その頃アメリカ社会での清国人排斥運動がエスカレートし、日本人もその槍玉に挙げられてきた。アメリカの新聞の論調も激越となってきていたのである。見出しの幾つかを取り上げてみる。 Influx of Japanese(日本人の流入) The Mikadoユs Subjects Crowding into the United States(日本帝国臣民が米国へ殺到) Over four Thousand Hear Now(既に四〇〇〇人が在留) They Are Mostly Students and Eke Out An Existence by Service Out(ほとんどが学生で家庭に奉公口を得てやっと生活) Objectionable Immigrants(嫌悪すべき移民) Twenty-five Japanese Returned by Commissioner McPherson(二五名が移民官マクファーソンの手で送還) Another Tide of Immigration(移民再び増加の気運) The Japanese Colony Increasing Very Rapidly(日本植民の急増) What the Subjects of the Mikado Do When They Come Reach California(帝国臣民はカルフォルニアに来て何をしているのか) Their Effect Upon the Labor Market(彼ら労務者の就労に及ぼす影響) Importation of Women for Immoral Purpose(売春の目的で日本人女性の移入) 等々であった。やがてこのような記事が日本の世論を硬化させ、本気で「日米若し戦わば」という議論が発生した。しかしアメリカに住む移民たちが感じる屈辱感はアメリカ人に向かって直接晴らすことはできず、内向せざるを得なかった。そしてこの内向した意識は、日本人としての国家意識に収斂されていった。たとえばそれは、富造個人が軽蔑されることは日本人としての対面を傷つけられるだけでなく、日本国が辱められることと思えたのである。そういうことがあっては日本国に対して申し訳ない、と感じていた。そのためもあって富造は、何とかアメリカの社会に溶け込もうと努力していた。それは差別から逃れる最上の方法だとも思っていた。