『福島の歴史物語」

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2008.08.28
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  露営のとき、リチャードはうっかり八〇オクタンのガソリンを飲んでしまった。急いで救急センターへ行った。軍医の指示により、大量の塩と水を飲まされた。そして喉深くに自分の指を差し込んでいま飲んだ水と一緒にガソリンを吐き出した。そのガソリンは、各班に支給されていたホータブルコンロに、サイフォンの原理で給油しようとして吸い込みすぎ、あやまって飲んでしまったものであった。
 十二月二十五日、雪の中のクリスマスは、雪だるまを作ったり写真を撮りあったりしたキャンプ マッコイでのクリスマスのことを思い出した。それにしても戦場が長く感じられたが、あれからたかだか一年と過ぎていなかった。彼らは近くの丘から常緑樹を切り出し、クリスマスツリーとしてキャンプの広場に据え付けた。そこには非常食の空き缶や灌木の間から採ってきた野いちごなどを飾り付けた。ヨスト従軍牧師が祈りを捧げたその夜、クリスマスキャロルを歌った。
「主よ、我らを救い給え」
 妙にしんみりとした夜が更けていった。

 アメリカ第5軍(正確にはイギリス軍、オーストラリア軍、フランス軍、亡命ポーランド軍の10個師団を抱えた大連合軍であった)は、降り続く氷雨と泥濘に悪戦苦闘しながら、一九四三年の年末にはなんとかラピド川の南岸に辿りついていた。しかしそこには瞬く間に何十発もの砲弾が落下していた。
 ロバートの塹壕にも多くの石ころや木片が飛び込んできた。折り柄、排泄中のNはどう始末を付けたのかパンツを片方はいたまま掘りかけの浅い塹壕の中にダイブした。その動作が余りにもおかしかったので、笑いかけたが、叱られる恐れがあるので我慢した。
 夕闇が迫るとあちこちの塹壕の中から兵士たちが飛び出し一番先にやるのが排泄である。そこら一面にある弾痕を利用し、四、五人でぐるりと取り巻き成る可く早く事を済まそうとして懸命の努力を払う。水戸黄門ならぬ肛門がずらりと並ぶ態は、確かに一大壮観を呈したに違いない。不思議なことに、この時間に限って敵の砲弾がやって来る。まるで、我々をからかっているかのようだ。この蟄居のような生活に入って以来、一度も満足に用を足したことがない。ああ、ゆっくりトイレを使ってみたいものだ。
 一九四四年一月八日、第100大隊と第3大隊は、1190高地へ向かって出発した。マッジョ山を越せば、カッシーノは近かった。しかし彼らがカッシーノに到達するまでに、いくつかの山地を通ったが、その道程においてもドイツ軍の反撃を制圧しながらの強行軍であった。この間の戦闘で、マサハル・タケバ軍曹が頭部への一発の狙撃弾により、戦死した。英語が読めない移民一世である母親にいつも日本語の手紙を欠かさなかった優しい二十五歳の青年であった。

 第100歩兵大隊は、ここの作戦までで戦死一一八名(将校七名、下士官・兵一一一名)、戦病死者二一名(下士官・兵のみ)、行方不明者三名(下士官・兵のみ)、戦傷入院者四一〇名(将校二〇名、下士官・兵三九〇名)を数えることとなった。これはサレルノへ上陸したとき約一五〇〇名の陣容であった第100大隊は、当初の六個中隊が四個中隊規模にまで戦闘員が減ってしまったことを意味する。

我ら同胞 カッシーノ
             カッシーノ周辺図


 カッシーノはイタリア半島南部から西海岸寄りにローマに北上する幹線道路の要衝で、周囲を高地に囲まれた峡谷の町であった。町の東方の高地はモンテ・カッシーノと呼ばれ、頂上に西暦五九二年建立による高名な聖跡ベネディクト派修道院があった。
 連合軍がローマに進出するためには、急流ラピド川を渡河し、モンテ・カッシーノ修道院を中心に築かれたドイツの強力な防衛線を突破しなければならなかった。そのため苦戦は目に見えていたが、連合軍にとって一日も早くローマを奪取することはイタリアでの戦争を象徴的且つ実質的に勝利に導く上での至上命題であった。ところで一方のドイツ軍にとってこのモンテ・カッシーノを突破されるということは、ここイタリアのみならず、バルカン半島から南フランスをも失うことにつながるので、連合軍以上に切羽詰った状況に追い詰められていた。ここでの戦闘はイタリア戦線における最大の激戦地となった。
 山上のモンテ カッシーノ修道院で迎撃態勢に入ったドイツ軍から連合軍は丸見えで、寒い雪の中を二十三日も露営することになってしまった。ヒデオが負傷して後送されてきた。それを見つけて走り寄るロバートにヒデオが逆に元気を付けるかのように言った。
「僕が『少し後退せよ』との命令で動こうとした時、青白い煙の尾を引いて手榴弾が塹壕へ投げ込まれた。僕はそれをすぐに拾うと投げ返した。すると背後から、「上手い!」と声が掛かった。とまた手榴弾が投げ返されてきた。さっき声を掛けた兵は血にまみれて動かない。そちらへ行こうと這い出した時、鋭い痛みを足に感じたんだ。あいつは大丈夫だったのだろうか?」
「分かった、心配するな。もう話をしなくてもいい。それでも傷が浅くてよかった。大事にしろよ」
 サブロウ・ニシメに次いで二人目の親友の負傷である。ショックは大きかった。

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最終更新日  2008.08.28 06:50:15
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