『福島の歴史物語」

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2008.09.15
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  四月五日のリグリオン作戦開始以来、第100大隊は戦死者三十九名、負傷者一九四名を出していた。
 五月十六日、第442連隊はミラノから東へ一三〇キロ離れた元のドイツ軍の空軍基地であったゲーディにトラックで入り、そこをドイツ軍捕虜収容所として警備にあたった。その周辺は農業地帯であり、ハワイのマノアの谷のように緑が一杯であった。それからの八日間は敗残兵を捜索し、捕虜とした二万五千人を超える元ドイツやファッシスト・イタリア軍の兵士たちに、DDTを散布していた。そのとき英語を話せるドイツの士官が反抗的態度を崩さず、こんなことを言って脅かしていた。
「この戦争にアメリカはまだ勝っていない。次にアメリカは、自国民とソビエト連邦と戦うようになる」
 六月十四日、コモ湖畔の町レッコへ移動した。美しい湖の町である。心和む平和の中で、サブロウは太平洋での戦況を心配していた。
「アーネストはどうしているであろうか?」

我ら同胞 ミラノ・コモ湖
            ミラノとコモ湖周辺

 六月二十三日、日本軍は沖縄で玉砕した。ハワイ移民の最大多数はその沖縄県人であったから、第442連隊を構成する沖縄出身者の数もまた最大であった。当然その死傷者数も最大となる。

   沖縄からの移民であったシンエイ(真栄)・ナカミネ二等兵の
  母ウシは、キャンプ・マッコイからの手紙でメーンランドへ送ら
  れていたことをはじめて知った。妹アニタ・キミエの名で毎月二
  等兵の給料の中から戦時公債を買って送ってきた。イタリアの戦
  地に渡ってからもそれは続いた。
   シンエイの命日は六月二日、連合軍がローマに入城の二日前、  
  第100大隊がついに第5軍にローマへの引導を渡す戦闘での死
  であった。同じ沖縄からの者が集まってくれて、東本願寺派での
  葬式であった。ジョー・タカタが日系兵として初めて貰ったと同
  じDSC(殊勲十字章)を、シンエイも形見として残している。
  小さい時から文句一つ言うことなく働いてくれた孝行息子の軍服
  姿の写真の額を、母は胸でかき抱くようにしてから私をじっと見
  た。
  「お国のためじゃけに……」
   喉にからむような小さな声で一言そう言った。涙がにじんでい
  た。
   沖縄の家族は、アメリカ軍の沖縄上陸作戦で全滅した。まだ元
  気だったウシの老母も、姉とその子供たちも皆、アメリカ軍の沖
  縄上陸作戦に巻き込まれての犠牲であった。日本帝国陸軍の最後
  のあがきは住民を戦禍に巻き込み、死者十数万人を出すに至って
  いる。米軍の集中砲爆を逃げ切れなかったのか、壕の中で自決し
  たのか、故国の家族の最後を、仲嶺ウシは知らない。
                  (ブリエアの解放者たち)

 六月二十九日、第442連隊に休暇が与えられた。恐らくこの休暇は、太平洋で日本軍と戦うための準備であろうと誰もが考えていた。その日本では、多くの都市が爆撃を受けていた。
「アーネスト待っていてくれ。僕たちもそちらへ行くから!」

 七月七日、第442連隊はピサ、フィレンツェ、リボルノ地域に入り、捕虜キャンプの看視と兵器弾薬、車両や軍用品の整理に当たっていた。
 七月十七日、ドイツのポツダムで日本に対しての会談が開かれ、七月二十六日、『ポツダム宣言』がなされた。二世の兵士たちは、日本がこの宣言を受け入れてくれることを、心から念じていた。それは日本との戦いを恐れたからではなかった。早く平和が欲しいという気持ちからであった。

   八月六日の広島や長崎への原爆投下のニュースが伝わったとき、
  周りにいた日系兵たちは、「日本人のあなたの前では使えないよ
  うなスラングで、『日本をやりこめた』と大喜びだったのよ」ホ
  ノルル・スター・ブリテン紙からの特派従軍記者として、再びイ
  タリア戦線に戻った日系部隊に付いて回ったという白人女性がそ
  う言っていた。
   日系兵たちは、日本のことなど意にかけてもいなかった。一〇
  〇%以上のアメリカ人であった。彼女が日系兵から受けたこの時
  の印象を、疑うというのではない。それはそれで日系兵の一つの
  顔であったと思われる。日系兵の親の出身地で一番多いのが広 
  という事実一つから考えても、その思いは複雑であって当然であ
  ろう。            (ブリエアの解放者たち)

 この広島や長崎に落とされた超大型の新型爆弾(原爆)投下のニュースは、これから戦われるであろう日本本土上陸作戦の、大きな弾みになると思われた。しかしあの小さな硫黄島でアメリカ側二万八千名、沖縄では一万九千名の戦死傷者を出している。これから先の日本軍の抵抗はより強くなるものと考えられた。しかしそれだからこそ、我々第442連隊は太平洋へ行き日本本土上陸に参加すべきだ、と考えていた。まだ日本が、『ポツダム宣言』の受諾をしたとのニュースはなかった。
「こうなれば、我々が太平洋に行く他はあるまい」
「我らの旗印はリメンバー・パールハーバーだ! 日本への復讐だ!」
「そうだ、我ら戦いの原点はそこにある!」
「我々は、アメリカ人だ!」

 八月八日、ソ連軍が日ソ中立条約の期間を残したまま一方的に破棄、満州で攻勢に入った。
 八月十五日、ついに日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をした。
「我々は勝った! そして戦争は終わった!」
 しかし歓声は上がらなかった。これで地球上のすべての場所での戦争が終わったのは分かっていたが、それぞれの心の中には、父母の国への深い問いかけが澱のようによどんでいた。

 連合軍の兵士たちはそれぞれの任務を遂行しながら、それぞれの国への帰国命令を待っていた。第442連隊でも、戦争が終わった今、いつハワイに戻れるかが最大の関心事であった。多くの兵士たちは、早くハワイに帰りたいと願っていた。実際に彼らは、家に帰れさえすれば形式などどうでもいいと思っていた。
 第442連隊ではまとまった人数を乗せる船がなく、船が来るたび少しずつイタリアを離れた。乗れなかった100大隊の兵士たちは、できるだけイタリアで残された生活を楽しもうとしていた。彼らはキャンプ・マッコイ以来の野球チームやフットボール・チーム(ブルー・デビルズ)を復活してトリエステやリボルノで地元のチームと試合をした。また楽器に心得のある者たちはビーチコンバース・オーケストラを結成し、ローマでハワイのセレナードを演奏したり、イタリア王国のウンベルト王に謁見したりしていた。
 彼らは戦士でありながら、平和のためのアメリカ大使の役を果たそうとしていた。

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最終更新日  2008.09.15 08:59:39
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