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(アメリカ本土での富造の足跡)
一八九〇(明治二十三)年一月、富造はサンフランシスコの北、約八〇キロメートルのカルフォルニア州サンタローザ(日系人は親しみを込めて三太郎と呼ぶ)に移ることになった。そこのファウンテン・グローブ(長沢農場)に就職が決まったのである。この知り合いのないアメリカで、日本人の経営する農場に勤めることができたことは、そして日本語だけでも通じることができるという意味でも気の休まる仕事であった。そしてそこで飼っている馬や家畜の世話が、さらに彼の心を和ませていた。しかしここでは日本人ばかりではなく、多くのメキシコ人やフィリッピン人も入り交じって働いていた。
長沢農場は、葡萄王と言われた日本人の長沢鼎(本名・磯長彦助)の経営する農場であった。長沢は鹿児島藩の出身で、慶応元年、藩より英仏留学を命ぜられ、さらに森有礼、寺島宗則らとともにアメリカに渡っていた。一八七九年、サンタローザで親日家のアメリカ人ハリスとともに広大な葡萄園・ファウンテン・グローブを経営し、一八八二年には葡萄酒醸造業を興した。ハリス没後、その遺産の全部を継承した長沢は、長沢農場と名を改め、当時は百万長者とうたわれていた人であった。現在サンタローザの市議会ホールには彼を顕彰する胸像があり、それにはレーガン大統領の賛辞が添えられている。
ところで富造が渡米する十年も前のカルフォルニア州では、清国人移民の入国禁止案が一般投票にかけられ、圧倒的多数で可決されていた。しかもこれら人種差別の法律は、清国人から提訴の権利さえ奪ってしまったために、白人に殺されても法的な抵抗さえできなくなっていた。それもあって一八八五年には、ワイオミング州のロック・スプリングのチャイナタウンが白人の襲撃を受けて放火され、清国人二十八人が死亡、十五人が負傷し、さらに数百人が町を追われて家や商店が破壊される事件が発生していた。その理由は、清国人が低賃金で働き、しかも白人のスト破りの要員として使われたことに対する、白人労務者側の反感があった。また一八八六年にはオレゴン州で清国人へのリンチ事件が相次いでおり、多くの清国人が虐殺されたりしていた。白人は清国人移民を殺しても、この法律により、ほとんどその罪を問われることがなかったのである。
富造が渡米した一八八九年に、バンカビルで白人労務者による日清両国人の労務者が襲撃される事件があった。彼らには、日本人と清国人との見境がつかなかったこともあった。このサンタローザの北の方でも、多くの清国人が人種差別の嵐に中で殺害されていた。しかもその方法たるや、清国人たちを何もない草原に追い立て、野生動物を狩るかのように馬で追い、鉄砲で撃ち殺したのである。そのため過酷な状況の中で生き残るようなことを、チャイナマンズチャンスと言われるようになっていた。チャイナマンとは、清国人の蔑称であった。
このようにアメリカは清国人を排斥しながらも、それに代わる廉価な労働力を必要としていたそこでアメリカは、日本人に目を付けた。そして正にこの年、日本人が本格的にアメリカ移住をはじめたのである。しかし白人労務者にとっての労働市場での圧迫は、清国人も日本人も同じことであった。今まで緩やかだった矛先が、日本人にも向いてきたのである。富造が渡米したのは、そういう時期であった。
一方ニューヨークに行った重教はウェスタン・エレクトリック会社に入社し、約一年の間、電信器、電話交換機そして電気鉄道の実習に励んだ。そしてそれが終わるとシカゴからカナダに回り、バンクーバーから日本に帰った。富造のいたサンフランシスコを通らずカナダに回ったのは、できるだけ多くのものを見ようという考えからであった。
やがて日本に戻った重教から、近況を知らせる手紙が届いた。それには、はじめて実施された衆議院選挙に河野広中が立候補し、次点に四倍の差をつけてトップ当選したこと、周太郎が千駄ヶ谷村(いまの東京都)にあった旧信濃高遠藩の江戸下屋敷跡の土地を借り、桑を植えて養蚕をはじめたこと、重教本人は三吉電機工場に入社して日本電気学会の評議員となり、さらに月刊誌・電気の友を創刊し、またアメリカでの電話の呼びかけ声「ハロー」を日本語に訳せないため「申す申す」から「もしもし」にしたこと、などが書いてあった。そして最後に、周太郎が養蚕と酪農の研究に渡米したがっているとの意向が記されていた。富造が長沢鼎農場に就職したことを知ってのことであった。そして、ミネが男の子を産み、父の直親が克巳と名付けたことを知らせてきた。
──俺も父親になっていたのか!
外国に居てのこの知らせは、故郷への想いを募らせた。
「カツミ、かつみ、克己」
まだ見ることのない幼な児に、声をかけてみた。
──どんな顔をした子なんだろう。
そう思うと、嬉しいよりも寂しさが先立った。居ても立ってもいられない気持ちであった。
──もし収入があったら、兄貴が来るときに一緒に連れてきてもらえるんだが。しかしこの厳しい被差別の中で、女房、子どもが安心して暮らせるだろうか?
そうも思ったが、サンタローザでの仕事は富造が日本で獣医として学んできた経験が生かせる羊牛飼育とその健康管理の仕事であったので、それはそれで気に入っていた。
アメリカでの生活は、富造が思い描いていたような楽しいことばかりではなかった。そしてサンフランシスコの菅原は、発行部数の少なくなった新聞で、筆鋒鋭く次のような主張していた。
「米国政府ハ外面自由平等ノ主義ヲ主張シ、内面外人ニ対スル政略ハ、其ノ主義ニ反シ」ており、「米国ハ商工業ニ非常ニ自由ノ保護ヲナシ他国ニ向テ非常ナル不利益ヲ与フ、清国人放逐ノ如シ」とその欺瞞性を論じ、「日本にては賢者は必ず富を致さず、愚者必ず貧を致さず、貧富は愚賢に随はざることの如く心得候へども、当国にてはこれに反し、賢者は富を得、愚者は貧を招くことを通例と致候」とその優勝劣敗の原理を肯定していた。
バンカビルでは、再び日清両国労務者が白人労務者に襲撃される事件が発生した。この日本との余りにも違う生活と環境は、富造自身に対して日本人とは何か? という命題を突きつけることになった。