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吉本隆明「廃人の歌」(「吉本隆明全詩集」思潮社) 病院のベッドで、まあ、眠れない夜を過ごしながら思いだしたのは吉本隆明の詩でした。で、帰宅して、こんな本があることを思い出して、久しぶりに開きました。 「吉本隆明全詩集」(思潮社)です。箱装で、写真は箱の表紙です。2003年の出版で、その時に購入した詩集です。全部で1811ページ、価格は25000円です。1冊の本としては、ボクの購入した最高値です。なんで、そんな高い本を買ったのか。 まあ、そう問われてもうまく答えることができません。ただ、2003年にまだ存命だった詩人が「現在集められる限りの詩作品を一冊にまとめて全詩集とした。」 と、この詩集のあとがきで述べていますが、彼の書いた詩を一生のうちにすべて読み切りたい。 という、人にいってもわからないないだろうと思い込んでいる願望のようなものが40代の終わりのボクにはあったということですね。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」 という詩句と十代の終わりに出逢ったことで始まった、この詩人に対する信頼と憧れがその願望を培ってきたことは紛れもない事実ですね。 病室の天井を眺めながら、この詩人の詩句を思い浮かべている自分に気付いたときに「えっ?」 という驚きを感じたのですが、スマホの画面で、いくつかの詩を読み返していくにしたがって、50年、溜まりに溜まった、なんだかわけのわからない妄想にも似た、忘れていたはずの記憶が、次々と湧いてきて、まだ、やり残していることの一つが見つかったような気がしたのでした。 というわけで、今回は1953年の「転位のための十篇」に収められている「廃人の歌」です。 廃人の歌 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおはる ぼくはそれを考えてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつている たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる 「転位のための十篇」(1953)(「全詩集」P75~P76) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.01
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フリーヌル・パルマソン「ゴッドランド GODLAND」シネリーブル神戸 見終えて、1カ月ほどたちました。覚えているのは「氷原」、「溶岩の流れ出す火口」、「馬」、「十字架」、「人々の無表情な顔」、そして「カメラ機材を担ぐ牧師」です。 舞台がアイスランドということで関心が湧きました。文字通り、地の果て、海の果ての世界です。サーガという言葉がありますが、北欧神話に出てくる女神の島です。なんとなく、そういう所を期待して見ましたが、ハズレのような、アタリのような印象を持ちました。 映画が始まって、まず、勘違いしていたことをなんとなく感じました。18世紀、カメラが実用化され始めた時代に、おそらく北欧カトリックだったこの島に、新しいプロテスタントの信仰を広めようとカメラを担いで渡って来た牧師 の話に神話なんてありえないということです。 カメラを担いだ若者が撮りたかったのはエキゾチックな風景と支配に従う人々のポートレイトでした。要するに能天気なのです。 彼には新たなる信仰の伝道とでもいうのでしょうか、敬虔な信仰があるとはとても見えません。宗主国の使いという、そこで暮らす人間には、エラそうなだけの存在であることには気づくことのできない、ただのカメラ小僧の好奇心があるだけのように見えました。 映画を見ていて、彼が、辺境の海岸から十字架を馬に担がせ、自らはカメラを担いで旅をして目的地の集落に到着したあたりで、実は島の中心地の目的地近くに港があることがわかります。 で、彼は、にもかかわらず、この「試練の旅」の旅程を選んでいたとわかったあたりから、おそらく、世界の辺境の地で、たとえば、極東の島国にオランダのプロテスタントがやって来たのは15世紀ころだったわけですが、そのころから幾度も繰り返されたにちがいない宗教的伝道者たちの試練の旅をなぞろうとしている人物なのではないかと予感のような思いが浮かびました。だから、カメラなのです。 18世紀末、カメラにうながされるように始まった、どうもインチキ臭い試練の旅の記録が数葉の古びた写真で残されていて。それを見た21世紀の映画監督は、おそらく、世界最初のカメラ小僧の一人だった、この若い牧師が「行って、見て、帰ってくる」はずの旅の中で、被写体に対する、ただの好奇心で撮って、偶然、残されたにすぎない数葉の写真の足跡を追えばが、本人が気付いていたかどうかはともかくも、サーガの地の「神話的世界」とそこでを生きる人間が浮かび上がってくる、そんなモチーフだったのではないでしょうか。 この映画の面白さは、多分そこからでした。カメラのレンズに神の威信を託した愚かな若い牧師は、哀しいことに現像液の消費とともに神の威力を失い、野ざらしの白骨となって朽ちて消えてゆきます。残された数葉写真が語る出来事はアイスランドの自然、あるいは「神話的世界」の歴史の小さなエピソードとして21世紀のカメラ小僧であるフリーヌル・パルマソン監督によって復元されますが、彼が映し出したのは開拓者として渡って来た人間たちや、彼らが持ち込んだ新来の宗教を越えたアイスランドそのもの! だったのではないでしょうか。 主人公の若い牧師が、おろかな現代人にしか見えなかったというのが、この作品の印象でした。新奇な科学技術や思想や宗教を寄せ付けない厳然たる世界がある! ということを感じた作品でした。監督・脚本 フリーヌル・パルマソン撮影 マリア・フォン・ハウスボルフ美術 フロスティ・フリズリクソン衣装 ニーナ・グロンランド編集 ユリウス・クレブス・ダムスボ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャストエリオット・クロセット・ホーブ(ルーカス)イングバール・E・シーグルズソン(ラグナル)ビクトリア・カルメン・ゾンネ(アンナ)ヤコブ・ローマン(カール)イーダ・メッキン・フリンスドッティル(イーダ)ワーゲ・サンド(ヴィンセント)ヒルマル・グズヨウンソン(通訳)2022年・143分・G・デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作原題「Vanskabte Land」2024・04・15・no059・シネリーブル神戸no238・SCCno21追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.23
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「目覚めたら、目の前に明石大橋!」 徘徊日記 2024年5月29日(水)舞子あたり 2024年の5月29日(水)の朝、まあ、生まれて初めての手術とかの体験から目覚めて、とはいっても、手術といっても何も覚えていないし、その後も、ほとんど起きているのか寝ているのかわからない一晩でしたが、何故かおしっこだけはくりかえししたくなって、これまた、生まれて初めて、看護師さんにおしっこをとっていただくという不思議な体験を繰り返しして、で、夜が明けて、三度目のおしっこで、もう、歩いて自分で行ってもいいの?はい、がんばって!とか、はげまされて、フラフラ、おしっこに行って、窓から見える快晴の明石大橋を見てホッとしました。 まあ、虫垂炎ごときで、なにを大げさなとお笑いでしょうが、70歳を目前にした初体験、なかなかな体験でした。 それにしても、この風景、なかなか、絶景でしたね。にほんブログ村
2024.05.29
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「三日で出所(笑)!」 徘徊日記 2024年5月30日(木)舞子あたり 虫垂炎の除去手術で、入院でしたが、実に物分かりのいい主治医さんで、「どうせ寝ているだけなら帰りたい!」 というと「じゃあ、帰りますか。ホントに寝てるんですよ!」 というわけで、三泊四日で出所! 病院前のバス停で黄色い花が咲いていてしみじみのぞき込みました。 出て来たばっかりの建物を振り返りながら、なにをしてるんだ?! ですが、肺活量、94歳程度! と診断されてドキドキしたことを、もう忘れていますね。 四日目の朝、5月30日の明石大橋。やっぱり絶景でしたが、さようなら(笑)ですね。通院はしばらく続くようですが、無事退院の報告でした。 皆さん、色々心配していただいてありがとうございました。追記 2024・06・02 上の黄色い花の名前ですが、同居人に尋ねると「金糸梅(きんしばい)」、ブログを読んでくれた年上のおばさんは「ビヨウヤナギ」、年下なのにボクを弟扱いして50年来のオネ~さんは「弟切草(オトギリソウ)」、みんな違うことをおっしゃるので調べたら、みなさん正解!(笑) みなさん、よくご存知ですね(笑)。にほんブログ村
2024.05.31
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村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。 さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にしてこれを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。一度、お読みになって見ませんか。同時代の作家と出会えるかもしれませんよ(笑)。(S)2017・12・20 こんな、今、自分で読み返しても論旨が分からないような作文を高校生に向かって書いていたことがあることが懐かしくて載せました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.20
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原泰久「キングダム 57巻」集英社 おなじみヤサイクンの4月のマンガ便です。お待ちかね「キングダム57巻」が届きました。2020年3月24日発売の最新刊ですね。秦対趙の、最終決戦、「朱海平原の戦い」15日目、いよいよ結末の日だと思うのですが、55巻から始まって、これで3巻目、決着はつくのでしょうか。 表紙の二人は「飛信隊」を率いる「信」と、その盟友、妖術まがいの剣の使い手、「羌瘣(きょうかい)」ですね。そうです、「朱海平原の戦い」最終日の戦いは一進一退、刻々と形勢を変化させながら、随所に見どころを生み出してゆく57巻ですが、最後は「羌瘣(きょうかい)」と「信」それぞれの必死の戦いがメインです。読みどころの一つ目は、形勢不利の中、最後に残った騎馬隊に秦軍の総大将王騎将軍の首を直接狙わせるという大胆不敵な突貫攻撃を命じた李牧の作戦で趙軍が盛り返すまでの展開です。 原泰久の絵は、誰が誰なのかよくわからなところが面倒ですが、戦場全体の展開の、俯瞰的な描写の面白さが際立っています。 二つ目は「飛信隊」の参謀河了貂(かりょうてん)の存在の重要性に気付いた趙軍の武将金毛と河了貂の戦いのシーン、これです。 勇将金毛の襲撃に河了貂は絶体絶命、さて、それを一撃で救うのは誰なのか。大きな流れに、小さなドラマをかみ合わせていくことで、物語にナイーヴな印象を施しているところが、実に面白い。まあ、ありがちな方法ですが。 三つ目は、突如現れた趙軍の怪物「龐煖(ほうけん)」と飛信隊の妖術剣士、「羌瘣」の一騎打ちです。果たして、美少女剣士は怪物相手のどんな戦いを演じたのでしょうか。 しかし、実際、羌瘣は大丈夫だったのか、ファンとしては気になるところですが、「信」に火をつけたことは間違いありません。 そして四つ目には「飛信隊」を率いる「信」が、いよいよ武神「龐煖(ほうけん)」と激突です。 緒戦では怪物「龐煖(ほうけん)」に叩きのめされる「信」ですが、死んでも、死んでも生き返る「飛信隊」です。さあ、勝負の行くへはと固唾をのんだところで、58巻をお楽しみにという結末でした。ヤレヤレ。 まあ、それにして次号では決着がつくのではないでしょうか。テレビアニメも始まるそうですが、ぼくは見ませんね。こんな、派手で分かりにくいシーンに音が入って、動き出したりしたら、ちょっとシラケるじゃないですか、ねえ。追記2020・04・05「キングダム」(55巻)・(56巻)の感想は、ここをクリックしてみてください。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.04.06
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和合亮一「春に」 春に 和合亮一 きみに 贈りたい風景がある ある建物の 階段の踊り場に 大きな窓があって 青い空に 雲が浮かんでいてよく晴れ渡っていて そこに立って いつも見とれるんだ でも この春の 窓の光景を じゃあ ないんだ しばらくして 忘れた頃に ゆっくりと 心に浮かんでくる 空 その はるか かなた その 先を きみに この詩は、福島で教員をしている詩人、和合亮一のツイート詩集(?)「詩の礫 起承転転」のおしまいの方にあった。和合亮一という人が、高校の国語の教員をしている人で、高校入試の合否判定中に、所謂、東日本大震災に被災したということを、何となく知っていた。 ぼくは、当日、その時刻、勤務していた高校の校長室にいた。トラブルを抱えた生徒たちについての進級要件について意見を具申していたさなか、事務室から声がかかって、校長がテレビをつけた。テレビの画面が揺れていた。神戸の地震を知っているぼくには他人ごととは思えなかったが、ただテレビの画面にくぎ付けにされるより他になすすべがなかったことを覚えている。 彼がこの詩をいつ書いたのかは知らない。この詩があることに気付いたのも、この詩集を読み返したつい最近のことだ。現場にいる頃に読んでいたら、毎年作られる卒業文集に、きっと引用していたと思う。三年間の出会いの後、必ず別れてしまう生徒たちに感じる、教員の寂しさを、ぼくはこの詩に感じた。 たぶん、詩はもっと遠くへ行ってしまった人に向けて書かれているとは思うのだが。追記2022・02・16 まだ冬の最中ですが、明るい日差しがベランダに差し込んでくる朝に、思わず青空を見上げました。 「今年も『春』がやってくる。」 季節が巡るのを感じるたびに、過去が湧きあがってくるのは年齢のせいでしょうか。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.08.11
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「絶景かな!絶景かな?」 徘徊日記 2018年10月26日 となり街 舞多聞あたり 神戸市の西の端ですが、垂水の街を山手に上ると、高丸、星陵台、舞子墓苑とあって、その北側を阪神高速が走っていて、垂水ゴルフ場、舞子ゴルフ場、神陵台の丘に囲まれた盆地状の地域の真ん中に多聞寺というお寺があります。 地域の西の端にそって山田川という、まあ、何の変哲もない川が南に向かって流れています。川といっても、ここ数年は、小川ふうのせせらぎになってきましたが、それ以前は子供の遊び場にもならない、生活排水で汚れた溝川でした。 10年ほど前でしょうか、いわゆるバブル崩壊の直後ころから、この地域の、一番北側にあった舞子ゴルフ場の跡地が宅地化され、「舞多聞」という新しい町が生まれました。 今まで、ゴルフ場で、中に入れるのはボールを転がす人たちだけだったわけですから、ゴルフなんてしたことのないゴジラ老人には、近場ながら、よく知らない、新しい見学エリアということになりますね(笑)。 というわけで、徘徊老人の出番です。じつは、この舞多聞エリアというのはかなり広いんです。で、とりあえず、山田川の上流から舞多聞中央公園に歩いて上がっていって、西北に向かって、ノッタラノッタラ歩きはじめました。 真新しい建物と、やたら子どもが多いことに、ちょっとビビり気味ですね。垂水の昔からの街は、まあ、どこもかしこも、老人の町ですからね。 「ここには、ヨウサン、チビがおるなあ。」 「なんで、ビビらなあかんねん。」 「そやけど、皆さん、エエ車に乗ってはりますな!」 意味不明の感想を一人でぶつくさ言いながら、阪神高速神戸線の出口の脇までやってきました。で、左折して、すぐに南に入る砂利道をしばらく歩くと、広い空き地に出ました。 崖になっていて、真下が、多聞台の北の端です。ずっとむこう、舞子墓苑の丘の右手に、明石海峡大橋の、ほぼ、全景が見渡せます。「わーっ、えらい絶景やないか。」 左に、だから東に視線を移すと、墓苑の丘の並びには星陵台の高校の北側の高層ビルが見えます。そこから手前が、わが街です。本多聞6丁目から3丁目、公団や、市営住宅の箱がずーっと並んでいます。 この町に40年近く住んでいながら、こういう絶景ポイントが、こんな所にあることは知らなかったですね。転がっていた大きめの石の上に腰かけてお茶を飲んで、一服です。 煙草に火をつけて、ぼーっとしていると、後ろのほうで、ガッチャン、ガッチャン、大きな音がします。振り返ると、パワーショベルとダンプが働いていました。 「ああ、ここも、新しい町になるんや。」 「ほんでも、ここは、ええなあ。時々来たろ。」 立ち上がって、南に歩くと長坂小学校の裏手に出ました。そこからから多聞台の方に降りて、もう一度坂を上って帰り着きました。「ジャンパーに、ヌスビトハギいっぱいよ。どこ行ってたの?」「ほんまや、子供のすることやな。うろうろして、ドロボーいっぱいつけて。舞多聞の向こうに空き地あんねん。けっこう広いねん。ええ景色やで。立ちションしても、叱られへんで。」「えーっ、トイレでしてよ!まあ、一緒やないからええけど。」 でもの、はれもの、徘徊の敵。年かなあ?トホホホ。2018/10/26ボタン押してね!
2019.12.09
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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100days100bookcovers no87 87日目ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集」(岸本佐知子訳 講談社文庫) 遅くなりました。SODEOKAさんが採り上げた川端康成『雪国』からどう接続したらいいのか、なかなか思いつかなかった。 こういう「古典」は大概読んでいないのだけれど、『雪国』は何かのきっかけで読んだ記憶は一応あった。あったけれど、駒子というヒロインと名前くらいしか覚えていなかった。 SODEOKAさんの紹介文で、物語のラストあたりは思い出したが、それももしかしたら映像で観た記憶と重なっているやもしれず、読書の記憶かどうかは判然としない。 どういう接続をしようかと考えていて、コメントに中に三島の名前が出てきたのを思い出した。検索してみたら、川端がノーベル文学賞を受賞した年に三島も候補に挙がっていたという話だった。三島は、仕事絡みで一部を読んだことを除けば、未だにまともに読んだことがない。学生のときに一学年上の先輩(DEGUTIさんですけど)に「国文科に来る男で三島を読んだことないとかいうのはおまえくらいや」と言われたのを覚えている。 いや、ほんとに文学には縁が、あまりというかほとんどなかったのだ。では何で国文科を選んだのかという話はここではしないが、ああそういえば、と思い出した。 三島の小説は読んでいないけれど、「三島」の名前が出てくる小説は近頃読んだ。『雪国』とは直接はまったく接点はないのだけれど、この際、ご容赦いただくとして。『掃除婦のための手引書 ――ルシア・ベルリン作品集』ルシア・ベルリン 岸本佐知子訳 講談社文庫 この文庫を読むきっかけになったのは、twitterで訳者の岸本佐知子のアカウントをフォローしている関係で、2019年7月にこの文庫の親本が出たときから情報をずっと得ていたことである。 今年3月に文庫になって、おもしろそうだなと改めて思って、久しぶりに文庫ながら新刊を買った。原題は"A Manual for Cleaning Women : Selected Stories by Lucia Berlin"。 「訳者あとがき」によれば、作家は1936年アラスカ生まれのアメリカ人で2004年没。生涯に76の短編を書いた。1977年に世に出た初めての作品集"A Manual for Cleaning Ladies"により、一部には名を知られる存在になったが、生前も死後も「知る人ぞ知る」作家だった。しかし2015年、全作品から43編を選んだ作品集"A Manual for Cleaning Women"が出版されて事態は変わる。その年の雑誌新聞の年間ベストテンリストのほぼすべてを席巻。 この邦訳版は、その2015年の作品集から24編を選んだもの。残りの19編は、今年4月『すべての月、すべての年』として出版された。 作家は、鉱山技師だった父親の関係で、幼少期はアイダホ、ケンタッキー、モンタナなどの鉱山町を転々とする。5歳のときに父親が第二次大戦に出征、母と妹とテキサスのエルパソにある母の実家に移り住む。歯科医の祖父は酒浸り、そして母も叔父もアルコール依存症。終戦後、父が戻ると、チリのサンチャゴに移住、18歳でニューメキシコ大学に進むまでチリで過ごす。エルパソの貧民街から召使い付きのお屋敷暮らしへ。 大学在学中に最初の結婚、2人の息子をもうけるがその後、離婚、58年にジャズピアニストと2度めの結婚、ニューヨークに住む。さらにジャズミュージシャンだった3番めの夫と61年からメキシコで暮らし、2人の息子を授かるが、夫の薬物中毒等により離婚。ベルリン姓は3番めの夫の姓とのこと。 71年からカリフォルニアのオークランドとバークレイで暮らし、学校教師、掃除婦、電話交換手、ER(救急救命室)看護助手等をこなしながら、4人の息子を育てる。このころから自らアルコール依存症に苦しむ。 小説は20代から書いていて、24歳でソール・ベロー主宰の雑誌ではじめて作品が活字になった。その後、文芸誌に断続的に作品を発表。85年には今回紹介する作品集所収の「わたしの騎手(ジョッキー)」がジャック・ロンドン短編賞を受賞。 90年代以降、アルコール依存症を克服後はサンフランシスコ郡務所等で創作を教えるようになり、94年にはコロラド大客員教授に。准教授にまでなるが、子供の頃から患っていた脊椎湾曲症の後遺症等が悪化、酸素ボンベが手放せなくなる。2000年大学をリタイア、2004年癌で死去。 と、バイオグラフィーを書き連ねたのは、作品がほぼすべて作家のこうした経歴や経験を基にしているからだ。 たしかに題材を採りたくなるような波乱に満ちた家庭環境や経歴、経験に思える。 素直に考えれば、そこに作家が創作上の「リアリティ」の源泉ないし支点を求めたということだ。あるいは、経験以上に「リアル」な物語を紡ぎ出すほど「器用」ではなかった。 小説は、短いものは2ページに満たないものから、長くても23ページほど。読んでみてわかる、この作家の最大の特質は、やはりその「表現」であり言葉の選び方だ。「訳者あとがき」で訳者が使う用語を使うなら「声」ということになる。多少曖昧な表現に変えるなら「文体」ということになるのかもしれない。ただ、原文は英語なので、訳者を通した上での「声」であり「文体」ということになる。 「強い」状況を「強い」言葉で表現しながら、そこにユーモアや得も言われぬ叙情性や詩情が浮かび上がる。散文が詩に変わるときがある。 自身のことを描いても、そこには自らや状況を突き放したような「透徹」で「リアル」な距離がある。これは出来事と、執筆された時間と場所に実際に「距離」があるということだけに由来するものではない、おそらく。 いくつか紹介する。(なお、まとまった引用は、>引用部分<で示す。) まずは、「三島」が登場する「わたしの騎手(ジョッキー)」。「わたし」はER(救急救命室)看護助手。>わたしがジョッキーを受け持つのはスペイン語が話せるからで、彼らはたいていがメキシコ人だ。はじめてのジョッキーはムニョスだった。まったく。人の服なんてしょっちゅう脱がしていうるからどうってことない。ものの数秒で済んでしまう。気を失って横たわるムニョスは、ミニチュアのアステカの神様みたいに見えた。乗馬服はひどく複雑で、まるで何かの込み入った儀式をしているようだった。あんまり時間がかかるので、めげそうになった。三ページもかかって女の人の着物を脱がせるミシマの小説みたいだ。(中略)長靴は馬糞と汗の匂いがしたけれど、柔らかくてきゃしゃで、シンデレラの履きもののようだった。彼は魔法をかけられた王子様みたいにすやすや眠っていた。 眠ったまま、彼はお母さんを呼びはじめた。患者に手を握られることはたまにあるけれで、そんなもんじゃない、わたしの首っ玉にしがみついて、泣きながら「ママシータ! ママシータ!」。そのままではジョンソン先生が診察できないので、わたしはずっと赤ちゃんみたいに抱っこしてた。子供みたいに小さいのに、力が強くて筋肉質だった。膝の上の大人の男。これは夢の男、それとも夢の赤ん坊?< 比喩が少なくない。この作品集全体に言えることだが、特にこの掌編はそういう傾向がある。しかし「ジョッキー」という存在が、初めて見て触れるものみたいに描かれた作品には、新鮮な驚きと慈しみが感じられる。 そして、作品集中最も短い「マカダム」。>まだ濡れているときはキャビアそっくりで、踏むとガラスのかけらみたいな、だれかが氷をかじってるみたいな音がする。 わたしもよくレモネードを飲みおわったあとの氷をガリガリかじる。ポーチのスイングチェアで、お祖母ちゃんとふたり揺られながら。わたしたちは鎖につながれた囚人たちが、アプソン通りを舗装するのをポーチから眺めていた。親方がマカダムを地面に流すと、囚人たちはどすどすと重いリズミカルな足音をたててそれを踏みかためた。鎖が鳴る。マカダムはおおぜいの人が拍手するみたいな音をたてた。(中略) わたしもよく声に出して、マカダム、とこっそり言ってみた。なんだかお友だちの名前みたいな気がしたから。< おそらくは子供の頃に転々として住む場所を変えていたことや家庭環境に関わりがあるのだろう、孤独な子供の肖像が静かに描き出される。 ちなみにこの「マカダム」、調べてみると実際に人の名前だったことがわかった。ジョン・ライドン・マカダム。作家はそれを知っていたのだろうか。 歯科医の祖父のことを書いた「ドクターH.A.モイニハン」では、歯科医の祖父が、自身の歯を総入れ歯にするために、「新しい連中」のやり方によって、前もって型を取って作った義歯を入れるために歯を抜くという「ホラー」が描かれる。 ウイスキーを飲みながら、祖父が自分の歯をペンチで抜き始める。(おそらく)小学生の「わたし」にも手伝わせる。>祖父はわたしの頭ごしにウイスキーの瓶をつかみ、らっぱ飲みし、べつの道具をトレイから取った。そして残りの下の歯を鏡なしで抜きはじめた。木の根をめりめり裂くような音だった。冬に地面から木を力ずくでひっこぬくような。血がトレイにしたたり落ちた。わたしがしゃがんでいる金属の台にも、ぽた、ぽた、ぽた。 祖父が馬鹿みたいに笑い出し、ああついに頭が変になったと思った。< それから、祖父はわたしに「抜けえ!」と言う。祖父はやがて気を失う。>わたしはその口を開けて片方の端をペーパータオルを押し込み、残りの奥歯三本を抜きにかかった。 歯はぜんぶ抜けた。ペダルを踏んで椅子を下げようとして、まちがってレバーを押してしまい、祖父はぐるぐる回転しながら血をあたりの床にふりまいた。そのままにしておくと、椅子はきしみながらゆっくり停まった。ティーバッグが必要だった。祖父はいつも患者にティーバッグを噛ませて止血していた。(中略) 口に入れたタオルは真っ赤に濡れていた。それを床に捨て、口に中にティーバッグをひとつかみ入れて顎を閉じさせた。ひっと声が出た。歯がなくなった祖父の顔はガイコツそっくりだった。毒々しい血まみれの首の上の白い骨。おそろしい化け物、黄色と黒のリプトンのタグをパレードの飾りみたいにぶらさげた生きたティーポット。< この、「臨場感」というか、感覚的に迫ってくる感じは恐ろしいほど。にもかかわらずユーモアも漂う。 そして表題作「掃除婦のための手引書」。 路線バスの番号別に、それぞれの家に赴く一人の掃除婦の独白の形式。所々で、ターと呼ばれる死んでしまった夫ないしボーイフレンドのことが語られる。>ある夜、テレグラフ通りの家で、ターが寝ていたわたしの手にクアーズのプルタブを握らせた。目を覚ますと、ターはわたしを見下ろして笑っていた。ター、テリー、ネブラスカ生まれの若いカウボーイ。彼は外国の映画を観にいくのをいやがった。字を読むのが遅いのだと、あるとき気がついた。 ごくたまに本を読むとき、ターはページを一枚ずつ破って捨てた。わたしが外から帰ってくると、いつも開けっぱなしだったり割れていたりする窓からの風で、ページがセーフウェイの駐車場の鳩みたいに部屋中を舞っていた。<>ターは絶対にバスに乗らなかった。乗ってる連中を見ると気が滅入ると言って。でもグレイハウンドの停車場は好きだった。よく二人でサンフランシスコやオークランドの停車場に出かけて行った。いちばん通ったのはオークランドのサンパブロ通りだった。サンパブロ通りに似ているからお前が好きだよと、前にターに言われたことがある。 ターはバークレーのゴミ捨て場に似ていた。あのゴミ捨て場に行くバスがあればいいのに。ニューメキシコが恋しくなると、二人でよくあそこに行った。殺風景で吹きっさらしで、カモメが砂漠のヨタカみたいに舞っている。どっちを向いても、上を見ても、空がある。ゴミのトラックがもうもうと土埃をあげてごとごと過ぎる。灰色の恐竜だ。 ター、あんたが死んでるなんて、耐えられない。< 好きだった男を「ゴミ捨て場」に喩える例はたぶん他に知らない。しかも、その後を読むと、彼女の感じるターの魅力が伝わってくる。 さらに、いろんな意味で作家に大きな影響を与えたと思しき母親を書いた「ママ」は、メキシコシティで暮らす、末期ガンの妹サリーとの会話を中心にしている。>母は変なことを考える人だった。人間の膝が逆向きに曲がったら、椅子ってどんな形になるのかしら。もし、イエス・キリストが電気椅子にかけられたら?そしたらみんな、十字架のかわりに椅子を鎖で首から下げて歩きまわるんでしょうね。「あたしママに言われたことがある。『とにかくこれ以上人間を増やすのだけはやめてちょうだい』って。」とサリーは言った。「それに、もしあんたが、馬鹿でどうしても結婚するっていうなら、せめて金持ちであんたにぞっこんな男になさいって。『まちがっても愛情で結婚してはだめ。男を愛したりしたら、その人といつもいっしょにいたくなる。喜ばせたり、あれこれしてあげたくなる。そして「どこに行ってたの?」とか「いま何を考えてるの?」とか「あたしのこと愛してる?」とか訊くようになる。しまいに男はあんたを殴りだす。でなきゃタバコを買いに行くと言って、それきり戻ってこない』」「ママは"愛"って言葉が大嫌いだった。ふつうの人が"淫売"って言うみたいにその言葉を言ってたわ」「子供も大嫌いだった。うちの子たちがまだ小っちゃかったころ、四人とも連れてママと空港で会ったことがあるの。そしたらあの人『こっちに来させないで!』だって。ドーベルマンの群れかなんかみたいに」<>「愛は人を不幸にする」と母は言っていた。「愛のせいで人は枕を濡らして泣きながら寝たり、涙で電話ボックスのガラスを曇らせたり、泣き声につられて犬が遠吠えしたり、タバコをたてつづけに二箱吸ったりするのよ」「パパもママを不幸にしたの?」わたしは母に訊いた。「パパ?あの人は誰ひとり不幸にできなかったわ」< いや、この部分がどの程度「事実」に基づいているか、あるいは内容の「妥当性」はいかほどかを別にして、この「切れ味」は相当なものだ。 これが作家の実際の母親の発言に近いとしたら、この母にしてこの作家というところは確かにある。訳者の作家を評する言葉を借りれば「冷徹な洞察力と深い教養と、がらっぱちな、けつをまくったような太さが隣り合わせている」。 他に、アルコール依存症の自身を題材にとった「最初のデトックス」「どうにもならない」「ステップ」では、「悲惨」な状況をしかし淡々と描くことによってかえって日常の切迫感が浮き彫りになり、サンフランシスコ群刑務所で創作を教えた経験に基づいた「さあ土曜日だ」では、一人称を服役囚にして、自らが経験した「先生」も登場させるのだが、悲しいラストも含めて「小説」としてとりわけ印象に残る。 あるいは、三番めの夫との出会いと別れが回想される「ソー・ロング」も、わずか15ページほどで過去と現在が映像的なイメージで見事に交錯する。 もしかしたら、映像喚起的というのもこの作家の特質の一つかもしれない。作家には、「大丈夫」ではない自身やその周囲を観察し、想起し、認知する視線がいつもある。感情的にも不安定で愚かしい行動に走る自身をそして周囲を、肯定するのではなく「自覚」し「認知」している。 繊細で鮮やかな描写も、そこから始まる。だからどんなに苛烈な場面や物語でも、どこかに「優しさ」に似たものを感じる。 最後に翻訳について。原文の英語がわからないし、わかったとして翻訳の良し悪しを判断する力量などないので単なる印象になってしまうが、岸本佐知子の翻訳はすばらしいと思う。では、DEGUTIさん、次回、お願いいたします。T・KOBAYASI・2022・06・30追記2024・05・16 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2023.01.20
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ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン「シド・バレット 独りぼっちの狂気」シネリーブル神戸 多分というか、おそらくというか、まあ、思い込みだけですがというか、1970年に高校1年生だった、ボクくらいの年齢の人で、1974年に大学生になって、初めて自分の小遣いで買ったロックのLPレコードがピンクフロイドの「おせっかい」で、その次に買ったのが「原子心母」だったというような始まりがあって、6畳一間の学生アパートでヘッドホンで繰り返し聞きながら田舎ものから脱皮しようとあがいたような20歳だったような人というのはそんなにいないんじゃないでしょうかね。 だって、ポスト・ビートルズのあの時代 に、同じロックというなら、すでに伝説だったジミ・ヘンや、ジャニス・ジョップリン、やたらにかっこよかったクリームや、ツェッペリン、ジム・モリソンが亡くなって伝説化しつつあったドアーズならまだしも、「エコーズって知ってる?」 とか、あんまり一般的じゃなかった気がしますね(笑)。大学とかの同級生とかにも、まあ、そんな話をした覚えもありませんし。 その後、音楽に対する好みがどう変わっていったかなんていう話は、まあ、今日はどうでもよくて、あの、半年ほどの音の記憶にはピンクフロイドがどっかと座り込んでいて、こう書きながら、久しぶりにヘッドフォンから「原子心母」の出だしの砲声、オートバイの爆音、そして、あのメロディーが流れてくるのを聞いていると、チョット、いても立ってもいられないような気分になりますね。 シネリーブルでは、同時に坂本龍一とかジョン・レノンの映画もやっていたのですが、ボクは、やっぱり、ピンクフロイドの伝説の人、シド・バレット からですね。 で、見たのは「シド・バレット 独りぼっちの狂気」、シド・バレットの映っている古いフィルムを集めて、その頃のみんなが語っているというドキュメンタリーでした。さて、感想は、というわけですが、実は、上に書いた「おせっかい」や「原子心母」の頃には彼はもう、バンドにはいませんからね。だから、よく知らなかったんですよね。でも、映画の中で、彼のことを語っているのが、その頃のメンバーなのです。なんか、ちっともエラそうじゃないおじいさんになっているロジャー・ウォーターズやデビッド・ギルモアを見ていて、シミジミしちゃいましたね。もう、それで十分でした。 まあ、それにしても、神戸が都会なのか田舎なのか、ここで50年暮らしてきましたが、田舎者脱皮作戦はうまくいったわけではなさそうですね(笑)。監督ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン音楽 シド・バレット ピンク・フロイドナレーション ジェイソン・アイザックスキャストロジャー・ウォーターズデビッド・ギルモアニック・メイスンピート・タウンゼントグレアム・コクソンミック・ロックダギー・フィールズノエル・フィールディングトム・ストッパードアンドリュー・バンウィンガーデン2023年・94分・PG12・イギリス原題「Have You Got It Yet? The Story of Syd Barrett and Pink Floyd」2024・05・24・no071・シネリーブル神戸no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.27
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100days100bookcovers no81(81日目)フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(高杉一郎訳・岩波書店) ステイホームの中での楽しめる暇つぶし、ということで始まったブックリレーですが、ふと気づいたら81回目、足かけ3年になりました。最近は映画ばかりであまり本を読まなくなっているのですが、このリレーで紹介されて興味を持った本を読んだり、書くために再読したりすることで、いろいろな出会いや発見がありました。 前回YAMAMOTOさんが紹介して下さった宮本常一の『辺境を歩いた人々』も、とても面白く読みました。もともと「辺境」に興味があったので、「辺境に興味を持って歩く人」に対しても大いなる興味や共感が生まれました。本書の中で紹介されていた松浦武四郎という人が、江戸時代末期に北海道からその北方の国後方面までを歩いたという項を読んで、北方領土の現在の姿を知りたくなったところ、ちょうど渋谷で『クナシリ』というドキュメンタリー映画がかかっていたので、それも観に行きました。この映画については別に書こうかと思っていますが、旧ソ連出身のフランス人監督の目から見たクナシリの現状が描かれていて、なかなか興味深い映画でした。 さて、次の本は、「冒険」というキーワードで繋ぎたいと思います。 『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作、高杉一郎訳、岩波書店)。 この本を初めて読んだのは小学校5年生のときです。奥付は1967年。初版です。盲腸で1週間ほど入院したとき、ご近所のお宅のおばさん(たぶんまだ30歳前後だったと思いますが、結婚してお子さんもおられたのでおねえさんとは言いがたく、私から見たらおばさんでした)が、お見舞いに持って来て下さいました。今になってみると、よくぞ、と思います。なぜなら、自分の嗜好をはっきりと自覚させてくれ、それ以後の読書人生を左右するほど影響を受けた作品になったからです。この本は、今に至るまでずっと手元に持ち続けています。 作者のフィリパ・ピアスは1920年生まれ。イギリスのケンブリッジ近郊で生まれ育った児童文学作家です。この物語は私が生まれた年、1958年に書かれています。 主人公のトムは、弟のピーターが麻疹にかかったために、せっかくの夏休みを親戚の叔父さん、叔母さんの家で過ごすことになってしまいます。そのアパートは街中のごちゃごちゃしたところにあって、遊ぶところも友だちもなく、顔をつきあわすのは叔父さんと叔母さんだけというつまらない毎日に、トムはすっかり気落ちしていました。 なかなか寝付けないある夜、トムはアパートのホールにある大時計が13回鳴ったのを聞きます。「13時ということは1時間余っていて、その1時間を自分は自由に使うことができるんだよね」という、子どもらしい無邪気な論理に導かれたトムは、部屋を出てアパートの裏玄関を開きました。するとそこには、昼間とは全く違う、みごとな庭園が広がっていたのです。 「タイムリープ」ものが好きな読者なら、これだけでほぼ想像できると思います。のちのち分かってきますが、ここは60年ほど前、19世紀末にこの場所に実在していた庭でした。トムはここで3人の少年たちや怒ってばかりの怖い女主人、純朴な庭師や召使いの人たちと何度もすれ違うのですが、彼の姿はこの世界の人々の目には見えません。ただひとり、ハティという少女だけにはトムが見えていました。年頃が近いふたりは友だちになり、広い庭園やその外にある果樹園で、いろいろな冒険を重ねながら親しくなっていきます。建物に戻って玄関を閉めると、たちまち今の時代に戻ってしまうことを発見したトムは、人々の服装やそのころイギリスを治めていたのが女王だったという情報などを手がかりに、ハティの生きている時代を調べ始めるのでした。 トムは好奇心の強い子どもで、自分の身に起こっていることを子どもなりに分析してゆくのですが、このトムの造型に、私は、フィリパ・ピアスのひとつの「思い」を感じます。つまり、子どもに言い聞かせたり教えたりするのではなくて、子どもと同じ地平に立ち、「この不思議な話に興味を持って、理解してくれる読者(=子ども)は必ずいる」と思う信頼感です。 物語の進め方は平坦ではなく、緻密に構成されています。庭園の時間がトムを置き去りにしてどんどん過ぎてゆくさまも不自然ではなく、ディテールも丁寧に描かれています。そしてもうひとつ、この物語は決して現実を否定しません。トムはハティとの冒険を弟のピーターにたびたび手紙で報告し、秘密を共有します。そして、みごとなラストシーンがあるのですが、そこでトムの体験をまるごと肯定するのは、人生経験を重ねてきた現実世界のひとりの大人なのです。現実と非現実、大人と子ども、といったような二項対立ではなく、それらはいつも地続きで、ひとりの人間の中に両方が存在してもいいんだということ、それは豊かなことなのだということをごく自然に書き記してあるこの物語に、小学生だった私は、心の底から勇気づけられたのだと思います。 ディテールや風景の描写はとてもリアルで、月並みな言い方ですが、トムと一緒に冒険をしている気分になります。作者が経験したことのないはずのこと、例えば、閉まっている扉を通り抜けるシーンなど、「ああ、こういう感じなんだ」と納得しそうになりますし、イギリスを大寒波が襲った19世紀末のある年、すっかり凍ってしまったキャム川を、スケート靴を履いて、ハティと一緒に出先から滑って帰宅する場面も、白い息が見えるほどリアルに目の前に浮かびます。スーザン・アインツィヒによる挿絵も、想像をかき立ててくれます。 この物語が今でも日本で出版されているかどうかふと心配になり、検索してみましたら、岩波少年文庫の1冊として版を重ねていることが分かりました。タイムトラベルものが巷に溢れている時代に生まれ、幼い頃からゲームに慣れ親しんだ現代の子どもたちが、この古典的な物語にどのくらい興味を覚えてくれるか、わたしには予想もできませんが、書店や図書館で出会い、もしかしたら人生の1冊になるかもしれないひとりの子どものために、この本が、いつでも、いつまでも、すぐに読むことのできる場所に存在していて欲しいと願います。 KOBAYASIさん、長くお待たせしました。次をよろしくお願い致します。(K・SODEOKA・2022・02・10)追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.09.07
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永井荷風「濹東奇譚」(新潮文庫) 今日の「読書案内」は永井荷風「濹東奇譚」(新潮文庫)です。上の写真ですが、表紙が汚れていますね(笑)。昭和57年、1982年に48刷の新潮文庫です。タバコを平気で吸い続けている部屋の書棚に40年以上も立っていた文庫です。背表紙は、もっと悲惨です。永井荷風なんか、もう読まない! と思いこんでいたのですが、長年続けている本読み会の課題になって読み直しました。 永井荷風といえばですが、最近の大学の国文科(そんな学科名はもうないかも?)だか、日本文学科だかの学生さんで、永井荷風を、ながいにふうと読む方がいらっしゃるということで、ときどき行く古本屋のおやじさんが嘆いているのを耳にして笑ったことがありますが、さもありなんですね(笑)。 芥川龍之介とか夏目漱石の名前は高校の教科書あたりで、まだ目にするかもしれませんが、永井荷風なんて、間違っても高校生には読ませられないわけで、「図書館戦争」のシリーズとかが大好きだから「日本文学科」に、まあ、とりあえず進学した学生さんが、近代文学の教授が配るプリントに、読み仮名もつけずに内田百閒とか永井荷風の名前が並んでいても読める道理がありませんね(笑)。 ところで、みなさんは「百閒」とか「荷風」という雅号の由来はご存知でしょうかね(笑)。何だか、学校の先生ふうになってきましたが(笑)。 内田百閒の百閒は作家の故郷の川の名前らしいですね。で、荷風は、少し難しくて、素直な女子大生さんが「に」とよんだ「荷」という漢字ですが、荷風という雅号の場合には、漢和の辞書をお引きになると出てきますが、「蓮」の花のことらしいですね。蓮の花に吹き寄せる風 というようなニュアンスのようですね。で、まあ、「蓮」って? なのですね(笑)。彼が、この雅号を名乗ったのは学生時代のことのようですが、雅号の向うに人影があるようで、栴檀は双葉より芳し というわけのようですよ(笑)。 で、「濹東奇譚」(新潮文庫)です。荷風は1879年、明治12年の12月3日生まれで、この作品は1937年、昭和12年に朝日新聞に連載した作品ですね。 作中に、主人公がラジオの放送の音を嫌がる描写がありますが、盧溝橋事件の年、中日戦争だか日中戦争だか知りませんが、戦争の始まった年です。 永井荷風とは、何の関係もありませんが、相撲は双葉山で、野球は沢村、スタルヒン、なんと、だめトラ・タイガースが初めて優勝した年ですね(笑)。 覚えやすいでしょ(笑)。 まあ、そういう時代というか、社会に向けて 濹東と記せば、何となく高尚なニュアンスですが、要するに、東京は向島の私娼窟をふらつく老年にさしかかった小説家の徘徊日記(笑)とでも呼べそうな作品ですが、これがスゴイんですね。 何がどうすごいのかというようなことは、幾多の批評家の皆さんがすでにおっしゃっているわけで、その口マネをしても仕方がないので言いませんが、二度と手に取ることはないだろうと思っていたこの作品を、この度、読み直す機会があって、感心したのはこういう場面でした。「一体、どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと、なんだか妙に淋しいものよ。」「でも雪ちゃんは相変わらずいそがしいんだろう。」「暑いうちは知れたものよ。いくらいそがしいたって。」「今年はいつまでも、ほんとに暑いな。」と云った時お雪は「鳥渡(ちょいと)しずかに。」と云いながらわたくしの額にとまった蚊を掌でおさえた。家の内の蚊は前より一層多くなったようで、人を刺す其針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな。」と云って其紙を見せて円める。「この蚊がいなくなれば年の暮れだろう。」「そう。去年はお酉様の時分にはまだいたかも知れない。」「やっぱり反保か。」ときいたが、時代が違っている事にきがついて、「この辺でも吉原の裏へ行くのか。」「ええ。」と云いながらお雪はチリンチリンとなる鈴の音を聞きつけ、立って窓口へ出た。「兼ちゃん。ここだよ。何ボヤボヤしているのさ。氷白玉二つ・・・・・それから、ついでに蚊遣香を買って来ておくれ。いい児だ。」(P69) 主人公が、散歩と称して通っている、川向うの街、玉ノ井で暮らしている女性「お雪」との会話です。いかがでしょう、この場面!。 実は、この日をかぎりに訪ねることをやめた「お雪」という女性との回想シーンなのですが、なんというか、小津映画の会話シーンが浮かぶような・・・・。 お雪はあの土地の女に似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。鶏群の一鶴であった。然し昔と今は時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せることもあるまい…。 後日、お雪が病に倒れたらしいという噂を耳にした主人公はこんなふうに記し、残る蚊に額さされしわが血汐 という、一句で始まる詩のようなもので作品は締めくくられるのですが、ボクにとっての発見は、引用個所をはじめとした会話シーンの、しみじみとした見事さ! でした。 戦災で偏奇館と名付けられた住まいも、蔵書も喪い、この作品が最後の傑作と呼ばれる永井荷風なのですが、実は亡くなったのは 1959年、昭和34年で、80歳まで生きたのですね。 教科書には乗らない作品ですが、若い人がお読みになってどんなふうに感じられるのかちょっと興味がありますね。図書館戦争がお好きな方には、ここには引用していませんが、地の文が難しすぎるかもしれませんね(笑)。 余談ですが永井荷風を読みながら思い出したのが滝田ゆうという漫画家の「寺島町奇譚」(ちくま文庫)でした。東京あたりの方はともかく、われわれには玉ノ井とか言われてもまったくわかりません。で、そちらが故郷の滝田ゆうです。書名をクリックしていただければ、最近書いた「マンガ便」に行けると思います。じゃあ、よろしくね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.25
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橋本治「桃尻語訳 枕草子(上・中・下)」(河出文庫) 高校の古典の授業で「枕草子」をお読みになりましたね。教員の立場から申し上げますと、高校生の古典との出会いというのは「説話集」があって、「徒然草」とか「方丈記」、女もしてみんと偽った「土佐日記」、そこから「枕草子」とやってきます。 で、宮廷生活のものおもいを描く「枕草子」まで来ると、この国の文化の一つの核心に触れつつあると感じてほしいのですが、そんな時代の社会や制度について何も知らないし、知らないことに何の抵抗もない、もちろん、関心なんてはなからないという無知で無恥なのが高校生というものだというのは、今に始まったことではありませんね。 で、当然、眠くて退屈な時間が、向こうの方を通り過ぎてゆくということになります。マア、自分自身もそういう高校生だったから人のことは言えません。 教員も教員なんですね、品詞分解とかで押しまくり、果ては「助動詞活用ソング」などという意味不明の歌を歌わせる方までいて、ノンビリ寝てもいられない。 しかし、考えようによれば、このあたりで「なるほどそうか」と、興味が持てれば、この国の古典文学とか、古典文化の「面白さ」のほうにすすんでいける所にやってきているともいえるわけです。 優等生で頑張りたい人は図書館にある岩波書店の「古典文学大系」とか新潮社の「古典文学集成」とかを参考書になさるのがよろしいでしょうね。ただ、寝るのを趣味にしている高校生を起こすには、少々難しすぎるかもしれません。図書館の棚の前で寝てしまうかもしれません。 そこで案内するのが橋本治ですね。「桃尻語訳 枕草子(上・中・下)」(河出文庫)。今では文庫で読めますが、単行本の初版が1987年です。今から30年も前に出た本なのですが、今でも河出文庫ではロングセラーを続けているようですね。 要するに「枕草子」の現代語訳です。ただし、その訳語が80年代当時、その辺にいたかもしれない、10代後半の少女言葉。それが桃尻語訳と名づけられているのは橋本治のデビュー小説「桃尻娘」(講談社文庫)-最近(?)ポプラ社文庫から文庫版が復刊されているようです-の主人公、高校生榊原レナちゃんの、小説中のニックネームが桃尻娘です。彼女のしゃべり言葉で現代語訳されているというので、桃尻語訳というわけなんですね。マア、小説の方は、語り始めると長くなりそうなで、ともかくとして、こっちの方は例えばこんな感じです。 春って曙よ!段々白くなっていく山の上のほうが少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!夏は夜よね。月の頃はモチロン!闇夜もね・・・。蛍が一杯飛びかってるの。あと、ホントに一つか二つなんかが、ぼんやりポーッと光ってくのも素敵。雨なんか降るのも素敵ね。 書き写していて、笑ってしまいますが、お分かりですね。なんか真面目でないような感じがするでしょ。 この本が初めて出た当時、学者さんからは評判が好くなかったらしいですよ。お馬鹿な少女言葉の使用は、社会学的アプローチとして考えると、かなり高度な言語理解の上に成り立っていると思うのですが、それが古典文学を汚すかのように考えたのが、まじめな国文学者も方たちだったのかもしれませんね。 お読みになればお分かりいただけるかもしれませんが、実はこの訳文、イイカゲンそうに見えて文法的、語彙的にはキチンと抑えられていて、受験古文的な一対一対応にはどうかという面も、あるにはあるのですが、古典理解としてはかなり、いやおおいに信用できると思います。 なんといっても、このお気楽な訳文は、岩波の全集にはない「面白さ」を漂わせています。それがまず第一のおすすめポイントですね。 二つ目のポイントということですが、この本の素晴らしさは注釈・解説にあるというのがぼくの、ちょっと偉そうですが、評価ですね。例えば「殿上人」の解説はこういうふうです。 まァさ、宮中にね「清涼殿」ていうのがあるのよ。帝が普段いらっしゃるところでさ、いってみれば「御殿の中の御殿」よね。広い所でさ、ここに「殿上の間」っていうのがあるの。ここに上がるのを許されることを「昇殿」て言ってさ、それが許された人達のことを「殿上人」って言うのね。「殿上の間の人達」だから殿上人よ。これになれるのが、位が五位から上の人、そしてあと六位でも「蔵人」っていう官職についている人ならいいの。だから殿上人っていうのはエリートでさ、言ってみれば本物の貴族の証明ね。 そしてその次に来るのが「上(かん)達(だち)部(め)」。「上達部」って、見れば分かるでしょ?「上の人達」なのよ。殿上人は五位以上だけれども、その中で更に三位以上の位の人たちを上達部って言うのね。メンドクサイかもしれないけど、こんなもんどうせすぐに慣れますから、あたしは全然気にしません。なにしろ上達部は偉いんだから!三位以上の位の人たちがどういう官職についているかっていうとね、これがすごいの。関白ね、大臣ね。大納言、中納言、それから、多分これは「上院議員」とかっていうようなポストになるんじゃないかと思うんだけどね、参議―あ、あなたたちの「参議院」ってこっちから来てるんでしょ?以上の方達をひっくるめて「上達部」とお呼びするのよ。日本の貴族のことをさ、お公家さんとか公卿って言うでしょ?その公卿が実に上達部のことなんだなァ。貴族の中の貴族というか、エグゼクティブで上層部だから上達部なのよ。分かるでしょ?覚えといてね。 とまあ、こんな調子ですね。こういうことが、面白がって、いったん頭に入ってしまうと、文法とかも、さほど気に気にならなくなるはずなんだと思うのですが、どうして教員は文法に走るんでしょうね。 この本では、こういう口調の、柔らか解説が、身分や制度だけではなくて、当時の宮中での日常生活の描写に表れる、あらゆる事象に及んでいるんですね。服装、食事、調度、エトセトラ。 ただね、詳しすぎて、少々くどいんです。橋本治さんの性格なんでしょうね、きっと。調べ始めたらやめられない人っているでしょ。だから、真面目に読んでいるとくたびれる。そこが玉にキズかな。(S)発行日 2010/09/14追記2019・10・19 以前、高校生に向けて「案内」したもののリニューアルなんですが、こうして記事にしてみると誰に向かって書いているのかわからないですね。そこが、ちょっと困っているところです。 橋本治さんの「古典」ものには「案内」したいものが山ほどあります。でも、読みなおすのも、案外疲れるんですよね。追記2022・02・01 最近「失われた近代を求めて」(朝日選書)を読み直しています。二葉亭四迷にはじまる、この国の近代文学を論じた(?)評論ですが、言文一致を橋本治がどう考えていたかというあたりで、ここに案内している「桃尻語訳 枕草子(上・中・下)」が書かれた意図のようなものが、ボンヤリ浮かんできてとてもスリリングな読書になっています。 まあ、ぼく自身が高校生にこの本を紹介していたころの薄っぺらさに、ちょっと気付くところもあって、それはまた「失われた近代を求めて」の感想で触れるのでしょうが、実は松岡正剛が「日本文化の核心」(現代新書)で紀貫之の「土佐日記」から「枕草子」をはじめとする宮廷女性たちのかな日記に至る「仮名」表現の意味を論じているところがあって、それも相まってちょっとドキドキしていますが、今のところうまく言えないので、また今度という感じなのです(笑) それにしても「桃尻訳」は1988年、30代の終わりの橋本治の作品ですが、後の「源氏物語」、「平家物語」へのとば口にある仕事でもあるわけで、面白いですね。ボタン押してね!にほんブログ村桃尻語訳枕草子(上) (河出文庫) [ 橋本治 ]
2019.10.20
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村上春樹「村上春樹 翻訳 ほとんど全仕事」(中央公論新社) 今日は、2017年に出された「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)の案内です。目次まえがき翻訳作品クロニクル一九八一 - 二〇一七対談 村上春樹×柴田元幸 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈前編〉サヴォイでストンプ オーティス・ファーガソン 村上春樹訳 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈後編〉寄稿 都甲幸治 教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランド 村上春樹の翻訳 作家村上春樹の翻訳に関する、まあ、彼自身が語っている著書は、柴田元幸と語り合っている本はもちろんのことですがたくさんあります。 で、この本でも、柴田との対談がメインディッシュなわけですが、その前に、村上春樹の翻訳した仕事がすべて、多分、二〇一七年の時点で、お仕事を振り返ってというコンセプトなのでしょうね、その本の写真に村上自身のエッセイが添えられているところがミソで、結構、楽しめます。 たとえば、彼が訳したサリンジャーの「キャッチャー」とオブライエンの「世界のすべての7月」のページはこんな感じです。 キャッチャーの思い出の中で、「僕としては正直な話、表現はあまりよくないかもしれないが、猫さんの首に鈴をかけるネズミくんのような心境だった。そして予想どおりというか、あるいは予想を超えてというか、最初のうちは厳しいことをいろいろ言われた。」 と振り返っていたりするのが、興味を引きますね。 今でも、村上訳の「キャッチャー」が、サリンジャーの原作の、あるいは野崎孝の初訳の「ライ麦畑」という翻訳の、小説家村上春樹による歪曲のような言われ方を耳にすることがありますが、まあ、そのあたりについて村上自身の耳に何が聞こえてきて、彼がどう考えたのかあたりは、20年前の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)あたりでしゃべっているかもしれませんが、ボクは、彼の翻訳態度というのは、作家としても真摯だ というふうに感じていて、翻訳作業において、原作のハルキ化、いってしまえば歪曲が起こっているというふうには考えたことがないので、まあ、なんともいえませんね。 で、柴田元幸との対談はというと、今までに書籍化されているものに比べて、10年以上も新しいというところがポイントですね。お二人とも、以前のお二人では、もうないのです。まあ、「翻訳夜話1・2」(文春新書)あたりで、耳にした話が繰り返されているわけですから、語り口のどこかしらに、時間が過ぎたことを、ボクは感じました。 もう一つ、本書で、おもしろかったのは都甲幸治の「ハルキ論」ともいうべき、教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランドという短いエッセイでしたね。 彼(村上)の語る国家の論理との戦いは、翻訳する作品を選定するうえでも大きな役割を果たしている。なぜなら、その多くで戦争が扱われているからだ。国家は必要とあらば個人をたやすく殺し得る。その極限の形が戦争だ。オブライエン「本当の戦争の話をしよう」所収の「レイニー川」の青年は、ベトナム戦争は間違っているとわかっていながら兵役を拒否できない。フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の主人公は第一次大戦帰りで、ときどき人を殺したことがありそうな目をする。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を書いたサリンジャーは第二次大戦で数々の激戦に参加した。そして彼らの作品と、国家や宗教教団について考える村上春樹は地続きだ。(P195~196)都甲幸治 そうか、そういう経路で考えるのか、と、まあ、そういう感じでしたが、村上春樹という作家の不幸は、加藤典洋亡き後、彼を正面から論じる批評家がいないことだとボクは思っていますが、ないものねだりなのでしょうかね(笑)。 掲載されている翻訳の書籍がカラー写真だということもあって、オシャレな本ですが、なかなか読みでもありましたよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.25
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大江健三郎「頭のいい『雨の木』」(「自選短編」岩波文庫) 大江健三郎の「自選短編」(岩波文庫)という、分厚い文庫本を図書館から借りてきたのは、「飼育」という作品を読み直す必要があってのことで、とりあえず、その作品についての、まあ、今のところの感想を綴り終えて「皆さんもどうですか」なんて調子のいいことを書いたのですが、「飼育」の次あたりに所収されている「セヴンティーン」や「空の怪物アグイー」という題名を目にして、へこたれました。 説明のつかないうんざり感が浮かんで、「もういいかな、今さら・・・」という気分で放りだしたのでした。 にもかかわらず、深夜の台所のテーブルに、放りだされた文庫本が、ちょこんとしているのを見て、思わず手を伸ばし、中期短編と標題されているあたりを読み始めてしまうと、困ったことに、これが、止まらなくなってしまい、夜は更けたのでした。 「雨に木を聴く女たち」という作品集は、単行本や文庫化されたときには「頭のいい『雨の木』」、「『雨の木』を聴く女たち」、「『雨の木』の首吊り男」、「さかさまに立つ『雨の木』」、「泳ぐ男――水の中の『雨の木』」の五つの作品が収められていたはずですが、この自選短編には、理由は判りませんが、「首吊り男」と「泳ぐ男」は入っていません。 で、「頭のいい『雨の木』」です。ハワイ大学で催されている文化セミナーに参加している、英語力がままならないことを、まあ、大げさに嘆く作家である「僕」の一人称で語られている小説です。1983年に発表されて、読売文学賞を受賞した「雨の木を聴く女たち」の連作の最初の作品です。 この連作、少なくともこの自選短編に所収されていた三つの作品の特徴の一つは、書かれた作品をめぐって起こるエピソードが、次の作品を構成してゆくというところです。この前の作品をめぐる、作品の外のエピソードから、次の作品が語りはじめられるということですね。 それは私小説の手法だと思うのですが、それぞれの作品は「事実」に基づいているわけではなさそうです。日常生活という、あたかも事実であるかのイメージを額縁にした画面に、作家の想像力の中で起こっている出来事が描きくわえられているといえばいいのでしょうか。そういう意味で、これらの作品は、いわゆる私小説ではありません。 想像力の世界の描写として共通して三作に共通して描かれているのは、繰り返し、暗喩=メタファーだと強調される「雨の木レイン・ツリー」と、二人の女性の登場人物でした。 下に引用したのは、その一人目の人物であるアガーテの登場が描かれることで始まる、「頭のいい『雨の木』」の冒頭場面です。― あなたは人間よりも樹木が見たいのでしょう?とドイツ系のアメリカ人女性がいって、パーティーの人びとで埋まっている客間をつれ出し、広い渡り廊下からポーチを突っきって、広大な闇の前にみちびいた。笑い声とざわめきを背なかにまといつかせて、僕は水の匂いの暗闇を見つめていた。その暗闇の大半が、巨きい樹木ひとつで埋められていること、それは暗闇の裾に、これはわずかながら光を反映するかたちとして、幾重にもかさなった放射状の板根がこちらへ拡がっていることで了解される。その黒い板囲いのようなものが、灰青色の艶をかすかにあらわしてくるのをも、しだいに僕は見てとった。 板根のよく発達した樹齢幾百年もの樹木が、その暗闇に、空と斜面のはるか下方の海をとざして立っているのだ。ニュー・イングランド風の大きい木造建築の、われわれの立っているポーチの庇から、昼間でもこの樹木は、人間でいえばおよそ脛のあたりまでしか眺めることはできぬだろう。建物の古風さ、むしろ古さそれ自体にふさわしく、いかにもひそやかに限られた照明のみのこの家で、庭の樹木はまったく黒い壁だ。― あなたが知りたいといった、この土地なりの呼び方で、この樹木は「雨の木(レイン・ツリー)」、それも私たちのこの木は、とくに頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」。 そのようにこのアメリカ人女性は、われわれがサーネームのことははっきり意識せぬまま、アガーテと呼んでいた中年女性はいった。(P333~P334) セミナーの開催されている期間中、毎晩のように開かれるパーティーの場面ですが、これは、この夜、地元の精神病者のための施設で開かれたパーティーの場面で、主催者の一人であるアガーテというドイツ系だとわざわざ断って描写されている女性が「僕」に、施設の庭にある「雨の木」を見せるシーンです。 『雨の木』というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。(P340) アガーテによる「雨の木」の紹介です。実は、この作品は、発表されると、ほぼ同時に、武満徹という作曲家によって「雨の木」という楽曲に作曲されていて、ユー・チューブでも聞くことができますが、その冒頭でこのセリフがナレーションされていて、まあ、今では、知る人ぞ知るというか、それなりにというか、まあ、有名な一節です。 「雨の木」をめぐる、この連作小説の主題は「grief」、訳せば悲嘆でしょうが、作品中では「AWARE」とローマ字で表記されています。英語の単語を持ち出して、ローマ字表記で「あはれ」という音を響かせようとするところが、良くも悪くも大江健三郎だとぼくは感じるのですが、この「頭のいい『雨の木』」という作品で、「grief」がどんな風に描かれているのかは、まあ、説明不可能で、お読みいただくほかありませんが、人間という存在の哀しみの中に座り込んでいる「僕」がいることだけは、間違いなく実感できるのではないでしょうか。 ついでに言えば、武満徹の「雨の木」という曲も、10分足らずの短い曲ですが、お聴きになられるといいと思います。 二作目の「雨の木を聴く女たち」は、その曲をめぐる作家の思いの表白から始められて、小説の構成としても、なかなか興味深いと思いますよ。
2022.12.03
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王兵(ワン・ビン)「青春」元町映画館 すごい映画を見ました。現代中国の資本主義化の心臓部ともいえる長江デルタ地域、織里という町にある子供服縫製工場で働く、ほぼ、十代後半から二十代の青年男女の住居とセットになっている仕事場での日常を、おそらく、監督であるワン・ビン一人のカメラで徹底的にドキュメントした215分でした。 「死霊魂」で度肝を抜かれたワン・ビン監督の最新ドキュメンタリー「青春」です。 視点の取りようによって、まさに資本主義の搾取の現場のドキュメントであり、青春を生きる若者たちの出会いの姿であり、田舎からやって来た素人の少年・少女たちが縫製の、ミシン仕事のプロになっていく成長譚であり、まあ、まとめていえば、徹底的な現実凝視のフィルムの中で、年収3万元にも満たない低賃金住み込み労働の青年たちの生活の姿、今を生きている姿が、生き生きと、いってしまえば肯定的に描かれていて、だからこそ、現代中国では、決して公開されない、いや、出来ないであろうという、実にスリリングで、矛盾に満ちたフィルムでした。ワン・ビン監督は怒りや同情を封印して、被写体である「人間」に肯定的に焦点を当てることで、中国にかぎらず「現代社会」の現実である貧しさを文字通り根底から描くことに成功している傑作でした。もうそれ以上言葉はないですね。 実は、この映画を見終えての帰路、電車の中で貧血を起こし、スマホに夢中の乗客たちは青ざめてしゃがみこんでいる老人に気付くこともなく、意識朦朧とした老人は普段は乗るはずもないタクシーで、やっとのことで帰宅し、翌朝、日曜日の救急診療に転がり込んで、まあ、事なきを得るという経験をしたのですが、「映画」に当たったのでしょうかね(笑)。 腹痛と貧血の冷や汗に耐えながら、ものすごい勢いでミシンを操っていた青年たちを思い浮かべながら「そうだよな、もう少し、世界を見てからでないとな。」 とか、なんとか、意地を張ってはいたのですが、もう年ですね(笑)。それにしても、意識朦朧の老人を励ましてくれた王兵(ワン・ビン)監督に拍手!でした。監督 ワン・ビン2023年・215分・フランス・ルクセンブルク・オランダ合作原題「青春 Youth (Spring)」2024・05・18・no070・元町映画館no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.19
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滝口悠生「水平線」(新潮社) 今回、案内するのは滝口悠生の新しい作品で「水平線」(新潮社)です。 昨年(2023年)一番記憶に残ったのがこの作品でした。昨年の夏ごろだったかに読み終えて、傑作だと思いましたが、うまくいえないので、放ったらかしになっていました(笑)。 滝口悠生という人は「死んでいないもの」(文春文庫)という、「死んでいなくなった」のか、「死んではいない」のか、わからないという、まあ、人をくった題で、葬式に集まった人間たちを描いて2016年だかに芥川賞をかっさらった作品で気に入ってから、何となく読み継いでできた作家です。 1982年生まれで、2003年には41歳。若い作家ですね。同世代の作家たちと、ちょっと味わいの違う中編小説の人だと思っていましたが、今回の「水平線」は26章、503ページの大作でした。 書き出しはこんな感じです。 屋上のデッキからは、洋上に快晴が広がりつつあるのが見えた。風は穏やかだったが、航行する船上では向かい風が生じ、風を受けた耳元からがぼうぼう鳴った。風は海から来て、船を抜け、また海に吹き去る。ときどき、そこに誰かの酔いが紛れているような気がしたが、それがゆうべの酒の残りなのか船酔いなのかわからない。どの方向に目をやっても、島影は全然見えない。いまデッキ上には誰もいない。(P3)船はいまも確かに一つの時間を前に進んでいる。昨日の昼前に東京の竹芝桟橋の港を出て、一晩を越えた。貨物船おがさわら丸の行き先はその名の通り小笠原諸島父島である。夜の明けた太平洋を南進している。(P4) ここでの語り手は横多平(よこたたいら)という登場人物自身のようですが、38歳、フリーの編集者だそうです。今、小笠原諸島の父島行きのおがさわら丸に乗っています。 彼が、なぜ、この船に乗っているのか。広大な「水平線」を越えて、彼はどこに向かっていて、そこで何が起きるのか。まあ、そんなムードで小説は始まりました。 しばらく読むと語り手が、三森来未(みつもりくるみ)というパン屋さんで働いている36歳の女性に替わって、今度は自衛隊入間基地の飛行場で出発を待っているこんな描写になります。 私の胸には、三森来未(みつもりくるみ)、と名前の書かれた札がついている。今日輸送されるのは私たち、つまり人間で、一瞬なにか物のように扱われているような気になるが、考えてみれば輸送機と言っても運ぶのは物資や資材に限った話ではなく、ふだんから人材つまり自衛隊員の輸送を担うものであるわけだった。自衛隊員にはそもそも旅客機なんかないだろうし。いや、もしかしたらあるのかな。いや、ないか。中略 私たちは戦場に派遣されないし、イラクにもクウェートにも派遣されない。輸送機の行き先は小笠原にある硫黄島という島である。東京都が春のお彼岸に行ってくる、硫黄島の元住民に向けた墓参事業は、かつて島に暮らしていたひとだけでなく、その親族も対象とされていて、ここに集まっているのはその参加者だ。(P15 ~P16) 小説は東京都の南の果て小笠原諸島の、そのまた南の果ての硫黄島に向かう二人の男女の姿を描くことから始まっているのですが、この三森来未さんの語りに続いて、硫黄島というのは、クリント・イーストウッドが映画で描いた、あの硫黄島のことで、1960年代の終わりにアメリカから返還されて以来、2010年現在、自衛隊の基地があるだけで、一般住民は一人も生活していない島だということ、太平洋戦争の末期、1944年に強制された全島疎開以前は1000人を超える島民が暮らしていらしいのですが、その後、硫黄島の争奪をめぐる激戦で日本陸軍の軍人20129人、100人近くの現地徴用の島民、6821人のアメリカ兵が亡くなり、今でも、10000人以上の遺骨が眠っているということを記したうえで、展開していきます。 もう少し登場人物と、この小説が描く物語の発端を説明すると、船に乗っている横多平と、自衛隊の輸送機を待っている三森来未は、来未さんが、離婚した母の旧姓を名乗っているだけで、それぞれ独身の実の兄妹です。その兄妹が、なぜ、今、硫黄島か? まあ、そういう疑問で読み進めたわけですが、その二人の携帯電話にフイにかかってくる電話がすべての始まりでした。 二人が生まれる40年以上も昔に、現地徴用されて硫黄島で亡くなったり、疎開した伊豆の町から蒸発したはずの祖父の弟や祖母の妹から電話がかかってくるという奇想的現実を発端に兄、妹を動かし始めるのです。 そこから、若い二人の現在の生活が描かれるのですが、その、「今」そのものの生活にケータイ電話から、いたずら電話を思わせる明るさで「過去」が響いてくる中で、語り手を変幻に替えていくことで、故郷を知らない二人とその家族、戦中、戦後を生きた祖父母の人生、1940年代の島の暮らしが重層的に重ねられていく書きぶりで、忘れられつつある戦後を背景に「現代」を描くという、久々の本格小説だと思いました。 まあ、ボクの感想ではさっぱり要領を得ないのですが、新潮社のホームページで作家の松家仁之さんが「死者から届く親しげな挨拶」と題して書評していらっしゃるので、関心のある方はそちらをどうぞ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.11
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フィリップ・ド・ブロカ「まぼろしの市街戦 Le roi de coeur」元町映画館no5 元町映画館とか神戸アートヴィレッジセンターの企画で、時々やってくれる古い映画の再上映。デジタル・リマスター版という言葉の意味もよくわかっていないが、うれしいですね。 この日は一日に三つもすることがあって大変でした。須磨の高倉台で一つ目の用事を済ませて、JR須磨海浜公園まで徘徊。兵庫駅からアートヴィレッジまで再び徘徊して「マクベス」のお勉強会に参加。元町映画館まで歩いて、午後7時20分のブザーに無事着席。ペットボトルのお茶で一息ついていると劇場が暗くなりました。 「まぼろしの市街戦」が始まりまりました。 第一次大戦、だから1910年代のヨーロッパです。フランスの小さな町のようですね。ドイツ軍のヘルメットはこのころから同じスタイルです。街では戦況危ういドイツ軍が時限爆弾を仕掛けて、撤退の準備をしています。 占領されているフランス領土の解放にやってきたのはスコットランド軍です。例のスカートをはいていますね。もうそれだけで笑いそうになるのですが、スクリーンの中の人々は懐かしい喜劇特有のドタバタ歩きをしているのが、なんともいえずおかしいですね。 成り行きで爆弾解除を命じられたのが通信兵ブランピック(アラン・ベイツ)。通信兵とはいううものの、要するに伝書鳩の飼育係が、最も危険な任務、「アホかいな」と叫びそうになるお仕事をやらされているところが不可解至極です。 いやいや、そういう映画なのでした。街に入ったブランピックはドイツ軍と遭遇してドタバタ。わけのわからない通信文を伝書バトに託し、ほうほうのていで逃げ込んだ先が精神病院(?)というわけでした。 ドイツ軍の爆弾騒ぎで人っ子一人いなくなった街に、ゾクゾク繰りだしてくる狂気の人々。いったいどこにこんなに大勢の人がいたんでしょうね。 教会で礼服を手に入れた司祭、入念に化粧しエロティックに着飾った娼婦たち、きどった公爵、パスし続けるラガーメン、ブンチャカ楽しい楽隊。ハートのキングをひいて王様になった男だけが、気もそぞろのようすです。 サーカス、戴冠式、記念撮影、パーティー、乱痴気騒ぎ、あれこれ、これ荒れ、何がないかわからないカーニバル状態、もちろん壁の模様はすべてハートですよ。 檻から出ようとしないくせに、やたら咆哮するライオンもいれば、街角をうろつきまわる熊もいます。オジサンととチェスをするチンパンジー、こっちを向いて立っているアフリカゾウ。ラグビーボールがパスされて、美少女が綱渡りをしています。あどけない娼婦は王様に恋していて、こちらでは、将軍だか元帥が奪い取った装甲車を陽気に乗り回しています。 一つ一つのシーンがバカバカしくて、で、陽気で、なぜか美しい。素晴らしき「阿呆たち」。いつかどこかで見たことがある、そんな気分を煽り立てています。 正気といえばいえないこともない、王様で通信兵のブランピックですが、彼は彼で、成り行きまかせと偶然の大活躍。時限爆弾は解除され、花火が乱れうちのように打ち上げられて、カーニバルは最高潮に達します。 花火を爆発だと思い込んで、戻ってきたドイツ軍。バグパイプを鳴らしながら進駐してきたスコットランド軍。二つの軍隊が正面対峙し、互いの銃が連射される。双方の兵士たちは次々に倒れ、死者の山が築かれていく。 目の前で繰り広げられた「狂気」にシラケた「狂気」の人々は、きっとこう思ったに違いないでしょう。「俺たちの芝居に比べて、お前たちの芝居はやりすぎだ!気が狂っているとしか思えない。付き合いきれない。」 とうとう、王様役だったブランピックに向かって、恋人役の美少女コクリコがこういいます。「帰るところに帰りなさい。」 別れの言葉を残して、陽気で夢見る人々は鉄格子の錠前を自らおろし病院の中へ去ってゆきます。 軍に復帰し、勲章をもらい、最前線を命じられ、軍服に身をかためたプランピックを乗せたトラックが、ずっと向うの戦場に向かって去ってゆきます。映画はあっけなく終わりました。 と、トラックの去った街角から、銃を捨て、ヘルメット捨てながら走ってくる男がいるじゃあありませんか。病院の鉄格子の前にたどり着いた彼は素っ裸ですよ。その「狂気」の男を修道女はにっこり笑って受け入れるのです。 通信兵ブランピックは修道院へ戻り、再びハートのキングの生活が始まりましたとさ。 スクリーンが暗くなる。思わず拍手!そういう気分ですね。元町映画館の企画にも拍手!映画館を出ながら、顔なじみの受付嬢と目が合いました。「よかったでぇ、明日も来るし。」「ありがとうございます。」 外に出ると商店街は暗くて、不思議な文字の垂れ幕が薄緑色に浮かんでいた。「令和てなんやろ?だれが、正気なんかわからん時代が始まってノンかな?えらいこっちゃなあ。はよ帰ろ。」 帰って調べてみると、原題の「Le roi de coeur」はトランプカードの「ハートのキング」。映画を見ていて、このままの方が「題名」の意味はよくわかるような気もしましたが、邦題というのは、まあ、そういうもんなんでしょか。 監督 フィリップ・ド・ブロカ 製作 フィリップ・ド・ブロカ ミシェル・ド・ブロカ 原案 モーリス・ベッシー 脚本 ダニエル・ブーランジェ フィリップ・ド・ブロカ 撮影 ピエール・ロム 音楽 ジョルジュ・ドルリュー キャスト アラン・ベイツ(プランピック) ピエール・ブラッスール(ゼラニウム将軍 ) ジャン=クロード・ブリアリ(公爵 ) ジュヌビエーブ・ビヨルド(コクリコ ) アドルフォ・チェリ フランソワーズ・クリストフ ジュリアン・ギオマール ミシュリーヌ・プレール ミシェル・セロー 原題「Le roi de coeur」 1967年 フランス 日本初公開 1967年12月16日 上映時間 102分 2019・04・25・元町映画館no5にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.29
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(22)」(集英社) 「ゴールデン・カムイ」の単行本を一冊づつ紹介してやろうという「野望」に燃えていましたが第4巻であえなくダウンしているうちに話はどんどん進んでしまいました。 登場人物たちが北海道から樺太へ移動するという展開になってしまって、ロシア革命の話から、アリシバちゃんのお父さんの出生の話から、もうてんやわんやなんですよね。 で、6月の末にマンガを届けてくれたヤサイクンがこう言いました。「もうわけわからへんな。新しいのが出たらそこまで読み直さんと付いて行かれへんやんな。」「まあ、そのうち読み直すということで、何となくついていけてるぐらいの感じでええんとちゃうの。」「そういうけど、なんで樺太に行ったか、覚えてるか?」「ええっと?覚えてません。」「ホラ!」というわけで6月の「マンガ便」です。届いたのが最新号、野田サトル「ゴールデン・カムイ22巻」でした。 このマンガの面白さは不死身の男杉元とアイヌの天才少女アリシバちゃんの二人三脚に、アホの白石君が絡み、「北方の文化」、「自然」、そして「食卓」をあれこれ紹介する珍道中だと思うのです。 ところが「樺太」編の間は、とても三人組の珍道中というわけにはいかない「しっちゃかめっちゃか」の状態だったように思いました。 作者には「物語」の着地点は見えているのでしょうが、「どうなるのか」の予想が立たない「おろかな」読者である、まあ、ボクも含めた「ゆかいな仲間」たちには、ほとんど、お手上げの展開が続いてきました。 エピソードが単行本ごとに独立しているわけではないので、その巻だけ読んでも「わけがわからん」ということになってしまっていて、「固め読み」をするとか、「フィードバック読み」をするとかしないと、いや、そうしても話の筋についていけないという感じでした。 で、22巻ですが、この巻の冒頭で、くだんの3人組が帝国陸軍第7師団鶴見中尉の追及から逃れ、ついに北海道に帰還します。 そこからは、以前の「ゴールデン・カムイ」調を取り戻したようで、なかなか楽しく読めました。 最初が流氷の上のシロクマとの対決です。 アシリバちゃんが白い「キムンカムイ」の神聖さと毛皮の価値を講義し、杉元と白石のドタバタです。これを待っていました。 二つ目が「砂金掘り」です。 もともと「アイヌの黄金」がこのマンガのお宝なわけですから、この話がどこかで出てこないはずはなかったのですが、ついに出てきました。 もっとも、「お宝」に目のない白石君の道化話かと思いきや、新たな「入れ墨男」の登場でした。久しぶりの登場です。そのあたりは本冊でどうぞ。 さて、22巻で気付いたことですが、アリシバちゃんの表情が少し変わり始めていますね。 いかがですか。表紙の彼女もそうなのですが、少し「大人っぽく」なってきていませんでしょうか。 樺太での、自らの出生の秘密と使命を自覚する体験の中で成長してきたのでしょうね。子どもっポイあどけなさ魅力の少女だったのですが、「地獄へ落ちる覚悟」を決めたようです。 果たしてアシリバちゃん、「女性」に変貌するときがやってくるのでしょうか。 やっぱり次号が楽しみですね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.06
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(1)」(集英社) ついに到着しました。ヤサイクンの「マンガ宅急便」、2020年第二弾。待ち焦がれていた「ゴールデン・カムイ」(集英社・ヤン・ジャン・コミック)です。 今さら、何を騒いでいるのだとおっしゃる向きもあるかとは思いますが、何しろ噂だけはあちらこちらから聞くものの、ヤサイクンからは、どなたか別の方に貸し出し中などという無情な返事が返ってくるばかりで、昨年の秋のあいだずっと待ち続けていた作品です。同じ紙袋には「コウノドリ」の最新刊も入っていたのですが、迷うことなく、さっそく読み始めたというわけです。 表紙を飾るのは、「不死身の杉元」こと、日露戦争の激戦地、「203高地」から生きて帰還した杉元佐一元一等兵が銃剣付き「三十年式小銃」を構えているところです。モチロン彼が主人公の一人です。 なぜか舞台は酷寒の北海道の森の中、「不死身の杉元」の本領を発揮し、巨大なヒグマとの死闘を制して名乗る主人公、それを称える、おそらくは、もう一人の主人公、アイヌの少女アシリパちゃんの登場です。 図抜けた武闘派ですが、お調子者で、少々おバカな杉元君と、登場早々、アイヌ式の弓の凄腕を披露し、森の生き物について、これはもう、知恵の塊というべきなのでしょうか、鮮やかな罠や狩猟の技術を駆使し、その上、エゾオオカミまで従えている少女アリシパちゃんのコンビです。 この辺り、キャラクターとしても好みですね。その上こんなシーンもあるのです。 リスのつみれ鍋です。アイヌ語では「チタタㇷ゚ オハウ」というらしいですね。まあ、人によっては、それは…という方もいらっしゃるでしょうが、シマクマくんは興味津々ですね。 今後、巻を追うに従ってがって、いったい、どんなものを食べるのか。今回、見事にヒグマを倒しましたが、食べませんでしたからね、次は何を食べるんでしょうね。 というわけで、この二人が何故、明治の末年、冬の北海道の山中で出会い、ここから何を探して戦いの旅を始めるのか。大きな枠組みは、この第一巻で暗示されています。 お宝は金塊らしいのです。しかし、当面の探し物は網走監獄を脱獄した24人の脱獄囚です。このお宝をめぐる争奪戦は、どうも、紹介した二人、陸軍の軍人、そして監獄で生き延びている謎の男の一味による三つ巴のようですね。そのあたりは、次号以降で少しづつということで、今回はここまで。 ぼくはアイヌ料理の旅が続けばいいのにな、というのが次号への期待ですね。追記2020・01・23第二巻(ここをクリック)はアイヌ民俗学、郷土料理特集ですね。面白くて、やめられません。第三巻・第四巻ここをクリック。追記2022・09・25 全巻、感想、完走を目指しましていましたが、あえなく挫折してしまった「ゴールデン・カムイ」でしたが、最近完結したようです。「完結したらしいけど、まだ買わないの?」「どこまで、読んだか、うん、買ったかわからなくなったから。」「ええー、うちに来てるのは、ええっと、23巻かなあ?」「話がややこしなり過ぎて、読み直し読み直しせな前に進まんからなあ。」「書いてる当人も、わからんようになったんちゃうの?」 まあ、わからんようになっているのは、しゃべっているご当人のお二人なのですが、というわけで、我が家では最終巻の31巻にはまだ届きません。多分、28巻くらいまでは読んだと思うのですが。まあ、とりあえず、第1巻から復習し始めています。追記2022・11・12「ゴールデン・カムイ(全31巻)」(集英社)を読み終えましました。拍手! 途中から、北海道・自然派グルメ・マンガの面白さが消えて、歴史バイオレンス・マンガになっていましたが、最終巻では、主人公のお二人が「干し柿」を食べながら、「ヒンナ!ヒンナ!」と喜んでいました。ほぼ3年がかりの全巻読破ですが、各巻の案内はまだまだですね(笑)。筋がややこしすぎて説明しきれないのです。いずれゆっくりと・・・。今日は、とりあえず、最初の巻の修繕でした。ボタン押してね!ボタン押してね!ゴールデンカムイ 食べていいオソマ 山椒みそ 140g (株)北都集英社 野田サトル 蝦夷 おかず
2020.01.20
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アーマンド・イアヌッチ「どん底作家の人生に幸あれ!」シネリーブル神戸 この映画は、あの、ディケンズなんですよ、ディケンズ! ユーライア・ヒープなんてロックバンドの名前だと思い込んでいて、「デイヴィッド・コパーフィールド」読んで、やめられなくなって、ああ、こいつじゃないか! ってひっくり返ったのが40年前なのですが、そのユーライア・ヒープなんていうワルが、いけシャーシャーと登場する、ディケンズこと、デイヴィッド・コパーフィールドの苦労話が映画になっているんですよ。まあ、これは見ないと仕方がないですよね。そんな気分でやって来ました。いつものシネ・リーブルです。 で、映画が始まってみると、やっぱりというか、その作り方にびっくり仰天でした。 インド系とか、アフリカ系とか、ヨーロッパ系とか、ああ、そういえばアジア系もいましたよ、でも、そんなのみんなごちゃまぜで「デイヴィッド・コパーフィールド」の「演劇」世界が広がっていて、いやはや、イギリスですね。 日本の時代劇をこの感覚で映画にすることなんて、逆立ちしたってできないに違いないのですが、お芝居の国の常識は、とっくの昔に「肌の色」に寄りかかって「人間」の「リアル」を描く なんてこととはおサラバしていて、「役者・俳優」がいるだけなんですよね。で、その「役者」が笑わせたり、泣かせたりしてくれるわけです。 ナショナル・シアター・ライブで「アマデウス」というお芝居の敵役のサリエリをルシアン・ムサマティという黒人俳優が演じていて、まあ、この人はとんでもなく実力のある俳優なのですが、その彼が「サリエリを演じる私の肌の色を気にするのは、あなたの偏見だ。」 と喝破するのを見たことがありますが、おんなじことがこの映画にもあって、そういう発想で作られているところがこの映画の、まず一番の面白さだと思いました。 俳優さんたちの演技は、とても演劇的で、映画的リアルというのでしょうか、いかにもそれらしいリアルではなくて、「劇的」なリアルなんですね。構成も芝居仕立てですが、役者が、その「役」を演じている、誇張された存在感に、「劇的な面白さ」を賭けている という様子なのです。 そういう意味で、この映画は渋いのに、妙にバカバカしいコメディだと思いましたが、ディケンズを知らない人には、話しが極端すぎてついていけないかもしれませんね。イギリスでは、きっと常識なんでしょうね、このハチャメチャ・ドタバタぶりは。 いや、それにしても、やっぱりイギリスの俳優さんというのは、それぞれすごいですね。シッチャカメッチャカなんですが、飽きずに最後まで引っ張ってくれますからね。「ユーライア・ヒープ、ザマーミロ!」って思っちゃいましたよ(笑)。監督 アーマンド・イアヌッチ製作 ケビン・ローダー アーマンド・イアヌッチ原作 チャールズ・ディケンズ脚本 アーマンド・イアヌッチ サイモン・ブラックウェル撮影 ザック・ニコルソン美術 クリスティーナ・カサリ衣装 スージー・ハーマン ロバート・ウォーリー編集 ミック・オーズリー ピーター・ランバート音楽 クリストファー・ウィリスキャストデブ・パテル(デイヴィッド・コパフィールド)アナイリン・バーナード(スティアフォース)ピーター・キャパルディ(ミスター・ミコーバー)モーフィッド・クラーク(クララ・コパフィールド/トーラ・スペンロー)デイジー・メイ・クーパー(ベゴティ)ロザリンド・エリーザー(アグネス)ヒュー・ローリー(ミスター・ディック)ティルダ・スウィントン(ベッツイ・トロットウッド)ベン・ウィショー(ユライア・ヒープ)ポール・ホワイトハウスベネディクト・ウォン(ミスター・ウィックフィールド)2019年・120分・G・イギリス・アメリカ合作原題「The Personal History of David Copperfield」2021・01・25・シネリーブルno79
2021.01.27
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週刊 読書案内 ジュリアン・バーンズ「終わりの感覚」(土屋政雄訳・新潮クレストブック) 60歳を過ぎて、社会的関心や家庭的煩雑から自由になった男性がいます。長年勤めた仕事は退職し、かつて連れ添った妻とは離婚して単身ですが、すでに成人している娘とは円満な関係が続いているようです。 不思議なことに、別の男のもとに去ったはずの、元妻マーガレットとも、そこそこ円満な関係が再構築されたようで、知的で自省心にあふれたイギリス臣氏の平和な老後といったところです。 人は時間のなかに生きる。時間によって拘束され、形成される。だが、私自身はその時間を理解できたと感じたためしがない。いや、曲がるとか、逆戻りするとか、どこかにパラレルに存在するとか、そんな理論上の時間のことではなく、ごく日常的な時間、時計に従って規則正しく進行する時間のことだ。(P6) その出来事がやがて水増しされてエピソードになり、おぼろな記憶になり、時の経過による変形を受けながら事実になった。出来事そのものにはもう確信が持てなくても、少なくともそれが残した印象を忠実に語ることはできる。というか、私には、せいぜいそのくらいのことしかできない。(P6) 次第に失われていくとは言いながら、彼の意識のなかには生きてきた60数年の記憶が積み重なっており、何気ない瞬間に湧き上がってくる、かつての「時間」に戸惑いながらも、浮かび上がってくる「記憶の映像」のなかに、彼の「今」をつくりだした契機が潜んでいることを確認するかのように、落ち着いて、知的な口調で男は語り始めます。それが「終わりの感覚」と名付けられたこの小説の始まりでした。 アイデアと創意に満ちた「フロベールの鸚鵡」(白水Uブックス)・「10 1/2章で書かれた世界の歴史」(白水Uブックス)をかつて読んだことがりますが、「ポストモダン小説」とたたえられたジュリアン・バーンズがついにブッカー賞を取った作品です。知人の紹介で読み始めましたが、唸りました。 作家が、自らの人生を静かに回顧してるのではないか、そんなふうに思わせる書き出しでしたが、一通の手紙が語り手の「落ち着き」を揺さぶり始めることによって、様相は一変してゆきます。 手紙は遺産相続を伝える弁護士からのものでしたが、彼に遺産を残したのは初恋の女性ベロニカ・メアリ・エリザベス・フォードの母、フォード婦人でした。遺産は500ポンドの現金と、彼からベロニカを奪い、その後、二十代で自殺した親友エイドリアン・フィンの日記でした。 なぜ、一度しか出会ったことのないフォード婦人が彼に遺産を残したのか。500ポンドの現金には何の意味があるのか。そして、何よりも、その遺産のなかに、なぜ高校時代から親友だったエイドリアンの日記があるのか。 すべて、過去という「時間」のなかで、終わってしまったはずの少年時代から青年時代にかけての出来事の記憶が、語り手の男アレックス・ウェブスターのなかで揺らぎ始めます。 読み終えてみると、この回想と自省の告白は、ことの顛末を作品が語り終えた時点から始まっているということに気づきますが、ポストモダンな作風を讃えられたジュリアン・バーンズならではのたくらみに、ちょっと唖然としました。「あなたはまだわかっていない。わかったためしがないし、これからもそう。わかろうとするのはもうやめて。」 数十年ぶりに再会したベロニカがメールの返信のなかに残したこの言葉が、作品全体に響き渡っているかのような、読後感でした。追記2021・11・07 この小説は「ベロニカとの記憶」という邦題で映画化されていて、2018年、日本でも公開されたようですね。イギリスの芸達者な俳優さんがト二―(アレックス)とベロニカを演じていると思うと、なんだかワクワクしますが、うーん、アマゾン・プライムかネット・フリックスで探せば見つかりそうです。 「うーん、これは見たい!」 まあ、そういう小説ですね。
2021.11.07
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森井勇佑「こちらあみ子」元町映画館 今日は元町映画館で二本立てでした。もっとも、見たのはポスターにある「教育と愛国」、「こちらあみ子」のセットではなく、「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」と「こちらあみ子」のセットでした。 今村夏子の小説「こちらあみ子」は、うまくいえないのですが、数年前に初めて読んで強く打たれた記憶がある作品でした。「そうだよな、そういう人間の在り方ってあるよな。でも、人というのは、そういう在り方のことを説明してしまうんだよな。この小説は、説明しないで、あみ子がここにいると書いた、書くことは説明の始まりだけど、なるべく説明にならないように描いたところがすごいんだよな。だから、誰かにこの小説はね・・・と始めると、伝わらないんだよな。」 まあ、こんな感想を持ちました。例えば、とっぴな例で申し訳ないのですが、ドン・キホーテなんていう人物は、あくまでも小説世界の人物だから、あれだけ輝くと思うのですが、現実の中に置いてしまうと、ただの困った人になりかねません。私見ですが、映画というのは、リアリズムで見ると、現実と見分けがつかないわけで、「そこに小説世界の人物をおいてしまうと・・・?」という危惧を感じながらですが、映画になったというので見に来ました。 「うまくいかないだろうな」の予想の通り、うまくいっていないと思いました。あみ子が生まれてくる前に死んだ弟の墓を楽しそうに作ります。それを見て、流産した母親が泣きます。素直だった兄がグレます。父親があみ子を遠ざけるようになり、あみ子を祖母のもとに預けます。あみ子の社会性の未熟さと、それについていけない家族の崩壊と子捨てのプロセス、小説の展開を映像化すればそうなるのですが、それでは、小説の中で「こちらあみ子」と電池が切れているかもしれないトランシーバーで呼びかけてきたあみ子に、映画は応答したことにはならないのではないでしょうか。 最後のシーンで「大丈夫じゃ!」と言わせる映画製作者、森井監督は、何とかあみ子の存在を肯定しようとしているように見えますが、あみ子が求めているのは「応答」であって、肯定や否定の判断や存在のありように対する大人の理解などではないのではないでしょうか。 じっと耳を澄ませて、あみ子の声を聴く場所に、なんとか読者を引き留めた今村夏子は、この作品を見て納得するのでしょうか? 製作者も俳優も真摯に取り組んでいることは間違いありません。あみ子を演じた大沢一菜という子役の演技にも感心しました。しかし、こちら側から描けば描くほどあみ子は遠ざけられてしまい、あるいは、隔離されてしまい、あるいは、捨てられてしまう。うまく言えないのですが、そこのところにどうしても違和感が残った作品でした。やっぱり、拍手はしません!監督 森井勇佑原作 今村夏子脚本 森井勇佑撮影 岩永洋編集 早野亮音楽 青葉市子主題歌 青葉市子キャスト大沢一菜(あみ子)井浦新(お父さん・哲郎)尾野真千子(お母さん・さゆり)2022年・104分・G・日本2022・07・22-no92・元町映画館no141
2022.08.11
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ハロルド作石「ゴリラーマン40 第4巻」(講談社) 2024年4月のマンガ便の1冊です。ハロルド作石の「ゴリラーマン40」(講談社)の第4巻です。 40歳、不惑を迎えたゴリラーマン、1990年代に高校生ゴリラーマンとして活躍した池戸定治君が中年男になって帰って来たという設定で2022年から始まっている作品の第4巻です。 表紙の、顔はゴリラーマンで服装は女子高校生の女性は池戸芽衣ちゃんといいます。たぶん、ゴリラーマンシリーズでは初めて登場するキャラクターですが、ゴリラーマン、池戸定治さんの姪っ子で、定治さんのお姉さん、まあ、これまたゴリラーマン・ウーマンの池戸美穂さんのお嬢さんです。 実はこのシリーズの正式な題が「ゴリラーマン40 ファミリー編」というのです。池戸定治さんのご一家総出演編というわけですね。 で、本巻の前半は、まず、姪っ子のスーパー女子高生池戸芽衣ちゃんの日々が描かれていました。 身体能力は、ダンスから格闘技まで、超絶スパー・ガールですが、顔はゴリラーマン、友達からはゴリッチとあだ名されている女の子の高校生活を描いたお話でした。 顔がゴリラーマンで、あとはみんな今時の女子高校生なわけですから、笑っていいのか、同情していいのか??? ちょっと困りましたが、でも、まあ、可愛らいい同級生の男の子が、彼女のファンだったりもして、まあ、笑って読んでいていいんでしょうね(笑)。 後半は、今現在のゴリラーマン一族全員集合! で草野球というお話です。ハロルド作石さんは「ストッパー毒島」の作者ですからね、野球系の世界は、きっと余裕なのでしょうね。 正面のお二人が、41歳の美穂さんと女子高生の芽衣ちゃんです。 あとは弟さんとか、お父さん、甥御さんとか姪っ子さんのようです。ゴリラーマン、ご本人の定治さんはここには描かれていませんが、当然、登場します。 まあ、そういうマンガです。面白いと思ったのは、理屈で考えれば同じ顔ではありえないゴリラーマンのお母さんとか、芽衣ちゃんのお父さんが登場しないことですね。 ( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、どうでもいいっちゃあ、まあ、どうでもいいんですが。じゃあまたね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.28
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村上春樹 柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書) ここのところ、サリンジャーが再、再、再、・・・噴火しています。まあ、もちろん、個人的な話ですが、ボクの中でのサリンジャー・ブームは、ほぼ、50年前、だから20歳ごろに大噴火があって、その後、数年おきに小噴火を繰り返し、まあ、50歳を境にして、何となく、もう、イイかな、という雰囲気で鎮火していたのですが、昨年末から読んでいる乗代雄介という作家にうながされるように、20年ぶりの噴火状態です。 で、今回案内するのが2003年、ちょうど20年前に、だからボクが50歳のときに出版された、村上春樹と柴田元幸の対談集、「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)というわけです。出版されてすぐに読んだのですが、ブームにうながされて読み直して面白かったので案内しています。こんな目次です。目次ライ麦畑の翻訳者たち―まえがきにかえて(村上春樹)対話1 ホールデンはサリンジャーなのか? 対話2 『キャッチャー』は謎に満ちている『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説(村上春樹)Call Me Holden(柴田元幸)あとがき 柴田元幸 村上春樹と柴田元幸の翻訳談義は、この「翻訳夜話1・2」(文春新書)のあと、柴田元幸がやっていた、たしか「モンキー」という文芸誌で繰り返し対談していて、それを本にした「本当の翻訳の話をしよう」(新潮文庫)とか、最近では「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)とか、たくさんあります。 まあ、その中で、サリンジャーに特化して喋りあっているのが本書です。目次をご覧になれば気づかれると思うのですが、村上訳「The Cathcher in the Rye」、野崎訳「ライ麦畑でつかまえて」について、かなり突っ込んだ対談で、まあそこが、本書の読みどころだとは思うのですが、実は、今回、読み直しておもしろかったのは「Call Me Holden」という、まあ、東大の先生であった柴田元幸の「サリンジャー講義」なのですが、なかなかシャレていたので紹介します。 こんな書き出しです。 だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ、なんて最後の最後に言ったけど、ほんとそのとおりで、あんな話書いちまったものだから、あれからもう五十年以上、要するに君はあの本で何が言いたかったんだいとか、あの話に全体について君はいまどう感じているんだいとか、ろくでもない質問を僕はさんざん浴びせられてきた。そんなこと、答えられるわけないよ。何が言いたいかわかっていたら、何もあんな長い話なんかせずに、はじめっからそれを言ってしまえばいいわけだし、あの話についてどう感じるかって訊かれたって、語ってしまったからにはあれはもう僕だけの話じゃなくて君の話でもあるわけで、君はどう感じているんだいってこっちが訊きたいくらいなのに、そういう質問する人に限って、だってこれは君自身の物語だろう、君自身のことは君がいちばんよくわかってるはずじゃないか、なんて言ったりする。それって物語について、というか人間について何か勘違いしてるんじゃないかな。語ることで、君は君自身から隔たってしまうんだよ、よくも悪くもね。嘘だと思ったら、君もやってみるといい。だけどそうは言っても、そうやって語って、自分自身から離れてみることでしか、自分に近づく道はない気もする。よくわからないんだけどさ。(P226) まあ、こんな感じです。ここから、ハックルベリーを経由して、ラルフ・エリスン、フィリップ・ロスへと展開していくところが、まあ、東大なのですが、おもしろいのは「君」の使用法と「語り」に関する言及ですね。「キャッチャー」でホールデンが語りかける「君」とはだれかというのは、小説の話法としてかなり重要な問題ですが、誰なのでしょうね?アメリカ現代文学を引っ張り出してきて、柴田が語ろうとしていることのポイントの一つがそこにあるんじゃないでしょうか。まあ、それ以上は、お読みいただくほかありませんが、引用部だけでもかなり面白いことをいっていると、ボクは思うのですね(笑)。 で、本章を終えた柴田元幸が、本書の最後の「あとがき」で 小説について、ああでもないこうでもないと話し合うことは、今日ではだんだん少なくなってきているかもしれない。この本がそういう流れを少しでも逆転させることができたら、こんな嬉しいことはない。(P246 ) とおっしゃっているのを読んで、チョット、感無量でしたね。こんなふうに思っていたこともあったなあ。でも、疲れちゃうこともあるんですよね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.21
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社) 快調に幕末史を駆け抜けるように描いている鈴ノ木ユウの「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社)がトラキチクンの2024年5月、二度目のマンガ便に入っていました。 土佐に帰った竜馬の苦闘が描かれている巻でしたが年代を整理すると、第8巻の巻頭の71話からの事件が、後に「井口村刃傷事件」と呼ばれている土佐藩の郷士、上士がぶつかり合う血みどろの幕開けの事件で、1861年3月、続く事件が「土佐勤王党」の結党で、同年8月、で、この巻では、まだわからない龍馬脱藩が1862年3月です。 7巻で江戸から帰国した竜馬が土佐で巻き込まれたのは、関ケ原以前の領主、長曾我部の家臣と、以後の山之内の家臣を「郷士」、「上士」と分けて、身分的上下関係で統治してきた幕末土佐藩の宿痾! ともいうべき現実で、78話あたりから登場した参政吉田東洋の暗殺、まだ姿を現さない山之内容堂の復権、武市半平太の処刑と続く、幕末史の中でも、とりわけ殺伐とした藩内闘争のはじまりのシーンなのですね。 坂本龍馬が幕末の志士と呼ばれている人たちの中で、独特のスタンスに立った理由の一つは、まあ、素人考えですが、土佐藩の、この内情をその目で見たということが関係していると思いますね。 で、8巻の名場面はこれです。 江戸の長州藩の藩邸で開かれた草莽決起の集会 に登場した高杉晋作ですね。まあ、それにしても、独特な顔で描きましたね。ちょっと笑ってしまいましたが、竜馬、晋作と登場して、まだ、当分、出てきそうもありませんが、西郷隆盛はどんな顔で描かれるのか、チョット楽しみですね。 8巻の、もう一人の新顔は乾退助ですね。彼は上士であるにもかかわらず、やがて勤王党に参加するはずですが、8巻ではまだ吉田東洋の周辺人物です。ハイ、自由民権のあの人、板垣退助として100円札だったかで有名になる人です。 まあ、とにかく、次号はどうなるのかな、脱藩まで行くのかな?そういう感じですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.17
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ペール・フライ「バグダッド・スキャンダル」元町映画館no6 神戸の元町映画館は毎週金曜日がプログラムの最終日です。で、今週、この映画館で見たいと思っていた映画が三本ありました。 「審判」、「まぼろしの市街戦」、そして、この「バグドスキャンダル」です。 「まぼろしの市街戦」は木曜日の夜の19:20分開始を、頑張って見ました。さあ、最終の金曜日です。朝からの二本立ては、やっぱり、挫折!シマクマ君的「イラク侵攻」ペテンシリーズ第三弾「バグダッドスキャンダル」12:50開始。これで決まりです。 スクリーンにビルが立ち並んでいます。うーん、これはニューヨークなのでしょうね。高層ビルの入り口に一人の青年がいて、ガラス張りの建物の中に入ってゆきます。 「初めて見る顔ですが、男前ですなあ。」 彼は転職を希望しているらしく、夢は国連外交官のようです。5歳の時に死に別れた父親の仕事を追いかけているらしく、いわゆる「ビルドゥングス ロマン」の始まりのようです。「マイケル・サリバン(テオ・ジェームズ)の修業時代」の始まりというわけです。 マイケルを国連に引き入れるのが、父の同僚だった事務次長ベン・キングズレー演じるコスタ・パサリスという人物です。「うーん、どこかで見たことがあるなあ。」 調べてみると映画「ガンジー」の、ガンジーでした。下の写真の人ですね。いやはや、本当に同じ俳優ですかね?(笑) 彼はサダム・フセインのイラクがクウェートに侵攻したことい対する経済制裁下での、国連による人道支援を取り仕切っている男という役柄です。で、200億ドルという大金が動く、そのプロジェクトの特別補佐官としてイラクへ向かうのが、マイケルの初仕事でした。 そこで出会うのが現地事務所のやりて女性所長デュプレ。このプロジェクトを批判していたパサリスの政敵です。 写真をよーくご覧ください。この方がなんと、あのジャクリーン・ビセットだとおわかりでしょうか。もちろん現在の74歳のお顔です。ボクとか、学生時代でした。映画館に通っていたあの頃、だから1970年代ですが、そのころにはセクシー・アイドル女優だった、あの人です。スティーブ・マックイーンの主演した「ブリット」のヒロインだったあの人です。下の写真の方ですね。まあ、ぼく自身は格別あこがれたわけではないのですが、人気があったことは事実です。うーん、今の人は知らんか? で、映画に戻ります。マイケルが出会う、もう一人の女性がナシームという現地通訳です。実はクルド人の反フセイン闘争のスパイです。ベルシム・ビルギンという女優だそうですが、この人は知りませんでした。 結果的にいうと、国連外交官というマイケルの夢は成就しません。原題が「Backstabbing for Beginners」とあるのですが、「初心者をだます奴」とでもいう意味のようですね。マイケルをだましたのは「ガンジー」か、「ジャクリーン・ビセット」か、はたまた「クルド人の女スパイ」か。 そのあたりのサスペンスが、なかなか面白いし、筋運びもオーソドックスです。錯綜した現実の中、成長途上の青年のピュアな失恋も悪くなかったです。にもかかわらず、スクリーンが暗くなって明かりが点灯したときに、思わずため息が出た。「あーあっ、国連も金まみれかよ。チェイニーが宝の山を見つける前哨戦を見せられてもなあ。」 「インチキなイラク侵攻」シリーズ第三弾でした。結果、アメリカも国連も、尻馬に乗ったどこかの国も、どいつもこいつもカスという結論でした。金に群がった百何十社の中にどこかの国の企業も名を連ねているに違いないし、気分が悪くなるような話がもっとあるのでしょうね。 何となく元気が出ないまま、商店街に出て、見上げると「令和」の大きな垂れ幕です。ますます気分が載らないので南に出て、西に向かって歩き出す。「センセー!」 ママチャリに乗った、ちょっと見はおばちゃんふうの女性が手を振っています。こんなところで、誰かに手を振ってもらうなんてめったにないことです。ちょっとたじろいで、ジーっと様子をうかがっていて、ようやく思い出しました。神戸の地震の前の年に高校を卒業して、東京に進学した女性です。「おー、シッカリ者のゆみこさん。こんなとこで何してんねん?」「トーキョー行って、ホラ、マキユウスケ、気流の鳴る音、センセーが教えてくれた。んで、文化人類学が面白そうで、オキナワ、ホントは、イシガキやけど、行って、今は、そこの小さな出版社。クトウテンっていうとこにおるの。」 路上で小一時間、ウダウダ、ウダウダ、立ち話でした。今買ってきたばかりという「スイミー牛乳店」のヨーグルトまでいただいて、またね! を約束して別れました。 「今日は映画みてよかった。元号イヤで、道かえてよかった。こういう日もある。捨てたもんやない。」 監督 ペール・フライ Per Fly 製作 ラース・クヌードセン ニコライ・ビーベ・ミケルセン ダニエル・ベーカーマン マリーヌ・ブレンコフ 原作 マイケル・スーサン 脚本 ダニエル・パイン ペール・フライ 撮影 ブレンダン・ステイシー 美術 ニールス・セイエ 衣装 ルース・セコード 音楽 トドール・カバコフ キャスト テオ・ジェームズ(マイケル・サリバン) ベン・キングズレー(コスタ・パサリス) ベルシム・ビルギン(ナシーム・フセイニ) ジャクリーン・ビセット(クリスティーナ・デュプレ) ロッシフ・サザーランド レイチェル・ウィルソン 原題「Backstabbing for Beginners」 2018年 デンマーク・カナダ・アメリカ合作 106分 2019・04・26・元町映画館no6追記2020・02・06「インチキなイラク侵攻」シリーズ第一弾「記者たち」・第二弾「バイス」・第四弾「リトル・バーズ」はそれぞれクリックしてみてね。ボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.28
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「芥川龍之介の死」をめぐって ー 大村彦次郎「文士の生きかた」(ちくま新書) 春から夏にかけての季節が巡ってくると、何だか疲れた気分がやってきます。今年は、長い連休が明けて、忙しく活動する若い人たちが疲れるのはわかるのですがどうして何もしない老人がこんなに疲れなければならないのかというほど草臥れています。もう年でしょうか? 時々でかけている女子大では、国語の授業の練習で高校一年生の定番教材「羅生門」を読んでいます。二十歳になるかならないかの女子学生さんが「下人の行方は?」なんて言葉を口にするのを耳にして、40年前の高校生もこの作品を教室で読んだことを思い出しました。 同級生の一人が放課後の教室で「ある阿呆の一生」と「侏儒の言葉」という作品について、なんというか、文庫本を振り回しながら言っていたことばを覚えています。侏儒というのは小人のことだ。君は知っているか。芥川は自分を小人のようにつまらないヤツだと考えていたんだ。 ぼくは、みんなより一歩前にいるような話し方をするこの男がなんとなく嫌いだったのでしょうね。癪に障ったに違いありません。芥川なんていう作家には興味はない。 とか何とか、そんなふうに、いい捨てて教室を出て行った記憶があります。 その出来事がきっかけだったに違いありません。その後、図書館で借り出した全集版で話題にされた作品だけでなく、芥川の作品のほとんど全部を読んだ記憶があります。 理由はともあれ、立て続けに読み継ぐことが出来たのだから面白かったに違いありません。 その結果なのでしょうか。「将来に対するただぼんやりとした不安」 この「ことば」が高校生だったぼくの頭のなかを占領してしまったのかもしれません。この言葉を残して睡眠薬で自殺した作家というイメージが、その後もずっと心に残りました。 いったい、何故、こころを奪われたのか定かではないのですが、自分の事を侏儒だと意識した作家が自殺することで人生を終えたことに、少年だったぼくは、かなり強い「納得」を感じたのかもしれません。そういうふうにするものなのだとか何とか、年齢相応の納得だったような気がします。 あれから、何年たったのでしょう。最近、大村彦次郎という講談社で文芸雑誌の編集者をしていた人の「文士の生きかた」(ちくま新書)という本を読んでいると、芥川の自殺は、実は、青酸カリによる服毒自殺であって、原因も女性問題と書かれていて驚きました。 芥川は年下の友人である画家の小穴隆一に自殺の決意を一年以上前に告げていた。その頃には神経衰弱が極度に昂進し、いつ死んでもおかしくない状態で、自殺の方法や場所についていろいろ模索していた。 芥川を自殺に追いやった理由については、創作上のゆき詰まりや健康上の問題の他に、さまざまな世俗の事情があげられる。 たとえば、小穴に残された遺書から、秀しげ子という人妻との姦通が死の一因ではないかといった説があり、当の小穴自身もそう信じていた。友人の作家江口渙も同じくその説だった。 -略- まだ姦通罪があった時代で、北原白秋はその罪で刑に服し、有島武郎はそれを怖れて波多野秋子と心中した。」 これを読んで感じた感想を一言でいえば「なんだそうだったのか」ということになります。芥川は「侏儒の言葉」という箴言集の中にあまりにも有名な、こんなことばを残しています。 人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。 異性関係という人生のマッチ棒の小さな炎をどのように扱った結果なのでしょう、どのように翻弄されたのでしょうね。このページにのせたスケッチは、引用に出てきた小穴隆一という画家による芥川のデスマスクだそうです。 死顔というものは苦しみからの解放というふうにみられる場合が多いように思いますが、この絵は「マッチ一本」の危険に疲れ果てた顔というべきではないでしょうか。ぼくにはそう見えるのですがいかがでしょう。 こんなことを考えながら、ちくま文庫版「芥川龍之介全集」(全6巻)を、パラパラしていていると、巻末にある、作家中村真一郎の解説でこんな文章に出会いました。 彼の全作品を、或いは彼の自選の一冊の小説集を続けて読む時、僕らの眼下に展開するのは、正しく西洋の二十世紀の作家たちの照明してくれた複雑な内面世界に近いものである。 読者は彼の作品を読み進めながら、十九世紀の長編小説を読むときのように、世は様々、という感想を持つ代わりに、世を眺める人の目は様々だ、世の姿を受け入れる人間の心には様々な状態があるものだ、という感想を抱く。 これが芥川の作品の現代の読者を誘惑する、最も深い魅力の秘密であるに相違ない。」 後世の読者達の一人であるぼくもまた、彼の死の理由までもを、あたかも発表された一つの作品であるかのように「様々な理由があるものだ」と受け取ってきました。 中村真一郎の論は十九世紀小説と二十世紀小説の構造的変化に目を据えた、まっとうな芥川評価です。ぼくの感想は単なる覗き趣味にすぎないでしょう。相手が有名人であったとしても、他人の死を覗き見して笑う権利は誰にも無いことを危うく忘れるところでした。水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る 芥川は最後に、こんな句を残して自ら命を絶ったそうです。三十五年の短い生涯でした。命の最後の灯りを、それでも、諧謔を忘れることができない眼で見つめている、三十五歳の青年のことを「しみじみ」と受け取る年齢にぼくはなってしまったようですね。(S)追記2022・07・12 今年も「羅生門」を読みました。偶然かもしれませんが、今年の学生さんは下人の悪について、あまり関心がなかったようで、あっけにとられました。 芥川の作品の多くが、人間の心理や倫理観の微妙なゆらぎの見事な描写を特徴にしていると思うのですが、若い人たちの心やモラルを見る目というのはどうなっているのでしょうね。 彼女たちの、あたかも、スタンプでも押すように「悪」とか「善」とか分類していく、それでもやはりたどたどしい手つきというか、文章理解のストレートさというかを目の当たりにしながら、どう講評していいのか途方に暮れる思いでした。 考えてみれば、こころの揺らぎや関係の齟齬に立ち止まる子供たちに「~障害」とスタンプを押して分類することが、教員世界でハヤリ始めて、もう20年たつのですね。新しい教科書からは芥川も漱石も消えるということだそうですが、どうなるのでしょうね。殺伐としてわかりやすい世界が始まるのでしょうか?追記2024・05・22 今年も「羅生門」を、20歳の女子大生の皆さんと読む季節がやって来ました。将来、高校とかの教員を目指している彼女たちが、かつて、高校1年生の国語の授業の定番であった「羅生門」という文学作品をどう読むのか、まあ、そういう興味もあって教員の授業の方法を学ぶ時間の教材として取り上げて7年ほどたちました。いってみれば、定点観測 ですね。 今年20歳になるくらいの年齢の人たちは、だいたい中学生の頃にコロナ騒動と遭遇した人たちで、それを機に一気に導入された遠隔授業方式によろ教育システムのIT化のトップランナーたちといっていいと思います。 四月に始まった、ばかリですが、感想は一言ですね。 「ついていけません!」 イヤハヤ、どうしたらいいのでしょうね(笑)。そのうち、具体的なことを書くかもしれませんが、今日はここまでですね。 ボタン押してネ!にほんブログ村【中古】文士の生きかた /筑摩書房/大村彦次郎 (新書)これですが、中古なんですねもう。時代小説盛衰史【電子書籍】[ 大村彦次郎 ]暇つぶしには、良さそう。文壇さきがけ物語 ある文藝編集者の一生 (ちくま文庫) [ 大村彦次郎 ]結構たくさん書いていらっしゃいます。
2019.06.12
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リドリー・スコット 「ゲティ家の身代金 All the Money in the World」 パルシネマ 珍しく、リドリー・スコットという監督の名前は知っていた。英語で書くとSir Ridley Scott。「エイリアン」の人だ。ぼくが学生だった頃観た映画で、シガニー・ウィーバーという女優さんを一躍スターにしたことを覚えている。最近では、内田樹さんが「映画の構造分析」(文春文庫)で取り上げているのを読んで、思いだしなおしていた、あの作品を作った人だ。でもまあ、よく稼いだからか、作品が立派だったからか、いい年だからか、「サー」という称号がつく人になっているんだ。そんなことを考えていたら場内が暗くなった。 我ながら、バカみたいな話だが、この映画を観終わって、内田樹ならどんな風に分析するのだろうというのが最初に浮かんだ。 この監督の傾向のような気もするけれど、誘拐された息子の母親ゲイル役のミシェル・ウィリアムズという女優さんが、どんどん強く、美しくなっていくという展開で、金持ちのジーさんから派遣された、「交渉しないことも交渉だ」とうそぶくネゴシエーターのチェイス(マーク・ウォールバーグ)も最後には味方に付けてしまって、まあ、息子を取り戻したうえに‥・・・というわけで、なるほどねーと感心して観終わったのだが、こういうふうなのはどう解釈するのかな、内田さんならというのが思い浮かんだわけ。どこかで、解説しないかな? おしまいの結末は、少し驚いて、そういうふうに財産は管理するのかと思ったけれど、大金持ちのポール・ゲティがケチだとか、その跡取りはバカな薬中だとか、全体としては「ふーん」という気分なのだけれど、ゲティという金持ちのジーさんが、最後に手に入れた聖母子像が誰の絵だったかわからなくて、それが一番心に残ったようなわけだ。 どなたか見終わって気づいた人は教えていただきたい。見ていて、ああ、あれはだれだって思ったのに、最近固有名詞が、みんな代名詞になってしまうんですよ。 なんか貶しているみたいだけれど、なかなか面白い筋運びで飽きないし、あくまでも金を払い渋る金持ちの「金持ちらしさ」も、人生観のようなものもなかなか良かった。あり得ない話だからバカ馬鹿しいけれど、金持ちになるなら、あんなふうがいい。評判は、悪くなるかもしれないけれど。 それに比べれば、母親ゲイルは、いかにも映画の主人公ふうで、かっこいいのだけれど、どこかステロタイプに見えた。でも、まあ、映画だからね。 ところで、この映画は制作時からスキャンダル山盛りらしくて、なかなか話題に事欠かなかったらしい。 マーク・ウォールバーグという人は、撮り直しで150万ドルのギャラをせしめたのに、ミシェル・ウィリアムズは1000ドルほどだったというのが後でわかって、あまりの落差に大騒ぎになったとか。 まあ、違いが極端すぎますね。しかし、大金を払ってるんだなあ。 その中でも、いったん、撮り終わったのに、金持ちのジーさん役のセクハラが発覚して、もう一度撮りなおしたピンチヒッターがクリストファー・クラマーという80歳を越えた超ジーさん。 なんと、この人って、「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)のトラップ大佐だったんですよね。映画を観る前に知っていたら、大喜びで、笑ってみていたかもしれないが、実際は、何も気づかなかった。 まあ、そんなもんなのだろう。でも、50年、半世紀にわたって映画に出続けてるんだからすごいね。 でも、ヨーロッパの男の人って、あんな顔の人がこんなふうになるんだ。何がすごいかよくわからないけど、すごい。 パルシネマを出ると、もう夕暮れ時で、涼しいし、兵庫駅まで歩きながら、運動不足解消のためにも、垂水から歩こうと思いながら、やっぱりバスに乗ってしまった。金持ちにもなれないし、元気な88歳にもなれそうもないね。監督 リドリー・スコット 製作 ダン・フリードキン ブラッドリー・トーマス クエンティン・カーティス クリス・クラーク リドリー・スコット 原作 ジョン・ピアソン 脚本 デビッド・スカルパ 撮影 ダリウス・ウォルスキー 美術 アーサー・マックス 衣装 ジャンティ・イェーツ 編集 クレア・シンプソン 音楽 ダニエル・ペンバートン キャスト ミシェル・ウィリアムズ(アビゲイル・ハリス:ゲイルとも呼ばれている女主人公) クリストファー・プラマー(ジャン・ポール・ゲティ:大金持ち) マーク・ウォールバーグ(フレッチャー・チェイス:交渉人) ロマン・デュリス(チンクアンタ:誘拐犯)2017年・133分・R15+・アメリカ 原題「All the Money in the World」2018・10・06・パルシネマno11ボタン押してね!
2019.08.20
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佐々大河「ふしぎの国のバード」(BEAMCOMIX・KADOKAWA) 少し古い話になりますが、2019年4月のとある土曜の夜。マンガの山を抱えてヤサイクン登場。まあ、これはいつものことです。開口一番。「これ、オモロイで。」「なに、これ。エエーッ、あんたイザベラ・バード知ってんの?」「うん、このマンガで知った。」「イザベラ・バードがマンガになってる?!明治時代のイギリス人やんな。有名な探検家というか、旅行家やで。」「うん、そこのとこがオモロイねん。」「えーっ、ヤサイクンの言葉とも思えまへんな。根性ドラマの人やったんちゃうんかいな。」 主人公のイザベラ・バードについて、ちょっと解説すると、1878年(明治11年)来日して、6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉をともに、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側の、山形、秋田から北海道に至る北日本を旅した人。その後、関西も旅して、平凡社の東洋文庫に「日本奥地紀行1~4」があります。今は平凡社ライブラリーや講談社の学術文庫で読むことができます。 ぼくは、東洋文庫で挑戦したことはありますが、最後まで読み終えた記憶はありません。彼女は、ハワイやカナダ、当時の朝鮮や清国も旅して、紀行文集が、たぶん東洋文庫にあったと思いますが、ちょっとあやふやです。 明治初期、イギリス人から見た、日本の地方、農村社会の記録は貴重な民俗学的、歴史的資料としても価値が高く、結構、ロング・セラーを続けていると思います。イギリス人で、女性探検家という所が、面白いですね。 「東洋文庫」という、平凡社の誇る「知の宝庫」の中にあるのですが、ぼくはこの叢書が苦手なんです。製本と活字が読み辛い。それが、マンガで描かれているところが、ぼくにとってはスゴイというわけです。 読んでみると、佐々大河という人は、イザベラ・バードの伝記的記録もよく調べているようで、小手先で書いたような、よくある、所謂、教育漫画ではありません。 絵柄はこんな感じで、まあ、好き好きはあると思います。ぼくは少し苦手です。話は、エピソードが丁寧に描かれていて、時代背景も面白い。読みはじめるとやめられなくなります。あんまりなかったタイプの歴史漫画という感じがしました。 上の場面は、山形の「十文字」という紙漉きの集落でのエピソードですが、漉き方の技術や、原料についても手抜きなしで描写しているのですが、加えて、老婆と外国人バードの心のつながりは、なかなか読ませる話になっています。 バードが出会う個性的な日本人。それも、市井の、まじめに生きている人たち。きっとそれが、作者が描きたいことの一つなんだろうと、好感を持ちました。(S)ボタン押してね!にほんブログ村イザベラ・バードの東北紀行(会津・置賜編) 『日本奥地紀行』を歩く [ 赤坂憲雄 ]イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む (講談社学術文庫) [ 宮本 常一 ]イザベラ・バード/カナダ・アメリカ紀行 [ イザベラ・L.バード ]
2019.09.04
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(2)」(集英社) まず、表紙をご覧ください。「不死身」の杉元君とアシㇼパちゃんの二人連れの守護神ホロケウカムイ「レタラ」君登場ですね。現在では絶滅したエゾオオカミが三人目、いや、二人と一匹めか?の仲間ですね。かっこいいですよ。 今回はアシリパちゃんの「コタン(村)」に二人で立ち寄るというストーリーなので、アイヌ民俗学講義のおもむきの展開なのですが、それは読んでいただくとして、とりあえずは「お料理」の紹介です。 今回のお料理講座はまず「イセポ(エゾウサギ)のチタタプ汁」です。「イセポ」というのは「イーッと鳴く小さなもの」という意味だそうで、エゾウサギのことだそうですが、鍋にするようですね。 目玉が珍味らしいのですが、杉元君は困っています。ああ、それから「おいしい」は「ヒンナ」というそうです。 つづいてカジカ汁ですね。カジカは冬の川で獲れるものがおいしいそうです。「キナオハウ」(野菜たっぷりの汁物)というのだそうです。塩焼きもおいしそうですね。 ところで、こうした鍋物には「味噌」という調味料(?)が思い浮かんできませんか?杉元君も携行している「味噌」を取り出すのですがアシリパちゃんは、杉元君が差し出す「味噌」を「オソマ」と呼んで拒否します。「オソマ」というのはアイヌ語で「うんこ」という意味だそうです。 このマンガ家さんは、基本的にこのタイプの下ネタが好きです。 余談ですが、この魚の絵を見て思い出しました。カジカのことを、兵庫県の北部の田舎の子供たちは「グズババ」と呼んでいたように思います。一応、断っておきますが、但馬方言では「ババ」には、どこかの方言のように「オソマ」の意味はありません(笑)。 さて次は「カワウソのオハウ(汁物)」です。一番うまいのが頭の丸ごと煮なんだそうですが、これは、ちょっと大変そうですね。ウサギにしても、カジカにしても、カワウソにしても、獲り方から描かれていますから、なかなか興味をそそられます。やはり、このマンガの面白さの一つはこの辺りにあると、ぼくは思います。 話の筋に戻ります。とりあえずこのページを見てください。 丸刈りの男が、上で紹介した、エゾオオカミの「レタラ」君に咬まれていますね。今回から三人目の仲間として、杉元君とアシリパちゃんの二人に同行し始めるのが、この男、「脱獄王」白石由竹君です。 こう見えて、この男、日本国中の監獄を脱獄してきた強者で、背中に妙な刺青を背負っています。 第一巻で、少し触れましたが、二人がお宝として探し始めた「金塊」の隠し場所は網走監獄を脱獄した24人の囚人の背中に分けて彫られた地図を、すべて集めると見つけられるだろうというお話なのですが、その一枚を背負っているわけです。 次回からも、一人ずつ紹介してゆきますね。では第四巻・第三巻・第一巻は、ここをクリックして見てくださいね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.01.23
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エランベルジェ原作・中井久夫文・絵「いろいろずきん」(みすず書房) 精神科のお医者んの中井久夫さんが、フランスのお医者さんのエランベルジェさんの童話に、自分で挿絵を描いた絵本があります。「いろいろずきん」(みすず書房)という題です。絵本の最初のページで、原作者のエランベルジェさんがこの童話を書いた動機をこんなふうに話しています。かわいいまごたちへきみたちに赤ずきんの話をしたら「赤ずきんしかいないの?青ずきんがいないのはおかしい、もっといろいろな色のずきんががあるはずだ」と言ったね。そりゃそうだ。どうして気がつかなかったのだろう。そこで、いろいろな色のずきんの話をさがした。どこかにあったかって?それよりも、まず、読んでくれたまえ。 この絵本には「黄色」・「白」・「バラ色」・「青」・「緑」のずきん、帽子ですね、を着た少年や少女が登場します。その子供たちが、いろんな夢を見たり冒険したりする五つの物語が入っています。 ちょっと「青ずきん」の冒険のシーンを紹介しますね。 青ずきんは、ボートをじぶんで動かしてみたくなりました。杭から綱をほどいて、海にうかべました。オールを動かし見ますと、ちゃんとボートは動きます。「わたしだって、できる」と青ずきんは、ボートをこいで、岸からはなれてゆきました。 はっと、気がつくと、沖に出ていました。岸は小さく小さく見えます。ボートの向きを変えようと思いましたが、どうしたらよいかわかりません。吹く風も、海の水の流れも、ボートをどんどん岸とは反対の方向に流します。そのうち波が出てきて、ボートはおもちゃのようにふりまわされました。 特別に大きな波がやってきて、もうだめだ、と目をつむったとき、海が急におだやかになりました。イルカが歓迎するようにまわりを飛びはねました。 さあ、「青ずきん」にはここから、どんな冒険が待っているのでしょう。それは、この絵本を手に取って確かめてください。 絵本の最後には、翻訳して絵を描いた中井久夫さんの丁寧な解説がついています。「五人のずきんたち」について、精神科のお医者さんらしい優しく丁寧な解説です。ぼくはその最後に中井さんがこう書いているの惹かれました。 どのずきんも、話の終わりには「いい子」になったようにみえますが、精神的には一まわり大きくなり、自立し、成長しています。 また、「いろいろずきん」は。子どもの目にうつる大人のすがたが成長につれて変わる物語でもあります。アリエスは、大人による「子どもの発見」という本を書きましたが、これは、子どもによる「大人の発見」の本です。大人が読む意味もあるでしょう。 人と人との関係には「向こう側」と「こっち側」があるということを穏やかに語っている、このニュアンスがぼくは好きなんです。ちなみに、文中のアリエスというのは、「子供の誕生」(みすず書房)を書いた歴史家フィリップ・アリエスのことですが、いづれまた「案内」したいと思っている人ですね。 最後に原作者エランベルジェについては、中井久夫さんのこの解説をお読みください。 原作者アンリ・フレデリック・エランベルジェ(1905-1993)は精神医学者で精神医学史家です。南アフリカのザンベジ川上流に、スイス系フランス人宣教師の子供として生まれ、豊かな自然の動植物と共に幼年時代を過ごしました。九歳の時、突然、ヨーロッパに送られて教育を受けますが、第一次世界大戦によって親との連絡が立ち切れたまま、中学を終え、教養課程で歴史を学んでから、パリ大学医学部を出て精神科医となります。ロシアから亡命してきた夫人と結婚したエランベルジェは生活のため西フランスの小さな町で開業し、その土地の風俗や迷信がアフリカと変わらないのに気づきます。そういう経験が、全部、この童話の栄養になっているでしょう。 なお、彼は、1979年に日本に来て、多くの人と親交を結びました。わたしもその末席に連なっていました。 挿絵は、主に主人公の目から見たように書こうとしました。精神科医が相手の身になろうとつとめるのと同じでしょうか。 余談ですが、我が家のこの本はチッチキ夫人の宝物です。あだやおろそかに扱うことは許されません。表紙の裏には著者直筆のメッセージとサインがあるのですから。追記2022・05・28 最近「カモンカモン」という映画を観ていて思い出しました。子供らしさや素直な子供、成長や発達、保護したり教育したりという子供理解も大切かもしれませんが、同じ社会の中で大人と同じ人間として生きている子供を忘れているのではないかという問いかけを感じたからです。 アリエスの「子どもの誕生」(みすず書房)の案内を、とか言っていましたが、読み直すことさえできていません。普通の人間の普通の生活の中の感情や死生観を歴史として書いたアリエスが最後に残したのは「死の歴史」(みすず書房)ですが、もう一度、その2冊を読み直したいと思っています。追記2023・01・19 中井久夫さんのお仕事の中で、ご本人の医者としての論文や、エッセイはすぐに手に取ることができるわけですが、難儀なのが翻訳です。サリバンやエランベルジェなどの海外の精神科医の仕事の翻訳、カバフィスはじめとするギリシアの詩や、ヴェレリーの詩の翻訳なんかは、著作集を確認したわけではありませんが、意識して探さないと気付けないかもしれません。中井久夫という人の大きさというか深さというかがが翻訳の仕事にはあるような気もします。ここで案内しているのは子供向けの絵本で、エランベルジェの翻訳ですが、内容は中井久夫さんのオリジナルなんじゃないかという気もします。マア、一度、探して手に取ってみてください。ボタン押してね!にほんブログ村「伝える」ことと「伝わる」こと (ちくま学芸文庫) [ 中井久夫 ]
2020.01.30
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加藤典洋「大きな字で書くこと」(岩波書店)(その1) 文芸評論家の加藤典洋が昨年、2019年の5月に亡くなりました。その時に手元にあった岩波書店の「図書」の四月号に彼が連載していた「大きな字で書くこと」というコラムを引用した記事をブログに書きました。それから半年後、11月に岩波書店から「大きな字で書くこと」という題の本が出版されました。 2017年の一月から「図書」に連載されていた「大きな字で書くこと」というコラムと、信濃毎日新聞に2018年の四月から、月に一度連載されていた「水たまりの大きさで」というコラムが収められています。 巻頭には「僕の本質」という詩が配置されている小さな本です。連載の二回目に当たる記事にこんな文章を見つけました。 私は何年も文芸評論を書いてきた。そうでない場合も、だいたいは、書いたのは、メンドーなことがら、込み入った問題をめぐるものが多い。そのほうがよいと思って書いてきたのではない。だんだん、鍋の中が煮詰まってくるように、意味が濃くなってきたのである。 それが、字が小さいことと、関係があった気がする。簡単に一つのことだけ書く文章とはどういうものだったか。それをわたしは思い出そうとしている。 私は誰か。なにが、その問いの答えなのか。 大きな字で書いてみると、何が書けるか。 ここで何が意図されているのか、本屋さんで配布されていた「図書」で「大きな字で書くこと」を読んでいた当時も、この本を手にして、この記事にたどり着いた時にも、ぼくにはわかりませんでした。 読み続けていると、「父」と題されたコラムが数回続きます。そこでは、戦時中、山形県で「特高」の警察官だった父親の行跡がたどられ、青年加藤典洋の心の中にあった父に対するわだかまりが、そっと告白されていました。 ここまで読んで、ようやく、いや、やっとのことで気づいたのでした。加藤典洋は「私は誰かと」と自らに問いかけ、小さな自画像を描こうとしています。それは「死」が間近にあることを覚悟した批評家が、自分自身を対象に最後の「批評」を試みていたということだったのではないでしょうか。 しかし、2019年の7月号に載った「私のこと その6 テレビ前夜」が最後の記事になってしまいました。 小学校4年生の加藤少年は、山形市内から尾花沢という町に転校し、貸本屋通いの日々、読書に熱中しながら、家にやって来たテレビに驚きます。 この年、私は町の貸本屋から一日十円のお小遣いで毎日一冊、最初はマンガ、つぎには少年少女世界文学全集を借りだしては一日で読み切るため、家で読書三昧にふけったが、なぜ講談社の少年少女世界文学全集を小学校の図書室から借りなかったのか、ナゾである。小学校によりつかなかったのだろうか。 マンガでは、白戸三平の「忍者武芸帳」。こんなに面白いマンガを読んだのは初めてで、興奮して眠れなくなった。つげ義春、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロなどのマンガも独力で発掘した。マンガがなくなると、少年少女世界文学全集に打ち込んだ。「点子ちゃんとアントン」「飛ぶ教室」などのほか、「三国志」「太平記」まで大半を読破し、教室で、今の天皇は北朝ではないか、など先生を困らせる質問をした。 この年、「少年サンデー」と「少年マガジン」が発売される。毎週、本屋に走ったが、マンガが週間単位で詠めるのは、信じられない思いだった。 このあと、テレビが家に入ってくる。そしてすべてが変わる。自宅の居間で「鉄腕アトム」を見ながら、なぜこれが無料で見られるのかどう考えても理解できなかった。電波がどこから来るのかと思い、テレビの周りに手をかざしたのをおぼえている。(「私のこと その6 テレビ前夜」) これが、31回続いた連載の最終回、生涯の最後まで「私は誰か」を探し続けた批評家加藤典洋の絶筆です。 ご覧の通り、この文章の中で、彼はまだ問い続けています。テレビが家に入ってきてすべてが変わったことは次回に語る予定だったに違いありません。 自画像としてのエッセイとしても、描き始められている顔の半分は白いまま残されています。 テレビが象徴する経済成長の戦後史が始まったところです。中学生、高校生だった加藤少年について、まだ「大きな字で書くこと」がたくさん残っていたはずなのです。無念であったろうと思います。それ以上のことばはありません。 ただ、この本の案内としては「水たまりの大きさで」と、冒頭の詩について言い残している気がしています。それは(その2)として書いておきたいと思っています。 追記2020・03・11 脈略のない追記ですが、今日は東北の震災の日です。コロナ騒ぎで追悼行事が中止だそうです。あったからと言って、遠くでニュースとして見るだけなのでしょうが、何だか、とても哀しい気分になりました。 「加藤典洋の死」という記事はこちらからどうぞ。追記2021・09・03 加藤典洋のテレビの話を読み直しながら、彼が6年生だった時に幼稚園児だった自分のことを思い出しました。小学校の3年生くらいになったころ近所の家でもテレビが購入され始めましたが、我が家にはありませんでした。現在、2021年、ほとんどテレビを見ない暮らしをしていて、何の不便も感じませんが、40軒ほどの集落で、一番遅くテレビが購入され、家の茶の間に設置された思い出はかなり鮮やかに覚えています。 あれから、半世紀以上のときが立ちましたが、テレビが1930年代の「映画」とか「ラジオ」とかとは、また違った迫力で、ある種の「全体主義」を作ってきた道具だったことにようやく思い当たるうかつさを感じでいます。 最近スマホをいじるようになってテレビの時代が終わりつつあることを実感していますが、テレビよりもずっと便利で手軽ですが、かなり危ない道具であることは間違いなさそうです。 加藤典洋が、「テレビの思い出」で語り始めていることの先に、テレビの時代を論じた「敗戦後論」があると思うのですが、「便利」という言葉が作り出している「スマホの時代」のことを、彼ならどう考えるのでしょうか。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.03.11
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クリストファー・ノーラン「インターステラー」109シネマズ大阪エキスポシティ 映画.com 2020年の8月のはじめに、初めてIMAX映画を見るために「109シネマズ大阪エキスポシティ」という映画館に来ました。二度目が9月の2日、そして今日で三度目です。 どの映画も監督はクリストファー・ノーランで、「ダンケルク」、「インセプション」、今日が「インターステラー」でした。 先の二回は最上階あたりで見ましたが、今日は、なんと、そのあたりが満席でした。横にずれるかどうかで迷いましたが、観客が結構多そうなので、思い切って下の席を選びました。最前列から5列目の、ほぼ中央の右寄りでした。 覚悟はしていましたが、映画が始まってみると、宇宙船酔い(?)しそうな気分でした。世界そのものが頭の上からのしかかってくる圧力で、体をまっすぐに立てて座っていることができない感じがしたのには驚きました。 幸い、前後左右に誰もいませんでしたから、かなりのんびりした姿勢で見る事が出来ましたが、人間の視覚というのはあやふやなものだと納得しました。 この監督の3本目にして、IMAX効果を最も堪能した映画でした。宇宙空間を飛ぶ話だったのですが、実は宇宙ではなくて、「大波」、「氷の世界」、「砂嵐」の映像が面白かったのが意外でした。 特に壁になって、上から迫ってくる大波のシーンでは、意味もなく体に力が入って疲れました。取り残されたドイル君には申し訳ないですが、シーンが終わって「まあ、可哀そうだけど、仕方がないよ、ぼくは助かったから」と、ちょっと本気で考えてしまいました。もう、実体験アトラクションのノリでしたね。 SFネタとしては「5次元」が出て来て、「ああ、複数の時間か・・・」 という、半分諦めの納得で見ていましたが、書棚のポルターガイストと、娘に残した時計の使い方には感心しました。 とはいうものの、ぼくにとって面白かったのは、主人公の、実に古典的な「生きざま」の「物語」を映画の骨にしていたことですね。 見終わってみるとSFを見た感じがあまりしなかったのが不思議ですが、考えてみれば、故郷の「家族」のもとに必ず帰ってくると約束して旅立ったクーパー君は、べつに、荒野に旅立つカウボーイでもよかったわけで、帰ってきた彼が、旅先に置き去りにした「友達」のためにもう一度旅立つのは当然といえば当然ですよね。 映像のイメージやIMAX的な立体感、スピードは、実に現代的で「新しい」と感じたですが、映画のリアリティを支えているのが「父と子」の、あるいは「家族」や「友情」の「物語」だったことが、続けて見た三つの作品に共通していることを面白いと思いました。 この監督は、ひょっとすると「古典的」な「物語」を、超現代的な映像、小説でいえば「文体」で書き直そうとしているのかもしれませんね。そこには、今までとは違う「何か」が生まれているのかもしれませんが、よくわかりません。 ただ、とても強く惹きつけられたことは確かです。次は、新作「テネット」。楽しみですね 監督 クリストファー・ノーラン 製作 エマ・トーマス クリストファー・ノーラン リンダ・オブスト 脚本 ジョナサン・ノーラン クリストファー・ノーラン 撮影 ホイテ・バン・ホイテマ 美術 ネイサン・クロウリー 衣装 メアリー・ゾフレス 編集 リー・スミス 音楽 ハンス・ジマー 視覚効果監修 ポール・フランクリン キャスト マシュー・マコノヒー(ジョセフ・クーパー元空軍パイロット) マッケンジー・フォイ(クーパーの娘マーフ子供時代) ジェシカ・チャステイン(娘マーフ成人) エレン・バースティン(娘マーフ老女) ケイシー・アフレック(息子トム・クーパー ) ティモシー・シャラメ(トム幼少期) ジョン・リスゴー(クーパーの父ドナルド・クーパー) アン・ハサウェイ(アメリア・ブランド宇宙船クルー) デヴィッド・ジャーシー(ニコライ・ロミリー宇宙船クルー) ウェス・ベントリー(ドイル宇宙船クルー) マイケル・ケイン(ジョン・ブランド教授) ビル・アーウィン(ロボットTARS) マット・デイモン(ヒュー・マン博士) 2014年製作・169分・G・アメリカ 原題「Interstellar」 日本初公開:2014年11月22日 2020・09・10109シネマズ大阪エキスポシティno3追記2020・09・11「ダンケルク」、「インセプション」の感想は題名をクリックしてみてください。にほんブログ村
2020.09.11
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武田一義「ペリリュー(1)」(白泉社) 12月のマンガ便に武田一義というマンガ家の「ペリリュー(1)~(8)」(白泉社)というマンガが入っていました。「ペリリューって?北のほうか?地名やろ。」「パラオって知ってるか?南洋の島や。」「戦争もん?」「ああ、おもろいで。」 表紙を開くと、現在のパラオ共和国の写真が載っています。祖父の痕跡を尋ねた青年が海岸に立っている後ろ姿があります。「ペリリュー島 昭和19年夏―」、眼鏡をかけたいかにも頼りなさそうな兵隊が行軍しています。 主人公、田丸均1等兵です。 武田一義公式ブログ 武田一義のブログに、田丸1等兵の立ち姿の写真がありました(絵ですけど)。マンガ家になりたい夢を持ちながら、徴兵され、パラオ諸島のペリリュー島守備隊に配属された青年です。 四角い眼鏡をかけて、長ズボンをはいていますが、歴史的事実に沿えば、当時は丸眼鏡しかなかったそうですがマンガの主人公として四角い眼鏡をかけさせ、半ズボンだったはずの軍装は、はかせてみると、彼の絵では子供の兵隊にしか見えないので、長ズボンをはかせたことが、あとがきでことわられています。 昭和19年のペリリュー島で何があったのか。そう聞かれても、ぼくには答えられません。そもそも、戦前、大日本帝国の信託統治領だったパラオ諸島についても、「山月記」の作家中島敦を思い出すくらいのことで、ほとんど何も知りません。しかし、地図をもう少し広げてみれば、大岡昇平が「野火」や「レイテ戦記」で描いたフィリピン諸島はすぐそこで、太平洋戦争の最も悲惨な戦場の一つであったことはぼくにも理解できます。 マンガを読み進めていくと、サンゴ礁の隆起で出来たこの島がアメリカ軍にとって、その後の戦略の鍵になる理由がわかります。それは飛行場でした。フィリピン奪還、日本本土空襲のための不沈空母、出撃基地として戦略上のかなめの島として考えられていたようです。 昭和19年9月4日、アメリカ第3艦隊、艦艇約800隻、兵員4万人が出動し、約1万人の兵隊が守備隊として配備されていたパラオ諸島ペリリューとへ向かい、マンガ「ペリリュー」が始まります。 物語の冒頭、絵をかくことのほかは肉体的も精神的にも、実戦では役に立ちそうにない主人公田丸1等兵は、小隊長の島田少尉から「功績係」として兵士の最後を記録し、遺品を収集する役目を命じられます。 このマンガが、1975年生まれのマンガ家によって、かわいらしい子供のようなキャラクターを登場させて描かれているのですが、「戦場」の悲惨さと、そこで生き、死んでいった人々の姿をリアルに読ませるための、マンガ家としての工夫が、ここにあると思いました。 マンガ家武田一義は、気弱で故郷を思い続けながら、仲間の死を一つ一つ記録してゆく田丸1等兵に潜り込むことで、新しい「戦争マンガ」を可能にしたのだと思います。 敗戦から70年以上たった「今の眼」で、主人公に潜り込んだ武田一義は戦場を見ているのです。そして、あまりに悲惨な戦場の事実に震えながら、しかし、目をつむることなく見つめる田丸1等兵を描いています。そうすることで、新しい「ゲルニカ」の可能性を夢見ているマンガ家武田一義に拍手を贈りたくなる第1巻だと思いました。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.12.10
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武田一義「さよならタマちゃん」(講談社) このマンガは、珍しく自分で購入しました。ヤサイ君の12月のマンガ便の「ペリリュー 楽園のゲルニカ」のマンガ家武田一義さんのデビュー作だそうです。 ぼくは「ペリリュー」ですっかりファンになったのですが、この戦争マンガを読みながら、不思議に思ったことがありました。 太平洋戦争の歴史のなかでも、最も過酷な戦場であったペリリュー島の1万人の兵隊たちのなかに、作者の分身である田丸1等兵を潜り込ませた手法の卓抜さについて、第1巻の感想で書きましたが、歴史的な事実として、マンガに登場するほとんどの「戦友」たちが、必ず戦死・病死していく世界を描きながら、どうしてここまで普通の人間が生きている世界として描けるのかという疑問です。 私たちは2020年の「現実」の中で暮らしていわけで、戦場という、「死」が日常である世界を描くためには、ある「覚悟」のようなものがいると思うのですが、武田一義というマンガ家が、どうやって、その、覚悟を得たのかという疑問でした。 このマンガに、その答えがあると思いました。 このマンガは、マンガ家自身が経験した精巣腫瘍、その腫瘍の切除手術と肺への転移に対する抗癌剤治療の闘病の記録です。 主人公武田一義、35歳。マンガ家を目指すマンガ家のアシスタント。マンガ家のアシスタントとしては35歳は、決して若くないのだそうですが、がん治療の入院病棟では、ダントツの若さだそうです。 ここに載せたのは入院した武田君を迎える、同室の「戦友」たち、桜木さんや田原さんとの出会いや、武田君の最初の不安を描いたシーンです。この場面をはじめとして、第1話、第2話は「笑い」がさく裂しています。 マンガをお読みになればわかりますが、その後の展開は、決して笑ってはいられないシーンの連続です。ぼくは、ぼく自身の年齢のせいもあるかもしれませんが、何度も涙がこぼれました。 とはいうものの、武田一義さんはマンガを描いているのですから、面白く書こうとしていることは「さよならタマちゃん」という題名からもわかります。でも、それは単なる病院ギャグや、未経験者が知らない経験の「ひけらかし」ではありません。 武田さんは、普通の人が「死」を覚悟する病名を宣告された時に、それでも、今、生きていることの「明るさ」を書こうとしているように思えるのです。 先ほど、ぼくは「戦友」という言葉を使いました。武田さんは、同じ病院に入院している人たちのことを「戦友」などという言葉で表現しているわけではありません。しかし、彼の「ペリリュー」という作品を読んだ目で、この「闘病記」を読むと、彼と同室の桜木さんや田原さんの描き方は、「ペリリュー」の同じ小隊の兵士たちの描き方と同じだとぼくは思いました。 これは、無事退院できた主人公の武田君が定期検査のためにやって来た病院で、一緒に退院した田原さんの再入院を知り、彼から同室だった桜木さんの死を聞くシーンです。 このシーンを読みながら、漫画家の武田一義さんが、マンガ家として描くべき「世界」と出会った瞬間だと思いました。 この時、彼は、この作品の第1話を書いて、掲載の可否を待っている時期だったようですが、この田原さんとの再会によって、このシーンをマンガに描き、「ペリリュー」の世界へと書き継いでゆく勇気と覚悟を手に入れたのではないでしょうか。 最終話と題されたこの章が、25章にあたります。第1章、第2章で炸裂した「笑い」はやがて闘病の苦しさを描き続けることになりますが、不思議と「うっとおしさ」がないのです。主人公の武田君は、嘔吐を繰り返し、どんどん衰弱していきます。精神的にも息が詰まるような展開です。「ペリリュー」の戦場描写とよく似ています。 しかし、彼の、この二つの作品の共通点は、それでも暗くないことなのです。いったん読み始めた読み手が、辛くなって、あるいは、うんざりして投げ出すことは、ないんじゃないかと思います。 病院に入院していた武田一義さんは、生きてマンガを描く「覚悟」のようなものに出会われたのではないでしょうか。その「覚悟」から生まれた「よろこび」が「タマちゃん」から「ペリリュー」まで、たとえば田原さんというキャラクターを書くときにあらわれているのではないでしょうか。そして、それが武田さんのマンガの「明るさ」の理由ではないかというのが、ぼくの当てずっぽう推理の結論です。 裏表紙に描かれた「戦友」たちです。マンガのなかで、奥さんの早苗さんも、新人看護師の杉村さんも、同じ病気で、退院するときにはじめて口をきくことができた市川さんも、みんな戦友でした。みんな一生懸命生きている人たちでした。追記2020・12・12「ペリリュー」の感想はここをクリックしてください。
2020.12.12
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週刊 読書案内 町山智浩「町山智浩のシネマトーク 怖い映画」(スモール出版) 図書館の新刊書の棚で見つけた本です。今でも、そんな言い方があるのかどうかよくわかりませんが、映画評論家の町山智浩さんの2020年の新刊本です。 退職して映画館を徘徊し始めて3年たちますが、昔はよく読んだ映画の解説本、評論をほとんど読まなくなっています。町山智浩という方も、単著としては初めて読む人ですが、読み終わってみて気に入りました。 題名の通り、「怖い映画」についてのお話で、全部で9本の映画が俎上にあげられていますが、多分「町山トーク」というべきなのでしょうね、鮮やかに語りつくされています。 ついでですから9本の映画のラインアップを挙げてみます。「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」 (1968・ジョージ・A・ロメロ)「カリガリ博士」 (1920・ロベルト・ヴィーネ)「アメリカン・サイコ」 (2000・メアリー・ハロン)「ヘレディタリー・継承」 (2018・アリ・アスター)「ポゼッション」 (1981・アンジェイ・ズラフスキー)「テナント・恐怖を借りた男」 (1976・ロマン・ポランスキー)「血を吸うカメラ」 (1960・マイケル・パウエル)「たたり」 (1963・ロバート・ワイズ)「狩人の夜」(1955・チャールズ・ロートン) この中で、多分見たことがあると記憶にあるのは「カリガリ博士」と「ポゼッション」の2本だけです。 だいたい、学生時代はともかく。ここ3年は「ホラー」と宣伝されている映画は見ないのですから(だって怖いから)当然ですが、例えばポランスキーの「テナント」なんていう映画は「アデルの恋の物語」のイザベル・アジャーニという女優さんが主演の映画らしいのですが、日本では劇場公開されていないらしいことを町山さん自身が語っていて、まあ、ぼくでなくてもあまり見られていない映画だったりもするわけです。 さて、「町山トーク」の特徴は、まず「映画をよく知っている」ことですね。その次に「アメリカの映画産業をよく知っている」ということです。まあ、映画にかかわればほかの国のこともよくご存じなのでしょうが、そして「映画を繋がりで語る」ということです。 その結果、ほとんど知らない映画についてのトークがとても面白く読めるのです。平たく言えば「ネタ」の山なのです。 たとえば最終章「狩人の夜」の中のこんな記述はいかがでしょうか。「狩人の夜」は、名優チャールズ・ロートン唯一の監督作です。「狩人の夜」が興行的に失敗した後は監督作がなく、彼は公開から7年後の1962年に亡くなりました。 その後、「狩人の夜」はテレビで放映されて、その不思議な感覚に多くの人が衝撃を受けました。その中にはデヴィッド・リンチ、ブライアン・デパルマ、マーティン・スコセッシ、コーエン兄弟、スパイク・リーなど錚々たる巨匠たちがいます。彼らは「狩人の夜」に影響を受けた作品をとっています。 例えば、「狩人の夜」で、未亡人を狙って殺すニセ牧師のハリーは、いつも「主の御手に頼る日は」という讃美歌をハミングします。コーエン兄弟の「レディ・キラーズ」(2004年)で、老婦人を殺そうとする男(トム・ハンクス)は同じ賛美歌を歌うんです。それにコーエン兄弟の傑作西部劇「トゥルー・グリット」(2011年)では、この讃美歌が物語のテーマとして使われます。 とまあ、こんな感じなのです。この後も1955年につくられたこの映画に対しての「引用の系譜」というべき記述が、現代映画を例に挙げてつづくのですが、結果的にこの映画の「よさ」を語りつくしているわけです。 読者のぼくは、本から目を話してネットを検索し、サーフィンしながら、再び本に戻るという、かなり忙しい読書体験なわけで、一読三嘆という言葉がありますが、文字通り三嘆することになるのでした。(笑) もっとも、ポランスキーの「テナント」の章のように、ディアスポラ、どこに行っても「間借り人=テナント」としてのポランスキーを語りながら、町山さん自身の来歴を真摯に語ることで、単なる「知識のひけらかし」ではない批評性の根拠を示しながら、トランプのアメリカやヘイトを日常化している日本の「ネット社会」に対するハッとするような「発言」もあるわけで、読みごたえは十分でした。 装丁はカジュアルで、語り口は軽いのですが、「映画」という表現が、「映画を見た人」によって、受け継がれ、新しく作られていくという「映画史」を語る本として記憶に残りそうです。
2021.01.23
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ジョシュ・トランク「カポネ」シネリーブル神戸 ジョシュ・トランクという監督の「カポネ」という映画をシネリーブル神戸で見ました。 アル・カポネという名前を、アメリカのギャングの代名詞のように、子供の頃から知っていましたが、実際、どんなことしたのかなんて何も知りませんでした。 映画を見終えて調べてみると1899年、イタリア系の移民の子供としてニューヨークで生まれ、1925年シカゴのギャングの跡目をついで、ボスとして君臨します。カポネといえば「シカゴ」、「禁酒法」、「トミーガン」、「葉巻」ですよね。 1932年に収監され、1939年に出所、1947年に脳卒中で死んだそうです。48歳だったそうです。顔に、大きな切り傷があったので「スカー・フェイス」と呼ばれていたそうです。 映画は大きな屋敷の廊下を、奥へ奥へ進んでいくシーンから始まります。まあ、ネタバレですが、何が起きるのか、ドキドキしながら見つめていると、カメラは、なんだか揺れながら、ずっと進んでいって、暗い部屋の納戸の中に小さな可愛らしい少女が隠れているのを見つけます。で、それは、「カポネ」オジーちゃんと「かくれんぼ」をしていた子供たちの一人だったというわけでした。 映画は、こんなふうにズーッと、何が起きるのか引っぱり続けるのですが、派手なギャングのドンパチを期待していたぼくはすっかり騙されることになってしまいました。 主人公は、まだ50歳にもなっていない男なのですが、進行性梅毒の末期の症状でしょうね、身体的には失禁、脱糞を繰り返し、たえざる脳梗塞の危機に晒されていて、妄想と現実の間を行き来している、ほとんど「狂気」の世界の住人なのですが、カポネ役のトム・ハーディという役者さんは健闘していました。 現在なら「老人」と呼ぶような年齢ではないのですが、そのトンガッタ耄碌ぶり はなかなか見ごたえがありました(笑)。高齢の作家が「老いの日常」を書く「老人文学」というような言い方があるような気がしますが、この映画は「壮年ギャング映画」ではなくて、元ギャングの「老人耄碌映画」 でした。そこが、まあ、すごいところでしたね。 たしか、「ゴッド・ファーザーⅢ」でアルパチーノが椅子から転げ落ちる最後のシーンがあったと思いますが、あのシーンをふと思い浮かべました。 それにしても、1945年前後のアメリカが舞台なのですが、戦争のシーンなんてカケラも出てこないところに、ちょっと驚きました。監督 ジョシュ・トランク脚本 ジョシュ・トランク撮影 ピーター・デミング美術 スティーブン・アルトマン衣装 エイミー・ウエストコット編集 ジョシュ・トランク音楽 El-Pトム・ハーディ(フォンス/アル・カポネ)リンダ・カーデリニジャック・ロウデンノエル・フィッシャーカイル・マクラクラン(ドクター・カーロック)マット・ディロン(ジョニー)2020年・104分・R15+・アメリカ・カナダ合作原題:Capone2021・03・01シネリーブルno82
2021.03.05
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ロベール・ゲディギャン「海辺の家族たち」シネ・リーブル 予告編で見て、気になってやってきたシネ・リーブルです。とはいいながら、題名の印象でしょうか、さほど期待していたわけではありません。映画は「海辺の家族たち」でした。監督はロベール・ゲディギャン、フランスのケン・ローチだそうです(笑)。 始まるとすぐ、海に面したベランダでタバコを吸っていた老人が、脳出血でしょうか、脳梗塞でしょうか、倒れてしまいます。以後、この男性は一切言葉を口にできません、表情も無反応です。 実は、彼は、タバコをふかしながら一言つぶやいたのです。それが「残念だ!」 だったのか、それとも、もっとほかの言葉だったのか。 うかつにも、ぼくが亡失してしまったこの言葉が、この作品のすべての会話の底に流れていたことにラストシーンで気づいたのですが、あとの祭りでした。 イタリアの監督ヴィスコンティの作品に「家族の肖像」という、ぼくの好きな映画があります。この言葉を英訳すると「カンヴァセーション・ピース」になるということを、小説家の保坂和志が、同名の自作の中で書いていたような気がしますが、この映画はフランスの現代版「家族の肖像」でした。 父が倒れた「La villa」、田舎の家に、女優をしている娘アンジェルが帰ってきます。実家では、父のレストランを継いだ長兄のアルマン、若い恋人を連れた次兄のジョセフが待っています。この三人の子供たちも十分に「人生」というキャリアを生きた年齢にさしかかっているようです。ここから「一族再会」の「カンヴァセーション」が始まりました。 ポイントは、登場する人物たちすべてが「脇役」ではなくて、いわば「主役」として描かれていることでした。 意識の所在が不明な父親、三人の兄妹。隣人の老夫婦とその息子。次男の恋人、アンジェルに恋する青年、難民の三人姉弟、国境警備の軍人までほぼ10人の登場人物たち。 映画に登場する、その10人ほどの人物たちの「肖像」が、タッチの違いはあるにしても、海岸を捜査する軍人に至るまで、一人一人、「人」として、その姿が記憶に残る映画でした。 誰かと誰かの会話と回想の組み合わせが、何もしゃべることも表情を変えることもできない父親の周りを巡るかのように配置されていて、家族の記憶の物語の中心にいながら意識さえ確かではない「父親」が、決して、象徴的な存在としてではなく、今ここにいる一人の人間として、生きている人間として描かれているということを感じました。これは、稀有なことではないでしょうか。 映画の始まりに、不意打ちのようにつぶやかれた、父親の「ことば」は「カンバセーション・ピース」の、大切な一つの「ピース」として、映画の終わりになって光を放ち始めました。 高速鉄道が石造りの橋を渡ってさびれた村の上を通過しています。時代から取り残された海辺の村で再会した家族の数日間の「記憶」の物語の美しさもさることながら、ラストシーンで響く子供たちの名前を呼びあう声の木霊が「時間」を超え、父親の遠い意識に届いたかに見えるシーンの感動は何といえばいいのでしょう。 「リジョイス」という、ノベール賞作家のキーワードが自然と浮かんできて、涙があふれて困りました。ぼくにとっては美しい再生の物語でしたが、やはり老人の感想なのでしょうか。 ロベール・ゲディギャンという監督の作品で常連の俳優たちの出演のようですが、回想シーンに若かりし俳優たちの姿が自然に挿入されていて、その、あまりの「はまり具合」には驚かされました。 それにしても、ときおりの回想シーンのたびに涙がこみあげてくるのは、ほんと、なぜなのでしょうね。困ったものです。 マア、数年前の作品らしいですが、今年のベスト10に入ることは間違いなさそうです。拍手! 監督 ロベール・ゲディギャン 脚本 ロベール・ゲディギャン 撮影 ピエール・ミロン 美術 ミシェル・バンデシュタイン 編集 ベルナール・サシャ キャスト アリアンヌ・アスカリッド(アンジェル末娘) ジャン=ピエール・ダルッサン(ジョゼフ次男) ジェラール・メイラン(アルマン長男) ジャック・ブーデ(マルタン隣人) アナイス・ドゥムースティエ(ヴェランジェール次男の恋人) ロバンソン・ステブナン(バンジャマン漁師の青年) ヤン・トレグエ ジュヌビエーブ・ムニシュ フレッド・ユリス ディオク・コマ 2016年・107分・G・フランス 原題「La villa」 2021・06・22-no58シネ・リーブルno97
2021.06.23
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チェン・ユーシュン「1秒先の彼女」シネ・リーブル神戸 2020年に作られた台湾の映画だそうです。チェン・ユーシュンという監督さんは、結構有名な方らしいのですが、ぼくは知らない人でした。映画は「1秒先の彼女」、中国語の題が「消失的情人節」だそうで、こっちのほうがおもしろそうですね。 郵便局で事務員さんをしている女性ヤン・シャオチーさんが、まあ、なんというか、面白いオネーさんで、やたら下ネタをいうのが、笑っていいのか、知らん顔をしていいのかわからない人でしたが、「1秒先」の人でした。マア、慌て者ですね。 で、彼女の幼馴染だったらしいのですが、彼女は全く覚えていないバスの運転手をしているオニーさん、ウー・グアタイさんが「1秒後」の方で、いわゆる引っ込み思案ですね。で、この「1秒」が、まあ、ネタというわけでした。 映画というのは、いろんなことができるなあ、と感心したのですが、よく考えてみれば、「映像を止める」という、まあ、実に古典的な方法なわけで、そんなによろこぶほどのことでもないんじゃないかとは思いながら、しかし、素直に笑えました。うまいものです。 時間が止まっている人間をマネキンみたいにしてポーズを取らせたり、おぶったり、タンスから突如ヤモリの神様が登場したり、窓の向こうにラジオの映像が見えたりとか、なんだか、昔のテント芝居のごった返しを観ている感じで、そこに生まれてくる、まあ、ハチャメチャな「空間」が実に刺激的で、かつ、実にノスタルジックな気分にならせていただきました。 なかでも、海辺というか、海の中を走る通勤バスのシーンとかは、ノスタルジーを越えてうなりました。リアルな風景がイマジナリー空間へと見事に変貌していきました。「これは、これは!うーん、やるな!」 そんな納得でした。「1秒先」の女性と、「1秒後」の男性の凸凹コンビの、凸凹の合わせ目をとても巧妙に現前させてみせてくれた、この映画の作り手の、このセンスと構成力をもっと見てみたい。そういう良い気分で映画は終わりました。拍手! ところが、帰り道に考えこんでしまいました。「1秒早く反応するというのは、1分に対して59秒しか使わないわけで、1秒遅れるというのは1分に対して61秒かかっているわけやから、時間が余るのは「慌て者」の方ちゃうんか。なんで、引っ込み思案の方に余るんや?」 もちろん結論は出ていませんが、映画の面白さとは、ほぼ、関係ありませんね。(笑)監督 チェン・ユーシュン脚本 チェン・ユーシュン撮影 チョウ・イーシェン美術 ワン・ジーチョン編集 ライ・シュウション音楽 ルー・リューミンキャストリウ・グァンティン(ウー・グアタイ)リー・ペイユー(ヤン・シャオチー)ダンカン・チョウ(リウ・ウェンセン)ヘイ・ジャアジャア(ペイ・ウェン)リン・メイシュウグー・バオミンチェン・ジューションリン・メイジャオホアン・リェンユーワン・ズーチャンチャン・フォンメイ2020年・119分・G・台湾原題「消失的情人節 」・「My Missing Valentine」2021・07・05-no61シネ・リーブル神戸no99
2021.07.10
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ペテル・べブヤク「アウシュヴィッツ・レポート」シネ・リーブル神戸 ヨーロッパ映画を観ていると、アウシュビッツ、ナチス・ドイツにかかわる作品が毎年一定数制作されていることに気づきます。つい先日見た「復習者たち」もそうですし、「キーパー」、「名もなき人生」、「ヒトラーに盗られたうさぎ」etcと、いくらでも数え上げられます。べつに意識して選んでの鑑賞ではありません。しかし、ヨーロッパには「アウシュビッツ映画」が、単なる「思い出物語」としてではなく作られ続ける理由があるのでしょうね。 今回見たのはペテル・べブヤクPeter Bebjakというスロバキアの監督の「アウシュヴィッツ・レポート」という作品でした。スロバキア、チェコ、ドイツの合作だそうです。 1942年にアウシュヴィッツに強制収容された二人の若いスロバキア系ユダヤ人が、2年後の1944年4月に収容所を脱走し、アウシュヴィッツの内情を描いたレポートを赤十字に提出します。そのレポートが「ヴルバ=ヴェツラー・レポート(通称アウシュヴィッツ・レポート)」と呼ばれて、連合軍に報告され、12万人以上のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに強制移送されるのを免れたというお話でした。 映画は脱走する二人とそれを命がけで支える仲間たちのサスペンスフルな展開で始まります。すでに死体の山があり、収容されている人たちが平気で殺されたり殴られたりするシーンが繰り広げられます。見ている側は二人が脱出に成功することを知っていますから耐えられますが、「もし、これが現実であれば」と想像するとどうでしょうね。 ぼくは、こういうドキドキや残酷シーンは、もう苦手だなと感じる年齢を意識しました。 で、印象に残ったことが二つありました。 ひとつは収容所のドイツ人将校の描き方でした。ラウスマンというナチスの伍長ですが、彼が最前線に出征していた自分の息子が戦死したことを嘆き、それを訴えながら収容者を拷問するというシーンです。異様でした。 哲学者ハンナ・アーレントに「エルサレムのアイヒマン」(みすず書房)という本がありますが、そこで論及されていた「無思想性」ということを思い出しました。 実は、この将校のふるまいは、平和で民主的だと思い込んでいる社会でも、様々な場所で繰り返されていることではないのか、そんな疑いですね。 もう一つは、脱走に成功した二人を救助し報告を受け取った赤十字の職員の反応でした。「人道的に救助することはできるが、ドイツを批判することは‥‥」というシーンですが、リアルだと思いました。 二人は「今すぐ収容所を爆撃してくれ。」と迫るのですが、実行されたのは半年以上後でした。赤十字の職員の反応のリアリティも、ある意味、現代的だと思いました。 ドイツ、ポーランドのみならず、この作品のように東ヨーロッパや北欧諸国でもナチス映画は撮られ続けています。だからといって繰り返しというわけではありませんね。たとえば、この映画にも感じましたが、監督の感覚の現代性というか、現代の社会に対する「危機感」が歴史を見直そうとしていて、そういう作品を作ろうとしているヨーロッパの表現者たちの熱意に好感を持ちました。 疲れましたが、後味は悪くない作品でした。拍手!監督 ペテル・べブヤク製作 ラスト・シェスターク ペテル・べブヤク脚本 ジョゼフ・パシュテーカ トマーシュ・ボムビク ペテル・べブヤク撮影 マルティン・ジアラン美術 ペテル・シュネク衣装 カタリナ・シュトルボバ・ビエリコバー編集 マレク・クラーリョブスキー音楽 マリオ・シュナイダーキャストノエル・ツツォル(アルフレート・逃亡者)ペテル・オンドレイチカ(ヴァルター・逃亡者)ジョン・ハナー(ウォレン・赤十字職員)ヤン・ネドバル(パヴェル・ユダヤ人)ミハル・レジュニー(マルセル・ユダヤ人)フロリアン・パンツナー(ラウスマン・ナチス伍長)ボイチェフ・メツファルドフスキ(コズロフスキ・ユダヤ人点呼係)ジュスティナ・ワシレウスカ(森の女)ルカサス・ガルリッキ(道案内・義弟)2020年・94分・PG12・スロバキア・チェコ・ドイツ合作原題「The Auschwitz Report」2021・08・20‐no78シネ・リーブル神戸no114
2021.09.03
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谷津賢二「荒野に希望の灯をともす」元町映画館 中村哲がアフガニスタンの人の中で、周囲の人と同じように荷袋を担いでいる姿が、チラシに写っていますが、写真ではなくて、「中村哲が生きて動いている姿が見たい。」ただ、それだけが理由で見に行きました。 1980年代、まだ若い中村哲の姿、初めて水路に水が流れ始めたときの姿、2019年の死の直前のパワー・シャベルを動かしている姿、米軍のヘリコプターを見上げている表情、それぞれを見つめながら、何も言うことはありません。涙がこみあげてくるを辛抱しながら、見つめ続けるだけでした。映画は谷津賢二「荒野に希望の灯をともす」でした。 元町映画館が、一週間限定で朝10時から上映してくれています。そのチラシにこんな言葉がありました。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。中村哲 できれば、「生きるために地面を掘る」ことの大切さを、ゆかいな仲間のちびら君たちや、時々、出会う若い人達に伝えられたらいいなあと、改めて思いました。 荒涼とした灰色の砂漠が緑の大地に変わった風景に、何度も見たはずなのですが、やはり、心を揺さぶられました。 難渋する工事の中で、絶望的な表情を浮かべている仲間に「みんなの心に灯をともそう!」と静かに語りかける中村哲の表情と口調が心に残りました。監督 谷津賢二構成 上田未生取材 柿木喜久男 大月啓介 アミン・ウラー・ベーグ撮影 谷津賢二編集 櫻木まゆみピアノ演奏 中村幸朗読 石橋蓮司語り 中里雅子2022年・90分・G・日本2022・09・27-no112・元町映画館no181
2022.09.28
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「武庫川河口のたそがれ」 徘徊日記2022年10月5日(水)尼崎魚釣り公園あたり 今日は、歩きの徘徊ではありません。 お友達に自動車に載せていただいて、武庫川を南に下りました。着いたのは武庫川の河口にある魚釣り公園です。尼崎の側です。駐車場が200円で、入場料が200円です。受付というか、入場口のモギリのオジサンが残念そうに言いました。「ああ、もうちょっと早く来ればよかったですな。今日は夕日もよかったですよ。」 写真を撮り忘れたうえに、撮った写真がみんなピンボケで話になりませんが、大きな駐車場があって、公園入口に二階建ての事務所、売店があって、二階の入場口から海に突き出た、かっこいい橋を渡って、釣り場に行きますが、一枚だけピントがあっていたいた写真が上の写真です。六甲の連山から須磨のあたりの残照です。光っているのは三宮あたりでしょうね。実は空の雲も素晴らしかったのですがピンボケです。もちろん海は一面、輝く闇です。見つめているとドキドキしてきます。風が少し寒い季節になったことを実感しました。 時刻は6時過ぎで、もう夕暮れ、たそがれです。 次回はもう少し早くこないと写真のピントがあいません。それでも、ここは来た甲斐のある河口でした。さすが、武庫川ですね(笑)ボタン押してね!
2022.10.06
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アキ・カウリスマキ「街のあかり」パルシネマ パルシネマ二本立ての二本目です。ここのところパルシネマはこの監督を特集しているらしいですね。フィンランドの監督でアキ・カウリスマキという人です。見た作品は「街のあかり」でした。 主人公はコイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)という警備員の青年でした。見たところ、ちょっと陰のある男前で「なんで、この男が?」 という印象なのですが、職場でも仕事の帰りに立ち寄るバーでも、ことあるごとに、からかわれ、いじめられるという設定のようで、1時間とちょっとの映画の間中、ずっといじめられていました。 見ていて、いじめる側も、いじめられる側も、それを映画で撮っている監督も、まあ、フィンランドの人はしつこいというか、辛抱がいいというか、あきれるばかりの執拗さで、最後の最後のワンシーン以外、何の「あかり」も感じさせない映画でしたが、記憶には残りそうです。 帰ってきて、ネットをいじっていると「フィンランド3部作」とか呼ばれている有名なシリーズの最後の作品だったことがわかりましたが、そのシリーズの別名が「敗者3部作」とか「負け犬3部作」とか呼ばれているようで、「ナルホドそうだったのか!」 と納得しました。 「負け犬」といういい方で思い出しましたが、この映画の中に主人公が立ち寄るバーの前の路上に、繋がれたまま放置されている犬が登場します。主人公は飼い主らしい男たちに、その処遇を注意して、やっぱり、殴られてしまうのですが、パユというその犬と、犬のことを心配している黒人の少年(ヨーナス・タポラ)の街灯の下のシーンには、少し「街のあかり」がさしていたようです。こうして書いていても、ボンヤリそのシーンが浮かんできます。そのあたりが、この監督の実力なのでしょうね。 ぼくは知らない人でしたが、なかなかな作品の作り手らしいです。でも、まあ、「続けて見たい!」とは思わない、なんだか寂しい映画でもあったわけで、せっかくの特集ですが、パスすることになりそうです(笑) 犬と少年と、手を差し伸べたシーセージ売りのアイラおねーさん(マリア・ヘイスカネン)に拍手!でした。監督 アキ・カウリスマキ製作 アキ・カウリスマキ脚本 アキ・カウリスマキ撮影 ティモ・サルミネン音楽 メルローズキャストヤンネ・フーティアイネン(コイスティネン:警備員の青年)マリア・ヤルベンヘルミ(ミルヤ:リンドストロンの情婦)イルッカ・コイヴラ(リンドストロン:詐欺師)マリア・ヘイスカネン(アイラ:ソーセージ売り)ヨーナス・タポラ(少年)犬:パユ2006年・78分・フィンランド原題「Laitakaupungin valot」2022・11・12-no127・パルシネマno44
2022.11.13
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浦沢直樹「あさドラ 7」(小学館) 2022年12月のマンガ便に入っていました。12月5日の新刊です。浦沢直樹「あさドラ 7」(小学館)です。 愛機バイパーカブ、セスナですね、で空を飛ぶ女子高生あさチャンの活躍する「あさドラ」も第7巻です。 この巻は、ほぼ全編、1964年10月21日(水)の出来事です。この日付を聴いて「ああ、あれかも?」 とこのシーンを思い浮かべられる人は、間違いなく還暦を通過して、65歳のの交差点も通り過ぎている人だと思います。 前期、および、後期高齢者のみなさん、アベベですよ。円谷ですよ。ヒートリーですよ。そう、懐かしの東京オリンピックのマラソンの日です。 お若い方々のために、ちょっと横道にそれますが、浦沢直樹は1960年生まれですから、このマンガのこのシーンは「ツクリゴト」だとぼくは思います。 1954年生まれのぼくは、このシーンを、実際にテレビで見ました。「学校のある水曜日の午後に、どうしてテレビで見られるのか?」 と、まあ、そんなふうに疑問をお持ちになる方もいらっしゃるかもしれませんね。1964年の東京オリンピックが、豊かな家庭にはカラーテレビ、貧しい家庭には白黒テレビの普及に一役かった事件だったということは、多分、戦後復興史の常識だと思いますが、実は、テレビなどというぜいたく品とは縁遠かった田舎の小学生は学校で「オリンピックの時間」という、まあ、今では当たり前ですが、テレビ授業(?)を初体験した事件でもあったわけす。 で、靴を履いたアベベの快走と、円谷幸吉と、この大会でアベベに破られますが、当時、世界記録保持者だったベンジャミン・ヒートリーとの国立競技場での、文字通りデッド・ヒートを、この目で見た記憶があるのですが、当時、4歳だったはずの浦沢君の記憶には、あの実感があるはずがないわけで、「まあ、ツクリゴトですな(笑)。」 と口走る所以ですね(何、いばってんねん!)。 マンガに戻ります。第7巻では、第1巻の始めから正体不明の、まあ、われわれの世代なら「ゴジラか?」と想像させて、読み手を引っ張ってきた謎の怪獣が、いよいよ正体を現します。で、現したとたんに、もう一体、「なに、これ?ウルトラマン?」が登場して、怪獣対宇宙人のプロレス対決という、なんか、どこかで見たことがあるシーンに、第6巻でもありましたが、あさチャンのセスナによる空中戦が加わって、三つ巴という、ちょっとハチャメチャなは展開なのですが、それがこのシーンですね。 マア、ここ迄のいきさつと、ここからの成り行き、怪獣の全身像は本作を手に取っていただくほかありませんね。 さて、ここから、マンガ家どうするつもりなののだろうという、第8巻を期待させるだけさせて終わるという、浦沢君得意の第7巻でした。 ちょっと付け加えると、怪獣登場のクライマックスへの経緯が、かなり複雑で、正太くんという、貧しいマラソン少年がただのわき役ではない展開が始まりそうですが、さてどうなるのでしょうね。やっぱり浦沢直樹はめんどくさいですね(笑)
2023.01.09
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ユホ・クオスマネン「コンパートメントNo.6」シネ・リーブル神戸 一緒に100days100bookcoversと題してFB上で本の紹介ごっこをしているお友達たちが「いいよ!」 と噂し合っている映画、ユホ・クオスマネンというフィンランドの監督の「コンパートメントNo.6」という作品を見ました。こんなに後味のいい作品は久しぶりでした。 ラウラ(セイディ・ハーラ)という女子学生がムルマンスクというロシア最北端、だから世界最北端の町まで夜行列車に乗って旅をするお話でした。目的はペトログリフというのですから古代の岩面彫刻の遺跡の見学です。 ラウラは歴史学を勉強しているらしいフィンランドの学生ですが、今は語学留学のためにモスクワにやって来ていて、イリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)という女性の先生の家に下宿しているようです。 で、その先生とは恋愛関係にあると、まあ、当人は思っているようですが、先生(?)、恋人(?)イリーナの発案で始まったはずの今回の旅なのですが、その恋人だか、先生だかのドタ・キャンで一人旅になっているという映画の始まりでした。 この辺りで、「えっ?」 と思ったシーンがありました。それはイリーナのサロンに集まっていた人たちの誰かの発言でした。「チャパーエフと空虚」読んだ? ペレーヴィンというロシアの作家の1990年代の終わり頃の作品で、日本では「ロシアの村上春樹」 とかのキャッチ・コピー付きで群像社というところから出版されていますが、確か映画にもなった作品です。 そこでのラウラの返事は「買ったけど読んでいない・・・」 とかなんとかのぐずぐずで、「そうか、そうか、ボクも買ったけど、読んでないわ(笑)。」 と好感を持ったのですが、そこから、部屋のベッドにもぐりこんで寝ているラウラに覆いかぶさるように「愛(?)」の行為に及ぶイリーナとのシーンが、なかなか象徴的でしたね。 結局一人で乗ることになった夜行列車のコンパートメントのシーンに登場するのは若いロシア人のリョーハ(ユーリー・ボリソフ)ひとりです。 で、この男が映画的には素晴らしいですね。プーチンとかアメリカだったらトランプとかを支持しそうな、いかにもなオニーさんで、コンパートメントに陣取ると、早速、ウォッカかなんかを飲みながら厚かましさ丸出しです。「列車は初めてか?」「 何をしにどこに行く?」「 何をやっている?」 とどのつまりは「仕事は売春か?」 と、のたもうて、ラウラの下半身に手を差し入れんばかりです。 焦ったラウラは、何とか逃げ出そうと車掌と交渉したりもするのですが、結局、男の反対のベッドの上段に逃げ込むしかなくて、いや、ホント、こころから同情しましたね。で、このシーンで面白かったのは男の二つのセリフです。「タイタニックは見たか?」「愛しているってどういうんだ」 イリーナのサロンでは、ロシアの村上春樹が話題だったのですが、ここでは「タイタニック」です。時代はピッタリ符合しています。で、上段ベッドに立て籠もっているラウラは、今度は上から見下ろしていて、男のセリフにこう答えるのです。「ハイスタ・ヴィットゥ」 字幕にどう出ていたか忘れましたが、要するに「くそったれ!」とか、まあ英語なら「ファック・ユー!」とかなのでしょうね。マア、映画好きならすぐにピンときそうですが、「おっ、このセリフ、どこで、どう落とすねん?」 ですよね(笑)。 で、ここからが、完全な(?)ロード・ムービーで、ボクの興味は、ラウラはいつ、上のベッドから下に降りてくるのかなのですが、ペテルブルグでの老婆との出会いとか、インチキなバックパッカー野郎の登場とか、いろいろあって面白いのですがなかなか降りてきません。とどのつまりは極北の地で・・・・。 まあ、いろいろあった上でのことなのですが、終わりの方のシーンで、なんだか、寒々として、本当にペトルグリフとかあるのといぶかるような雪原というか、寒風吹きすさぶ海岸というかで二人が寝そべるんですが、いや、愛し合って抱き合うとかじゃなくてですよ、これが、いかにも寒くて「馬鹿じゃないの!」 とは思うのですが、いいんですねえ(笑)。 世界の果てで、人が人に会えた喜びが零下30度の寒風にさらされているって、サイコー!だと思いませんか(笑)。 寒い中でよく頑張ったラウラ(セイディ・ハーラ)とリョーハ(ユーリー・ボリソフ)に拍手!ですね。ペテルブルグのオバーちゃんを出した監督のユホ・クオスマネンにも拍手! ところで、ムルマンスクってロシア領なのですね。乗車するすぐにパスポートとか調べられるので、フィンランドかノルウェーだと思い込んでいたのですが、家に帰って調べて「ああ、そうか!」でした。監督 ユホ・クオスマネン原作 ロサ・リクソム脚本 アンドニス・フェルドマニス リビア・ウルマン ユホ・クオスマネン撮影 J=P・パッシ美術 カリ・カンカーンパー編集 ユッシ・ラウタニエミキャストセイディ・ハーラ(ラウラ)ユーリー・ボリソフ(リョーハ)ディナーラ・ドルカーロワ(イリーナ)ユリア・アウグ2021年・107分・G・フィンランド・ロシア・エストニア・ドイツ合作原題「Hytti Nro 6」2023・02・21-no024・シネ・リーブル神戸no193
2023.05.22
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NTLive クリント・ディア―「オセロ OTHELLO」 シネ・リーブル神戸 シネ・リーブル神戸で月に1回のペースで上映されているショナルシアター・ライヴを欠かさず観ていますが、2023年、6月のプログラムは、シェークスピアの悲劇「オセロ」でした。3時間を超える舞台です。 クリントン・ディアーによる演出は、メジャーな劇場での初の黒人による演出となり、シェイクスピア学者ジャミ・ロジャーズ博士が「英国シェイクスピア史における大きな節目」と評価した注目作。 なのだそうです。ボクは日本の現代演劇もほとんど見たことがありませんし、もちろん外国の舞台なんて全く知りません。このナショナルシアターのプログラムだけが、かろうじて演劇とのつながりなのですが、このプログラムではシェークスピア劇の現代的演出の舞台が上演されることが時々あります。イギリスでのシェークスピアの受け取られ方というか、文化の伝統に対するズレのようなものを感じるのはそういう時です。 シェークスピア劇なんて戯曲としてしか読んだことのないボクには、現代的に解釈されているシャークスピアに、ネタはシェークスピアですが、語られているのは現代的なテーマだったりするわけで、時に、ついていけないことがあるというわけです(笑)。 今回の演出でも、ムーア人であるオセロに対する人種的な差別や、デズネモーナや、イアーゴーの妻ですが、エミリアに対するミソジニーっていうのでしょうか、女性蔑視がくっきりと表現されていて、舞台の雰囲気がとがっている印象を受けました。 例えば、まあ有名なオセローの嫉妬というか、湧き上がる猜疑心も、単に男女の問題ではない、人種的偏見に対する猜疑心を引き金でとしながら、一方で、信用ならないものとしての女性に対する疑いで下支えしているかの心理の動きが、かなり鋭角的な印象を感じさせてしんどかったですね。 その分、イアーゴーの悪辣な使嗾が、異常にリアルで、演じていた俳優も上手なのですが、面白いというよりも疲れる舞台でした。 ここのところ、舞台の転換とかでも、とてもテクニカルに映像が使われる舞台を続けてみたのですが、映像で見る限り、生の舞台での視覚体験をしてみたいなあと思わせるスピードとリアルでした。いやはや、シェークスピアって、こんなに疲れるっけ? まあ、そんな感想の舞台でした。映像で見ていることを忘れさせる臨場感というか、中でもイアーゴーをやっていたポール・ヒルトンという役者さん、イヤ、ホンと、すごかったですよ(笑)。演出 クリント・ディアー原作 ウィリアム・シェイクスピアキャストジャイルズ・テレラ(オセロ)ロージー・マキューアン(デズネモーナ)ポール・ヒルトン(イアーゴー)ターニャ・フランクス(エミリア)2023年・185分・イギリス・リトルトン劇場原題 National Theatre Live「Othello」2023・06・23・no75・シネ・リーブル神戸no
2023.06.23
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グザビエ・ジャノリ「幻滅」 この日はパルシネマで二本立てです。見たのはグザビエ・ジャノリという監督の「幻滅」です。一月ほど前にシネリーブルでやっていて、ちょっと気になっていましたが、なんとなくパスした一本です。 まあ、バルザックって苦手なんですね。冗長というか、作品によるのですが、ダルくなって読み続けられないんですね。原作の「幻滅」は20年ほど前に藤原書店が出した「バルザック・セレクション」で、鹿島茂とかの新訳の1冊、まあ、上・下本ですが、で出ていて、チャレンジした記憶はありますが、内容は全く覚えていません。 さて、映画です。原作がバルザックですから、まあ、映画も人間喜劇ということですね。始まった物語の舞台ですが、時代は19世紀の前半、日本だと江戸時代の末期、フランスなので、まあ、思いっきり大雑把に言えばナポレオンのあとですね。ようするに「近代社会」、「国民国家」の始まりの時代というわけです。 田舎町の印刷工の青年が、年老いた夫との満たされない生活をしている貴族の女性と禁断の恋に落ちます。 一応、時代劇なわけで、映し出される衣装とかの生活風俗、印刷技術なんか、結構面白いですね。平民の文学青年が「詩」を献上して貴族の女性と恋に落ちるなんていうのも、時代劇ならではなのでしょうね。 で、バルザックですからね、駆け落ちして、舞台がパリに移ります。二人が迷い込む世界は「貴族のサロン」、「劇場」、「新聞社」です。で、その三つの世界が「新聞」が報道する「記事」をめぐって、まあ、今風に言えばどんなふうに「炎上」するのかという展開で、「サロン」=旧来の政治権力、「劇場」=金権社会、「新聞記事」=フェイク情報と読み替えれば、映画は、そのままリアル現代劇の様相です。 「新聞」という新しいメディアをネタに小説を書いたバルザックが、旧来の価値観の底が抜けた新たな社会の到来のインチキを見破る慧眼の持ち主であったことに異論はありません。そこから現代という時代を批評的に描こうという、この映画のグザビエ・ジャノリ監督の意図のようなものも納得です。 ただ、なんとなく見ながら浮かんできたんです。 現在の眼から見れば、あの頃からの繰り返しの連続で、そこで失われたのが「純愛」とか「文学」とかだったと言われてもなあ・・・・。 時代という意味では、とても面白い舞台で、描かれている社会相は文学史のみならず、近代社会の成立ということを振り返る上でも興味深かった作品ですが、物語としては、まあ、そんな感想でしたね(笑)。 で、インチキ・ジャーナリズムの親玉役で、この日見た、もう1本で主役のメグレをやっているジェラール・ドパルデューが、打って変わって暑苦しい金の亡者のような役を好演していたのですが、メグレを見ながら、同じ俳優だとは気づきませんでしたね(笑)監督 グザビエ・ジャノリ原作 オノレ・ド・バルザック脚本 グザビエ・ジャノリ ジャック・フィエスキ撮影 クリストフ・ボーカルヌ美術 リトン・デュピール=クレモン衣装 ピエール=ジャン・ラロック編集 シリル・ナカシュキャストバンジャマン・ボワザン(リュシアン・ド・リュバンプレ)セシル・ドゥ・フランス(ルイーズ・ド・バルジュトン)バンサン・ラコスト(エティエンヌ・ルストー)グザビエ・ドラン(ナタン)サロメ・ドゥワルス(コラリー)ジャンヌ・バリバール(デスパール侯爵夫人)ジェラール・ドパルデュー(ドリア)アンドレ・マルコン(デュ・シャトレ男爵)2021年・149分・R15+・フランス原題「Illusions perdues」2023・07・26・no95・パルシネマno61
2023.07.26
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「春や昔 十五万石の 城下町」子規句碑 徘徊日記 2023年9月10日(日)その1 松山あたり春や昔 十五万石の 城下町 正岡子規 デカい石碑がありました。ボクにも読めます。「坂の上の雲」を思い出しましたね。「その春も、今となっては昔のことだ」 ということでしょうか。子規が日清戦争の従軍記者として出発する直前の句だそうです。明治28年、1995年のことですが、帰国の船で血を吐いて子規を名乗りはじめた年ですね。子規というのは、ホトトギスという鳥の別名というか、「鳴いて血を吐く」といわれている鳥の名ですね。子規の苦難の始まりの年ですね。 司馬遼太郎は、傑作「坂の上の雲」(文春文庫・全8巻)の開巻、第1章の章名に「春や昔」を使っていたと思います。 松山は坂の上の雲の町なのですね。ここはJR松山駅の駅前です。 隣に立っているは、松山済美高校の高校生が作った人権啓発ののモニュメントだそうです。 一夜明けた松山駅前です。泊まった、松山ターミナルホテルの前です。 さて、ここからどうしましょうかね。どこかでサカナクンと落ち合うのでしょうが、今のところ連絡はありません。チョット、松山徘徊ですね。じゃあ、行ってきまーす(笑)ボタン押してね!
2023.09.14
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