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●パットン将軍の略歴
ジョージ パットンは、カリフォルニア州インディオに砂漠戦訓練センターを設立した。
一九四二年十一月にパットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団を指揮しトーチ作戦でモロッコに上陸、その後中将に昇進して第2軍団を率いた。パットンは北アフリカでロンメル将軍率いるドイツ軍戦車部隊を破ったことで有名である。なお一九四三年五月までには、米英軍の攻撃によりドイツ軍は北アフリカから撤退した。
一九四三年八月、アメリカ第7軍を指揮してシチリア島に上陸した。島の西半分の占領を担当していたが、イギリス第8軍とは対照的に迅速な進撃を行った結果、イギリス軍の担当箇所であった島北東端のメッシナをイギリス軍より先に占領した。
ノルマンディー地方の戦いにおいてはアメリカ第3軍の指揮を執った。またコブラ作戦においてはドイツ軍の戦線を突破する大進撃を実行し、フランス西部のドイツ軍を包囲・殲滅した。
一九四四年八月、パットン率いる第3軍もフランス東部ロレーヌ地方に進撃する。
一九四四年十二月、ドイツ軍が攻勢に転じたバルジの戦いで、パットンはバストーニュで包囲されているアメリカ第101空挺師団を救出するために軍を出動させ、果敢な進撃により同師団を救出した。
パットン将軍.Wikipedia
●ウォルター マッカラン法(排日移民法改正)
アメリカは憲法により自国で生まれた人々すべてに市民権を与えてきた。これにより二世は自動的に市民となりえるのに対し、一世はその機会が得られなかった。当時、インド人や中国人が帰化権を与えられ、アメリカ市民になれたこともあって、帰化権獲得は世代を越えて日系人の悲願となっていた。
ジャッド議員の改正案は「まずアメリカに永住している約9万の帰化不能の日本人に帰化権を与える。次に日本人、朝鮮人、その他の帰化不能のアジア人に対してすでに中国人、フィリピン人、インド人などに与えられているような移民割り当てを適用する」というものであった。
一九四九年にジャッド議員の提出した法案は下院で圧倒的多数で可決されたが、上院にて南部を代表する議員の反対にあい、棚上げとなってしまった。その後も移民帰化法改正は何度となく試みられた。この権利は、第100歩兵大隊や第442連隊の活躍、ジャッド議員のような人々の努力、そしてJACL(日系アメリカ市民協会)の議会、世論への積極的な働きかけがあればこそはじめて勝ち取れたものであるが、それでも第二次大戦後の七年を要したのである。実際に一世が帰化する権利を手にするのは、一九五二年の、ウォルター マッカラン法が成立してからであった。
一九五二年十二月六日、ロサンゼルスではこの法案成立を祝う盛大な祝賀会が開かれた。そのときジャッド議員は、壇上で次のように語っている。
「新移民帰化法の成立によって、差別的条項は除去されました。私は不公平な法律に終止符がうたれたことを、日系人のためにはもちろん、アメリカのためにも深く喜んでおります。アメリカの精神がこの新しい法律によって生かされたことを、アメリカ人としてもこれ以上の喜びはないと思っております。
私は二年前に帰化法を成立させて日系人へのクリスマスギフトとして贈りたいと考えたのですが、それは頑迷な一部の人々の反対にあって実現できませんでした。しかし二年後の今日、ようやくクリスマスギフトとしてお贈りすることができたわけです。この新しい法律はアメリカの独立記念日の直前に成立して、クリスマスから発効します。実に意義深いことではありませんか。 (「大和魂と星条旗」p192)
なおこの法律は一九五〇年九月に下院を通過したのであるが、実際に上院を通過して法律となるのに、さらに二年を必要としたのである。
ウォルター・ジャッド.Wikipedia
● 第二次大戦での日系二世軍人
総数一六、〇〇〇名。
うち、戦死者数、七〇〇名。
第442連隊戦闘チームの終戦時の記録。
議会名誉勲章 七個。
個人勲章 一八,一四三個(米史上最多)
戦死傷率 三一四%(米史上最多)
日系人部隊が編成されてからの2年間で、第442連隊はアメリカ陸軍史上、一連隊としては、最も多く勲章を受勲した部隊となった。
また、太平洋戦線に投入されたMISLS(軍情報語学学校)卒業の日系兵士の働きは太平洋戦争での「情報戦」を制するものであった。
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