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(1942/6/21~1943/9/3) 五日間の航海の後、ハワイからの第442連隊の志願兵はサンフランシスコのオークランドに到着した。オークランドからは列車に分乗して、第100大隊の待つキャンプ・シェルビーを目指したのであるが、第100大隊の時と同じように、列車の経路は北部・中部・南部のルートに分けられた。そしてそれぞれの列車には、白人の兵士が米軍の軍服を着た日系人を護衛するために同乗したのである。
アーネストは中央ルートであった。シェラネバタ山脈、ロッキー山脈を越えてユタのソルトレーク、コロラド州のグランドジャンクション、デンバーを通過していった。彼らの車両はブラインドを下ろすように命じられた。密閉された暑さのために、ほとんどがアンダーシャツ一枚で過ごした。この措置は、反日感情の良くないカリフォルニア州を過ぎるまで行われたが、実際には二世を守るためであったのか、あるいは太平洋岸の諸施設をとりあえず見せないためであったのかは分からない。
列車が南部に入ったころ、二世たちは列車の中で白人将校から、「このあたりには二種類の人間がいることを知っておくことだ。それは白いのと黒いのだ」と忠告された。誰かが「俺達はどっちだ?」と問うと、「自分達を白人だと思うことだ」と言われた。事実、南部に入って停車する駅は切符売場も「White」と「Colored」に分けられており、はじめて本土の厳しい人種差別に直面した。彼らは知らなかったが、ある駅に停車した時、出迎えに出てきた赤十字の役員とドーナッツガール(女子慰問団)が、「中国兵たちが英語を話している」と言って騒いでいたという。やがて列車がキャンプ・シェルビー止まった時、はからずも歓声が上がった。
「俺たちはここで訓練を受け、戦場に出る」
窓外の暖かい日差しの中に、広大な牧草地のような草原と疎らな林が点々と見えていた。ハワイでは見ることのできない広大な平野、そして遥か東には低い丘が見えていた。キャンプ・シェルビーはアメリカでも三指に入る大規模な訓練基地であったが、第442連隊に割り当てられた宿舎は酷いものであった。ここへ先着していた本土出身二世たちは、やがて各地から到着してくる二世たちの第442連隊においての中核となるのであるが、当面の仕事は老朽というか崩壊寸前の兵舎を居住可能とするために、土木、建築、配管、塗装、植栽から煙突掃除までの全てをこなして後続を待っていた。ところが、この微妙なタイムラグが、本土出身とハワイ出身の二世との間に軋轢を生むことになる。そしてもう一方の当事者の第100大隊は、実戦訓練のため、キャンプ・シェルビーから広大なルイジアナ州マネウヴァ地域に移動させられていた。ここにはいなかったのである。
アーネストたちがキャンプ・シェルビーに到着した時、すでに軍は強制収容所や他の内陸部の州から来た二世たちをハワイの二世より責任のある地位につけてしまっていた。これが不満の種となった。それに言葉の問題があった。本土からの二世はハワイのピジョン英語の発音より滑らかであり、そのことがより知識人であるかのように見えた。それらのことが、両者の対立をさらに強めることとなった。そしてハワイアンはこれらメーンランダーに、コトンクというあだ名を進呈したのである。実の入っていない椰子の実は、落ちる時にコトンと空の音を立てる。メーンランダーの頭を叩くと、同じような音がするという発想であった。
一方メーンランダーはハワイアンをブッダヘッドと呼んでからかった。仏の頭、つまり日本的頑固者の意味に豚の意もからませたらしい。ハワイアンとメーンランダーの対立がエスカレートしていった。
ところでこの第442連隊にも第100大隊が所属する連隊がなかったように、連隊の『親』であるべき『師団』が存在しなかった。そのため第442連隊には主力の歩兵三個大隊に加え、野戦砲兵大隊と戦闘工兵中隊などを擁することになる。これが正式には第442歩兵連隊ではなく『第442連隊戦闘団』と呼ばれた理由である。つまり、師団の編成を連隊規模に縮小したものであった。
やがて訓練から戻ってきた第100大隊の先輩たちは、ハワイから来た弟や知人たちの行動に気をもみ、メーンランダーとの間に入ってそれ以上の悶着にならないよう配慮していたが、第100大隊と第442連隊との間もまた必ずしもしっくりした関係にはなかった。第442連隊の側に、第100大隊に負けてたまるかという競争心と、徴兵された第100大隊と違って我々はアメリカ全土からの『志願兵』によるものだという優越感があったものと思われる。しかしアーネスト、タダシ、ロバート、リチャード、ヒデオ、サブロウの親友たちの間に、ひびの入ることはなかった。
アーネストとタダシは第442連隊・第522野砲大隊に配属された。そして105ミリの曲射砲の基礎訓練がはじめられたのである。それは勿論、楽なものではなかった。一日の訓練が終わったある夕方、いつものように訓練担当の軍曹が号令をかけた。
「番号!」
「一、二、三、四.・・・・・・・・・・」
「アーネスト一等兵は残れ。全員解散!」
近くに来た軍曹がにこりともせず言った。
「アーネスト一等兵。明朝九時、連隊本部に出頭せよ。明日の訓練には参加せずともよし。以上」
「イエス・サー」
アーネストが挙手の礼をすると、軍曹も軽く返した。
——何故だ。何故僕だけなのだ。連隊本部に呼び出しを受けるような、何か悪いことでもやったというのか?
翌朝九時、アーネストは連隊本部に出頭した、本部付けの白人の中尉が訊いた。
「君は日本の中学(旧制)を卒業した帰米二世だそうだな?」
「はい」
「この報告書によると日本語に堪能とある」
「・・・」
「そこでだ、この日本語の本を英訳して貰いたい」
そう言って出された分厚い本は、日本陸軍の作戦要務令であった。
「部屋は準備しておいた。早速とりかかってくれ」
アーネストはこの軍隊調の古文にも似た膨大な資料を何日もかけ、やっとの思いで翻訳して提出すると中尉が言った。
「OK、もういい。後日私から連絡する。ただし今日のことをしゃべったら軍法会議だ。分かったな」
なお作戦要務令とは、日本陸軍が作戦の基本をまとめた指揮官用の資料である。
その後の一週間ほど猛訓練に耐えていたアーネストは。再び連隊本部に呼び出された。ミネソタ州ミネアポリスにあるキャンプサベージのMIS(The Forth Army Intelligence School・第4軍特別情報学校)への転属命令が発令された。そこで日本語の通訳として学ぶことになったのである。
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