第100大隊はいままでの第85師団の指揮を離れ、新たにそこに駐屯していた第44対空部隊へ配属換えをされた。 駐留してまる一日ほど過ぎてみると、モナコ公国モンテカルロの郊外、海岸通りから五キロほどのビューレイルのすべての店、酒場、レストランが開いていた。兵士たちはそこに群がり食べ、飲み、そして土産物を買った。久しぶりの安寧のときであった。そこでは元イタリアの兵士が畑を耕したりしていた。兵士と市民は急速に親しくなった。兵士たちは近くにあるメントンの近代的な下町をあてもなく散歩し、また高台にある古代の狭い町の中の煉瓦で舗装された路地を登り、砲撃によって穴をあけられた十七世紀の大聖堂の中をのぞき込んで小さな観光をしていた。 二日後の十一月十八日、第100大隊は、パラシュート部隊が警備していたニースの北四〇キロの所までトラックで移動した。第100大隊の新前線は、雪で覆われたセントエチエンヌ・ディ・チネス村とセントマルチン村の間となった。「今度はブッダヘッドがアルプス大隊になった!」 彼らは冗談を言い合った。あの地獄の戦線から少しは離れたという気のゆるみからか、本来の快活さを取り戻させていた。 この二つの村は、まるで戦争など関係がないかのように、静かな平和に埋もれていた。それでもこの村の出身で有名なスキーのチャンピオンが、自由フランス軍として戦死して葬式が行われた。そのとき第100大隊が名誉儀仗兵を務めたことに、村人たちは深く感謝していた。 ここでの生活は楽しいものであった。夕方、時折開かれる慰問のダンスパーティで、兵士たちはたくましい農家の娘たちにアメリカンステップを、地元のミュージシャンにはスイングを教えた。またある兵士はニジマスを山の渓流で釣り、また他の兵士はスキーを借りたがうまく滑れず、小さなスロープでも転んでいた。しかし家に送る写真は、雪の中にスックと立ち上がり、格好良く写ったものを選んでいた。感謝祭には、沢山の七面鳥や特別のステーキとサンドイッチそしてワインが振る舞われた。それらはキャンプ・マッコイ以来はじめての愉快なことであった。 この遊園地でのような生活の十一日後の十一月二十一日、第100大隊はニースとモナコ公国を経由し、地中海沿いの景色のいい高速道路でメントンに移動した。メントンはイタリアの国境から一キロほどの所の町であった。彼らはトラックの上から緑の木々と青い海、陽光に縁取られたビーチ、ブーゲンベリアの咲く別荘、そして道路の左にそそり立つ山々を見詰めていた。「ココナツはないけれども、プラムが見える」「ハワイに帰ったような気がする」 誰かが言って、誰かが答えた。 みんなの笑顔が並んでいた。しかし誰もが、ここにいない仲間のことに思いを巡らせていた。 シングルス大隊長はメントンの手前、マルティンの村長宅に入った。兵士たちにはメントンからマルティンにかけての小さなリゾートホテルや個人住宅が与えられた。兵士たちは早速軍服の上から白いパーカスを着て、周辺の雪の中のパトロールを開始した。しかし夜になると彼らには、戦場では考えることさえできなかった暖かい食事と気持ちのいいベッドが待っていた。多くの兵士が駐留したメントンでも、第100大隊の司令部と少なくとも一〇〇人もの兵士がインペリアルホテルに、その他の兵士たちも民家や隣のキャスラー村に分宿した。ここもまた居心地のよい所であった。そして寒さのみを除けば、これら丘の上での生活は静かで安楽であった。 司令部は海の見える贅沢な六三五号室に置かれた。しかしこのホテルの上層の三階は使われなかった。砲撃を受けたそこの屋根の骨組みはむき出しとなり穴が開き、壁が少し残されていただけであったからである。それでも二階以下では暖房のよく効いた部屋が、柔らかいベッドが、蛇口からは熱い湯が、そしてスイッチを捻れば明るい電灯が点き、また窓からは美しい山や海が見えてゲストルームとしても充分であった。「まるでロイヤルハワイアンホテルの特別室のようだ」 メントンは。もともとの人口は千人ほどの村であったが今は住民がそれほど残っていなかった。一般のフランス人にはオフリミットとなっていたからである。今ここは第442連隊のためだけの町になっていた。 隊のマスコットとして、ポカ(日本語でポカ・失敗の意味)という名の雌犬を飼った、犬はほとんどキャンプ内にいた。マサオ・イハラが飼い主であった。そうしている内にポカが子犬を産んだ。可愛い三匹の子犬であった。それにも名を付けた筈であったが、タダシはそれを憶えていない。 メントンの大通りにはパーシモンの並木があった。実が熟していた。この地方の人びとが道路脇でこの実を売っていた。 この名を聞きつけたタダシが、サブロウに言った。「あなたはこの実の名を何と言うか分かりますか?」「いいえ、分かりません」「そう、この実の名は『カキ』です」「えっ、『カキ』? そうか、あのフランス人は、日本から柿の種か木を運んできたに違いない」 そんな冗談を言い合っていた。 あるとき グラーセの香水工場へ行った。香水を作り、混ぜ合わせ、瓶に詰める作業を見ていたタケモトが、いくつかの香水を買った。タダシは壊すと大変と思い、買うことをやめた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.11
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十月三十一日、相変わらずの雨だ。敵の砲撃は一向に治まらなかった。敵の爆撃機の襲来も続く。 十一月一日、また雨だ。冷えも一段と厳しくなっていた。敵の砲撃はさらにしつっこさを増し気を緩める一刻とてない緊張が、昼となく夜となく続く。 テキサス大隊(消えた大隊)のビル・ハル曹長は、その朝の敵 の攻撃がそれまでにない熾烈さであったと語る。 「前日、P47戦闘機がレーションと弾薬の入った包みを落下傘 で投下してきた時から心配されていた通り、それでかえって敵は 我々の窮地をはっきりと知ったわけです。例によって朝の十時を 過ぎた頃でした。前日までとは違って、我々が散開した円陣の三 方から凄まじい攻勢をかけてきました。私のC中隊の機関銃巣の ある正面と円陣の左右からです。これが最後の戦いだとはっきり 自覚しました。敵は何が何でも我々を全滅させる意気込みでした。 初めて、死ぬと思いました。それなら一人でも多くの敵を道連れ にしてやろうと、頭にあったのはそのことだけでした。 手持ちの弾薬を惜しみなく使って撃ちまくり、どれだけの時間 が過ぎたんでしょうか。もうこれまでだと思った時だったのです。 後方が急に騒がしくなったのです。後方からもついに来たかと振 り向くと、小柄な日系兵が壕へ飛び込むのが見えたのです。 その時の気持ちは、言葉では言い表せません。・・・ライフル を構えて前方を睨み、素早く移り動くその小さな姿を、どんなに 誇りに思ったことか。自分たち自身の連隊がやり遂げられなかっ たというのに・・・、敵陣を破って助けに来たのが日系兵だった。 神に感謝すると共に、日系兵の姿が特別に見えました」 ハルは言った。 「私にはあの時、五歳と二歳の息子がいました」 ハルが最初に見た日系兵はI中隊第1小隊のナカダ二等兵たち であった。その時、第1小隊は六人、第2小隊にはたった二名し か残っていない。彼ら八人はタック・センザキ軍曹をリーダーと して、ついに『消えた大隊』へと至ったのであった。 (ブリエアの解放者たち) このとき救助されたある白人兵が、「なんだジャップか」と吐き捨てたのに対し、「俺たちはアメリカ陸軍第36師団第442連隊だ。言い直せ!」と怒鳴ったという逸話が残されている。ここ数日、ロバートの心にも初めて一つの疑念が生まれた。『消えた大隊』に至る四キロは余りにも犠牲の多いものであった。大隊救出後も、「前進、前進」とまだ森を出られないことが解せなかった。「俺たちは利用されているのか。やっぱり消耗品だったのか。弾避けという訳か」どこか痺れた頭の中で、そう繰り返し呟く声があった。 この戦いでロバートは負傷した。 普通の塹壕戦では敵の顔を見ることは滅多にない。姿に向かって撃つだけであるから、相手が斃れても影が消えるような感覚である。その日ロバートは樹に隠れながら前に進んだ。向こうの樹に黒い人影が見えた。味方かと思って合い言葉をかけた。樹の陰から出たヘルメットはドイツ軍のそれであった。驚いた。慌てて夢中で撃ったがほとんど同時に相手も撃った。腹に強烈な痛みが走り、くずおれた。「お母さん・・・」 ロバートにはそう呼んだ記憶はない。しかし一瞬、彼の瞼に浮かんだことだけは確かであった。あまりの痛さに意識が戻った時は、野戦病院のベッドの上であった。そしてそこには心配そうにのぞき込むサブロウの顔が見えた。「僕の経験からしてこの傷なら大丈夫だ。ロバート、本土からハワイに帰ってなどと都合のいいことを考えず、必ず戻って来い。第100大隊が待っているぞ」 そう言うとサブロウは、ニッと笑った。 それを見たロバートは、また意識を失って行った。 戦友が次々とやられていく悲しみと恐怖。よく眠る時間さえなくずたずたに疲れた肉体に、打ちのめされた感情が勝つ時、張り詰めていた神経がプツリと切れる。そうなると、白人兵が唸り泣き叫ぶのとは違い、二世の兵の大半は言葉を失い、あらゆる音に体をびくつかせ身悶えるという。 戦場には戦死者の死体の処置という仕事がある。それを担架で森から下ろすのである。兵士たちはむしろ戦闘の恐怖を選びたいと思うほど、それは身を切るような辛い仕事であった。想像絶するような裂傷を受け、足や手がちぎれ飛び、顔や頭の一部も失って濡れた森に言葉もなく横たわる仲間たち。遺骸は雨を吸い込んだようにやけに重かった。担架の四方をそれぞれ持つ四人の足元が時としてよろめく。四人は言葉を交わさなかった。腹の中から吐き出すものはすでに何もない。悲しみを感じる気力も感覚も薄れるほどに打ちのめされていた。 十一月四日、戦いが終わったとき、朝からの寒さは夕方となって初めての雪となった。 十一月十一日、サブロウは打ちのめされていた。自分よりも深いロバートの傷と共に、すべてを失って死んでいった戦友を思うと、やりきれなさが先に立った。この『消えた大隊』救助ほどサブロウに動揺を与えた戦闘はいまだかってなかった。身も心も弱ってしまったように感じた。しかも日系二世がここで支払わなければならなかった自由への代償は、余りにも大きかったと思えて仕方がなかった。なぜ『消えた大隊』を出した第141連隊が我々と同じような責任を押し付けられなかったのかと考えると、尚更であった。この消えた大隊(テキサス大隊)が敵に囲まれた時の兵力が二七五人、救出された時が二一一人である。この二一一人の命を助けるために、いかなる数の犠牲者が第442連隊から出たのか! (皮肉にも、この犠牲のもとに生き延びた大隊は、約一ヶ月後、ドイツの国境近くの戦闘で全滅といえるほど多数の死傷兵を出すに至っている) 十一月十二日、第442連隊の労を讃えるセレモニーのために と、再び師団長に「集合」をかけられた日系兵は、午後二時、森 の麓に整列した。ラッパが高々と森にこだまし、連隊の音楽隊が どこか力なくアメリカ国歌を奏でる。 日系連隊の前に歩を進めたダールキスト少将は、傍らに立つミ ラー連隊長代理へ不満げな顔を向けた。 「全員集合させろと命令したはずだ」 ミラー中佐はいつになくきっぱりと答えた。 「イエスサー。目の前に並ぶ兵がその全員です」 その約一ヶ月前、第442連隊がボージュの森へ入ったとき、 その兵力は二九四三名、その後の戦死者一六一名、行方不明四三、 負傷約二〇〇〇名。初めの兵力の三分の一以下になっていたので ある。 この日、ヒロ・ヒグチ従軍牧師が、「死者への祈り」を捧げた。 祈りの言葉が始まった時、雪が降り出しました。それはまるで天 の神様が僕たちを優しく愛撫してくれるかのようでした。その中 で、ヒグチ牧師はもはや帰らぬ兵の名前を一人一人読み上げてゆ きました。やがて森へ響けと弔銃の音が三回続いた時、涙がとめ どもなくこみ上げてきて、もはや何も見えませんでした。冷たい 雪に身を投げだし、赤ん坊のようにただ大声をあげてどんなに泣 き叫びかったかもしれません。帰らぬ一人は僕の幼い時からの親 友でした。 (ブリエアの解放者たち) 十一月十三日、第2大隊と第3大隊は、四日間の周辺警備を命じられ、それを実施するため雪で凍った道をブリュエールへ戻った。そしてその日、第100大隊は軍用の休息地であるエピナルの南西十五マイルのバインレスバインでの休息を命じられた。バインレスバインは、昔からヨーロッパのお金持ちに人気の高かった温泉地である。このことは第100大隊が最大の評価を得たことの証明であり、名誉ある日系兵としてのささやかな報償であった。 記念碑文1944年8月14~30日 フランス・ボージュの森ブリュエールの戦闘において、アメリカ陸軍第442連隊戦闘団の歴史的真実を顕彰する。我がアメリカへの忠誠心は、人種の如何を問うものではない。これら日系アメリカ人は、フランス・ボージュの森ブリュエールでドイツ軍の強力な防衛戦を突破し、4日間、敵に包囲されていた第141連隊を救出した。この碑は平和と自由のため、ブリュエールの人々により、第442連隊戦闘団記念館の50周年記念として建立されたものである。(左 フランス語 右 英語) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.10
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十月二十四日の午後六時までに、第442連隊のすべての大隊がベルモン村へ戻った。ところが翌二十五日の午後二時半、「少なくとも二日間の休息が与えられる」と伝えられていたこの第100大隊に、「テキサス大隊(第36師団141連隊第1大隊・ロスト。バタリアン)を救出せよ」との命令がルーズベルト大統領直々に発せられた。テキサス大隊は、キャンプ・マッコイで大乱闘を演じたあの喧嘩仲間であった。 ブリュエールの戦いで半分に減っていた第100大隊はみんな疲れ果てていたので、この命令には腹を立てていた。実は森の中で敵に囲まれたテキサス大隊の救助に第442連隊が駆り出されたのを知ったのはこの日も暮れてからのことであった。そしてこのロスト。バタリアン(消えた大隊)を出している連隊が動いていないことに苦情を申し立てたのは、同じ師団の第143連隊であった。この第100大隊がブリュエールに向かったのときには、三十六人の士官と八二三人の兵士たちを擁していた。しかし十月二十五日の時点で、二十一人が戦死し、一二二人が傷ついてしまっていた。 十月二十七日金曜日、雨の泥道は穴だらけで登りづらく一人が転ぼうなら暗いだけに後に続く兵が続いて転んだ。やっと周りが明るくなったころ、ドイツ軍の抵抗は激しく絶え間なく集中砲撃を浴びせかけてきた。わが方の戦車二台のうち一台は地雷にやられ、他の一台も道が狭過ぎて使えないでいた。敵は戦車を先頭に立てて反撃してきた。 森の中で二世の多くはこう考えていた。 ——いま戦っているのは、まだ幼い弟や妹が、戦後アメリカ人として生きていくためなのだ。 決死の覚悟であった。 擱座した味方の戦車。U.S. Samurai in Bruyeres. あれは本当に悲惨な光景であった。戦線に近い木の向こうで、サブロウは一メートルも積まれた血染めの包帯を見た。また切断処理された、肉片も見た。負傷兵の運搬が急務であった。もっと奥には、ドイツ兵の死体もあった。 一人の兵士がひたむきな大きな目でヒグチ従軍牧師に問うた。 「あなたは今までいつも、人を助けるとか平和のためとか僕たち に語りました。でも僕は、人と人の関係とか人間愛とかはもうど うでもいいんです。いま僕が知りたいのは、神とはどういう存在 なのかという縦の関係なのです」 ヒグチは言葉に詰まった。答えを与えられないままに、その兵 はボージュの森の露と消えた。 (ブリエアの解放者たち) 十月二十八日土曜日、曇りのち雨。いつ敵の砲弾がやって来るか分からないので、ロバートたちはこの峯で塹壕を掘っていた。どうせ何時かはほとんどの者が死んでしまうだろうと自棄にも似た気分に襲われたが、それでも生きるために懸命の努力を続けていた。昨夜来の降雨は頼みの塹壕を水で覆い今朝も降り続いている。敵兵の残した毛布を使ってどうにかしようと思ったが、すっかり濡れてしまい役に立たなかった。今朝は長時間にわたり二度も砲撃を受けたが、負傷者は出なかったようだ。砲弾の破片がうなりを生じて木の枝をもぎとり、どんどん落下するのに冷や汗をかいていた。 ロバートは塹壕の中の泥水に身体をアゴまで突っ込み、この難を避けていた。全身びしょ濡れのまま、汚い話だが塹壕の中で着たまま小便をした。快感とも汚感ともつかぬ生暖かい感じが徐々に肌を伝わってゆく。戦地ならではの体験である。 マツと呼ばれたジョージ・シゲマツ二等兵は、絶え間なく笑い 続ける誰かの声に、ふと意識を取り戻した。やけにうるさい笑い 声であった。 「ゲラゲラ、ゲラゲラ……」 と笑いが続く。衛生兵が暗い中を手探りで近寄るとマツの胸にテ ープを貼り包帯を巻いた。 笑っていたのは、マツ自身だ。胸に大きく開いた穴から空気が 漏れて出る音だと、マツは知らない。肺に血と空気が溜まり、マ ツは溺れるような胸苦しさに悶える。それなのに、ああ、誰があ んなに笑い続けるのか。 森の中の天幕もない野戦病院で軍医がかすかに首を横に振ると、 ヨースト従軍牧師は灰色の顔で横たわる若者のそばにひざまずき、 静かに語りかける。 「タカオ、君のために祈ります」 回復するために、とは言わなかった。それを聞くと雨が降って いるのに、軍医も衛生兵もヘルメットをぬいだ。 「天に在す我らが父よ、願わくば御名の……」 灰色の兵の息はすでに絶えていた。 日系兵の死体はカンバスの袋に入れられて、軍用トラックが回 ってくるまで畑に並べられた。その数は日ごとに増す。 十月二十九日 日曜日 曇りのち雨。 第232工兵中隊はその日も、降り続く雨でぬかるみと化した 麓の道路に丸太を敷いて、救急車やトラックが通れる工事に忙し かった。ネブラスカ出身の工兵隊長、バーシング ナカタ大尉は、 スイッチを入れっ放しにしていたジープの受信機から、 「何人死んだって構わん。救助するまで押しまくれ……」 と言う師団長の声を確かに聞いた。戦慄が全身を駆け抜けたと、 現在でも複雑な表情を見せる。イエローなど何人犠牲にしたって 構うものかと、大尉には聞き取れたという。 (ブリエアの解放者たち) しかし二世の兵士たちには、大統領直々の命令によるテキサス大隊を見つけ出すこと、それしか頭にはなかった。 十月三十日 月曜日 雨、その朝は七時が回ってもまだ森は暗かった。第3大隊と第100大隊が攻撃を再開したのが午前九時。そのとき報告されていた兵力は次のようであった。 第100大隊 A中隊 七十七名。 B中隊 七十六名。 C中隊 八十名。 第3大隊 I中隊 七十一名 (将校二名) K中隊 七十八名 (I中隊から回った将 校二名) L中隊 八十五名 (将校三名) M中隊 一〇二名 (将校五名) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.09
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第100大隊はA高地の山頂警備にA中隊を残し、その日のうちにブリュエールの町に入り残った建物で野営した。同じく第3大隊もブリュエールで野営をして翌朝を迎えた。そして十月十九日にC・D高地に攻め入り、翌二十日、残っていたドイツ軍を掃討した。この戦闘で両軍の砲撃により町の建物の約三〇%が破壊され、住民五〇〇人以上の死傷者を出した。 ブリュエール市街に入った第100大隊。U.S. Samurai in Bruyeres. その後このブリュエールでも、ドイツへの協力者と見なされたヴィシー政権の管理官やドイツ軍相手の売春婦などが住民に拘束され、憎悪、復讐の対象として石を投げられ、髪を切られたり唾棄されたりの行為を受けた。 女たちの脅えきった表情は、薄暗さの中でもはっきりと読み取 れた。啜り泣いてる女もいた。 町外れには戦前から四人ほどの公娼を置く売春宿が一軒あった。 ドイツ兵だけでなく、敵の出先たるヴィシー傀儡政府のゲシュタ ポ、即ちミリスと呼ばれる一団も町には入っていた。 敵の軍服を着たこれら同国人は町で一番立派な家に入り、何で も徴発して飲み食いした。女も連れ歩いた。 日系兵の中には、イタリアでこういう光景を目撃した者がかな りいるようである。人々の嘲罵の声から胸に抱えた赤ん坊だけは 守ろうと、鎧のように肩と肘を張った女の姿が忘れられないと語 った者もいる。群衆に追い詰められた女がビルの屋上から身を投 げる光景を実際に見た兵さえいる。 女たちはそれぞれの理由を胸に戦火を生きのびてきた。食べる ための手段として身を売った者もいよう。敵兵を愛した女もいた かも知れない。 「女の中には誰とでも寝るのもいる。ドイツ兵とでも、後からや って来たアメリカ兵とでも。セ・ラ・ヴィ(それが人生さ)」と トマのように受け流す市民もいたはずだが、タカハシが見たのは 憎悪の目だけで女を追う市民の姿だった。 (ブリエアの解放者たち) 十月十八日の夜、A高地を確保したまま残っている第100大隊A中隊を除く第442連隊の兵士たちは、久しぶりに屋根のある建物の中で濡れた靴下を乾いたものに取り替え、ふやけて疲れきった足を労り、つかの間の睡眠をむさぼっていたが、明けて十九日の朝から早くも次ぎの戦闘に駆出された。 十月十九日、町のすぐ東のD高地の掃討をしつつ更に東に通ずる鉄道線路と道路の確保に進出した低地で第2、第3大隊はすぐ近くにまだ残留していたドイツ兵と激しい戦闘を行ったが不運にも地雷原に迷い込んでしまい、戦車の救援を得て漸く脱出した。D高地の攻略には意外な時間を要した第2大隊であったが、その時負傷者の救出作業を行っていた(赤十字マークを付けた)衛生兵がドイツ兵に狙撃されたのを目の当たりにした第2大隊の兵士たちは一斉に立ち上がって白兵突撃をかけ、五〇名以上のドイツ兵を殺してD高地を制圧した。どんな場合にも仲間を見捨てない二世部隊兵士の戦意と、追い詰められて衛生兵まで狙撃したドイツ兵に対する怒りの結果であった。 それでもC高地のドイツ軍は撤退の様子を見せないため、 ダルキスト師団長はA高地から町に降りて来たばかりの第100大隊に、明十月二十日正午までにC高地を奪取し敵を掃討することを命じた。第100大隊は大急ぎでA高地山頂にいたA中隊も復帰させ、なんとか二十日の未明までに三個中隊全てを揃えると、一気に山頂まで駆け上った。しかしこの進出が早過ぎて、第100大隊の突撃ラインの間隙に残された敵の小部隊に後方から包囲されるという事態となったが、正午ころにはC高地を奪取した。 そのようなとき、師団司令部により「直ちにC高地を放棄してD高地に転進せよ」との電話命令が到達した。第100大隊は、「その命令に服するとC高地が再奪取され、敵の反撃の要となる」と主張して命令の撤回を求めたが許されなかった。夕方、第100大隊がブリュエールに向かって降り、前夜泊まった民家へ再び入り終えた時は、夜中の十一時近くなっていた。 やっと「休める」と思っていたのも束の間、ブリュエールの北東に進出せよとの師団命令が届いた。第100大隊は寝る暇も食う暇もないほど追いたてられるようにして、ブリュエール北東の山地に分け入った。第100大隊の将兵は視界せいぜい三メートルの漆黒の闇の中をひたすら進撃し、暗闇の中ドイツ軍との小規模な戦闘を繰返しながら、十月二十一日の明け方、命令通りにベルモンとビフォンテーンの村を結ぶ街道を見下ろす高地に陣取った。兵士たちの消耗は激しく、まさにくたびれ果てていた。確保した高地はベルモンに付近に終結して再編しつつあったドイツ軍の退路として重要なビフォンテーンに繋がる道路を見下ろし、退路を塞ぐためには絶好の位置にあった。 二十二日の早朝その「ビフォンテーン村を奪取せよ」との命令が入った。しかし低地にあるビフォンテーン村に下りることは味方からさらに離れ、援護射撃も受けられないところに入ることになる。そこで今いる高地に他の友軍を進出させる約束で進撃を開始したが、ドイツ軍がその背後を音もなく塞いでしまった。危惧していたことが現実となったのである。 午後二時ころ、敵は四方から第100大隊を囲んで攻勢に転じた。第100大隊の手持ちの弾丸は目に見えて減り、捕虜にした敵の武器を手にした者もいた。負傷兵も相次いだ。暗くなっても見上げる高地に味方の姿はなかった。ようやく弾薬が届いたのは、翌二十三日の朝方であった。探し当てられたことが奇跡であった。 その夜ビフォンテーン村では一〇〇メートルほど離れた実家を 心配してアンリーの若妻ロマリーは一晩中よく寝つけなかったと いう。姉二人も結婚して父母だけになっていた実家は村の一番西 の端の家で、急勾配の森がV字型に下がった小さな傾斜を壁 のように背としている。 翌二十三日の早朝、ロマリーが駆け戻ってみると、実家の屋根 は砲撃で大方なくなっていた。家続きの土間には負傷した第10 0大隊の兵が何十人いたのだろうか。土間にある井戸の水を汲ん では負傷兵に飲ませている父母の姿があった。 (ブリエアの解放者たち) 重傷の兵士が多かった。一人の兵士は腸が全部出ていた。彼がこの家の母親の手を取り引き寄せたので、彼女は我が子のように抱きしめていた。彼女に世話をされると、どの兵士も喜んでいた。兵士たちは、彼女に自分の母を見ていたのかも知れなかった。 なお、この重傷の部分は、『閑話休題・ハワイ福島県人会創立110周年 4』 の『第100大隊資料館にて』が関連しています。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.08
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この日も朝からドイツ軍の反撃は激しかった。ドイツ軍から撃ち出された砲弾は鬱蒼と樹木の茂る森の中で炸裂すると、無数の鋼片とともに鋭く切り裂かれた木片がすざましい勢いで降り注ぎ、凶器と化して飛び散った。一発の砲弾が数倍もの破壊力を伴って、降り注いだ。上方を強固に掩蔽しない限り、いくら塹壕を深く掘ってもその用をなさなかった。ボージュの森の戦闘を象徴したのがこの トリー・バースト(Tree Burst・木が飛び散る)であった 森の夜は、夕方の四時を過ぎる頃から駆け足でやってきた。あ っと言う間に自分の手さえ見分けられなくなる。それは不気味な 暗さであった。森の木の天辺が風にしなる音は、頭上で鳴る悪魔 の笛とも聞こえ、闇の恐怖を深くした。松ぼっくりが風で落ちる 音にも身を固くした。ドイツではこの一帯をシュァヴルツケルト (黒い森)と呼ぶ。そしてこの黒い森は、やたらと寒かった。 真っ黒な森に砲弾が落ちてくるんです。みんな日本に行ったこ ともない二世、三世なのに、撃たれて死ぬ前にあの呻くような日 本語の低い声が聞こえてくるのです。何と言うか分かりますか? 「お母さん、お母さん助けて……」と。だんだん弱くなり「お母 さん、お母さん・・・」、そして聞こえなくなります。それは本 当に怖い。バンザイ突撃の真最中に倒れた帰米の兵は、「母ちゃ ん、痛い痛い」と泣き続けて目を閉じたそのとき、ああこれが戦 争だと気が付くのです。 (ブリエアの解放者たち) 黒い森。U.S. Samurai in Bruyeres . 第442連隊がボージュの森攻略に加わって三日目の十月十七日になっても、事態は好転しなかった。夜明けからドイツ軍はAとB高地から降り、野戦砲と戦車の援護を得ながら山麓の第442連隊に襲いかかった。第442連隊も応戦するが、深い森の中で対戦車砲中隊も思うように応戦できなかった。そこで 我々にバズーカ砲を持たせて応戦させた作戦が功を奏し、なんとかドイツ軍をA・B高地に追い返すことが出来た。その間に一番の激戦地に投入された第100大隊は歴戦の兵士が次々と負傷や凍傷で後送され、戦力は著しく低下していた。 十月十八日の朝、第442連隊はそれまでの四日間に亘る冷たい雨と霧の中の戦いで満身創痍となっていた。それまでブリュエール突入兵力の後方予備兵力として控えていた第442連隊の第3大隊は、密かにブリュエール市街に向けて進出した。午前十時、A・B高地とブリュエールの町に対して一斉に砲撃が開始された。第3大隊は、ブリュエール防衛のドイツ軍を挟撃する体勢となった。 一方で、凄まじい量の砲弾を撃ち込んでも反撃が止まなかったA高地へは第100大隊が、B高地へは第2大隊が血みどろの攻撃を掛けた。工夫して引き入れた戦車の砲撃もあり、第100大隊は七〇名余の捕虜を捕らえながら攻撃を続行し、午後二時四十七分に激しい雨の中、ついにA高地山頂を占領した。ちなみにこのA高地奪取により、第100大隊は二度目の大統領殊勲感状を受けることになる。 しかしB高地はさらに攻略に手間取ったが、A高地から約一時間半遅れた午後四時二十四分にこれを落とした。B高地がようやく第2大隊によって占領されたころ、ブリュエールの町まで到達していた第3大隊のL中隊は、町の北側からブリュエールに突入した。ブリュエールの町中はドイツ軍により防御用の大型コンクリート障害物などが多数配置されており、街の広場に立て篭もったドイツ軍はさらに数時間の抵抗を続けたが結局は降伏した。第442連隊の第232戦闘工兵中隊により、障害物はその夜のうちに全てが爆破された。この日、敵の戦死者三〇名と負傷者三〇名が確認され、捕虜が一〇〇名にも及んだのである。 ところでこのブリュエールの町の側では、この数日来のアメリカ軍による激しい砲撃に住民たちは息を潜めていたが、十月十七日あたりからドイツ軍の動きが慌ただしくなったことをカーテンの隙間などから窺っていた。十月十八日の午後遅く薄暗くなる頃、街に隣接するボージュの森から一人の小柄なアメリカ軍兵士が出てきた。辺りを窺いながら素早い身のこなしで畑を横切り、ある民家に向かって走っていく兵士の姿は農村地帯のフランス人が想像するアメリカ兵と明らかに違っていた。続いて次々に出てきた兵士達は皆小柄で浅黒くアメリカ人には見えなかった。 レイモン・コラン医師は、米軍の飛行機の音を聞きながら、 ──明日こそは。 と思いながらドイツ軍からの解放の日をもう六週間も待っていた。 「ボッシュ?」 階下からの声は確かにそう叫んだ。それは自分たちがドイツ兵 を、陰で憎しみを込めて呼ぶ言葉だった。待ち望んでいたアメリ カ兵が、敵兵を捜し出す声に違いなかった。コラン医師は喜びに 浮き立つ足で、一気に階段を駆け下りた。だが、なんと銃を構え ていたのは二人の『日本軍の兵隊』ではないか。エピナルからの 地方紙(デモクラシー・ド・レスト)の隅々に熱心に目を通し、 それなりに世界の動きに通じていたコラン医師には、声も出ない ほどの驚愕だった。 ──日本はドイツの同盟国だ。待ちに待ったアメリカ軍どころ か、ブリュエールは地球の反対側からやって来た日本兵の手に陥 ちたのか。新たなる恐怖の占領か? ああ、神よ! コランは身動きできなかった。二人の日本兵も銃を構えたまま 動かない。その扁平な顔は泥と垢で黒く見えた。膨れたような瞼 の下の目が油断なく光っている。と、兵の一人がニッと白い歯を 見せ、 「ハワイアン」 と自分の胸を親指で指した。それでも何が何だか分からずにいる と、笑顔で握手を求め、コランの肩を抱いた。安心させるように 「OK」を連発してみせた。コラン医師が日本兵の顔立ちをした アメリカ兵を見たのも、この一日だけである。 翌日、妻が解放の日のために密かに作っていた星条旗を、フラ ンスの三色旗と共に二階の窓からたらした時、笑顔でそれを見上 げたのは白い顔のアメリカ兵たちだった。 (ブリエアの解放者たち) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.07
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消 え た 大 隊 (1944/9/11 ~ 1944/11/13) 一九四四年九月十一日、リボルノの埠頭に移動した第442連隊は、輸送船、ジョン・ホルメス号に乗船した。このときの兵力は将校二二四名、兵士四〇三四名で、第442連隊としては最多であった。勿論この人数には、三歩兵大隊の他に、第232工兵中隊、第522野砲大隊を含んでいる。しかし翌日からの八日間、船はナポリ港外に停泊したままであった。はからずも船中で休息期間となった第442連隊からは、毎日一〇%の兵士たちが交代でナポリの見物をすることができた。 兵士たちが輪になって話し合っていた。「俺はどちらかと言うと、ナポリの九〇%は売春婦かその斡旋人だと思う」「うん。町を歩くとよく声をかけられる」「まあ、戦争で収入が途絶えているのだから、やむを得ないのかなあ」「古代ギリシアでは人類最初の商売と言われていた」「あっ、お前! 行ったな!」「行ってない行ってない、俺は行ってないよ」 慌てて手を横に振る者もいた。 第442連隊はイタリアに上陸以来、初期の戸惑いはあったものの、先輩である第100大隊に戦闘方法を学び、すでに経験豊富で戦意旺盛な頼れる兵士たちとなっていたが140高地の戦いをはじめ幾多の激戦で兵員を消耗していた。戦死者は二三九名を超え、戦傷者も千名以上に達して部隊の三分の一を失っていた。また先にフランスに渡っていた部隊が内陸で敵の頑強な抵抗を受けているとの報も伝わり、フランスでも決して楽な戦いが待ってはいないことが予想された。 九月二十四日、第442連隊は地中海に乗り出した。空襲に怯えることもなく、のんびりとした三日間の地中海の航海ではあったが千人の兵士たちに二つのトイレしかなく、多くの人がデッキを寝所にした。この船の中で、隊員たちによる『クラブ100設立』の動きが起きた。それは一九四三年以来、第100大隊の兵士たちの心の中に育まれていたものであった。キャンプ・マッコイ以来の各隊の代表者たちは、戦争が終わったら退役軍人たちでハワイにクラブハウスを作ろうというものである。コメタニ軍医が最初の代表者に、そしてレスリー・デーコン、さらにハワイ代表議員のジョセフ・ファーリントンとヘメンウェイを役員に選出した。 この第442連隊がマルセーユに到着する以前の九月十五日、アメリカ第7軍がマルセーユに上陸し、ライン川を目指して進撃していた。この第7軍によるアルプスの北での戦果を聞き、船の上では、クリスマスには家に帰れるのではないか、という期待が話題になっていた。 九月二十七日、船はマルセーユに到着した。そこでは、郵便物 が先回りして待っていた。H伍長の甲高い「郵便物到着」の声に、 思わず湧き立つ陣営。その都度必ずと言ってもよいほど五,六通 の手紙を受け取る人気者なにがし。いつもしょんぼり鉄かぶとに 腰を下ろしたまま一通の手紙も受け取れなかった不運のヒゲ面な にがし。世の中の不公平さに呆れるが、銃後の皆様よ、唯の一通 でもよいからこの不運な兵士に手紙を書いて慰めて上げて下さい と祈ったことを思い出す。 (ロバート・サトウ) 午後五時三〇分貨車に乗った。しかし第442連隊を待っていたのは、家畜輸送用の貨車であった。「ぞっとした。しかもそれは四時間もの長旅であった」 その後、中継野営地・セプテムスに着いた第442連隊は。支給された新品の機関銃や迫撃砲、弾薬などの調整などをしながら前線への出発を待った。フランスの内陸部に先行していた第36師団は、アルザス・ロレーヌ地方のボージュ県のあたりで、ドイツ軍と激しい戦闘を展開していた。アルザス・ロレーヌ地方は独仏の国境地帯で、過去その領有権を巡って幾多の戦役があった土地である。 十月九日、第442連隊はライン川に沿って、トラックで北上した。雨の中の移動であった。最初はマルセーユ郊外のセプテムスから連隊全員がトラックで輸送される予定であったが、使用可能なトラックの不足などで第3大隊だけが鉄道移送となった。ところが行程の途中は泥道でトラックが使えなくなり、雨と風、そして泥の中を休みなしに歩くことになってしまった。アヴィニョン、リヨン、ヴィーンネ、ヴェソールを通過、シャルモアの近くでボージュ山脈に到着した。前線からは、悲しいほどの寒気が知らされて来ていた。 泥濘の中を徒歩にて北上する第100大隊、remembrances 第36師団は南フランスに上陸して以来ドイツ軍と戦い続け、ボージュ山脈に到達した時点で既に約八千名の兵士が死傷し戦線を離脱していた。第442連隊がこの第36師団に追いついたのは、そのような状況の時であった。ボージュ山脈はけっして険峻な山並みではない。遠景は丸みを帯びた緩やかな美しい山並みである。しかし、一歩その森に入れば高い針葉樹が密生し、日中でさえ陽光が届かないほどで、第442連隊が事前に第36師団から受けていたブリーフィングにおいても、森の中は昼なお暗く無数の小道が複雑に存在し、地元民さえ道に迷うとされていた。 第442連隊の到達目標は、集結地点から約四キロ東にある三方を山に囲まれ、その山裾に小さな教会を持つ谷間の町ブリュエールであった。このブリュエールを落とすためには、先ずドイツ軍の防衛陣地と砲撃監視哨がある周囲を取り巻く山を占領する必要があった。そこの四つの高地にA、B、C、Dのコードを付けた、 十月十五日の朝、タダシらの第522野砲大隊による高地への砲撃開始を合図とし、第100大隊と第179連隊がA高地を、第442連隊第2大隊がB高地を攻略すべく進撃を開始した。この年の異常寒波による冷たい雨の降る日であった。 第100大隊B中隊はA高地に取り付くやいなや生い茂る下草により巧みにカモフラージュされたドイツ軍の銃座から、凄まじい掃射を受けた。その上森の小道の至る所からの機銃掃射にさらされ、這いつくばって進めば地雷が炸裂した。完全な待ち伏せ攻撃であった。死傷者が続出した。それでも這うようにして前進を繰返したが、午前中に五〇〇メートル前進するのがやっとであった。なんとか山肌に食らい付いた第100大隊B中隊とC中隊は、A高地の尾根伝いに陣取るドイツ軍部隊との激しい戦闘に巻き込まれていった。 この戦闘のため兵士たちは懸命に壕を掘ったが、掘り終える前に雨水が溜まった。その中でじっとして動かずにいると、寒さが体の芯にまで達した。第一日目は大きな戦果を上げることができず、塹壕の中ですぐに溜まる冷たい雨水に凍える夜を迎えるしかなかった。真っ暗な夜、ロバートは二人一組で一時間の歩哨の任についた。寒い前方には敵がいる。暗い夜ではあるが立っていると敵に気付かれる恐れがあるので夜露に濡れた草の上に腹這いになり、前方をにらんでいた。最初の三十分を自分が引き受けるから、ゆっくり休むようにとロバートは目で合図した。ところがこれが大事件になろうとは・・・。 疲れ果てていた友が突然、万雷のような鼾をかきだしたのである。びっくりしたロバートは心を鬼にし、彼の頬を酷く殴った。流石におとなしくなったが、五秒も経たぬ間に又繰り返す。小隊本部まで走り代員を送ってくれるように頼みたいところであったが、ポストを離れることは軍規上絶対に許されない、右手でしっかり銃を握って左手で彼の鼻をひねり通した。敵に気付かれたら我々二人は勿論のこと、一個小隊全員が捕虜になるか殺されるかは明白である。結局交代が来る迄一睡もせず自分一人で任を果たすことになってしまった。 疲れはてし友のいびきを気にしつつ最前線の歩哨に立つ我 (ロバート・サトウ) うとうとと目を閉じ、森の枝葉の隙間から漏れる一筋の光が見える翌朝、戦闘服はポンチョを着ていても濡れ、しっかりと編み上げたはずのブーツにも沁み込んでいた。トレンチ・フット(塹壕足)と呼ばれている凍傷で、歩くことができなくなった兵が出はじめていた。特に雪に慣れていなかったハワイの二世兵士の足は凍傷で真っ白になり、指がぽろりと落ちた。黒人兵士の足はもっと酷く、紫になって黒く変わり指が落ちた。そのため歩けなくなり、脱落する者も多かった。戦場では夏も冬も、常にウールの衣服を身につけていた。また内部からの汗の蒸発を押さえるゴム張りのレーンコートを支給されていたが、冬でも汗で湿ってしまうので、雨のとき以外は決してレーンコートを着なかった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.06
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ここの春と夏は谷が優しく流れ、丘は緑、空は青く澄んで広がりすべてがハワイのように思えた。遠くに見える山のスロープは、おとぎ話のようであった。町が雲に包まれたとき、そして城が雲に包まれたとき、それは素晴らしい景色であった。こう余裕ができるとKレーションの缶詰に飽き足りない兵士たちは、新鮮な食料探しに没頭した。海や川が近いので魚捕りが忙しくなった。軍規違反と知りながら携帯用の蚊帳を使ったり、あげくに戦利品として奪った手榴弾を使って浮き上がった魚を採った。しかしさすがにこれは身がバラバラになり、食べる訳にはいかなかった。炊事兵の中には日本料理の上手い者も多く、材料さえ手に入れれば、ご馳走にありつけた。 七月二十四日、第100大隊はリボルノでの約一週間の任務を終え、国道六七号線の警備についていた第442連隊に再び合流した。 七月二十七日、時のイギリス国王ジョージ六世や海軍長官ジェームス・フォレスタルが戦場視察に訪れて閲兵式が行われた。その際、クラーク中将は第100大隊を含む日系兵を出席させた。戦闘の真っ最中だと連隊長は抗議したが、クラーク中将は第100大隊でなければならないと頑として主張した。そのため、戦闘中のサカエ・タカハシ大尉の兵が強引に呼び戻されて参加したのである。 イギリス国王は非常に興味をそそられた様子で、オリエンタルの風貌をしたアメリカ兵に話しかけずにはいられなかったようだ。参謀総長だったマーシャル将軍はその伝記で日系兵の働きについて、こう述べている。 スパーブ(並はずれて優秀)という一言が彼らを言い表して余 りあろう。多数の死傷にめげず、まれな勇気と最高の闘志を見せ た。ヨーロッパ戦線の彼らについて言葉を尽くすことは不可能と いうものだ。皆、彼らを欲しがった。 八月に入っても第442連隊は短期間の休養を挟んで、相変わ らずアルノ川沿いのゴシック ラインでドイツ軍を激しく北に追 い上げていた。当初、実際に戦線に投入するかどうか軍司令部が 迷っていたあの日系二世部隊がである。その第442連隊を、い まやすべての司令官が欲しがる存在になっていた。そしてそれを 証明するようなことが起こった。大勢が決したイタリア戦線から 第442連隊をフランス戦線に回せ、というのである。この「虎 の子部隊をよこせ」という要請があったときに、クラーク司令官 はずいぶん渋ったという。 (ブリエアの解放者たち) 八月二十五日、連合軍はパリ入城を果たしたが、このことについて第442連隊には知らされていない。この八月最後の二週間、第442連隊の第2、第3大隊は、フィレンツェの南を警備していた。『汚い話であるが、排泄しようとして適当な場所を探しているうちに、足音に驚いてか黒山のハエが飛び立った、まさかと思いながらよく注意して見ると、案の定誰かの片腕が転がっていた。四、五間先には、敵砲の憎らしき程大きな弾痕が深く穿たれていた。糊のようにべとべとした血が気味悪くあたりの草を染めていたのが痛く目に沁みた。 黒山のハエに気付けば案の定片腕のあり草むらの中』 (ロバート・サトウ) 八月三十一日、第5軍は、ドイツ軍がアルノ川周辺から撤退をはじめていることを知り、第442連隊に攻勢をかけるよう命じた。 九月一日、第100大隊は腰まで水に浸かりながら無抵抗のアルノを渡河した。その夜のうちに第232工兵中隊は橋を架け、第522野砲大隊や戦車隊を渡した。夕刻になって「敵前渡河を敢行すべし」との命令を受けた。いずれもが猿股一枚になり、銃を高くかざし折柄の月光に不気味に光る鉄兜を気にしながら一列縦隊となって順々と渡河に移った。河の流れが意外に強く、押し流されそうになるのを一歩一歩踏みしめて行った。幸い敵は気が付かないのか、銃声一つ聞えぬのも待ち構えられているようで不気味であった。対岸に達するや直ちに塹壕を掘り、濡れた軍靴の不快さも忘れ、ぐしゃぐしゃになって睡眠を取った。 九月二日の朝、第100大隊は平野に出た。しかし機関銃による抵抗があった。それを突破した九月三日、ピサの北東五キロにあるサチノ川の堤防に沿った高速道路の北側に塹壕を掘った。 九月五日、第100大隊は交代のため、カスティリオンチェッロまで撤退した。サセッタ以来第100大隊は、三名の士官と兵士三十三名が戦死、十一名の士官と兵士一五八名が負傷していた。 『硝煙のゆるくさまよういくさ場に我に向かいて啼く蟲のあり』 (ロバート・サトウ) 九月十日、第442連隊は急遽ナポリに後退命令が出された。フランスへの転進が命ぜられたのである。最前線から離脱した第442連隊はトラックで移動、翌日の夜中、ナポリに到着した。すでにナポリはフランスに進撃する第7軍の部隊でごった返していた。ここで第442連隊は、キャンプ・シェルビーからの補充兵約七〇〇名を迎え入れた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.03
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ヒデオが陸軍病院に来た特派員にこう語ったという。「サレルノに上陸した時、我々がアメリカの強制収容所にいる日系人を助けることができれば本当に素晴らしいことだと滑稽なほど思い込んでいました。その後のほとんどを戦場で敵と戦ってきたのですが、戦争が終わった後に、もし故郷の日系人たちがそう思わなかったらどうしようかと心配です。このことは、衛生兵が僕にモルヒネを投与して意識が朦朧となっていたときに考えていたことです。 すると衛生兵は僕の耳元で、『君も他の友人たちも、アメリカ人として充分に認められるよ』とささやいてくれたので安心しました」 六月二十六日と二十七日に戦われたベルベデーレとサセッタ近郊においての激戦で立てた戦功に対し、第5軍司令部から大統領感謝状が伝達された。マーク クラーク大将は第100大隊旗に、殊勲部隊であることを示す青のリボンを飾りスピーチをした。「日本人を先祖とするすべてのアメリカ人は、自分自身に誇りを持つべきである。第34師団は君たちを誇りに思う! 第5軍は君たちを誇りに思う! そしてアメリカは君たちを誇りに思う!」 六月二十七日、第100大隊はサセッタ近郊において敵一七八人を殺害、七三人を捕虜にした。午後、A中隊が廃墟となったワインショップを見つけた。すべてのボトルをトラックに運び込んだ上に家宅捜索をし、米と豚と鶏が見つかった。戦利品が、部隊のキッチンに運ばれ、久しぶりに豪華な? 夕食を楽しめた。 某日、朝霧が晴れたとたんに見事なイタリアの快晴。依然として砲声を遙かに聞こえるが大したことはない。ロバートは第522野砲大隊のタダシと久しぶりに身体を洗おうと、他の四人と揃って氷のような冷たさをものともせず有名なアルノ河に飛び込んだ。天日の下、しかも敵前にて真っ裸になりごしごしと汚れた体を洗った。「有名なアルノ河にて洗体の栄に浴するなんて、きっと素晴らしい想い出になることだろうね」と言うとタダシが、「もし生還できたらね」と言ったので話が途切れてしまった。 水泳に興じている中を、何かがひどい勢いでロバートの背中にぶつかってきた。軍服で分かったのだが敵兵の死体であった。何しろひどい勢いで打たれたので腰の骨が折れたのではないかと思ったほどであった。驚いた。 突然タダシが、「オイ、僕は今大変なことをしてしまった」と言う。 「どうしたのか」と問うと「何も知らないからこの水をガブガブ飲んでしまった」と心配そうな顔をしている。「大丈夫だよ。どうせ明日をも知れぬ命だ。我々には恐ろしいことなんか有るものか」 そう言うとタダシは、「それもそうだな」と静かに同意した。 折柄巡邏に行く戦友たちが、何れも笑顔を見せて渡河して行った。 七月九日、トスカーナ地方のチチュナ川の北の140高地とロシニアーノ・マリッティモの町の攻防は、この時期イタリアでの最大の激戦となった。第2・第3大隊は、第522野砲大隊の砲火の援護を受けてドイツ軍を押しまくり140高地を制圧した。A中隊はスコペート近くで敵の部隊と撃ち合いになりジープ、偵察車一台づつとオートバイ二台を捕獲、七人を捕虜とした。二~三時間寝た後、第442連隊は同じ第34師団の第135連隊が苦戦するロシニアーニ攻略の援助に向かった。この頃、入院して傷の癒えたサブロウが、原隊に復帰してきた。「この地獄に戻ってくるなんて馬鹿だな。あのまま本土の病院にいれば、今頃はハワイの極楽だったのに」 ロバートが冗談めかして言うと、まじめな顔をしてサブロウが言った。「いや、本当はそう思わないではなかった。しかしベッドに寝ていても戦場のみんなが気になって、ゆっくりしている気分にはなれなかった。たしかにこの戦争で、自分一人の力など多寡が知れている。しかしこの僕でも、君やこの小隊に、なんらかの力添えが出来るのではないかと思うとじっとしていられなかった」「そうか冗談を言って済まなかった。ありがとう」 そう言うとロバートは、サブロウの手を強く握った。 七月十八日にドイツ軍の防衛拠点である港町リボルノまで達し包囲した第442連隊は、この町へ真っ先に入城する栄誉を与えられた。そのニュースはすべての兵士を感激させた。 七月十九日、第100大隊がリボルノ市内に入った最初の日、大きなビール醸造所を見つけた。住民たちが軍用缶詰食料やチョコレートとの交換を熱望したのでビール二〇〇リットルと交換した。その日の夕食はたらふく肉と白い飯を食った。そして最も素晴らしいニュースは、二士官と十七下士官が三十日の休暇でハワイに戻ることであった。彼らは嬉しいはずなのに、我々には済まなそうな顔をしているのが面白かった。 リボルノでの入城に際し、第442連隊を統轄する第5軍司令官のマーク・クラーク中将は、自らのジープのすぐ前に第100大隊を行進させてくれた。それはクラーク中将のそれまでの第100大隊の戦功に対する労りの配慮であり、一ヶ月半前、ローマ入城の栄誉を奪われ悔しい思いを飲み込んだ第100大隊の兵士たちに向けたせめてもの労りであったのかもしれない。 リボルノ周辺図 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.02
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六月六日の明け方、連合軍は北フランスのノルマンディー上陸作戦を敢行し欧州戦線は全く新たな展開をすることになる。しかし第100大隊の退役兵たちは、当時、誰もこのニュースを聞いたという記憶がないと言う。 六月七日、第100大隊はローマ北西の港町チヴイタヴイッキアを占領した。赤く染まった千切れ雲がゆっくりイタリアの上空を流れる午後のひととき、爆音勇ましく友軍機が三機、夕焼け雲を突き抜けて頭上を越して行くのを見た。戦地にいて友軍機を見るほど心強く感じるものはない。むしろ安心感さえ抱かしてくれる。兵士たちが異口同音に「頼むぞ!」と声を張り上げた。すると誰かが「飛行機まで聞こえないぞ!」と叫んだ。思わずみんなの顔がほころんだ。 折からの夕焼け雲を突き抜けて友軍機三つ北伊の空ゆく (ロバート・サトウ) チヴイタヴイッキア周辺図 六月七日、アンツィオに上陸した第442連隊は、陸路トラックに分乗し、ローマを経由して第100大隊が占領したばかりのチヴイタヴイッキアに向かった。その約一三〇キロを全部隊が移動し終えたのは、六月十一日の午後であった。この第442連隊が第100大隊にキャンプ・シェルビー以来の再会を果したその前日の六月十日付けの軍指令により、第100大隊は第442連隊から欠落している第1大隊の代わりに第442連隊に編入され、正式に、そして日系兵士のみによる連隊編成となった。本来ならば、ここで編入された第100大隊は第442連隊の第1大隊という名称になるはずであったが、サレルノ上陸以来、常に第34師団の尖兵として激しい戦闘の先陣切って転戦して来た第100大隊の栄誉を称え、またその労に報いるために、 特別にそのまま第100大隊を名乗ることが許されたのである。第442歩兵連隊における歩兵大隊の構成は、第100歩兵大隊、第2歩兵大隊、第3歩兵大隊とされたのである。 六月二十日、第442連隊として最初の訓練が行われた。消耗し切っていた第100大隊ではあったが、これは誇らしく嬉しいこともあった。また今までは『里親』連隊であった第34師団第133連隊の黒いメキシコ瓶に赤い雄牛をあしらった『Red Bull』の師団章を左袖上部に付けていたのであるが、新たに縦長六角形の中に自由の女神のトーチを持つ右手をあしらった第442連隊のエンブレム(連隊のモットーである GO FOR BROKE 当たって砕けろ!)を右袖上部に付けることになったことである。しかし師団は第34師団のままとされた。今やアメリカ軍の従軍記者たちも右袖に GO FOR BROKE のエンブレムを付けた小柄な日系人の連隊の動向に注目していた。彼らが行くところ必ずや戦局が動いたからである。 第442連隊のエンブレム。第100大隊資料館提供 ロバートは第522野砲大隊のタダシに、リチャード・ホンダの戦死の状況を知っていたリチャード・ナカムラの話を伝えた。「あの時ナカムラは崖の下に小さな塹壕を掘っていたそうだ。傍らのホンダはかなり疲れていたようで、小さくしか掘れなかった。そこでナカムラはホンダに、『僕が塹壕を掘ってあげるからそれまで僕の塹壕に入って休むように』と言ったという。 ところが午後の三時か四時の間、敵の砲弾が彼らの背後で爆発し、崖を崩した。二人は瓦礫と石と泥の塊に覆われてしまった。それでもナカムラが埋まったのは首までであったが、ホンダは完全に埋まっていた。ナカムラはホンダの足の動くのを感じてはいたが、ようやく身体が塹壕から抜け出た時には、動かなくなっていたそうだ」「・・・それで、君はホンダの遺骸を見たのか?」「悔しいが確認していない。戦闘が終わってナカムラと戻ってみたが、敵の激しい砲撃で地形も変わり、結局は見つけられなかった」「そうか・・・」 そう言うとタダシは、黙って十字を切った。「結局、同郷の三人が戦場から姿を消した・・・。アーネストも太平洋で苦労しているのだろうな」 二人の目は、涙で潤んでいた。 六月二十二日、第442連隊は、チヴイタヴイッキアから海岸沿いに更に一〇〇キロ北方に移動し、グロッセート近郊グラバザーノで 第36師団の第517落下傘歩兵連隊、同第142歩兵連隊と交代し、連隊として初めて実戦配置に就いた。 この日、第442連隊は海岸沿いに北上を続けたが、ベルベデーレ町で敵の猛烈な砲火に釘付けになった。第442連隊としては初戦になるこの第一戦に、第100大隊を後方待機予備兵力とし、第2・第3大隊が最前線に投入された。ところがこの両大隊が二手に分かれて進出するなり敵の罠にはまり、88ミリ砲と戦車砲の激しい集中砲撃に遭って、多数の死傷者を出し、釘付けとなってしまった。初めて実弾の飛び交う最前線で、昨日まで陽気に軽口を叩き合っていたブッダヘッドたちも、寡黙の中にも闘志を漲らせていたコトンクたちも、あっけなく隣で死んで行く戦友を目の当たりし、うなりを上げて飛翔する敵弾の下で現実の『死』に直面して凍りついていた。「畜生、こんな筈ではなかった! こんな筈では…… 」 このとき第100大隊は東に大きく迂回して町の北の高地に出、敵の背後から奇襲攻撃をかけ、わずか三時間で第2・第3大隊を救うとともに敵を蹴散らした。敵の死者八〇余名、捕虜六十五名に対し、第100大隊はわずか四名の戦死者と七名の負傷者を出したにとどまった。第100大隊はアメリカ軍として最高の栄誉である大統領殊勲感状を三度も得ているが、その最初がこの戦いであった。少なくとも数日かかると思われていたベルベデーレの町を落としたのは、二日後の六月二十四日、午後三時十五分であった。一方のドイツ軍はローマ陥落後、戦線を北方へ大きく下げてピサからフィレンツェに至るアルノ川に沿って防衛線を敷き。連合軍の進撃を阻止しようとしていた。ドイツ軍は頑強に抵抗を続けていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.09.01
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五月二十六日、ボルゴ・モンテッロの斥候に出たキム中尉と三人の兵士は、監視哨脇の窪地で熟睡していたドイツ兵と、ドイツ軍の捕虜となっていたソ連兵を保護し、無事に味方陣地まで辿りついた。ソ連兵はドイツ軍の捕虜となっていたもので、少々のドイツ語とイタリア語を話せた。彼の説明によると、戦死したドイツ兵の軍服を与えられ、靴は確実に大きすぎ、食料はイタリア軍から横領したものを与えられていたという。彼の希望は、アメリカへ逃げることであった。彼は戦闘の圏外に抜け出たことに、明らかに安心しているように見えた。 五月二十八日の午後、第100大隊に、「ドイツ軍側に傷害を負った八人のアメリカ兵が捕虜となったが釈放されるので受け取りに行け」との命令が入った。そこで軍医のジョン・ ダールと従軍牧師のイスラエル・ヨーストは二台の救急車とトラックに二個小隊を連れ、ムッソリーニ運河から一〇〇メートルほど中のドイツ軍陣地に入った。ドイツ兵は彼らの武装を解除して車から降ろすと運河の中の排水溝の中を付いてくるよう命じた。 運河の巾は五〇メートルほどであったが、四メートルくらいの狭い排水溝を案内されて行った。そこで彼らは、すでに亡くなっていたA中隊の中尉と数人の下士官、それに武装解除されたアメリカ兵たちとそれを見張っている二人の若いドイツ兵を見た。その南側の堤防の上では、別のドイツ兵が看視していた。 八人と伝えられたが実際には十二人もの戦死したアメリカ兵の遺体は、土の上に置かれたままになっていた。 ドイツ側は、自分たちがアメリカ兵を埋葬するからと言って、その間の停戦を要請した。ヨースト牧師は「大隊にはそのような合意をするという権限がない」と繰り返し主張し、礼儀正しく交渉し、遺体を丁重に引き取って引き返した。 ロバートは、そこでムッソリーニが作ったという運河を見た。ムッソリーニは、確かに許し難い人物である。しかしこのようなものを作ってイタリア国のためになったという一面もある。人間の二面性、そして矛盾。 水哀し運河のほとり一人立ちムッソリーニの偉業を遠く偲べり (ロバート・サトウ) 六月二日、第100大隊は、ヴィッラ・クロチェッタ、サン・ジェンナーロ、さらにはマラーノ平野を占領した。そしてこの日、第442連隊がナポリ港に到着した。かつて世界一の美港と謳われたナポリ港内は沈没しかけた艦船が散在し、港から見える街並みは砲爆撃で醜く破壊されていた。第442連隊は輸送船に積み込まれた戦闘装備を開梱し、直ちに完全戦闘装備となってナポリとその近郊のバリに上陸し、ナポリのそばのベグノリに集結した。 六月三日、第100大隊は、ラヌーヴォを陥(お)とした。 六月五日、第100大隊の兵士たちは、『ローマへ十キロ』の道路標識を確認した。多くの連合軍将兵が『我こそは一番乗り』と望んだローマである。その一番乗りを、いま第100大隊が果たそうとしていた。しかしストップがかかったのは、このときであった。後に続いていた野戦砲兵隊やトラック一杯の兵、そしてジープがどんどん追い越していった。道路脇に留め置かれた第100大隊の兵士たちは呆然としていた。今にして諦めきれない憤懣を口にする兵士は少なくない。ここにも人種差別的な意思が働いていたとするのは勘ぐり過ぎであろうか。 サレルノに上陸して以来、ナポリ、カッシーノ、アンツィオと常に激戦地の尖兵を務めて多大な犠牲を払って戦いつづけた第100大隊の兵士たちは肩を落とし、路肩に待機し、彼等を追い越してローマへの花道を進軍する第1機甲師団の装甲車両と大勢の報道陣を、やりきれない思いで見つめていた。 このようなとき「オーイ、グッドニュース! 知りたい者は全部集まれ!」とオリーブ畑の真ん中に仁王立ちのトーマスが大声で叫んだ。誰かが「お前の言うことは当たったためしがないからね」と言うと「俺の言葉を信じない者は聞かなくってもよろしい、向こうに行っておれ」と凄い剣幕である。「我々の最後の目的地イタリアの都ローマが陥落したから100大隊の生き残りは全部揃って凱旋できるんだぞ・・・。こんないいニュースが何処にある」 彼の声は熱気を帯びている。 彼は一人息子で、常々もう一度お母さんに会いたいと話していたが、その念願が叶えられるかのようなこのニュースが、誰より早く入ったものらしい。この大いなるニュースに我々の陣営は湧いた。言葉を交わす兵士達の顔は、何れも嬉しさで一杯だった。しかし果たせなかったローマへの一番乗り夢が影を落としていた。 何日か後に行われた連合軍によるローマ市の大通りをビクトリー大行進は、他の部隊が先頭になり、我々はずっと後に続いた。無蓋の軍用トラックに分乗し、キャンデーや煙草を沢山用意してローマ市中央の大通りを徐行、両側には優に何十万を超すであろう大観衆が盛んに手真似でキャンデーや煙草を投じてくれるのを期待していた。よく注意してみると、我々二世兵士たちは、美人の居るところをめがけて盛んに投じているが、老人や子供たちの方は見向きもしないでいる。どこの世界に行っても美人ほど得な者はないと思った。ロバートは、なるべく年長者のいる所を狙って投げたが、動作が鈍いのか、若者や子供達に拾われてしまって実に気の毒であった。後ほど聞くところによると、第100大隊におくられた声援や拍手は、他の部隊に比し遙かに大であったとか、少なからず誇りを感じた。 凱旋の夢を抱きつ昨日迄頑張りきしおり友等帰らず (ロバート・サトウ) ローマ周辺図 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.31
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ほとんど毎日のように多くの兵士たちが姿を消して行った。イ タリアの空気は相変わらず冷たい、四,五人で輪になり半ば凍り 付いたポーク・アンド・ビーンズを缶よりほじくり出して食べる。 前線で我々は常に敵の監視下にあるので、暖めて食べるというこ とはほとんど不可能であった。戦地では食事の時間なども決まっ ておらず、空腹を覚えたときに与えられた食物を勝手に食べるの が普通である。ポーク アンド ビーンズは、常食となっておった が将校も同じものを食するというので誰も文句を言う者がいない。 空腹を覚えたときには何を食べても美味しいという偉大なる教訓 を、戦争は我々に与えて下された。 お互いに食事をしながら、「今度は誰の番かな、ひょっとした ら自分の番かも知れない」などと毎日死を考えていた。どうせ助 からない命なら、ダンビラ(刀)を思う存分振り回して、敵陣に 突っ込んで果てたい、そんな気もしていた。 刀もて切り込んで見たき心地もすれ望み絶えにし我なりし 短歌も、ロバート サトウ 二月の中旬、第100大隊が再び撤退命令を受け、後方へ退いた折、ロバートは久しぶりに母と妹に手紙を書いた。『お母さん、いかがですか。お変わりありませんか? 僕は達者で日々暮らしていますから、ご安心下さい。お母さん、この手紙が読めますか? 僕は長い間日本語を使わないので、頭をしぼりながら書いています。お母さん、あなたの息子が国のために尽くしていることを、そして大切な宝と思っている正義を守っていることを、名誉と思って下さい。僕は最善を尽くしていますから、国の名声もサトウの家名を汚すことはありません。僕はこのことを常に考えて行動しています。どうぞ僕のことは心配しないで下さい。 多分ハワイの新聞に出たとは思いますが、実は親友のリチャードが戦死しました。僕はとても残念に思っていますが、立派な名誉ある戦死でした。リチャードのご家族も、彼の死を名誉に思ってください。彼はアメリカのために亡くなったのです。どうぞこのことを、お母さんからも知らせてあげて下さい。 お母さんの言った通り、死ぬことは誰でもできます。本当の手柄は国のために尽くし、その上生きて帰ることです。必ず犬死にはしません。何事にも気をつけますから、どうぞ安心して下さい。 あなたのロバートより』 第100大隊撤収後も、この高地における戦闘は凄惨を極めていた。第二次総攻撃を控えた連合軍はモンテ・カッシーノ山頂にあるベネディクト派修道院がドイツ軍の要塞兼砲撃観測哨に違いないと主張し、この歴史的遺産に対して、アメリカ軍による空爆を要請した。第100大隊がモンテ・カリバリオからの撤収を終えた二月十五日に空爆は行われた。二二九機のB17が飛来し、修道院とその周辺に五〇〇トンもの爆弾を投下したのである。第二次大戦中単一目標に対する最大の爆撃であった、 三月十五日、モンテ・カッシーノ修道院は再び猛爆撃にさらされ、この歴史的建造物もまた徹底的に破壊された。空爆に続いて連合軍の砲兵部隊からカッシーノ市街に向けて八時間にもわたる凄まじい砲撃が行われた。 新聞記者が打電した。 『カッシーノは死んだ。 我が国とファナティック(狂信的)に戦っている敵国からの移 民の子孫、といってもまだ二代目だが、これら筋骨たくましいオ リエンタル・ソルジャーは、同じようなファナティックさで今や わが国のために戦っている』 (ブリエアの解放者たち) 爆撃で破壊され尽くされたモンテ・カッシーノ修道院。remembrances 三月二十四日、カッシーノ戦で激しく消耗した第100大隊がナポリに後退した。その二日後、戦車揚陸艦や小型の上陸用舟艇に分乗してナポリを出港、海路で第二戦線の拠点であるアンツィオ橋頭堡に再上陸した。第100大隊は戦闘開始以前約一三〇〇名であったが、カッシーノ戦がはじまって三週間後には、たった五〇〇名足らずに減っていた。A中隊も、一七〇名余ではじまり、残ったのはたったの二十三名であった。この戦いで今やモルモット大隊と自嘲していた彼らは、パープル ハート バタリアン(Purple Heart Battalion・紫魂部隊)として讃えられるようになっていた。カッシーノは結局、二度の空爆と四回の総攻撃により、四ヶ月後にようやく攻略されたのである。 このモンテ・カッシーノとカッシーノ市街に撃ち込まれた砲弾は二十万発にも及ぶという凄ましいものであった。このときローマ法王は、この修道院に対しての砲爆撃中止要請を出したが、約千年の歴史を持つ貴重な文化遺産であるベネディクト派修道院は、跡形もなく破壊されてしまったのである。なお、これまでの戦闘でドイツ軍は七万九千名の死傷者を出し、連合軍は十万五千名の死傷者を出したという。因みに今モンテ・カッシーノに現存する修道院は戦後に復元されたものである。 第100大隊が転進したアンツィオでは、ドイツ軍の戦力、布陣が判らなかったため攻勢を掛けることが出来ず、戦力の空白地帯を挟んで両軍が対峙する膠着状態が続いていた。そのアンツィオへ、第100大隊への補充部隊の第二陣が、キャンプ・シェルビーから到着した。十八名の士官と二六一名の下士官を含む一〇九五名であった。第100大隊がそっくり入れ替わるほどの新兵たちを見てロバートは、こんなに沢山の戦死傷者を出していたのかと思い暗澹としていた。戦争はまだ続いているのである。 一九四四年四月二十二日、第442連隊は、後に続くための日系人兵士の教官部隊とされた第1大隊を除いた第2、第3大隊、第522砲兵大隊や他の大隊などとともに、キャンプ・シェルビーを出発した。開戦時にすでに兵役に就いていた兄貴分にあたる第100大隊の兵士たちとは異なり、全員が開戦後の志願兵である第442連隊の兵士たちの士気も高かった。 バージニア州ニューポートニュースから乗船し、ワシントン近くのハンプトンローズに向かった第442連隊は、五月一日、ハンプトンローズからその名もリバティ号という輸送船に乗り込んだ。船団の二十八日間に及ぶ大西洋横断の航海は、駆逐艦に護衛されていたとは言え、嵐にも見舞われ、決して楽な旅ではなかった。 五月二十四日、第100大隊の補充部隊第三陣がシェルビーから到着した。これは第442連隊とは別で、三名の士官と一一二名の兵士であった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.30
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一月二十五日夜、第100大隊は先発の第36師団に続いてカッシーノに向けて渡河するためラピド河畔に布陣、攻撃の右翼を担当した。しかしこの第36師団の二個連隊がラピド川の手前の土手に辿りつくことも果たせぬまま、ドイツ軍の猛攻を受けてほぼ全滅に近いという壊滅状態に陥った。その後を追った第100大隊はラピド川の手前の土手に向けて進撃したが、高地からのドイツ軍長距離砲撃と対岸トーチカからの機関銃の猛射を受け、さらにはラピド川の上流のダムが爆破されて周辺一面が泥に埋まり、また手前の平地に埋設された地雷のため、あっという間に第36師団同様にひどい状態に陥った。 一月二十六日、第100大隊は多数の死傷者を出しながら前進し、ようやくラピド川西堤防に取りついた。ところが間もなく連隊司令部から、折角ラピド川の土手に張りついていた我々に撤退命令が下されたのである。そのため再びドイツ軍の銃砲弾飛び交う中を、もと来た泥道を引き返す羽目になってしまったのである。 この戦いで第100大隊の横に布陣したブラジル軍団の中にも、 東洋人の顔があった。お互いに声をかけようとしたが英語とポル トガル語では話が通じない。そこで日本語で声をかけてみた。 「パパは広島かい」 この親たちの使う日本語を、思いがけない場所で互いに懸命に 使っていた。なにやら無性に懐かしく、握手しながら話し合わず にはいられなかった。 「グッドラック」 それが別れの言葉であった。 (ブリエアの解放者たち) 二月九日、ドナルド ハヤシ伍長は、次のような手紙を故郷に 出して間もなく戦死した。 『僕はハヤシ家を代表してお国のために戦えることを心から名 誉に思っています。母さん、お体に気をつけて下さい。 父さんや皆んなの健康を祈ります。近所の人たちによろしく』 (ブリエアの解放者たち) 第100大隊が戦闘に復帰したと同じころ、ドイツ軍はカッシーノ死守の切り札として後方待機中であった第1降下猟兵連隊を基幹とする新たな部隊を編成、カッシーノ地区主力部隊である第29装甲擲弾兵師団麾下に置いた。そしてこの精鋭戦闘群は第100大隊が戦場に復帰する前日にモンテ カリバリオ高地に布陣を済ませていたのである。 不運にも準備の整っている敵の最精鋭部隊と対峙することになってしまった第100大隊は、遮蔽物の少ない岩だらけの高地で不利な戦いを強いられ、多くの死傷者を出しながら四日間持ち場を譲らず奮戦したが二月の中旬、再び撤退命令により後方へ退いた。 二月十日、リチャード ホンダがカッシーノ近くで戦死した。ロバート サトウは戦闘後にそれを知った。その場に直面したリチャード ナカムラの手記が残されている。『われわれは小さな崖の下に小さな塹壕を掘った。それはわれわれの身を守るものであるが、完全なものではない。ホンダと私は銃撃にさらされていたので、小さくしか掘れなかった。しかし彼は速く疲れたようでした。そこで私は彼に「もう一つの塹壕を掘り終えるまで、私の塹壕に横たわって休むように」と言いました。 午後の三時か四時の間でした。敵の砲弾がわれわれの背後の小さな崖に着弾して爆発し、崖を崩しました。ホンダと私は、瓦礫と石と泥の塊に覆われました。それでも私が埋まったのは首まででしたが、ホンダは完全に埋まっていた。私は彼の足の動くのを感じたが、すぐに動かなくなった。 リチャードは、微笑みを絶やさない優しい心根のいい奴だった。 リチャード ホンダ。君のとてつもなく大きな業績は、われわれすべての高い賞賛と深い愛情とともに、長く記憶されることになるであろう』 戦後になって、イタリア語で書かれた手紙が、リチャード ホ ンダの妻に届けられた。いまそれを英語に翻訳してみよう。 『優しいご夫人。八日以前、山を登っての戦いで塹壕が見つけ られました。その土砂を取り除いた塹壕の中に、あなたの夫のご 遺体がありました。認識番号・#30,100,958,T-43 リチャード ホ ンダでした。 決まり言葉ですが、私はローマでアメリカのコマンドに知らせ ました、そして彼らはすぐにご遺体をアメリカの墓地に持って行 きました。 私はイタリアからあなたに弔辞を送っています。 ポターニ アントニッチオ』 (リチャード ナカムラ) さらにその後の二〇〇六年八月十五日、福島民報紙上の『語り継ぐ平和』に、私がハワイで取材したときの『日系人部隊』が掲載された。 福島民報「語り継ぐ平和」そして何日か後に、福島市の佐藤ムツ子さんという方から電話が入った。「私の叔父が第100大隊に参加していてイタリアで戦死しました。あなたの本を譲って頂きたいのですが・・・」 私は現在執筆中であることを話しながら様子をお聞きしたところ、「知らされた当時(一九五〇年頃か?)、私は小学校低学年でよく憶えていないのですが、イタリアの農夫が農作業中に遺体を見つけ、残されていた認識票で叔父だと分かったそうです。そのことをハワイに住んでいた叔父の父・清三郎が知らせてくれました。叔父の名は佐藤実です」 私はその話をホノルルの第100大隊資料館に問い合わせをしたが要領を得なかった。メールの遣り取りをしている間に、佐藤ムツ子さんからパンチボウルに埋葬されたときの古い写真のコピーが届き、裏をみると本田実と書いてあった。「アッ、ご自分の姓と間違えられたか」と思った瞬間、私はロバート・サトウ氏の話していたリチャード ホンダの名を思い出した。佐藤ムツ子さんに確認したところ、「英語名は、まさしくリチャードでした」ということであった。 その後、第100大隊資料館から送られてきた資料とロバート・サトウ氏からの手紙を和訳し、福島市のお宅まで届けに行ってきた。福島には、彼の墓が作られていた。戒名は『勇秀院義豊良稔居士』であった。戦後、パンチボウル国立墓地で行われたリチャード・ホンダの葬儀。献花する川田晴久と美空ひばり。佐藤ムツ子蔵 二〇〇七年三月、取材のため再び渡布した際、ロバート・サトウ氏に古い写真を見てもらった。彼が言った。「そうですか。リチャード ホンダはイタリアに埋葬されたとばかり思っていました。それで、彼の遺骨は福島に運ばれたのですか?」「いえ、そうではないようです。恐らく遺品を祀ったか、お墓だけを作ったのかしたのだと思います。このようなとき日本の習慣として、魂が戻ってくるという考え方があるのです。太平洋戦争で多くの人が死にましたが、遺骨の回収もされないまま、このように祀られた方が大勢います」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.29
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露営のとき、リチャードはうっかり八〇オクタンのガソリンを飲んでしまった。急いで救急センターへ行った。軍医の指示により、大量の塩と水を飲まされた。そして喉深くに自分の指を差し込んでいま飲んだ水と一緒にガソリンを吐き出した。そのガソリンは、各班に支給されていたホータブルコンロに、サイフォンの原理で給油しようとして吸い込みすぎ、あやまって飲んでしまったものであった。 十二月二十五日、雪の中のクリスマスは、雪だるまを作ったり写真を撮りあったりしたキャンプ マッコイでのクリスマスのことを思い出した。それにしても戦場が長く感じられたが、あれからたかだか一年と過ぎていなかった。彼らは近くの丘から常緑樹を切り出し、クリスマスツリーとしてキャンプの広場に据え付けた。そこには非常食の空き缶や灌木の間から採ってきた野いちごなどを飾り付けた。ヨスト従軍牧師が祈りを捧げたその夜、クリスマスキャロルを歌った。「主よ、我らを救い給え」 妙にしんみりとした夜が更けていった。 アメリカ第5軍(正確にはイギリス軍、オーストラリア軍、フランス軍、亡命ポーランド軍の10個師団を抱えた大連合軍であった)は、降り続く氷雨と泥濘に悪戦苦闘しながら、一九四三年の年末にはなんとかラピド川の南岸に辿りついていた。しかしそこには瞬く間に何十発もの砲弾が落下していた。 ロバートの塹壕にも多くの石ころや木片が飛び込んできた。折り柄、排泄中のNはどう始末を付けたのかパンツを片方はいたまま掘りかけの浅い塹壕の中にダイブした。その動作が余りにもおかしかったので、笑いかけたが、叱られる恐れがあるので我慢した。 夕闇が迫るとあちこちの塹壕の中から兵士たちが飛び出し一番先にやるのが排泄である。そこら一面にある弾痕を利用し、四、五人でぐるりと取り巻き成る可く早く事を済まそうとして懸命の努力を払う。水戸黄門ならぬ肛門がずらりと並ぶ態は、確かに一大壮観を呈したに違いない。不思議なことに、この時間に限って敵の砲弾がやって来る。まるで、我々をからかっているかのようだ。この蟄居のような生活に入って以来、一度も満足に用を足したことがない。ああ、ゆっくりトイレを使ってみたいものだ。 一九四四年一月八日、第100大隊と第3大隊は、1190高地へ向かって出発した。マッジョ山を越せば、カッシーノは近かった。しかし彼らがカッシーノに到達するまでに、いくつかの山地を通ったが、その道程においてもドイツ軍の反撃を制圧しながらの強行軍であった。この間の戦闘で、マサハル・タケバ軍曹が頭部への一発の狙撃弾により、戦死した。英語が読めない移民一世である母親にいつも日本語の手紙を欠かさなかった優しい二十五歳の青年であった。 第100歩兵大隊は、ここの作戦までで戦死一一八名(将校七名、下士官・兵一一一名)、戦病死者二一名(下士官・兵のみ)、行方不明者三名(下士官・兵のみ)、戦傷入院者四一〇名(将校二〇名、下士官・兵三九〇名)を数えることとなった。これはサレルノへ上陸したとき約一五〇〇名の陣容であった第100大隊は、当初の六個中隊が四個中隊規模にまで戦闘員が減ってしまったことを意味する。 カッシーノ周辺図 一月十七日、連合軍がカッシーノでの戦闘を開始した。アメリカ第5軍麾下のイギリス第10軍団 (オーストラリア・ニュージーランド師団、亡命ポーランド軍含むインド師団)が左翼の高地を攻め上がり、同じく 第5軍麾下フランス外征軍(モロッコ及びアルジェリアの植民地軍混成山岳師団)が右翼の高地に向けを進攻開始し、ラピド川とカッシーノ市街を防衛するドイツ軍部隊の注意を引き付けておいた上で、アメリカ第5軍主力部隊が正面からラピド川渡河しての総攻撃を準備した。第100大隊もまた攻撃位置に移動した。このように両翼のイギリス軍とフランス軍は善戦したにも拘わらず、正面攻撃のアメリカ第5軍第36師団と第34師団もドイツ軍の地の利を最大限に活かした頑強な迎撃により、無残な敗退することになる。静まりかえった対岸の町は、戦禍による火事の火が、炎々と夜空を焦がしていた。その後、この第36師団第133連隊第1大隊(通称テキサス大隊)はフランスの山中で第100大隊と劇的な邂逅を果たすことになるという運命をこの時はまだ、誰も知らない。 カッシーノはイタリア半島南部から西海岸寄りにローマに北上する幹線道路の要衝で、周囲を高地に囲まれた峡谷の町であった。町の東方の高地はモンテ・カッシーノと呼ばれ、頂上に西暦五九二年建立による高名な聖跡ベネディクト派修道院があった。 連合軍がローマに進出するためには、急流ラピド川を渡河し、モンテ・カッシーノ修道院を中心に築かれたドイツの強力な防衛線を突破しなければならなかった。そのため苦戦は目に見えていたが、連合軍にとって一日も早くローマを奪取することはイタリアでの戦争を象徴的且つ実質的に勝利に導く上での至上命題であった。ところで一方のドイツ軍にとってこのモンテ・カッシーノを突破されるということは、ここイタリアのみならず、バルカン半島から南フランスをも失うことにつながるので、連合軍以上に切羽詰った状況に追い詰められていた。ここでの戦闘はイタリア戦線における最大の激戦地となった。 山上のモンテ カッシーノ修道院で迎撃態勢に入ったドイツ軍から連合軍は丸見えで、寒い雪の中を二十三日も露営することになってしまった。ヒデオが負傷して後送されてきた。それを見つけて走り寄るロバートにヒデオが逆に元気を付けるかのように言った。「僕が『少し後退せよ』との命令で動こうとした時、青白い煙の尾を引いて手榴弾が塹壕へ投げ込まれた。僕はそれをすぐに拾うと投げ返した。すると背後から、「上手い!」と声が掛かった。とまた手榴弾が投げ返されてきた。さっき声を掛けた兵は血にまみれて動かない。そちらへ行こうと這い出した時、鋭い痛みを足に感じたんだ。あいつは大丈夫だったのだろうか?」「分かった、心配するな。もう話をしなくてもいい。それでも傷が浅くてよかった。大事にしろよ」 サブロウ・ニシメに次いで二人目の親友の負傷である。ショックは大きかった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.28
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十一月三日、第133連隊が、ヴォルトゥルノ川沿いでドイツ軍への攻撃を開始し、その夜のうちに、ヴォルトゥルノ川とサーヴァ川の接点に到達した。第100大隊は他の大隊の攻撃開始時刻に合わせて、深夜に冷たい水に腰まで浸かりながら渡河を開始するや否や後方から川面に烈しい砲弾が降り注ぎ、兵士たちを愕かせた。なんとこれは、味方の支援砲火の誤射であった。この味方の砲弾をかいくぐって対岸に上陸しオリーブの林の地帯を進撃すると、今度は暗闇の中で兵士が地雷を踏み、一度に大勢の兵士が死傷することが続発した。 さっと過ぐ流星もあり午前二時なほも続くる歩哨の任務 (ロバート・サトウ) 十一月四日、ヴォルトゥルノ川を渡った第133連隊は、その北にあったポッツィッリを一斉に攻撃して占領、その東にある550,590,600,610などの高地を包囲した。このとき第133連隊は、戦死者八名、負傷者四十二名の損害を受けた。それでも第100大隊は、補充の望みの無いまま、第34師団の尖兵大隊としてヴォルトゥルノ川周辺で戦っていた。 十一月五日、異様な夜であった。風が強く吹き続け、低くたれた雲が走るように流れて月が出たかと思うとすぐ雲に隠れたりしていた。第34師団は590高地を確保した。ロバートがこの戦いで敵と遭遇したのは、この600高地であった。イタリアには、高地と名のつく所が随所に見られたが、中でも600高地は希に見る大激戦地であった。逃げる敵を追ってそこまで兵を進めたが、敵はそれを予期してか強力な砲陣を山の中腹に築き上げていた。首脳部はそれを探知することができなかったのであろうか。敵の砲撃は、実に悲惨を極めた。 あちこちから千切れるような声で看護兵を呼ぶのが切なく聞こえた。砲撃が終わったので少しでも励まして上げようと負傷者のもとに走ると、なんとそれはサブロウであった。負傷者にとって寒気は絶対に禁物なので、半ば震えているサブロウに自分の毛布を掛けて上げた。彼は話す気力を失ったのか、声をかけたが何も語ろうとしなかった。ロバートも黙ってサブロウの側に腰を下ろした。600高地の戦いの間中、凍り付くような寒さであった。周辺の高い丘には、雪が積もっていた。ふと見上げると、おぼろ月がさみしく輝いていた。また今日も何人かの戦友が姿を消して行ったことだろうと思った。サブロウの容体がしきりに気になる寒い夜だった。 きず重き友励ましつふと見れば月おぼろなり六百高地に (ロバート・サトウ) ドイツ軍は夜が明けはじめると同時に590高地と610高地から撃って出てきた。我々も反撃に出たが敵は煙幕をはったため、視界が二五メートルほどに下がってしまった。そのため敵がどこから出てくるか分からず、緊張を強いられた。この600高地争奪の戦闘でB中隊第2小隊長キム少尉のおびきだしにのせられた七〇名以上のドイツ兵が、600高地の南、約五〇〇メートルの小さな丘を越えて攻めてきた。煙幕が晴れ、待ち構えていた我々の銃撃に、敵兵はバタバタと倒れた。間を置かず第100大隊は反撃に転じた。第34師団は、600,920,1017高地をはじめとして、カッシーノに近いモロネ、パストノ、ロンゴ山などを占領した。 十一月二十九日、第100大隊はアリーフェの近くで休暇に入った。そこで冬の制服、防寒靴、特別の毛布が配布され、熱いシャワーと暖かい食事が準備された。その上、映画やショーが毎晩のように提供された。 人のいいフランクが、「国にいる誰が宣戦布告をする力を持っているのかな」と言い出した。「もちろん大統領さ」 ヒデオがすぐに返事をした。 ロバートが言った。「そうじゃない。我々市民に選ばれた五三五人の国会議員が、それを決めるのさ。それだけだよ」「俺には分からん。俺は一人息子だ。それもあって俺はいつも母に愛されてきた。兵役で島を離れるとき母は俺にこう言った。『私はお前といつも食事を楽しんでいるという願いを持って、毎朝お前の写真の前に炊きたての御飯と梅干し、それに熱いお茶を供えるよ。愛する息子よ、私はお前が戦場で飢えることのないように祈っている』」 普通、陰膳は日が昇る前に供えるものである。以前にもフランクはロバートに二度ほど手紙を見せてくれた。そしてその都度『このことは人に言うな』と言って唇に人差し指を当てて見せた。しかし今度は自分からみんなに言い出したことであるから安心して言った。「どうして君のお母さんは、そんな素晴らしいことを知っているんだ? お母さんを誇りに思うべきだ」 フランクは言った。「母がやることに俺は誰にも批判をされたくない。母は常々俺のことを心配してくれている。例えば母は塹壕を知らない。それなのに俺が敵の弾に当たらないように『より深く掘るように』と言うのさ」「君のお母さんは、本当に素晴らしいお母さんだ。戦場にある君の息子ためにハワイで出来る最高のことをしている」 フランクは言った。「俺はお母さんがみんなの前では言わないが、いつか俺が生きて家に戻れることを願っているのをよく知っている。母はよく言っていた。『私たちはいつも元気、だから家については何も心配はいらないよ。身体に気を付けて国のためにベストを尽くして戦いなさい』」 陰膳の思い届ける戦場(いくさば)に武運長久祈る母親 (ロバート・サトウ) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.27
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九月二十九日、モンテマラーノから雨の中を北上し、チウザーノ・ディ・サンドメニコ付近に到達したころ、第3小隊の手前を進んでいた斥候のサカエ・タニガワ軍曹がライフル銃を頭上に水平に掲げた。「敵発見!」の合図である。先頭を進んでいた第100大隊B中隊は、いきなり銃撃と砲撃を受けた。 そのときB中隊の尖兵を務めていた第3小隊のジョー・タカタ軍曹は、「最初だから僕が行こう」と言った。彼は敵の機関銃巣の一つに気づくと自分の身の危険を全く顧みることなくそちらの方向へと自動小銃を撃ちまくりながら近づき、敵の側面へと我々を導いていった。彼は敵の機関銃手の位置を確かめようとして故意に身をさらし、頭をやられた。そのとき彼は「Donユt worry about me, Keep on going・・・(僕に構わず進んでくれ)」と言ったが激しい敵の弾丸に誰もが動けず、三度目には「Keep・・・on・・・going 」とほとんど言葉にならなかった。撃たれてから数分の命であった。 伏せながら見ていたロバートは、そのときはじめて戦争というのは本当に人が死ぬんだと思い、友だちが死に立ち会うという辛い複雑な気持ちを味わされた。ジョー・タカタが、第100大隊で最初の戦死者となった。妻のフローレンスとの新婚生活が、二ヶ月に満たないうちの出征であった。 九月三十日、第100大隊はプラトーラで幹線道路を封鎖した。この雨の夕方、モンテミレットに入った。彼らは初めの一週間で、死者三名、負傷者三十六名を出している。 このころキャンプ マッコイ近くのスパルタの町が洪水に襲われ、大被害を受けたことを知らされた。第100大隊の兵士たちは早速隊内で寄付を募り、市長宛に義捐金を贈った。スパルタの町にはよくしてもらったという思いがあったからであった。後に市から戦場に感謝状が贈られてきた、その後この感謝状は、戦線の移動とともに携行され、常に第100大隊の本部に飾られることになる。 十月一日、二発の敵の砲弾が着弾、第100大隊はさらに戦死者十一名、負傷者二十二名を出した。ロバートの小隊へ、ケイジロウ・タナカがわざわざ来たのは、彼の死の前夜であった。「死ぬような気がする」と呟き、いつもの穏やかな口調で「万が一君が生還できたら、是非、僕のお母さんに会って欲しい。しかし母は英語が分からないから何も話さなくていい。ただ会ってくれれば、それでいい」と言った。その声はかすかに震えていた。目が細く笑うときに真っ白な歯をむき出すので、特に印象深かった。「OK」とだけ言っておいたが、自分自身が生還出来るなんて思ってみたこともなかったので、実に変な気持ちだった。 十月十五日、我々はドラゴニに進出したがその途中のアイローラ村で子どもたちが我々の隊列に歓迎のリンゴを投げ入れてくれた。傍にいた男が我々を見て余程不思議に感じたのか、怪訝な顔をして叫んでいた。「チャイニー(中国人)? チャイニー?」 我々は、なんとも苦笑いをするだけであった。 十月十六日、第100大隊は、リナトールでヴォルトゥルノ渡河作戦の準備に入った。 ヴォルトゥルノ川の渡河用の仮橋、wikipedia「どっこいしょ」 日本語で言いながら汚れた鉄兜に腰を降ろそうとするサブロウにならって、ロバートもすっかり夜霧に濡れた草の上に仰向けになり、何となく晩秋の空を眺めていたら、突然不気味な尾を引いて星が流れた。 サブロウがそれを見て「イタリアの空で流星が見られるなんて考えてみたこともなかったね」と言うから、「僕も余り詳しいことは解らないが、宇宙的現象だから何処の世界に行っても見られるのではないか?」と反問した。サブロウは、「戦地で流星を見るなんて、何故か余り気持ちのよいものではないね」、と言って黙ってしまった。 高校生の頃、短歌や俳句に夢中になっていた時代ならまだしも、毎日敵の砲弾や機関銃に悩まされ通しの今日では、到底即席の歌など詠めるはずはなかった。しかし、流星を見たとたんに小さな詩興を動かされたことは事実である。 砲音をはるかに聞きつ秋深き異国の空に流星を見る (ロバート・サトウ) イタリアの夜風は相変わらず冷たい。サブロウが去った後も、ずっと晩秋の空を見つめたが、再び流星を見ることはできなかった。 十月二十二日、準備を終えた第100大隊と第3大隊は再び前進をはじめた。しかし敵の反撃が激しく、夕方になっても、どちらの大隊ともその目標地点に到達できなかった。両大隊は、谷のスロープに沿って散開した。そこを電撃的に、骨の髄まで凍るような唸り音とともにドイツのロケット砲が火を噴いた。堤防の左岸を十一台の敵の戦車がうろついていた。後方から味方の大砲が撃たれ、われわれを援護した。第100大隊も対戦車砲で応戦し、敵の戦車一両を破壊した。暗くなってから、われわれは高台に移動した。 十月二十三日早朝、吹雪の中をカッシーノを見下ろす529高地と、630高地を目指した。 十月二十五日、ナポリ北方約六〇キロのアリーフェの町に到達した。サレルノから戦闘を行いながらの北西に約一〇〇キロの行軍であったが、すでに第133連隊としては二〇〇名以上の死傷者を出し、うち第100大隊の戦死者は二十一名、負傷者は六十七名を数えていた。第100大隊の兵士たちから『親父』と呼ばれて親しまれたターナー大隊長は、師団命令による突撃を繰り返し、手塩にかけた大勢の兵士を死なせたことへの自責に耐えられず、精神に破綻をきたして更迭された。無念にも事実上の解任により戦場を離れることになったのである。ハワイの名門白人の出自のターナー大隊長の急激に老いたその去り行く背中に、第100大隊の兵士たちは掛ける言葉を失っていた。 第100大隊は、十月三十一日までアンジェロにいた。キアランセの近くで敵機が襲来し、戦死者六名、戦傷者九名の被害を出した。 キアランセを占領した時、ドイツの負傷兵を一人、捕虜とした。カワサキ軍医の担当となったこの捕虜は、軍医に我々が中国人ではないと否定されて考え込んでしまい、目を白黒してあえぎながら再確認したという。「トウキョウ?」「そうだ、日本人だ」「日本人がドイツの敵となっている。これはいったいどういうことか?」「我々は、日系だがアメリカ人だ」「日本人の顔をしていながら、アメリカ人?」 その捕虜は自分で結論をつけられず、頭はショックで混乱していたという。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.26
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ロ ー マ 入 城 (1943/9/3 ~ 1944/9/11) 一九四三年九月三日、イギリス第8軍は占領したシチリア島を足がかりにイタリア本土に進攻、ついにイタリアはパドリオ新首相の名で降伏した。第100大隊がオラン港に到着した翌日のことである。この日パドリオ政権は連合国との間に休戦協定を締結したが、サレルノ以北は、実質的にドイツ軍の占領下に置かれることとなった。 九月九日、イギリス軍はサレルノの南方にまで攻め上がってきた。その進攻に合わせてドイツ軍を北から挟み撃ちとし、同時に周辺の要地の占領を目指したアメリカ第5軍の主力は、サレルノに上陸した。 ドイツ軍は枢軸側に忠誠を尽くすと説明するパドリオ政権の言明を信じたふりをしながらも、イタリア軍の『寝返り』を警戒していた。そのためドイツ軍は新たな防御陣地グスタフ・ラインを作り、ここまで引き下がって戦況の建て直しを謀ろうとしてフランスで待機していた第2降下猟兵師団を呼び寄せた。するとなんとこの師団は、たった一日でローマのイタリア軍守備部隊を武装解除し、首都を掌握してしまったのである。アメリカ軍はこの強力なドイツ軍の激しい反撃にあい、逆にサレルノの近くにまで押し戻されていた。 第100大隊がオランから船でサレルノ港に着いたのは、一九四三年九月二十二日のこのような時であった。しかしアメリカ軍が確保している港とは言いながら、上陸は港に接岸してなどという悠長なものではなかった。先に敵前上陸したアメリカ第5軍を阻止しようとしたドイツ軍は、その敗走のおり港湾施設等を破壊していた。焼けただれて沈没した船や残骸の間をエンジンの轟音を響かせ、数百にもおよぶ上陸用船艇が海岸線に近づけるだけ近づくと前面がバタンと開き、二列になった兵士たちは次々と背嚢を背負ったまま銃を構えて海に飛び込んだ。彼らは、しぶきを上げながら海岸に走り込んだのである。二時間後、輜重隊が揚陸船に伝い降り、数え切れないほどのジープ、トラック、対戦車砲、救急車などが降ろされた。 それらの様子を見てロバートが言った。「凄いな。僕はアメリカ軍のこのような光景をはじめて見た。カメラを持っていたら撮影しておきたいようだ」 サブロウが答えた。「本当だな。これなら僕らの愛する国は決して負けることがない、と心底納得できるよ」 サレルノのドイツ軍が北へ撤退をはじめていたので上陸そのものは何の抵抗もなく遂行され、第34師団は一気に内陸十キロメートルまで進出して設営を行った。 サレルノ周辺図・○印は戦闘および通過地点(以後の地図も同じ) 九月二十五日、サレルノの平野に入った第34師団は、敵と遭遇した。この戦いで第100大隊はドイツ軍とはじめて戦火を交えこれを撃退した。「初めて敵の砲弾が炸裂した時、僕は正に穴に飛び込んでいた。いくら愕いたとはいえ、両手でさらに穴を掘ろうとするなんて自分では考えもしなかった行動だった」「それはロバート。僕だって同じだったよ。しゅっと頭の上をかすめるような近さで飛ぶ砲弾の音、つづいて起こる凄まじい爆発・・・。瞬間、体中の関節が外れたようにすべての力が抜けていた。悪夢であって欲しい、いや今すぐこんな恐ろしい眠りから醒めたい、ハワイの家へ戻りたい、とどれほど切なく思ったことか・・・」「そうか・・・。それじゃ僕は、恥ずかしいと思わなくてもいいんだな?」「そうだよ。僕なんかも震えが止まらなかったよ」 第100大隊のどの目も、余りの恐怖にぎょろぎよろと見開いていた。寒いはずなのに、全身に汗をかいていた。 第133連隊はモンテカービノ近辺までの二五キロを進出するよう命じられた。丘陵と森林や峡谷で起伏に富んだこの地域で、秋の雨で泥沼のようにぬかるんだ街道を北に向けて進軍を開始した。寒さのための寝不足で兵士たちの気分は重い空のように晴れなかったが、初陣の高ぶる気持ちがそれを補っていた。 九月二十六日、ナポリの港湾施設を破壊して北へ逃れたドイツ軍は、頑強な防御線のグスタフ・ラインをヴォルトゥルノ川沿いに構築していた。同夜、第100大隊はリオネへ一一二キロの狭い山道をトラックで移動した。また秋雨が降り始めた。その寒い中で、サンタンジェロ・デル・ロンバルディを確保した。そこに着いてから先ず彼らがやった仕事は、雨と泥の中で眠ることであった。 モンテ マラーノを占領した九月二十八日、B中隊の兵士がドイツ兵を捕らえてきた。彼は少し英語を話した。「君たちは中国人の部隊か?」 その捕虜は困惑した表情で我々に尋ねた。「我々は日本人部隊だ」 それを聞いた捕虜は一瞬息を飲んだ様子であったがこう言って叫んだ。「日本人だって? それならドイツとともにアメリカと戦うのが当然ではないか。これでは、猫の子が魚市場で生まれたから魚だ、と言うのと同じではないか」 この妙な理屈に直ちに誰かが反応した。「しかしその猫は、魚市場の猫だ!」 第100大隊が戦ってきたサレルノの内陸地はオリーブ畑の続く南欧風な、なだらかな丘陵地帯であったが、例年より早い雨季に見舞われて気温は低かった。このために道路はぬかるみ、ハワイ育ちの兵士たちにはとても信じられない寒い日々が続き、そのために眠れない夜が続いていた。彼らは疲れ果て小休止に入っていた。泥に汚れた鉄兜に腰をかけ、気を紛らすため互いに何かを話そうとしていたが、誰の口も重かった。いつもは静かなリチャードだが、突然、ぶつぶつ小さな声で言いはじめた。「もし運良くハワイに戻れたら、最初に熱い白い飯に刺身を食べたい。それに俺の母は、豆腐の味噌汁とお新香を作るのがうまいんだ」 それを聞いていたヒデオが訊いた。「お新香ってなんだ?」 周りの誰もが気を遣って黙っていた。「確かにこんな夜には、お母さんの味噌汁が最高だがな」 ヒデオはそう言うと、いきなり自分の鉄兜を蹴飛ばした。 戦場で食べ物の話はしないことにしていた。しかしロバートは、ひょっとしてリチャードがお母さんのことを想い出しているのかも知れないと思い、そっとしておいてやりたかった。ふと、高校時代に短歌を作っていたことを思い出し、それを手帳に書き付けた。上手も下手も考えていなかった。 おふくろの味噌汁恋しと友は云うオリーブ畑に風寒き夜 (ロバート・サトウ) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.25
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八月、MISのアーネストのもとに、第100大隊のロバートや第522野砲大隊のタダシから、相次いで第100大隊がヨーロッパ戦線に派遣されたとの手紙が届いた。「いよいよ彼らは戦場に行ったか」 それを読んでアーネストは、自分だけが出遅れているように感じ、重い気持ちになっていた。彼は小声で日本語を呟いた。「武運長久」 八月二十日の夕方、第100大隊を乗せたジェームズ・パーカー号は、ニューヨーク港のスタテン島の岸壁を、『自由の女神』に見送られて静かに離れた。自由の女神! この女神の正式名称は、『世界を照らす自由』である。それは希望のシンボルであり、各国から移民してきた人たちの心の支えであった。この移民の国を結束させてきたのは、この自由という理念であった。 この女神を見ながら、ヒデオが言った。「『この女神の顔は怖い』という人もいるが、僕はそうではなく、世界が自由と平和であるようにと心配をしている顔だと思う」「そうか、僕も自由の女神は、永遠に人々の心の中に生き残る希望の光だと思う。僕は自分の国アメリカを愛する。言葉を越えた限りない愛を感じる。これは僕の国だ。僕らの国だ」「うん。僕らは今、この『自由の松明』の下から、ファッシストたちとの戦いに赴こうとしている。身が震える思いがする。それなのに日系の同胞は、『自由の国・アメリカ』の強制収容所に捕らわれている。これはいったい、どういうことなのであろうか? なんという矛盾なのだろうか」「しかしそのことについて、今は考えないようにしよう。それでも僕が今信じたいことは、生きて帰るということだ」 重装備で臨んだ地中海は静かであった。デッキから眺める波に、ロバートたちは故郷のハワイに思いを馳せていた。その船中で耳を傾けていたイギリスBBC放送の臨時ニュースで、イギリス軍のシチリア島占領を知った。図らずもホッとした空気が船内を包んでいだ。 そして一九四三年九月二日、船は連合軍の地中海方面司令部が置かれているフランス領チェニジアのオランに入港した。オランの連合軍の基地で、第100大隊はイギリス軍とフランス軍と一緒の基地となった。毎晩、基地に掲げられた各国旗をポールから降ろすとき、各国軍の小隊によるパレードが行われた。ある時第100大隊からロバートのC中隊が参加した。最初に連合軍の『捧げ銃』の中でイギリス国歌の演奏がはじまった時、ロバートはキャンプ・シェルビーでの別れの時に第四四二連隊の軍楽隊が演奏してくれたあの感激を強烈に思い出し、誇りを感じた。ロバートは自分に確認した。「僕はアメリカ兵だ!」 しかし所属する師団も連隊も決まらないまま派遣されたアフリカであった。そこで第100大隊は補給品輸送列車の警護にあたることになった。アーネストたちは、私生児大隊の意味を思い知らされるような日々であった。ここで第100大隊は、第34師団第133連隊第2大隊(アイゼンハワー大将司令部の警護部隊)の代役を引き受けることとなった。第100大隊の兵士たちはここでも長い待機を強いられことになった。ロバートたちも苛立っていた。「我々は命を捨ててでも親や兄弟を救おうとしているのに、このような労働部隊ではそのチャンスがないではないか」「いや、親や兄弟だけのためではない。広く、日系人すべてのためだ。そのためには戦闘部隊で戦功を上げる必要がある」「しかし列車の護衛やドイツの捕虜の監視なども戦いには必要なのではないか」「実は僕ら、この間ロンメル戦車隊の捕虜の一人に逃げられたよ。しかし砂漠で行くところがない。そうしたらどうしたと思う? 先に逃げていた弟を連れて帰ってきたよ」 このヒデオの話に、みんなは腹を抱えて笑った。 間もなく第34師団が第100大隊を受け入れることになった。第34師団は、アメリカから最初に送られた師団で、ドイツの占領下にあったチェニジアの首都チェニスを激戦の末に奪還、黒地に赤で牛の角をデザインした師団章から『赤い雄牛(Red Bull)』師団として知られていた。第100大隊は、その第133連隊に配属されることになった。「親師団がいたぞ!」「第34師団第133連隊第100大隊が我々だ!」 第100大隊に歓声が上がった。「いよいよ我々は戦える!」 誓い合った四人ではあったが、これから行くイタリアの戦線で、ロバートもヒデオもサブロウも、リチャードを失うことになるとは予想もしていなかった。 ドイツ兵の捕虜。U.S. Samurai in Bruyeres. ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.24
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アーネストはこの事情を、タダシに言った。「僕がこういうことで皆から離れるのは心苦しいが・・・」 ただしアーネストは、命令された通り、作戦要務令の翻訳については話さなかった。「そんなことはないさ。それに情報学校がここより楽だという保証はあるまい? 方法が違っても、国のためという意味では同じではないか。それに僕たちの親は、同じ村の出身だ。君とは特別の友達だと思っているよ」「タダシありがとう。赴任の時間の関係で第100大隊のみんなには会えないが、折りがあったらよろしく言っておいてくれ。いずれ手紙は出す」 間もなくアーネストは身の回りを整理し、何人かの仲間とともにキャンプサベージへ出発した。 アーネストの学ぶMISの前身は、日本の敵意を予想して設立されたMISLS(軍事情報サービス語学学校)であった。それが真珠湾の攻撃前の一九四一年十一月一日に、第4軍の管轄下のMISとしてカリフォルニア州の海岸・プレシデオに設立され、開戦と同時に戦争省の直轄となってミネソタ州ミネアポリスに移されたものである。 一九四三年一月、陸海軍合同で、秘密のうちにサンフランシスコ州トレイシーに秘密捕虜尋問所が開設された。戦地で情報兵が重要な情報を持つと判断した捕虜をここに集め、アメリカ軍の戦略立案に役立てようとしたものである。 MISでは午前中は授業、午後は歩兵としての軍事訓練に当てられた。 軍事教官から檄が飛んだ。「いいか、お前らは情報兵ではあっても、いずれ戦場に行くことになる。仲間がお前らを守ってくれるなどと甘えるな。自分の身は自分で守らなければならぬ。歩兵としての訓練はそのためだ!」 この頃アーネストには気になることがあった。それは日系人を日本語の情報兵として養成しているアメリカは、恐らくドイツ系人をドイツ語の情報兵として養成しているのではないかということであった。もしそうだとすれば、それらドイツ系人と話し合い、彼らの考えを聞いてみたいと思った。 授業は日本語のみに止まらなかった。日本軍の戦力組成、捕獲書類の分析、軍事専門語、地理学、地図の判読、日本の社会、政治、経済、文化、教育、習慣、無線の監視、暗号解読、通信機の使用法と修理、さらには捕虜尋問の仕方、調書の書き方そしてハーグ陸戦条約、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約など国際法にも及んだ。特に日本の暗号解読については、この時期、相当進んでいた。 四月十八日、ニューギニアで日本軍の暗号無線を傍受したMIS卒の情報兵が山本五十六海軍大将のラバウル到着時間を特定、P│38戦闘機が山本五十六大将の搭乗機を上空で待ち伏せ攻撃をし、これを撃墜した。教官が訓示した。「これこそが情報兵の戦果であり、諜報戦を制した情報兵の勝利である。山本大将の戦死は、今後の戦争の経緯に好結果をもたらすであろう」 五月、日本では学徒戦時動員体制が発表され、学生が学業半ばに徴兵されることになったとのニュースが流れた。「ああ、中学で一緒に学んだ日本の仲間と、太平洋で銃を向け合うことになる・・・」 このような迷いに追い込まれたとき、アーネストは父の教えに忠実であろうと考えていた。「もしその時が来たら、お前はアメリカ人として対処しろ。そしてアメリカの旗を守れ」という教えにである。 すでに前線では、これが現実となっていた。五月二十九日、アッツ島の日本軍守備隊が玉砕した。この時戦死者の遺留品の中から、英文の聖書と英文の日記が発見された。日記は早速、情報兵のもとに回された。アッツ島に上陸していたアメリカ軍の軍医が、大学で同級生であった彼の名を覚えていた。辰口信夫。彼はカリフォルニア州ロマリンダ大学医学部を卒業して日本に帰国した医師であった。大学で青春を共にした同級生同士がアッツ島で戦っていたのである。この戦いで日本側から二十九名の捕虜を出したが、そのうちの一名の見習士官は、護送される途中の船上から投身自殺した。「なぜ負けたと分かっても日本兵は降伏しないのか?」 教官にそう問われたとき、アーネストは返事が出来なかった。これは日本の中学で学んだ経験のあるアーネストにとっても、理解がなかなかできないことであったからである。 ルツから手紙が届いた。それによると七月一日、ハワイから第九回船組で日本人三十四名が本土に送られたという。このような話は、聞くことさえ辛かった。1942~1945 北太平洋のアリューシャンと千島列島の航空作戦において生命を失った第11軍航空兵に捧ぐ。2002年6月3日(ホノルルのパンチボウル国立墓地に立つ慰霊碑)、 一九四三年七月、第100大隊に出動命令が下った。隊内には緊張が走った。「来るべき時が来た!」 第100大隊には、ハワイ戦士の首領がかぶる黄色い羽根のついた戦闘帽に、戸口や門に魔除けとして飾るエイプの木の葉のデザインの大隊旗を授与された。それには大隊のモットーであるあの『リメンバー・パールハーバー』が取り入れられていた。しかし、肝心の所属するべき連隊名は知らされていなかった。「俺たちには親の連隊がない。下手をすると労働部隊か?」 この嫌な思いは消えなかった。しかしすでにそんなことを考えている余裕はなかった。次の三週間の間に、すべての兵士に十日間ずつの特別休暇が与えられた。しかしそれは、ハワイに戻れるほどの余裕はなかった。 八月十一日の出発の朝、第100大隊は新しい大隊旗の掲げられた営庭に整列し、号令と共に直立し、星条旗に捧げ銃をした。キャンプに残る第442連隊の軍楽隊が、アメリカ国歌とハワイ・ポノイを演奏した。ロバートは足のつま先から頭の天辺まで震えるような感動に満たされた。 ──アメリカこそ我が祖国。ハワイこそ我が家だ! 彼らは、ニュージャージー州のキャンプ・キイルモアに入った。ここは国内での最終のキャンプ地となった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.23
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(1942/6/21~1943/9/3) 五日間の航海の後、ハワイからの第442連隊の志願兵はサンフランシスコのオークランドに到着した。オークランドからは列車に分乗して、第100大隊の待つキャンプ・シェルビーを目指したのであるが、第100大隊の時と同じように、列車の経路は北部・中部・南部のルートに分けられた。そしてそれぞれの列車には、白人の兵士が米軍の軍服を着た日系人を護衛するために同乗したのである。 アーネストは中央ルートであった。シェラネバタ山脈、ロッキー山脈を越えてユタのソルトレーク、コロラド州のグランドジャンクション、デンバーを通過していった。彼らの車両はブラインドを下ろすように命じられた。密閉された暑さのために、ほとんどがアンダーシャツ一枚で過ごした。この措置は、反日感情の良くないカリフォルニア州を過ぎるまで行われたが、実際には二世を守るためであったのか、あるいは太平洋岸の諸施設をとりあえず見せないためであったのかは分からない。 列車が南部に入ったころ、二世たちは列車の中で白人将校から、「このあたりには二種類の人間がいることを知っておくことだ。それは白いのと黒いのだ」と忠告された。誰かが「俺達はどっちだ?」と問うと、「自分達を白人だと思うことだ」と言われた。事実、南部に入って停車する駅は切符売場も「White」と「Colored」に分けられており、はじめて本土の厳しい人種差別に直面した。彼らは知らなかったが、ある駅に停車した時、出迎えに出てきた赤十字の役員とドーナッツガール(女子慰問団)が、「中国兵たちが英語を話している」と言って騒いでいたという。やがて列車がキャンプ・シェルビー止まった時、はからずも歓声が上がった。「俺たちはここで訓練を受け、戦場に出る」 窓外の暖かい日差しの中に、広大な牧草地のような草原と疎らな林が点々と見えていた。ハワイでは見ることのできない広大な平野、そして遥か東には低い丘が見えていた。キャンプ・シェルビーはアメリカでも三指に入る大規模な訓練基地であったが、第442連隊に割り当てられた宿舎は酷いものであった。ここへ先着していた本土出身二世たちは、やがて各地から到着してくる二世たちの第442連隊においての中核となるのであるが、当面の仕事は老朽というか崩壊寸前の兵舎を居住可能とするために、土木、建築、配管、塗装、植栽から煙突掃除までの全てをこなして後続を待っていた。ところが、この微妙なタイムラグが、本土出身とハワイ出身の二世との間に軋轢を生むことになる。そしてもう一方の当事者の第100大隊は、実戦訓練のため、キャンプ・シェルビーから広大なルイジアナ州マネウヴァ地域に移動させられていた。ここにはいなかったのである。 アーネストたちがキャンプ・シェルビーに到着した時、すでに軍は強制収容所や他の内陸部の州から来た二世たちをハワイの二世より責任のある地位につけてしまっていた。これが不満の種となった。それに言葉の問題があった。本土からの二世はハワイのピジョン英語の発音より滑らかであり、そのことがより知識人であるかのように見えた。それらのことが、両者の対立をさらに強めることとなった。そしてハワイアンはこれらメーンランダーに、コトンクというあだ名を進呈したのである。実の入っていない椰子の実は、落ちる時にコトンと空の音を立てる。メーンランダーの頭を叩くと、同じような音がするという発想であった。 一方メーンランダーはハワイアンをブッダヘッドと呼んでからかった。仏の頭、つまり日本的頑固者の意味に豚の意もからませたらしい。ハワイアンとメーンランダーの対立がエスカレートしていった。 ところでこの第442連隊にも第100大隊が所属する連隊がなかったように、連隊の『親』であるべき『師団』が存在しなかった。そのため第442連隊には主力の歩兵三個大隊に加え、野戦砲兵大隊と戦闘工兵中隊などを擁することになる。これが正式には第442歩兵連隊ではなく『第442連隊戦闘団』と呼ばれた理由である。つまり、師団の編成を連隊規模に縮小したものであった。 やがて訓練から戻ってきた第100大隊の先輩たちは、ハワイから来た弟や知人たちの行動に気をもみ、メーンランダーとの間に入ってそれ以上の悶着にならないよう配慮していたが、第100大隊と第442連隊との間もまた必ずしもしっくりした関係にはなかった。第442連隊の側に、第100大隊に負けてたまるかという競争心と、徴兵された第100大隊と違って我々はアメリカ全土からの『志願兵』によるものだという優越感があったものと思われる。しかしアーネスト、タダシ、ロバート、リチャード、ヒデオ、サブロウの親友たちの間に、ひびの入ることはなかった。 アーネストとタダシは第442連隊・第522野砲大隊に配属された。そして105ミリの曲射砲の基礎訓練がはじめられたのである。それは勿論、楽なものではなかった。一日の訓練が終わったある夕方、いつものように訓練担当の軍曹が号令をかけた。「番号!」「一、二、三、四.・・・・・・・・・・」「アーネスト一等兵は残れ。全員解散!」 近くに来た軍曹がにこりともせず言った。「アーネスト一等兵。明朝九時、連隊本部に出頭せよ。明日の訓練には参加せずともよし。以上」「イエス・サー」 アーネストが挙手の礼をすると、軍曹も軽く返した。 ——何故だ。何故僕だけなのだ。連隊本部に呼び出しを受けるような、何か悪いことでもやったというのか? 翌朝九時、アーネストは連隊本部に出頭した、本部付けの白人の中尉が訊いた。「君は日本の中学(旧制)を卒業した帰米二世だそうだな?」「はい」「この報告書によると日本語に堪能とある」「・・・」「そこでだ、この日本語の本を英訳して貰いたい」 そう言って出された分厚い本は、日本陸軍の作戦要務令であった。「部屋は準備しておいた。早速とりかかってくれ」 アーネストはこの軍隊調の古文にも似た膨大な資料を何日もかけ、やっとの思いで翻訳して提出すると中尉が言った。「OK、もういい。後日私から連絡する。ただし今日のことをしゃべったら軍法会議だ。分かったな」 なお作戦要務令とは、日本陸軍が作戦の基本をまとめた指揮官用の資料である。 その後の一週間ほど猛訓練に耐えていたアーネストは。再び連隊本部に呼び出された。ミネソタ州ミネアポリスにあるキャンプサベージのMIS(The Forth Army Intelligence School・第4軍特別情報学校)への転属命令が発令された。そこで日本語の通訳として学ぶことになったのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.22
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第二次大戦という戦いの中で軍を志願するということは、銃を持って戦場に立つことを意味する。通常そのことは愛国心の発露と理解され、国民、ひいては家族を守るという事に集約されていく。逆に言えば近親者を守るという事からはじまって、国民、国家というように下から発展するものかも知れない。二世たちの第442歩兵連隊への志願も、アメリカから逮捕拘留された家族を救いたいという気持ちから出発していた。しかしそのような状況を作り出したのは、なんのことはない、その二世たちの父祖の国・日本であった。 その父祖の国・日本にいるアーネストの親戚からの音信も途絶えていた。彼が日本を発つ時、従兄弟が二人すでに日本軍に入隊していた。だからと言ってアーネストは、アメリカに忠誠を誓うことに躊躇したくはなかった。アメリカのために、そしてアメリカ本土で囚われている父のために、さらには日系人のために、アーネストは死を覚悟していた。 彼が第442歩兵連隊へ応募する覚悟を告げた時、母は言った。「日本では『生みの親より育ての親』また『一旦嫁したら夫の家こそわが家』という諺があるわ。アメリカはあなたの育ての親、そしてあなた家なの。お父さんが言ったように日本人の伝統的精神を忘れず、トヨハラの家名を汚さず、アメリカのために力一杯戦ってきなさい」 涙を浮かべながらそう言う母の言葉が決して本心からではないことを、アーネストは感じていた。 ルツもまた、うつむいて聞いていた。 第442連隊志願兵募集が発表されるや、二世の若者は募集所に、まさに殺到した。ハワイ大学在学中であったこれらVVVの二世の若者たちは、大学から募集所まで熱狂的な大行進を行い、それを見守る日系人たちも、これを熱狂的に迎えたのである。もちろん彼らの志願の動機も決して単純なことではなく、実際に様々な事情が存在した。志願した若者の中には兄弟姉妹が、さらには親が日本で暮らしているというケースもあったし、また地元日系人社会が新聞や学校などで盛んに志願を勧めて、『やむなく』という実に日本的な半強制的な場合もあったのである。 三月二十八日、ホノルル商工会議所は第442連隊の志願兵二、六八六名の壮行会をイオラニパレス内の広場で開いた。彼らはホノルル市民の見守る中で見事な分列行進を見せ、一気に二世兵士への信頼感と期待感を抱かせる効果をもたらした。 四月四日、スコーフィールド基地を列車で出発しホノルルのイウィレイ駅に到着した第442連隊の志願兵たちはアラモアナ大通りを行進し、沿道や港を埋め尽くすばかりの人々の星条旗と日本語のバンザイの嵐の中を出征していった。それは国旗の色さえ違えれば、まるで日本国内の出征風景のようであった。 当日の地元紙はこう報じた。 イオラニ宮殿の周りを埋めた一万五千~七千ともいわれるかつ て見たこともない人の数に驚いているだけではない。最も重要な のは見送りの家族や友に見られる明らかな誇り、そして若者たち がアメリカと連合国のために戦う愛国的役目を託されたことへの 誇りに驚いているのである』 ホノルルの街頭で分列行進をする第442連隊志願兵(上)と見送る家族。remembrances ところで本土から応募者が、わずかに半分の千五百人だけにとどまったためハワイでの募集枠をすぐ二千六百人に拡大し、本土分を穴埋めする形をとらざるを得なくなった。 本土で応募人員が千五百人にとどまったのには、本土側の事情があった。本土でも、開戦前すでにアメリカ軍に入隊していた二世がいた。彼らも所属する部隊から分離され、本土の十二万人の日系人とともに強制収容所に隔離されてしまっていた。特にアメリカ生まれの二世たちは、アメリカ国籍を持っていながら日本人を親に持つという理由だけで強制収容されたことに大きな不満を持っていたのである。 このような状況の中で、本土の日系アメリカ市民協会は強制収容所内の二世に対して第442連隊への志願兵募集を開始した。しかし二世たちは、「強制収容所からの日系人解放が先だ」との理由で猛反発したが、結局は「アメリカへの忠誠を示すのが先だ」との陸軍省の圧力に屈し、強制収容所内の二世は募集に同意せざるを得なかった。「アメリカへの忠誠を示すのが先」ということは、アメリカは日系人を信用していないという意味でもあった。もっとも、この強制収容所からの解放を望んでも、方法としては第442連隊へ志願する以外になかった。もし忠誠心を疑われることがあれば、そのまま特別収容所に移されたのである。この志願に際して、次の問を含む『忠誠登録』が要求された。この忠誠登録質問状には。二世としては耐えがたい質問条項が含まれていた。そこでは天皇を否認し、日本との戦いを要求していたのである。ちなみにこの質問は、なぜかハワイでは行われなかった。 第二十七問 あなたは命令ならば所を選ばずアメリカ陸軍兵士 として戦闘任務に喜んでつきますか。 第二十八問 あなたはアメリカ合衆国に無条件の忠誠を誓い、 外国軍隊や国内勢力によるいかなる攻撃からも、 合衆国を忠実に守りますか。また、日本の天皇そ の他外国政府、勢力、組織へのいかなる形の忠誠 や服従を誓って否認しますか。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.21
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十二月三十一日、第100大隊にミシシッピー州キャンプ・シェルビーへの移動命令が発令された。この移動については、上層部がテキサス兵との悶着を恐れたものとも想像されたが、そのテキサス兵との間はすでに平穏になっていた。後年、第100大隊は、このテキサス兵たちとフランス戦線において、劇的な邂逅を果たすことになる。 第100大隊の兵士たちは過酷な訓練を終えると、消灯までの時間に集まって議論をしていた。日系人に対するアメリカ政府の姿勢に疑問を抱いていたのである。「どうも国のやり方が納得できない。このままでは訓練にも身が入らない。ここに来てからでも、訓練どころか蛇に噛まれて死んだ仲間も八人くらい出た。いったい国に忠誠を尽くすということはどういうことだろう」「俺たちは二つの戦いを戦っている。アメリカに代表される民主主義のためと、そのアメリカに於いての俺たちへの偏見差別とだ」「民主主義だって? 我々の親兄弟を強制収容所にブチ込んでおいて、何が民主主義だ!」「それはそうだ。しかし我々が戦場に出ようとした最大の理由は、日系人を強制収容所から解放しようとしたことだったのではないか?」「そうだよ。俺たちは最前線に出て戦い、手柄を立てることではじめて認められる。認められることで強制収容所から同胞を助け出し、結果として人種差別をなくそうということではなかったか?」「手柄を立てる? それもいい。だけど命を落とすかも知れないんだぞ!」「もちろん僕だって命が惜しくないと言えば嘘になる。しかし軍務につく以上、甘えは許されないと思う。戦場に出たとき、一人の勝手な行動で仲間を危険にさらす訳にはいかないし、そのために、命令一下、個性を殺されて行動するのはやむを得ないのではないか。そのための訓練だ」「もしも労働部隊にされたら、いくら働いても結果が見えてこない。われら自身を救出するためにも、命を投げ出す覚悟が必要だ。戦いに出よう」「そうだ我々はこのプレッシャーを、アメリカの民主主義と我々への偏見解消のために日本と戦うことで乗り越えるしかない」 彼らは優秀であった。その例として、歩兵が分解携行する『重機関銃』の組み立て作業があった。これは急な戦闘開始時に何秒で組み立て、射撃可能にできるかという連続動作で、陸軍マニュアルは十六秒であったが、なんと五秒でやりのけたという。また機関銃分隊の行軍速度は、当時白人の部隊の平均が分速六十六メートルであったのに対し、第100大隊のそれは八十三メートルを記録している。平均身長一六〇センチと子どものような体格なのに、フル装備のまま一時間五キロのペースで八時間ぶっ続けに歩いた。普通なら一時間に四キロがせいぜいである。 機関銃射撃訓練。remembrances ここキャンプ・シェルビーで、彼らはもう一つの人種差別を体験することになる。例えばバスの中の白人と非白人とに分けられた座席、白人のみのためのレストランや映画館、さらに黒人は劣っているという無数の主張をする白人を自分の目で見ることであった。それでも二世兵士たちは『白人』として待遇された。彼らは白人のために確保されているバスや列車やレストランの席、そしてトイレの利用が許された。しかし同じ軍服を着た黒人兵がそれらを利用しようとしても、それは許されなかった。黒人兵士はバスの白人用の席に座ったといっては殴られ、理髪店からは放り出されて意識不明になるまで叩きのめされた。アメリカ国家のために戦う訓練を受けているにもかかわらず、白人は黒人であるという理由それのみで容赦をしなかったのである。そんな黒人を見て同情は感じたが、自分たちが急に『白人』とされたことについて、嫌悪感をもよおした者も少なくない。しかし心の中でこう思っていた。 ──ああ、ありがたいことに、われわれは日系人であった。 しかしこれまでにして黒人を差別する白人の住民の側には、人種差別そのもの以外のもう一つの理由があった。それは『白人』とされた日系二世を見た黒人が、「それなら俺たちにも日系人と同じ待遇にせよ」と要求するのではないかと恐れたことである。 一九四二年の十月頃、陸軍では日系の志願兵による部隊編成を認めるかどうかの議論が進められていた。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、『人種の如何を理由にして、これ以上日系人の市民権を圧迫することは無謀である。強制収容でその限界までやったのではないか、もう沢山だ』とのメモを残している。また日本軍がこの戦争を『人種的偏見から出た人種間の戦争である』とのプロパガンダを流しているのに対抗して、日系人がアメリカ軍として戦う事は有効なカウンター・プロパガンダになるとの考えもあった。 一九四三年二月一日、ルーズベルト大統領は、「アメリカの民主主義は、昔も今も人種や先祖を問題としてはいない」として日系志願兵による第442歩兵連隊の編成を発表した。アメリカ政府は日系人を敵性人とみなして強制収容所に隔離しておきながら、その中からアメリカのために戦う兵士を募ろうという矛盾した政策を強行していた。それに基づき、新設される第442歩兵連隊の募集要項が発表された。ハワイでの募集予定人員は千五百人、アメリカ本土からは三千人とされた。「おいタダシ。君は志願するのか?」「当たり前さ。で君はどうなんだ?」「勿論するさ。しかしどう母親を説得するかだな」「うーん。アーネストのお父さんは本土で強制収容されているからな」「いや、親父が拘束された時残していった伝言を思い出せば、親父は絶対に反対しないと確信できるが、お袋がなぁ・・・。大丈夫だとは思うが、手こずるかもしれないな」「反対なのか?」「いや、そうではない。そうではないがそもそも我が家は農園労働者としてハワイに移ってきた。そして多くの苦労に耐えて洋服屋として自立の道を歩んだ」「なんだ。僕の家はグローサリー屋だが、結局は君の家と同じ道だろう。しかしいずれにしても親の世代は大変だった」「うん、それで君の家も同じだと思うのだが、お袋は親父べったりの考え方なんだ。だからどこかに帝国臣民、忠君愛国を背負っているんだ。そこがな、そこが難しいんだ」「うーん、分かるなぁ。その中で子どもの我々には『よいアメリカ人になること』へと追い立てる日本人社会の監視と、アメリカ人であることを拒否阻害するアメリカ人社会の障壁、そして経済的成功というアメリカンドリームとは対照的な貧しい日系人という現実・・・」「そうそう、さらには日本的文化を立派に引き継いで欲しいという両親の期待。しかもこの戦争でアメリカやアメリカ的なものはすべて賛美され、両親の持ってきた文化的要素はすべて侮蔑の対象となってしまった」「だからこそ我々は第442歩兵連隊に志願し、アメリカ人として生きるべきだろう。生きてはじめて日本文化も継承できる」「分かっている。タダシ、何とかするから一寸だけ時間をくれ・・・」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.20
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『親愛なるアーネスト、タダシ。 君たちの気持ちは分かるけど焦らないで下さい。君たちが考えると同じように、いま僕たちは二つの戦いを戦っているのだと思っています。一つはアメリカに代表される民主主義のためであり、もう一つはアメリカに於いての僕たちへの偏見や差別とです。いずれ訓練が済めば、僕らは戦いに出ることになるのでしょう。真珠湾の仇は必ず討ちます。そして君たちが希望している平和な島にします。 近況を報告します。 僕らはキャンプ・マッコイで訓練に入りました。ところで第2小隊のラリー・サコダは翼を広げたアメリカンイーグルが『REMEMBER PEARL HARBAR』と書かれたリボンをくわえている大隊旗のデザインを提案しました。その旗の下に『ONE HUNDREDTH INFANTRY BATTALION』と付け加えたのは、ケイイチ・キムラです。ワシントンからは、例えばマタイ伝からの一節、『BE OF GOOD CHEER(喜びを持って)』などではどうか、などの打診もあったそうですが、ターナー第100大隊長は僕らの選んだこの文を主張したそうです。もともと『リメンバー・パールハーバー』は、開戦にあたっての戦意高揚のため、ルーズベルト大統領が言い出したフレーズです。そのフレーズを我々日系兵たちが好まないであろうとワシントンが推測したとしても、それは不思議ではないと思っています。しかしこのリメンバーという単語には、君たちも知っての通り『復讐』という意味が隠されています。つまり我々は、日本に復讐したいのだという意志を、アメリカという国に知らせる必要があると考えたのです。 第100大隊旗。 テキサス州第2師団の白人兵一万二千名が、僕らと同じキャンプ・マッコイに入りました。ところがそこにいたのは真珠湾を攻撃した日本人の血を引く我々日系二世であり、人数も十分の一の我々であったと言う訳。先日その白人兵士から侮辱的なからかいを受けて大乱闘が発生しました。 白人兵が『ジャップ』とか酷いことを言うのです。座っている時はそう大きく感じなかったのですが、文句を言われた相手が立つと、相手は六尺豊かで、こちらは臍くらいにしか届きませんでした。それが『カモン、カモン』と言いながら腰のベルトを引き抜き、振り回すのだから参ったね。しかし身体は小さかったが、僕たちも負けてはいなかった。柔道に自信のある仲間の一人が頭にきて彼らに向かって行って、そいつを投げ飛ばしたよ。ある時、これらの小さな喧嘩がエスカレートして大乱闘が発生しました。そして気がついた時には、テキサス兵が三十八人、それに対して我々の一名が重傷で入院するという騒ぎになっていました。しかもその一名は、止めに入ったテキサス兵MPに暴行を受けての重傷であったのです。彼らは皆驚いたよ。それ以後この類の喧嘩は発生しなくなりました。誰も日本の柔道や空手など見たことがなかったのです。さすがにこの後、彼らは僕らを尊敬するようになりました。 それから生まれて初めて雪を見ました。言葉では言え表わせないほど感動しました。僕はいつまでもその美しさに見入っていました。このように寒い、ある休みの日に、第100大隊の五人の兵士がスパルタに遊びに行きました。彼らはスパルタ近くの凍った湖に滑落した数人の町の人びとを助け上げて表彰されました。お陰で第100大隊とスパルタの町との友好関係をさらに促進することになりました、この街は楽しい街です。 では皆さんによろしく。 アロハ 忠実なる友人 ロバート・サトウ』 雪のキャンプ・マッコイ。remembrances これに関して、現在ウィスコンシン州ライスレーク出身で福島県三春町に住んでいるジーナ シーファーに次のような話を聞いた。J 私のおじいさん(故人、レオナルド シーファー)が思い出して言 っていた。(日本人は)背が低いのにテキサス人いじわる。もう その・・・あの・・・四人、日本人がパパパッて、勝ったときも あるんですって、そう勝ってるはずがないのに、そのやり遂げよ うっていうの、気持ちが強くてそれでスパルタの人たちが「やっ 素晴らしかったな」って言いましたね。トルーストーリー。スパ ルタエアリア以外では、全員が知っていた筈ないと思います。──おじいさんたちは戦争がはじまったばかりですから、当然日本人 に良い印象がある筈がないと思いますが、そのようなときにどん なことを感じていたか、なにか聞いたことがありますか?J ウィスコンシン州に住んでいるインディアンは数が少なかったが、 それでも人種の差別が大きかった。あまり東洋人の顔を見てない ので、ラクロスの人たちは、日本人をインディアンと思ったのか も知れません。それにウィスコンシン州はドイツ人多いです。多 分戦争で捕虜となったアメリカで生まれていないドイツ人の親戚 とか知り合いが多かったと思います。戦争だからあまり大きな声 出すと、自分も悪いという、何も言えない。しかし日本人も最初 からそうだったとも思えない。だってドイツ人も同じことだから。 不思議でもないけど、悪くでもない思ったんじゃない。──そのとき、イタリア人はいなかった?J イタリア人いたという話、聞いてないです。昔おじいさんそう言 ってた。「ドイツ人は顔同じだったけど、日本人大変だった。顔 が全然違う」って。しかし最初からハワイの日本人だと分かって いたかも知れません。──あなたは第100大隊の歌を知っていますか?──すると、ゴー フォー ブロークは第100大隊の歌だった?J それ、分かりません。 (J ジーナ シーファー) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.18
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出 陣 (1942/6/21 ~ 1943/9/3) ロバートから、手紙が届いた。『親愛なるアーネスト、そしてタダシ。 一九四二年六月十二日、サンフランシスコのオークランドに入港しました。ここで我々のハワイ緊急大隊は、第100歩兵大隊と改称されることになりまた。これはどの師団や連隊にも属さない日系二世だけで編成された独立大隊だそうです。ようやく望んでいたアメリカ陸軍の正式な歩兵大隊になれたと喜んだのだがどうも分からないことがあります。独立大隊とは、規模は大隊でも組織は連隊と同じ構成という意味だというのです。そこで我々の大隊を『ワン・プカ・プカ』と呼ぶことにしました。 ところで、みんなで家族の話題になって、写真を見せ合いました。そうしたら、多くの仲間は母親や姉妹、恋人の写真を持ってきていました。しかし不思議と、父親の写真を持っている人はいませんでした。 間もなく我々の乗る列車が出発します。行く先は秘密で知らされていません。 また手紙を書きます。 元気で。 ご家族のみなさんによろしく。 アロハ 忠実なる友人 ロバート・サトウ』 彼らには知らされなかったが、アメリカ陸軍の編成から言えば、通常は師団ム連隊、そしてその連隊は第1、第2、第3の三つの歩兵大隊を含む構成になるはずであったのであるが、敵性人とされた第100大隊を引き取る連隊はなかった。つまり第100大隊には親となる連隊がなく、そのため本来ならあり得ない番号の100と言うナンバーが付けられたのだという。ともあれ多民族移民国家であるアメリカ合衆国の軍隊において、同一民族だけで編成された軍隊はこの第100大隊が史上初めてのことであった「なるほどプカ(ハワイ語で穴の意味)か。面白いことに気がついたな」「しかしプカには塹壕という意味もかけているようだ。塹壕となると、なかなか厳しいジョークだな」 一九四二年八月七日、マッソニア号で日本人四十九人がハワイから本土へ送られた。第五回の船組と言われた。第一船船組の隔離者名簿の一部。(ヒデオ・トウカイリンの父・東海林甚七の名が見える・商工関係者 下段 左より2行目) ハワイ日本人移民史より 大学では戦前に行われていた軍事訓練は中止されていた。その代わりに行われたのが農作業の手伝いである。第100歩兵大隊として出征した兵士たちの留守家族を中心に、集中的に援助した。この月には二度にわたってソロモン海で戦いがあり、二十五日にはパプアニューギニアのミルネ湾に日本軍が上陸した。大学生たちの間では、農作業ではなく前線に出て戦いたいという意欲が強かった。 九月十五日、大西洋から回航されてきた空母ワスプが、日本潜水艦によって撃沈された。そのニュースが流れたが、日系人の社会は静寂の中にあった。『親愛なるアーネスト、そしてタダシ。 僕たちは今、ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイにいます。皆元気でやっていますから心配しないで下さい。まったく問題はありません。 面白い話を書きます。僕らがはじめてキャンプを出て、行軍訓練をしていた時のことです。この行軍を見たある農夫が、「日本軍がパラシュートで降りた!」と野良仕事用のトラックをめちゃくちゃに運転して警察に駆けつけたそうです。電話では到底信じてもらえないと思ったからだそうです。笑っちゃうな。 それから街で勝利総決起大会が開かれたました。僕らもパレードに参加しましたが、そのとき先導した警察車両のスピーカーが大きな声で何と言ったと思う?「皆さん、今日の分列行進は、真珠湾で勇敢に戦った勇士たちによるものです。マジソン郡在郷軍人会のゲストとして参加しました!」 あれは最高に気分がよかったね。 では皆さんによろしく。 アロハ 忠実なる友人 ロバート・サトウ』 また日本人二十九名が本土に送られた。第六回船組である。「どうにかならないのか!」 アーネストが呻いた。「うーん、概算してみると、送られたのはもう五二一人にもなる」「五〇〇人を越えたのか。もう止めて貰いたいな」「それにしても日本海軍の潜水艦から発進した水上偵察機が、夜、オレゴン州を焼夷弾で空襲したそうだ。山火事を起こしただけで済んだそうだが、日本もやるねえ」「馬鹿! 感心しているどころではあるまい!」「なにを言うかタダシ。呆れているんだ僕は」「呆れている?」「そうさ、考えてもみろよ。真珠湾の時のように空母で空襲するなら意味も分かるが、潜水艦だよ。海の中を潜って行って偵察機一機程度の空襲なんて、たかが知れているじゃないか。現に山火事だけだよ。我が方のドーリットル飛行隊だって、空母から発進しているんだ」「つまり日本には、アメリカと戦争するだけの準備がないということか?」「そう決めつける訳にはいかないが、少なくとも日本には、アメリカ本土に進攻する力がないということではないか?」 十月十一日、日本人二十三名が、また本土に送られた。第七回船組である。「ハワイだって一丸となって戦わなければならないときなのに、アメリカ政府は、いつまでこんなことを続けているんだ」「第100大隊は本土で頑張っている。僕たちも第100大隊のように、訓練を受けて戦いに出たいな。我々が命をかけて戦えば、アメリカ政府もこんなことを止めてくれるかも知れないし・・・」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.18
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ハワイ緊急大隊の出発した後のホノルルには、本土から多くの白人兵士が派遣されてきた。それらを見て住民たちは、何かが起きることを感じていた。いつもより多くの飛行機が編隊を組み、真珠湾の海軍ヤードには多くの軍艦が集結していた。白人兵士たちのパトロールは、常より厳しくなっていた。VVVは、比較的軽い患者たちを大学の教室などに運び込んで臨時病院とし、軍病院のベッドを開けていた。「どうもミッドウェイに、日本が攻めて来るらしい」 そんな噂も耳にしながら、アーネストたち武器を持たせられないVVVは、やるせない気持ちで作業に従事していた。 それに反してハワイの夜の酒場では、意味などは何もないパールハーバー・ブルースなるものが大流行し、このバンドで出征前の若い白人兵士たちがダンスに興じていた。 パールハーバー・ブルース 一九四一年十二月七日 一九四一年十二月七日 日本人は真珠湾に爆弾の雨を降らせた 日本人は真珠湾に爆弾の雨を降らせた このような他愛のない歌さえが、アーネストたちの心をえぐっていた。太平洋のアメリカ軍は後退を続けていた。そのためハワイ列島防衛の要となるミッドウェイ島の防衛のために、大西洋から急遽補充された航空母艦三隻と重巡洋艦五隻を加え、多くの艦船や飛行機を集結させていた。 ハワイ列島~ミッドウェイ島 六月五日の夕方、ミッドウェイ海戦の勝利が伝えられた。アメリカ軍はこの海戦ではじめて多くの日本軍の捕虜を確保した。そのほとんどが撃沈された空母や、その空母を失って着水した戦闘機から投げ出され、波間を漂っていた者たちであった。彼らはサンドアイランドに収容された。「ここは臨時で、いずれ本土に護送される」と噂されていた。「我々の国が勝ってお父さんお母さんの国が負けた」 二世たちは、複雑な心境に追い込まれていた。それでもこの戦勝をきっかけにして、ハワイでの日本人に対する態度が変わってきた。それまで日本人は危険な存在だと思われ、ジャップと蔑まれ、「アメリカ市民になっていてもジャップはジャップだ」ときめつけられていたが、新聞などでエモンズ司令官の日本人支持が伝えられることもあって、人々も考え方を変え始めたのである。 大学も臨時の軍病院となっていたが、一部の教室や施設を使って授業が再開された。二世たちはハワイの、ひいてはアメリカの社会に受け入れられはじめたと感じていた。あの真珠湾奇襲の後には、それまで踊られていた盆踊り、歌っていた日本の民謡や流行歌、そして軍歌のような『見よ東海の空明けて』などを止めて、アメリカの軍歌やフォークソング一色となっていた。 六月六日、日本軍はアリューシャン列島のキスカ島、七日にはアッツ島を占領し、十六日にはニューギニア島ポートモレスビーの連合軍基地を空襲した。 六月二十日、日本軍の潜水艦がバンクーバーのカナダの海軍基地を攻撃した。 六月二十一日、日本潜水艦がオレゴン州アストリア市のコロンビア河港湾防衛基地であるスティーブンス要塞に砲撃して命中、基地は大混乱に陥った。負傷者も出たが、意外にも基地から反撃の兆しはなかった。理由は基地司令が、ティーブンス基地に装備されていた10インチ砲の射程距離では敵潜水艦に届かないと判断したこと。反撃の射撃をすればその閃光により位置を知らせることになり、さらに命中弾を食らいかねないと考えていたことにあった。 このようなニュースを聞いても、日系人たちは率直に喜べなかった。彼らができたことは、町を歩くときには視線を落とし、ただ沈黙を守ることだけであった。この日、日本人男子の三十九名、女子六名が本土に送られている。第四回船組、または婦人組と呼ばれた。「ついに女性まで引っ張られたか」「うー。それにしてもアーネスト。本土では家族ぐるみで引っ張られている。それを考えればな・・・」「仕方がないか?」「いや、そうは言わないが・・・。アメリカ政府もやり過ぎじゃないのか?」「うん、たしかにな。しかしタダシ。各地での日本軍の進撃も早過ぎる。あれから日本軍はフィリピン全土占領し、ニューギニアに侵攻した」「いや、しかしアメリカ軍もソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸して反攻しているぞ」「僕たちもこのままでは・・・なんとかしないと」「我々は戦うことが出来ないのだろうか? しかしアーネスト。君は本土で強制収容されているお父さんのことを、どう考えている?」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.17
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五月二十六日、自宅待機とされていた第298,第299部隊の二世たちに、秘密のうちにスコーフィールド基地へ出頭するようにとの命令が出された。自宅待機は日本人や二世に対する不信感がその最大の理由であったろうが、その他にも、もし日本軍が上陸して来たら見分けがつかない、などの心配もあったからと考えられていた。 秘密と言われて口を閉ざしながらも、出征兵士の家族の女たちは千人針を作りはじめた。千人針とは、合力祈願(ごうりききがん、多数の人の祈願によって目的を達成させる)のひとつで、出征する人、あるいは出征して前線にいる人の武運長久を祈って作られた。一メートルほどの白布に五銭(死線を越える)と十銭(苦戦を越える)を縫いつけ、千人の女性に赤い糸で一針ずつ刺して縫い玉を作ってもらって出征兵士の武運長久を祈った日本の風習であったが、ハワイでもこれにならい、五セントと十セントのコインに換えて作られていた。アーネストの母と妹は彼女らの千人針に協力するため、毎晩夕方になると出かけて行った。彼女らは赤子をおんぶしたり、小さな子どもの手をつないだりし、他民族の目から隠れるように人通りの少ない裏道などでひっそりと立って、誰か日系人女性の通りかかるのを待っていた。思い詰めた彼女らに、女たちは女同士で助け合っていた。その兵士たちが出征する朝、家族ができたことは苦労して作った千人針を持たせ、愛する子や夫を玄関の前にまで見送ることのみであった。第298,第299部隊には、新たにHPI(Hawaiian Provisional Infantry・ハワイ緊急大隊)の名称が与えられた。 日本での千人針 wikipedia より(なお、千人針については、閑話休題・ハワイ福島県人会創立110周年 4 の「第100大隊資料館にて」が関連しています) このハワイ緊急大隊がアメリカ本土に向けて出発する前に、最後になるかも知れないということで、高校同期の六人がアーネストの家に集まった。アーネストとタダシを除いたロバートとリチャード、ヒデオ、サブロウが、ハワイ緊急大隊のメンバーとして出征することになったからである。しかし話題は、どうしても戦況になりがちであった。「日本軍の特殊潜航艇がオーストラリアのシドニー港を攻撃したそうだ」「うん。マダガスカル島ディエゴスワレスのイギリス軍基地も攻撃して上陸したが、これは全滅したそうだ」「それに日本軍は。アラスカ州ウナラスカ島のダッチハーバーを空襲したそうだぞ」「でロバート、君たちはどこへ行くんだ?」「それが分からない。軍事機密を理由に行く先を知らされていない。新聞にも出ていないんだ」「そうか。しかしまさか、一挙に戦地ということはあるまいな?」 タダシが訊いた。「戦地って太平洋か? ヨーロッパか?」「それも分からない。とにかく秘密だから、親戚や隣近所に別れを告げることもできない」「そうか。ともかく僕とタダシは、なんとか隠れてでも君たちをどこかで見送るよ。もし僕たちの姿を見かけなくても、必ず来ていると思ってくれ」 アーネストはそう言って激励するのが、精一杯であった。 出港の日、港に行ったのでは見送りするという目的が知られると思い、アーネストとタダシは乗降客に紛れるようにしてホノルルのイウィレイ駅に出掛けた。出征兵士たちがばらばらに降りてくるのを、駅の柱に身を隠すようにして見送った。それでも彼ら四人とは、それぞれに目が合わせることができた。その後ろ姿を見ながらタダシが言った。「切ないな」 アーネストは返事ができなかった。二人の目から、涙が溢れていた。 本土に着いたロバートから手紙が届いた。『親愛なるアーネスト、そしてタダシ。 出征の列車がスコーフィールドを出たとき、二世の若い女性たちが鉄道の沿線で声もなく見送ってくれました。誰かの知り合いであったのでしょう。淋しい記憶です。それからイウィレイ駅で君たちを見かけました。お互いに手も挙げられなかったが、とても嬉しかった。ありがとう。 アロハタワーに近いホノルル港軍用桟橋で我々を待っていたのはSSマウイ号でした。これは第一次大戦の時の古い輸送船です。僕たち千四百名の日系兵を乗せたマウイ号は、ファンファーレなしで出航しました。タワーの第二バルコニーには、何人かの二世の女性たちが見送ってくれるのが見えました。誰かの母親とか恋人だったのかも知れません。 この出港の時は、普通ならある別れを惜しむ匂やかな花々のレイもなければ、哀愁に満ちたアロハオエの調べもない淋しい船出でした。僕は一本でもいいからレイが欲しいと思ました。港を出るとき海に流したレイが渚に打ち揚げられると、旅人は必ず還ってくるというハワイの言い伝えを信じたかったのです。 我々は本当に戦地に送られるのであろうか。それとも単なる労働部隊に入れられるのであろうか、そんな心配もしていました。しかし戦地に送られるとしたら、これが最後のアロハタワーになるかも知れないと思いました。アロハタワーはハワイで最も高いビルで、ハワイの象徴で、ハワイの魂です。僕は次第に小さくなっていくアロハタワーに、数々の思いを託していました。千四百名の生命は一団となって甲板に立ったまま身じろぎもせず、アロハタワーがすっかり見えなくなるまで誰一人として口をきく者はいませんでした。恐らく誰もが、何か熱いものがこみ上げて来るのを懸命に堪えていたのだと思います。どの顔も、みにくく歪んでいました。オアフの島影すら見えなくなると、急に侘びしさが胸一杯に広がりました。 しかし僕たちは戦うのが嫌だと言っているのではありません。ちょっと島を離れるのでセンチメンタルになっただけです。僕たちは必ず島に残してきた君たち日系人のため、全力を上げて戦ってきます。そしてこれは、アメリカのためでもあると考えています。 では元気で行ってきます。 アロハ 忠実なる友人 ロバート・サトウ』「それでも僕たちが見送りに行ったことが分かってよかったな」「うん。しかしロバートたちの気持ちもよく分かる。しかし今後、僕らはどうしたらいいんだろう。ここでこうして、のほほんとしていてよい訳がないだろう?」「それはそうだ。しかし我々日系人がアメリカ軍から敵性人として排除されている現在、入隊することはできない。それでも、もし入隊が許されることになったら、アーネスト、君はどうする?」「もちろん入るさ。もはやこうなった以上、日本と戦うことでしか我々日系人としての立場をよくする方法はあるまい?」「しかしそれも、もしもの話ではなあ・・・」 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.16
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そのような戦局にあった二月二十日、サンドアイランドに強制的に拘束されていた日本人を乗せた船が、ホノルルを出港した。誰が聞いてくるのかその輸送船グラント号には、日本人が一七〇名、ドイツ人が三〇名それに特殊潜航艇で真珠湾を攻撃した時の捕虜第一号・酒巻和夫海軍少尉が乗せられたと噂された。その噂は、VVVの中にも広がった。 ——お父さんもあの船に乗せられたのだろうか? アーネストは心配したが口にも出せず、しかもVVVからは離れられず、そのことについて母や妹と話をする機会もなかった。VVVは学業を捨て武器もなく、ただ黙々と種々の労働に従事していた。戦傷者のハワイの病院への入院が増えていた。 アメリカの本土でもFBIによる二一九二人の日系人を逮捕するなど、日系人に対する締め付けが着実に進んでいた。そして二月十九日、ルーズベルト大統領は大統領令九〇六六号に署名し、『必要もしくは望ましい場合には誰であれ退去させられる軍用地区の決定ができる権限』が発効した。この法律によって、アメリカ本土西海岸の約十二万もの日系人が十箇所の『戦時転住所』と呼ばれた強制収容所に強制移住させられることとなる。日系人は住んでいる場所を約一週間の間に出なければならなくなり、しかも彼らの許された荷物はトランク一つと制限されたため、今まで蓄えてきた財産をすべて二束三文で手放さざるを得なくなったのである。法外な値切りの交渉に業を煮やした日本人が、ピアノなどすべての家具に灯油をかけて火を付ける事件も発生した。しかも彼らが送られた先はほとんど砂漠地帯で朝夕の気温差の激しいつらい環境であり、一世のみでなく市民権を持った二世も同様に収容された。これらには、ハワイからの船組も分散収容されていた。強制収容所には、日本人の血が十六分の一以上混ざっている日系人はすべて逮捕、拘束されて各地の収容所へ送られた。十六分の一ということは、曾祖父母の親にあたる。 立ち退きセール wikipedia この強制収容は、日系人たちに計り知れない衝撃を与えた。第一次大戦にアメリカ兵として戦い、その後復員したある日本人移民一世は、一人でロスアンゼルスのホテルに部屋を取り、抗議の自殺を遂げた。遺骸の手には、彼が人生を賭して手に入れた『合衆国名誉市民証』が握られていたという。この他にもアメリカ政府は、中南米十三カ国に住む二、二六四人の日系人を現地の警察に逮捕させてアメリカ海軍の艦艇で強制連行、その上で『正規の入国手続きを経ていない不法入国』という不当な理由をつけて逮捕し、クリスタルシティのキャンプに強制収容した。 二月二十四日、日本軍潜水艦により、カリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド精油所が艦載砲で砲撃され、これに損害を与えられたとのニュースが流された。それは決して楽しいニュースではなかった。さらに三月四日の夜、二機の日本軍の大型飛行艇はVVVが昼夜兼行で復旧作業を行っていた真珠湾の上空を通過、爆弾を投下したが郊外の山林であったため実害はなかった。あの真珠湾奇襲の悪夢がよみがえった。「漁に出た漁船が日本の潜水艦と連絡を取っていた」「日本の飛行機が目標に飛んで行きやすいようにと、砂糖キビ畑では真珠湾向きの矢印の形にキビが切り取られていた」 またデマが飛んだ。 どう努力しても敵性人として見られたことが、アーネストにはとても残念であった。それにどこへ行っても、このような反日宣伝に出会っていた。 三月十一日、ミッドウェイ島に日本軍の大型飛行艇が来襲したが、これを撃墜した。ミッドウェイはハワイ列島の最西端にあたる。もしここが陥落すれば、島伝いにホノルルに攻めてくると考えられた。ここの防衛は、ホノルル防衛の最先端とされた。そして三月十九日、日本人一六六名が、グラント号でホノルルを出港した。第二回船組と言われ、日本人一六六名が送られたという。 ——今度は誰が送られたのであろうか? それを考えることは、日系人全体にとっても辛いことであった。捕らわれずに残された一世のほとんどは日本語しか話せなかったのに、公の場で日本語の使用が禁じられた。それでなくとも老齢に近くなり、しかも立場も弱くなって寡黙になっていた一世たちは、さらに黙り込むようになっていた。 ——日本語しか話せないお母さんにはルツがついているからどうにかなるだろうが、むしろ世話をするルツの方が大変だろうな。 アーネストは父を取り上げられた母と妹を心配していた。アメリカに生まれて市民権を持っているルツも、敵性外人とされていたのである。それでも三月には、ハワイの戒厳令の一部が解除された。 そして四月十八日、ビッグニュースが飛び込んできた。 空母から発艦したB25爆撃機が、東京を初めて空襲したというのである。今まで続いてきた暗雲が一挙に晴れるかのようなこのニュースにVVVも沸いた。ドーリットル空襲と命名された。「やったぞ! 日本側も驚いただろう」「なムに、こんなものは小手調べだ。アメリカの実力を今に見ていろ」「しかし東京出身者の親類などは、大丈夫だったろうか?」 彼らは日本が勝ったと聞いては肩身の狭い思いをし、アメリカが勝ったと言っては日本の様子を心配していた。 しかし、また悪いニュースも飛び込んできた。『五月二十三日、軍用船マウイ号で日本人一〇九名がアメリカ本土へ送られた』 第三回目の船組と言われた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.15
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あの朝、ヒッカム飛行場を空襲して被弾した西開地重徳海軍兵曹は、カウアイ島近くのニイハウ島に不時着した、日本軍は帰投不能の飛行機が出た場合、この島に救援のための潜水艦を派遣することになっていた。その西開地飛行士を、移民のヨシオ・ハラダ(両親は福島県浪江町高瀬出身)が救助し匿っていた。ロビンソン家個人所有のこの島に出入りできるのは原則としてロビンソン家の人間とカウアイ郡の関係者のみで、鎖国状態が続いていた。島には電話や電気やラジオもなく、外界の文化から完全に遮断されていたため、住民たちは直ぐには戦争の様子を知らなかった。そのニイハウ島から住民四人の乗ったカヌーがカウアイ島のバーンズ空軍基地に十六時間漕ぎ続けてこれを報告した。十三日、二人は開戦を知った住民たちに襲われ、殺害された。 翌・十四日、第299部隊のサブロウの小隊は、ジャック・ミズハ中尉に率いられてニイハウ島の日本軍兵士の状況調査に向かったが、すでに死亡していた日本兵の死体を確認したのみであった。同行した白人部隊がヨシオの妻・ウメノの身柄を確保したことは知らなかった。その後ウメノは、国家反逆罪の罪名で一九四四年秋まで監禁され、保釈後も三人の子どもと共にスパイとして白眼視されることになる。十六日になって、リーダーのベン・カナヘレが『ニイハウ島の戦いの英雄』としてこの事件が報道されると、とたんにデマが飛んだ。「ニイハウ島の日本人パイロットの持ち物から、マッキンレー・ハイスクールとハワイ大学のスクールリングが見つかった」 それは事実ではなかったが、と言って日系人の立場が良くなることはなかった。ことに従兄弟とか又従兄弟の誰かが真珠湾の攻撃に参加していたのではないか? という気掛かりは、二世兵に限らず、ハワイに住む全日系人の心にのしかかっていた。その重しは、日系人以外に対しての気後れとなり、自然とアメリカ社会に怖じ気づくことになった。戦う二つの祖国、そしてその狭間で、「もし日本軍が協力を要請してきたらどうすべきか」という難題にハワイの日系人は直面させられることになった。それはまた、どうにもやり場のない悲しみと怒りと切なさであった。 十八日、デロス・エモンズ中将がハワイ防衛総司令官に着任した。兵員増強のため、日系人以外の青年に対しての徴兵が進んでいた。そしてそのことはまた、二世たちの気持ちを逆撫でにすることでもあった。日系住民の恨みは、日本という国に向けられていった。「日本が真珠湾攻撃さえしなければ、我々はこんな苦しい立場に追い込まれなかったろうに。なぜ日本は日本人の多く住んでいるここハワイを最初に攻撃したのであろうか」 訓練も装備も不十分のままヒッカム飛行場で日本軍と戦わざるを得ない立場に追い込まれていたハワイ準州国土防衛軍の二世たちにしてみても、むしろ日本に対して憎しみの感情を高ぶらせていた。 十二月の末、アーネストたちのハワイ準州守備隊に、再集合が命じられた。それを聞きつけたホノルル高校やカメハメハ高校など四つの高校から、ハワイ準州守備隊への志願が相次いだ。直接日本軍の攻撃を受け、その戦禍を目の当たりにしていたハワイの高校生としては、胸に燃えたぎるものがあったのであろう。最終的に志願者の数は、千四百名にものぼったのである。しかしこれらの高校生たちの志願は、年齢を理由に拒否された。 ハワイ準州守備隊は、今までにも公共建築物、放送局、新聞社、公共事業、港湾、桟橋、燃料タンク、ガソリン貯蔵地など、ホノルル周辺約一五〇ヶ所の警備や軍事施設建設の労働役等にあたった。しかし今回は労働力の提供だけで、武器の供与はなかった。陣地構築に汗を流すROTC The Japanese in Hawaii : A century of struggle (なお、2008/7/23 の閑話休題・ハワイ島福島県人会創立110周年 3 に関連記事があります) 一九四二年一月二日、アメリカ領フィリッピン防衛司令官のダグラス・マッカーサーが退去し、日本軍は首都のマニラを占領した。それから間もない一月五日、日系二世の兵役義務登録者は敵性外国人扱い(4ーC)とされ兵役不適格とされて新規徴兵もまた中止されてしまった。ハワイ準州国土防衛軍やハワイ準州守備隊に入隊していた二世兵士たちは除隊または炊事勤務のような半端仕事に回され、あげくにはなんの説明もないまま全員が解雇されてしまったのである。日系人であるというだけで、軍部から疑いの目で見られたのであろう。これは二世の若者たちにとって、実に不本意なことであった。 その後も日本軍はマレー半島クアラルンプールを占領し、一月十二日には、日本潜水艦がハワイ沖で大型空母サラトガを雷撃した。沈没こそしなかったが大きな損傷を受けた。さらに一月二十三日、日本軍はニューブリテン島のラバウルを占領した。これらハワイに近づいてくる戦況にもかかわらず徴兵拒否をされたことで、日系人の気持ちは深く傷つけられていた。日系人たちは、アメリカ政府のこうした扱いに裏切りさえ感じていたのである。このことから、両親の国日本に対する気持も怒りと変わっていったのである。 一月三十日、シゲオ・ヨシダはハワイ準州国土防衛軍やハワイ準州守備隊を解雇された兵士を代表してエモンズ司令官に請願書を提出した。『ハワイは我々の故郷である。アメリカ合衆国が我々の国である。我々はたった一つの忠誠心しか持たない。それは星条旗に対してである。我々は忠実なアメリカ人として最善を尽くす。我々は、アメリカのために戦って死ぬ積もりだ。命をアメリカに捧げる』 この請願を受けたエモンズ司令官は、請願書をホノルルの新聞各紙に渡して記事にして世論の確認をしながら、日系二世大学生からなるハワイ準州守備隊を解散し、新たにVVV(トリプルV・Varsity Victory Volunteers・大学必勝義勇隊)の編成を決定した。しかしこれは、義勇隊という勇ましい名称にもかかわらず、武器を持たされない労働奉仕部隊であった。それでもVVVはアメリカ軍のために倉庫を建設し鉄条網を張るなどあらゆる銃後の仕事をやりとげ、何回も献血に応じ、多額の戦時債券を購入した。「日本人が重要施設に爆弾を仕掛けている」「日本人はサボタージュを陰謀している」「日本人が水道貯水池に毒を流した」 それでも起こるこれらの悪質なデマを何とか消そうとして、命令とあればVVVはどんな困難にも立ち向かい、誠実に作業をこなしていた。それにもかかわらずアメリカ軍は、敵性外国人つまり日本人に対して、午後九時から午前六時まで立ち入りを制限される禁止地区を設定し、移動は仕事場への往復と住居から五マイル以内のみとした。 日本軍の進撃は急を極めていた。日本軍に屈服したタイはアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、日本軍はそのタイを足がかりにビルマへの侵攻を開始、マレー半島のジョホールバルを占領した。 二月十四日、日本軍はオランダ領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバンを落下傘部隊で急襲、十五日にはイギリス・オーストラリア軍の守るシンガポールが陥落した。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.14
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一夜明けた十二月八日の早朝、アーネストたちは校舎を出るとすぐダイアモンドヘッドの先のハナウマ湾に向かった。そこでも日本軍の上陸に備え、海岸には鉄条網を張り巡らし、機関銃座を作り、防空壕を掘り上げた。ここは浅瀬が近いため、日本軍の特殊潜航艇の侵入を警戒して海中にまで鉄条網を敷設した。隊員の中には有刺鉄線の刺で傷つけられ、血だらけになる者もいた。防衛施設の建設をしながら海岸のパトロールを実施していた彼らに、ルーズベルト大統領が議会で七日を『汚辱の日』と呼び、正式に日本、ドイツ、イタリアに対して宣戦布告を発したことが知らされた。 九日、アーネストたちハワイ準州守備隊は第298部隊とともにオアフ島の北端、モカプポイントとクウアロアの間に散開した。ここでも防御陣地の構築に汗を流した。この日、オーストラリアが対日宣戦を布告したことがラジオで放送された。やがてアメリカ軍からの情報として、空母を含む日本海軍の大艦隊がハワイの海域から撤退していたことが知らされた。真珠湾に引き続いて差し迫っての日本軍による上陸作戦は、ないものと判断されたが、それでもハワイ準州守備隊は、各地の海岸線で防衛陣地の強化に努めていた。オアフ島以外の各島でも、同じ作業が続けられていた。 十二日、ハワイ準州国土防衛軍は、正式な部隊としてアメリカ軍に編入された。そしてもう一方のハワイ準州守備隊には武器の返納が命じられ、大学での授業も中断されたまま自宅待機が命じられた。それぞれが一週間ぶりの帰宅であった。シャワーも使えず、炎天下での作業で真っ黒に日焼けしたアーネストは、玄関に飛び出してきた母と妹に父の消息を聞かされることになる。 アーネストの父はホノルルで洋服屋を開いていた。その努力もあって一般市民の洋服を作る他に軍服も納入し、日系商工会議所の理事としても活躍していた、ホノルルの日本人仲間では、一角の人物として遇されていた。その父が真珠湾を襲撃されたその日に出された大統領令状により、『危険な敵性外国人・ドイツ、イタリア、日本国籍を含む』の一人としてFBIに逮捕されたというのである。「FBIが来た時怖かったよ。びっくりしてもう私には何にも考えられなかった」 妹のルツがそう言った。「お父さんたちはサンドアイランドに連れて行かれたようよ」 母はすがるような目でアーネストに言った。「まさかお父さんが引っ張られていたとは・・・」 思いがけない話に、アーネストは絶句した。「サンドアイランド島と言えばホノルル港の入口にある島だ。あそこは初期の移民受入地であったが今は使われていず、建物も荒れて何もない所だ。そんな所に囚われたとなると厳しい生活になるだろうな」「お父さんはなにかアメリカに悪いことをしたの? 私にはそうは思えない」「なにをルツ。馬鹿なことを言っちゃいけない! お父さんがそんなことする訳がない」「可哀想なお父さん。私たちの目の前で手錠をかけられたのよ」 そう言うと、母の顔がみるみるうちにゆがんでいった。「大丈夫お母さん。お父さんはどんな困難にも立ち向かえる人だ。誰がどう思おうとも、お父さん本人が自分を可哀想と思わない限り決して可哀想なことにはならないと思う。だからお母さん、お父さんが可哀想だなどと思わなくてもいい。」 そう言うとアーネストは母に両手を差し出した。そして三人は堅く抱き合った。 その晩、灯火管制のため電灯の笠にタオルを筒状に巻き、灯が外に漏れないようにした薄暗い食卓を囲んで、母が言った。「アーネスト。折角無事に帰ってきたのに何のご馳走もなくてごめんね」「そんなことないよ。今お父さんはいないけれど、家族がこうしていられるのがご馳走だよ」「お兄ちゃんが帰ってきたのに、お父さんは今頃、収容所でどうしているのかな。辛いでしょうね」「・・・」「それにお前が帰ってくるまでは女だけの家で、不安だった。街の人たちは私たち日本人を憎んでいるからね。ひょっとすると家を襲われるかも知れないし。私も面と向かってダーティ.・ジャップ(薄汚い日本人)と言われたことがあるのよ」「そう、私たちみんながスパイと思っているのよ。『日本人が真珠湾に停泊中の軍艦名や停泊位置を無線で知らせていた』などという嫌な噂が流されているわ。デマに決まっているでしょう? 私、悔しくて」 ルツはそう言って涙ぐんでいた。「そうか・・・。僕たちは国のためと思って一生懸命仕事をしていたのに、街ではそんなことになっていたのか・・・」 すると母は辛そうな顔で言った。「アーネスト。お父さんが拘束されて家を出る時、お前に伝言を残されたの。トヨハラ家の長男としてのお前に後を託す積もりだったのでしょうね」 父はこう言ったという。「自分は日本人であるから天皇には忠誠を尽くす義務がある。そしてお前もまた両親とも日本人であるからその血は紛れもなく日本人である。しかしその反面、お前はアメリカ国籍を持つアメリカ人である。日本で育った日本人である父とは異なって、お前はお前を育ててくれたアメリカに尽くすべき義理がある。お前はその義理のあるアメリカに恩を返さなければならない。戦争となった以上これから何が起こるか分からない。しかし何が起きても決してトヨハラの家名を汚してはならぬ。例え他の人種からであっても、人様から後ろ指を指されることがあってはならぬ。もし、その時が来たらお前はアメリカ人として対処しろ、そしてアメリカの旗を守れ」 アーネストは母からその話を聞いて、理屈として父の話は理解できた。しかしすぐに父の言うことに納得ができないでいた。 日本で生まれ、そこで教育を受けた父母たちにしてみれば、神国日本が戦争に負けるなどということは信じられないことなのであろう。アーネストは父の伝言から、父は日本に忠誠を尽くそうと考えているのではないかと感じていた。「そうですか。お父さんはそう言い残して行かれたのですか・・・。しかしお母さん、僕は帰米二世です。僕や妹も、またお父さんたちとは違った意味で難しい立場に立たされることになるのかも知れません」 帰米二世とは、親などの希望で日本の親の故郷に戻り、そこの学校で日本の教育を受けた後、再びハワイに帰った人たちのことである。一世たちには、「せめて子供の教育は日本で」という考えが強かった反面、それのできなかった人々の妬みもあった。アーネストは、そのことを言ったのである。 薄暗い灯火管制電灯の光の輪の外の暗い床には、先日の日本軍との空中戦で発射された機銃痕一個が生々しく残されていた。ジョージ・スズキ氏が、のちに拾ったという機銃弾。大 アメリカ軍、小 日本軍。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.12
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我 ら 同 胞 の た め に ~ 日系二世アメリカ兵 奇 襲 (1941/12/7 ~ 1942/6/21) 突然、真珠湾の方角で腹の底に響く爆発音が立て続けに起こり、黒煙が上がった。爆弾を抱え急降下する飛行機には、アメリカの星ではなく日の丸のマークがくっきりと付いていた。「何だ!」と思った瞬間、狂ったようにサイレンが鳴り出した。アーネスト・トヨハラは散歩を止めると急いで家に戻った。家では彼の出先を心配した家族が、大騒ぎをしていた。興奮した妹のルツが彼に走り寄って言った。「日本の飛行機が来た時、家の庭におったらね。低飛行であの・・・飛行機が飛ぶでしょう、こんな低く。でこうして見たら(額に手を当てて)、日の丸がついていた。『日本から来たんだ』と私、ママに言ったらね。ママは『日の丸なんて来る筈ない。スターね、星でも見たんだろう』って言うのね。ところがあのヒッカム飛行場でね、煙がね、上がるのね』 誰もがどうしたらよいか分からない状況であった。その時、複数の飛行機の爆音が頭上に来たように感じた。様子を見に庭に出ようとしたアーネストに父が怒鳴った。「危ない。外に出るな!」 民家の屋根に撃たれた機銃音が豆を撒いたように鳴り響き、そのうちの一発がわが家の屋根を突き抜いた。「みんなベッドルームへ行け! ベッドの下にもぐって、布団を被って小さくなれ!」 父が大声で命じた。アーネストにはこの爆撃が永遠に続くかのように思えた。 飛行機の爆音が去ったが、時折、軍艦の弾薬なのであろう、爆発音が地響きとともに聞こえた、アーネストはハワイ大学の三年生でROTC(Reserve Officer Training Course・予備役将校訓練部隊・訓練終了とともに少尉に任官)の一員であったので、ともかく大学に行ってみることにした。すでに大学には興奮した多くの学生が集まっていた。彼らから聞く情報も錯綜していた。なかには「ハーケンクロイツ(ドイツ軍)の飛行機が攻撃した」と言う者がいた。しかしそれは、すぐに誰かが打ち消した。 アーネストもそれらの話を聞きながら、どうしようもないほどガッカリしていた。以前から日本と戦争になるかも知れないという噂はあった。でもまさかに攻めてくるとは思わなかったから、その失望感はなおさら大きかった。アーネストも、本当はドイツ軍が攻撃したと思いたかった。 学生たちは武器庫の前に集められて点呼がとられ、ライフル銃が支給され、実弾を手渡された。「これは訓練ではない。セントルイスハイツに降下した日本軍落下傘部隊と応戦せよ!」 驚愕が走った。セントルイスハイツはハワイ大学近くの高台である。そこまで来たのかという思いで現地へ急いだが、それらROTCの服装たるやまちまちであった。これは誤報によるものであったが、戻って来るとすぐに「日本人が手引きして日本軍一個大隊がワイキキに上陸した。海岸にて阻止せよ!」という命令が下された。息つぐ暇もなくワイキキに走ったが、日本軍の上陸した様子はなかった。学生たちも混乱していた。真珠湾の青い空には、爆撃された艦船からの黒煙が上がっていた。 一九四一年十二月七日の日曜日、日本軍がハワイの真珠湾に殺到した時、ヒッカム飛行場で防衛にあたっていたのは日系二世によるハワイ準州国土防衛軍の第298部隊(オアフ島出身者)と第299部隊(その他の島々)であった。つまり日系二世のアメリカ人とは言っても両親が日本人であったから、日本人同士が戦っていたことになる。しかも彼らの訓練は決して行き届いていた訳ではない。それまでに四回の徴兵があったが最後の徴兵はこの年の十二月であり、入営から一週間と経っていなかった。ROTCにも、武器の他にガスマスクが渡され、それらハワイ準州国土防衛軍の補助隊員として、いくつかのグループに分けられた。 ヒッカム飛行場を襲うゼロ戦。Dachau Holocaust and US Samurai「日本軍は中国戦線で、国際条約で禁止されている毒ガスを使っているという情報がある。日本軍は、爆弾に仕込んでここに投下しないという保証はない」 その訓辞を聞きながら、アーネストは思わす空を見上げた。 ——毒ガス弾? 一般市民にもガスマスクが配布されるのであろうか? そんな考えが頭をよぎった。 ヒッカム飛行場防御のために一部を残した第298部隊はROTCの一部を引き連れて、オアフ島の北部海岸のカフクを防衛するためトラックを連ねて出発した。その南部にあるベローズ陸軍飛行場近くのワクナマロ海岸で、日本軍特殊潜航艇が一隻擱座したこともあった。もう一つの第299部隊はポートアレン桟橋、ラワ・パイナップル缶詰工場、それにカクイラ放送局の守備のために出動した。防御用の土嚢が積み上げられた。(The Japanese in Hawaii:A century of struggle) 第298、第299部隊には、アーネストたち大学進学者は猶予されていたが、同じ中学や高校を卒業して徴兵された者たちで編成されていた。であるから兵士とは言ってもアーネストとは同年代であり、小中高が同期生で顔馴染みも多かった。アーネストは親が同じ福島県の出身ということもあって、第298部隊のロバート・サトウやリチャード・ホンダ、ヒデオ・トウカイリン、また第299部隊のサブロウ・ニシメなどとは、特に仲良くしていた。 アーネストたちのグループはワイキキの海岸防衛部隊に回された。今朝、何も知らずに散歩に行っていた海岸であり、先ほどは日本軍上陸の虚報に踊らされた場所である。まず命令されたことはこの海岸に鉄条網を張り、塹壕を掘り、土嚢を積むことであった。アメリカ軍は日本軍によるホノルル上陸を極度に警戒していた。 その日の午後、ハワイ準州は軍政に移管され、戒厳令がしかれた。ROTCが解散させられ、すぐにHTG(Hawaii Territorial Guard・ハワイ準州守備隊)として改変されることとなった。真珠湾では戦艦アリゾナが黒く濃い煙に包まれ、オクラホマが大きく揺れ、いくつかの艦船が船底を曝していた。そしてこのような大被害を受けた中での、日本軍による第二波攻撃を恐れていた。その恐怖もあってか、デマが流れていた。「十二月三日の朝刊に掲載された日本人経営の洋装店の広告が、真珠湾攻撃に最適の時間と真珠湾に停泊中の船舶名を教えていた」「日本人は、第五列(自国後方で攪乱工作などを行う売国奴)の手先になっている」 日本軍来襲後、直ちにハワイのFBI、警察、そして憲兵隊が動き、すでに準備されていたブラックリストや写真により、日本人有力団体の幹部、宗教家、日本語学校校長、総領事館取次人など、指導的人物と目された数十人が逮捕され、移民局に監禁された。 その日の夕方からは、全島が灯火管制で真っ暗となった。周辺海域にいる日本空母の艦載機が再び襲撃してくるのではないかと警戒していたからである。その晩のうちに、アーネストたちは日本軍がマレー半島に侵攻し、タイが降伏したことを知らされた。その夜は教室の机をベッド代わりにして宿営した。それぞれの家への連絡は禁止された。うなされるような寝苦しい夜となった。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.12
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表紙。福島県内の書店で販売中。 我ら同胞のために ~ 日系二世アメリカ兵(梗概) 一九四一年十二月七日、太平洋戦争の幕開けとなった日本軍による真珠湾奇襲の際、隣接するヒッカム飛行場でその敵機を迎え撃っていたアメリカ兵は二世という名の日本人部隊であった。「リメンバー・パールハーバー」。日本への宣戦布告に際し、ルーズベルト大統領の使用したこのプロパガンダは、その後設立された二世による第100大隊隊旗にシンボルとして使われた。彼らによると、リメンバーは「記憶」という意味であるが、「復讐」という意味も含まれているという。 やがてハワイの二世たちで編成されたアメリカ陸軍第100歩兵大隊、そしてアメリカ全土から志願してきた二世たちによる第442歩兵連隊がイタリア、フランス戦線で三一四%(三一,四%の間違いではない)の損害を受ける激戦に投入された。そしてこの戦争の末期、第442歩兵連隊隷下の第522野砲大隊はドイツに転戦、ナチのダッハウ強制収容所を解放するのであるが、その事実はアメリカ軍上層部によって、封印されてしまったのである。 その戦う二世兵たちが死に直面したとき、共通の単語を口にしている。それは「お母さん」という呼びかけであった。しかもそれは、英語ではなく日本語であった。彼らの血は、紛れもなく母国・日本のものであった。 これらの部隊の他にも、太平洋戦線で日本軍と直接対峙した日系二世の情報兵たちがいた。彼らが日本軍捕虜の尋問などによって得た情報によるアメリカ軍の勝利は、日本人の父母から血を受けた彼等自身のジレンマとなり、自らの存在意義を問うことになった。この深い心の傷、そして日米双方から疎まれるというさらなる現実の中で、『敵国日本人』のレッテルを貼られ、人質同然にアメリカの強制収容所に囚われた親兄弟そして妻子を残しての戦いであった。実際、その強制収容所内で、息子を情報兵として兵役に出している一世の親に対して「スパイを送り出した」と誹謗する人たちもいたという。しかし彼らは、アメリカ本土に強制収容された同胞たちを助け出し、それを許した人種差別意識と戦うために命を捧げたのである。そしてその効果は、トルーマン大統領の第442連隊への表彰演説で具体化した。あの戦争による犠牲者は、アメリカやブラジルに移住した日本人にも及んでいたのである。 はからずも父母の国・日本に対して、祖国・アメリカのために戦わざるを得なかった二世兵士たち。日本では知られることの少なかったこれら兵士たちの哀歓と心の葛藤を、荒井村(福島市)や保原町(伊達市)などの福島県出身者たちを中心に描いたものである。 この作品は、ホノルルの第100大隊資料館、この大隊創立時からの退役兵たち、そしてそのうちの一人、荒井村(福島市荒井)出身のロバート・サトウ氏によって作られた短歌に負うところが多い。 なお私は、福島県の歴史上忘れられた事件や人物を掘り起こすことをテーマとして書いてきた。たしかに「マウナケアの雪」はハワイに題材を取ったものであるが、主人公が三春町出身の勝沼富造であったからその範疇に入るものと思う。しかしこの「我ら同胞のために」は、ハワイ・アメリカからヨーロッパにわたる話である。ただこの二世兵士の多くに福島県人が含まれていたことから、福島県の歴史の一端と位置づけ、まとめたものである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.08.11
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