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夏目漱石「二百十日」(定本 漱石全集 第三巻)岩波書店 二月に一度集まっている本好きの会の課題図書ということで、久しぶりに夏目漱石の「二百十日」という作品を読みました。市民図書館で借りましたが、岩波書店の「定本 漱石全集」の第三巻に入っています。ああ、もちろん、文庫本にも入っていますよ。 明治39年(1906年)10月に中央公論という雑誌に発表された作品で、この全集では175ページから257ページですから、80ページくらいの量の中編小説です。 漱石が「吾輩は猫である」を「ホトトギス」という雑誌に連載したのは明治38年から39年の夏ごろまでで、「坊っちゃん」を発表したのが39年の4月です。で、朝日新聞社に入社するのは明治40年の4月で、最初の連載小説が「虞美人草」です。 まあ、せっかく久しぶりに読んだのだから、ついでに読書案内しようと漱石年譜とかを繰っていて、ちょっとおもしろいと思ったのは職業作家として書き始める直前に書かれた作品だということですね。 で、もうひとつ面白いと思ったことがあるのですが、それは、まあ、この書き出しをお読みなってからということで、ちょっと読んでみてください。 ぶらりと両手を垂(さ)げた儘、圭さんがどこからか帰って来る。「何処へ行ったね」「一寸、町を歩行いて来た」「何か観るものがあるかい」「寺が一軒あつた」「夫から」「銀杏の樹が一本、門前にあつた」「夫から」「銀杏の樹から本堂迄󠄀、一丁半許り、石が敷き詰めてあつた。非常に細長い寺だつた。」「這入つて見たかい」「やめて来た」「其外に何もないかね」「別段何もないな。一体、寺と云ふものは大概の村にはあるね、君」「さうさ、人間の死ぬ所には必ずある筈ぢやないか」「成程さうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心する。(中略) かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇ばしった上に何だか心細い。「まだ馬の沓を打つている。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣の下で堅くなる。碌さんも同じく白地の単衣の襟をかき合わせて、だらしのない膝頭を行儀よく揃へる。やがて圭さんが云ふ。「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒の豆腐屋があってね」「豆腐屋があつて?」「豆腐屋があつて、其豆腐屋の角から一丁計り爪先上がりに上がると寒磐寺と云ふ御寺があつてね」「寒磐寺と云ふ御寺がある?」「ある。今でもあるだらう。門前から見ると只大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もない様だ。其御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦を敲く」「誰だか鉦を敲くつて、坊主が敲くんだらう」「坊主だか何だか分からない。只竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降つて、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮ぎつて聞いてゐると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分からない。僕は寺の前を通る度に、長い石甃と、倒れかかった山門と、山門を埋め尽くす程な大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗いた事がない。只竹藪のなかで敲く鉦の音丈を聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ。」「海老の様になる?」「うん。海老の様になつて、口のうちで,かんかん、かんかんと云ふのさ」「妙だね」「すると、門前の豆腐屋が屹度起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。さあさあと豆腐の水を易へる音がする。」「君の家は全体どこにある訳だね」「僕のうちは、つまり、そんな音が聞こえる所にあるのさ」「だから、何処にある訳だね」「すぐ傍差」「豆腐屋の向か、隣かい」「なに二階さ」「へえへえ。そいつは・・・・・」と碌さんは驚いた。「僕は豆腐屋の子だよ」(P180) いかがでしょう、ボクが面白がったことが何だったか気づかれたでしょうか。引用文は作品の冒頭175ページから、180ページの、一部省略しましたが、引き写しです。 旧仮名遣いとか、漢字の使い方にも、一応、気を遣って写しました。 で、写しながら、笑ってしまいました。みんな会話文なのです。実は、この小説は、もちろん場面や、時間、登場人物は入れ替わりますが、最後の最後まで、主役はこの二人で、二人の会話文なのです。なんで、笑ったのかというと、明治の文学と考えたときに、最初に頭に浮かぶのは「言文一致」なのですね。だから、漱石の言文一致はどうなっているのか? という興味が、まあ、久しぶりに初期の作品を読むということもあって、浮かんでいたわけですが、この小説は、ご覧の様に、ほぼ、99%、会話文なのです。ですから、まあ、言文一致がどうのという興味は空振りですね。というのは、言文一致の要諦は「地の文」、あるいは、「客観描写」の文の口語化なわけですからね。 まあ、言文一致については、二葉亭が浮雲を書き、山田美妙が「です・ます」で苦労したのは明治20年代から30年代に終わって、この作品の時代には、もう、言文一致は完成していたんじゃないか、言文一致って、漱石とか関係あるの? とお考えの方もあるでしょうが、明治といえば、もう一人の大物、森鴎外が「言文一致」小説を初めて書いたのは、実は、明治40年なのですね。この年にスバルという雑誌に発表した「半日」という作品が、鴎外にとって初めての言文一致小説だったという事実もある訳で、明治39年の漱石がどんな気分で書いていたのだろうという興味が、まったくの見当違いというわけではない気もします。 で、読み直しながら、ふと、思ったのですが、この会話文、面白いと思いませんか? 実は、この会話は九州の阿蘇山の山麓の村の田舎宿で、「圭さん」という豆腐屋のせがれと「碌さん」という、なんとなく学のありそうな青年が、村の鍛冶屋の馬の蹄鉄を打つ槌音を聞きながら、東京のお寺の鉦の音を思い出して、どうでもいいような会話を延々と続けるのですが、その、二人の、だらけた部屋でのシーンが浮かんできませんかね。問題は、聞こえている音と、頭の中の音の重なり合いなのですが、ああ、それと、そこに重なっていく二人の声、それぞれの音が、その場のイメージを喚起していきませんかね? ボクは、それって、実は、近代を越えて、現代にも通じる小説そのものなんじゃないかって、まあ、そういうわけで、とりあえず読んでよかったという感想に落ち着いたわけでした(笑)。
2023.10.31
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山折哲雄「わが忘れえぬ人びと」(中央公論新社) 山折哲雄という人は1931年生まれの宗教学者です。90歳をこえておられる方です。90年代、だから30年くらい前に、宮沢賢治とか親鸞とかについて論じておられるのを読んだ記憶がありますが、市民図書館の棚に2023年5月の新刊本、「わが忘れえぬ人びと―縄文の鬼、都の妖怪に会いに行く」(中央公論新社)を見つけて借りてきました。 縄文の鬼が都の妖怪に会いに行くのかと思って借りたのですが、縄文の鬼や都の妖怪に会いに行く話 でした。 ボクなりに一言でまとめれば、ゴッホになるといった版画家、棟方志功、古寺巡礼の写真家、土門拳、ユング派の河合隼雄、梅原史学の巨人、梅原猛に、卒寿を越えた山折哲雄が会いに行った話、まあ。誰が鬼で、誰が妖怪なのかは読んでいただくとして、その4人をめぐる論考を集めた本ですが、目次に書きましたが、以前の論考に書き加える形でまとめられた文章です。ボクは、もともとの出展を読んでいるわけではないので面白く読みました。 個人的な理由ですが、なかでも面白かったのは河合隼雄の「無意識」をめぐる論考の結末に「ヨーガヴァ―シシュタ」という、インドの物語集のなかからラヴァナ王の話を語っているところです。 長くなるのではしょっていいますが、山折哲雄が例に引くのはラヴァナ王が一人の魔術師の杖の一振りによって不可触民(チャンラーダ)の世界をめぐる夢の世界に入りこみ、夢から覚めた王が現実と夢との境界を失うという話なのですが、その話をまとめるにあたってこういいます。 みてきたように、この物語では二つの現実が語られているように見える。一つは、いうまでもなく主人公ラヴァナ王が王として生きている現実である。廷臣にかこまれて、肥沃な国土を支配している国王の生活である。それにたいしてもう一つの現実が、夢の中で体験した不可触民に身を落とした生活である。(中略) この物語には、われわれが慣れ親しんでいる、夢の世界と現実の世界というあの二元論の枠組みが初めからとりはらわれているのではないだろうか。(中略) 私はいま、この物語には二つの現実が描かれているといったけれども、しかし考えてみればそれと同じような意味において、そこには二つの幻想世界、もしくは夢の世界が語られているともいえそうである。 そうなると、いったいどちらが本当の現実なのかといったような問いははじめから成り立たないことになるのではないか。物語の作者は、どうもそのように主張しているように私には思われるのである。 一つの夢物語を語りながら、その夢の世界がそのまま現実世界にすり替わったり、逆にまたわれわれの現実世界がそのまま夢物語に変貌してしまうという具合に話が展開していく。 その一種ねじれたような関係が奇妙な違和感を読む者の側にひきおこす。そういう語り口は、フロイトなんかの西洋人の考え方に慣れ親しんだ者の目にはやや異質なものに映るのではないだろうか。 この物語の作者は、夢(幻想)の世界が非現実であるように、夢や幻想をみるわれわれの現実の世界もまた、非現実の一様相であると主張しているようにみえる。 そしてそのようなものの見方の中にインド人が考えだした「空」の意味は隠されいるのであり、そのことにとりわけ晩年の河合さんは共感していたのだろうと私は想像しているのである。 ボクが、この部分を、この1冊の本の中で、とりわけ面白いと思ったのは、実は、今、村上春樹の最新作「街とその不確かな壁」(新潮社)読んでいる最中だということにジャスト・ミートする話題だからでした。 村上の作品は600ページを越える評判の大作ですが、ボクは100ページの手前の第1部で行き詰っています(笑)。壁にかこまれた町と、そこに登場する図書館勤めの青年の仕事が「夢読み!」であるという設定の意図に、なんとなく乗り切れないないまま、あっちの本、こっちの映画、という、まあ、得意の徘徊状態のままで、「そのうち、また、読み始めて、前に進むだろう…」という、ちょうど、その時、こっちの本の中に、この引用のインドの夢物語に対する結論部で、山折哲雄が「空」という、仏教的な哲学概念を持ち出してきたのに出会ったというわけでした。その上、山折哲雄が論じている相手が、村上春樹といえばの、あの河合隼雄です。 というわけで、途中で放り出し掛けていた村上君に会いに帰ることができそうな予感で、この本を閉じたというわけですね。 もっとも、この本で話題になっている棟方志功にしろ、土門拳にしろ、版画や写真はボクでも知っていますが、論じられている文章を読むのは初めてということもありましたが、「仏に逢うては仏を殺し、師に逢うては師を殺せ」 という臨済禅の言葉をカギにしての立論は刺激的でしたし、梅原猛について、もともと好きということもあって、面白く読みました。卒寿を迎えた著者があとがきでこう書いています。 米寿とか卒寿とかいわれると、かつての還暦とか古稀の場合とは打って変わり、むしろ銀河鉄道の各駅停車に乗って、ゆっくり周囲の景色を楽しみながら旅をしている気分になっていた。時間がゆるやかに流れ、過ていったはずの光景が何ともなつかしく蘇ってくる。梅原さんや河合さんの立ち居振舞いが棟方志功や土門拳のシルエットと重なり合い、たがいに対話している姿までみえてきた。それがまた私の心のうちに不思議な元気を誘い出し、思いもしなかった恍惚感に包まれるようになってきた。(P184) というわけで、乞う、ご一読ですね。一応、目次を載せておきますね。目次1 棟方志功 板を彫る(血噴きの仕事;「二菩薩釈迦十大弟子」 ほか)「教えること、裏切られること―師弟関係の本質」(講談社現代新書)加筆2 土門拳 闇を撮る(筑豊の子どもから奈良の古寺へ;肉眼はレンズを通して、レンズを超える ほか)「見上げられた聖地」(新潮社)加筆3 河合隼雄 夢を生きる(臨床心理士と宗教家;聴く人の背中 ほか)「夢とそら」(イマーゴ臨時増刊+書き下ろし)4 梅原猛 歴史を天翔ける(絶滅危惧種の王座に坐る;梅原さんとの出会い ほか)「梅原猛さんの世界」増補・加筆
2023.10.30
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キム・セイン「同じ下着を着るふたりの女」元町映画館 韓国映画に対して、近くでやっていたら見ようかなという程度ですが、興味があります。なじみの元町映画館のチラシで韓国の、若い女性監督という映画が出てきたので、興味を惹かれましたが、「同じ下着を着るふたりの女」という題名に、ちょっとなあ・・・??? と、躊躇していたのですが、とことんの母娘バトルですよ!という映画館の知人の言葉につられていつもは敬遠する土曜でしたが出かけました。こんな題名の映画、土曜の午後でも大丈夫! まあ、そういう気分です。 まあ、そう思って、やって来てみると、上映終了後、市内の女子大生さんたちの韓国文化紹介のイベント開催とかで盛り上がっていて、ちょっと、焦りましたが、今日の映画の観客は案外少なくて、のんびり見ました。 見たのはキム・セイン監督の「同じ下着を着るふたりの女」です。 母と娘は何故こじれるか、というような題の本もありますが、父と息子も、やっぱりこじれますね(笑)。まあ、父と息子のの場合は、フロイトの昔から言われているのですが、最近、斎藤環あたりが話題にしている、母と娘の話とは、また違うかもしれません。 母と娘が同じ下着を共有しているという、パンツをはいたり脱いだりするシーンの描写から、話が始まりました。なんとなく、昔のポルノ映画のシーンのようで、バカバカしい気分でしたが、世の中的には、結構、興味津々の関係なのかもしれません。 で、最後は、娘が自分の下着を買いに行くという、まあ、めでたいのか、あほらしいのかわからない結末でした。 20歳を越えて、働いている娘と、どう見ても50歳は越えていそうなのですが、妙に若作りの母親が同居していて、下着を共有していることに、互いに引っ掛かりがないということは何故なのか、多分、そのあたりをくどくど考え始めると、依存とかいう言葉の世界にいくことになりそうで、少々、めんどくさいのですが、それを考えるのすっぱりやめてみていると、二人とも、案外、普通なんじゃないかという気がしましたね。 下のチラシのシーンですが、母親が乗っている車が、事故なのか故意なのかわからないふうに暴走して、「死ね!」とかいいながら、アクセルを踏んだのか踏まなかったのかは不明ですが、娘をはねるシーンがありましたが、まあ、そんなもんだろうという気がしました。親の子どもに対する、その場で燃え上がる「殺意」って、そんなに異常なのでしょうか? 幼い子供をほったらかして、遊び惚ける親のネグレクトも、常識の世界の方からは声高に異常性が叫ばれますが、そうなのでしょうかねえ。誰にでも、あるかもしれないことだと、まあ、ボクは思いますが。 映画の作り手も、多分、気付いていることなんでしょうが、まあ、ホントは難しいことなのですが、母親は母親で、母親を卒業するほかないし、娘は娘で、娘を卒業するほかないわけで、そのあたりを、もっともらしく解説したり、批判したりする風潮には、まあ、できるだけついていかないようにしようと思っているわけで、ボーっと見ていると、パンツは自分で買いに行けよな! まあ、そう思っていた、こっちの気分通りの結末だったので、ハイ、そうですね(笑) と見終えました。 まあ、それにしても、原題を見ると、ハングルの方は読めませんが、英語の方は「The Apartment with Two Women」というわけで、母と娘だけじゃなくて、娘と職場で同僚になるもう一人の女性との関係も重ねているようで、ようするに人と人の関係の話で、そんなに楽しいわけではないのですが、悪くなかったですね。 日本の小説家で宇佐見りんという人がいますが、彼女も「かか」とか、最近の「くるまの娘」とかいう作品で、母と娘、家族と娘の関係を描いていますが、要するに、自分のパンツは自分で買いに行くという所に立って、初めて「ふたりの女」、あるいは、それぞれの女になるということなのでしょうね。 親も子供も、互いに他者なわけですからね。監督・脚本 キム・セインキャストイム・ジホ(イジョン 娘)ヤン・マルボク(スギョン 母)チョン・ボラム(ムン・ソヒ 娘の同僚)ヤン・フンジュ2021年・139分・G・韓国原題「The Apartment with Two Women」「같은 속옷을 입는 두 여자」2023・10・28・no132・元町映画館no210!
2023.10.29
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石井裕也「愛にイナズマ」 シネ・リーブル神戸 このところ、新しい日本映画に気をひかれるということがほとんどないのですが、この映画は、題名のバカバカしさに目が留まり、「ふーん石井裕也か?」 とチラシを見ていると白髪の佐藤浩市が写っているのに気づいてちょっと出かけてきたシネ・リーブルです。見たのは石井裕也監督の「愛にイナズマ」でした。 結局、なにが、どう、愛にイナズマなのかボクにはわかりませんでしたが、かえって、それも面白くて、納得の拍手!でした。 まあ、ボクから見れば少女にしか見えない折村花子(松岡茉優)さんが「きえた女」という自分の脚本を映画化したいと願っている、まあ、ウィキとか、なんとかには名前だけは出ている、セミプロ映画監督という設定で、手持ちのカメラをかかえて町をウロウロしているシーンから始まりました。 ビルの屋上から誰かが飛び降りようとしているという、ちょっと危ない現場に花子さんが遭遇し、周りの人たちがスマホのカメラを屋上の人物に向けて、決定的瞬間を期待して見上げています。花子さんは自分が持っているカメラをどうしていいかわからない様子で、ボーゼンとしていますが、屋上の人物は無事救出され、地上では落胆のため息が広がります。見事な「つかみ」でしたね。 今や、町を歩いているあらゆる人間のポケットにある、無数のカメラがなにを写す、いや、映す道具なのか、そういう問いかけから映画が始まったとボクは感じました。 映画の中には、ずっと、花子さんのカメラがあります。映画そのものと、花子さんの撮った映像とが入り乱れるので、少々めんどくさいのですが、「映画には、被写体の本当の姿が映る。」と元気に主張している花子さんのカメラです。しかたありません。 ですが、花子さん、見ているこっちがうんざりするようなプロデューサーと助監督とのコンビに軽く騙され、金もチャンスも失い、切羽詰まった末に、「きえた女」、つまりは幼い花子さんと兄二人(池松壮亮・若葉竜也)、そして父親を捨ててきえた母親の真実、つまりは、家族崩壊の真相を知るはずの父親のもとに帰ってきて、「本当のこと」を求めてカメラを向けるのですが、どうしようもないボンクラ演技を、真面目に演じようとする父(佐藤浩市)の姿に、主張とは裏腹に萎えてしまうあたりから、映画は家族の物語へと着地していきました。アー、そうなるか、ヤレヤレ… まあ、そこから先の筋立ては見ていただくよりほかにしようがありませんが、アーそうなるかの落胆をひっくり返したのは、佐藤浩市のぼんくら演技もさることながら、あんた、なんでここにおるねん? まあ、そういいたくなる不思議な青年、舘正夫君を演じた窪田正孝という俳優の存在感でした。「ある男」という、評判の作品で、安藤サクラの謎の夫、きえた男を演じていたような気がしますが、その時には印象に残らなかったのですが、今回、ブルー・ハーツ(古ッ!)の甲本ヒロトのようなしゃべり方で、人間界に間違って紛れ込んでしまった天使のような役回りを演じていて、これがハマリ! でしたね。 映画としては、花子さんの現実社会での敗北も、家族との葛藤も、まあ、ステロタイプのハンコみたいな、重ったるい話なわけですが、この男を配したことで、フッと浮き上がった気がしました。多分、監督のセンスなのでしょうね。 ま、そういうわけで、窪田正孝君と佐藤浩市さんに拍手!でした。それから、石井裕也という監督にも拍手!ですね。「月」とかいう作品が話題ですが、見ようかなあ??暗いのイヤヤしなぁ。監督・脚本 石井裕也撮影 鍋島淳裕編集 早野亮音楽 渡邊崇主題歌 エレファントカシマシキャスト松岡茉優(映画監督志望の娘 折村花子)池松壮亮(長兄 折村誠一)若葉竜也(次兄 折村雄二)佐藤浩市(父 折村治)益岡徹(父の友人 則夫)窪田正孝(舘正夫)仲野太賀(舘の友人 落合)趣里(携帯ショップの女)MEGUMI(プロデューサー 原)三浦貴大(助監督 荒川)2023年・140分・G・日本配給 東京テアトル2023・10・27・no131・シネ・リーブル神戸no208!
2023.10.28
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デビッド・クローネンバーグ「裸のランチ」元町映画館 2022年の11月から観てきました。「12ヶ月のシネマリレー」、最終走者はデビッド・クローネンバーグ監督の「裸のランチ」でした。1991年の製作ですから、まあ、30年ほど前の映画です。いろんな評価があるのでしょうが、笑うしかありませんでしたね(笑)。 ウィリアム・バロウズの原作は、鮎川信夫訳で、たしか、早川文庫で読んだ記憶だけありますが、何も覚えていません。人間というのは、いや、ボクはかな、わからなかったことは忘れるのですね。 だいたい、主人公の仕事が害虫駆除業という、「なに、それ?」 に始まって、彼が仕事で使っている殺虫剤を「そんなこと、すんの?アカンで!」 としか言えないのですが、注射してラリッている女性、まあ、妻ですが、を、間違ってではあるのですが、撃ち殺してしまった結果、インターゾーンとかいう「どこ、そこ?」 に逃げていくのですが、男の本業は作家でしたといって意味わかります? 要するに、四六時中ラリッている作家が、ラリッているからこそ見えてくる、普通、妄想と呼ばれる真実を、小説として書いて、難解だからということで評判になって、日本語とかにも翻訳されたりして、そういうのってチョット興味あるとかいうタイプのもの好きが読んで、わかったふりするものだから、余計にうわさは広がってという作品を、妄想をそのまま、だって、そう書いてあるから、能う限り映像化して見せているという作品だなあという印象で、なんだか、妙に面白いのですが、結局、こちらは正気なわけですから、意味不明なんですよね(笑)。 荒唐無稽な展開の中で、上の写真のような、ギョッとするような登場人物(?)が現れたり、タイプライターがエイリアンのようなというか、まあ、そういうのは堪忍してほしいといいたいような、グロテスクな生き物に変身したり、一方で、ハッとするようなセリフ(もう、忘れちゃいましたけど)が飛び交ったり、まあ、大変でした(笑) 主役の作家役がピーター・ウェラーという、まあ、「ラリッている」からは程遠い、チョット「孤独のグルメ」のおニーさんに似ている顔立ちの人で笑えました。拍手! で、とどのつまりには、女性の体の中から(こう書いても意味不明でしょうが、知りたければ見ていただくほかありません)、一応、悪の親玉役のなんとか博士が出てきて、それが、あの、ロイ・シャイダーだったんで、これまた、大笑いでしたね。 好きだから作っているのか、好きなように作っているのか、意味不明もここまで行くと痛快ですが、「12ヶ月のシネマリレー」の企画の人も、まあ、勇気ありますね。これが映画だ! の、気合なのでしょうね(笑) 一応、12本、完走したシマクマ君に拍手!でした(笑)。監督・脚本 デビッド・クローネンバーグ原作 ウィリアム・S・バロウズ撮影 ピーター・サシツキー美術 キャロル・スピア衣装 デニース・クローネンバーグ編集 ロナルド・サンダース音楽 ハワード・ショアキャストピーター・ウェラージュディ・デイビスイアン・ホルムジュリアン・サンズロイ・シャイダー1991年・115分・PG12・イギリス・カナダ合作原題「Naked Lunch」2023・10・23-no130・元町映画館no209!
2023.10.27
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小島渉「カブトムシの謎をとく」(ちくまプリマ―新書) 市民図書館の新書の新刊の棚で見つけました。2023年の8月に出た本です。「カブトムシの謎をとく」小島渉という背表紙に目がとまって、手に取って表紙を眺めて、裏表紙裏の著者略歴を見ると、1985年生まれ、東大の大学院を出た博士さんで、山口大学の先生のようです。38歳のようです。わが家の愉快な仲間の誰かと同じくらいの年恰好で、まあ、それにしてもカブトムシです(笑)。 60年ほど昔、小学校3年生の時にファーブル昆虫記に夢中になったことが浮かんできました。覚えているのはセミとフンコロガシ(カナブン)の話です。もう一度パラパラやって借りてきました。 下に貼った目次をご覧になればわかりますが、第1章はカブトムシ研究者への道と題されていて、自己紹介です。かなりディープな昆虫少年だったようですが、この1節にウーンとなりました。 水生昆虫を探しに行くと、ヘビにもよく出会いました。よく目にしたのはシマヘビとヤマカガシです。そのうちヘビの美しさに魅了され、見るたびに捕獲し、写真として記録するようになりました。カエルもお気に入りの動物の一つでした。普段見かけるのはトノサマガエル、ヌマガエルやアマガエルなどの普通種でしたが、一度だけ大きなヒキガエルを捕まえたのをよく覚えています。(関東の人には信じられないかもしれませんが、奈良県の平野部ではヒキガエルはなかなか見られません)。ヒキガエルを捕まえたら確かめたいことが一つありました。それは、耳腺と呼ばれる目の上のふくらみから分泌される毒液の味です。耳腺を圧迫すると、図鑑に書いてある通り、乳白色の毒液がにじみ、少し舐めてみると強烈な苦みを感じ、天敵への防御効果を身をもって理解できました。私が幼少時に行った思い出深い“実験”の一つです。(P18) おいおい・・・ですね(笑)。だいたい、ヘビが美しいとかいう感覚についていけませんが、ヒキガエルの毒液を舐めるって、きみ! という感じです。イヤー、困った中学生ですね。 まっ、そういうわけで、すっかり引き込まれて、久しぶりの昆虫記体験でした。語り口はご覧のとおりで、まあ、理系の青年の作文ですが(エラそうでスミマセン)、カブトムシが何を食べていて、カブトムシを食べるのはいったい何者か(想像つきます?)ということに始まって、現代昆虫学の現場報告は、なかなか面白くて、一気読みでした。 後半ではアゲハ蝶やコガネムシの話に広がっていくのですが、高校生ぐらいを相手に「昆虫学の世界へ!」 という優しいお誘い(?)の気持ちが充満していてなかなかうれしい本です。 とはいうものの、誘われても、今更な69歳の老人は「ものしり・うんちくネタ」に出合うたびにポスト・イットを貼るのに夢中でしたが、語る相手がいないことに、ハタと気づいて、チョット落胆の読書でした。 折角なので、この場を借りて、ちょっとだけ、付け刃のうんちくです。カブトムシの食べ物は樹液だそうで、クヌギの木がメインですが、今、関東地方に広がっているナラ枯れの原因でもあるそうです。それから、カブトムシを食べるのはカラス、タヌキ!、ハクビシン、野生のネコだそうで、角とか頭の部分は食べ残して胴体を食べるのだそうです。 老人は、ナラの木を枯らしてしまうほどのカブトムシの群れがあることにカンドーでしたが、現代社会から見える虫たちの世界と、虫たちの世界から見える現代社会の姿の両方が、相変わらず昆虫少年を続けていらっしゃる、まあ、実に奇特な学者さんの視界には広がっているようで、ただのオタク・ブックでは終わっていませんね。 お若い方々が、こんな本があることに気づいて、面白がってくれるといいなと、いや、ホント、マジに思いました。 目次まえがき第1章 カブトムシ研究者への道/昆虫に夢中/思い出の池/魅惑の図鑑類/鳥への情熱/進化生態学との出会い/昆虫を研究対象に/山口の自然環境【コラム】台湾での生活第2章 カブトムシはどんな昆虫?/カブトムシの分類/カブトムシの種数/カブトムシは本当に1種類?/カブトムシの一生/成虫の短い寿命/幼虫の餌/オスの角と大きい体/ユニークな配偶行動/カブトムシと人間との深いつながり/都会派のカブトムシ/カブトムシは希少種だった?【コラム】ナラ枯れとカブトムシ第3章 幼虫のくらし/幼虫の餌の質が成虫の体の大きさを決める/発酵の進んだ餌の見つけ方/卵の大きさと成虫の大きさ/幼虫が成長するしくみ/幼虫はなぜつねに最大速度で成長しないのか/幼虫はいつ蛹になるのか【コラム】〝大きさ〟って何?第4章 カブトムシを食べたのは誰?/散らばる死体の謎/犯人はカラス?/もう一つの天敵/カブトムシはおいしい?/食べられたのはどんな個体?/大型の個体は食べられやすい/高い捕食圧【コラム】タヌキが捕まえたのは?第5章 活動時間をめぐる謎/小学生による大発見/1通のメール/面白い着眼点/「自由研究」から「学術論文」へ/You are never too young to be an ecologist/なぜ昼まで居残るのか/シマトネリコでは物足りない?/さらなる調査/オオスズメバチとカブトムシ/オオスズメバチを排除する/法則はシンプルだとは限らない【コラム】屋久島での大発見第6章 カブトムシの生態の地域変異/遺伝か環境か/謎多きオキナワカブト/ユニークな屋久島のカブトムシ/九州のカブトムシ調査/短い角の進化史に迫る/素早く成長する北日本のカブトムシ/カブトムシの成長を記録する/成長速度を解析する/北海道の外来集団は進化しているのか/素早く成長するためのメカニズム/卵の大きさの地域変異/大きい卵を産む理由【コラム】調査の間の楽しみ第7章 昆虫はどのように天敵から身を守るのか/石垣島のジャコウアゲハ/恐れ知らずな有毒種/警戒心の強さ比較/場所を変えて調査/甲虫の〝硬さ〟は鳥からの防御に役立つ?/ウズラ以外にも通用するのか/食べてもらう工夫/鳥からの捕食回避/【コラム】逃避開始距離で警戒心の強さは本当に測れる?【コラム】毒蝶は体温が低いあとがき 引用文献
2023.10.26
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渡辺一貴「岸部露伴 ルーヴルへ行く」パルシネマ パルシネマのマンガネタ2本立ての1本は「ピンポン」でしたが、もう1本は、2023年、今年の夏(?)だったと思いますが、封切り当時、結構、評判だった渡辺一貴「岸部露伴 ルーヴルへ行く」でした。 荒木飛呂彦という人のマンガは絵柄がついていけないので読んでいませんし、NHKだかで実写のテレビ・ドラマ化した、まあ、その続きらしいのですが、テレビは全く見ないので、これも知りません。ようするに、はじめてお目にかかったわけですが、マア、はっきりいって白けました(笑)。 「黒」という色をテーマにして、「絵画」とか「ルーヴル美術館」、「江戸の絵師」とかをくりだしての、まあ、ボクの目には、上から目線のうんちく映画だったのですが、模写による贋作作りとか、檜の樹液の黒い顔料だとか、マンガだから、まあ、仕方がないかなと思ってみていましたが、とどのつまりにフェルメールの謎の実作を登場させて、岸部露伴君(高橋一生)が、「真作だ!」とのたまうに至って、座席からずり落ちて(落ちてませんけど)しまいました(笑)。 持ち出したのがフェルメールというあざとさも「ちょっと、あんたらねえら・・・」 なのですが、「黒」という色の、他の色との違いのうんちくに始まって、映画に、見ている人の常識をこバカにした態度が漂っているのですよね。そういえば、似たような音楽映画を見たような気がしますが、「リアリティー」とかいうセリフを連呼するこけおどし的・超絶能力の主人公を造型する発想に、ある種の大衆蔑視を感じるのは、老人の僻みなのでしょうかね(笑)。マンガなら気にならないのですが、実写の映像には、そこに、たとえば、高橋一生の顔があるわけで、引っかかってしまうのですね。 もう、終わりかなと思っていると、あにはからんや、主人公のナレーション的な謎ときが延々と続いて、「ああ、テレビやな…」 という、まあ、勝手な偏見に浸っていると、エンドロールで、白石加代子の名前に気づいて「ああ、やっぱり、そうでしたか、お元気そうで何よりです(笑)」 と、こっそり手を叩いて、その後、音楽が菊地成孔だったことを発見して、まあ、ボクはこの人の音楽論(?)にはまったことがあるのですが、本でしか知らない人の音を初めて耳にしたのがうれしくて、「うん、あんたの音はよかったで!」 とか何とかつぶやいていると、場内が明るくなりました。 こてこて作り上げた、現代映画に辟易して、20年前の単純素朴にカンドーしちゃってるのは、やっぱり年のせいですかね。なんだか、さびしい新開地本通りの夕暮れでした。秋ですねえぇ!監督 渡辺一貴原作 荒木飛呂彦脚本 小林靖子撮影 山本周平 田島茂編集 鈴木翔音楽 菊地成孔 新音楽制作工房キャスト高橋一生(岸辺露伴)飯豊まりえ(泉京香)長尾謙杜(岸辺露伴・青年期)白石加代子(おばさん)木村文乃(奈々瀬)2023年・118分・G・日本2023・10・23・no128・パルシネマno69!
2023.10.25
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金子信久「長沢蘆雪 かわいいを描くこと」(東京美術) 明石の市民図書館の新入荷の棚に並んでいました。「おっ、蘆雪!」 まあ、そんな感じで手に取りました。金子信久という美術館にお勤めらしい方の「長沢蘆雪 かわいいを描くこと」(東京美術)という、大判の美術書(?)です。表紙からして「かわいい」でしょ(笑)。 長沢蘆雪という人は「かわいい」で人気なのだそうです。ページを繰ると、江戸のかわいいがあふれていました。 まあ、ボクにとっての江戸絵画との出会いは、この長沢蘆雪に限らずなのですが、40代の終わりごろだったでしょうか、橋本治の「ひらがな日本美術史(全7巻)」(新潮社)という、まあ、ものすごく面白い美術全集との出会いが始まりました。 その後、辻惟雄という、これまた、ものすごいセンスの人の「奇想の系譜」(ちくま学芸文庫)、「奇想の図譜」(ちくま学芸文庫)に夢中になり、ちょうどいい具合に職場の図書館の蔵書整理係だったこともあって、誰も来ない図書館で、そのころ出たばかりの「日本美術の歴史」(東京大学出版会)という新しい入門書の記述と、書庫でほこりをかぶっていた古い美術全集の1ページ、1ページの埃を拭いながら照らし合わせたりして、まあ、本人はそれなりに勉強しているつもりで面白がっていたのですが、定年退職がゴールで、図書館の住人でなくなったことが淋しかったこともあって、日本美術史総覧、完走、ゴールしたことに満足して、すっかり忘れていました(笑)。 まあ、そんなわけで、ようするに、実物、本物の絵なんて見たことはほとんどないのです。だから、面白がることはあるのですが、感動がないんですね(笑)。いかにも、参考書風の知識ばかり振りましたがる、安物の教員根性の興味なのですが、それでも、好きなのは好きなのでしょうね、図書館の新刊の棚に「長沢蘆雪」の名前と、彼の独特の子犬を見つけると、思わず手に取ることになるのでした(笑)。 長沢蘆雪という人は円山応挙のお弟子さんです。曽我蕭白という、これまた、奇想で評判の絵描きさんがいますが、ほぼ同時代の人といっていいでしょうね。有名なのは、和歌山県の串本にあるらしい無量寺というお寺にある「虎図」とかです。 この絵ですが、素人目にも絵に愛嬌があるんですね。辻惟雄が「奇想の系譜」で彼のことを「鳥獣悪戯―長沢蘆雪」と章立てして解説・紹介しています。そのななかで、この虎の絵についてこんなふうに書いています。 獲物に襲いかかろうとする虎の全身が、襖三面いっぱいの大きさにクローズアップされ、見る人をたまげさせる。少なくとも、こうした表現は、従来の動物画には類を見ない型破りなもので、師応挙の目から離れた蘆雪の開放感の所産ともいえるだろう。ただ気になるのは、この虎が、猛獣らしい凄みをさっぱり欠いていて、むしろ猫を思わせる無邪気さが感じられる点である。(P196)」 ねっ、ちょっと笑えるでしょ。「皮肉な蘆雪が胸中ひそかに戯気を描いて巨大な猫を描いたのではないか」 という山川武という人の説を同意しながら付け加えられていますから、決してバカにしているわけではありません。「鳥獣悪戯」と評している所以ですね。 まあ、そういうわけで、長沢蘆雪の持ち味の特徴は悪戯=いたずら、そして、かわいさなわけですが、ボクが図書館で見つけた金子信久「長沢蘆雪 かわいいを描くこと」(東京美術)は、そのかわいさに目をつけて編集されています。 「かわいい」というコンセプトで編集、紹介、解説しているところがミソですが、たとえば、上の写真「唐子図」のような子どもといい、表紙の子犬といい、まあ、虎といい、可愛さ花も並ではありません。楽しい本でしたよ。若い人が、このあたりから江戸の絵画、ひいては日本美術に興味をお持ちになるのもありだなあと、まあ、そんな気持ちで案内しました。 ちなみに、上の引用で貼った写真は辻惟雄「日本美術の歴史」と「奇想の系譜」からのコピーです。「かわいいを描く」にも所収されていますが、もっと美しい写真です。あしからず(笑)。
2023.10.24
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曽利文彦「ピンポン」パルシネマ パルシネマの2本立てです。もう1本は岸部露伴でした。マンガが原作の映画セットですね。松本大洋のマンガに、この年になってハマっていますが、彼のマンガに登場する独特なキャラクターとか、空間を超越したような動きが実写ではどんなふうになるのか、そこが見たくてやって来ました。見たのは曽利文彦監督の「ピンポン」です。20年前の作品です。「I Can Fly!」「You Can Fly!」 映画が始まって、おばかなK察官(松尾スズキ)に励まされて、窪塚洋介君がいきなり空を飛びました。 で、ボクは思わず泣いてしまいました。うれし泣きです(笑)。アホですね。でも、ヒーローは空を飛ぶのです。窪塚君、その後の実生活でも空を飛んだような気がしますが(笑)、元気なのでしょうかね。 松本大洋のマンガの登場人物たちは、時々空を飛んだりしますが、我々凡人は、残念ながら空は飛べません。ペコくん(窪塚洋介)が空を飛ぶシーンを見て、涙を流すことができるだけです。スマイルくん(井浦新)もドラゴンくん(中村獅童)も、ああ、それからチャイナくん(サム・リー)とかアクマくん(大倉孝二)とかも、空を飛べるペコくんが大好きで、見ている69歳の老人のように、思わず涙を流したりせずに、拍手するのです。だって、空を飛んでいるのはヒーローなんですから。 ヒーロー見参! シンプル、且つ、シンプル、あくまでも単純にヒーロー誕生の物語が繰り広げられ、少年たちはみんな拍手して(しませんけど)ヒーローを称えるのです。松本大洋の世界を飛び越えて映画の世界に飛び込むのです。そのあたりに、脚本を書いた宮藤勘九郎のセンスが光っているのです。それでいいのだぁ! まあ、ヒーローになるための石段上りとか、妙に現実的な鍛え方が、実写ならではで笑えますが、ドラ ゴンボールなら亀仙人かカリン様の役まわりのオババを演じる夏木マリが、エッというほどお若い(笑)とか、この人といえばという、毎度のクサイ演技炸裂の竹中直人とか、もう、なつかしいというか、なんというか笑うしかなかったですね(笑)。 ああ、そういえば、最近見た福田村事件で苦悩する中年男(?)だった井浦新が、まあ、若いのなんのって! なのに、キャラはおんなじ印象で、ルービック・キューブかなんかをいじりながらヒーローを待ち続ける、実は天才カットマンなのだをやっていたのも笑えました。 こんな時代があったなあ、と、まあ、しみじみ拍手!でした。 しかし、染谷將太と石野真子が出ていたようなのですが、どこにいたんですかね?染谷君、まさか、子役?気づかなかったですねえ(笑)。監督 曽利文彦原作 松本大洋脚本 宮藤官九郎窪塚洋介(星野裕ペコ)井浦新(月本誠スマイル)サム・リー(孔文革チャイナ)中村獅童(風間竜一ドラゴン)大倉孝二(佐久間学アクマ)荒川良々(太田キャプテン)松尾スズキ(警官)夏木マリオ(ババ)竹中直人(小泉丈)染谷将太石野真子2002年・114分・日本2023・10・23・no127・パルシネマno68!
2023.10.23
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深緑野分「ベルリンは晴れているか」(ちくま文庫) 深緑野分という、ぼくには新しい人の「ベルリンは晴れているか」(ちくま文庫)を読みました。2019年の本屋大賞第三位ですね。ツィッター文学賞とかいうのがあるらしいですが、それは一位ですし、直木賞の候補にもなっているようです。ようするに、巷の評判がすこぶるいい作品です。 読み終わって、ちょっとがっかりしました。ミステリーなのか、歴史小説なのか、あるいは、1945年のベルリンという都市小説なのか。どれも及第点とは言えなかったですね。 歴史や地理的事実について、とてもよく調べて書かれているようなのですが、細部に対するこだわりと、全体といいましょうか、釣り合いがとれていないんですね。ぼくにはベルリンの町が、全くリアルではなかったですね。もちろん行ったことも見たこともないわけですが、少なくとも、今読んでいる事件の現場としての立体感が描写できていないという印象ですね。どこで、何が起こっているのかわからないということですね。 たとえば、森鴎外に高校の教科書にも出てくる「舞姫」という有名な作品がありますが、主人公の太田豊太郎が彷徨うのが、ベルリンの裏町であると実感させてくれる何気ない地名の挿入や描写を思い浮かべながら、何が違うのか考えましたが、おそらく、書き手にとってのベルリンが具体的に想起されているか、いないか、というあたりに描写のイメージの差が出ているのでしょうね。ようするに、調べて書いている場所だということかもしれません。ミステリーとしては謎解きの安易さがまず、どうしようもないという感じです。ここまで引っ張ってこれですか? まあ、そういう感じでした。これで、直木賞はあり得ないでしょう。 しつこいようですが、「パリは燃えているか」という、たしかヒトラーの有名なセリフのモジリとして、「ベルリン陥落」の日を題名化したようですが、これも空振りでしたね。ヒトラーの言葉に宿っている歴史的アイロニーのかけらすら感られませんでした。なんで、こんな題になったの? そう考えたときに、客を呼ぶためのシャレたイメージを求める編集者の存在とかが浮かんでしまうのが率直な感想でした。 今回、新刊本を購入しましたが、腰巻のにぎにぎしさに加えて、大手の書店では平積みの棚に、積み上げられていました。図書館では数十人待ちです。なぜ、この小説がそんなに売れて、好評なのかポカンとしますが、やっぱり本屋大賞がらみなんでしょうか。 作品の良し悪しの判定はむずかしい問題ですが、本屋大賞の始まりにかかわった「本の雑誌」で書いていた目黒孝二、別名、北上次郎あたりの方がどうおっしゃるのか、ちょっと興味がありますが、とかなんとか思っていると「本の雑誌の目黒孝二・北上次郎・藤代三郎」(本の雑誌社)という、目黒孝二追悼特集本に偶然出合って、思わず、ため息をつきました。時は流れているのですね。 出版不況、本が売れない、そういう現場からアイデアが出て、本屋さんが「こんな本売りたい!」と差し出す本いうコンセプトから生まれた本屋大賞が空疎な「市場原理主義」を文学とかに持ち込んだとしたら、「本の雑誌」を愛していたぼくとしては、ちょっと寂しい、そんな感じですね。 なんか、話題がよれてしまいましたがおもしろい! を疑う時代がやってきているのではないでしょうか。そんな思いが頻りに浮かぶ今日この頃ですね(笑)。
2023.10.22
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宇佐見りん「くるまの娘」(河出書房新社) 「かか」(河出文庫)で2019年の文藝賞、2020年の三島由紀夫賞、「推し燃ゆ」(河出文庫)で2020年後期の芥川賞の宇佐見りんの最新作のようです。まあ、贔屓の作家ということもありますが、快調でした。 書き出しはこんな感じです。 かんこ、と呼ぶ声がする。台所から居間へ出てきた母が二階に向かってさけぶ声が聞こえてくる。かんこ、おひる、かんこ、お夕飯。しないはずの声だった。夢と現実のあいだを縫うように聞こえてきた。むかしは「にい。かんこ。ぽん」だったと思う。にい、かんこ、ぽん、ご飯。兄が家を出て「にい、かんこ、ぽん」は「かんこ、ぽん」になった。今年の春、弟のぽんが祖父母の家に住みはじめて「かんこ」になった。母が階下から呼ぶ。いつまでも聞こえてくる。にい、かんこ、ぽん。にい、かんこ、ぽん。かんこ、ぽん、かんこ、ぽん。かんこ。かんこ。・・・・。(P3) 階下から聞こえてくる母の声が響きます。外側から聞こえてくる音としての声と、それに連動して、頭の中に響く、自分だけに聞こえている音としての声が、ことばとしての意味の姿をまとわせて立ち上がらせながら、語り手である、高校生の「かんこ」の内面の物語が始まります。 小説のページに書きしるされているのは文字ですが、読み手の中には音が広がっていく、そんな印象を作り出す書き出しです。これが宇佐見りんだ! ボクは、チョット、ドキドキします。 父と母、今は家を出ている兄と弟、そして、かんこの家族の物語が、父方の祖母の葬儀に、行きは父、母、かんこの3人、帰りは弟のぽんちゃんを加えた4人の自動車旅行として語られます。「音」と「息」が充満して、読んでいるだけでも窒息しそうな狭い車内で、家族4人、死ぬか生きるかの七転八倒騒ぎが展開される中で、声にならない悲鳴のような叫びをあげながら、こんな結論にたどり着くのでした。 かんこはこの車に乗っていたかった。この車に乗って、どこまでも駆け抜けていきたかった。(P124) 「くるまの娘」という、この作品のけったいな題名の所以ですが、ようやくのことで帰り着いたにかんこは「くるま」から降りることができなくなって「くるまの娘」になってしまうところが、宇佐見りんですね(笑)。 あの時、日がのぼるのが苦しかった。日が沈むのも苦しかった。苦しみをなにかのせいにしないまま生きていくことすらできなかった。人が与え、与えられる苦しみをたどっていくと、どうしようもなかったことばかりだと気づく瞬間がある。すべての暴力は人からわきおこるものではなかった。天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれるのだ。苦しみは天から降る光のせいだった。あの旅から帰ってきて、自分が車から降りることができなくなってしまったと知ったとき、かんこはそう思うことにした。そしてかんこは、車に住んだ。毎朝母の運転で学校へ行った。(P140) はまってしまうと、一気に暴君化する父、今日の記憶を次々と失っていく母、通っていた学校に耐えきれなくて祖父母と暮らす弟、父親の世界から逃げ出した兄、そして、くるまから出られなくなったかんこ。 まあ、実際、どんな家族の物語なのかは、お読みいただくほかないのですが、かんこが、自分に浸るのではなくて明日を生きようとしていることだけは確かで、後味は悪くないのです。 宇佐見りん、快調に走っていますヨ(笑)。
2023.10.21
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アモス・ウィー「縁路はるばる」元町映画館 実は、今日は2023年の10月21日(土)です。で、この映画は2023年の8月に見たんです。映画はアモス・ウィー監督の「縁路はるばる」でした。原題が「Far Far Away」ですから、まあ、ラブ・コメディ風なニュアンスでつけた邦題ということのようです。最新の香港映画だそうです。 で、香港って、香港島だけじゃなくて、そのあたり一帯の地域を指すんですですよね。そこまではボクでも知っていました。中国本土(?)から海を渡ってやってきたとかいうエピソードが語られる映画も見たような気がします。でもね、具体的にどんな島や大陸と陸続きの地域が、所謂、香港なのか、実は全くイメージできないわけです。で、この映画を見るとちんぷんかんぷんなわけでした(笑)。 黒ぶちメガネかなんか掛けていて、とてもじゃないけどモテそうもない青年が、まあ、IT方面には強いらしいのですが、複数の、何というか、かなり、いいなという感じの女性、(だから、仕事とか、社会観とか、自己意識とか、まあ、容姿とかも)の住んでいるところを訪ねる話なのでした。その結果、地理的にはかなり奥が深いというか、幅が広く「香港」をウロウロするわけで、なんとなく、あの香港!(みんなが行きたがる観光地という意味ではないほうね(笑))という思い込みだけあって、土地感覚がゼロの、意識過剰の老人はポカーンとしてしまうのでした。 で、まあ、それなら香港の観光案内、あるいは、若者の恋愛事情紹介映画かというと、たぶん違うんですね。 意識過剰老人だから、そういう所に反応するのかなとも思いますが、登場人物たちに、ここ「香港」が終の棲家という感覚が、どうもないというか、希薄なんです。実際に、カナダだったかに移住するとかいう話題も出てきますが、ノンポリの彼らの言動に、明日もここで続く生活を感じない後味なのでした。 それは、多分、たとえば日本の、よく知りませんが、今の若者の恋愛事情と、ちょっと違いますよね。「美しい日本」とかが無意識に前提されて、言う方も、言われる方も平気で「うちの嫁」とか言っているらしいことを考えると、この映画は、やはりあの香港! を描いていると思ったのです。頼りなさそうな青年が、自転車とかに乗ってウロウロする美しい香港の風景が、どこかで失われていく時を求めているような、まあ、そんな錯覚に浸ってしまったんですね。 しかし、老人が、この映画のどこで、そう感じた理由が定かじゃないのですよね。だから、まあ、感想が書けなかったのですが、とりあえず、この監督は注目ですヨ! 的な備忘録として書いておこうというので書きました。 わけわかんない話で、申し訳ありませんでした(笑)。監督 アモス・ウィー脚本 アモス・ウィーキャストカーキ・サムクリスタル・チョンシシリア・ソーレイチェル・リョンハンナ・チャンジェニファー・ユー2021年・96分・G・香港原題「Far Far Away」2023・08・01・no100・元町映画館no192!
2023.10.20
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チャオ・スーシュエ「草原に抱かれて」元町映画館 チラシと予告編を見てこれは見なくっちゃ! でやって来ました。元町映画館、朝一番です。映画はチャオ・スーシュエという若い女性監督の「草原に抱かれて」という、内モンゴル映画でした。 世界地図を広げると中国の北方にモンゴル高原が広がっていて、モンゴル共和国の外モンゴルと中華人民共和国の内モンゴルに分かれます。この作品は内モンゴル出身の監督によって、おそらく、内モンゴルのどこかに旅する母と子の物語でした。 内モンゴルの草原の風景をもう一度見たい! 映画館に来たボクの望みはそれだけでした。で、納得でした。40代のころに縁があって内モンゴル自治区の州都フフホトに出かける機会が何度かありました。出かけるたびに、現地でお世話になった方に案内していただいて「草原」に出かけることができましたが、そこで、ボクは、今までの人生のなかで最も遠くまで見える地平線を見たのでした。草原には羊がいて、小高い丘があって、その丘を歩いて越えると、また、まったく同じような丘があって、その、ズット向うにロシアやヨーロッパが地続きであることに胸が躍りました。 映画には、ボクが見たことのない湖も出てきますし、まっすぐな地平線も出てきます。街で老いて「草原の、あの木のある家にかえりたい!」と叫ぶ母を車に乗せ、サイドカーに乗せて青年は「あの風景の中」を走ります。もう、それで十分でした。 映画の始まりに、我を失った老母が長男夫婦と住んでいるアパートを飛び出し、その後を、いい年をした息子が追い、狭いアパートの一室を鉄格子で締め切った部屋に連れ戻すシーンが映ります。 危うく声をあげて泣くところでした。50年前、中学生だったボクの心の底に焼き付いて、忘れることができない、あの頃のわが家の風景が浮かんできたのです。 映画は、その老いた母を、馬頭琴を演奏し草原の歌をうたって人気歌手になっている弟が兄夫婦のアパートから連れ出し、草原の家、母の記憶にあるあの木を探して旅するロードムービーでした。 老母を鉄格子の部屋に閉じこめていた兄・長男が、別れに際して、母にすがって泣くシーンが、実は、一番心に残りました。 原題は「臍帯」、「へその緒」です。旅に出ても、油断すると徘徊を繰り返す母に手を焼いた弟が、母と自分を1本のロープで結わえるところに、その題の所以があると思いますが、本当は、モンゴルの大地と自然が大いなる母であって、そこを「帰る」場所だと信じている老婆とモンゴルの大地の関係をあらわしていたのだということに、深く納得した作品でした。 老いた母を演じ、湖を背景に美しく待って見せたバドマという女優さんに拍手!でした。それから、何といっても拍手!は撮影したツァオ・ユーと監督のチャオ・スーシュエという人ですね。ストーリーはシンプルですが、一つ一つのシーンがいいなあと思いました。拍手!監督 チャオ・スーシュエ製作 リウ・フイ フー・ジン脚本 チャオ・スーシュエ撮影 ツァオ・ユー音楽 ウルナ イデル キャストバドマ(母)イダー(アルス)2022年・96分・中国原題「臍帯 The Cord of Life」2023・10・16・no125・元町映画館no207!
2023.10.19
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ヴィム・ヴェンダース「パリ、テキサス」その2 パルシネマ 2023年の9月にパルシネマで見ました。小津安二郎の「お早う」との2本立てで、SCC、シマクマシネマ倶楽部、第10回鑑賞作品として選んだのですが、2本立てなので11本目になります。映画はヴィム・ヴェンダース監督の「パリ、テキサス」です。 一緒に見たM氏は、まあ、やり取りは割愛しますが、これまた、今一で、納得がいかなかったようです。 で、ボクはどうだったか?通算すると三度目の鑑賞のような気がしますが、少なくとも、ここ一年で二度目の鑑賞でした。まだ、記憶が新しいですから、見ていて次のシーンが予想できます。その結果でしょうか、一つ一つのシーンの、新しい発見というか、気付きというか山盛りで、どんどんトリコになっていく感覚が自分の中に満ちてくる至福の映画体験でした。 上のチラシの写真のとおりで、赤い帽子をかぶって荒野を歩いている記憶喪失の男トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)の前方には、町なんてどこにも見えなくて、アリゾナの禿山しかないこと。トラヴィスは無表情ですが意志的で、はっきり目的がわかっていること。しかし、なぜか、映画は線路を走る列車の音を映像の背後に響かせていること。 のぞき窓の部屋で「灯りを消せばこちらが見えるよ。」と語りかけたトラヴィスは、ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)の視線に対して、暗がりで俯いていること。客がトラヴィスだと気づいたジェーンは、のぞき窓に背を向けて話を聞き、話をすること。 母ジェーンと息子のハンター(ハンター・カーソン)が感動的な再会を果たしたホテルの窓の下にしばらく佇むトラヴィスがいて、やがて、また、出発すること。 おそらく、行き先は「パリ、テキサス」で、そこはトラヴィスにとって母の生地であるとともに、トラヴィスと、ジェーン、ハンターの三人が家族だったころ購入した土地があること。 ボクには、この作品を30代のころに見た、なんとなくな記憶があります。昨年だったかの、この監督の特集で見直した時に「ベルリン・天使の詩」をはじめ、総敗北だったヴェンダースでしたが、やっとのことで、映画を構想するヴェンダースの場所までたどり着いたような気がしました。 テキサスにパリという地名を発見した時に、ヴェンダースに浮かんだのはなんだったのでしょうね。三度目を見終えて、ボンヤリと日々を暮らしながら、元町の高架ぞいの道を歩いていたある日、人が生きている限りそこを目指すほかない、しかし、ついにたどり着くことのできない荒涼とした夢の場所が思い浮かんできたのでした。そこにたどり着けば一息付けるんじゃないか。まあ、そういう場所ですね(笑)。 木偶の坊になりきって、あてのない旅人を演じ切ったハリー・ディーン・スタントンにはやっぱり拍手!でした。 いや、もちろん、そこに映っているのを見ているだけでため息が出てしまうナスターシャ・キンスキーの哀しくも美しい姿にも拍手!です。ボクにとっては生涯の記憶に残る傑作!ですね(笑)。監督 ヴィム・ベンダー脚本 サム・シェパード L・M・キット・カーソン撮影 ロビー・ミュラー美術 ケイト・アルトマン衣装 ビルギッタ・ビョルゲ編集 ペーター・プルツィゴッダ音楽 ライ・クーダーキャストハリー・ディーン・スタントン(トラヴィス)ナスターシャ・キンスキー(ジェーン)ディーン・ストックウェル(ウォルト)オーロール・クレマン(アンヌ)ハンター・カーソン(ハンター)ベルンハルト・ビッキ医師ベルンハルト・ビッキトム・ファレル叫ぶ男トム・ファレルジョン・ルーリージョン・ルーリー1984年・146分・G・西ドイツ・フランス合作原題「Paris, Texas」1985年9月7日(日本初公開)2023・09・25・no119・パルシネマno65・SCCno11!
2023.10.18
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吉野耕平「沈黙の艦隊」109シネマズ・ハット 見ちゃいましたよ(笑)。SCC第11回例会、12本目です。今回はM氏の提案です。映画は吉野耕平監督、かわぐちかいじ原作の「沈黙の艦隊」でした(笑)。 見終えて、道ばたの日陰に座って一服しながらの感想戦です(笑)。ああ、今時、一服するのはシマクマ君だけです。M氏はタバコなんて、もちろん、お吸いになりません。 「なんなんですかね、これって?」「えー?結構面白かったんですけど。」「特撮マニアの人たちって、やっぱり、こういうの面白いんでしょうかね?」「ボク、そういうとこ、まったく興味ないんです。でも好きな人は好きなんじゃないですか?いかにも東宝の映画っていう感じじゃないですか。ボクの、今回の興味は大沢たかおっていう人だったんです。キングダムという映画の王騎という役が、まあ、なんともいえずおかしかったんですが、服装が違うだけでおんなじで笑えましたね(笑)。」「続けてやるんですかね?」「やるでしょ。始まったばっかりじゃないですか。かわぐちかいじの沈黙の艦隊はお読みになりましたか?」「はい、昔、喫茶店かどこかで。」「あれって、というか、この映画のネタでもあるんですけど、アイデアというか面白いですよね。」「核兵器をチラつかせるとこですか。」「まあ、そうなんですけど、ぼくは、うったらうつぞというとうたないんだったら、はじめっから撃たない、持たないが可能なんじゃないかというのがかわぐちかいじのアイデアなんじゃないか、それって、まあ、マンガ的ではあるのですが、面白いなって思うのです。で、今日の映画もそこんところを強調してたんですが、問題は結論ですよね。」「というと?」「マンガが、まだ続いている気が、ボクはしているんですが、まあ、そんなわけはないのですが、海江田という主人公、最後、どうなるかご存知ですか?」「いや、忘れました。」「たしか、国連に行くんですけど、核所持がブラフだったことをばらして、撃たれて終わるんです。で、今日のところで、面白いなって思ったのは、乗組員たちはそのことを知っているんです。にもかかわらず海江田に付いてくるんです。そこはどうするのかな?それと、ボクはかわぐちかいじ自身が結論に困った結果、案外、凡庸なマンガになって終わったと思うんですが、そこをどう解釈するのかですね?」「ふーむ・・・、続編も、作られるとして、見ます?」「ああ、それはわからないですね。でも、見そうですけど(笑)」 M氏は今回も納得がいかなかったようですが、シマクマ君は案外面白かったですね。昨今の世相もあって、ある意味、鬱陶しい話なのですが世相に媚びるのかどうか、ちょっと興味ありますね。まあ、マンガの映画化というわけで、おおざっぱな印象は残ったんですけどね(笑)。監督 吉野耕平原作 かわぐちかいじ脚本 高井光撮影 小宮山充編集 今井剛音楽 池頼広主題歌 Adoキャスト大沢たかお(やまと艦長・海江田四郎)玉木宏(海自たつなみ艦長・深町洋)上戸彩(市谷裕美・記者)ユースケ・サンタマリア(たつなみソナーマン・南波栄一)中村倫也(入江兄弟・兄)中村蒼(やまと・副艦長・山中栄治)松岡広大(入江兄弟・弟)水川あさみ(海自たつなみ・副長・速水貴子)笹野高史(竹上総理大臣)アレクス・ポーノビッチ(第7艦隊司令官ローガン・スタイガー)リック・アムスバリー(米大統領ニコラス・ベネット)橋爪功(黒幕・海原大悟)夏川結衣(曽根崎防衛大臣)江口洋介(海原官房長官)2023年・113分・G・日本配給 東宝2023・10・16・no126・109シネマズ・ハットno33・SCCno12!
2023.10.17
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小池水音「息」(新潮社) 上の写真のこの本は若い作家の処女出版だそうです。1991年生まれの小池水音、みずねと読むようですが、という人の「息」(新潮社)という作品集でした。 収められた「わからないままで」という作品が2020年、第52回新潮新人賞をとったデビュー作だそうです。新潮社が新人の作家をたたえる賞には三島由紀夫文学賞という賞があって、有名ですが、新潮新人賞というのもあるのかと、初めて知りましたが、この人の受賞が第52回なわけですから、実は昔からあるのですね。ちなみに、その2020年の三島賞の受賞作は宇佐見りんの「かか」(河出文庫)でした。 で、本書の表題になっている「息」という作品は、2023年の三島賞の候補作だそうです。 とりあえず、表題作の「息」ですが、こんな書き出しでした。 わたしは暗い天井を見上げ、そこからなにかを読み取ろうとする。 ちょうど棺桶ほどの大きさの長方形を縦に横に組み合わせたような継ぎ目が、コンクリートの天井に走っている。読み取るというよりもむしろ、天井のほうから投げかけてくるものをきちんと受け止めなければならないのだとも感じて、継ぎ目の端から端まで、わたしは慎重に視線をたどらせる。 大学生のころ以来、十五年ぶりに起きた発作だった。けれど夜明けにふと目覚めて、自分の気管支がほんとうにひさびさに狭まっていると気がついたときすでに、わたしは無意識のうちに、幼いころの習慣を再現していた。(P9) 小説は「わたし」、大学を出て、15年ほどたった女性によって語られています。彼女は、今、イラストレーターとして暮らしていますが、夜明けの自室で、15年ぶりに起こった気管支が狭くなるという発作の中で「息」を求めて仰向けに横たわりっています。彼女が、どんなふうに「息」を求めているのか、その部屋でのリアルな描写が続きますが、一方で、その姿勢で見上げている「天井のほうから投げかけてくる」ものがなんであるのかを、静かに語りだし、語り続けた趣の小説でした。 日がすっかり昇ったら近所の内科へ行くことにしよう。そう思いながら、わたしはまた瞼を閉じてみる。そのときふと、目を覚ますまで見ていた夢の体感がよみがえった。それはこの十年のあいだ、くりかえし見てきた夢だった。夢にはいつも必ず、弟がいた。私はその夢のなかで、一歩、一歩と、弟のいるほうへ歩み寄ってゆく。その足取りを思い出す。(中略) ふたたび天井に目を向ける。さきほどからなにひとつ変化のない粗い継ぎ目が、コンクリートの天井には走っている。意味のあるなにかがそこには示されている。(P13) 父、母、そして、くりかえし夢に出てくる弟、主治医とその娘、彼女の脳裏に浮かぶ人々の姿、そして、子どもころから「空気のかたまり」求めて続けてきた彼女の、おそらく、三十数年にわたる生活が、静かに、しかし、誠実に語られていました。 おそらく、作家自身の体験が作品の底にあるのだろうと思いますが、この作品の面白さは「喘息」体験のリアルな描写によるのではなく、「空気のかたまり」を求める語り手の生を希求する姿の普遍性を描こうとしたことにあると感じました。 併収されている「わからないままで」という作品は、「息」という作品と、丁度、裏表の構成で、小池水音という作家の実体験と小説との関係を暗示していますが、二つの作品を読み終えて、驚いたのは作家が男性だったことでした。 作家の名前と「息」という作品が、女性の語りで書かれていたことで錯覚したのかもしれませんが、女性作家だと思い込んで読んでいました。まあ、ボクの迂闊さはともかく、この若い作家の力量がなせるワザでもあり訳で、なかなかやるな! という印象を持ちました。読んで損はないと思いますよ(笑)。
2023.10.16
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メーサーロシュ・マールタ「アダプション/ある母と娘の記録」元町映画館 2023年、7月の初旬、元町映画館でやっていた<メーサーロシュ・マールタ監督特集 女性たちのささやかな革命>というプログラムの初日に「アダプション/ある母と娘の記録」という1975年に作られたハンガリーの映画を見ました。 中年の女性と、高校生くらいの少女の出会いと別れが描かれていました。高校生くらいの少女の名前はアンナ、親に見捨てられているようで、日本でいえば教護施設でしょうか、寄宿学校で暮らしているようです。その少女が校外学習、放課後の外出だかの機会に、中年の女性を訪ねます。恋人との逢瀬のための場所を探してのことのようです。 一方、中年の女性ですが、名前はカタ、木工工場の労働者で、一人暮らしです。夫とは死に別れたようで、妻子のある男性と付き合っています。子どもはいません。 で、カタはアンナを受け入れます。友情というより、母と娘、あるいは、保護者と少女、ひょっとしたら、女の女の感覚のようです。 邦訳の題名にあるとおり、「ある母と娘」の、それぞれの女性の孤独の記録でした。題名のカタカナの方の「アダプション」というのはビジネス用語としては「採用」とからしいですが、「養子縁組」という意味もあるようで、この映画ではそちらでしょうか? 映画の中で、カタはアンナに養女になることを求めますが、アンナが断ります。親から捨てられたアンナは、自らの存在の在り方を、同性で年上の理解者としていたわり、許してくれるカタを信頼し愛しますが、「親子」になることは拒否します。 カタの思いを考えれば、切ない拒絶ですが、理解できる気がしました。一方、アンナに拒絶されたカタは、あくまでも、子どものいる生活を手に入れるべく「アダプション」、養子縁組の機会を求めて奔走しますが、そのカタの執着がこの映画のわからないところでした。 見終えて帰って来て知ったことですが、1975年のベルリン映画祭で金熊賞の作品だったそうです。で、その年のベルリンの主演女優賞が「サンダカン八番娼館 望郷」の田中絹代だったと知ってナルホド!と、膝を打つ気分でした。 「サンダカン八番娼館 望郷」という映画は、熊井啓という男性の監督の作品ですが、学生だったボクが映画を見始めたころの傑作で、高度経済成長で浮かれ始めた「戦後社会」が見捨てていた、イヤ、今も見捨て続けている女性の姿を描いていたと思いますが、ルポライター役の栗原小巻が手渡したタオルに頬ずりする田中絹代の歓びのシーンと、帰国した故郷で、壁越しに漏れ聞こえる「カラユキさん帰り」に対するうわさを聞いた高橋洋子が風呂で溺れ死のうとするシーンは、50年近くたった今でも忘れられない作品です。 で、その映画が作られた同じ年に、ハンガリーで暮らしていた女性監督が、共産主義社会を生きる二人の女性を描いていて、同じコンペティションで評価を争っていたというのも驚きでしたが、今日のスクリーンに映って二人の女性(べレク・カティとビーグ・ジェンジェベール)と、50年前に見た二人の女性(田中絹代と高橋洋子)が、どこかで重なり合う印象が心に残りました。 田中絹代と高橋洋子は、同一人物を演じていたわけで、この映画のべレク・カティとビーグ・ジェンジェベールとは設定そのものが異なりますが、それぞれ、社会の中で生きる女性という映画の視点は共通していると思いました。 69歳の老人は1975年という、ある時代があったことをしみじみと振り返るのですが、あの時芽生えた「性」、ひいては、「生」をめぐる問題意識の芽は育ったのでしょうか。まあ、そんなことをフト考える発見でした。 べレク・カティとビーグ・ジェンジェベールという二人の女優さんとメーサーロシュ・マールタという監督に拍手!でした。 実は、この特集では、日程を勘違いしていて、この1本だけしか見ることができなかったのが、かえすがえすも残念でした。ボケけてますね(笑)。監督 メーサーロシュ・マールタ脚本メーサーロシュ・マールタヘルナーディ・ジュラ グルンワルスキ・フェレンツ撮影 コルタイ・ラヨシュキャストべレク・カティビーグ・ジェンジェベールフリード・ペーテルサボー・ラースロー1975年・88分・PG12・ハンガリー原題「Orokbefogadas」2023・07・08・no86・元町映画館no182!
2023.10.15
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角幡唯介「裸の大地 第一部 狩りと漂泊」(集英社) 角幡唯介という冒険家の「裸の大地第二部 犬橇事始」(集英社)という本を、偶然、読んで、40歳をこえた、いい大人がグリーンランドとかの果てで十数頭の犬と戯れて(?)いる話があまりに面白かったので、やっぱり、ここは第1部もというので、この本を読み始めました。 「裸の大地第一部 狩りと漂泊」(集英社)です。表紙を飾っているのは、第二部で主役の一頭だった迷犬(?)ウヤミリックと、今回は犬橇ではなくて人が引いて荷物を運ぶ橇の写真でした。 犬一頭に手伝わせて、角幡自身が自力で橇をひき、グリーンランドの北の果てで「もっと北へ!」 というわけで、ただ、ひたすら歩く話でした。 著者の角幡唯介は1976年生まれらしいですが、2018年ですから、43歳だかの時の行動と思索の記録でした。 先だって読んだ第二部は犬とか橇とかの写真が巻頭を飾っていましたが、本書はこんな書き出しで始まります。 村に来て何日かたったころだった。降りつもる雪を踏みしめて、イラングアが私の家にやってきた。 グリーンランド最北の村シオラパルクには今、四十人ほどしか住んでいない。二十代の男はわずか数人で、ほかの連中は隣のカナックや南部の都市にうつってゆき、日本の山村と同じように過疎化が進んでいる。イラングアは、わずか数人しかいない村の若い男連中のひとりだ。 彼が私の家に来るのは、めずらしいことではない。イヌイット社会には伝統的にプラットという、文字通りぷらっと他人の家を訪問してコーヒーを飲んだり、ぺちゃくちゃ喋ったり、賭け事に興じたりする交流、暇つぶしの習慣がある。私は片言の現地語しか話せないし、客人をうまくもてなせるタイプでもないのでプラットにやってくる人は少ないのだが、人づきあいのいい彼は毎日のようにやってくる。そして誰それが猟に出て海豹を二頭獲ったとか、今日は天気が悪いからヘリは来ないよ、といった生活情報を教えてくれる。愛想がよくていつもケタケタ笑い声をあげ、冗談ばかり言って私をかつぐ、気のいい若者である。(P6) で、そのイラングア君がこんな事を云ったところから、角幡流「冒険論」が始まります。 カクハタ、あんた今四十二歳だろ。日本人は皆四十二歳で死ぬから、今年は旅をしないほうがいい。行ったら、あんた、死ぬよ。 四十二歳は日本人にとって不吉な年なんだろ。ナオミだって死んだ、カナダで氷に落ちて死んだのもいただろ。(後略) ナオミというのはグリーンランドで英雄視されている冒険家植村直己のことであり、〈カナダで氷に落ちて死んだ〉というのは河野兵市である。植村直己が厳冬期のアラスカ・デナリで消息を絶ったのは一九八四年、一方河野兵市は二〇〇一年に北極点から故郷愛媛をめざす壮大なプロジェクトの途上で氷の割れ目から海に落ちた。いずれもなくなった時の年齢は同じだ。(P7) 第1章は「四十三歳の落とし穴」と題されていますが、ここから本書は「冒険」にとっての体力、精神力、そして、経験の意味について論じ始めます。 長くなるので名前だけ上げますが、長谷川恒男(アルプス三大北壁登記単独登頂)、星野道夫(写真家)、谷口けい(ピオレドール賞)といった、著名な人たち名前があげられ、四十二歳というのは、イラングアの間違いで、四十三歳という年齢について話はすすめられます。 結論は、誰にとっても、例外なく「危険な年齢」というわけで、角幡自身、そのことに無頓着なわけではありません。にもかかわらず、彼は「性懲りもなく」、また、旅をはじめようとしています。なぜでしょう。 四十三歳で多くの冒険家が死亡するのは、多分、体力が経験に追い付かなくなることより、むしろのこされた時間が少ないと感じて行動に無理が出るからだ。(P17) これが、角幡が、旅に出かける前に下した結論です。で、読み始めて、ほぼ、20ページ、この個所に逢着して、後はノンストップでした。69歳になった老人が、角幡唯介などという、まあ、縁もゆかりもない、40代の冒険家の話に、どうして引き付けられるのか、答えがこれですね(笑)。 さて、もう一つの読みどころというか、気に掛かるのは、「狩りと漂泊」という言い回しですね。 誰かが作った、すでにある地図に頼ることなく、とにかく、行きあたりばったりで、たとえば「北へ」という目的を貫くことで、自分自身の地図を作りたい。 まあ、要約すればそういうことのようです。「生」を生のまま自然に晒すにはどうしたらいいか。 そんなふうにも読めました。冒険でしょ(笑)。まあ、人生論でもあるかもしれませんね。で、生きるためには食うことはやめられませんから「狩り」です。「狩りと漂泊」という本書の題名の由来です。 そういうわけで、彼は出発します。 準備をひととおり終え、いつも行動をともにしている一頭の犬とともに、第一回ノック奥狩猟漂泊の旅に出たのは三月十六日のことだった。(P60) 最後はイキナ氷河を下って、五月二十九日に私は村にもどることができた。旅をはじめて七十五日目のことだった。氷河から村までの十五キロはスキーさえ重たくなり、橇にのせて犬に運んでもらった。(P276) こうして、犬とともに橇をひいて1000キロを歩く200頁の旅が終わったのですが、現場の描写は「いったい、いつ、獲物が現れるのか?いつ、食料は手に入るのか?」 という、まあ、帰ってきて、こうして本を書いているのですから、大丈夫なのですが、ハラハラ、ドキドキで次のページ、次のページへと引きずられていく調子で、実に疲れる読書でした。 まあ、それにしても、雪と氷以外、ほぼ、なにもない話が、どうしてこんなに面白いのか、ホント不思議ですね。あと何年…💦 とかいう焦りに、フト、とらわれるお年の方にも、案外、おすすめなのではないでしょうか(笑)。ホント、命がけで、ようやるわという人の話って面白いですね(笑)まあ、何はともあれ、こちらは老人なわけで、生きて帰ってこられてよかったね! と、ホッと一息つくのでした。一応、目次、載せておきますね。 目次四十三歳の落とし穴裸の山狩りを前提とした旅オールドルートいい土地の発見見えない一線最後の獲物新しい旅のはじまり*付録 私の地図
2023.10.14
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NTLiveジェレミー・ヘリン演出「ベスト・オブ・エネミーズ」シネ・リーブル神戸 久しぶりのナショナルシアター・ライヴでした。お友達の入口君と見ました。ジェレミー・へリンという人が演出した「ベスト オブ エネミーズ」です。 たぶん、原題には「ザ」がついていそうなものですが、「好敵手」とでもいう意味でしょうかね。同名の映画だか、テレビドラマだかがあるようですが、それとは関係ないドラマのようでした。 1960年代のアメリカが舞台のお芝居で、今では、日本でも当たり前のように放映される、所謂、国政選挙をネタに視聴率を稼ごうとする、まあ、ボクにいわせれば軽佻浮薄の極みにしか思えないようなテレビの討論番組のお話でした。 アメリカですから大統領選挙ネタですね。ケネディ兄弟の暗殺とか、ニクソン、レーガンという、超保守派の登場とか、まあ、他所事ながら、懐かしい話題で展開します。 舞台に登場するのは、たぶん実名だと思いますが、共和党支持の保守派ウィリアム・F・バックリーJrという人と、民主党のリベラル派ゴア・ヴィダルという人です。ゴア・ヴィダルという人は、なんとなく聞き覚えがありました、フェリーニの映画に出たり、政治がらみの毒舌が有名な小説家だったと思いますが、小説作品は知りません。 舞台は、全体がテレビ局のセットでした。二人の討論が、いかに劇的効果を狙った「やらせ」の「テレビ番組」としてつくられていくかということが演じられ、二人の私生活が重ねられていきますが、テーマというか、芝居の眼目は「テレビ」というメディアの作り出す虚構の暴露ということのようです。ニュースは嘘である! というわけのようですが、ボクの印象では、今更、そんなこといわれてもなあ・・・・? というか、ちょっと古いんですね。「なあ、この戯曲、最近書かれたん。」「そうやなあ、演出家も若手やな。」「あの二人が、テレビで評判になったことで、テレビが、出来事の事実性をではなくて、受けるための伝え方を見せるメディアになったというのは、まあ、劇的なんだろうけど、古くね?」「うん、チョット、空振りやな。」 まあ、見終えて、そんなことを喋りながら、枝豆とかハゲ(お魚の名前ね)の煮つけとかつつきながら秋の夕暮れの楽しいひと時を過ごしました。 入口君は学生時代からの付き合いで、今では、どこかの大学生に舞台のビデオかなんか見せて、お芝居を論じている、まあ、そっち方面のプロですが、昔から、シマクマ君を観劇に誘ってくれるやさしい人で、この日もシマクマ君が乗る高速バスの乗り場まで送ってくれて、手を振りながらいうのでした。「今日は、つまらん芝居を誘ってすまんかったね(笑)。」「いや、見るだけの価値はあったよ。ありがとう(笑)。」「じゃあ、またね。」 そうはいってもイギリスのナショナルシアターで演じられ、映画にまでして見せている芝居ですからねえ。今、何が受けているのかを知るだけでも見る価値はあるわけです。 でもね、なんというか、この芝居の展開や、セリフからボクが受け取った世界認識というのでしょうか、問題意識というのが、ちょっと図式に見えてしまったことも事実ですね。 テレビというメディアの問題は、今や、ネット的なメディアの問題を前提にしないのであれば、まあ、「ただの時代劇?」 ということになってしまうんじゃあないかということを、かなり痛切に感じたお芝居でしたね。何といっても、元だか、現だかの、大統領とか、総理大臣とかいう人が、個人的に配信できるメディアで大衆扇動はする時代ですからね。その上、陰にまわれば言論弾圧だって、平気でやってるんじゃないかという時代のようですからね。いや、ホント、何をかいわんや! ですね。やれやれ、トホホですね(笑)。演出 ジェレミー・ヘリン原作 ジェームズ・グレアムキャストデビッド・ヘアウッド(ウィリアム・F・バックリー・Jr)ザッカリー・クイント(ゴア・ビダル)2023年・160分・G・イギリス原題National Theatre Live「 Best of Enemies」2023・10・11・no123シネリーブル神戸no207 ・NTLive!
2023.10.13
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「ちょっとぉー、おかあさんが来てるよぉー!」 ベランダだより 2023年10月11日(水) ベランダあたり 朝からベランダでいつものように叫んでいる人がいます。「チョット、チョット、写真、写真!」「ハイ、ハイ、なにごとでしょうか?」「ほら、ほら、アッコ、おかあさんが来てるやん。」 彼岸花に、アゲハ蝶が舞っています。わが家のミカン畑から巣立ち、時々帰って来て卵を産んでいるアゲハです。先日、サナギなったモスラ君たちのおかあさんです! (もちろん確証があるわけではありません(笑)) 今年、2023年は、間違いなく歴史的猛暑でした。同居人と二人で暮らしている住宅は、築後50年を迎えようとしている、5階建てでエレベーターもない老朽集合住宅ですが、住人の高齢化も半端ではありません。 猛暑が叫ばれる真夏の真昼、救急車のサイレンが鳴り響き、数日を経過して訃報が聞こえてくる、痛ましいというか、文字通り「いと、すさまじ」というべき出来事が相次ぎました。 もちろん、我が家の二人にとっても他人ごとではありません。なにしろ、我が家には、まあ、これを言うと、笑うというよりも絶句されるのですが、クーラーがありません。扇風機という「昭和」で30数年にわたる同居生活を暮らしてきたからです。 まあ、そうはいっても、何とか生き延びてきたわけで、今更、扇風機生活を変える気は毛頭ありません(笑)が、暑かったことを実感させるもう一つは、ヒガンバナでした。10月の風を感じて、暑さに一息ついたころにああ、今年もヒガンバナの季節やなぁ・・・ まあ、そんなふうに思って、住宅の周辺を尋ねてみると、みんな終わっていました。不思議ですね。写真はベランダの前に毎年咲く花ですが、あんまり元気がありません。 ヒガンバナにちょうちょなんて、なんとなく取り合わせも珍しいので、2023年の記録のつもりでベランダから撮りました。ピンボケですね(笑)。 まあ、秋ですね。かりんの実も色づき始めました。お愛想で載せておきます。じゃあ、またね(笑)。ボタン押してね!
2023.10.12
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「50歳やってぇ、ちょっと待ってよ!」 徘徊日記 2023年10月7日(土)ホテルオークラあたり 2023年の10月です。秋風が吹き始めています。写真はJR神戸駅の南にそびえる神戸クリスタルタワーです。青い壁面に青空と白い雲が映って、なかなか壮観(?)です。見上げていると、いろんなことが思い出される気がします。 シマクマ君はこの前を通りかかると写真を撮ることになります。今日は10月7日、土曜日です。 そのまま、ハーバーランドの方に抜けて、海沿いを東に向かって歩きました。工事中のポート・タワーが見えてきましたが、今日の目的地はその向こうにそびえているホテル・オークラです。 32年前に別れたお友達、教室とかテニスコート(なぜかソフトテニス部の顧問でした)とかで、まあ、あれこれお付き合いした方たちですが、が、100人を越えてお集りになっていて、「おまえも来い!」 とおっしゃていただいたのがうれしくてこうやって歩いていているわけです。 で、ここから写真がありません(笑)。 会場になっていたホテル・オークラの大広間に入ると、まあ、100人を越えて集まっていらっしゃるわけですから、オッサン、オバはんたちがガヤガヤいらっしゃって、ちらちら、オドオド、お顔を盗み見しながら会場の真ん中の方へあるくのですが、どこかから「あっ、シマクマせんせー!」 と声をかけてくれて、そっちを見ると、なんと16歳の少年が立っているのでした。 すると、あっち、こっちから、「あ、センセー!」「私、誰かわかる?」「やー、ナツカシー!」 声につられて、何というか、夢だか記憶だかの水槽があふれるかのように、16歳、17歳の少女や少年たちが、次々に登場してくるかのようであせりました💦 そこいる人たちは、無事、50歳になったことを祝い合おうとお集りなわけですが、なぜだか、みんな高校生に変身していて、ホント、こういうことって、あるのですね(笑) うれしいことに、大きな花束とかいただいて、無事、帰宅したわけですが、次の日からのわが家は花いっぱいで、思い出にひたる日々です。 でも、まあ、なんといっても、岐阜とかに嫁いだといいながら「センセーが来るっていうから岐阜からかけつけんよ。ハイ、これ、御みやげね(笑)」 というかなえちゃんからいただいた栗きんとんはうれしかったですね(笑)。実は大好物だったのです。 ひさしぶりの栗きんとんを味わいながら、便利な時代ですね、ラインとかフェイスブックとか、古くて、新しい、お友達が送ってくれるメッセージを読んだりしていますが、やっぱり、30年たったんですね。イノちゃんとか リエちゃんにも30年の月日がたったようです。もちろん、こっちにもですね。いやはや、とりあえず、感無量の一日でした。いろいろ、お気遣い、ありがとう! でしたね。ボタン押してね!
2023.10.11
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「あっ、かとうなってきたで!」 ベランダだより 2023年10月8日(日)ベランダあたり 今日は10月8日、日曜日です。3連休の中日ですが、まあ、我が家の二人にはカンケーありません。人が大勢の繁華街には近ずかんとこの日です。というわけで、朝からベランダをウロウロしています。「昨日のモスラ君なあ、色変わってきたで?」「もう、そこにきめたん?」「うん、つついたら悪いからわからんけど、かとうなってきたみたいや」「触ったり、つついたりしたらあかんよ!」 写真に写っているのはこんな所です。 ベランダのガラス戸とコンクリートの間の溝のような部分です。モスラ君が食事していた、鉢植えのミカン畑からは5メートル以上離れた場所です。よくぞここまで歩いて(?)きた! まあ、昨年は物干しざおに登っていましたから、これくらいなんでもないのでしょうかね。 近所には、すでにサナギになって、壁に張り付いていらっしゃるかたもいらっしゃいます。 こちらが元のミカン畑。写っているのは昨日の「ご兄弟?」ではありません。彼の姿はいくら探しても見つからないところを見ると、彼もまた、チョット、サナギになろうかなの旅に出発したのかもしれません。 ミカン畑には、お先にアゲハになりました!の抜け殻も残っていました。ここでサナギになるのは、なんとなく、そういうものだと思うのですが、ここから出発してしまうのは何故なのでしょうね。 デカくなった二匹が去った、今のミカン畑です。実はチビラ状態のモスラ君が、まあ、数えきれない(ちょっと大げさですが)ほどいらっしゃって、食事に余念がない状態です。ほとんどの葉っぱは食べつくされて、すでに枯れ山になっていて、今後の食料不足が懸念されている2023年10月8日でした。 じゃあ、またね。ボタン押してね!
2023.10.10
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桜庭一樹「東京ディストピア日記」(河出書房新社) 中国の方方 (ファンファン)という女性作家の「武漢日記」(河出書房新社)を読んで案内しました。で、その日記の英訳者のマイケル・ベリーというカリフォルニア大学の中国研究者が書いた「『武漢日記』が消された日」(河出書房新社)を、ついでというか、成り行きで案内したのですが、日本国内でも同じ河出書房新社から「東京ディストピア日記」という、コロナ日記が出ていることに気づいて読みました。 書いているのは桜庭一樹という、15年ほど前に「私の男」(文春文庫)という暗い話で直木賞をとった、東京暮らしの「女性作家」です。直木賞作品は、その当時読みましたが、どうも、女性作家であるようなのに、桜庭一樹というペン・ネームを不思議だと思った以外、何の記憶もない人でした。目次は後ろに載せますが、2020年1月から2021年の1月までの1年間、東京での暮らし綴られた日記です。 最初が2020年の1月26日です。おそらく彼女の住まいから見えるのでしょうね、東京スカイツリーの電飾と隅田川の屋台船の話です。コロナの話は、まだ始まりません。 日記としては三日目の記事で、2月8日に「中国で猛威を振るう新型コロナウィルスのニュースが毎日流れるようになった。」 という記述が出てきて、そこからが、日本版「コロナ日記」の始まりです。 今、シマクマ君がこの記事を書いているのは、2023年の10月9日です。桜庭一樹のこの日記が始められて、3年と10カ月が過ぎたわけです。個人的な年月の経過の思い出は、とりあえず後回しにして、彼女の日記に繰り返し登場する固有名詞は、アベ、コイケ、トランプ、付け加えるなら、スガ、モリ、あたりです。みんな、インチキをさらしたで政治家たちですが、何といっても、アベという人が、すでにこの世の人ではないという時間間隔は圧倒的ですね。 2020年のアベは、わけのわからないマスクを、国家事業として配布した当事者で、秋には辞職して、スガという名前が「ガースーです。」とかなんとか笑いながら登場したのですが、覚えていらっしゃるでしょうか? どうでしょう、アベという名前の、あの人物は、すでにこの世にはいないということが、この3年間の、不思議な時間間隔を加速させるとお感じになりませんか?。「歴史事実」ということが、やたらと話題になる今日この頃ですが、日常的な備忘録として、妙に迫ってくるのが、この「東京ディストピア日記」でした。 桜庭一樹自身が、コロナが蔓延し、後先が見えない日常の中に生きる一人の人間として、自分自身の感受性の変化を真摯に記録しようという意思で、日記を書き続けていることは目次の表題にも表れているのですが、とりあえずシマクマ君が目を止めたのはここでした。 コロナ騒動が、他人ごとではなくなり始めた、2020年の3月の末、29日(火)のこんな一節です。 昨日、国内の一日の感染者数が二百人を超えた。 大学生たちに対し、感染拡大を避けるため、都会から地方に帰省しないようにとの声が強まっている。 関西の大学では、学生八名の集団感染が起こった。欧州に卒業旅行に出かけた四名と、彼らと卒業祝賀会で同席した四名だ。これにも「感染爆発の時期に欧州に行くなんて」と非難の声が飛び交っているが、大学の講師の知人が「学生がかわいそうだよ!今どんなに責任を感じていることか!だいたい、あの時期は欧州でまだ感染爆発してなかったのに!」と強い口調で言うので、はっとした。世界中のいろんなニュースが絶え間なく流れ、私も、出来事の順番がわからなくなっているのだ。(P46) なぜ、この記事が目に留まったのか。実は、この事件の当事者である大学の教員が古からの友人で、なおかつその教員は、自らも、この時コロナに感染し、生死が危ぶまれる体験をしたことを、本人から直接聞いたということもあって、本書の記述に出合った瞬間から、異様にリアルに「あの時」が浮かび上がって来て、まあ、後は一気読みでした。 2020年12月31日 寝転んで『モモ』を読み終わり、『武漢日記』(方方著)を読み、紅白を眺め、なんだか、夢から覚めた後もじつはべつな変な夢の中に閉じこめられているようななんともいえない気分で、あと数分でとうとう終わる、パンデミックでディストピアな二〇二〇年の端っこにくっついている。(P242) 2020年の大みそかの記述です。桜庭一樹は、コロナ騒動の秋、突如、ミヒャエル・エンデの「モモ」が読みたくなり、第8章の「時間どろぼう」では、まあ、読んでいる物語に促されて時間をさまよったりするのですが、その標題なのですが、大みそかに読み終えたらしいですね。 今となっては、まあ、誰もが知っていることですが、ここを書き終えて新年を迎えても、残念ながら、ユートピアにはなりませんでしたが、生活は続きましたよね。後遺症が怪しいのはコロナ感染だけではありません、ワクチンだって、かなり怪しいですね。被害者はすでに出ていると思いますが。 アフター・コロナという流行言葉も、もう、廃れつつあります。喉元過ぎれば…。 ここ3年間、いったい、なにがあったのか、「歴史的事件」を生きた人間の一人として、自分を見直していくためのよすがとして格好の1冊ではないでしょうか。 最後に目次をあげておきます。 目次プロローグ一 桜咲く 二〇二〇年一月二十六日(日)~二〇二〇年三月八日(日)二 日常の終わり 三月九日(月)~四月七日(火)三 ステイ・ホーム? 四月八日(水)~五月六日(水)四 新しい生活 五月七日(木)~五月二十九日(金)五 わたしは何者か? 六月二日(火)~七月十八日(土)六 ディストピア 八月四日(火)~九月六日(日)七 ガールクラッシュ 九月十三日(日)~十月二十五日(日)八 時間どろぼう 十一月十五日(日)~十二月三十一日(木)九 分断と融和二〇二一年一月七日(木)~一月九日(土)エピローグそれではまたね(笑)。
2023.10.09
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「さむなってきたし、ちょっと、 サナギになろうかな?!」 ベランダだより 2023年10月7日(土)ベランダあたり さすがの猛暑も、10月の声を聞くと収まったようで布団の中でゴロついているとチッチキ夫人がベランダで騒いでいます。「チョット、チョット、えらい旅してんねん。」「ちょっと、カメラどこ?」「あっちの机の横。」「これ、どうしたらカメラになんの?」「えーっと・・・」 スマホとかをとりだしてきて、いじり始めたので、シマクマ君も起きだしました。「ここ、こうすんの。ホレ!」「あっ、もう、じっとしてる。」「さむなって来たから、サナギになろうかなって、きっとそうやんな。」「えっ?ボーカン?」「こっちに残ってんのが、お兄ちゃんやんな。」「なんで、ニーチャンやってわかるねん。」「きのうから、ここで、一緒やってん。」「そやから、なんで、ニーチャンやねん!?」「あっ、ホラ、ピントおうてるやん!」 今日は朝から大騒ぎのベランダでした。10月最初の土曜日です。秋ですね。ボタン押してね!
2023.10.08
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マイケル・モリス「トゥ・レスリー」パルシネマ 「アフターサン」との2本立ての、もう1本はマイケル・モリスという監督の「トゥ・レスリー」という作品でした。 ロトという宝くじが、日本にもありますが、子持ちのシングル・マザーだったレスリー(アンドレア・ライズボロー)という女性が大当たりをひいたというのが、映画の前提で、くじで手に入れた19万ドルというあぶく銭のせいで、酒浸りの生活で、無一文、とうとう、住んでいたアパートから追い出されるシーンから映画は始まりました。 すべてを失ったらしいレスリーが頼るのは、息子のジェームズですが、彼はレスリーが生活を失っていく過程で捨てられた息子です。ジェームス自身は、まだ10代のようですが、建築現場の作業員として自活しています。ジェームスは、まあ、息子ですから、行き場を失って転がり込んできた母親レスリーを受け入れようとしますが、息子と暮らし始めても、息子にも禁じられた酒が、やはり、やめられない母親を、結局、追い出さざるを得ないのが、見ているこっちにもよくわかる展開で追い出します。 で、レスリーは住んでいた町にUターンするのですが、このままではうまくいかないでしょうね。見ているこっちも疲れるのですが、レスリー役のアンドレア・ライズボローの演技は、まあ、チラシの写真にも写っていますが一見の価値があります。自暴自棄とか、下品とか、だらしがないとか、その境遇に陥って、酒にすがるほか生きていくすべを思いつかない人間、それも女性の顔や姿態の醜態を、これでもかといわんばかりに演じています。見ていて、正直、うんざりします(笑) ウンザリしながらですが、彼女が身を持ち崩すことになった19万ドルという金額が、日本円に換算すると、2000万円くらいだと気づいて、唖然としました。なんという貧しさでしょう! もちろん、ボク自身にとって、2000万円という金額は大金です。そんな金はどこにもありません。あれば、うれしいに決まっています。しかし、何とか生き延びていく生活の未来を見失う額だとはとても思えません。にもかかわらず、現代アメリカを生きている一人の女性が何とか生き延びていく道を見失っている姿が、かなりなリアリティーで、目の前に描かれているのです。これを、貧しさといわずに、何といえばいいのでしょう。他人ごとではありません。おそらく、現代日本だって、この貧しさを共有しているに違いありません。 映画は、スウィーニーとロイヤルという二人の人間との出会いによって、レスリー自身の自己肯定の意思、すなわち、酒をやめる意思が芽生えてくることで、ホッとする結末を迎えます。見ている誰かを励ますに違いないヒューマン・ドラマの結末というわけです。 しかし、ボクは納得がいきませんでした。レスリーが酒におぼれたのは彼女の個人的な問題でしょうか。レスリーが生きている、イヤ、ボクもそこで生きている、現代社会に充満している「貧しさ」について、この映画はどうして問いかけないのでしょう。 レスリーの回復の過程でクローズアップされるのは「自己決定」の意思の芽生えだったといっていいと思いますが、その、心温まるシーンでの、アンドレア・ライズボローが初めて見せる美しい表情を見ながら、「自己責任」という嘘くさい流行言葉が浮かんできてしまったのですが、どうしたらいいのでしょうね(笑)。 ぶつくさ文句を言っていますが、何度もいうようにアンドレア・ライズボローという女優さんは、なかなかでした。拍手!ですね。しかし、マイケル・モリスという監督さんには???でした。やはり、チョット、突っ込み不足で、納得がいきませんね(笑)。監督 マイケル・モリス脚本 ライアン・ビナコ撮影 ラーキン・サイプル美術 エマ・ローズ・ミード衣装 ナンシー・セオ編集 クリス・マケイレブ音楽 リンダ・ペリー音楽監修 バック・デイモンキャストアンドレア・ライズボロー(レスリー 母)オーウェン・ティーグ(ジェームズ 息子)スティーブン・ルート(ダッチ)アリソン・ジャネイ(ナンシー)マーク・マロン(スウィーニー)アンドレ・ロヨ(ロイヤル)2022年・119分・G・アメリカ原題「To Leslie」2023・10・03・no122・パルシネマno67 !
2023.10.07
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シャーロット・ウェルズ「アフターサン」パルシネマ パルシネマが今週(2023年・10月・第1週)「アフターサン」と「トゥ・レスリー」という二本立てのプログラムを組んでいました。2本とも封切で見損ねていたので、何の気なしにやって来ました。 見ていて、プログラムの意図に気づいて笑いました。共通する鍵言葉は「親子」だったんです。もっとも、それに気づいたのは2本目の「トゥ・レスリー」を見終えようとするあたりでしたから、自慢になるわけではありません。 で、1本目が「アフターサン」です。「アフター」と「サン」のあいだがあいている二つの言葉かなとか、もの知らずなシマクマ君はそんなことをを考えながら見ていたのですが、日焼け止めという意味なのですね。「あのね、アフターシェーブローションをアフターシェーブというようなものよ。」「ああ、そう?」「で、おもしろかったの?」「うーん、微妙。」 帰宅して、同居人に教えられて納得しました。さて、面白かったんでしょうか? 館内が暗くなると、画面には「ビデオを再生してますよ」的なごちゃごちゃした映像が映り、やがてノーマルな画面になって、父カラム(ポール・メスカル)と娘のソフィ(フランキー・コリオ)という二人が、トルコか、そのあたりらしいリゾート・ホテルにやって来て、最初は、部屋にベッドがないという苦情のシーンで始まりますが、やがて、プールの傍に寝転がっている娘の背中に、父親が「アフターサン」を塗るシーンとかがあって、なんで、日焼け止めクリームを塗るシーンがわざわざ、それも繰り返し映るのかわからないシマクマ君はポカーン! 父親と母親は離婚しているようで、いつもは母親と暮らしているらしい、で、11歳ですから、小学生の娘が、まあ、夏休みを利用して、父親とすごすためにリゾートにやって来て、数日過ごすという話のようです。だから、まあ、父親がスキン・シップしたがっているのであろうか、と見ていると、今度はハンディのビデオカメラをとりだして、娘の様子を写したり、娘がそれで父親を写したりします。で、その映像の再生画面を誰かが見ているというお話の仕組みのようです。フーンそうか。 まあ、そんな感じ見ていると、ビデオを見ているのが、実は、ビデオの中で父親と一緒にいるソフィ自身で、あの時から20年の歳月が流れていて、ビデオのなかの父親と同じ年になっていることが、まあ、わかっていきます。 ビデオを見ている31歳のソフィには、赤ん坊がいるらしいのですが、同じベッドで寝ているのは女性です。再生している部屋には、あの時、金のない父親カラムがためらいながら買った、かなり高額な絨毯が敷かれています。なぜ、あの絨毯がそこにあるのでしょうね。だいたい、ビデオカメラは、バカンスが終わって二人が別れるときに父親が持っていたはずですから、ビデオを再生しているという、「映画の現在」に、ソフィがそれを見ているということにも、絨毯が彼女の部屋にあることと共通した、何かわけがあるはずです。 そのあたりが、一切説明されないのが、この映画の特徴ですね。で、ソフィが見ているビデオの画像が「映画」なのかというと、実は、それも曖昧で、映画館でボクが見ているのは、二人以外によってしか撮ることが出来ないシーンが、実は、ほとんどなのです。 今、31歳のソフィが見ているのは、父親か、彼女自身によって撮られた、互いの姿以外ではありえません。それに対して、観客のボクは、今、ビデオを見ている31歳のソフィの不機嫌な表情と、11歳だった彼女の前では明るかった31歳の父親カラムが、実は、かなり深刻な精神状態であることを暗示する複数のシーンを見ているわけです。 いったい、何を見ればいいのでしょう?💦💦 だから、まあ、受け取ればいいんですかねという困惑のなかで、やっぱりポカーン! なのでした(笑)。 おそらくヒントの一つは、31歳のソフィのベッドにいる、もう一人が女性であることと、時折、フラッシュバックの映像のように挿入された、父親カラムが踊っているらしいダンスホールのシーンで流れるUnder Pressureという曲ですね。フレディ・マーキュリーとデヴィッド・ボウイの歌です。 空港でソフィと別れて、ビデオ・カメラをリュックに仕舞って、向こうのドアに向かって廊下を歩くカラムの後姿が消えてゆくドアの向こうに暗いダンスホールが、ほんの一瞬ですが映るんです。でも、こんなの、ふつう気づきませんよね。 まあ、気付こうが気付かなかろうが、ボクにはそのあたりにビビッド(笑)に感応できる下地がありませんから、やっぱりポカーン! でした。 ただ、ほかのシーンですが、二人が眺めていた海面に水中の魚影か!? まあ、そんなふうに勘違いするような、空中のハングライダーの影が映っていたシーンなんかを思い出して「父と娘」の、届かない「愛(?)」の幻影に思いをはせるばかりでしたね。 題名の「アフターサン」=「日焼け止め」もそうですが、少々、思いれ過剰で、めんどくさいと思いましたが、シャーロット・ウェルズという監督の名前は覚えそうです。拍手! それから、11歳の少女を演じたフランキー・コリオちゃんですね。よく頑張りました(笑)。拍手!監督 シャーロット・ウェルズ脚本 シャーロット・ウェルズ撮影 グレゴリー・オーク編集 ブレア・マクレンドン音楽 オリバー・コーツキャストポール・メスカル(カラム 父)フランキー・コリオ(ソフィー 娘)セリア・ローソン=ホール(20年後のソフィー)2022年・101分・G・アメリカ原題「Aftersun」2023・10・03・no121・パルシネマno66!
2023.10.06
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小津安二郎「お早う」パルシネマ パルシネマが小津安二郎の「お早う」とヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」という2本立てをやっていました。 なんか、笑いだしそうなプログラムですが、笑っている場合ではありません。SCC、シマクマシネマクラブの第10回例会です。 「覇王別姫」を見た前回の第9回では「監督の人間性を疑わせる悲惨なシーンが見るに堪えない!」と否定されてしまったわけで、一応、案内人のシマクマ君はかなりうろたえています。「なかなか、あたり!の作品には出逢えないものですね(笑)」とかともおっしゃっるのですが、それを聞いているシマクマ君は、満塁のピンチに、どこに投げたらストライクなのか、マウンド上で立ちすくむノーコン投手の気分です(笑)。 で、お誘いしたのが「お早う」と「パリ、テキサス」でした。どうだ、文句あるか! なかなかないセットのプログラムで、パルシネマもやってくれるじゃないかと思ったんですが・・・。 というわけで、今回は、まず、「お早う」編です。「いかが、でしたか?」「うーん、これって、いい映画なのですか?」「ははは、吉本新喜劇ばりの小津ダイコン劇場だったでしょ。」「そうですね。これって吉本新喜劇なんですか。」「さあ、新喜劇かどうか、それはわかりません。でも、例えば、笠智衆って、見た目、何にも演技しない、あるいはできないんですが、寅さん映画の時の御前さまの役だって『トラはいるか?』とか何とか、彼にしか言えないイントネーションというかでしゃべるだけでしょ。そのあたりどう思われます?」「小津のロー・アングルとか、見てて分かりましたけど。場面は作り物にしか見えないし、俳優たちの所作は、おっしゃる通り、ダイコンというか、なんだかわざとらしいし、セリフの口調は教科書みたいだし。なんだかなあですね。」 どうも、またもやハズレだったようで、会話が途切れてしまいました。 というわけで、ここからは、やっぱり独り言ですね。まあ、誰に語り掛けているのかわからない語りですがご容赦いただいて、喋ります。 何というか、小津というと、という感じでアングルの話とか出てましたけど、カメラの位置や角度が映画のシーンを見る人間にどんな印象を与えて、どういう表現を受け取るのかなんてことは、正直なところボクにはよくわかっていません(笑)。まあ、そういう所に小津なら小津の作品の特質を見たいのであれば、彼の作品を10本くらいご覧になって、共通するものが何かということに納得されての話じゃないでしょうか。 ダイコン劇場って揶揄したようなことをボクはいいましたが、構図へのこだわりがこの監督の特徴の一つで、登場人物たちがとまってしまうような印象をボクは持つのわけですが、ビビッドな動きが印象的な黒沢明の画面なんかと比べて、ダイコン畑のようになるんですね。もちろん黒沢の画面だって構図ですよね、映画なのですから。でも、、何というのでしょうか、登場人物がはみださない印象の小津の画面って、やっぱり独特なんですね。演出風景を想像するとこんな感じですね(もちろん、ボクの思いつきのデタラメですよ(笑))。「あのーここに座っていればいいんですか?」「そう、顔上げて。」「このシーンで顔をあげるのは?」「いいの、で、チョット、カメラと反対の遠くを見て。」「えっ?相手じゃなくて?」「そう、それでいい。」 だから、この映画でも、子役たちはともかく、杉村春子とか三宅邦子とか、名うての芸達者なはずなのですが、突っ立っている印象で、眼と口の動きだけのように見えるのですね。とても、中学生の母親には見えません。 登場人物たちの暮らす住宅の様子や、まあ、堤防の上を歩く子供たちのやりとりのパターン化の印象も、多分その「構図」の強調あたりに原因がある気がします。 しかし、だから、つまらないのかというと、なかなか簡単にはいえないところが、小津映画なのですね(笑)。 あの日、ボクは家に帰って、まあ、いつものように同居人に「お早う」という映画の様子を説明し始めて、驚きました。次から次へとシーンが浮かんでくるんです。 たとえば、兄弟二人がお櫃を持ち出して、近所の土手に、並んで座って、手づかみでご飯を食べながら「おいしいね」といったり、薬缶のふたでお茶を飲みながら、「おかずを持ってくればよかったね」とか何とかいい合うシーンだけでも、ボク自身の子ども時代の体験や、我が家の愉快な仲間たちの子ども時代の思い出まで引き合いに出して、どんどんおしゃべりになっていって、聞いてる同居人をあきれさせたのですが、その、ボクのなかに勝手に湧いてくる「豊かさ」はどこからくるのでしょうね。 漱石だったかが「I LOVE YOU」というセリフは「月がキレイですね」と訳すんだといったという話をどこかで聞いたか、読んだかしたことがありますが、この映画の最後のプラット・ホームでのシーンで佐田啓二が久我美子に「天気がいいですね。」とか何とか、陳腐なセリフをいいますが、漱石の指摘した含意が、あのシーンのセリフだけじゃなくて、映像全体に充満しているといってもいいかもしれませんね。 見ているこっちが、勝手に、しかし、いつの間にか、受け取っているんですね。そう考えてみれば「お早う」という題名も、「男はいらんことをいうな」という父親のセリフも、中学生の実君の「大人はいらんことばかりいっている」というセリフも、小津映画的には、相当、意味深ということになりそうですね。 同じ日の2本立てで「パリ、テキサス」を見たヴェンダースが笠智衆を撮った「東京画」というドキュメンタリーを見たときに驚いたのですが、笠智衆って、口調とか抑揚とか、普通の老人として話せるのですね。その笠智衆が、小津映画ではワン・パターンの置物化するのは何故かということですね。ねっ、深いでしょ? 今日見た「お早う」なんて、小津の作品群では、それほど評価の高い作品ではないと思いますが、思いがけなく面白かったというか、ボクは納得でしたね。映画の感想では、きいたふうなことはいわないでおくというのが、ボクなりの心構え(?)のつもりなのですが、なんか、調子に乗ってしゃべってしまいましたね(笑)。まあ、ということで、独り言を終えたいと思います(笑)。 監督 小津安二郎 脚本 野田高梧 小津安二郎撮影 厚田雄春美術 浜田辰雄音楽 黛敏郎編集 浜村義康キャスト笠智衆(林啓太郎・民子の夫)三宅邦子(林民子・啓太郎の妻)設楽幸嗣(林実・兄・中学生)島津雅彦(林勇・弟・小学生)久我美子(有田節子・林家同居・民子の妹)三好栄子(原田みつ江・きく江の母)田中春男(原田辰造・夫)杉村春子(原田きく江・妻)白田肇(原田幸造・中学生)竹田浩一(大久保善之助・夫)高橋とよ(大久保しげ・妻)藤木満寿夫(大久保善一)東野英治郎(富沢汎・職探しの夫)長岡輝子(富沢とよ子・妻)大泉滉(丸山明・テレビを持っている近所の人)泉京子(丸山みどり・明の妻)佐田啓二(福井平一郎・失業中)沢村貞子(福井加代子・自動車のセールスウーマン)殿山泰司(押売りの男)佐竹明夫(防犯ベルの男)桜むつ子(おでん屋の女房)1959年・94分・日本配給 松竹劇場公開日:1959年5月12日2023・09・25・no118・パルシネマno64・SCC第10回!
2023.10.05
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小林まこと「JJM女子柔道部物語15」(EVENING KC 講談社) 2023年10月のマンガ便です。小林まことのおバカ柔道マンガ「女子柔道部物語」(講談社)15巻です。ボクには小林まことのマンガは、こうして表紙を見ているだけで楽しいのですが、この15巻は「高校柔道編」完結編で、表紙にはカムイ南高校の女子柔道部で活躍したおバカ少女たちが全員集合!しています。 本巻では、カムイ南高校が極大高校と、インターハイ北海道予選の決勝戦を戦います。主人公、神楽えもチャンは、高校3年生です。で、最後の夏の戦いは、カムイ南高校の中堅です。 よく知りませんが、柔道では高校女子の団体戦は先鋒、中堅、大将の3人で戦うようです。カムイ南高校チームは先鋒が有本直美サン、中堅が神楽えもさん、彼女は61Kg以下級の全日本ジュニア強化選手とかになっています。で、大将が藤堂美穂さん、えもチャンと同じく72kg以下級の全日本ジュニア強化選手です。3人とも3年生です。 相手の極大高校は、先鋒が高梨さん、どうも、1年生の新鋭選手のようです。えもチャンの相手の中堅が笹沢千津さん、66kg以下級ですが、無差別級の北海道チャンピオンで、だから、この時、北海道で一番強い高校生なわけですから、極大高校の絶対的ポイント・ゲッターです。えもチャン、どうするのでしょうかね(笑)? で、大将は岩崎加代子さんです。72kg超級で、女性にこういっていいのかどうかですが、巨漢です。2年生です。 試合経過はお読みいただくほかありませんが、これが神楽えもチャン、高校時代最後の雄姿です。実力に勝る笹沢千津さんとの死闘の始まりです。「うおおおお~っ」 まあ、こういうノリの描き方をする小林まことが好きなのですが、えもチャンの顔が昭和の初年マンガのキャラクターな感じがして笑いました。 結局、まあ、ネタバレですが、北海道を制覇して、全国3位という好成績を残し、神楽えもちゃんの「高校柔道編」は終わります。 で、柔道が終わるとこうなります。 アイスキャンデーを舐めながら石狩川の河川敷を歩いています。何の悩みもないようです。青空と白い雲です。いいですねえ(笑)。左のページには、旭川南高校や、旭川大学高校(今は高名が変わって、旭川志峯高等学校、マンガで昔のまま)の関係者をはじめ、お好み焼き関東、スナック雪女とかの名前が取材協力者一覧で並んでいて、妙に可笑しい。実名なんですね(笑)。 で、完結です。「女子柔道部物語・社会人編」がもう始まっているようですね。たのしみです。追記2023・10・06過去の記事です。クリックしてみてくださいね(笑)。第1巻 第7巻 第8巻 第10巻
2023.10.04
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森達也「福田村事件」シネ・リーブル神戸 評判の映画、森達也監督の「福田村事件」をようやく見てきました。神戸での上映は夏休みがあけた9月上旬から元町映画館とシネ・リーブル神戸が同時に上映するという、快挙!(?)で、ちょっと驚きましたが、様子をうかがっているとどちらの映画館も、毎回、ほぼ、満席の盛況らしくて、腰が引けてしまいました。 隣に知らない人が座るのが映画館というものなのだということは承知しています。ところが、映画館を徘徊し始めて5年ほどたちますが、まあ、見たがる映画にもよるのですが、そこにコロナ騒動が始まったせいがやっぱり大きくて100人ほど収容のホールに10数人、場合によっては片手以下、1人で見る社長試写会(?)状態も何度か経験したこともあって、隣近所に知らない人が座っている映画館に耐えられなくいという「映画館の敵!」になってしまったんですよね(笑)。 まあ、その、億劫気分に拍車をかけたのが、はしゃいだ夏の揺り戻し、夏バテ襲来でした。ゴジラの撹乱ですね(笑)。「なあ、毎日、満員らしいで、森達也。」「ええやん、ちょうど体もおかしいし。」「夏バテかなあ?」「映画館やなくて、お医者さん行っといでって。」「うん、もうちょっと、じっとしててアカンかったらな。」 まあ、そういう状態だったこともあったのですが、元町映画館の最終日に、何とか起きだして出かけたのですが、受付で場内を覗くと満席状態で、萎えました。「こら、あかんわ。また、来るわ。」「お大事になさってくださいね。また待ってますよ。」 トホホ… それから1週間がたって、今度はシネリーブルです。「行ってくるわ。」「お客さんは?」「ネットで予約見たら3人くらいやから、大丈夫!」 で、現地の実態は20人でした。評判の大波も収まったようです(笑)。 見終えて、いつものように歩きました。途中、元町映画館の受付のおニーさんに挨拶して、中秋の名月を背にしてJR神戸までヨタヨタ歩けました。復活!ですね(笑)。「大丈夫やった?」「うん、神戸まで歩いた。」「で、おもしろかったん?」「うん。ほかの人にはすすめんけど、あんた、見てきたらええと思うで。」「罪もない人が殺されるんやろ。」「うん、何の罪もないのに差別されてる人らが、普通の人によってたかって殺されんねん。」「やろ。」「でもな、その、殺される行商の人らの大将してる瑛太っていう人がな「朝鮮人やったら殺してもええんか!」って、実に見事な啖呵切んねん。絶対泣くで!」「あの子、最近、ええ感じになってるやろ。」「うん、でもな、森達也な、今の世間に向かって啖呵切りたかったんやと思うねん。」「ふーん」「他のセリフやシーンは、なんやかったるいねん。」「どういうこと?」「今、ボクな、大江の同時代ゲーム読んでるやろ、「村」、「国家」、「小宇宙」と並べて、壊す人いう太字のインテリを登場させんねんけどな、この映画もな、シベリア出兵、大正デモクラシー、在郷軍人会、日清・日露の英雄噺、出征後家の浮気や留守居の嫁、舅の姦通噺を出してきて、そこに朝鮮帰りのインテリとデモクラシー・ボケの若い村長持ってきて、あの時代の「村」の実態とか描いてていくねんけど、かったるいねん。図式やねんな、どっか。まあ、今の時代に村を描くとそうなんねやろうけどな。」「朝鮮帰りって?」「うん、多分、高等師範学校出て、朝鮮で先生して、向こうの大きな会社、あの当時屋から国策やな、その重役令嬢と一緒なって暮らしてたんやけど、実際あった朝鮮人の虐殺事件にかかわって、壊れた人になって帰ってきた役を井浦新いう人がやってんねん。令嬢は田中麗奈いう人らしいけど、ほら、浮気して話題になった、誰やったっけ、男前。」「東出君か?」「そうそう、その東出君が、その女の人と、夫がシベリアで戦死した女の人と二股する役で出てた(笑)。」「なんやそれ?」「瑛太はカッコええねんけど、東出いう人は、まあ、利根川の渡し守には見えへんかったな。で、先生やめて百姓するというってる人はな。」「井浦?」「そう。で、虐殺にかかわって、不能になってんねん。どんくさいやろ。」「なんともよういわんわ。」「でも、やつがインポになった理由を、離婚して出ていくいう田中麗奈にいうねんけど、その時、『日本人は朝鮮人に日本語押し付けて、自分は朝鮮語なんて何も知らへん。ぼくは、それが嫌やったから朝鮮語勉強した。』そういうて、いきなり、虐殺の現場で通訳させられた朝鮮語を大声で暗唱するねん。そのセリフな、画面見てても、何にもわからへんねん。わざと字幕つけへんねん。あっこも森達也やな。見てる人にな、まあ、ボクも含めてやけど、『あんたら朝鮮語なんか何にも知らんくせに、勝手なこと言うてるやろ!』って、ここでも、やっぱり、啖呵切ってんねん。」「ふーん。」「『あん時と、なんにも変わってへんやんけ。』やな。で、あいかわらず、『朝鮮人やったら殺してもええんか!』やねん。な、森達也やろ。」「ちょっとわかってきた。」「な、見といて悪ないで。チラシの絵もそうやけど、なんか竹久夢二みたいなシーンでHするのは、まあ、だるいけどな(笑)」 というわけで、みんなしゃべってスッとしました(笑)。完全復活です!(笑)監督 森達也脚本 佐伯俊道 井上淳一 荒井晴彦企画 荒井晴彦撮影 桑原正照明 豊見山明長編集 洲崎千恵子音楽 鈴木慶一メイキング 綿井健陽キャスト井浦新(澤田智一)田中麗奈(澤田静子)永山瑛太(沼部新助)東出昌大(田中倉蔵)コムアイ(島村咲江)松浦祐也(井草茂次)向里祐香(井草マス)柄本明(井草貞次)杉田雷麟(藤岡敬一)カトウシンスケ(平澤計七)木竜麻生(恩田楓)ピエール瀧(砂田伸次朗)水道橋博士(長谷川秀吉)豊原功補(田向龍一)2023年・137分・PG12・日本2023・09・29・no119・シネ・リーブル神戸no206!
2023.10.03
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 5 」(文藝春秋社) 2023年、10月のマンガ便です。司馬遼太郎の原作を鈴ノ木ユウがマンガ化している「竜馬がゆく」(文藝春秋社)、第5巻です。2023年8月30日の新刊です。ヤサイクンもはまっているようですね。そりゃあそうですね、マンガの展開も面白いのですが、原作が面白いのは、今更いうまでもないわけですからね。 今回の山場は二つ、一つは土佐、井口村の地下浪人、岩崎弥太郎との出逢いです。地下浪人というのは士分を売ってしまって、一応、身分は武士なのですが、藩士ではないというか、そういう最下層の武士ですね。 この方ですね。明治の政商、三菱の創始者になる人で、ここで坂本龍馬と出会ったことは歴史的事件でした。「すべては金じゃ」「物も人間も政ですら金で動かんもんはないき」 司馬遼太郎が作ったセリフなのか、実話なのかわかりませんが、なかなか味わい深い(笑)セリフですね。もっとも、彼は、この時、獄中の人ですけどね。このあたりで、とりあえず、登場することは、もちろん知っていましたが、さて、どんな顔の人物にするのか、興味津々でしたが、まあ、悪人面もいい所で、笑ってしまいました。 さて、第5巻のもう一つ読みどころというか、見所は、江戸の剣術大会ですね。幕末の江戸には、神道無念流の斎藤道場、桃井道場の鏡心明智流、千葉周作、千葉定吉兄弟の北辰一刀流、というのが、まあ、三大剣術指南所というわけで、そこで名を挙げた幕末の有名人では、4巻で龍馬が出会った、長州の桂小五郎が斎藤道場の、竜馬の同郷の先輩武市半平太が桃井道場の、それぞれ塾頭、そして、主人公龍馬が、当時、実力の小千葉と呼ばれていたらしい、北辰一刀流の千葉定吉道場の免許皆伝ですね。 戦いの描写はこんな感じで、剣術マンガですね。結構な迫力で、面白いですよ。こういう場面は、原作を読んだ記憶には全く残っていませんが、上に書いた千葉定吉道場の話とかは、原作からの知識以外にあり得ませんから、原作も、そういう剣術小説の面があったのでしょうかね。 今回の剣術大会に武市半平太は出場しませんが、桂小五郎と坂本龍馬の決戦は第5巻後半の山場ですね。まあ、お読みください。鈴ノ木ユウ君、絶好調! まあ、そういう感じですよ。
2023.10.02
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「大残暑! お名残りおしや 狸君!」 徘徊日記 2023年9月10日(日)松山あたり 9月10日なのですから、もう、秋です。意気揚々(?)とJR舞子で電車に乗ったのは昨日で、高松で旧友と再会し、「讃岐うどん」ならぬ讃岐中華麺で讃岐を堪能し、青春18も挫折して高速バスでたどり着いたのは道後松山だったのに、温泉にも入らないで、調子に乗って浮かれ飲みして、その挙句、二日酔いをするでもなく、元気に目覚めたはず徘徊老人、みごとに道に迷って大汗かいて、たどり着いてみると待っていたのはタヌキ君でした(笑)。タヌキの前で待っててね。 そう命じられて道ばたにしゃがみこんでお茶など飲んだのですが、やってくるのはホントにさかなクンなのでしょうか? 場所は、大街道の西の出口です。ここに来る前に通ったのが「銀天街」とかで、このアーケードの向うに松山城を見つけたときは、やっぱりちょっとホッとしました。 朝から迷ってたどり着いた、石手川公園、その近所の県立病院から東に向かって引き返しただけですが、繁華街のアーケードにたどり着いてホッとしました。 県立病院からここまでの途中には赤穂の浪人大高源吾のお墓のお寺があったりしたんですが、その境内にこんな句碑というか、石碑があって、こんな句が彫られていて、思わず座り込んでしまいまいました。こころざし 富貴にあらず 老いの春 柳原極堂 まあ、今は秋なわけで、老いの秋とかつぶやき直すと、妙にしみてしまいました。もう、終わりかけやん、まあ、富貴を望んだことは一度たりともないけど。 そばにあったお地蔵さんがやさしくてよかったりしたんですが、そうはいっても、もう子供じゃないし、まあ、たどり着いたタヌキ君の前で座り込んで、何といっても俳句の町なんだからと、なんとか五、七、五に語呂合わせしようとなれない頭でひねり出しました。大残暑 お名残りおしや タヌキ君 熊掌 半日、化かされたように松山の街を徘徊したのも、まあ、暑かったのですが、いい思い出です。チッチキ夫人への御みやげは定番の「山田屋饅頭」で、神戸まで送ってくれるというさかなくんの思いもかけない優しさも身に染みたのですが、お土産を買ったドライブイ石鎚で見事に老眼鏡を落とすという失敗で締めくくった老いの秋の旅でした。 ここまで、読んでくださった皆様、どうもありがとう。2023年の夏が終わりました。じゃあね。ボタン押してね!
2023.10.01
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