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──ところでツキヤマさんは『ワン プカ プカ に敬礼を』という文
を『Japanese Eyes American Heart 』に書いていますね。
ギニーピッグ・バタリアンは挫けない
祖国の愛と恩恵を
深い感謝に包み込む。
心からの敬礼を
ワン プカ プカ のこの旗に。
このギニーピッグの意味が分からないのですが。
T ああそれについて我々は、『捨て石部隊』という意味で用いまし
た。
(注)Guinea Pig Battalion・テンジクネズミ。モルモットと思
われているが全く別の実験用動物。
○ 日本は戦争に負けて勝った。
──そうかも知れません。
○ しかし考えてみると、日本の教育程度は高いのに、なぜ戦争に
踏み切ったのですか?
──当時の日本では、外国からの放送を聞くことや新聞を見ることを
禁じられていました。外国からの短波放送を聞くと、逮捕されま
した。ですから政府や軍部からの情報しかありませんし、「日本
が勝った勝った」と報道されましたから、そうだと思っていまし
た。
戦争中、私は国民学校(小学校)三年生でしたが、先生に「この
戦争は一〇〇年戦争だ、お前らが天皇陛下の御為に命を捨てる時
間の余裕は充分にある。しっかり勉強しろ」と教育されていまし
た。
○ なるほどね。
──国民に本当のことを知られて戦争に反対されるのを恐れた日本は、
負けても勝ったと放送するから、国民に本当のことを知りません
でした。政府を批判する人は、すべてアカ(共産主義者)と呼ば
れて検挙拘束され、拷問を受けました。
○ あー、困ったもんだね。
──それに兵隊たちも負けたことは「軍事機密だから家族にも言う
な」と命令されていました。国民の誰もが、本当のことを知りま
せんでした。
○ 恥ずかしいが私の親も『日本が勝った組』だった。四~五人寄
って毛布をかぶって日本のレディオ聞いて、「なんで勝っている
日本が負けた?」と言っていた。
──一方的な情報とは、そういうものかも知れません。
○ 僕がユニフォーム(軍服)着ていたのに親父が引っ張られて・・・、
そういうこともあったんだ。
○ 日本ってどう書くか? 日の元だ。日の元の国のお日様がなく
なったらどうなるか? 親父さんのいない家庭はあり得ない。日
本のない世界の存在はあり得ないって教えられた。
──なるほどね。日本で私たちも、同じような教育を受けていました。
「天皇陛下は現人神である。神様の統治する神の国だから負ける
訳がない」(笑)と・・・。ひどい教育ですね。でも私たち子ど
もは、そんなものだと素直に受け入れていました。(爆笑)
○ そうか。しかし我々も覚えさせられたな。神武、綏靖、安寧、
懿徳・・・。
私は彼らが延々と続ける天皇の諡号の記憶に、ハワイにおける戦前の教育を隙間見る思いであった。
──ブラジルでは『勝ち組と負け組』が喧嘩をして、殺人事件まで起
きたそうです。
○ それは知らなかったね。ハワイではそれはなかった、しかしホ
ノルルのアレワの丘に『日本が勝った組』が毎日のように集まっ
て、日本の軍艦が自分たちを迎えに来るのを見ようとして待って
いた。
──そうですか。日本では八月十五日に天皇が「耐え難きを耐え、忍
び難きを忍び」と放送したので負けたと分かった人は多かったの
ですが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」んで戦えと解釈した
人もいました。
○ 僕は戦後の日本の町で「お前は日系人か?」と聞かれ「そうだ」
と答えると、「敵として戦ったあげく負けた国にやってきて、お
前は楽しいのか」と責められた。何とも答えられなかった若き日
の自分が、今も情けないよ。
彼は寂しそうに言って肩をすくめた。
○ しかし我々は祖国のために戦うことができたのを誇りに思う。
R 我々は見かけこそ日本人だが、れっきとしたアメリカ人だ。忠誠
心を持ち、祖国を守るという義務を果たしただけだ。戦後しばら
くしてから、二世という単語は、我々に誇りを与えてくれる単語
となった。すなわち、彼らが、我々がアメリカの地で生まれたア
メリカ人であるということを認めてくれるようになったからです。
(D ドロシーラ・タナカ。 G ジョージ・スズキ。 H ヒ
デオ トウカイリン。 R ロバート・サトウ。 S サブロウ・ニシメ。 T テッド・ツキヤマ。 W ウォーレン イワイ。
(なお○印は、資料館での会合の話であったので、発言者が特定できなかったことによる)
私が第100大隊資料館を辞する際、彼らから「いつ、本が出来る?」と尋ねられた。返事に窮したが、彼らの年齢はすでに八〇歳を超えている。
「ハワイは虹のきれいな所です。本の題に虹を使うといいよ」そう言ってくれる人もいた。
ロバート・サトウは私をパンチボウル国立墓地に案内しながら言った。
「僕らはアメリカ本土で強制収容所に入れられた日系人、つまり親や親戚、時には兄弟を助け出したいと思って徴兵に応じました。それはまた、戦前から長く続いてきた僕らに対する人種偏見との戦いでもあったのです。しかし今、僕はパンチボウルで一番いい場所を第100大隊にくれたアメリカに感謝しています。僕らアメリカで生まれ育った者への素晴らしい配慮だと思っています」
傷跡に手をやる毎に思いけりイタリーの山に栗拾いし頃
(ロバート・サトウ)
「今でも第100大隊の寡婦で、週に二回欠かさずお参りに来る人がいます。ここには第100大隊でも、ホノルル出身者が多く祀られているのです。それぞれの島にも国立墓地があります。親がお参りし易いように、出身地の島に祀った人も多いのです」
(ドロシーラ・タナカ)
ロバート・サトウ氏とパンチボウルの第100大隊記念碑を前に
(終)
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