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パブロ・ネルーダ「ネルーダ詩集」(海外詩文庫14・田村さと子訳・思潮社) イル・ポステイーノという映画を見ました。で、映画の中のマリオという登場人物が「詩」と出会うシーンを見ながら、何となくネルーダの詩句が浮かびました。ボクは、今日、案内している、この思潮社版の「ネルーダ詩集」しか知りませんが、帰ってきて棚にあったこの詩集を、まあ、パラパラと読み直しました。 で、映画の主人公の郵便配達人マリオが恋をして、詩的なセリフを口走る様子に重なるのはまずこの詩でした。詩 La poesiaその年齢だった・・・・詩がわたしを探しにきたのはどこからやってきたのかは わからない冬からきたのか 川からきたのかどのようにしてか いつだったのかも わからない声でもなかったし ことばでも 沈黙でもなかっただが わたしは呼びかけられたのだ街角から 夜の枝々から突然 さまざまなもののあいだから燃えさかる火のあわいからあるいは ひとりで帰宅しているときそこに 貌がないままいてわたしをさわったのだわたしはなんていっていいかわからなかったわたしの口は名づけられなかったのだわたしの目は盲いだったしかし なにかがわたしの魂をノックしていた熱病 あるいは 失くした翼かがそれから わたしは孤独を好むようになりあの熱傷の謎を解きあかそうとそして 最初のとりとめのない一行を書いたぼんやりとした 肉体のないまったくつまらないことなんにも知らない という完璧な学識それから わたしは ふと見上げたほどけてひろびろとした天空を惑星鼓動うつ大農場矢や 火や 花々によって穴だらけの闇圧倒する夜 宇宙そしてわたしは ちいさな存在神秘のイメージにもにた星でおおわれた大きな空間に酔いしれながらわたしが深淵の純然たる一部だと感じ星々といっしょに転がり落ちてしまった風の中で わたしの心は解き放たれていた 映画を見たことのない人には、何をいっているのかわからないと思いますが、マリオという、実にどんくさい郵便配達の青年がベアトリーチェという笑顔のとても素敵な女性に、まあ、一目ぼれというストーリーなのですが、ああ、マリオに詩がやってきたんだ とボクは感じたのですね。 で、そこから、彼の口走る言葉で記憶に残ったのが「君のほほえみの蝶」だったのですが、それはこの詩のイメージですね。二十の愛の詩と一つの絶望の歌十五黙っているときのおまえが好きだ うつろなようすで遠くで おれに耳を傾けているのに おれの声はおまえに届かないおまえの目はどこかに飛び去ってしまったのようだ一度のくちづけが おまえの口を閉じさせてしまうかのようだあらゆるものは おれの魂でみちているのでいろんなものからおまえは浮かびでてくる おれの魂でみちて夢の蝶よ おまえはおれの魂に似ているそして メランコリーということばに似ている黙っているときのおまえが好きだ ひっそりしていて嘆いているようで 甘くささやく蝶よ遠くでおれに耳を傾けているのに おれの声はおまえに聞こえないおまえの沈黙で おれを黙らせてくれないかおれも ランプのように明るく 指輪のように素朴なおまえの沈黙で おまえに話しかけさせてくれないかおまえは 星をちりばめた静かな夜のようだおまえの沈黙は はるか遠くにある素朴な星のものだ黙っているときのおまえが好きだ うつろなようすで息絶えたかのように かなたにいて いたいたしくてそんなときは ひとつのことばと微笑みだけでいいすると おれは楽しくなる 楽しくなくても楽しくなる そして、とどのつまりは、ベアトリーチェのおばさんが、マリオの詩の師匠だとネルーダに苦情を言ってくるシーンがあるのですが、そこで「裸がどうだとか、みだらな言葉を口にしてうちの姪っ子を口説いている!」とくってかかるとネルーダが「それはメタファーだ」 と答えます。すると、「そうだ、メタファーが悪い!」 というようなトンチンカンな会話になって、かなり楽しいのですが、浮かぶのはこの詩ですね。100の愛のソネット裸のあなたはあなたの手のように簡単です:滑らかで、陸上で、最小で、丸く、透明です。あなたは月の線、リンゴの道を持っています。あなたは裸で、裸の小麦のように薄いです。裸のあなたはキューバの夜のように青いです:あなたは髪の毛にブドウと星を持っています。裸のあなたは丸くて黄色です黄金の教会で夏のように。裸のあなたはあなたの爪の一つと同じくらい小さいです:日が誕生するまで曲線、微妙、ピンクあなたは世界の地下鉄に乗る長い衣装と仕事のトンネルのように:あなたの明快さは消え、ドレス、枯葉剤そして再びそれは裸の手です。 ネルーダは1973年に祖国チリでなくっています。映画が作られたの、彼の死後20年くらいたった後なので、監督たちは彼の詩についてはよく知っているはずですね。 というわけで、「裸の」とか「蝶」とかいう、まあ、隠喩的表現、メタファー(笑)が映画の中に出てきても不思議はありませんが、映画のお話の時代は1950年代の前半ですから、果たして、ネルーダの詩句に「蝶」はすでに出てきていますが、「裸の」が出てきていたのかは確かめてはいません。 まあ、それはともかく、読み応えのある詩集ですね。 思潮社の作家紹介と訳者紹介を下に貼っておきます。ちなみに、訳者の田村さと子という方は、和歌山県の新宮高校で中上健次と同級生だったそうです。ネルーダ,パブロNeruda,Pablo1904年チリのパラル生まれ。チリ大学在学中に出版した『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』により、中南米の有望な詩人として認められる。27年外交官となり、34年赴任したスペインでロルカ等と親交を結び、内戦では人民戦線を支援して『わが心のスペイン』を書く。45年上院議員に選出され、共産党に入党。48年独裁色を強める大統領を非難、逮捕命令が出たため地下に潜伏しながらアメリカ大陸の文化、地理、歴史、世界の階級闘争を包含する一大叙事詩『おおいなる歌』を執筆。49年亡命、52年帰国。70年世界初の民主革命政権の樹立に尽力、同政権下のフランス大使として赴任。71年ノーベル文学賞受賞。癌のため、帰国し療養中の73年9月、クーデター勃発、軍部監視の下、死去。伝統詩、ヘルメス主義、シュールレアリスモ、プロパガンダなど多彩な主張とスタイルが混在する豊かでスケールの大きな作品群により、20世紀最大の詩人と評価されている。田村さと子1947年和歌山県生まれ。2020年逝去。メキシコ国立自治大学、マドリード大学留学後、お茶の水女子大学で学術博士号(Ph.D)。スペイン王立アカデミー・チリ支部、チリ言語アカデミー外国人会員。著書に『イベリアの秋』(現代詩女流賞)など 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.26
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「生きる」谷川俊太郎:「谷川俊太郎詩集 続」(思潮社) 「生きる」 谷川俊太郎生きているということいま生きているということそれはのどがかわくということ木もれ陽がまぶしいということふっと或るメロディを思い出すということくしゃみすることあなたと手をつなぐこと生きているということいま生きているということそれはミニスカートそれはプラネタリウムそれはヨハン・シュトラウスそれはピカソそれはアルプスすべての美しいものに出会うということそしてかくされた悪を注意深くこばむこと 生きているということいま生きているということ泣けるということ笑えるということ怒れるということ自由ということ生きているということいま生きているということいま遠くで犬が吠えるということいま地球が廻っているということいまどこかで産声があがるということいまどこかで兵士が傷つくということいまぶらんこがゆれているということいまいまが過ぎてゆくこと生きているということいま生きているということ鳥ははばたくということ海はとどろくということかたつむりははうということ人は愛するということあなたの手のぬくみいのちということ (詩集『うつむく青年』1971年刊) 装幀家の菊地信義の「装幀の余白から」(白水社)というエッセイ集を読んでいると、谷川俊太郎の「生きる」という詩の最初の4行が出て来て、さて、残りはどうだったかと書棚から探し、ページをくっていると、いろいろ思い出した。 この詩は、ぼくが学生の頃にすでに書かれていて、「うつむく青年」という詩集に入っていたらしいが、発表された当初には気づかなかった。そのころぼくは詩集「定義」の中に収められているような詩に気を取られていた。 一緒に暮らすようになった女性が持っていた、上に写真を乗せた詩集「谷川俊太郎詩集 続」(思潮社)は900ページを超える、分厚さでいえば5センチもありそうな本だが、この詩、「生きる」のページには、学生時代の彼女の字体で、あれこれ書き込みがしてあった。今でも残っている書き込みを見ながら、実習生として子供たちを相手にこの詩を読んでいる彼女の姿を思い浮かべてみる。 我が家の子どもたちが小学校へ通うようになった頃、この詩は教室で声を合わせて読まれていた。詩であれ歌であれ、様々な読み方があることに異論はないが、声を合わせて読み上げられるこの詩のことばに違和感を感じた記憶が浮かんでくる。 今、こんなふうに書き写していると、「働く」ということをやめてから、さしたる目的もなく歩いている時の、のどが渇き、日射しが眩しい瞬間が思い浮かんでくる。 一緒に詩のことばの異様なリアリティが沸き上がってくる。記憶の中に残っていた子供たちの声の響きが消えている。公園の垂直に静止したブランコに、ふと気を留めながら、のどの渇きに立ちどまる。誰も乗っていないブランコのそばにボンヤリ立っている老人がいる。その老人がぼくなのか、別の誰かなのかわからない。でも、その老人を肯定する響きがたしかに聞こえてくる。いま遠くで犬が吠えるということ 三十代でこの詩を書いた詩人のすごさにことばを失う。 追記2020・03・03菊地信義「装幀の余白から」(白水社)の感想はこちらをクリックしてください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.03.03
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マイケル・ラドフォード「イル・ポスティーノ」シネリーブル神戸 30年前のイタリア映画、「イル・ポスティーノ」を見ました。監督はマイケル・ラドフォードという、インド生まれのイギリス人のようです。正確には1994年の映画で、近頃はやりの4K・デジタル・リマスター版とかです。 祖国、チリを追われ、イタリアのカプリ島というところに亡命してきたパブロ・ネルーダという、後にノベール文学賞を受けた詩人と島の郵便配達の青年の物語でした。 久しぶりにチッチキ夫人との「同伴鑑賞(笑)」でした。「どう?よかったな。」「やっぱり、私、こういうイタリア映画がいいわ。」「監督イギリス人らしいけど。」「あら、そうなん。でも、これはイタリア映画やん。」「うん、海も自転車もな。」「酒場のおばちゃんがええやんか。裸とか、みだらなこというって。怒ってはって。」「メタファーでかどわかすなやな。」「最初、こんなどんくさそうな人がどうすんのって思ってたのに、やるもんやね。」「メタファーのおかげな(笑)。」「映画に出てくる人、みんな差別せえへん感じやったやろ。平等の目線いうか。そこが一番やったわ。」「主人公した人、ホントに病気で映画が発表される前に亡くなったらしいで。」「ふーん、そうなんや」「ネルーダ役はシネマパラダイスのおっちゃんやったやん。」「ほら、やっぱりイタリア映画やん。」 イヤァー、二人ともご機嫌ですね この作品の舞台は、史実に照らし合わせるなら、ネルーダが亡命してイタリアにやってきたのが1951年のことですから、今からだと70年、映画制作時だと50年以上昔の、イタリアのナポリ湾だかのカプリ島という、地中海に浮かぶ貧しい島です。 しかし、風采の上がらない郵便配達の青年マリオ君が、よくぞ、こんな笑顔の女性を見つけたものだといいたくなるような素晴らしい笑顔の居酒屋の娘ベアトリーチェと出会ったところから時代を越えていきます。 ネルーダに「詩」という詩がありますが、その始まりにこんな詩句があります。 その年齢だった・・・・詩がわたしを探しにきたのはどこからやってきたのかは わからない そうなんです、映画では恋するマリオに詩がやってきてしまった! です。で、その結果、映画は時代を超えます。「メタファーとか言うふしだらなものが、うちの娘をかどわかしている。これはアンタの責任だ!」 とか何とか、居酒屋のおばさんがネルーダに迫るシーンなんて、もう、拍手喝采!の気分でした。 今、マリオが生きている世界の「美しいもの」。それは、赤ん坊の心音であり、さざなみであり、青空であるわけですが、それを、詩へ導いてくれた親友であるネルーダへ伝えようと、録音しようと追いかけ続けます。で、それこそが「世界への愛」のメタファーである! と見ているボクに教えてくれたマリオのあっけない死を伝える映画の結末に目を瞠りました。すばらしい! の一言ですね(笑)。 世界をこんなふうに素朴で穏やかで哀切に、且つ、美しく描いた映画と出会えたことに驚きました。拍手! 映画に出てきたネルーダの詩について別に読書案内したいと思います。監督・脚本 マイケル・ラドフォード音楽 ルイス・エンリケス・バカロフ撮影 フランコ・ディ・ジャコモ編集 ロベルト・ペルピニャーニキャストフィリップ・ノワレ(パブロ・ネルーダ:亡命詩人)マッシモ・トロイージ(マリオ:郵便配達人)マリア・グラツィア・クチノッタ(ベアトリーチェ:食堂のオネエサン)リンダ・モレッティ(ローザ :ベアトリーチェのおばさん)アンナ・ボナイウート(マチルデ:ネルーダの妻 )1994年・107分・G・イタリア・フランス合作原題「Il postino」英題「The Postman」2024・11・19・no150・シネリーブル神戸no281追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.25
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ダルデンヌ兄弟「トリとロキタ」シネ・リーブル神戸 2023年の4月に入って、久しぶりの帰省があり、帰って来てみるとPCが壊れているという事件があり、仕事が始まるという焦りがあり、ようやく映画館に復帰したのが4月の10日の月曜日で、観たのは、予告編で気になっていたこの作品、ダルデンヌ兄弟の「トリとロキタ」でした。 最初から最後まで、徹底して救いのない映画でした。しかし、ここまで、徹底できるところにヨーロッパ映画の確かさと、ダルデンヌ兄弟という映画作家の思想の深さを実感しました。「なぜ彼が弟だと分かったの?」 アフリカからベルギーにたどり着き、滞在ビザを得るための面接で、弟トリ(パブロ・シルズ)との再会の事情を尋問官から静かに問い質され、緊張した表情で目を瞠っている少女ロキタ(ジョエリー・ムブンドゥ)のアップから映画は始まり、共に生きていくはずだった姉ロキタのことを語る弟トリが中空を睨み据えた顔のアップで映画は終わりました。「ロキター!」 トリの叫び声が頭の中に、繰り返し、繰り返し響き渡るような錯覚にとらわれて、暗くなった映画館で、しばらく座り込んでいると、スタッフの若い女性が入ってこられて、掃除を始められたのですが、先日、ポケットに入れていた老眼鏡を座席の下に落とした時に、拾っていただいた方だったので、思わず声を掛けました。「先日は、お世話になりました。で、この作品はご覧になりましたか?」「はい、厳しい映画ですね。ダルデンヌ兄弟の作品は好きで見てきたのですが、こんなに厳しいのは初めてでした。今までに見たどの作品も、どこかにあかりがあるのですが、これはない気がしました。」「そうか、やっぱり、そう思いますか。でも、悪くないですよね。この厳しさというか・・・」「そうなんです。友達とかにはすすめられないのに、やはり、見てよかったというか。私は見たよというか。」「ありがとう。いつも、いろいろ迷惑かけて、ごめんね。話せて、ホッとしました。また来ますね。」「いえいえ、はい、今度は、ホッとできる映画も選んでくださいね(笑)。」 会話した通りです。見終えて、楽しい映画ではありません。誰にも、おすすめしません。しかし、ボクはこの映画が突き付けてきたことを、もう、知らないとは言えないと思いました。 それは、この映画を見た前後、偶然、読んでいた「河馬に噛まれる」(講談社便庫)という、つい先日亡くなった、大江健三郎の小説集の中に、「この項つづく」という詩人で小説家の中野重治の作品中の言葉が引用されていましたが、ボクの中で「この項つづく」というべきものを、この映画に突き付けられたということです。 説明不足ですが、大江と中野の「この項つづく」は、以前書いた「河馬に噛まれる」の感想にも少し書いています。おそらく、今後も言及することになると思いますのであしからず、です。 それにしても、ダルデンヌ兄弟、すごいですね、こういう映画製作者がヨーロッパにはいるのですね。ちょっとうれしいですね。静かに拍手!です。ロキタとトリを演じたジョエリー・ムブンドゥとパブロ・シルズにも、もちろん拍手!です。まいりました(笑)。監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ撮影 ブノワ・デルボー美術 イゴール・ガブリエル衣装 ドロテ・ギロー編集 マリー=エレーヌ・ドゾキャストパブロ・シルズ(トリ)ジョエリー・ムブンドゥ(ロキタ)アルバン・ウカイ(ベティム)ティヒメン・フーファールツ(ルーカス)シャルロット・デ・ブライネ(マルゴ)ナデージュ・エドラオゴ(ジャスティーヌ)マルク・ジンガ(フィルマン)2022年・89分・G・ベルギー・フランス合作原題「Tori et Lokita」2023・04・10-no050・シネ・リーブル神戸no179
2023.04.17
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オタール・イオセリアーニ「月の寵児たち」シネ・リーブル神戸 1本目に「唯一、ゲオルギア」というドキュメンタリー作品で見始めたオタール・イオセリアーニ映画祭ですが、「いよいよ、ドラマ映画だ!」 と勢い込んでやって来たシネ・リーブルでしたがずっこけました(笑)。 観たのは「月の寵児たち」という1984年の作品で、日本では劇場初公開だそうです。 映画は、どこかのお屋敷でお皿が割れるシーンで始まりました。で、お皿が造られるシーンがあって、もちろん陶芸の職人たちによってですよ、で、どうも18世紀末に造られたらしいのその絵皿が、この映画の「主人公」であったらしいということに気づいたのは映画が終わった時でしたから、まあ、後の祭りです(笑)。 だって、お屋敷には美しい中年のマダムと、どうも警察方面の偉い人である夫や子供たちがいて、マダムが百一匹わんちゃんのお母さんみたいな犬を連れて、犬ごと自動車に、それも、まあ、見る人が見れば名だたる名車に違いない高級車に乗ってお出かけして、なぜか別の男と出来ているなんていうおはなしや、風采の上がらない、ちょっと禿げた男が朝目覚めると、なぜか隣に寝ていた奥さん(?)はお腹立ちで、とっととベッドを出ていってしまい、ベッドに忘れているブラジャーを「あの、これ、いるでしょ。」 とか何とかいいながらバスルームに追いかける男を、またしても頭ごなしに罵倒して、お着替えをすませてお仕事に行くのですが、勤め先はなんだか高級な美容サロンだったりする話が続きます。男は男で、壊れた電気器具の修理屋さんのお仕事のようなのですが、またしても、なぜかなのですが、爆弾をつくって販売していたりするのも稼業のようで、取引相手として出てくるのが、アラブだかイスラムだかのテロリストだったりして、で、男が造った、また、別の爆弾が使われるのが町の広場の銅像破壊で、実行犯が、またまた、「なぜか」なのですが、怒って出て行った美容師の妻の、実家の父親だったりするんです。 もうちょっと付け加えると、マダムと紳士のお屋敷には、なんだか立派な絵がたくさん飾ってあるのですが、その中の一枚、裸の女性の肖像画(上の写真にちょっとだけ写っています)ですが、が、上に書いたお皿とともに、この映画の「主人公」であったらしいのですね。 お皿はやたらにわれて、絵はどんどんちいさくなるというのがこの映画のメイン・ストーリーなのでした。 ね、何をいっているのかわからないでしょ。自分でもわからないからずっこけたとしか言いようがないわけですが、困ったことに、たとえば、上の二組の男女は犯人関係者のカップルとK察関係者のカップルというふうに、なぜか繋がっている世界の断片のように映し出される一つ一つのシーンが、妙に「そそる」というか、気をひかれるのですね。 ちょっと、大上段ですが、映画という表現はモンタージュされた映像の連鎖にコンテクストを読みとることで成り立っていると思うのですが、この映画は、「読み取れるものなら読み取ってみろよ」 とでも、いっているようでした。まあ、見ているこっちは、やけくそ気味な気分で「絵皿と裸婦画の運命」 とかなんとか、無理やり分かった気になろうとしたわけですが、多分、間違っているでしょうね。重層性とかポリフォニーとかで説明する向きもあるようですが、それも、ちょっと違うと思いました。 ぼくの記憶に残ったのは窓と動物と乗り物、そして、上のような子どもたちのシーンですが、たとえば、このシーンに何の意味があるのかわからい訳で、とりとめがないですね。 まあ、浸っていたのに、急に放り出されたような気分で映画は終わりましたが、奥さんに逃げられた爆弾つくりの男のあわれに拍手!でした(笑)。 ああ、それから、「月の寵児たち」というのは、何か有名な詩の文句のようですね。始まりの頃に出てきますが、前後がどうだったかは忘れました。でも、ぼくが子どもシーンを気にしたのは、そこにひっぱられていたのかもしれませんね(笑)。監督 オタール・イオセリアーニ脚本 オタール・イオセリアーニ ジェラール・ブラッシュ撮影 フィリップ・テアオディエール音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストアリックス・ド・モンテギュパスカル・オビエベルナール・エイゼンシッツマチュー・アマルリック1984年・101分・フランス・イタリア合作原題「Les favoris de la lune」2023・03・09-no034・シネ・リーブル神戸no177
2023.03.22
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島田雅彦「虚人の星」(講談社) 島田雅彦という作家が、「海燕」という雑誌から、「優しいサヨクのための嬉遊曲」(「島田雅彦芥川賞落選作全集 (上)」 河出文庫所収)という作品で、さっそうとデビューしたのは1983年。 ようやく学校を出て、仕事に就いたばかりだったぼくは、カタカナで「サヨク」を自称する、ハンサムな学生作家の写真を見て、「こいつはきらいや!」という、羨望ともやっかみとも判断のつかないものを感じたのを覚えている。あれから30年を超える年月がたち、作家は書き続け、山のような作品があるが、ただの一冊も読んだことがなかった。 ヒマになったからか、男前を許せるあきらめがついたからか、アマゾンで、ほかの本を探していると、この、人を喰った題名の作品が目に留まって、購入をクリックしていた。 「一押しの面白い小説だ」とか「現代日本の危機を描いた傑作」のキャッチコピーに引っかかったわけではない。まあ、なんとなく、単行本が1円だったからかもしれない。読み始めてみると、これが、なんと、カルビーのえびせんのように、やめられなくなって、一気読みしてしまった。 小説は二人の語り手が、交互に一人称で語るという形式で進行する。 一人は多重人格で七人の人格が混在する、まあ、だからかな、正義の人「レインボーマン」を称する「自分」の希薄な、秀才青年。 もう一人は、こころの中に「ドラえもん」が住みついて、困ったときは、いつも彼が助けてくれるという成長途上で大人になることを見失った、ホントはのび太かもしれない中年男。 これだけ書くとバカみたいなのだが、いわゆるポストモダン小説。バカバカしい設定にはなっているけれど、実は、異常に難解で意味不明なんじゃないかという心配は全くいらない。すらすら読める。筋立ても、ある意味、本当にあほらしい。 レインボーマンは、少年時代からの、自我形成のプロセスを告白的に振り返る語りを続けながら成長する。 行方不明の父親と奔放な母という出自が関係するのか、しないのか、当人は多重人格に苦しんでいて、精神科医宗猛の、まあ、この人がそもそも中国のスパイ、その指導を、受け入れて外務省に入省する。 外務省から、精華大学へ留学する機会に、中国のスパイ養成所で訓練を受け、中国のスパイとして、首相官邸に潜り込むまでになる。そこからの紆余曲折で、二重スパイになるというところが、この小説の一つの肝。 名前は星新一。まあ、星新一的オチも用意されているんだけど、飛雄馬じゃなくてよかった。 もう一人の語り手、松平定男と名付けられた、ドラえもん男は、ジーちゃんもトーちゃんも総理大臣だったという世襲ボンクラ政治家なのだが、「よみがえれ、日いずる国」というスローガンで担ぎ上げられて極右の総理大臣になる。 能力としての判断力、決断力の不足は、どうにもならないのだが、危機に陥ると、頭の中に住んでいるドラえもんが、本人に憑依して、周りがア然とする大胆な行動をとることが出来る。 もちろん本人には、自分が何をしているのか、何を言っているのかわかっていない。小説の二つ目の肝は、ドラえもんだよりから、のび太の自己発見までかもしれない。 小説全体の結末には触れないが、政治家の名前には戦国時代の大名の姓があてられていたり、ご都合主義的精神病理解説や、荒唐無稽なスパイ養成プロセス、政治家の女性スキャンダルが、ありがちに、面白可笑しく描かれている様子は、下世話なパロディー小説の体裁で、おふざけ感満載なのだが、不思議なことにリアルなのだ。 読みながら、かつて、同じように毎日出版文化賞をとった、村上龍の「半島を出よ」(幻冬舎文庫)という作品を思い出した。 朝鮮半島の情勢をめぐって、いわば、第二次朝鮮戦争の可能性を描いた小説だったのだが、近未来的な空想か、目の前の現実のパロディか、という違いはあるのだが、現実的な対象に対する、荒唐無稽な物語というところは共通している。 その二つの作品の単純な読後感の比較を、記憶をたどって考えてみると、不思議なことに、実は、こっちの方がリアルで面白いんじゃないかと思ってしまった。 というのは、この小説には、読みながら、現実にニュースをにぎわしている政治家の顔が繰り返し思い浮かぶ仕組みになっていて、たとえば、北条はK、松平はAというふうに、おもわず頭に浮かんでくる。 読み進めていると、小説の荒唐無稽の方こそが「真実」であって、現実こそが、その「戯画」あるいは、「作りごと」にしか過ぎないんだという、倒錯した意識のようなものが生まれ始める。何故、そうなるのか、作家は知っているのかもしれないが、ぼくにはわからなかった。 そういうわけでというか、しかしというか、作家の意図は話題の通俗さや、政治批判にあるというよりも、小説という方法が、読み手の頭に新しい「現実」を作り出しうるという可能性を試みるというところにあったんじゃないか、そういう意味で、「これは!?」という小説。 あいかわらずハンサムな島田雅彦も、作品も、好きなタイプではないが、小説にできること、小説がやっていることについて、結構、面白いことを試そうとしているんじゃないか。ぼくは、ほかの作品もちょっと読んでみようかと思いました。 ハズレかもしれませんが、まあ、どうぞ。案外かもしれません。(S)ボタン押してね!にほんブログ村人類最年長 [ 島田 雅彦 ]なんか面白そうかも?深読み日本文学 [ 島田 雅彦 ]これは、読みました。忘れちゃったけど。
2019.07.09
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谷川俊太郎(詩)パウル・クレー(絵)「クレーの絵本」(講談社)黄金の魚Der Goldfish 1925おおきなさかなはおおきなくちでちゅうくらいのさかなをたべちゅうくらいのさかなはちいさなさかなをたべちいさなさかなはもっとちいさなさかなをたべいのちはいのちをいけにえとしてひかりかがやくしあわせはふしあわせをやしないとしてはなひらくどんなよろこびのふかいうみもひとつぶつのなみだがとけていないということはない 谷川俊太郎が、パウル・クレーの絵を40枚選び、そのうち11枚の絵に、絵と同じ題の、おそらくクレーに対してであるのでしょう「愛」、「在るもの」、「線」というように詩を書き加えて出来上がった「詩画集」です。 最初に表紙の絵「黄金の魚」のページに書かれた詩「黄金の魚」を載せました。あと二つは、ぼくが気に入った詩と絵を選びました。選ばれた場所Auser wahlte Statte 1927そこへゆこうとしてことばにつまずきことばをおいこそうとしてたましいはあえぎけれどそのたましいのさきにかすかなともしびのようなものがみえるそこへゆこうとしてゆめはばくはつしてゆめをつらぬこうとしてくらやみはかがやきけれどそのくらやみのさきにまだおおきなあなのようなものがみえる死と炎Tod und Feuer1940かわりにしんでくれるひとがいないのでわたしはじぶんでしなねばならないだれのほねでもないわたしはわたしのほねになるかなしみかわのながれひとびとのおしゃべりあさつゆにぬれたくものすそのどれひとつとしてわたしはたずさえてゆくことができないせめてすきなうただけはきこえていてはくれぬだろうかわたしのほねのみみに シマクマ君の家には谷川俊太郎の「仕事」がたくさんあります。絵本や詩集ですね。「ゆかいな仲間」たちが小さかったころ、読んでほしいと思って買ったのかというと、そういうわけでもありません。同居人のチッチキ夫人が、昔から彼の詩が好きだったというのが理由です。 シマクマ君が彼の詩をまじめに読み始めたのは、どちらかというと最近のことです。読み始めてみると、昔読んだ詩もあれば、初めて見る絵本もあります。 この絵本は、表紙が棚を飾っていたにもかかわらず、中を見るのは初めてだった本です。手に取ってみると、ほっておくのは、ちょっと惜しいと思うのは、この三つの「絵」と「詩」で十分わかっていただけるのではないでしょうか。追記2022・06・04 この絵本とかは、まあ、詩集といった方がいいと思いますが、詩人にそんなふうにいうのもなんですが、名人芸ですね。 せめてすきなうただけはきこえていてはくれぬだろうかわたしのほねのみみに 90歳を超えた詩人は、ここの所「死」について、軽やかな「詩」のことばで表現していますが、まさに、不世出の職人詩人の長寿を願うばかりですね。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.04
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「あそこのイチョウ並木を!」徘徊日記2022年11月18日(金)朝霧・狩口台あたり 先日、「そうだイチョウ並木を見にいこう!」とやって来たにもかかわらず、時間が遅くて写真がうまく撮れなかった朝霧、狩口台のイチョウ並木です。今日は快晴で、そのうえ、やって来たのはお昼過ぎです。ただ、「ちょっとあるこうかな?」ではありません。明石の市民図書館に本を返しに行く地中です。愛車のスーパー・カブ号です。 スーパー・カブ号なら、自宅から10分ほどでやってきます。神陵台からJR朝霧駅に向かう大通りがこの道です。明石市と神戸市の境の道なのだと思います。今でもそう呼ぶのかはよく知りませんが、わが家で、大丸ピーコックと呼んでいるマーケットがあるあたりから南の街路樹がイチョウなのです。 ズラーと、一斉に黄色くなってきたイチョウ並木はなかなか壮観です。神戸の町には、ほかにもいちょぷ並木がありますが、ここの並木は樹形がいいというのか、1本、1本の木が、おおらかに枝を伸ばしているのが気に入っています。 まだ、緑の木もあります。これは、これで、好きです。 先日、歩いてやって来た16日にも写真を撮った場所ですが、日差しの陰で暗いのと、光がなくて暗いのは違いますね。マア、自画自賛ですが、右側の赤い紅葉、たぶん桜だと思いますが、とのコントラストもいいですねえ。 通りの向こう側、明石市、松が丘の並木です。 マア、今日は、これから明石まで行ってきます。明るい青空の下で、先日のリベンジが果たせてご機嫌でした。じゃあ、またね(笑)。ボタン押してね!
2022.11.21
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「久しぶりに武庫川を越えました。」 徘徊日記 2024年5月8日(水) 関西労災病院あたり 生まれて初めて、介護タクシーという乗り物に乗りました。通院のお手伝いをしていた恩師が、入院していらっしゃった病院の医師から別の病院での診察を指示されての付き添いです。 半月ほど前には、乗用車から車椅子への乗り換えのお手伝いだったのですが、いよいよ、介護タクシーに頼らなければならないご様子で、タクシー内でのお話相手です。 タクシーが、西宮市内から武庫川を渡ったあたりで、「あの時ね、別世界だったんだよね。」「あの時?」「うん、震災の時。」 武庫川の川面を見ながら神戸の震災の時のことを思い出されたようでした。「そうでしたね、西宮までと、尼とは別世界でしたね。」 人のよさそうな、運転手さんが、相槌を打たれて、「うん、尼崎は、別世界だった。」「センセー、やっぱり、あの地震は…」「うん、はっきり、覚えているよ。久しぶりの尼崎だね(笑)。」 武庫川を越えて病院はすぐでした。 待合室で、付き添いをバトンタッチです。新た検査や採血やで、長い待ち時間の間、することもなくて、庭に降りて来て一服です。 病院の前の岩はバラ園した。白や赤のバラが満開でした。 関西労災病院の前の庭です。待合室の先生に写真を見せるとニッコリされていました。 帰り道のことですが、阪急の今津線を通過したあたりで「先生、あのころ、N君が、このあたりに棲んでいたんですよ。」「N ? ・・・ ああ、Nくんか。」 若くして亡くなった愛弟子のことを、チョット思い出されたようでした。 このブログをご覧になった方には、何の変哲もない会話ですが、タクシーの中で、先生が、うまく、まわらない口でおっしゃったことは、一句、一句、この日の一月後に亡くなってしまった恩師のことばを記録しておきたくて書いています。 他の人に言うべきことではないかもしれませんが、ご容赦くだいね。にほんブログ村
2024.05.24
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井上光晴「明日 一九四五年八月八日長崎」(集英社文庫) 一九四五年八月九日、午前十一時二分。 この小説のなかに、この時刻が出てくるわけではありません。 空襲が続く戦火の中でとり行われる結婚式をめぐる苦労話や、並べられた祝いの膳のご馳走や、召集を免れている花婿をめぐるやっかみ半分の世間話。空襲警報で中断した披露宴。友人の式に参列しながら、式のあいだじゅう、音信を絶った恋人と妊娠三か月の我が身に思い悩む看護婦。 戦争未亡人との関係を指弾された青年の失踪。後輩の行方を気に掛ける市電運転手と、その妻とのささやかな約束。 何が配給されているのかも知らず、品切れになっていることにも気づかない行列の珍妙な大騒ぎ。 産気づいた花嫁の姉と、そこに駆けつける産婆。庭に紛れ込んでくる小さな子供のあどけない声。 二人になった新郎新婦の初夜の誓い。 そのどれもが話の途中で終っています。彼らはその後どうなって、どうするのか、すべて明日、夜が明けてからのことなです。 夜明け前に、ただ一つだけ、結果が出た時刻が記してありました。新しい命がこの世に生まれ出た瞬間です。 突然、終わった。すべてが消えた。声にならない私の息は母の息と重なる。その時、鋭く空気を顫わせてひとつの叫びが湧いた。生まれたのだ。私はいま産み終えたのだ。はじめて耳にする声のなんと美しいこと。声は力強く放たれ、それから次第に甘い響きに変わっていく。「よかった、ツル子」母の手が私の腕を掴む。その手はとても熱い。「お手柄ですばい。」と、産婆さんがいう。「坊ちゃんですたい。どうですか。」「男ん子よ、ツル子。よかった。・・・・」「四時十七分やったですよ」産婆さんはいう。八月九日、四時十七分。私の子供がここにいる。 ここに初めて具体的に記された日時が出てきました。花嫁の姉、ツル子が男の子を出産した時刻です。 ここまで読んで、この小説の一つ一つのエピソードの「底が抜けている」、その理由に気付かない人はいないだろうと思います。 作家が、この作品で描いているのは八月九日の「昨日」の世界です。 人々の些細な争いや、喜び、どこにでもありそうな言葉のやり取り。無残な戦場のうわさや、不条理に対する嘆き、人目を忍んだ勝手、勝手な行動。生きるためのずるさや、なにげない親しみについての丁寧な描写が、かえって読み手に異様な空虚を感じさせるこんな小説はそうあるものではないと思いました。 井上光晴にこんな作品がることをぼくは知りませんでした。ぼくにとって彼は「ガダルカナル戦詩集」や「地の群れ」で印象深い作家でしたたが、今では娘で、作家の井上荒野の方が有名かもしれない人でしょう。忘れられていく作家なのかもしれません。 ぼくは知らなかったのですが、この小説は黒井和男監督によって、「TOMORROW 明日」という題名で映画化されているそうです。子どもを産むツル子を桃井かおりが演じているそうですが、ぼくは、偶然その資料をどこかで読んで、この小説を知りました。 核武装などという、物騒な言葉がタブーであることの意味が忘れられつつある現在、思い出してもいい作家だと思いました。追記2020・07・29 現実の事件を、読者の前提として描いている作品です。映画の脚本として書かれたのかなあという印象もあります。 読者に「現実」という下敷きを要求する描き方には、小説の作法として「批判」もあり得るでしょう。しかし、今このときというのは、いつだって切り立った断崖に臨む崖っぷちである可能性を思い起こさせるというリアリティはあると思いました。ボタン押してね!ボタン押してね!ボタン押してね!あちらにいる鬼 [ 井上荒野 ]瀬戸内寂聴と井上光晴の恋ひどい感じ──父・井上光晴【電子書籍】[ 井上荒野 ]全身小説家 [ 井上光晴 ]ドキュメンタリー
2019.08.09
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。 追記2024・08・04アニメの「風が吹くとき」を見ました。1986年に作られたアニメの日本語版でした。絵本よりもきついです。感想をブログに載せました。上の題名をクリックしてくださいね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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熊切和嘉「658km、陽子の旅」 パルシネマ 熊切和嘉監督の最新作、「658km、陽子の旅」を見ました。パルシネマが企画した「父娘映画」2本立ての1本でした。もう1本が「高野豆腐店の春」です。 両方とも、シネ・リーブルでの封切りが今年(2023年)の夏でした。その時、どうしようかなと考えたのですが、なんとなくパスしました。特に「陽子の旅」は、チョット贔屓にしている熊切監督の作品なので、かなり惹かれましたが、予告編を見て、「なんだかめんどくさそう・・・」 だったので躊躇しました。で、秋になって、早速のパルシネマ企画です。これは見ないわけにはいきませんというわけで、ホイホイやって来ました。 で、映画は始まりました。カーテンを閉めた暗い部屋で、パソコンのトラブルに舌打ちしたり、通販の荷物を受け取り、部屋に運び込みながらスマホを壊したり、ベッドでユー・チューブか何か見ながら寝てしまったりの女性が映っていました。この方が陽子(菊地凛子)さんらしいですね。 なんとなく、どこかで見覚えのあるお顔なんですが、よく知りません。で、なぜだかわかりませんが、ボクは、そのシーンで、白けてしまったのですね。 そこから従弟の竹原ピストルくんがやって来て、父親の死を知らせ、まずは彼の自動車で東京から青森に向かう、まあ、ロード・ムービーが始まるのですが、なんとなくノレませんでしたね。 見ながらよかったのは、たぶん弘前の山とか、おそらく、福島でしょうね、その堤防から見える海とか、時々俯瞰で挿入される高速道路とか被災地の風景、それから登場人物では、ヒッチハイクをしている、まあ、陽子と行きずりで出逢う少女見上愛が、その身の上について「いってもなあ・・・」 と言い切った、時の表情とその一言とか、被災地の老夫婦を演じた風吹ジュンの笑顔でしたね。まあ、ボクの好みですが。 菊地凛子さんが陽子を熱演していたことは認めますが、いいと感じたのは寝顔だけでした。結局、彼女自身に心情を語らせないと映画が成り立っていないのが、熱演を帳消しにしてしまった印象が残りました。 彼女が波をかぶる海辺のシーンも、時々登場する彼女の父親、オダギリジョーくんの幻影も、インチキ野郎との濡れ場も、上滑りしている印象しか残りませんでしたね。 物語を語るために、何が必要なのかというところで、ボクがズレているのかもしれませんが、映画の作り手は、現実の社会と、そこで生きている陽子の内面(?)について、リアル(?)な行為のシーンや、象徴的な夢や幻覚のシーンが必要だと考えておられるのだということが、透けて見えてしまうのがこの映画のつまらなさだと感じました。 たとえば、老夫婦との別れのシーンで、陽子が二人と手を握り合う美しいシーンがあるのですが、その後、やっとのことでたどり着くはずの葬儀場で、彼女がどんなふうに父親の遺体と出会うのかということを、あのシーンで暗示しているつもりで映画が作られているとすれば、陽子の「父との葛藤(?)」の深さに映画は届いていないとボクは考えますが、さすが熊切和嘉ですね、出会わせませんでした。語れないことは語らない! まあ、そういう覚悟のようなものを失って「わかりやすい」ことを求めているかの様相を呈している、今の日本映画を覆っている退廃現象の、なんとか、一歩手前で、ラスト・シーンになって、ようやく、踏みとどまったかに見える熊切和嘉には、「まあ、ぎりぎり、こらえたろ(笑)」 の拍手!でしたね(笑)。 ボクは、この監督に、わけのわからない無言のシーンや風景描写の美しさを期待しているのですが、むずかしいようですね(笑)。監督 熊切和嘉原案 室井孝介脚本 室井孝介 浪子想撮影 小林拓編集 堀善介音楽 ジム・オルークキャスト菊地凛子(工藤陽子)竹原ピストル(工藤茂・従弟)黒沢あすか(立花久美子・最初に乗せてくれた人)見上愛(小野田リサ・行きずりの少女)浜野謙太(若宮修・インチキ野郎)仁村紗和(八尾麻衣子・被災地で暮らす姫路の女性)篠原篤(水野隆太・黙って乗せてくれた人)吉澤健(木下登・被災地の老人)風吹ジュン(木下静江・登の妻)オダギリジョー(工藤昭政・父の幻影)2022年・113分・G・日本2023・11・17・no140・パルシネマ72まt!
2023.11.18
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和合亮一「春に」 春に 和合亮一 きみに 贈りたい風景がある ある建物の 階段の踊り場に 大きな窓があって 青い空に 雲が浮かんでいてよく晴れ渡っていて そこに立って いつも見とれるんだ でも この春の 窓の光景を じゃあ ないんだ しばらくして 忘れた頃に ゆっくりと 心に浮かんでくる 空 その はるか かなた その 先を きみに この詩は、福島で教員をしている詩人、和合亮一のツイート詩集(?)「詩の礫 起承転転」のおしまいの方にあった。和合亮一という人が、高校の国語の教員をしている人で、高校入試の合否判定中に、所謂、東日本大震災に被災したということを、何となく知っていた。 ぼくは、当日、その時刻、勤務していた高校の校長室にいた。トラブルを抱えた生徒たちについての進級要件について意見を具申していたさなか、事務室から声がかかって、校長がテレビをつけた。テレビの画面が揺れていた。神戸の地震を知っているぼくには他人ごととは思えなかったが、ただテレビの画面にくぎ付けにされるより他になすすべがなかったことを覚えている。 彼がこの詩をいつ書いたのかは知らない。この詩があることに気付いたのも、この詩集を読み返したつい最近のことだ。現場にいる頃に読んでいたら、毎年作られる卒業文集に、きっと引用していたと思う。三年間の出会いの後、必ず別れてしまう生徒たちに感じる、教員の寂しさを、ぼくはこの詩に感じた。 たぶん、詩はもっと遠くへ行ってしまった人に向けて書かれているとは思うのだが。追記2022・02・16 まだ冬の最中ですが、明るい日差しがベランダに差し込んでくる朝に、思わず青空を見上げました。 「今年も『春』がやってくる。」 季節が巡るのを感じるたびに、過去が湧きあがってくるのは年齢のせいでしょうか。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.08.11
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谷川俊太郎「はだか 谷川俊太郎詩集」(佐野洋子絵 筑摩書房)「さようなら」谷川俊太郎ぼくもういかなきゃなんないすぐいかなきゃなんないどこへいくのかわからないけどさくらなみきのしたをとおっておおどおりをしんごうでわたっていつもながめているやまをめじるしにひとりでいかなきゃなんないどうしてなのかしらないけどおかあさんごめんなさいおとうさんにやさしくしてあげてぼくすききらいいわずになんでもたべるほんもいまよりたくさんよむとおもうよるになったらほしをみるひるはいろんなひととはなしをするそしてきっといちばんすきなものをみつけるみつけたらたいせつにしてしぬまでいきるだからとおくにいてもさびしくないよぼくもういかなきゃなんない 詩人の谷川俊太郎が亡くなったそうです。2024年の11月13日のことだそうです。 11月19日、月曜日の朝起きるとチッチキ夫人が寝ぼけまなこのボクにいいました。「谷川俊太郎がなくなったって。」 で、その日のフェイスブックで、友達が詩人の死を悼んでいました。谷川俊太郎さん「さようなら」ですね。 谷川俊太郎が、もう、30年以上も昔にだした「はだか」(筑摩書房)という詩集をチッチキ夫人が大切にしていたことを思い出しました。 上の写真が、箱装の外箱です。で、これが中の姿です。醜いかもしれませんが、何かの包み紙でカバーしてあって、真ん中にはだかと谷川俊太郎という文字が赤エンピツで書かれています。 ホコリを払って「はい、これ。」といって渡すと「ぼくもういかなきゃなんない、でしょ。」「うん、挿絵は佐野洋子さん。彼って、いったさきで大変ちゃうの?」「そうねえ、少なくとも三人は確実に待ってるからねえ(笑)」 で、これが皮をむいた姿。 美しい詩集ですね。1988年の出版です。挿絵は佐野洋子さん、装幀は平野甲賀さん、最初の詩が「さようなら」です。懐かしいですね。 で、これが、この詩集のオシマイの詩「とおく」のページの写真です。 佐野洋子さんの挿絵ですね。読めますか?読みにくいので、詩は書き写しておきますね。とおくわたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもうただしくんよりもとおくへきたとおもうごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもうもしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりもごろーはいつかすいようびにいえをでていってにちようびのよるおそくかえってきたやせてどろだらけでいつまでもぴちゃぴちゃみずをのんでいたごろーがどこへいっていたのかだれにもわからないこのままずうっとあるいていくとどこにでるのだろうしらないうちにわたしはおばあさんになるのかしらきょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしらここよりももっととおいところでそのときひとりでいいからすきなひとがいるといいなそのひとはもうしんでてもいいからどうしてもわすれられないおもいでがあるといいなどこからかうみのにおいがしてくるでもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける 「うみよりももっととおく」へ行ってしまった谷川俊太郎の声が、やっぱり聴こえてくるようですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.21
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谷川俊太郎・瀬川康夫「ことばあそびうた また」(福音館書店) 谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」を案内しましたが、ヤッパリ、「ことばあそびうた また」(福音館書店)も、もののついでということで、いや、ことのついでが正しいか?少し、ご「案内」しようかと思います。 こっちの表紙は、表も裏も、ご覧の通り「かえるくん」が大集合です。もちろん瀬川康夫さんの絵ですが、残念ながら、瀬川さんは、もう、この世の方ではありません。 松谷みよ子さんの「いない いない ばあ」(童心社)という、チョー有名な絵本の画家さんといえば、「ああ あのくまさんの」とお気づきになるでしょうか。 エエっとあったはずなんですが。ないですねえ。ああ、これです、これです。 はじめておうちに赤ん坊がやってきて、はじめてよんであげて、はじめて笑ってもらった本だったような気もします。 松谷みよ子さんも、5年ほど前に亡くなっていらっしゃるようです。お世話になりましたね。 で、「ことばあそび また」の「かえるくん」ですね。 かえる 谷川俊太郎かえるかえるはみちまちがえるむかえるかえるはひっくりかえるきのぼりかえるはきをとりかえるとのさまがえるはかえるもかえるかあさんがえるはこがえるかかえるとうさんがえるはいつかえる 父さんガエルさんがどのあたりをうろついていいらっしゃるのかといいますと、この辺りのようですね。 このへん 谷川俊太郎このへんどのへんひゃくまんべんたちしょんべんはあきまへんこのへんどのへんミュンヘンぺんぺんぐさもはえまへんこのへんなにへんてんでよめへんわからへん 今夜も、おとうさん、どうも、帰っていらっしゃらないようですね。このあたりは、どのあたりなのでしょね。四丁目の赤ちょうちんのあたりでしょうかね。 いのち 谷川俊太郎いちのいのちはちりまするにいのいのちはにげまするさんのいのちはさんざんでよんのいのちはよっぱらいごうのいのちはごうよくでろくのいのちはろくでなししちのいのちはしちにいれはちのいのちははったりさくうのいのちはくうのくうとうのいのちはとうにしにじゅういちいのちのいちがたつ というわけで、そろそろ退場ですかね。新しいいのちに期待することにいたしましょう。 で、これが裏表紙です。 おしまい。追記2020・05・30「ことばあそびうた」の感想はここをクリックしてみてください。追記2022・05・31 「谷川俊太郎さんがらみの絵本を!」と思いついて2年前に投稿し始めたのですが、頓挫していますね。思いついては、忘れるということが、ここのところ頻繁におこりますが、くよくよしてもしようがありませんね。また思いついたので、また始めればいいじゃないかという毎日です。 というわけで、最近また思いついて「あいうえおつとせい」とか、案内しました。また覗いてくださいね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.30
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谷川俊太郎「みみをすます」 中村稔「現代詩人論 下」(青土社)より 中村稔の「現代詩人論」(青土社)の下巻です。上巻もそうでしたが700ページを越える大著です。下巻では飯島耕一、清岡卓行、吉岡実、大岡信、谷川俊太郎、安藤元雄、高橋睦郎、吉増剛造、荒川洋治の9人の詩人が論じられています。 フーン、とか思いながら最初に開いたページが谷川俊太郎でした。 谷川俊太郎は多能・多芸の詩人である。「ことばあそび」の詩も書いているが、平仮名だけで書いた詩集「みみをすます」がある。一九八二年に刊行されている。これには表題作「みみをすます」の他、五編の詩が収められているが、私はやはり「みみをすます」に注目する。ただ、たぶん一五〇行はゆうに越す長編詩なので、全文を紹介することは到底できない。かいつまんでこの詩を読むことにする。 ここで論じられているのはこの詩集ですね。 本棚でほこりをかぶって立っていました。谷川俊太郎「耳を澄ます」(福音館書店)、チッチキ夫人の蔵書ですが、ボクも何度か読んだことのある懐かしい詩集です。箱入りです。箱から出すと表紙がこんな感じです。 わが家の愉快な仲間たちが小学生のころ、多分、教科書で出逢った詩です。今でも教科書に載っているのでしょうか。 子供向けのやさしい詩だと思っていましたが、今回読み直してみて、少し感想がかわりました。 まあ、それはともかくとして、中村稔はこう続けています。 まず短い第一節は次のとおりである。みみをすますきのうのあまだれにみみをすます いかに耳を澄ましても、私たちは、昨日の雨だれの音を聞くことはできない。読者は不可能なことを強いられる。次々に不可能な行為を読者の耳に強制する。みみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすます 恐竜の呻きを聞くことができるはずはもないし、燃える木の叫び、プランクトンの音、まして自分の産声を聞くことができるはずもない。「みみをすます」は全編、こうした、いかに耳を澄ましても聞くことができるはずもない音、声などに耳を澄ますのだ、という。作者は読者が空想の世界、想像の世界に遊ぶように誘っているのである。読者が空想、想像の世界に遊ぶ愉しさを知るように、この詩を読者に提示しているのである。たとえば、山林火災で樹木が燃え上がる時、燃える樹木が泣き叫んでいると思いやることは私たちにとって決して理解できないことではない。この感情を拡張し、深化し、豊かにする契機をこの詩は私たちに提示しているのである。 こうした試みによって、谷川俊太郎は現代詩に新しい世界をもたらしたのである。彼でなくてはできないことであった。(P269~P370) ただ、ただ、ナルホド! ですね。この詩が書かれた時代、つまり、1980年代の始めころから、当時、三十代だったボクたちの世代が、十代で出逢った戦後詩の世界に新しい風が吹き始めていたのですね。 この詩を学校の教科書で読んで大きくなった愉快な仲間たちも、もう、40代です。今でも教科書に載っているのか、いないのか、そこのところはわかりませんが、小学校や中学校の教員とかになろうとしている、若い人たちに、是非、手に取ってほしい、読んでほしい詩集! ですね。 せっかくなので、谷川俊太郎の詩集にもどって中村稔が引用しきれなかった「みみをすます」全文を写してみたいと思います。みみをすます 谷川俊太郎みみをすますきのうのあまだれにみみをすますみみをすますいつからつづいてきたともしれぬひとびとのあしおとにみみをすますめをつむりみみをすますハイヒールのこつこつながぐつのどたどたぽっくりのぽくぽくみみをすますほうばのからんころんあみあげのざっくざっくぞうりのぺたぺたみみをすますわらぐつのさくさくきぐつのことことモカシンのすたすたわらじのてくてくそうしてはだしのひたひた・・・・・にまじるへびのするするこのはのかさこそきえかかるひのくすぶりくらやみのおくのみみなりみみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすますそのよるのみずおととびらのきしみささやきとわらいにみみをすますこだまするおかあさんのこもりうたにおとうさんのしんぞうのおとにみみをすますおじいさんのとおいせきおばあさんのはたのひびきたけやぶをわたるかぜとそのかぜにのるああめんとなんまいだしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすますくさをかるおとてつをうつおときをけずるおとふえをふくおとにくのにえるおとさけをつぐおととをたたくおとひとりごとうったえるこえおしえるこえめいれいするこえこばむこえあざけるこえねこなでごえときのこえそしておし・・・・・・みみをすますうまのいななきとゆみのつるおとやりがよろいをつらぬくおとみみもとにうなるたまおとひきずられるくさりふりおろされるむちののしりとのろいくびつりだいきのこぐもつきることのないあらそいのかんだかいものおとにまじるたかいびきとやがてすずめのさえずりかわらぬあさのしずけさにみみをすます(ひとつのおとにひとつのこえにみみをすますことがもうひとつのおとにもうひとつのこえにみみをふさぐことにならないように)みみをすますじゅうねんまえのむすめのすすりなきにみみをすますみみをすますひやくねんまえのひゃくしょうのしゃっくりにみみをすますみみをすますせんねんまえのいざりのいのりにみみをすますみみをすますいちまんねんまえのあかんぼのあくびにみみをすますみみをすますじゅうまんねんまえのこじかのなきごえにひゃくまんねんまえのしだのそよぎにせんまんねんまえのなだれにいちおくねんまえのほしのささやきにいっちょうねんまえのうちゅうのとどろきにみみをすますみみをすますみちばたのいしころにみみをすますかすかにうなるコンピュータにみみをすますくちごもるとなりのひとにみみをすますどこかでギターのつまびきどこかでさらがわれるどこかであいうえおざわめきのそこのいまにみみをすますみみをすますきょうへとながれこむあしたのまだきこえないおがわのせせらぎにみみをすます 中村稔が言うとおり、結構、長い詩です。あのころと違った感想と上で書きましたが、今回読み直して、たとえばしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすます というあたりに、今の、ボクのこころは強く動くのですが、あのころには、その感じはあまりなかったわけで、この詩が「ひらがな」で書かれていることの意味というか、効果というか、が、子供に向けてということではなくて、ボクのような年齢になった人間の、まあ、年齢は関係ないのかもしれませんが、ある種の「記憶」は「ひらがな」である! ということこそ、この詩の眼目だったんじゃないかという驚きですね。 詩人は「ひらがな」という方法の意味についてわかってこう書いているにちがいないのでしょうね。実感としてとしか言えませんが、「小学校の足踏みオルガン」ではなくて、「しょうがっこうのあしぶみおるがん」という表記が、老人の思い出を、記憶の底の方から揺さぶるのです。大したものですね(笑)。追記2024・11・20 2024年の11月13日に谷川俊太郎さんが亡くなったそうです。老衰だそうです。この詩人は宇宙人だから死なない! そう思っていました。まあ、ボクなんかには想像できない、どこか遠くへ行かれたんでしょうね。お声はみみをすませば、いつまでも聞こえてくるのかもしれませんね。 著者の中村稔さんは、谷川俊太郎さんより年長で、今年、97歳だったかだと思います。いつまでもこっちにいて書きつづけてほしいと思います。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.15
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イ・ウォンテ「対外秘」キノシネマ神戸国際 サンデー毎日のいい身分で、することがないので映画館徘徊を始めて7年くらいたちました。通算すると、そろそろ600本ぐらい見たことになります。20代の学生時代から30代のはじめくらいには、そこそこの映画狂いだったものの、1990年代から2010年代の30年間ほとんど見ていないということもあって、普通の映画好きの方とは話が合いません。読書でも映画でも、まあ、質より量に傾くタイプなので、自分の、本当のところの好みもよくわかっていないのですが、2024年の秋の時点では、なにはともあれ、ここのところ「なんだ、これは!」 と面白がっている韓国映画を見て、韓国小説を読もう。という気分です。 で、目に付いた新作には出かけることにしていますが、今回見たのはイ・ウォンテという監督の「対外秘」でした。「対外秘」ってなに? ですが、要するに、都市計画に関する公的な内部文書のことでした。公開される前に知って、こっそり土地とか買えばお金が儲かるという、あれです。 地元への利益誘導を叫んで国会議員とかになろうとしている人物。で、そういう議員さんとかになりたがる人物たちから「センセー」とか呼ばれている黒幕というか、フィクサーというかの人物。利益誘導にからんで寄ってくるヤクザや、ヤクザまがいの不動産業者。まあ、そういう人たちの「お金儲け」をめぐるお話でした。 アメリカあたりでも、2000年になったころから、所謂「公共性」が、真っ向から批判され、社会全体における「エゴイズム」というか、私的な利益誘導を正当化する風潮が、露骨に表面に出てきていて、たとえば、まあ、トランプみたいな人が大統領になったりしているわけですが、おそらく、中国とか韓国とかのアジアの諸国、もちろん日本も含めて、そういう社会へ向かいつつあることに対することを予感して作られている映画だという気がしました。 主要登場人物は「悪人」ばかりで、最終的に、悪人性が否定されていない! まあ、冷笑という感じなのが、この映画の特徴で、ボクが唸ったところです。映画が描く欲望追及形態が、選挙がらみの話ということもあって、少し古いのですね。なんだか、70年代の終わりころの日本のヤクザ映画みたいな空気がありましたが、設定が90年代くらいで、軍事独裁から民主化へのプロセスを撮った作品ではあるのですが、やっぱり、これは韓国の現代映画なのですよね。 ボク自身は、そういう世界にほとんど関心がありませんし、私的な利益誘導に奔走したあげく、自己肯定するタイプのものの考え方自体が嫌いですから、見終えて「アホか!」 なのですが、映画製作者の意図が、状況報告=こんなもんやで、なのか、状況批判=これでいいのか!なのか、どのあたりにあるのかということだけは気になりました。ボクが見る限り「こんなもんやで!」だった気がするのですが(笑)。 アメリカではトランプの伝記映画が出来ているそうで、近々、日本でも公開されるようですが同じ意味で、少し興味がありますね。 まあ、それにしても疲れる話でした(笑) 監督・脚本 イ・ウォンテ原案 イ・スジン撮影 キム・ソンアン編集 ホ・ソンミ チョ・ハヌル音楽 チョ・ヨンウクキャストチョ・ジヌン(へウン)イ・ソンミン(スンテ)キム・ムヨル(ピルド)ウォン・ヒョンジュン(ハンモ)キム・ミンジェ(ムン本部長)パク・セジン(ソン記者)キム・ユンソン(パク課長)ソン・ヨウン(サンミ)2023年・116分・G・韓国原題「対外秘」英題「The Devil's Deal」2024・11・22・no151・キノシネマ神戸国際no17追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.23
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「三島といえばウナギ!だそうです。」 徘徊日記 2024年10月20日(日)三島あたり その4 富士の湧水で有名な柿田川湧水群を見物した四人組の、本日最後の目的地は「うなぎ」だそうです。「ここからなら歩いて行けそうやからね。ウナギ屋に行きましょう。」「どっち?」「あっち。」 指差される方向が、どっちなのかわかりません。実はシマクマ君は、北には山、南には海が、かならず見える街で日々暮らしています。 で、三島大社の鳥居前からタクシーに乗ったあたりから、自分の今いる場所がわからないという日ごろ経験しない、まあ、土地勘ゼロなわけで当然ですが、不思議というか、不安というかにとらわれていたのですが、まっ、いっか という気分で歩き始めました。 30分ほども歩いたでしょうか、なんだか繁華な場所にやって来ました。道ばたの看板に気を取られて写真を撮っていると「なんの写真撮ってんの?!」「なんか、凄くないですか、ここ?」「寄りたいの?夜にならないとやってないよ。」「美魔女パブですよ。ここだけの話ですよ。ここって三島ですよ。」「はいはい、先に行くよ」 どんどん繁華になっていって、人通りがふえてきました。行き交う人がヘンな格好をしています。 駅が見えてきました。「三島広小路」だそうです。伊豆箱根鉄道だそうです。始発の三島駅から二つ目の駅のようです。時刻表と路線図を見ると伊豆半島の西側、修善寺というところまで行けそうです。修善寺といえば夏目漱石ですねえ。一度は、行ってみたいな。 半島とか岬とか好きなのですね(笑) 三人を探すと、駅横の踏切りの向う、行列のあるお店の前で待っていました。桜屋さんというお店のようです。「ここや。」「えー、すごい行列ですやん。」「まあ、折角やし、並ぼうか。」 お店の前に行列整理のオジサンがいらっしゃって、名前を書けば並ばなくてもよいそうです。 実は、シマクマ君は「うなぎ」を専門のお店で食べるのも、食べ物に限らず店前の行列に並ぶのも人生初体験でした。 その上、さっきから、このあたり、お店の前の通りを行きかう人が皆さん変装というか、コスプレというかなので「なにごと?」 と訝しんでいると、「今日はハローウィン祭りだから。」 と行列の人の話し声が聞こえてきて、ようやく納得というか、「なにそれ?」というか、だって、ここは三島ですよ(笑)。で、ハローウィンですからねえ。 お店の横に小川が流れていて、その奥に小さなお社がありました。三石神社というそうです。ザンネンながら神社の名前の石柱は撮り忘れました。 境内に人はいません。まあ、折角ですからお参りです。 何だかスゴイ鐘撞堂です。 鐘撞堂の下でたむろしていらっしゃるのはサクラ屋さんの行列というか、順番を待っていらっしゃる方たちです。 小一時間、あたりをうろうろして時間をつぶして、人生初うな重!でした。 そのことを口にすると、まあ、三人からは呆れられたりもしたんですが、うな重の注文が、一匹、二匹、というのに驚きました。当たり前のことながら、さすが評判の名店、おいしくいただいて、もちろん写真は撮り忘れて(笑)、さて帰り道です。 広小路駅から、一駅ですけど、伊豆箱根鉄道初乗車! 三島駅で東京組のMさんとお別れして、三人は西に向かって新幹線です。 車内ではこの前まで総理大臣をしていた人が、警備の人だかを引き連れてトイレに行くのとすれ違ったりしました。こういうのも初めてですね。 新大阪でM君とN君のお二人ともお別れして新神戸です。 富士霊園、三島市内、二日にわたる徘徊旅行記、これで終わりです。ご一緒させていただいた方々とも、もう、お出会いすることもなくなるのかもしれません。 旅の目的が亡くなってしまった先生ご夫妻のお骨納めだったわけですからいろんな方々とのお別れになるのは致し方ありませんね。皆さま、楽しい旅、ありがとうございました。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.24
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大江健三郎「頭のいい『雨の木』」(「自選短編」岩波文庫) 大江健三郎の「自選短編」(岩波文庫)という、分厚い文庫本を図書館から借りてきたのは、「飼育」という作品を読み直す必要があってのことで、とりあえず、その作品についての、まあ、今のところの感想を綴り終えて「皆さんもどうですか」なんて調子のいいことを書いたのですが、「飼育」の次あたりに所収されている「セヴンティーン」や「空の怪物アグイー」という題名を目にして、へこたれました。 説明のつかないうんざり感が浮かんで、「もういいかな、今さら・・・」という気分で放りだしたのでした。 にもかかわらず、深夜の台所のテーブルに、放りだされた文庫本が、ちょこんとしているのを見て、思わず手を伸ばし、中期短編と標題されているあたりを読み始めてしまうと、困ったことに、これが、止まらなくなってしまい、夜は更けたのでした。 「雨に木を聴く女たち」という作品集は、単行本や文庫化されたときには「頭のいい『雨の木』」、「『雨の木』を聴く女たち」、「『雨の木』の首吊り男」、「さかさまに立つ『雨の木』」、「泳ぐ男――水の中の『雨の木』」の五つの作品が収められていたはずですが、この自選短編には、理由は判りませんが、「首吊り男」と「泳ぐ男」は入っていません。 で、「頭のいい『雨の木』」です。ハワイ大学で催されている文化セミナーに参加している、英語力がままならないことを、まあ、大げさに嘆く作家である「僕」の一人称で語られている小説です。1983年に発表されて、読売文学賞を受賞した「雨の木を聴く女たち」の連作の最初の作品です。 この連作、少なくともこの自選短編に所収されていた三つの作品の特徴の一つは、書かれた作品をめぐって起こるエピソードが、次の作品を構成してゆくというところです。この前の作品をめぐる、作品の外のエピソードから、次の作品が語りはじめられるということですね。 それは私小説の手法だと思うのですが、それぞれの作品は「事実」に基づいているわけではなさそうです。日常生活という、あたかも事実であるかのイメージを額縁にした画面に、作家の想像力の中で起こっている出来事が描きくわえられているといえばいいのでしょうか。そういう意味で、これらの作品は、いわゆる私小説ではありません。 想像力の世界の描写として共通して三作に共通して描かれているのは、繰り返し、暗喩=メタファーだと強調される「雨の木レイン・ツリー」と、二人の女性の登場人物でした。 下に引用したのは、その一人目の人物であるアガーテの登場が描かれることで始まる、「頭のいい『雨の木』」の冒頭場面です。― あなたは人間よりも樹木が見たいのでしょう?とドイツ系のアメリカ人女性がいって、パーティーの人びとで埋まっている客間をつれ出し、広い渡り廊下からポーチを突っきって、広大な闇の前にみちびいた。笑い声とざわめきを背なかにまといつかせて、僕は水の匂いの暗闇を見つめていた。その暗闇の大半が、巨きい樹木ひとつで埋められていること、それは暗闇の裾に、これはわずかながら光を反映するかたちとして、幾重にもかさなった放射状の板根がこちらへ拡がっていることで了解される。その黒い板囲いのようなものが、灰青色の艶をかすかにあらわしてくるのをも、しだいに僕は見てとった。 板根のよく発達した樹齢幾百年もの樹木が、その暗闇に、空と斜面のはるか下方の海をとざして立っているのだ。ニュー・イングランド風の大きい木造建築の、われわれの立っているポーチの庇から、昼間でもこの樹木は、人間でいえばおよそ脛のあたりまでしか眺めることはできぬだろう。建物の古風さ、むしろ古さそれ自体にふさわしく、いかにもひそやかに限られた照明のみのこの家で、庭の樹木はまったく黒い壁だ。― あなたが知りたいといった、この土地なりの呼び方で、この樹木は「雨の木(レイン・ツリー)」、それも私たちのこの木は、とくに頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」。 そのようにこのアメリカ人女性は、われわれがサーネームのことははっきり意識せぬまま、アガーテと呼んでいた中年女性はいった。(P333~P334) セミナーの開催されている期間中、毎晩のように開かれるパーティーの場面ですが、これは、この夜、地元の精神病者のための施設で開かれたパーティーの場面で、主催者の一人であるアガーテというドイツ系だとわざわざ断って描写されている女性が「僕」に、施設の庭にある「雨の木」を見せるシーンです。 『雨の木』というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。(P340) アガーテによる「雨の木」の紹介です。実は、この作品は、発表されると、ほぼ同時に、武満徹という作曲家によって「雨の木」という楽曲に作曲されていて、ユー・チューブでも聞くことができますが、その冒頭でこのセリフがナレーションされていて、まあ、今では、知る人ぞ知るというか、それなりにというか、まあ、有名な一節です。 「雨の木」をめぐる、この連作小説の主題は「grief」、訳せば悲嘆でしょうが、作品中では「AWARE」とローマ字で表記されています。英語の単語を持ち出して、ローマ字表記で「あはれ」という音を響かせようとするところが、良くも悪くも大江健三郎だとぼくは感じるのですが、この「頭のいい『雨の木』」という作品で、「grief」がどんな風に描かれているのかは、まあ、説明不可能で、お読みいただくほかありませんが、人間という存在の哀しみの中に座り込んでいる「僕」がいることだけは、間違いなく実感できるのではないでしょうか。 ついでに言えば、武満徹の「雨の木」という曲も、10分足らずの短い曲ですが、お聴きになられるといいと思います。 二作目の「雨の木を聴く女たち」は、その曲をめぐる作家の思いの表白から始められて、小説の構成としても、なかなか興味深いと思いますよ。
2022.12.03
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キム・ドクミン「DOG DAYS 君といつまでも」キノシネマ神戸国際 予告編で見かけて、封切りを待っていました。雨の金曜日でしたが出かけて見ました。はい、文句ありません!(笑) 登場人物は皆さんいい人ばかりで、出てくるワンちゃんはみんな芸達者、子役のユン・チェナちゃんも、お話の展開にはいなくてはならないとてもいい役柄で、演技もあどけなくてしっかりしていて、大健闘でしたね。いや、ホント、ほのぼのとさせていただきました(笑)。 ああ、そうそう、見たのはキム・ドクミン監督の「DOG DAYS 君といつまでも」でした。 わが家では「三食ごはん」とか、「ユン食堂」とかいう、韓国のテレビ番組が人気なのですが、映画「ミナリ」で拝見して以来、「ユン食堂」の店主さんとして応援させていただいているユン・ヨジョンさんが、ワンちゃんのワンダくんとの二人(?)暮らしの女性建築家で、筋の通ったインテリとして登場し、三食ごはんとかで、魚の扱いが苦手なおじさんとして笑わせていただいているユ・ヘジンさんが、犬嫌いで、その場しのぎで、見るからにモテない不細工オヤジで、でも、ホントは、人のいい不動産屋を演じていて、まあ、安心して見ていられる作品なのですが、ボクが気に入ったのはアルバイターのジヌ君を演じるタン・ジュンサンくんと動物病院の先生をやっていたキム・ソヒョンさんですね。 まあ、また、すぐに忘れてしまうのでしょうが、それぞれ、たたずまいというか、いい雰囲気の俳優さんだと思いました。拍手!です。 それにしても、これだけホンワカ罪のない話 で2時間楽しませてくれるのですから、やっぱり韓国映画おそるべし!(笑) 何がやねん(笑) ですね。拍手!監督 キム・ドクミンキャストユン・ヨジョン(ミンソ:建築家)タン・ジュンサン(ジヌ:ミンソと犬を探すアルバイト)ユ・ヘジン(ミンサン:不動産屋)キム・ソヒョン(ジニョン:ミンサンに家を借りている動物病院DOG DAYS院長)キム・ユンジン(ジョンア:ソニョンの妻)チョン・ソンファ(ソニョン作曲家)ユン・チェナ(ジユ:ジョンアとソニョンの養女)ダニエル・ヘニー(ダニエル)イ・ヒョヌ(ヒョン:男前のバンドマン)2024年・120分・G・韓国原題「도그데이즈」英題「Dog Days」2024・11・01・no141・キノシネマ神戸国際no16追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.02
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笠井千晶「拳と祈り 袴田巖の生涯」元町映画館 東京のほうで先にご覧になった方から勧められて見ました。実は、この映画が撮っている袴田事件について、冤罪事件であるらしいという、その経緯というか大筋というかについて、かなり昔に関心を持ったことがありましたが、忘れていました。 今回、見たのは笠井千晶という監督が、2024年9月26日の再審無罪という判決を機に公開した「拳と祈り 袴田巖の生涯」というドキュメンタリー映画でした。 映画は2014年、東京拘置所から釈放された袴田巌さんが乗る自動車のシーンから始まりました。そこから、彼自身と彼の無実を信じ続けてきたお姉さんの袴田秀子さんの生活が映し続けられていますが、ボクの脳裏に刻まれたのは彼の歩く姿!でした。 はじめは、故郷、浜松に帰ってきて暮らし始めた秀子さんのマンションの部屋の中でした。部屋から外に出ることが出来ない袴田巌さんは、部屋から部屋へ、行ってはかえり、また、行ってはかえり、歩き続けます。 やがて、なんとか外に出られるようになると、帽子をかぶり少し猫背で、がに股、半歩づつ前に進むかのようによちよち歩き続けます。その、袴田巌さんの後をカメラがついて歩き、彼の後姿を撮りつづけます。 ボクは、その後姿に見入りながらことばを失いました。 目の前のスクリーンを歩いているその男は80歳を越えていて、まだ、死刑囚なのでした。 で、死刑囚の姉という境遇を58年間生き抜き、弟の無実を信じ続け、ついには弟の冤罪を晴らした袴田秀子という女性の笑顔に圧倒されました。最後に「もう、死刑囚じゃないよ。」 と弟さんに笑いながら語りかけられた時、彼女は90歳でした。 言葉を失うとはこういうことですね。正直、全編を見終えた今も言葉を失ってしまっている映画でした。 ボーっとして見るしかない映画の迫力ということに思いを致すならば、このお二人の生活をカメラとマイクをを持って20年以上もの年月、徹底的に追い続けた笠井千晶という監督にも唸るような気持ちがこみ上げてきます。 繰り返しになりますが、見ているあいだも、見終えた後も、なんと言っていいかわからない、なにを言えばいいのかわからない、ただ、浮かんでくるのは彼の後ろ姿なのですが、その後姿をボンヤリと思い浮かべながら、人間という生き物がこの世に生まれて生きるということがどういうことなのか? ボクも、もちろん、その一人であるところの人間というものについて、漠然とした思いが浮かんでくるのでした。 帰ってきて、2024年10月8日の検察庁の控訴断念の記事をネット上で探しました。そこで検事総長が語っていることを読んで、唖然としました。ボクが読んだNHKの記事の一部を写してみます。 本判決では、いわゆる「5点の衣類」として発見された白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型が袴田さんのものと一致するか、袴田さんは事件当時鉄紺色のズボンを着用することができたかといった多くの争点について、弁護人の主張が排斥されています。 しかしながら、1年以上みそ漬けにされた着衣の血痕の赤みは消失するか、との争点について、多くの科学者による「『赤み』が必ず消失することは科学的に説明できない」という見解やその根拠に十分な検討を加えないまま、醸造について専門性のない科学者の一見解に依拠し、「5点の衣類を1号タンク内で1年以上みそ漬けした場合には、その血痕は赤みを失って黒褐色化するものと認められる」と断定したことについては大きな疑念を抱かざるを得ません。 加えて、本判決は、消失するはずの赤みが残っていたということは、「5点の衣類」が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません。 それどころか、理由中で判示された事実には、客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている上、推論の過程には、論理則・経験則に反する部分が多々あり、本判決が「5点の衣類」を捜査機関のねつ造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ません。 このように、本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。 しかしながら、再審請求審における司法判断が区々になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました。 語っている人は自分を何様だとお考えなのでしょうかね。 検察がしなければならないことは、まず、裁判においては一人の人間を死刑にするに十分な説得力を持ちうる証拠物件を示すことであり、その証拠物件の正当性を証明することですね。で、もしも、その証拠について捜査過程での捏造が裁判所に疑われたのであれば、その疑いを晴らすことだとボクは思いますが、エライ人たちというのは自分は振り返らなくてもいいようにできているのですね。 「無実」の人間を68年間も「死刑囚」として、まあ、法的地位だか何だか知りませんが、取り扱ってきたことについてどう考えていらっしゃるのですかね。 映画の中で、袴田巌さんが「検察庁」という看板を見て「ここには用がないから帰る。」 といって、踵を返されたシーンがありましたが、そこには誰も笑うことのできない袴田巌という一人の人間の人生の姿を、ボクは感じたのですが、彼を死刑囚として「取り扱った」人たちは、そのあたりについてどんなふうにお考えなのでしょうね。 描写されている世界に圧倒されて、どうしていいのかわからないのですが、やっぱり拍手!ですね。すごい作品でした。監督・撮影・編集 笠井千晶整音 浅井豊音楽 スティーブン・ポッティンジャーナレーター 中本修 棚橋真典タイトル題字 金澤翔子キャスト袴田巖袴田秀子2024年・159分・G・日本2024・11・18・no149・元町映画館no267追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.22
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谷川俊太郎「ベージュ」(新潮社) 谷川俊太郎の新しい詩集です。2020年7月30日に出版されています。図書館の新入荷の棚で見つけました。 どこ?ここではないうんここではないなそこかもしれないけれどどうかな「場」をさがしあぐねているのだみちにあたるものはまっすぐではなくまがりくねるでもなくどこかにむかっているらしいがそうだまなつのあさのくだりざかをわすれてはいけないなひとりよがりでひたすらおりていけばいい「場」があることだけはたしかだからうんそうおもっているものたちはまだいきのびているはずだそこここでことばにあざむかれながらとおくはなれたところにいてもそこにいればほらそこがここだろというばあさんがいてわからんものははにかんでいるとにかくいかねばならないなどといきごんでいたきもちがきがついてみるといつかうごくともなくうごくくものしずけさにまぎれているおんがくのあとについていってもうんみずうみのゆめがふかまるだけいちばんちかいほしにすらいけないなさけなさをがまんするしかないそうありふれたくさのはひとつみてもはじまっているのかおわりかけているのかみきわめるすべがないだろ〈そう〉は〈うそ〉かもしれないとしりながらきのうきょうあすをくらしているのがきみなのかこのわたしなのかさえほんとといかけるきっかけがみつからないただじっとしているのがこんなにもここちよくていいものか「場」はここでよいとくりかえすかぼそいこえがまたきこえてきたきずついたふるいれこーどから「場」がいきなりことばごときえうせてうんときがほどけてうたのしらべになったときわたしはもういきてはいなかった 谷川俊太郎の詩を読むときには、何となく「青空」を探してしまいます。上に引用した「どこ?」という詩は、詩集のいちばん最後に載っている作品なのですが、ここまで読んできて、いくつかの詩に「青空」という単語がでてきます。 たとえば、最初の頃にある「イル」という詩には、「空が青い 今も昔も青いが」 とか、「この午後」という詩には 若いころ、青空はその有無を言わせない美しさで、限りない宇宙の冷酷を隠していると考えたものだが、人間の尺度を超えたものに対するもどかしさと、故知らぬ腹立たしさのようなものは、齢を重ねた今も時折私を襲う。 といった詩句が出てきますが、今回、この詩を選んだ理由は「まなつのあさのくだりざかをわすれてはいけないな」 という言葉が気に入ったからです。この言葉が書かれた結果、この詩全体を覆う「青空」を感じたからという方が正直でしょうか。 この詩は「場」という言葉以外、すべて、ひらがなで書かれていますが、谷川俊太郎は「あとがき」で「ひらがな回帰」について「文字ではなく言葉に内在する声、口調のようなものが自然にひらがな表記となって生まれてくる」「文字にして書く以前にひらがなの持つ「調べ」が私を捉えてしまうのだ」 といっています。 加えて、この詩集の書名「ベージュ」についてはこんなことを書いていました。 来し方行く末という言葉は若いころから知っていたが、それが具体的な実感になったのは歳を取ったせいだろう。作者の年齢が書く詩にどこまで影を落としているか、あまり意識したことはないが、自作を振り返ってみると、年齢に無関係に書けている詩と、年齢相応の詩を区別することはできるようだ。米寿になったが、ベージュという色は嫌いではない。 2020年 六月 谷川俊太郎 コロナ騒動の最中に出来上がった詩集だったようです。ぼくのような読者には、ちょっと、感無量な「あとがき」ですが、お元気で、「詩」を書き続けられることを祈ります。追記 2024・11・23永遠に詩を書きつづけられることを祈っていましたが亡くなってしまいました。永遠を生きるの宇宙人だと思っていた谷川俊太郎さんも地球人だったんですね。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.21
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アキ・カウリスマキ「枯れ葉」元町映画館 2024年はこの映画で始めようと考えていた作品をようやく見ました。アキ・カウリスマキというフィンランドの監督の新作「枯れ葉」です。 元町映画館が新年口開けで、1月1日から上映してた作品ですが、どういうわけなのか連日満席が続いていて、三が日明けにチャレンジしたのですが満員御礼で、結局、今日になりました。もっとも、今日も日曜日で、普段なら躊躇するのですが、ちょっと早めにやって来た甲斐あって、無事座席確保して見終えましたが、やっぱり、ほぼ、満席でした。 60席という小さな映画館ではありますが、満席で見るのは「主戦場」か「ニューヨーク公共図書館」以来で、ちょっと落ち着きません。その上、お隣に座られた方が「オツカレ生です」かなんかを飲みながら「プハァー」状態でいらっしゃたので、「あのー、この映画、それやってると、寝ちゃいますよきっと。」 とか何とか、オロオロ気を揉んでいると(なんでやねん!)始まりました。予想通り、何にも起きませんでした。 偶然知り合った男と女の、まあ、さほど若くはない二人の登場人物がそれぞれ同僚とでかけたカラオケの飲み屋さんで出逢って、映画館でジャームッシュだかの映画を見たり、チラシの写真のように一緒に食事をしたり、でも、チラシの写真とは微妙に違っていて、まあ、そこが、この映画を見たあと、これってどういうことかな???? と個人的には気になったりして、で、映画では、チラシのシーンの後、「アル中はキライ!」 とかなとかいう喧嘩別れがあって、すれ違いがあって、それぞれ、そういうことでそうなるのか・・・ というふうに仕事をクビになって、それぞれ、建設現場の作業員として働いて、女の人の働き方がいいなあとか思って見ていて、「ああ、この人ムーミンの人やん!」 とか思いだしたりして、ふと、寝息が聞こえてきたりして、スクリーンでは再びクビになった男がアル中を何とかしようとチョットけなげになったり、女は捨て犬を飼い始めて、これがまたなんともよかったりして、「ああ、これは再会するな!」 と思っていると、再会した映画でした。 最後に「枯れ葉」という、まあ、ボクでも知っている歌が流れて終わるのですが、なんで「枯れ葉」なのかとか考えて座り込んでいて、満席だったお客さんたちがそそくさと退場されていくのを見ながら、なんだか急に可笑しくなって、ひとりで拍手!してしまいそうでした(笑)。 「トーべ」という映画では、少女の様だったアルマ・ポウスティという女優さんの、何にも喋らない暮らしというか生活の中で浮かぶ笑顔がとてもよくて、一瞬、数年前に亡くなった八千草薫さんの口元が思い出されたりして、拍手!でしたね。 それにしても、チラシの写真のお二人はどなたなのでしょうね。女性は若すぎるし、男性はおさまりすぎていると気にするのはボクだけなのでしょうか(笑)監督・脚本 アキ・カウリスマキ撮影 ティモ・サルミネン美術 ビレ・グロンルース衣装 ティーナ・カウカネン編集 サム・ヘイッキラ音楽 マウステテュトットキャストアルマ・ポウスティ(アンサ)ユッシ・バタネン(ホラッパ)ヤンネ・フーティアイネン(フータリ)ヌップ・コイブ(リーサ)アンナ・カルヤライネンカイサ・カルヤライネン2023年・81分・G・フィンランド・ドイツ合作原題「Kuolleet lehdet」2024・01・14・no003・元町映画館no221
2024.01.17
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関川夏央・谷口ジロー「秋の舞姫」(双葉社) 高校で授業をしたいと考えている人たちにとって森鴎外の「舞姫」は定番教材です。 「石炭をばはや積み果てつ」 あまりにも有名な冒頭ですが、この美文調の擬古文体の文章は、現代の高校生には苦痛以外の何物でもないらしく、主人公太田豊太郎がベルリンに到着したあたりで早くもギブアップで、教室には、なんというか、オモーイ空気が漂い、ひとり、ふたり、あっちでバタリ、こっちでバタリ、最悪の消耗戦を戦う戦場もかくや、という様相を呈してくる日々が思い出ですが、今回、案内するコミック「坊ちゃんの時代」第二部「秋の舞姫」(双葉社)は授業の幅を広げたい人には、格好の参考図書かもしれません。 関川夏央が原作を書き、谷口ジローという漫画家が作画したこの「坊ちゃんの時代(全5巻)」は、日本という国の「近代」という時代に、言い換えれば文明開化、富国強兵をうたい文句にして驚異的な発展を遂げたアジアの片隅の島国の「明治」という時代ということですけれども、その時代の「人々」に関心を持っている人には、おすすめです。 原作者の関川夏央は、両親が学校の先生という不幸な生い立ち(?)なのですが、上智大学を中退して、週刊誌のコラムを書いたり、ポルノ漫画の原作を書いたりして糊口をしのいだこともある苦労人(?)で、「ソウルの練習問題」(新潮文庫)という作品で批評家として世に出た人です。 どっちかというと「文学さまさま」というようなアプローチではなく、スキャンダルや、エピソードの収集家的な視点と山田風太郎的な奇想の視点で、近現代の文学シーンを暴いてきた人なのです。 その関川夏央が、名作「犬を飼う」(小学館文庫)の漫画家谷口ジローと組んで、日本漫画作家協会賞をとったのがこの漫画なのです。 その第二部、「秋の舞姫」は「浮雲」の作家、二葉亭四迷こと長谷川辰之助の葬儀のシーンから始まります。 明治四十二年六月二日。染井墓地での埋葬に参列する人々は、漱石、夏目金之助。啄木、石川一。鴎外、森林太郎。弔辞を読むのは劇作家島村抱月。他に、徳富蘇峰、田山花袋、逍遥こと坪内雄三、etc。明治の文学史上のビッグネームがずらりとそろっています。 言文一致といえば必ず名前が出てくる二葉亭四迷という文学者がいますが、彼は朝日新聞の特派員として念願のロシア遊学中に発病、帰路インド洋上の船中で客死しました。しかし、その二葉亭四迷が死の床で、脳裏に浮かべた一人の女性こそ、エリーゼ・バイゲルト、すなわち「舞姫」のエリスのモデルであったというのは何故かということが、この漫画のネタというか謎というわけなのです。 言文一致のビッグ・ネーム、二葉亭四迷が、なぜ、雅文体の雄、森鴎外の恋人エリスことエリーゼを知っているのか。なぜ、今わの際にその面影を思い浮かべるのか。 鴎外のドイツ留学からの帰国は明治二十一年九月八日です。ドイツ人女性エリーゼ・ゲイバルトは四日遅れて横浜に到着します。彼女の船賃を工面したのは鴎外自身で、実は、彼はこのドイツ女性と結婚を決意していたのです。 しかし、日本に帰国した鴎外は、エリーゼ・ゲイバルトが日本に滞在した三十六日間の間にたった一度だけしか会うことがなかったのです。「ああ ようやく…」「済まなかった‥‥」「一万哩を旅したこの地の果てで、まともに会えたのがただ一度 なのですか。」「済まなかった。しかし私にとっては欧州もまた地の果てだった。」「‥‥そうなのですね。」「地の果ての決意を私は石のごとくと思ったが、それは砂の塊にすぎなかった。いま、この国で白人が暮らすのは苛酷だからというのはやはりいいわけだ。私は自分の安心のためにあなたを捨てたのだ。」「・・・・・・」 「互いにあまりに遠すぎた。生まれた土地が…ではなく、生まれた土地によって作られた互いの人間性が。私は深く恥じよう。」 「わたくし、十七日の船で日本を去りましょう。コガネイはもう一度リンタロウーの母上に話そうといいました。あなたの弟アツジローも。わたくしは断りました。あなたには所詮無理です。恋人のために命を投げ出す義の心がない。そう思い知りました。」 「家」、「国家」、「社会」、抜き差しならないしがらみに身動きならない鴎外、森林太郎が、エリスによって、切って捨てられたシーンの二人の会話です。 ひとり「鴎外のみのこと」ということはできないでしょう。「明治という国家」と個人がどのように出会ったのか、哀しいというよりほかに、言いようはないのでしょうか。 傷心のエリスは十月の末に帰国し、鴎外は一年後の秋「舞姫」を執筆し明治二十三年正月の「国民之友」という雑誌に発表しました。 彼は彼で深く傷ついていたのではないでしょうか。「舞姫」はこずるい男の開き直りを描いた小説ではなさそうです。 で、二葉亭四迷とエリスの関係についてですが、興味をお持ちになられた方は、どうぞ、本作品をお読みください。 たった三十六日間の滞在なのですが、エリスは実に様々な人と出会っています。彼女自身の人柄も潔癖で純情、自らの精神に一途な、素晴らしい女性として描かれていて、なかなか痛快です。現在は文庫化もされています。(S)2018/06/13追記2019・04・16 このシリーズは、第一部が「坊ちゃんの時代」では、漱石が「坊ちゃん」を書き始めるころの明治を、第三部が「かの蒼空に」では、石川啄木と金田一京助の友情(?)と、啄木のだらしなさを、第四部、「明治流星雨」では大逆事件で殺された幸徳秋水と管野須賀子の半生。最終巻、第五部は「不機嫌亭漱石」と題し、胃病に苦しむ漱石をメインに描いています。 こう紹介すると歴史実話マンガのようですが、おそらく、違いますね。関川夏央の本領は、調べに調べ、調べ尽くしたうえで「嘘を書く」ことだと、ぼくは思っています。 それは、例えば山田風太郎の方法に似ています。ウソという言葉を使いましたが、それはでたらめではありません。 物語のどこかに、「もしこうであったら」という虚構の補助線が一本引かれているに違いないのです。山田風太郎が得意の明治物の中で幼い樋口夏子と、少年夏目金之助を出合わせたシーンを描いたことがありますが、あれと似た方法を関川がどこで垣間見せているのか、是非お読みになって、「にやり」とお笑いになっていただきたいですね。 絵を描いている谷口ジローも関川も只者ではないのです。なかなか、見破れない虚構の底、奥は深そうです。追記2023・04・11 友達数人と100days100bookcoversという本の紹介ごっこをフェイスブック上で続けているのですが、そこでこの漫画のシリーズが紹介されました。そうか、そうか、とうれしくなったのですが、ボク自身もこのブログで案内していたことを思い出して修繕しました。ボクの案内は国語の教員を目指している学生さんにあてて書いたものですが、若い人がこの漫画を読むのかどうか、いささか心もとない時代になってきましたね(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.17
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鈴ノ木ユウ「コウノドリ(1)」(講談社) 十二月に入って、留守中にやって来たヤサイクンの「マンガ宅急便」ですが、なかなか、アタリ!が多かったですね。小林まことの「女子柔道部物語」、原泰久「キングダム」最新号、そして、これ、鈴ノ木ユウ「コウノドリ」と山盛りです。 主人公は産科のお医者さんでジャズ・ピアニスト。2013年に連載開始で、ただ今、28巻、進行中だそうです。この間、テレビドラマにもなって、世間では、世の中のことを何にも知らないとシマクマ君が思っている女子大生でも知っている、当たり前の人気漫画であるらしいのですが、テレビも見ないし世間様との付き合いも、ほぼ、無い徘徊老人は知らなかったというわけです。なにげなく手に取って、ちょっと引きました。 「なんですか、これは?」 「鴻鳥サクラ」、名前がまず、「はてな?」でしょ?絵は微妙なので、イケメンなのかどうかはともかく、ジャズピアニスト「ベイビィ」がアンコールで舞台から突然消えるんですね。病院で緊急出産手術というわけなんです。フツーは、ここで終るのですが、次のページでこんな展開。 「でも未受診なのは母親のせいで、お腹の赤ちゃんは何も悪くないだろ」 これが、最初の「あれっ?」 最近、産婦人科の医師である増崎英明さんに最相葉月さんがインタビューした「胎児のはなし」(ミシマ社)という本を読んで、いたく感動して、あちこちで「付け刃」を振り回しているのですが、その「付け刃」に、このマンガが繰り出してくる「妊娠」と「出産」の話題が次々とジャストミートし始めるんですよね。 こう言っては何ですが、私こと、自称徘徊老人シマクマ君は65歳を越えています。ここからの人生で、誰が考えても、まず、関係のない出来事が、妊娠・出産なんですね。なのにどうして? 「胎児のはなし」を読んだ、一番大きな収穫というか、なるほどそうか!というのが、いま生きている人間にとって、死んだらどうなるかと、これから生まれる赤ちゃんは、どうやってこの世にやってくるのかという二つの領域は、相変わらず神秘の領域として残されているということだったんですよね。 まあ、とはいいながら、死んだらどうなるかは、個人的にはですが、ただの「死にッきり」で結論が出ているわけで、やっぱり、興味がわくのは、「赤ちゃん」の神秘ですね、というわけなのです、きっと。 ページを繰っていくと、下手をすると、きわどいというか、人間のエゴが噴出しかねないこのテーマに対する、マンガ家のスタンスというのでしょうか、構えという方がいいのかな、に、どうも、ちょっとほっておけない独特なものがあるのですね。そこのところに惹かれてしまったようです。止まらなくなりました。 というわけで、たとえば、第1巻の名場面はこれです。 妊娠23週の超早産児と父親との対面のシーンです。 この二人のの出会いまでの経緯が、母親と胎児、妻と夫、そして、担当医師と先輩医師という関係を三本の、少し太い経糸(たていと)にして描かれています。そこに、それぞれの家族、産科病棟職員、患者と医者、医療技術など、様々な横糸が張り巡らされ、破水、切迫流産、帝王切開と畳みかけるように出産へと緊張の展開です。読んでいて息つくひまもない印象です。 そして、このシーンなんですね。ここまで、けっこう緊張しながら読んできた徘徊老人は、マンガの登場人物の涙に、思わずもらい泣きというわけでした。「胎児のはなし」の中で、増崎先生は出産に立ち会った男性は泣くものだとおっしゃっていましたが、年のせいでしょうか、やたら涙もろくなっていることは認めますが、マンガの対面シーンで泣くとはねえ、困ったものです。 第二巻以降については、おいおい、名場面をご案内しよう目論んでおります。ああ、それから「胎児のはなし」(ミシマ社)・「女子柔道部物語」・「キングダム 56巻」はそれぞれ題名をクリックしてみてください。追記2022・09・24「コロナ編」を読みました。で、昔の感想を修繕しています。追記2020・01・23「コウノドリ19」の感想書きました。クリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!【あす楽/即出荷可】【新品】コウノドリ (1-28巻 最新刊) 全巻セット
2019.12.19
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(4)」(集英社) さて、第4巻です。表紙の人物は「大日本帝国陸軍・第七師団」所属する情報将校、鶴見篤四郎(つるみ とくしろう)陸軍中尉です。 容貌魁偉というのはこういうのでしょうかね。仮面のような額当てをしていますが、日露戦争の戦場で頭を吹き飛ばされても生き残った男で、今でも目の周囲の皮膚は剥がれていますし、吹き飛ばされた頭蓋骨にホーロー製のカバーを当てているのですが、時々脳漿のがにじみ出てくるという、恐るべき状態なのです。とはいいながら、その活躍ぶりは、なかなか、どうして、半病人などではありません。 土方歳三の刀のことを言いましたので、彼が手にしている拳銃についてちょっと。この銃はボーチャード・ピストルというそうです。ドイツで開発された、最初の軍用自動ピストルです。戦争映画などでナチスの将校が手にしている軍用拳銃ルガーP08というピストルの原型だそうです。 さて、この男が、アイヌの埋蔵金を狙う「三つ巴」の一角を担う、いわば、副主人公なのです。そして、彼の周りには狙撃の名手・尾形上等兵、マタギの末裔・谷垣一等兵、死神鶴見中尉の右腕・月島軍曹といった、後々、大活躍の人物が勢揃いしているのですが、それぞれの人物がクローズアップされる「巻」が待っています。紹介はその「巻」で、ということで。いやー先は長いんですよ、話の展開も一筋縄ではいかないようですし。 というわけで、「きょうの料理・アイヌ編 第4巻」ですね。 「鹿肉の鍋」です。「ユㇰオハウ」というそうです。プクサキナ(ニリンソウ)とプクサ(行者ニンニク)が入っているそうですが、なんと、アシリパちゃんが「味噌」をねだるようになっています。 「鮭のルイペ」。生肉や魚を立木にぶら下げて凍らせたものを「ルイペ」というそうで、とけた食べ物という意味だそうです。「鮭」は「カムイチェプ」というそうです。 さて、今回のカンドーは「大鷲」です。「カパチㇼカムイ」と呼ぶのだそうです。 見開き2ページを使った姿です。翼を広げると2メートルを超えるそうです。羽が矢羽根に使われます。モチロン肉は煮て食べます(笑)。 脚を齧っています。残念ながら「鍋」のシーンはありません。この後、おバカの白石くんは鷲の羽根を売りに行って、事件に巻き込まれます。 そのあたりは読んでいただくとして、次号では「クジラ」と、北海道といえば「ニシン」が出てきそうです。お楽しみに。追記2020・02・11「ゴールデンカムイ」(一巻)・(二巻)・(三巻)・(五巻)の感想はこちらをクリックしてみてください。先は長いですね。にほんブログ村にほんブログ村ゴールデンカムイ 杉元が持っている 食べていい オソマ (味噌) 140g(株)北都 企画販売 ダイアモンドヘッド
2020.02.12
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トッド・フィリップス「ジョーカー」OSシネマズ神戸ハーバーランド 映画com 封切られたのが、昨年の秋でした。「バット・マン」という映画の副主人公「ジョーカー」を主人公にした映画という触れ込みでしたが、まず「バットマン」をよく知りませんでした。何本もある「バット・マン」映画のうち一本か二本、多分テレビで見た記憶はありますが興味を持ったわけではありませんでした。ちらっと眼にしたジャック・ニコルソンの顔だけが印象に残っていました。 彼、ジャック・ニコルソンは、ぼくは、45年前に神戸に来て初めて見た映画「チャイナタウン」以来、ぼくにとっては「追っかけ」の対象になった数少ない俳優の一人でしたが、「ジョーカー」役のひきつった顔はなかなかのものだと思った記憶はありました。 で、今回の「ジョーカー」です。OS系の映画館が一週間限定、所謂リバイバルというか、昔でいえば二番館上映でした。 こんなことをいうのは変かもしれませんが、当日、映画が始まって、ピエロの扮装をしている主人公役のホアキン・フェニクスを一目見たあたりから、元ネタともいうべき「バット・マン」を忘れてしまっていました。 映画は主人公アーサー・フレックの成育歴を暗示し、身体的、精神的成長過程の謎を解くことで、「ジョーカー」へと変貌する「悪」の真相 を描こうとしているようです。 ぼくは映画の半分を過ぎた辺りで、この主人公がコミックの「バット・マン」の悪役であり、過去複数の役者が演じてきて、スクリーン上に何度も登場した「ジョーカー」に対する監督トッド・フィリップス版解釈が繰り広げられていることにようやく思い至りました。 蓮見重彦的に言うなら「凡庸」 ですね(笑)。目の前に繰り広げられる「異常事態」に対して、人というものは「解釈」を与えたいものです。で、その時に、出来事の因果を持ち出して安心するというのは文学の研究でもよくつかわれる手法ですが、それは、やはり、「ありきたり」 というものではないでしょうか。 そう思って、ふと、映画から心が離れるのを感じた、中盤を過ぎた、このあたりからがこの映画の圧巻でした。 売れないコメディアン、アーサー・フレックは母を殺し、友人を殺し、あこがれのコメディアンを殺しますが、それはもう「成育歴」とかでは説明できません。真正の「悪」 ジョーカーへと、何かが解き放たれた行動が一気に展開します。 石段の上で踊るジョーカーが映し出されたあたりから、予感がし始めましたが、ありきたりの善悪の範疇を超えた、解釈不能な「悪」をスクリーン上に生み出したのはホアキン・フェニクスの演技だと思いました。演出は成育歴とその因果にこだわり続けていたようですが、ホアキン・フェニクスは身体的な桎梏から自らを解き放つダンスの喜びのような「悪」を、その全身と独特の表情で演じていました。 最後のシーンで、悩める死刑囚アーサー・フレックに出会った善良なカウンセラーは不幸でした。湧きあがる「悪」の喜び の前で、医学や法律の制度に守られた「善」など物の数ではなかったでしょう。 真っ赤な血の足跡を残しながら、コミックの世界へ回帰するかのように去ってゆく「ジョーカー」を見ながら、思わず拍手!という気分でした。 いくら騒いでも、ほとんど、誰にも迷惑をかけない寂しい会場だったのですが、静かに席を立ちましたよ。もちろん、心は「悪」にそまっていましたがね(笑)。監督トッド・フィリップス製作トッド・フィリップス ブラッドリー・クーパー エマ・ティリンジャー・コスコフ脚本 トッド・フィリップス スコット・シルバー撮影 ローレンス・シャー美術 マーク・フリードバーグ衣装 マーク・ブリッジス編集 ジェフ・グロス音楽 ヒドゥル・グドナドッティル音楽監修 ランドール・ポスター ジョージ・ドレイコリアスキャストホアキン・フェニックス (アーサー・フレック/ジョーカー)ロバート・デ・ニーロ(マレー・フランクリン:コメディアン)ザジー・ビーツ (ソフィー・デュモンド:近所の女性)フランセス・コンロイ (ペニー・フレック:母)ビル・キャンプ (ギャリティ刑事)シェー・ウィガム (バーク刑事)ブレット・カレン (トーマス・ウェイン:父)ダンテ・ペレイラ=オルソン(ブルース・ウェイン:義理の弟 後のバット・マン2019年122分R15+アメリカ原題「Joker」2020・04・00・OSシネマズno7ボタン押してね!
2020.04.17
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谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」(青土社) 1975年、ぼくは大学1年生だったか、2年生だったか?大学生協の書籍部の棚にこの詩集が並んでいたことを覚えています。 価格の900円が高かったですね。書籍部の書棚の前に立って、棚から抜き出して立ち読みしました。 芝生そして私はいつかどこかから来て不意にこの芝生の上に立っていたなすべきことはすべて私の細胞が記憶していただから私は人間の形をし幸せについて語りさえしたのだ 巻頭の、この詩を読んで、自分から、なんだか限りなく遠い人が立っているような気がしたのを覚えています。 それから45年たちました。先日、同居人の書棚にある詩集を見つけ出して、そのまま書棚の前に座り込んで初めて読む詩のように読み始めました。 2 武満徹に飲んでいるんだろうね今夜もどこかで氷がグラスにあたる音が聞こえるきみはよく喋り時にふっと黙り込むんだろぼくらの苦しみのわけはひとつなのにそれをまぎらわす方法は別々だなきみは女房をなぐるかい? 4 谷川知子にきみが怒るのも無理はないさぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言ってるしかもしらふでにっちもさっちもいかないんだよぼくにもきっとエディプスみたいなカタルシスが必要なんだそのあとうまく生き残れさえすればねめくらにもならずに合唱隊は何て歌ってくれるだろうかきっとエディプスコンプレックスだなんて声をそろえてわめくんだろうなそれも一理あるさ解釈ってのはいつも一手おくれてるけどぼくがほんとに欲しいのは実は不合理きわまる神託のほうなんだ 谷川俊太郎も若かったんだなあ。というのがまず第一番目の感想ですね。「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」と題された詩篇は、全部で14あります。二つ目に「小田実に」とあるのが、なんだか不思議な感じがしましたが、どの詩も、印象は、少し陰気です。 14 金関寿夫にぼくは自分にとてもデリケートな手術しなきゃなんないって歌ったのはベリマンでしたっけ自殺したうろ覚えですが他の何もかもと同じようにさらけ出そうとするんですがさらけ出した瞬間に別物になってしまいますたいようにさらされた吸血鬼といったところ魂の中の言葉は空気にふれた言葉とは似ても似つかぬもののようですおぼえがありませんか絶句したときの身の充実できればのべつ絶句していたいでなければ単に啞然としているだけでもいい指にきれいな指環なんかはめて我を忘れて1972年五月某夜、半ば即興的に鉛筆書き、同六月二六日、パルコパロールにて音読。同八月、活字による記録お呼び大量頒布に同意。 気にとまった作品を書きあげてみましたが、あくまでも気にとまったということです。それぞれに、刺さって来る一行があるのですね。 四歳年下の同居人が、大学生になってすぐに購入していることに、今更ながらですが、驚いています。この詩人の作品を愛していた彼女に、ぼくとの生活について問い直すことは、やはり、今でも、少し怖ろしいですね。
2020.12.20
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フランソワ・トリュフォー「突然炎のごとく」シネ・リーブル神戸 1976年ころに、山根成之という監督で、主演が郷ひろみと秋吉久美子、脚本が、あの頃面白いと評判だった中島丈博の映画で「突然嵐のように」という映画がありました。 まあ、その当時、秋吉久美子は絶対的だったのですが、郷ひろみが思いのほかよくて(えらそうで、すみません。)記憶に残りました。もっとも、同じ監督で、同じ主演コンビの組み合わせで、多分、脚本は違ったと思いますが、「さらば夏の光よ」の2本しか見た記憶がないので、当てにはなりません。 何の話をしたいのかわからないで出しですが、今回見たトリュフォーの「突然炎のごとく」は、どうしても見なきゃと思った理由と、その、郷ひろみの映画の記憶がダブって、何が何だかわからないままシネリーブルにやってきたという話です。 で、フランソワ・トリュフォーの冒険シリーズの2本目は「突然炎のごとく」でした。1964年の映画です。初めて見たのは40年前で、今では精神科の開業医をやっている、まあ、いろいろうるさかった年下の友人が「ゴダールは知っているか?、トリュフォーは見たのか?」 とか、あれこれうるさいので、名画座の特集を探して見た記憶がありますが、「おっ、これは、いいじゃないか!」 という漠然とした記憶しかありませんでした。 ぼくが説明するまでもない有名な作品ですが、原題が「Jules et Jim」とあるように、ジュール(オスカー・ウェルナー)とジム(アンリ・セール)という二人の男性とカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)という、まあ、映画の中の表現でいえば「女神の唇」を持つ女性の、意味の分からない三角関係です。 現代であれば「なんとか障害」とかのレッテルを貼られかねないカトリーヌという女性の「こまった症候群」に、あくまでも付き合い続ける二人の男性の姿をボンヤリ見つめながら、破滅しかありえない関係の描き方の徹底性に感動しました。 1910年代の、だから第1次世界大戦前後のヨーロッパ社会を背景にしながら、オーストリアとフランスという敵国同士で戦った青年の友情が、なんだかアホらしいラブ・コメディのテンポで描かれているかのように始まるのですが、ラストはどうも、そうではなかったようです。「これがフランソワ・トリュフォーなんだよな。」 とかなんとか納得したようなことを感じながら、「これ」が何を指しているのかわからない。まあ、それがトリュフォーなんですね。 40年前には、破滅をものともしない主人公たちの、それぞれの在り方をどう感じていたのでしょう。どうなってもいいや! とどこかで思っていたあの頃、この映画がジャストミートしたことは間違いないのですが、どちらにしても先が見え始めた年齢になった今は、「あれから40年経つけど、カトリーヌとか、やっぱりいなかったよな・・・」 という、わけのわからない感慨に浸ってしまいながらも、たとえば、屈託のない明るい笑顔や、美しい凝視から、どことなく苦悩が兆す眼差しへと突然炎のごとく変化していくジャンヌ・モローから目が離せないスリリングな作品でした。 やっぱりカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)はよかったですね。拍手!でした。監督 フランソワ・トリュフォー製作 マルセル・ベルベール原作 アンリ=ピエール・ロシェ脚本 フランソワ・トリュフォー ジャン・グリュオー撮影 ラウール・クタール音楽 ジョルジュ・ドルリューキャストジャンヌ・モロー(カトリーヌ)オスカー・ウェルナー(ジュール)アンリ・セール(ジム)マリー・デュボ(テレーズ)ヴァンナ・ユルビノ(ジルベルト)ボリス・バシアク(アルベール)サビーヌ・オードパン(サビーヌ)1961年・107分・フランス原題「Jules et Jim」日本初公開1964年2月1日2022・10・04-no116・シネ・リーブル神戸no167
2022.10.11
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リービ・秀雄「天路」(講談社) 久しぶりに、最初のページから、ページを繰り始めて、次へ次へと素直に読みすすめ、ほぼ最後のページに至って、ジンワリと涙がにじんでくる小説を読みました。 リービ・英雄の「天路」(講談社)という作品です。映画が好きで、最近、よく映画館に通っています。小説を読むのに比べて、読まなくても勝手に話が進んでくれるので便利です。ほぼ、2時間で、結末まで連れて行ってくれます。 小説は、読むのをやめると、そこで止まってしまいます。再び読み始める時には、聞き覚えのある「声」を探して、しばらく戸惑うのですが、再び、その「声」が聞こえはじめると、世界が再び動き始めます。 聞えてくる「声」は語り手のもので、必ずしも登場人物たちの会話や話し声のことではありません。書かれている文章には必ずあるはずだと思うのですが、映画にはありません。映画と小説の違いは、多分そのあたりにあると思いますが、とりあえず、「天路」に戻ります。 カバンには「ロンリー・プラネット」と旅行会社からもらった地図を入れて、かれは早朝に新宿の部屋を出た。東京駅で成田エクスプレスに乗り、第二ターミナルで下りて、東方航空の十時便に何とか間に合った。 乗りこんだとき、飛行機が前より小さくなったのに気がついた。連日のテレビ・ニュースに報道されている領土問題で、乗客が少なくなったのだろう。そのことを予測していたが、小さい飛行機は逆に息苦しいほど混みあい、荷物棚には象印の五万円の電気釜とTOTOの最先端の便座がぎっしり詰められ、前列からも後列からも、ケーラー、ケーラー、ノンラーと上海語がかれの耳に大きく鳴り響いていた。(P6) 語りはじめられた冒頭の描写です。「声」の主は新宿の部屋を出て成田から中国行きの飛行機に乗った「かれ」と、おそらく同一人物なのでしょうが、今、この文章を書いている「声」の主と、上海語の喧騒の中にいる「かれ」は、一応、別の存在です。 このところのぼくには、書かれている文章の「声」の響きに対して、その時、その時にゆらぐ自分を感じることが、どうも、小説、まあ、小説に限りませんが、文章を読むことになっているようです。 で、あらかじめの結論をいえば、この、何気ない旅の書き出しで始まる「天路」という作品は、そのゆらぎの快感が群を抜いていました。 かれは上海で中国の国内線に乗り換え、山東省の地方空港で漢民族の旧友と再会します。 山東省のナンバープレートの上に「日産」とBLUEBIRDという文字が、月光の下で読みとれた。そして黒い皮膚の上に無数の斑点が現れるように、車体のいたるところに赤いスティッカーと「祖国の領土を死守する」というスローガン、そして小さな島にそびえる円錐形の山の後ろの真赤な拳の絵と、「釣魚島は中国のものだ、日本人は出て行け!」という意味の文字のスティッカーだった。 静まりかえった駐車場の中で、叫び声のような文字が妙に目立った。(P8) 空港の駐車場で待っていたのは、まあ、こんな、スティッカーだらけの自動車と友人だったのですが、ここから、中国を縦断し、西安からチベット、作中の友人の言葉でいえば「大西部」への旅が始まります。映画で言えば、ロード・ムービー、「自動車と男と女」ならぬ、「自動車と男と男」の旅です。 大西部の旅のために二日間、山東省から高速道路を走りつづけた。 謝謝你(シェイシェイニー)、とかれは弱々しい声で言った。 いや、あなたこそ遠方よりよく来てくれた。友人の声には、一瞬、おおらかさがもどった。 それからまた独り言を言いつづけた。 但是(ダンシル)、ところが、西安を過ぎて本格的に西方へ入りこんだあたりから、面白いことに気がついた。西へ行けば行くほど、愛国スティッカーが見当たらなくなった。友人はまわりで駐車している何台かの日本車を指さした。 ここまで来ると、そんなものは一つもないでしょう。 ターミナル・ビルのすぐ後ろにそびえる真暗な山脈を友人が指で示した。そして振りかえり、反対側で層をなす山々を指した。 北の山脈の向こうでは砂漠が敦煌までつづき、南の山脈の向こうでは高原がラーサまでつづいていた。 膨大な大西部の中には、日本そのものが三つも四つも入る それで、私は思う、と友人が言った。 一瞬経ってから、私も思う、とかれは答えた。 友人もかれも、ほぼ同時に言い出した。 それでは、剝がしましょう。 激怒の文字がめくれ上がった。「愛国無罪」がとれた。 ウオツリジマの絵がたやすく落ちた。 剥がす音とともに、北方からも南方からも、砂漠と高原の静けさが聞えてきた。 最後の五星紅旗をはがしたとき、ついでに日産の文字もけずりたくなった。母国の星条旗を剝がす自分を想像した。 その時、かれの心には「親」も「反」もなかった。ただテレビ画面からうっとうしいニュースのテロップを引きちぎっているような気持になった。 数分のあとに、ブルーバードの車体が月光の下で黒く輝いていた。 走吧(ヅォーパ)、と漢民族の友人が言った。 さあ行こうか。 走(ヅォー)、と答えるかれの声で、二人はブルーバードに乗りこんだ。 「国家」を剥がされた車は、エンジンが勢いよく、青い鳥の元の軽みを取り戻したように、空港の南方の、チベット高原に向ってすっと走り出した。(P12) 小説は「高原の青い鳥」「西の蔵の声」「文字の高原」「A child is born」の4章で構成されています。上に引用した始まりのシーンは、「高原の青い鳥」の冒頭近くの部分ですが、ここからラーサの寺院まで旅は続きます。語り手の静かな「声」が印象的な作品ですが、実は、なんの事件も起こりません。 友人が「藍天白雲(ランティエンハイユン)」と叫ぶ空の下、二人の自動車の旅が続くだけですが、リービ・英雄という、日本語で書くアメリカ人作家の到達点を感じさせる「声」の美しい作品だと思いました。 生者が死者をおんぶして、天葬の場所へとこの山を登るのだ。 おぼろげな記憶の中から、 死者がたどる天路(あまじ)という古い日本語が頭に浮かんだ。 昔かれはthe path to heavenと翻訳したこともあった。 草の中のこの細い登り道も天路なのだろうか。 表紙の裏に印刷されている断章ですが、本文中からの引用です。 リービ英雄はアメリカでも、有数の万葉学者だそうです。「万葉集」の英訳の仕事は有名です。作品名の「天路」は、中国語ではティエン・ルーと発音するそうです。読み終えて、その発音を声に出して読みなおしたときに、涙がこぼれました。マア、ぼくにとって、そういう作品だったということです。乞う、ご一読!ですね(笑)。
2022.11.18
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「夕顔、今日は、明るいうちに写せました。」 ベランダだより 2024年9月25日(火)ベランダあたり チッチキ夫人は、まあ、ベランダの主人なので、当然ですが、ここのところ、毎日一つか二つ咲き続けている夕顔については知っています。ところが、シマクマ君は、フラフラと出歩く日が多くて、暑さは相変わらずなのに、いつの間にか日暮れが早いこともあって、気づくのが夜になってからです。 でも、今日は5時過ぎに気づいて写真が撮れました(笑)。 二つ咲いています。蕾もかなりついているので、当分咲き続けてくれそうです。 でも、何というか、朝顔とは違いますね、雰囲気が。夕暮れ時から闇の中で、何というか、こんなに艶やかに咲いて、朝には姿がないのですからね。 紫式部という人は、ホントに天才だったんだ! と、今更ですが、こうしてアップで撮りながら思いますね。 ね、こんなふうに、こっちを見上げてくれる女性がいれば光君でなくても、ホーって、思うでしょうね。あっ、読みは、ひかるぎみ、じゃなくて、ひかるくんね(笑) まあ、そんなに上手に撮れているわけではありませんけど(笑) にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.03
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徘徊日記 2024年10月19日(土)「この車輪、新幹線?」新大阪あたり 今日は、2024年の10月19日、土曜日です。朝からJRに乗って、新大阪駅に来ています。お友達数人と一緒に、新幹線で出かけるのですが、出発地が新神戸ではなくて新大阪なんですね。 で、約束の時刻に40分ほど早く着いたので、30数年ぶりの新大阪駅徘徊です。 最初は駅の構内をうろつくつもりだったのですが、あまりの人の多さにビビって御堂筋線の乗り換え口あたりから外に出ました。 さすが、江坂です。道端でタバコ吸っている人どころか、タバコをくわえてチャリンコに乗っているオッちゃんとか、いい雰囲気です。 在来線と新幹線の間あたりには、ナント、踏切りがありました。吹田の操車場あたりに行く線路なのでしょうかね? そこに電車がやって来ました。向うに見えるのが、在来線の新大阪駅のプラット・ホームですが。この電車がどこ行きなのか確認し損ねましたね。 写真を撮っているこの場所は、在来線と新幹線の、昔なら跨線橋と呼ぶべき通路のの地下、高架下です。 ねっ! 向うに在来線のプラットホームがあって、ここの上に新幹線の新大阪駅があるわけです。 というわけで、新幹線の新大阪駅の外側をぐるっと回ってきたら、一番最初に乗せた写真、車輪の置物があって、その前が駅前駐車場。 で、正面口のエスカレーターです。 そろそろ、約束の時間です。エスカレーターを上ると、ちょうどその上で骨壺を二つ抱えたマリちゃんと遭遇です。お読みいただいている方々には「骨壺って、何よ?」 ですが、いつもの、フラフラ徘徊気分が抜けないシマクマ君、今日は、実は、この夏亡くなった、学生時代からの恩師ご夫婦の納骨が目的の旅の始まりです。「M君と、シマクマ君、責任をもって頼むよ!」 まあ、それが恩師の遺言なのですが、頼りにならないシマクマ君はついて行くだけです。もう一人の当事者M君は「当日、忘れたらどうしよう?」 と不穏な発言をして、結局、骨壺は先生の奥様から遺言を託されマリちゃんが二つ抱えて、やって来たというわけです。新大阪駅は、とんでもない人の群れでしたが骨壺を二つ抱えた人は他にいなかったでしょうね(笑)。いやー、マリちゃん、本当にご苦労様でした。 さて今から東に向けて新幹線に乗ります。目的地は静岡県の三島です。で、そこから自動車に乗り換えて、富士の裾野にあるという「富士霊園」という墓地です。 それで行ってきます。もちろん、「納骨」徘徊日記は続きます。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.22
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閆非・彭大魔「抓娃娃(じゅあわわ) ―後継者養成計画」シネリーブル神戸 中国で流行ったエンタメ映画、まあ、そういう興味に惹かれて見ました。後継者養成計画という、解説的副題がついてはいますが、「抓娃娃」という中国語の題名のままの邦題ですから、本来ならポカーンとなるところですが、見終えてよくわかりました。ナルホド、ウケるはずだ! 帰ってきて、一応、調べて見ると、「抓」の中国音(ピンイン)はzhuā、意味は摘むから鍛えるまであって、「娃娃」の読みがwá・waで、意味は赤ちゃんのようです。だから「抓娃娃」の読みは「じゅあわわ」で意味は「赤ちゃんを鍛える」でした。 明治時代の終わりか、昭和の始めころを背景にした日本映画でもありそうな話です。「金持ちの後継ぎとして、右も左もわからない子供のときから鍛える。」 なんか、森鴎外とかが浮かんできそうですが、違うのは、森家とかの「家」の保全ではなくて、貧乏人から成りあがった父親が苦労してようやく築いた、一代限りの「財産」の保全のために、子どもの時からだんだん金持ちになっていった暮らしを知っている兄はスポイルして、金持ちになってから生まれてきて、まだ、なんにも知らない幼児だった弟を貧乏人の子として、刻苦勉励の暮らしで躾ようという、まあ、金持ちにしかできない完全コントロール、見るも侘しいボロ家に始まって、生活すべてについて、少年の前では、親族、両親、偽の祖母まであつらえて、みなさんで雁首揃えて偽りの貧乏人を演じながら子育てをするという育児映画(笑)でした。貧乏から努力で這い上がる人格の形成!(笑) まあ、そういう舞台をあつらえるということで、そこが、このコメディの肝というわけです。 こう書くと、なんだか、チョー、アホらしい話なのですが、まあ、実際にチョー、アホらしい話なわけですが、これがなかなか笑えた上に、とどのつまりは「凧じゃなくて風になりたい」 という主題歌に乗って、両親のもとを去る主人公の少年の姿見ていてを、なんだかとても胸打たれてしまいました(笑)。 要するに、中国政府が続けてきた「一人っ子政策」が煽ったにちがいない、たぶん、歪んだ教育熱、80年代以降の資本主義化で生まれた富豪層に対する揶揄が笑いの背景にはあるのでしょうが、まあ、それはそれとして、子どもを育てた経験のある方なら思い当たるに違いない、自由に大きくしたい、でも、どこか、凧のように糸をつけておきたい。 という感じの、多分、結構ありがちな親の気分のご都合主義を笑い飛ばしているところが爽快なのでした。拍手! 監督 イェン・フェイ(閆非) ポン・ダーモー(彭大魔)キャストシェン・トン瀋騰(マー・チェンガン馬成鋼:父) マー・リー馬麗(チュン・ラン春蘭:母)シー・ポンユアン(史彭元)サリナー(萨日娜)シャオ・ボーチェン(肖帛辰)2024年・133分・G・中国原題「抓娃娃」「Successor」2024・10・25・no137・シネリーブル神戸no276追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.28
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空音央「HAPPYEND」シネリーブル神戸 「スーパー・ハッピィ―・フォーエバー」という若い監督の日本映画を見て、「こりゃ、結構イイネ!」だったので、勢いに乗って、で、題名にもつられて、こっちも見ました(笑)。 空音央監督の「HAPPYEND」です。チラシによればありえるかもしれない未来を舞台に描く青春映画の新たなる金字塔 なんだそうです。金字塔とか、みんな待ってるんですね(笑)。 確かに、カメラによる監視システムというのが近未来を感じさせるのかもしれませんが、未来というよりも、ボクが30数年暮らしてきた「学校」の、まあ、思い出すのも鬱陶しい管理体制の戯画という感じで、なんだかめんどくさかったのですが、教室での外国籍生徒の多さ、保護者の妙な低姿勢と教育制度に対する依存、そして、まあ、佐野史郎君が、なんというか、おためごかしを振り回しながらも、論旨としては終わっている校長を頑張って演じていましたが、教育という理念を忘れ去って、官僚的ご都合主義の権化と化している教員の姿、ああ、それからやたら永住証明書の提示を求める警官もですが、そういう登場人物の描き方の中に「未来」というよりも、有ったか無かったか議論のいるところかもしれませんが、所謂「戦後民主主義」の崩壊していく現在がクローズアップされている印象でした。「これって金字塔じゃなくて、墓碑なんじゃないの?」 まあ、そう思わせてくれたマンガ的展開と結末は、ナルホド、映画の製作者たちの八方ふさがり的現在の状況に対する焦りのようなものを感じさせてくれて、そこに浮き上がってくるリアリティはなかなかでした(笑)。この映画に漂うそのあたりの感覚は悪くないですね。 でもね、ボクが面白かったことは、そことはちょっと違うことで、二つありました。一つは、「クソくらえ節」が繰り返し歌われていたことですね。岡林信康、名前をいっても若い人は「???」でしょうが、「友よ」という歌が音楽の教科書に載ったこともある(?)、60年代の(まだ、生きていらっしゃると思いますが)フォークソング歌手です。で、「クソくらえ節」というのは、たとえばボクのような年代が、50年ほど前に口ずさんだプロテストソングで、今でも歌えますが、こんな歌詞です。ある日学校の先生が生徒の前で説教したテストで百点とらへんとりっぱな人にはなれまへんくそくらえったら死んじまえくそくらえったら死んじまえこの世で一番えらいのは電子計算機♪ 映画では、この1番しか歌われませんが、2番、3番の方が面白いかもしれませんね。こんな歌詞です。ある日会社の社長はん社員の前で訓示した君達ワタスを離れてはマンズ生きてはゆけない身の上サくそくらえったら死んじまえくそくらえったら死んじまえ金で買われた奴隷だけれど心は俺のもの♪ある日政府のおエラ方新聞記者に発表した正義と自由を守るため戦争をしなくちゃならないのウソこくなこの野郎こきゃがったなこの野郎おまはん等がもうけるためにワテラを殺すのけ……♪ なんか、妙にリアルだと思いませんか?50年以上昔に流行った歌ですよ。たぶん、どうしてこの歌を、今、わざわざ、劇中で歌わせるのかが問題! というわけですが、何となくわかりますね。岡林君が夢みた「夜明け」がこないまま、AIとかが「賢い」の代名詞化する、まあ、いってしまえば電子計算機が一番偉い 社会になっているのですからね。 若い人たちはAIをくそくらえなんて思っているとはとても思えないこんな社会になるとは岡林君も驚いていらっしゃるでしょうね。だって、今や、とても「くそくらえ」では済みそうにないですもんね(笑)。 もっとも、ボクの驚きは、まだ、30代の空監督が、どこでこの歌を知ったのだろうという方でしたが(笑)。 もう一つの面白さは、映画を見ていて、「えっ?これ、科技高ちゃうの?」ではじまりました。映画を見終えた後で馴染みのスタッフからいただいたのがこの地図です。 ロケ地が神戸だったんですね。それも、ほとんどの場所が日ごろの徘徊エリアじゃないですか。学校が市立の高校だと思ったのは間違いじゃなかったのですが、そのときは疑心暗鬼でしたが、「ここはどこ? つぎはどこや?」 見ながら、ワクワク、とどのつまりには改装中のポートタワーまで登場して、「見てみ、どこが東京やねん!学校も町も神戸やんけ!」 誰に向かって、何をいきっているのか意味不明ですが、映画館のスタッフさんによれば、ロケ地の人々やエキストラで出演した人たちで先週は盛況だったそうで、メデタイことですね(笑)。拍手!監督・脚本 空音央撮影 ビル・キルスタイン編集 アルバート・トーレン音楽 リア・オユヤン・ルスリキャスト栗原颯人(ユウタ)コウ日高由起刀(コウ)林裕太(アタちゃん)シナ・ペン(ミン)ARAZI(トム)祷キララ(フミ)中島歩(岡田先生)矢作マサル(平)PUSHIM(福子)渡辺真起子(陽子)佐野史郎(長井校長)2024年・113分・PG12・日本・アメリカ合作2024・10・23・no136・シネリーブル神戸no275追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.29
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「10月も末の夕顔 その2 」 ベランダだより 2024年10月31日(木) ベランダあたり 2024年、10月30日、水曜日の宵の夕顔です。神無月もあと2日です。2日経てば、11月、霜月ですが、我が家の夕顔は毎晩、一つか二つづ咲き続けています。 咲く限りは、写真に残してやろうというのがシマクマ君の気持ちです。 おんなじような写真ばかりで芸がないので、俳句を探しました。夕顔に女世帯の小家かな 正岡子規 夕顔やかつて手捲きの蓄音機 森澄雄明日のこと口には出さず夕顔に 稲畑汀子 夕顔といえば、正岡子規の句の感じですが、森澄雄のユーモアセンスと、稲畑さんの心の姿の描写がいいですよね。 で、こちらが、10月31日の朝、咲き残っていた花です。普通、朝日が当たると萎れるのですが、気温が20度を切って、少々寒いということもあるのでしょうね、朝になっても咲き続けています。 さて、いつまで咲き続けるのでしょうね。 チッチキ夫人は春の鉢植えの準備がしたいようですが、夕顔と風船カズラ、まだ、お元気で、植木鉢を譲ってくれそうもありませんね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2024.11.04
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「三島大社」 徘徊日記 2024年10月20日(日)三島あたり その1 昨日、2024年10月19日は三島に泊まりました。ドーミン・インとかいう人気のホテルでした。夜泣きソバのサービスと展望風呂が売りですが、久しぶりの旧友交歓の一夜でバタンキューの宿泊でした。(笑) 朝起きると窓から見える目の前は工事中でした。JRの三島駅の駅前広場が新しくなるようです。 で、東京組のMさんと大阪組のMくん、Nくん、そしてシマクマ君の4人で三島徘徊に出発です。先導は、一緒にどこに行っても、たいていの観光地を知っている、まあ、三島の町も初めてではないらしい、Mくんです。「まずは三島大社に行こう!」 の掛け声、一声、ホテルから歩いて行けるらしい三島大社とやらに向かって出発です。 10分ほど南に向かって歩くと鎮守の森が見えてきました。 由緒正しい神社のようです。東海道を歩いてくると、次は箱根越えという最後の宿場にある神社です。 北東の方角から歩いてきたので、正面ではなくて東側の通用門というか、裏口というかから入りました。植樹は鬱蒼としていて、いい雰囲気ですが、絵馬の祀ってある手前に何かあります。 向うに写っているのは神楽殿ですが、面白そうなのは手前の石です。 千年ほど昔、源頼朝と北条政子が座った石だそうです。ナルホド!というか、ホントかよ?というかですが、源頼朝が源氏再興を祈った由緒正しいお宮で、大山祇命を祀っている伊豆一宮だそうで、そういえばここから南に向かえば伊豆半島ですね。 神楽殿ですね。とりあえず撮った写真はのせようかなということで(笑)。 きんもくせいが天然記念物だそうで、大変な古木なのですが、季節なのに花が咲いていません。そういえば、昨日の富士霊園も、この季節の名物は金木犀だとか、何処かに書いてありましたね。オヤ、神社の一画に鹿がいます。周りは柵で囲まれているようで、入って行くことはできません。 神鹿園だそうです。どこかに縁が書かれているのでしょうが、思い浮かぶのはお酒の名前ですが、あれは白鹿でしたかね。そんなことを考えながらのぞき込んでいると、大阪組のNくんが何かいい始めました。「あんな、この鹿の向こうに、三島暦の館かなんかいうて、暦つくってるとこがあるはずやねん。」「三島暦?」「暦ってカレンダー?」「ああ、昔のな。」 早速スマホかなんかでM君が調べています。「ああ、あっちや。」 というわけで、鹿園の向うの神社の裏口からウロウロ出て行く4人組です。 で、三島暦の館(仔細は「三島暦師の館」の記事でどうぞ)でお勉強した4人組が再び三島大社に戻ってきました。 南の、正面の鳥居です。神社の境内は休日ということもあって、かなりな人出だったのですが、4人組は、だれ一人、本殿に参拝した形跡がないのが、まあ、そういうお友達ですね。かくいうボクも、「何が祀ってあるのだろう?」 の興味はありましたが、行列してお参りしていらっしゃる人たちの列に入る根性はありませんでした(笑)。 神社の前の道が、昔の東海道だそうです。 さて、これからどうしようなのですが、やっぱり、Mくんです。「じゃあ、次は柿田川公園に向かうよ!」 というわけで、三島徘徊は続きます(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.06
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