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この表を見て気がつくのは、阿武隈川の西、つまり『阿』の国にも、結構鬼が多いということである。しかしこれは、大和が蝦夷を討った跡、もしくは蝦夷が帰順した跡と考えてはどうであろうか。例えば郡山市逢瀬町多田野に多くある鬼の付く地名の所には、田村麻呂ばかりではなく、源義家や鎌倉権五郎が鬼を退治したという伝説や、近くにある浄土松の大蛇伝説が残されている。このことから、この地域にも広く蝦夷が住んでいたと考えられるが、いずれ蝦夷が、自分たちの方から鬼という表現をすることはあり得ないことである。
今これら鬼のつく地名の場所は、ほとんどが市街地になったり農地になったりで、不気味な風景は残されていない。大滝根山でさえ『あぶくま鍾乳洞』などの開発で観光地化し、今も鬼穴と言われる近くの大きな穴に鬼が住んでいたとはとても見えない。その中で唯一その感じが残っているのが、御霊櫃峠の中腹で、『鬼ヶ城』など鬼のつく地名が集積している所である。そこで逢瀬町史談会の鈴木忠作氏のご案内を得て様子を見に行ってみた。想像はしていたが、逢瀬川源流の谷の道はまるで沢登りであった。ようやく行き着いた所に洞窟は一つしかなかった。そこは深い山であった。明治の頃、毛筆で書かれた郷土史によると、大きく湾曲して切り立った崖の壁に複数の洞窟があるという。しかし鈴木氏もそういう場所は知らず、その後も見つかっていない。
さてこれにて『阿武隈川』の一件は落着と思ったのであるが、田村麻呂に滅ぼされたという大武丸のことがどうもしっくりこなかった。宝亀元(七七〇)年、田村麻呂の父・苅田麻呂は陸奥鎮守将軍となり、多賀城に赴任した。宝亀三(七七二)年、郡山に住む丈部継守(はせつかべのつぐもり)ら十三人が兵糧を提供したことにより、阿倍安積臣(あべのあさかのおみ)という姓を賜り、外従五位下の位を授けられた。これは郡山地方が多賀城の兵站基地になっていた証拠であろうし、逆に位を与えてまで実行させなければならない重要なことであったのであろう。この阿倍安積臣という姓は戦士もしくは人夫や兵糧、そして経済的支援をさせられたことに対しての恩賞であったとされている。郡山に残る虎丸長者や花畑長者の伝説は、これらの業務を拒否し、抑圧され没落していった話とも言われている。
田村麻呂が蝦夷との戦いに登場するのは、延暦十(七九一)年のことである。田村麻呂は征夷大使・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の副使という立場ではあったが実質的な大使として胆沢(岩手県奥州市)で蝦夷と戦って大勝を博したときである。しかし彼らの軍団が都を出発して胆沢に到着する間に戦いがあったという歴史上の記録は、どこにも残されていない。それにもかかわらずその中間地点である田村地域には、田村麻呂の出生から凱旋までの伝説が色濃く残されている。たしかに蝦夷討伐軍が胆沢に行くために、東山道から白河関を越え阿武隈川に沿って北上したであろうことは想像できる。しかも尚かつ、何度かの戦いの度に通っていたのであろうから、田村麻呂の伝説が残されたということも想像できる。それを肯定した上で蝦夷や田村麻呂、そして安積の歴史を重ねてみると、この頃の福島県域は大和の勢力範囲にあったことになる。ところが安積地方で大和側として働いている人々がいるにもかかわらず、また田村麻呂が胆沢という遠隔地で戦っているのにかかわらず、大滝根山で田村麻呂に討ち滅ぼされたという悪路王・大武丸の伝説が残るのは何を意味しているのであろうか。田村麻呂が正式に征夷大将軍に任命されたのは、延暦十六(七九七)年のことである。この年、安積郡の人で外少初位上の丸子古佐美、大田部山前が大伴安積連(むらじ)という姓を賜っている。福島県考古学会顧問の鈴木啓氏は、この『勲位は軍功者に与えられるものであるから、(田村麻呂に従って)蝦夷征討に従軍したことがわかる』と言っている。このことからも、また田村麻呂が実際に戦った時期と場所から言っても、田村地域で戦ったとするにはどうしても無理が感じられる。すると田村麻呂以前の時代に、大滝根山で何らかの戦いの伝承となるものがあったと考えざるを得ない。するとそれは誰なのか? そこで考えられるのは日本武尊である。
神話によると日本武尊は、東国平定の際、八槻郷(棚倉町)で八人の土蜘蛛を、また蓬田岳(石川郡平田村と旧・田村郡の郡山市との接点)に棲む吸鬼(水鬼)と吹鬼(風鬼)を討伐し、さらに北の陸奥国竹水門(たかみかど・南相馬市高字城内・多珂神社)において戦ったとされる。ここに出てくる蓬田岳と大滝根山は意外に近く、十五キロメートル程度である。これらのことから、大滝根山での戦いは日本武尊によるものであったものが、『田村麻呂に辺境鎮撫の後方基地として白河、岩瀬、安積、安達、信夫を掌握する位置としての賜田として田村庄が与えられたと推定されている(三春町史 二六五頁)』ことから、田村麻呂が戦ったことに変化していったのではあるまいか。
さてここまで見てみると、蝦夷討伐の英雄・日本武尊は神話上の人物であり、一方の田村麻呂は実在の人物であることが分かる。また双方とも伝説では、二人とも今の福島県域で戦っていたことになる。今それらを証明する方法はないが、この地域に日本武尊や田村麻呂関連の神社が数多く残されているということは、二人の何らかの足跡であったということではなかろうか。田村地域に残る三春駒伝説は、地元の人たちが軍馬を提供して日本武尊に行為が、田村麻呂伝説になったとも言われている。そうすると、少なくとも日本武尊の時代の福島県域はグレーゾーン、大和と蝦夷の鬩(せめ)ぎ合う所であったと考えてもいいのかも知れない。
これらのことから、阿武隈川の名を考察するについて、旧石器時代までさかのぼるべきかどうかはともかくとして、相当、昔のことを考える必要があろう。しかし文字として残された歴史は大分後になってからのことであるから、この空白を埋める必要がある。その埋めるものは、神話ではなかろうか。なおこの阿武隈川と対比して現在使われる阿武隈山地の名称であるが、これは明治十八(一八八五)年、東京大学で地質学を講じたドイツのナウマンが阿武隈川の名称から命名したものである。ナウマンは日本でのゾウ化石の研究開拓者であったことから、彼の発見した化石にナウマン象の名が付されている。
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「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」の資料 2010.12.11