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(『あとがき』とは、本来、話の最後に書くものですが、このブログにおいては、話の理解を深めていただく意味において『まえがき』の次ぎに持ってきました。どうぞご了承頂きたいと思います。)
あ と が き
『まえがき』に述べたような会話がきっかけとなって調べはじめた阿武隈川命名の推察作業は、思った以上に難航した。日本の古代の歴史にその切り口を求めて書きはじめてみたもののそれだけでは足りず、日本神話、邪馬台国、東日流外三郡誌、そして田村麻呂と多岐にわたっていったからである。しかもそれらは、田村麻呂の登場時期が遅れていただけで、古代史、日本神話、東日流外三郡誌、邪馬台国の四件は、ほとんど同時代の中で並列的に、しかも同時進行していたのであるから、書いてみるとその煩雑さに手を焼くことになってしまった、そのためにやむを得ず話を分解して構成し直し、三話に分割して関連づける手法をとってみたのがこの作品である。読み難さをお詫びしながら、ご厚情に甘える次第である。
まず『第一章 阿武隈川~蝦夷と大和の境界線』において、日本神話と邪馬台国から日本の古代史を俯瞰してみた。古代、阿武隈川は、蝦夷と大和の境界線であったという。しかし大和が東北に進出するにあたっては、南から北へ平均的に押し上げて行ったと考えるのが妥当であろう。しかるに、阿武隈川は福島県を東西に分かち、流れている。すると蝦夷と大和は東西に分かれていなければならないことになる。これはどういうことなのであろうか。日本神話と邪馬台国から書き進めながらも、これらを補足する形となったのが東日流外三郡誌であり田村麻呂であった。
『第二章 三春藩と東日流外三郡誌』で参考にしようとした『東日流外三郡誌』は、問題の多い書である。昭和二十二年に青森県五所川原市で発見されたというこの書は、贋物であるとする説が強いからである。しかしこれの作成を命じたのが三春藩主の秋田千季(ゆきすえ)であり、その命に従ったのが弟の秋田孝季(のりすえ)であったとされることから、三春との関連が憶測される。そのため第二章は、三春藩との関連を強調する結果となってしまったが、この調査の結果として、本文中にあるように私なりの大きな発見が四件ほどあった。この東日流外三郡誌のなかに『阿武隈川命名』に関する直接的記述はなかったが、そこには日本神話と邪馬台国との関係で無視出来ない内容が含まれていたのである。
『第三章 田村麻呂~その伝説と実像』は、第一章と第二章の時代より五〇〇年ほど遅れて登場した田村麻呂に焦点を合わせたものである。『阿武隈川命名』については第一章の最後に推考してみたが、第一章を補足しようとしたものが第二章でありこの第三章である。阿武隈川が田村麻呂の胆沢での戦いでの兵站線になったのではないか、と考えたのがその理由であった。福島県の田村地域には、田村麻呂の生誕から凱旋に至るまでの多くの伝説が残されている。そのためこの地には、田村麻呂の伝説が実話であると思い込んでいる人は多い。それはともかく、この他にも郡山市逢瀬町や湖南町、須賀川市、白河市、岩手県、宮城県、そして栃木県にも伝説が残されている。田村麻呂伝説をその実在と並行させることでこの三話の総括としたかったからである。
とは言っても、これらの話を、独立した三話として読んで頂くことは、一向に差し支えない。それにしても、このややこしい話を懸命に読みやすくしようと努力はしたが、意に反したところが少なくない。これらの話の煩雑さを避ける意味で、その多くを巻末に資料としてまとめてみた。ご参考に供することができれば、幸いである。
なお本文(田村麻呂)にも入れたが、延暦十(791)年、安積の大領で外少八位上・阿倍安積臣継守が軍粮米を提供したことで、外従五位下の位を与えられている。このことは、当時の安積地方にそれなりの農業生産力があったことを示していると思われ、現在市内の各地に残る多くの池や沼は、そのための灌漑施設であったとも考えられる。この理由から、明治になって作られた安積疎水によって郡山が沃野と化したという説は、一考を要しよう。
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「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」の資料 2010.12.11