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王兵(ワン・ビン)「青春」元町映画館 すごい映画を見ました。現代中国の資本主義化の心臓部ともいえる長江デルタ地域、織里という町にある子供服縫製工場で働く、ほぼ、十代後半から二十代の青年男女の住居とセットになっている仕事場での日常を、おそらく、監督であるワン・ビン一人のカメラで徹底的にドキュメントした215分でした。 「死霊魂」で度肝を抜かれたワン・ビン監督の最新ドキュメンタリー「青春」です。 視点の取りようによって、まさに資本主義の搾取の現場のドキュメントであり、青春を生きる若者たちの出会いの姿であり、田舎からやって来た素人の少年・少女たちが縫製の、ミシン仕事のプロになっていく成長譚であり、まあ、まとめていえば、徹底的な現実凝視のフィルムの中で、年収3万元にも満たない低賃金住み込み労働の青年たちの生活の姿、今を生きている姿が、生き生きと、いってしまえば肯定的に描かれていて、だからこそ、現代中国では、決して公開されない、いや、出来ないであろうという、実にスリリングで、矛盾に満ちたフィルムでした。ワン・ビン監督は怒りや同情を封印して、被写体である「人間」に肯定的に焦点を当てることで、中国にかぎらず「現代社会」の現実である貧しさを文字通り根底から描くことに成功している傑作でした。もうそれ以上言葉はないですね。 実は、この映画を見終えての帰路、電車の中で貧血を起こし、スマホに夢中の乗客たちは青ざめてしゃがみこんでいる老人に気付くこともなく、意識朦朧とした老人は普段は乗るはずもないタクシーで、やっとのことで帰宅し、翌朝、日曜日の救急診療に転がり込んで、まあ、事なきを得るという経験をしたのですが、「映画」に当たったのでしょうかね(笑)。 腹痛と貧血の冷や汗に耐えながら、ものすごい勢いでミシンを操っていた青年たちを思い浮かべながら「もう少し、世界を見てからでないとな。」 とか、なんとか、意地を張ってはいたのですが、もう年ですね(笑)。それにしても、意識朦朧の老人を励ましてくれた王兵(ワン・ビン)監督に拍手!でした。監督 ワン・ビン2023年・215分・フランス・ルクセンブルク・オランダ合作原題「青春 Youth (Spring)」2024・05・18・no070・元町映画館no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.19
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濱口竜介「悪は存在しない」元町映画館 濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」を見ました。 つくづく、この監督の作品との相性の悪さを実感して見終えました。なんだかわけがわからない気分で座り込んでいると、ちょうど、一席空けた隣の席に座っていらっしゃった長髪でおひげを蓄えていらっしゃった、まあ、20代の後半か30代くらいのの男性が他のお客たちが出て行かれるのを待つような様子で座っておられたので、思わず声をかけました。「おもしろかったですか?」「はい。」「この監督の作品は、よくご覧になるのですか?」「はい、ドライブマイカーとか見ました。」 まあ、それだけの会話だったのですが、ちょっと、ホッとしました。 ボクには、始まりから最後まで、なんだかわからない落ち着かなさしかなくて、とどのつまりのラストは、ただ、ただ、ポカーンでした。 もう、それ以上、あれこれ言うことはないのですが、少し、言い訳を書くと、実は、この監督の作品は神戸を舞台にした長編に始まって、短編のオムニバス、何とか賞だかで騒がれた、隣の男性がご覧になったらしい作品まで、みんな見ているのですが、どの作品も、作品の方からスーッと離れていく感覚なのですね。 今回は、「おかワサビ」の話、「水を汲む」シーン、「薪を割る」シーンなんかが、スーッと、映画がボクから離れていった記憶として残ったのですが、どれも、ボクの生活の記憶に少しずれているというか、なんかウソやなと感じたからですね。 たとえば、一つ上げれば、ワサビは畑でも、まあ、田舎の家なら裏庭の日陰でも育ちます。葉っぱは、水気が少ないだけで、水辺のワサビと同じです。信州での、そばの薬味としての扱われ方は知りませんが、「そうなの?何を大げさな。」 という感じ浮かんできました。 映画が、そのシーンで背景化しようとしているのは「文化」や「自然」の歴史性というようなものかなとか思いながらも、たとえば「自然」に対する、この「話題」の作り手の作為というか、思いつきのようなものを感じてしまっているのかもしれませんが、そのあたりから、主人公らしき男性、そして、親子の「自然さ」に対する、ほんの幽かな疑い、まあ、白々しさの感覚から離れらなくなってしまうのですね。 その結果でしょうか、あたかも静かに錯綜するかの自然な会話が、異様に劇的というか、思わせぶりな意味を漂わせ始めて、まあ、それはそれで面白いのですが、やっぱり、「なんだかなあ???」 が浮かんできてしまうのです。 で、あのラストで、題名が「悪は存在しない」ですからね。「観る者誰もが無関係でいられない、心を揺さぶる物語」 なのだそうですが、今度は「よし!よし!」かなと期待して見たのですが、ボクには、やはり、「無関係」でした(笑)。 この人の映画、「青年団」という劇団の役者さんたちが出てくるのが楽しみの一つなのですが、今回も、少し老けられた山村崇子さんとかの姿を見つけたりしてなつかしかったですね。監督・脚本 濱口竜介撮影 北川喜雄編集 濱口竜介 山崎梓音楽 石橋英子キャスト大美賀均(巧)西川玲(花)小坂竜士(高橋)渋谷采郁(黛)菊池葉月三浦博之鳥井雄人山村崇子長尾卓磨宮田佳典田村泰二郎2023年・106分・G・日本2024・05・07・no065・元町映画館no245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.18
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イ・ハン「マイ・スイート・ハニー」キノシネマ神戸国際 昨日はトニー・レオン見たさに中国製スパイ・ノワール「無名」でしたが、今日はユ・へジン見たさで、韓国製ラブ・コメ映画でした。見たのはイ・ハン監督の「マイ・スイート・ハニー」で、同居人と同伴鑑賞でした。 見ながら、思わず声を出して笑いました。ユ・へジンさん、さすがですね。たぶん、実年齢は50歳を超えていらっしゃると思いますが、この映画で演じていらっしゃるのはチャ・チホさんといって、45歳、お菓子会社の研究員だそうで、豆腐チップを開発していて、お菓子ばっかり食べていて、栄養失調状態だという中年男でした。 目覚まし時計が山ほどある部屋で目覚めて、時計の指示する時刻どおり行動するという、まあ、ちょっとアブナイ人物を演じていらっしゃるのですが、あのお顔の唐変木が45歳にして、初めて恋に落ちるのですね。トンチンカンをいかに演じるか勝負だったと思うのですが、さすがの演技でしたね。 で、その唐変木のお相手は、大学生の娘さんと「私たち」で暮らしていらっしゃるイ・イルヨンさんというシングル・マザーで、演じていらっしゃるのがキム・ヒソンさんとおっしゃる女優さんでしたが、可愛らしいお顔立ちなのですが、この方も、脱・世俗というか、かなりぶっ飛んでいらっしゃるキャラなのですが、なかなかの熱演で、笑えました。 チラシにある通り、ちょっと変な二人の「最初の恋」と「最後の恋」の激突! で、ベタといえばベタ、アンマリといえば、あまりにアンマリな展開ですが、まったくシラケさせないのは、主役のお二人の熱演ももちろんですが、韓国映画の実力! という気がしました。 例えば、チン・ソンギュさんという男前の俳優さんが演じるビョンフンさんという、チャ・チホさんの上役の室長さんとかが登場するのですが、その彼が部下を相手にこんな演説をするシーンがあります。「僕がなんで出世が早いか分かるか?」「お父さんが社長だから」「違う」「祖父が創業者だから」「違う」「母親が理事だから」「違う。」「???」「愛だ」 要するに、自分はモテるということを言いたいだけのおバカ演説なのですが、笑えるんですね。 他にも、大学生のお嬢さんの、これでもか! と言わんばかりのチョー甘いマスクの恋人が、なんと、軽トラックを家の前に横付けして、二階のベランダに向かって「ロミオ」じゃあるまいし! の告白・熱唱シーンといい、薬屋さんのおねーさんとの人生相談といい、うまいものです。 まあ、なにはともあれ、カップルのお二人に拍手!ですね。監督 イ・ハン脚本 イ・ビョンホン撮影 イ・テユン音楽 チョ・ヨンウク美術 キム・ヒョノク編集 ナム・ナヨンキャストユ・ヘジン(チャ・チホ)キム・ヒソン(イ・イルヨン)チャ・インピョ(兄ソクホ)チン・ソンギュ(上役ビョンフン)ハン・ソナ(ウンスク)2023年・118分・G・韓国原題「Honey Sweet」2024・05・14・no068・キノシネマ神戸国際no09追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.16
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谷川俊太郎「みみをすます」 中村稔「現代詩人論 下」(青土社)より 中村稔の「現代詩人論」(青土社)の下巻です。上巻もそうでしたが700ページを越える大著です。下巻では飯島耕一、清岡卓行、吉岡実、大岡信、谷川俊太郎、安藤元雄、高橋睦郎、吉増剛造、荒川洋治の9人の詩人が論じられています。 フーン、とか思いながら最初に開いたページが谷川俊太郎でした。 谷川俊太郎は多能・多芸の詩人である。「ことばあそび」の詩も書いているが、平仮名だけで書いた詩集「みみをすます」がある。一九八二年に刊行されている。これには表題作「みみをすます」の他、五編の詩が収められているが、私はやはり「みみをすます」に注目する。ただ、たぶん一五〇行はゆうに越す長編詩なので、全文を紹介することは到底できない。かいつまんでこの詩を読むことにする。 ここで論じられているのはこの詩集ですね。 本棚でほこりをかぶって立っていました。谷川俊太郎「耳を澄ます」(福音館書店)、チッチキ夫人の蔵書ですが、ボクも何度か読んだことのある懐かしい詩集です。箱入りです。箱から出すと表紙がこんな感じです。 わが家の愉快な仲間たちが小学生のころ、多分、教科書で出逢った詩です。今でも教科書に載っているのでしょうか。 子供向けのやさしい詩だと思っていましたが、今回読み直してみて、少し感想がかわりました。 まあ、それはともかくとして、中村稔はこう続けています。 まず短い第一節は次のとおりである。みみをすますきのうのあまだれにみみをすます いかに耳を澄ましても、私たちは、昨日の雨だれの音を聞くことはできない。読者は不可能なことを強いられる。次々に不可能な行為を読者の耳に強制する。みみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすます 恐竜の呻きを聞くことができるはずはもないし、燃える木の叫び、プランクトンの音、まして自分の産声を聞くことができるはずもない。「みみをすます」は全編、こうした、いかに耳を澄ましても聞くことができるはずもない音、声などに耳を澄ますのだ、という。作者は読者が空想の世界、想像の世界に遊ぶように誘っているのである。読者が空想、想像の世界に遊ぶ愉しさを知るように、この詩を読者に提示しているのである。たとえば、山林火災で樹木が燃え上がる時、燃える樹木が泣き叫んでいると思いやることは私たちにとって決して理解できないことではない。この感情を拡張し、深化し、豊かにする契機をこの詩は私たちに提示しているのである。 こうした試みによって、谷川俊太郎は現代詩に新しい世界をもたらしたのである。彼でなくてはできないことであった。(P269~P370) ただ、ただ、ナルホド! ですね。この詩が書かれた時代、つまり、1980年代の始めころから、当時、三十代だったボクたちの世代が、十代で出逢った戦後詩の世界に新しい風が吹き始めていたのですね。 この詩を学校の教科書で読んで大きくなった愉快な仲間たちも、もう、40代です。今でも教科書に載っているのか、いないのか、そこのところはわかりませんが、小学校や中学校の教員とかになろうとしている、若い人たちに、是非、手に取ってほしい、読んでほしい詩集! ですね。 せっかくなので、谷川俊太郎の詩集にもどって中村稔が引用しきれなかった「みみをすます」全文を写してみたいと思います。みみをすます 谷川俊太郎みみをすますきのうのあまだれにみみをすますみみをすますいつからつづいてきたともしれぬひとびとのあしおとにみみをすますめをつむりみみをすますハイヒールのこつこつながぐつのどたどたぽっくりのぽくぽくみみをすますほうばのからんころんあみあげのざっくざっくぞうりのぺたぺたみみをすますわらぐつのさくさくきぐつのことことモカシンのすたすたわらじのてくてくそうしてはだしのひたひた・・・・・にまじるへびのするするこのはのかさこそきえかかるひのくすぶりくらやみのおくのみみなりみみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすますそのよるのみずおととびらのきしみささやきとわらいにみみをすますこだまするおかあさんのこもりうたにおとうさんのしんぞうのおとにみみをすますおじいさんのとおいせきおばあさんのはたのひびきたけやぶをわたるかぜとそのかぜにのるああめんとなんまいだしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすますくさをかるおとてつをうつおときをけずるおとふえをふくおとにくのにえるおとさけをつぐおととをたたくおとひとりごとうったえるこえおしえるこえめいれいするこえこばむこえあざけるこえねこなでごえときのこえそしておし・・・・・・みみをすますうまのいななきとゆみのつるおとやりがよろいをつらぬくおとみみもとにうなるたまおとひきずられるくさりふりおろされるむちののしりとのろいくびつりだいきのこぐもつきることのないあらそいのかんだかいものおとにまじるたかいびきとやがてすずめのさえずりかわらぬあさのしずけさにみみをすます(ひとつのおとにひとつのこえにみみをすますことがもうひとつのおとにもうひとつのこえにみみをふさぐことにならないように)みみをすますじゅうねんまえのむすめのすすりなきにみみをすますみみをすますひやくねんまえのひゃくしょうのしゃっくりにみみをすますみみをすますせんねんまえのいざりのいのりにみみをすますみみをすますいちまんねんまえのあかんぼのあくびにみみをすますみみをすますじゅうまんねんまえのこじかのなきごえにひゃくまんねんまえのしだのそよぎにせんまんねんまえのなだれにいちおくねんまえのほしのささやきにいっちょうねんまえのうちゅうのとどろきにみみをすますみみをすますみちばたのいしころにみみをすますかすかにうなるコンピュータにみみをすますくちごもるとなりのひとにみみをすますどこかでギターのつまびきどこかでさらがわれるどこかであいうえおざわめきのそこのいまにみみをすますみみをすますきょうへとながれこむあしたのまだきこえないおがわのせせらぎにみみをすます 中村稔が言うとおり、結構、長い詩です。あのころと違った感想と上で書きましたが、今回読み直して、たとえばしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすます というあたりに、今の、ボクのこころは強く動くのですが、あのころには、その感じはあまりなかったわけで、この詩が「ひらがな」で書かれていることの意味というか、効果というか、が、子供に向けてということではなくて、ボクのような年齢になった人間の、まあ、年齢は関係ないのかもしれませんが、ある種の「記憶」は「ひらがな」である! ということこそ、この詩の眼目だったんじゃないかという驚きですね。 詩人は「ひらがな」という方法の意味についてわかってこう書いているにちがいないのでしょうね。実感としてとしか言えませんが、「小学校の足踏みオルガン」ではなくて、「しょうがっこうのあしぶみおるがん」という表記が、老人の思い出を、記憶の底の方から揺さぶるのです。大したものですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.15
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チェン・アル「無名」シネリーブル神戸 ボクでも知っている香港映画のスター、トニー・レオンがあの顔でこっちを見ているポスターとか、上のチラシとかを見て、「やっぱり見ておきましょう!」 と思っていました。 で、神戸では封切りから10日くらいたっていますが、最初は、まあ、連休中ということもあって、ずっと満員でしたが、ようやく落ち着いてきたのを見計らってやって来たというわけです。チェン・アル監督の「無名」です。 1940年代の上海が舞台で、日本軍の特務、共産党の工作員、国民党、南京政府の政治保衛部、とりあえず、そのあたりが入り乱れてのスパイ映画でしたが、そこそこ面白かったですね。 この時代の上海は、まあ、わけが分かんない世界なのですが、国民党も重慶にいる蒋介石と南京の汪兆銘が争っていて、中日戦争の最中なのに、蒋介石は米・英と組んでいて、延安の共産党はソビエト・ロシアと、で、南京政府は日本と、というわけで、シッチャカメッチャカなわけで、なんでもありの舞台ですね。要するに、奇々怪々の時代なのです。 実際、トニー・レオン演じる、汪兆銘政権の保衛部のフーさんも、その部下イエくんを演じるワン・イーボーくんも、どうせ二重、三重スパイに決まっていると思っていたら、ホントにそういうことだったので笑ってしまいました。 間抜けだったのは、一番、偉そうにしていた日本の特務の渡部さんだったという結末は、ちょっと、中国でのウケ狙いを感じるご都合主義を感じましたが、彼が繰り広げる大東亜戦争遂行をめぐっての近衛、東条、石原のドタバタ無責任三つ巴論も、結構、外側からの視線という趣で面白かったのですが、満州での権益もみんな失って、スパイする必要がなくなった渡部くんが、「アレだけ迷惑をかけておいて、家に帰ってノンビリ百姓とかできると思うなよな!」 とばかりに、あっさりイエくんにとどめを刺されるのを見ていて、「やっぱり、中国共産党プロパガンダ映画かな?」 とか思ったりもしたわけです。 映画のシーンが、最後は香港に戻って来て、そのまた最後の最後に、イエくんが共産主義者なんだよ! と告白するシーンで終わるのも、意味深な気がしましたが、まあよくわかりませんね。 ボク自身は、見ていて、この時期の上海にヨーロッパ系というか、たとえば白系ロシア人とかの白人が全然いないことが、何となく不思議だなあとか考えながら、そういえば、この時期に堀田善衛と武田泰淳が上海にいたんだよなと思い出したのですが、これは、まあ、映画とは何の関係もない話ですね(笑)。監督・脚本・編集 チェン・アル:程耳撮影 ツァイ・タオキャストトニー・レオン:梁 朝偉(フー)ワン・イーボー:王一博(イエ)ジョウ・シュン(チェン)ホアン・レイ(ジャン)森博之(渡部)ダー・ポン(タン)エリック・ワン(ワン)チャン・ジンイー(ファン)2023年・131分・G・中国原題「無名」「Hidden Blade」2024・05・13・no067・シネリーブル神戸no242追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.14
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ノラ・フィングシャイト「システム・クラッシャー」元町映画館 2024年の5月、連休の最中でした。これならあんまり人おらんやろ。 題名の意味がよくわからないので、まあ、適当に狙って行ったのがノラ・フィングシャイトという、多分、ドイツの女性の監督の「システム・クラッシャー」という作品でした。「システム・クラッシャーって何?」 そう思って見ていたのですが、なんというか、もちろん、ボクなんかにはとても打ち返すことのできない真ん中高めの剛速球のストライクを投げ込まれ、キャッチャーもいて、その後ろに防球ネットを立てて見ていたにもかかわらず、びっくりしてひっくり返った! 感じの映画でした。とりあえず立ち上がって、拍手!拍手! 画面に登場した主人公のベニーという9歳だかの少女の行動の一部始終が映し出されていくにつれて、その言葉は、彼女、ベニーの生活圏において、常識的な秩序を維持しようと努力している医者や、教員や、ソーシャルワーカーやといった大人たち、それから、学校とか、施設とか、家庭とかで秩序のルールを守ったり、頼ったりして暮らしている大人や子供、親や、兄弟や、友達、そういう人たちが、そっと目配せして「彼女はあれなのよ。」 と囁き合う言葉だということのようでした。 実際に映画の中では、この言葉は、一度出て来たかどうかでしたし、もちろん「あれ」と口に出す人なんて、誰もいません。にもかかわらず、彼女は徹底的に「あれ」扱いでした。それが、この映画の描きかたなのですが、ボク自身は見ながら30年以上も昔の体験を思い出していました。 あの頃勤めていた仕事場でも、職員は、残念ながらボク自身も含めて、まあ、映画のベニーと症状はちがいますが、学校に来ることができない子供たち と出会うと、とりあえず、あれこれ試行錯誤はするのです。しかし、結局、医者やカウンセラーへ誘導し、「○×障害」とか「△△病」とか、症状に名前が付けられて、職員(ボク)自身は個人的な対応から解放されて一安心するというようなことが、何度もあったわけですが、その、何度もの、当の子供たちに安心がやってくることが、一度でもあったわけではありませんでした。子どもたちは、どうしようもない生きづらさを抱えて、そのまま社会に出て行ったのでした。そんなことを思い出しながら見ていると、映画の終盤、逃げていくベニーを追いかけながら、諦めて立ち尽くしてしまう通学付添人ミヒャの姿 が映し出されました。ミヒャは、この映画の中でベニーとつながる可能性を感じさせる数少ない人物だったのですが、その彼が立ち尽くすのを見て、ボク自身が打ちのめされたような気分になりましたね。 監督は情け容赦なく、ベニーのありのままを描いていきます。見ているこちらに、共感や同情、あるいは理解さえ求めているニュアンスはまるでありません。打てるもんなら打って見ろ! といわんばかりの剛速球です。しかし、徘徊老人はこの少女ベニーと、映画を撮ったノラ・フィングシャイトという監督に鷲づかみにされてしまったんです。 少女ベニーに対しては、さすがに、どうしてあげたらいいのかはわからないのですが、ガンバレ、あなたは何も悪くない! という気持ちだけは伝えてあげたいんですよね。 飴玉くわえている上のチラシの顔、イイでしょう!(笑) これ演技なんですよね。ベニーもすごいですが、演じたヘレナ・ゼンゲルという少女もすごいですね。拍手! それから、70になろうかという老人に、そんなふうに豪速球を投げ込んだ監督さん、確かに、少々高めでアッ!と思いましたが、すばらしい作品だと思いました。アホな感想しか書けなくてごめんなさいね、でも、あなたのボールの威力は腹に応えましたよ。拍手! でした。 監督・脚本 ノラ・フィングシャイト撮影 ユヌス・ロイ・イメール編集 ステファン・ベヒャンガー音楽 ジョン・ギュルトラーキャストヘレナ・ゼンゲル(バーナデット「ベニー」・クラース)アルブレヒト・シュッフ(非暴力トレーナー:ミヒャ)ガブリエラ・マリア・シュマイデ(ソーシャルワーカー:バファネ)リザ・ハーグマイスター(母:ビアンカ・クラース)メラニー・シュトラオプビクトリア・トラウトマンスドルフマリアム・ザリーテドロス・テクレプラン2019年・125分・ドイツ原題「Systemsprenger」2024・05・04・no064・元町映画館no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.13
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アンドレアス・ドレーゼン「ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ」シネリーブル神戸 2024年のゴールデンウィークも終わってしまいましたが、まあ、3月くらいからその気配は感じてはいたのですが、映画館は結構盛況です。メデタイことなのですが、人がいない映画館にすっかり慣れてしまった徘徊老人にはチョット・・・、というわけで、この映画はいないだろうを探して見つけたのがこの作品でした。 アンドレアス・ドレーゼンというドイツの監督の「ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ」です。 会場は数人という所で、ノンビリ見ましたが、アタリ! でした。 ドイツのブレーメンという町のクルナスさんというトルコ系の移民の家族の長男、ムラートくんという二十歳前の青年が、町のイスラム教の祈祷所でオルグされパキスタンに行ってしまうのですが、そこで、タリバンとして米軍に逮捕されて、悪名高い、あのグアンタナモ収容所に収監されてしまうというのが事件の背景でした。だから、アフガニスタンを本拠地化したタリバンを標的化してやっつけるのに、アメリカが躍起になった2001年の9月11日のテロ事件以降の世界が舞台でした。 で、映画が描いた事件というか、物語は、この無実の青年の奪還なのですが、主役はママのラビエ・クルナスさん、演じているのはメルテン・カプタンという、実はコメディアンらしいのですが、デカい、中年のおばちゃんで、相手役が「まあ、ドイツのインテリはこういう顔してるんでしょうな」という感じの弁護士ベルンハルトさんという二人組の、世界を股にかけて飛び回る物語でした。「電話帳で予約したわよ!」 と叫んで、弁護士事務所に登場し、インテリ弁護士を圧倒してしまう始まりのシーンは見ものですよ。笑えます! ベンツのスポーツカーのアクセルを目いっぱい踏み込んで、ワキミ運転はするわ、一方通行を平気で逆進して、対向車に明るく挨拶するわの、このトルコから来たおばちゃんが、とどのつまりは、アメリカの最高裁にジョージ・W・ブッシュを訴えるという展開で、かなり楽しい映画でした。 でもね、ベトナムの頃でもそうだったんだと思いますが、国外の米軍基地を治外法権の収容所にすることで、国内向けには「正義」を演出してきたアメリカの世界の軍事統治の実相 をかなり鋭くえぐって見せているところとか、ヨーロッパの、この映画の場合はドイツですが、流入する移民政策の裏側 というか、あまり知られていない部分を暴いているわけで、これだけの社会批判を「お笑い」的にヒューマン・コメディで描いてみせる この監督の手腕には感心しました。拍手!ですね。で、なんといっても、最初から最後まで、まあ、疲れ果てながら、大活躍のおカーちゃんラビエ・クルナスさんを演じていたメルテン・カプタンに拍手!でした。 そこがトルコ的なのか、そのあたりはよくわかりませんが、おかーちゃんは大忙しでブッシュとか相手にしているのですが、おとーちゃんは知らん顔とか、それでいて、おカーちゃんがあこがれているベンツのスポーツカーを買ってあげるとか、いいご夫婦でしたね。もちろん、二人いる弟君たちもいいカンジ、いい家族でしたよ。 そのあたりの描き方が、この監督はうまいですね。 この映画で弁護士を演じていたのが、アレクサンダー・シェアーという俳優さんでしたが「ああ、あの人だ!」 と、三年ほど前に見た東ドイツの秘密警察のスパイだった「グンダーマン」という人を描ていた作品でグンダーマンを演じていた人だった人だと気づいて、この映画が、同じアンドレアス・ドレーゼンという監督の作品だということにようやくたどり着くという迂闊さだったのですが、この人たちの名前は、俳優も監督も今回で覚えました(笑)。監督 アンドレアス・ドレーゼン脚本 ライラ・シュティーラー撮影 アンドレアス・フーファー美術 ズザンネ・ホップフ編集 イョルク・ハウシルトキャストメルテン・カプタン(母ラビエ・クルナス)アレクサンダー・シェアー(ベルンハルト・ドッケ)マーク・ストッカーチャーリー・ヒュブナーナズミ・キリク2022年・119分・G・ドイツ・フランス合作原題「Rabiye Kurnaz gegen George W. Bush」2024・05・10・no066・シネリーブル神戸no241追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.12
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100days 100bookcovers Challenge備忘録 (81日目~90日目) コロナが蔓延し始めた2020年の5月に友達と始めた「ブックカヴァーチャレンジ」の備忘録です。当時、フェイスブック上とかで「7デイズ・7ブックカヴァーズ」というのが流行だったのですが、お調子者のわれわれは「100デイズ、100ブックカヴァーズ」に挑戦したのですが、コロナの流行が、何となく忘れられて、戦争とか、神戸や東北の震災とかと同じように、教科書の片隅に記載される歴史事象の一つであったかのような「空気」が蔓延し始めていて、その上、お正月早々、能登半島を大きな地震が襲い大勢の人が苦しんでいらっしゃる2024年の3月現在、ようやく97冊目にたどり着いて、ゴールを目前にしています。この投稿は2024年5月で、6年目に突入しましたが、まだゴールはしていません(笑)。 紹介してきた書物のライン・アップに、格別の意味があるわけではありませんが、ほぼ、6年にわたるコロナ社会の生活を映してきた鏡であったかもしれません。少なくとも、紹介に参加した5人のメンバーは確かに6年の歳月を生きてきたわけですし、できれば、その時間を忘れないための備忘録でもあるわけです。 それぞれの書名か表紙写真をクリックしていただければリンク先の記事にたどりつけると思います。no81(2022・02・10 K・S)フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(高杉一郎訳・岩波書店)no82(2022・03・05 T・K)伊集院静「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社文庫)no83(2022・03・22 E・D)久住邦晴「奇跡の本屋を創りたい」(ミシマ社) no84(2022・04・08 T・S) 山下和美「天才柳澤教授の生活1~8」(講談社文庫)no85(2022・05・06・N・Y)なかにし礼「長崎ぶらぶら節」(文藝春秋)no86(2022・05・30・K・S)川端康成「雪国」(新潮文庫)no87(2022・06・30・T・K)ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集」(岸本佐知子訳 講談社文庫)no88(2022・07・30・E・DE)チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(くぼたのぞみ訳 河出書房新社)no89(2023・08・31・T・S)嵐山光三郎「漂流怪人・きだみのる」(小学館文庫)no90(2022・10・28・N・Y)檀ふみ『父の縁側、私の書斎』(新潮社)追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目)(81日目~90日目)というかたちまとめています。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.10
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乗代雄介「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会) 乗代雄介という作家にはまっています。まあ、何が面白いのかよくわからないままなのですが、とりあえずみんな読んでみようか!? というはまり方です。 というわけで、今回の読書案内は「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会)という評論集です。少し長めの評論が一つ、書評、創作をまとめた本です。具体的な内容は後ろに目次を貼りましたからそれをご覧ください。 案内するのは(まあ、案内になっていない木もしますが)表題の評論「掠れうる星たちの実験」です。 読む作品、読む作品、語り手や登場人物の配置について、かなり意識的な方法論に基づいて書いているんじゃないかと、まあ、読み手のボクに思わせる乗代雄介という作家の「小説」に対する、自分では「考え事」といっていますが、まあ、小説論というのは少し大げさかもしれませんが、ようするに「考え事」が書かれている50ページほどの論考です。 で、手に取って、まあ、最近は評論とか面倒なのですが、ついつい、読み続けたきっかけは、チョット、ボクには並べて考えるなんて、とても思いつきそうもない二人の人物を引っ張り出してきて「考え事」を始めていたからです。 二人とは、「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーと「遠野物語」の柳田國男でした。まず、この取り合わせが面白いと思いませんか? このお二人が、乗代雄介の「考え事」に呼び出されていると聞いて、「語り」と「記述」、「書きことば」と「話ことば」、まあ、そのあたりを思い浮かべられた方は、なかなか、鋭いと思います。 で、書き出しあたりに、乗代雄介はこんなことをいっています まずは「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが、子供の頃エイグルティンガー先生に土曜日ごとに連れていかれた自然科学博物館について述懐する場面を見てみたい。ペアを組んだ女の子の汗ばんだ手、守衛の注意から、インディアンやエスキモー、鹿や南に渡っていく鳥の剥製を並べたジオラマ展示について詳述された後で「でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ」とホールデンは語る。「何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちのほうさ」と続け、さらに変わるとは厳密にいえば「こっちが年をとる」ようなことではないと注釈をくわえている。(P11) 作家の考え事は、「変わること」と「変わらないこと」に焦点をあてて進みそうなのですが、続けて作家が引用したのは、下のような二つの文章でした。 こっちがいつも同じではないという、それだけのことなんだ。オーバーを着てるときがあったり、あるいはこのまえ組になった子が猩紅熱になって、今度は別な子と組になってたり、あるいはまた、エイグルティンガー先生に故障があって代わりの先生に引率されてたり、両親がバスルームですごい夫婦喧嘩をやったのを聞かされた後だったり、道路の水たまりにガソリンの虹が浮かんでくるとこを通ってきたばかりであったり。要するにどこか違ってるんだ―うまく説明できないけどさ。いや、かりにできるとしても、説明する気になるかどうかわかんないな。(「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー) 誰にでもいつ行ってもきっと好い景色などというものは、ないとさえ思っている。季節にもよろうしお天気都合や時刻のいかんもあろうし、はなはだしきはこちらの頭のぐあい胃腸の加減によっても、風景はよく見えたり悪く見えたりするものだと思っている。(「豆の葉と太陽」柳田國男) 乗代雄介はサリンジャーがホールデン少年に「説明する気になるかどうかわかんないな。」 と言わせていることの、小説の書き手にとっての問題について考えてみようとしているわけですが、それがどういう結論にたどりつくのか、あるいは、たどり着かないのか、そのあたりは、この論考をお読みいただくほかはないわけですが、この「考え事」の題としている「掠れうる星たち」を暗示する二つの引用で論をとじています。「自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。」(柳田國男「幻覚の実験」)「おまえの星たちはほどんそ出そろったか?おまえは心情を書きつくすことにはげんだか?」(サリンジャー「シーモア序章」) 最近、ボクが、小説とか読んだり、映画とかを見ながら、引っかかっているのは、読んだり見たりしているボクが、それぞれの作品のどこに「ホントウノコト」を感じているのか、わけがわからないと思いながら、そのわけのわからなさに惹かれるのは何故か、そこにぼく自身が何を見たり、読んだりしているのか、まあ、そういうことで、できれば、それをちょっと言葉に出来ればいいのですが、「涙がとまりません」とか、「笑えました」とかいういい方でしか言葉にできないことを訝しく思っているのですが、乗代雄介という作家が、どうも、そのあたりのことにこだわって小説を書こうとしているようだと思わせる「考え事」でした。 要をえない案内ですが、ボクには、かなり面白い考え事でしたよ。で、本書の目次を貼っていきます。興味がわいたら、図書館へどうぞ(笑)。 目次評論掠れうる星たちの実験 P5書評 P61『職業としての小説家』村上春樹 『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』J・D・サリンジャー(金原瑞人訳) 『アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア短編集』フェルナンド・ペソア(近藤紀子訳) 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』ジェイ・ルービン編『ののの』太田靖久 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』J・D・サリンジャー(野崎孝、井上謙治訳) 『サピエンス前戯』木下古栗 『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』竹内康浩、朴 舜起 『柳田國男全集31』柳田國男 『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』ベン・マッキンタイアー(小林朋則訳) 『揺れうごく鳥と樹々のつながり 裏庭と書庫からはじめる生態学』吉川徹朗 『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』梯久美子 『いまだ、おしまいの地』こだま 『契れないひと』たかたけし 『自然な構造体 自然と技術における形と構造、そしてその発生プロセス』フライス・オットー 他(岩村和夫訳) 『記憶よ、語れ 自伝再訪』ウラジーミル・ナボコフ(若島正訳) 『鷗外随筆集』森鷗外(千葉俊二編) 『佐倉牧野馬土手は泣いている(続)』青木更吉 『松本隆対談集KAZEMACHI CAFE』松本隆 他 『現代児童文学作家対談5 那須正幹・舟崎克彦・三田村信行』神宮輝夫 『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット(東辻賢治郎訳) 『トンネル』ベルンハルト・ケラーマン(秦豊吉訳) 『今日を歩く』いがらしみきお 『手賀沼周辺の水害 ―水と人とのたたかい400年―』中尾正己 『海とサルデーニャ 紀行・イタリアの島』D・H・ロレンス(武藤浩史訳) 『声と日本人』米山文明 『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー(野崎孝訳) 『案内係 ほか』フェリスベルト・エルナンデス(浜田和範訳) 創作 P217八月七日のポップコーン センリュウ・イッパツ 水戸ひとりの記 両さん像とツバメたち 鎌とドライバー 本当は怖い職業体験 This Time Tomorrow 六回裏、東北楽天イーグルスの攻撃は フィリフヨンカのべっぴんさん 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.09
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浦沢直樹「あさドラ 8」(小学館) 2024年5月のマンガ便に入っていました。浦沢直樹くんの「あさドラ」(小学館)の第8巻です。 第7巻が2022年の11月の発売でしたが、第8巻は2024年の1月の発売で、ホント、久しぶりですね。浦沢くんも1960年生まれで、還暦を越えていらっしゃるわけで、お身体とか、いろいろあったのかもしれませんが、無事、ご復活のようでメデタシ、メデタシですね(笑) で、表紙を見るとアサちゃんのお顔が変わっていますね。ちょっと、オネーサンになられたようです。読み終えてわかりました。7巻が1964年、東京オリンピックの年が舞台だったのですが、第8巻では、それから4年後、1968年になっていました。 そもそもこのマンガは1958年の伊勢湾台風が始まりで、その時に12歳だった浅田アサちゃんが、1964年には、当然、18歳で、なんと、飛行機乗りになっていて、問題の「アレ」と戦うという展開だったわけですが、みなさん、お忘れでしょうね(笑)。 というわけで、まず、8巻の人物紹介と目次です。 前半、第52話の「オーディション」から第54話「1964年の青春」あたりまでが、高校時代ですね。同級生のヨネちゃんの歌手デビューとか、ミヤコちゃんの女子プロレスの話です。で、55話「潮騒の踊子」くらいから1968年、22歳になったアサちゃんに新しい出会いがありますね。それがこのシーンです。 このシーンに登場してきたのがリバー・エスリッジという脱走したアメリカ兵です。そうです。お話は、東京オリンピックをへて、ベトナム戦争の時代に突入してきたというわけです。 伊勢湾台風、東京オリンピック、和製ポップ歌手、女子プロレス、そしてベトナム戦争です。 浦沢直樹くんは「戦後」の日本を生きた人たちの姿、だから、1946年生まれの少女を主人公に描いているとボクは思っているわけですが、アサちゃんより8歳年下のボクが、このマンガに強く惹かれているのはそのあたりなのですね。 脱走アメリカ兵とくれば、次はべ平連(ベトナムに平和を市民連合)なわけですが、そのあたり、どうなるのでしょうね。「でな、このマンガ、アレはどうなったんかな?」 トラキチ君の言葉ですが、いや、ホント、このマンガのつかみはアレだったはずなんですが、どうなるんでしょうね。 まあ、なにはともあれアサちゃんはどんどん大人になるし、時代は70年代に突入となると、ほんと、目が離せませんね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.08
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会田薫「梅鶯撩乱1~5」(講談社) 2024年4月のトラキチクンのマンガ便に第1巻から第5巻まで揃いで入っていたマンガです。第5巻の奥付を見ると2014年発行となっていますから、ちょうど10年前の作品です。 会田薫の「梅鶯撩乱 全5巻」(講談社)です。「長州幕末狂騒曲」、ラプソディですね。登場人物というか、まあ、主人公は「奇兵隊」の創始者高杉晋作と、彼の後を継いで第三代総督になった赤根武人という人物でした。もっとも、マンガの時代が、薩長同盟前夜という時代ですから歴史活劇という面もありはするのですが、題名をご覧になれば、きっとハテナ? とお思いになる通り、実はラブロマンス・マンガなのですね。 主人公の高杉晋作という人物は1839年生まれで、1867年(慶応3年)に27歳で亡くなった人です。死因は戦死とか刑死とかではなくて病死です。結核ですね。で、おもしろきこともなき世をおもしろく という川柳のような一句が辞世として有名ですが、高杉東行(とうぎょう)と号してたくさんの漢詩を残していることでも知られている人ですね。 で、「梅鶯撩乱」というマンガの題名を見ていてその詩のことが浮かんできました。いきなり白文では読めないでしょうから、とりあえず、書き下しです。ちなみに檐という字は「えん」とも「かく」とも読むようですが、軒先という意味です。数日来鶯鳴檐前に鳴きて去らず 之に賦して与ふ一朝檐角残夢を破る二朝窓前に亦弄吟す三朝四朝又朝々日々懇来し病痛を慰さむ君は方に於いて旧親あるにあらず又寸恩我が身に在すにあらず君何ぞ我に於いて看識を誤る吾素より人間に容れられず故人吾を責むるに詭智を以てす同族我を目するに放恣を以てす同族故人尚容れず而して君吾を容るる遂に何の意ぞ君去る勿れ老梅の枝君憩うべし荒溪の湄(みぎわ)寒香淡月は我が欲する所君が為に鞭を執って生涯を了らん ここ、数日、朝毎に軒先の梅の枝にやって来る鶯の声が詩情を喚起しての詩ですが、このマンガに「梅鶯撩乱」と題を付けた作者会田薫の頭に浮かんでいるのはこの詩のようです。 マンガは高杉晋作と遊女「此の糸」こと、「おうの」との出逢いで始まります。 ここに 、いかにも、今ふうの少年として描かれているのが晋作です。ここで出逢った二人、晋作はこの時「谷梅之助」を名乗ります。梅が晋作であり、鶯が遊女「此の糸」であるというロマンスですが、まあ、高杉晋作の生涯について少し知っていれば悲劇でしかないロマンスだということにすぐ気づいてしまう始まりですね。上の詩の最後の5行に、とても、その時代とは思えない率直な告白をおもわせる表現があって、驚きました。而君容吾果何意君勿去老梅之枝君可憩荒溪之湄寒香淡月我所欲爲君執鞭了生涯 ちなみに、もうひとりの主人公赤根武人は、この日、同じ遊郭で、遊女琴乃と出会います。遊郭に売られてきた「おうの」をかわいがり、おうのも、また、ただ一人信じた姐さん遊女が琴乃でした。 第1巻が描いているのは文久3年(1863年)ですから、高杉にはあと数年の命しか残されていません。高杉、赤根がともに師とした吉田松陰が大獄で首を刎ねられたのが1959年ですから、それから4年、そして、物語はこれから4年です。 まあ、そういう時代です。そういう時代を生きた男たちをヒーローとして描くパターンはたくさんありますが、実は主人公として二人の遊女を描いているところがこの作品の面白いところですね。ボクは、登場人物の顔が見分けられないこういう絵柄は苦手なのですが、おもしろく読み終えました。 ちなみに、蛇足ですが、マンガ便を届けてくれるトラキチ君の名前は、実はシンサククンなのですね。この作品を、「おもろいで!」 と推奨するのは、たぶん、そのあたりも関係しているでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.07
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ジャファール・ナジャフィ「メークアップ・アーティスト」元町映画館 神戸の元町映画館で4月27日から、ゴールデン・ウィークの前半1週間「イスラーム映画祭9」という企画をやっていました。見る気満々だったのですが、4月29日に出かけて挫折しました。なんと、満員御礼! だったんです。もともと60席というミニシアターではあるのですが、で、「イスラーム映画祭は毎年好評なんですよね。」 という映画館の方の話も聞いてはいたのですが、これほどとは思いませんでした。コロナのせいもあって、映画館存続の危機に見舞われている元町映画館には、願ってもない客の入りで、お目出たいのですが、お客のいない映画館に慣れてしまった徘徊老人には想定外の危機(笑) の到来です(笑)。 仕方がないので、その日は人ざかりの商店街徘徊に切り替えましたが、古本だの、同居人のためのお土産のシュークリームだの、すっかり無駄遣い徘徊になってしまい、反省! のご帰宅でした。 で、翌日、「今日は、連休とはいえ、学校とかやってるし!」 と出かけたのですが、何と、やっぱり盛況で、ちょっと早めに行ったつもりだったのですが、入場整理券54番でした。二日続けて挫折するのは癪なので入場して、結果的には、久しぶりに満席の映画館で映画をみました。 見たのはジャファール・ナジャフィという、イランの監督の「メークアップ・アーティスト」というドキュメンタリーでした。「なに?メークアップ・アーティストって?」 まあ、いつものように、そういういい加減なノリで見ていたのですが、これが、まあ、想定外(別に何も想定していたわけではないのですが)の面白さでした(笑)。 舞台がイランという国の田舎で、人々の生活の背景に見える山は一年中雪をかぶっているんじゃないかと思わせる雰囲気でした。登場するのは、その山間にある村で暮らしているのがバフティヤーリー族というのだそうですが、遊牧、だから、羊を飼っている暮らしの若い夫婦なのですが、その夫婦にカメラは密着して、ぶっちゃけていえば「夫婦喧嘩」を撮り続けていたことが、とにかく面白かったですね。「お前らが、こんなふうに映したりするから、女房が勝手なことを言うんだ。」 亭主のゴルムハンマドさんが、ときどきカメラに向かってそんなことを口走るのですが、まず、その距離感というか、カメラそのものが映画の中にあるというか、そこが面白かったんですね。 映画の中で、激高した亭主のゴルムハンマドさんが妻のミーナさんに殴りかかろうとするのを、マイクを持っているスタッフとかが止めに入るシーンまであるわけで、「この映画は、いったい、なにをドキュメントしているんだ?」 まあ、そういう、おもしろさの映画でしたね。 で、その夫婦なのですが、妻のミーナさんが、結婚はして子供も産んだけれど、諦められないと言っているのが、題名になっていますが、「メークアップ・アーティストになりたい!」 ということなのですね。ボクは、この映画を見るまで、メークアップ・アーティストというのが、現在では「美容師」とか「ネイリスト」とかいう職業名と同じ、普通名詞だということを知らなかったのですが、いかにも現代的な仕事ですね。 たとえば、ボクが「ネイリスト」という仕事の名前を知ったのは、もう、かなり昔ですが、高校生に将来の夢を聞いて知ったのですね。そういう専門学校があるって。今回のメークアップ・アーティストも、おんなじですね、映画の中でミーナさんが、大学に通ってもその仕事の技術を身につけたいというわけですが、その様子を見ながら、ボクが、驚きとともに感じたのは「若い!新しい!現代っ子やん!スゴイ!」 ということで、それが、この映画の二つ目の面白さでした。 「ネイリスト」という言葉というか、希望を口にした高校生を、その当時、50代だったボクは、マジマジと見たことを憶えています。何を言っているのか理解できなかったんですよね。 で、この映画に出てくる、ミーナさん以外のすべての人は、当時のボクと同じなんですね。彼女が「自分の人生を自分で決める」 と主張していることについては、反対、賛成はともかく、理解できているかもしれないようですが、「メークアップ・アーティスト」については、おそらく、誰一人理解できていないんです。女性の自立、家族制度、婚姻制度、夫婦の約束、子育て、そのあたりをめぐっての言い争いや、説得、説教が飛び交う中でミーナさんだけは現代っ子なのです。現代っ子というのは制度の中に浸って生きている人間を飛び越えるというか、平気で、夫のため、子どものために第二夫人を探しに行ったりするわけで、このフィルムを見ている、自分は先進国に暮らしているつもりで、ちょっとリベラリスト気取りの、まあ、ボクみたいな人間が「因習的」とかいう言葉を思い浮かべながら彼女の暮らしている村の生活や、彼女の境遇や行動を理解したがることも超えてしまうんですね。 現代っ子というのは、いつの時代、どこの社会にも登場するわけで、この映画でミーナさんが、その現代っ子として、自分の夢の実現に向けてぶっ飛んでいる! そこのところが、ボクにとって、この映画が異様に面白かった! ところですね。 で、三つめはというと、やっぱり、あのキアロスタミの国の映画だったことですね。ちょっと遠めから撮る風景とか、羊や馬のようすとか、その相手をしたり、それに乗ったりしている人のようすとか、村の人たちの会話、特に、最後のシーンなんてキアロスタミそのもので、意味なく拍手しそうでした。 ともあれ、ジャファール・ナジャフィ監督という名は覚えておこうと思いましたね。拍手!でした。監督ジャファール・ナジャフィ Jafar Najafiイラン・2021・76分・ペルシャ語英題「Makeup Artist」2024・04・30・no062・元町映画館no243追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.06
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J・D・サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」(金原瑞人訳・新潮社) 今回の読書案内は、「The Catcher in the Rye」、邦訳では「ライ麦畑でつかまえて」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の J・D・サリンジャー(1919年~2010年)がアメリカでは出版を禁じたとかいう噂のある、まあ、それがウソかホントか知りませんが、実際、アメリカでは出版されていないらしい、八つの短編と、一つの中編小説が収められた作品集「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」(金原瑞人訳・新潮社)です。 とりあえずですが、これが本書の目次です。後ろの数字はページ数です。「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」7「ぼくはちょっとおかしい」19「最後の休暇の最後の日」39「フランスにて」67「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」79「他人」99「若者たち」117「ロイス・タゲットのロングデビュー」133「ハプワース16、1924年」151 訳者あとがき248 この目次の「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」から「他人」までの6作は1944年から1946年に発表されていて、次の「若者たち」は1940年、「ロイス・タゲットのロングデビュー」は1942年に発表されています。 で、最後の「ハプワース16、1924年」の発表は1965年です。1940年の始まりから、この作品まで25年間です。サリンジャーは2010年まで生きたようですが、この作品以後1作も書いていません。 ちなみに「The Catcher in the Rye」の発表は 1951年、グラース家の物語の最後の作品、日本では「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-」(野崎孝・井上謙治訳)として河出書房新社・新潮文庫で出版されている「Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour:An Introduction Stories」のアメリカでの発表は1963年です。 こまこまとした年代にこだわっているように見えますが、この作品集にまとめられている作品群を分類すると、まず、「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」はサリンジャー自身が第二次大戦に従軍する以前に書いたと思われる、いわば処女作に当たる作品があります。 で、「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」から「他人」の6作は戦中、ないしは、戦後すぐに書かれたらしいのですが、すべて「ライ麦畑」の、あのホールデン・コールフィールド君の家族を描いている作品でコールフィールド・サーガというべき作品群ですが、「ライ麦畑」の準備作ともいえる作品があります。 そして、最後の「ハプワース16、1924年」は、作中では46歳、作家になった弟のバディ・グラース君が、その時にはすでにこの世の人ではない、兄シーモア・グラース君の7歳のときの手紙を写すという体裁でかかれている作品です。ハプワースというキャンプ地から少年だったシーモア君が両親へあてて書いた手紙を見つけた母から書留で送られてきて、それを、作家のバディ君がタイプで写すだけの作品です。要するに子供の手紙の形式で書かれているグラース・サーガ最後の作品です。で、それがサリンジャー最後の作品というわけです。 だから、この作品集によって、「ライ麦畑」で登場し、グラース・サーガ、つまりはフラニーやズーイ、シーモアの物語を書き継ぎながら、突如、世俗を捨てるかのように隠遁し、筆を折ってしまったジェローム・デイビッド・サリンジャーという作家の、作家自身によって隠されていた「はじまり」と「おわり」を日本語の翻訳でだけ読むことができるということなのでした。それがどうした? まあ、そうおっしゃる方が大半だと思うのですが、10代でサリンジャーに出逢い、その後、こっそり引きずり続けて、インチキな仕事で何とか生き延びて、いつの間にか70歳になってしまったというタイプの人間にとっては、チョットした事件なのですね。 忘れては、思い出し、新しい訳が出たといっては読み直し、で、また忘れて暮らしてきたのですが、まあ、いうところの「のっぴきならない」 何かをのど元あたりにつかえさせてきたただの読者であるはずの自分自身の50年が、やっぱり浮かびあがってしまう力が、この人の作品にはあるのですね。 若い人に、いきなり、この作品集をお勧めする気はしません。とりあえず、村上さんの訳であれ、野崎さんの訳であれ、なんなら英語のままでも構いませんよ、まずは、「ライ麦畑」のホールデンとか、フラニーとかシーモアとかにお出会いただいて、なんとはなしに、のどにとげが刺さったような気分になっていただいて、で、50年とはいいません、10年ばかり暮らしていただいてからお読みになることをお勧めします(笑)。 もっとも、ボク自身は、乗代雄介という若い作家の「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会)という本で、この作品集を教えられたわけですから、まあ、そう、エラそうにいう資格はありませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.05
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オタール・イオセリアーニ「蝶採り」シネ・リーブル神戸 舞台はフランスの田舎で、なんだかすごいお城で暮らしている2人の老婦人が登場します。お二人は森でピストルを撃つとか、オーケストラに楽器を持って出かけるとか、ヨーロッパって階級社会だったんだなあ!?!? と、その歴史を、生活感で残していることにポカーンとしながらも、彼女たちの人生の余裕というか、広さというかを、なんとなく羨ましく思って見ていると、バブル景気の日本から、彼女たちが暮らしているお城を買いたいとビジネスマンがやって来るんですよね。 金を持った日本人が、無思想、無節操に服を着せるとこうなるというかの、異様なリアリティを漲らせながら登場します。 なんというか、いろいろあったらしいジョージアとかいう国から、フランスのパリに来て、自前で映画を作っている人の脳裏に浮かぶ「これが日本人!」 というのが、このシーンの人たちなのだと思うと、ちょっと笑えないですね。 アジアの、だから韓国とか中国とかの、チョット歴史がらみの映画に出てくる日本人というのが、見ていてああ、いやだ! という存在として演出されていることが多いのは、まあ、仕方がないなと思うのですが、こういう、ヨーロッパでも、どっちかというと田舎風のノンビリしたの映画に、いかにも金の亡者の姿で登場するのが「日本人!」 なのだということを、ご当人であるボクたちは、もう少し自覚した方がいいのでしょうね。 映画は解説にある通り「滅びゆく古き良き時代へのノスタルジーをにじませながら」、現代社会が捨てていきつつある何かを、一抹の寂しさを漂わせながら「シニカルに描いた」作品でした。 経費が掛かって、世話が焼けることばかりが「老人問題」とか「高齢化社会」とかレッテルを張って話題になるご時世です。この映画がつくられたのが2004年だそうです。当時、50代だったわけですが、それから20年経った2023年の今、立派な老人になってしまって見ながらだからこそ、余計にそう感じるのでしょうが、年をとった人が、その人生において、受け取って来たものが、こうして消えてゆくことに対してイオセリアーニという人のナイーブな視線 にホッとさせられる映画でした。 監督イオセリアーニと二人のオバーちゃんに拍手!でした(笑)。監督 オタール・イオセリアーニ製作 マルティーヌ・マリニャック脚本 オタール・イオセリアーニ撮影 ウィリアム・ルプチャンスキー美術 エマニュエル・ド・ショビニ音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストナルダ・ブランシェマリ(アニエスのいとこの老婦人)アレクサンドル・チェルカソフ(公証人アンリ・ド・ランパデール)アレクサンドラ・リーベルマンマリ(アニエスの妹エレーヌ)エマニュエル・ド・ショビニ(神父)ピエレット・ポンポン・ベラッシュ(家政婦ヴァレリー)タマーラ・タラサシビリマリ(アニエス・ド・バイオネット)1992年・118分・フランス・ドイツ・イタリア合作原題「La chasse aux papillons」日本初公開 2004年6月19日2023・03・14-no040・シネ・リーブル神戸no187追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.05
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マルコ・ベロッキオ「エドガルダ・モルターラある少年の数奇な運命」シネリーブル神戸 2024年の連休は、元町映画館でやっているイスラム映画祭とか、シネリーブルの「無名」とか、やたら満員で、さて、どこに行こうかと困っています。 で、なるべく、ノンビリ見られそうな作品ということで、やって来たのがマルコ・ベロッキオというイタリアの監督の「エドガルダ・モルターラある少年の数奇な運命」です。はい、いつものようにノンビリ鑑賞出来ました(笑)。 で、映画ですが、19世紀の後半、教皇ピウス9世という人がやった、原題で「Rapito」=「誘拐」とズバリ指摘されてる「誘拐」事件を題材にした歴史ドラマで、こともあろうに、カトリックの総本山である教皇庁によって、白昼堂々とやってのけられた犯罪映画でした(笑)。 ボローニャの町のユダヤ人の家庭から、両親も兄弟たちも、心配してかけつけた親族も見ている前で、7歳の誕生日を迎える直前の少年、エドガルド・モルターラくんが拉致、誘拐される所から映画は始まりました。 見ているボクには何が起こっているのか実はよくわからなかったのですが、教皇の使いで、誘拐の当事者として登場するのが異端審問官だったとか、いつの間にか、その少年が、ユダヤ教徒である家族が知らないうちにキリスト教徒のメイドによって受洗させられていて、すでにキリスト教徒であるらしいとか、教皇庁に子どもを取り返しに来た母親と一緒に家に帰りたがったエドガルドに対して「母親が改宗したら、家に返してやる。」とかいう、シーンや発言を見たり聞いたりしているうちに、描かれている事件の輪郭が、まあ、ボンヤリとですが、つかめてきて、俄然、面白くなってきました。 映画は両親が訴え出た世俗的(教会の外での)な裁判の経過や、教皇庁で育てられて、成長していく少年の姿を描いていきます。誘拐されたのが7歳ですから、小学校1年生くらいだった少年が20歳を過ぎるあたりまでが描かれていますが、ボクの興味は「で、この少年はキリスト教徒になるのだろうか?」 でした。 マア、そんなふうなことを考えながら見ているボクにとって山場は三度ありました。一つ目は弟を救い出しに来た兄とに対して「ぼくはキリスト教徒だ!」と叫び、ともに家に帰ることを拒否した別れのシーン。二つ目は教皇ピウス9世の死の騒乱の中で「こんな死体は川に捨ててしまえ!」と叫ぶシーン。そして、最後は、母の臨終に駆け付けたエドガルドが、母から「ユダヤ教徒として死ぬ。」と、死への旅立ちの別れを拒否されるシーンです。 で、エンドロールには、彼がキリスト教の、カトリックですから神父ですかね、まあ、その仕事(?)で、90歳だかの年齢まで生きたことが流れてきました。さて、彼は真正な宗教者、キリスト教徒になったのでしょうか? まあ、そういうことを呟きながら、高架沿いを歩いていて思い出したのですが、この映画は1850年代から80年代くらいのイタリアが舞台なのですが、この時代のヨーロッパってわけわかんないんですよね。 日本の場合でも、黒船来航が1850年代で、そこから20年くらい、実はよくわからないわけですが、イタリアも、この時代は統一運動の最中で、教皇の権力と市民、まあ、国民国家の権力成立のせめぎあいの時代で、たとえば、エドガルドの兄が教皇庁に攻め込んでくる兵士として登場する背景とか、見ている時には、ちょっとあやふやで困りましが、兄はユダヤ教徒としてやって来たのではなくて、イタリア統一運動の市民兵として登場したのですね。 ひょっとしたら、日本人が明治維新のことをくりかえしテレビドラマとかで見ているように、イタリアの人には常識かもしれませんが、そのあたり、極東の徘徊老人にはちょっと難しかったですね。 しかし、統一イタリア王国がローマを首都にしたことで、国王を始め、政府関係者を片っ端から破門したり、ドイツのカトリックを弾圧したという理由で鉄血宰相ビスマルクを敵に回したりしたピウス9世のぶっ飛んだ描き方は、案外、実像に近いんじゃないかという印象で、市井のユダヤ人に対して、ほとんど、いいがかりとしか思えないやり方で子供を攫ってくるなんて、平気だったんでしょうね。 パオロ・ピエロボンという俳優さんが演じるピウス9世のという、その人物の不気味さは、なかなかだったと思いました。拍手! で、もう一つよかったのは子供のエドガルドを演じたエネア・サラ君と、お母さん役のバルバラ・ロンキマリさん、少年は可愛らしいし、お母さんはしっかり者で、拍手!でした。 チラシに「実話であるということが、何より恐ろしい」 というコピーがありますが、恐ろしいと宣伝したいのは幼児誘拐と洗脳教育ですかね?それとも洗礼とかで約束させられる信仰の絶対性とかですかね?ピウス9世をはじめとする権力的・官僚的宗教者ですかね?キリスト教によるユダヤ教蔑視ですかね? 映画の中に、教会の壁の十字架に釘付けにされたキリスト像の釘を、少年が抜くシーンがありましたが、釘を抜いてもらったキリストがフラフラ、どこかに行ってしまうのが笑えたのですが、あのシーンはよかったですね(笑)。現代社会において必要なのはあれかもしれませんね。 まあ、ボクは信心とか信仰とかには100%縁のない人間ですから勝手な言い草なのかもしれませんが、別に、この映画、歴史的事実は描いているかもしれませんが、だからと言って、恐ろしいことは描いていないと思うんですが。ボクとしては、映画を通して、妙な主張をしなかったマルコ・ベロッキオ監督さんにも拍手!でした。監督 マルコ・ベロッキオ脚本 マルコ・ベロッキオ スザンナ・ニッキャレッリ エドゥアルド・アルビナティ撮影 フランチェスコ・ディ・ジャコモ美術 アンドレア・カストリーナ衣装 セルジョ・バッロ編集 フランチェスカ・カルベリ ステファノ・マリオッティ音楽 ファビオ・マッシモ・カポグロッソキャストエネア・サラ(少年エドガルド・モルターラ)レオナルド・マルテーゼ(青年エドガルド・モルターラ)パオロ・ピエロボン(教皇ピウス9世)ファウスト・ルッソ・アレシ(父サロモーネ(モモロ)・モルターラ)バルバラ・ロンキマリ(母アンナ・パドヴァーニ)アンドレア・ゲルペッリコッラード・インベルニッツィフィリッポ・ティーミファブリツィオ・ジフーニ2023年・125分・G・イタリア・フランス・ドイツ合作原題「Rapito」2024・05・03・no063・シネリーブル神戸no240追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.04
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石塚真一「Blue Giant Momentum 1」(小学館) 2024年、4月、トラキチクンのマンガ便に入っていました。石塚真一「BLUE GIANT MOMENTUM 1」(小学館)です。 今や、映画にもなって、メジャーの道を歩き始めている「ブルージャイアント」ですが、ニューヨーク篇の始まりです。 アメリカを1周して、いろんな出会い、いろんな経験をしてきた宮本大君ですが、いよいよ、ニューヨークです。「ダイ・ミヤモト・モメンタム」、それが、ジャズの聖地ニューヨークに挑戦するバンドの名前です。 このニューヨーク篇が何巻まで続くのかわかりませんが、始まりの第1巻で、一番心に残ったいいシーンはこのシーンでした。 「ダイ・ミヤモト・モメンタム」が、ニューヨークで最初に演奏したのは「セーラー・キャット」というクラブです。客は、音楽なんて聴いていません。ビリヤードやカードゲーム、プロスポーツのテレビ中継に盛り上がってお酒をのんでいる、ライブステージで演奏するミュージシャンにとって最低ランク、最悪のお店です。ギャラも、客の間に回されるチップバケツに投げ込まれる小銭だけです。それが、はじめの1歩 ! の舞台でした。 で、今、ダイたちの演奏の音の大きさにいら立った客の一人が、まわってきた、そのチップバケツをひっくり返したシーンです、 ピアノのアントニオが、その客の態度に激高しかけたのを制止したが宮本大クンです。で、その時の一言と表情が素晴らしい。「Play! 弾け!」 モメンタム、Momentum、高校時代の物理の時間にモーメントという用語がありましたが、運動量とかいう意味でしたっけ?あれの類語ですね。ここでの使われ方は躍動 くらいでいいのでしょうか。「ブルージャイアント・モメンタム」、おもしろくなりそうですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.03
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坂月さかな「星旅少年(2)」(PIE) トラキチクンの2023年12月のマンガ便に、1巻と一緒に入っていたのが坂月さかなくんの「星旅少年(2)」(PIE)です。第1巻と同じく青い表紙のマンガです。 ご覧の裏表紙に描かれている、小道具が「Moon gate mug」とか「II-Yume pillow」とか、横文字で書かれている雰囲気や、主人公の少年は「文化保存局特別派遣員・星旅人・登録ナンバー303」くんなのですが、ほかの登場人物にはある呼び名がないとかいうことに、場違いな老人読者にはそれは、なぜ? まあ、そういう、浮かべなくてもいい疑問が浮かんでしまうわけですが、その疑問が解けるにしたがって、このマンガの世界のサミシイ広がりや奥行きもわかってきます。 坂月さかなくんという、おそらく若いマンガ家に、この作品を書かせている、その青い世界のさみしさを、場違いな老人読者にもジンワリと感じさせるところが、このマンガのよさだと思います。 宇宙の果てのような舞台をしつらえながら、まあ、そうしつらえたからこそでしょうが、かなりリアルな「さみしさ」にたどりつくほかないのが現代という時代なのでしょうね。 しかし、「青い宇宙」の果てに「さみ さ」にたどりつくであっても、「さみしさ」という自意識の底に「青い宇宙」を見つけるであっても、その感じ方は、ある意味ありきたりですよね。 で、ありきたりを知っているマンガ家が、様々な、ちょっと、おもしろい「イイネ!」アイテムが考えだしていて、それはそれで、フムフムなのですが、そういうのって、昔はナルシズムと呼ばれて笑いの対象だったと思うのですが、今では、おしゃれなSFファンタジーとして読まれちゃうんですかね?まあ、おしゃれだと思いますけど(笑)。 まあ、そうは言いながら、本巻、最終ページですが、トビアスの木の下で座りこんでいる303君の前にあらわれたトビアスって誰?で、この二人はなに話すの? というわけで第3巻を待ってしまうのですからしようがありません(笑)。 で、急に話が飛びますが、筒井功という方の「縄文語へ道」(河出書房新社)という著書によれば「青木」とか「青山」、「青谷」という地名に出てくる「青」というのは、縄文時代には「色」ではなくて「葬送の地」をあらわす言葉だったと述べられています。このマンガは、おそらく、宇宙のイメージによっての「青」を背景して描かれていると思いますが、実は、「青」とは「墓場」をあらわす「原日本語」だったかもしれないとなれば、坂月さかなさんが描こうとしているらしい物語世界へ直結するわけで、ちょっと、おもしろいと思うのですが、いかがでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.02
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吉野弘 「母」 中村稔「現代詩人論 上」(青土社)より 中村稔の大著「現代詩人論」(青土社)を読んでいて、久しぶりに再会した吉野弘の詩です。吉野弘という詩人の詩は高校あたりの教科書で紹介されていたりして、所謂、人口に膾炙している作品も多いのですが、「母」と題されたこの詩は初めて読みました。1979年の「叙景」という詩集に載せられていた詩だそうです。「母」 吉野弘身まかった母の胸の上に両手の指が組み合わされていた遠い日のことなぜか、今日ほのかな明るみを帯びて思い出されるあの手は生き残っている誰とももはや、手を取り合うすべがなかった死者の手を取っているのは死者自身の手だった組み合わされた両の手はそのくぼみに温もりと見まがうものをつつんでいたそのようにして旅だったのがその日の母だった で、中村稔の感想というか解説はこうです。 心に沁みる挽歌である。組み合わされた両手のくぼみに温もりと見まがうものを見たのはおそらく作者だけだろう。その母親の死を悼む気持ちが温もりと見まがうものを見させたのであろう。私はこの詩に若干こじつけめいたものを感じているが、作者の人柄を考えると、このまま受けとるのが正しいように思われる。(P354) ナルホド、ですね。 ボクは、この詩を読んで、病院のベッドで、ため息をついたと思うと、それを最後に静かに息をひきとった母の顔を思い浮かべましたが、手は浮かびませんでした。その時、ボクの右手は彼女のまだ暖かい右手を握っていたのですね。 で、ナースコールが押せなかったのですが、詰所のナースたちは朝の交代時で、そこに、たくさん並んでいたであろう画面の一つが、あれこれ波うちをやめて棒になったことに気付かなかったらしく、息子一人による見取りという体験になったのでした。 詩が描いているのは、それから半日ほど後のシーンだと思いますが、それを組み合わされた両の手の記憶のシーンとして、それから何年もたった、今、思い浮かべているところが、そういう言い方をすると身も蓋もありませんが、吉野弘のうまさですね。 詩が語っているのは現場の体験そのものではなく、詩人の記憶の中で結晶化(?)されつつある母の両手のようですね。 中村稔が「こじつけ」を口にしているのは、そのあたりかなあとも思いますが、そうはいっても、「心に沁みる挽歌」であること間違いないですね。ボクのような奴に、もう、10年以上も昔の母の手の、最後のぬくもりを思い出させたのですからね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.01
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「40年ぶり!自動車学校!」 徘徊日記 2024年4月27日(土)青山台あたり 躑躅がいっぱい咲いていて、うれしい風景ですが、ツツジの名所というわけではありません。ここには、何故か、線路はないのに踏切りがあって遮断機とかあったりするんです。 そうそう、自動車学校の初心者教習コースです。 今日、2024年の4月27日(土)にやって来たのはジェームス山自動車学校です。40年ぶりの自動車学校です。「高齢者講習!」 だそうです。 他人ごとみたいに言っていますが、実は、結構、緊張してやって来ました。乗らない普通免許を返納して、原付免許に書き換えてもらうための講習です。 動体視力とか、夜間視力や視界の確認とか、しっかり高齢者を自覚させられましたが、なんだか楽しい教習体験でした。 あいにく、お天気が悪かったのですが、久しぶりの教習所の風景です。オートバイの免許をとろうかなあと考えた時期もありましたが、結局、原付バイクのほかは乗ったことのない普通免許も今年で終わりです。コースに置かれている大型バイクを見ながら、しみじみしました(笑)。 無事、高齢者講習終了でした。ホッとしました(笑)。じゃあ、またね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.30
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チャン・リュル「群山」元町映画館 映画を見終えて、感想を書きあぐねていた作品ですが、とりあえず備忘のために感じたことのメモをそのまま書きつけておこうと思います。映画はチャン・リュル監督の「群山」です。 チャン・リュルという監督は、韓国の監督だと思い込んでいましたが、中国の吉林省の方で、所謂、朝鮮族の三世だそうです。 彼が作品として描いている「柳川」、「福岡」、そしてこの「群山」、「慶州」と、日本列島の西の町から朝鮮半島をたどっていることの意味について、とても興味深く思いますが、そのあたりの見当がつかないのが、感想が書けない理由でもあります。 作品は、ボクが見る限りですが、旅する複数の男女、あるいは男男と、その町に住んでいる人々との出会いによって描かれていますが、単なる名所めぐりではなくて、登場する人たちのそれぞれの体験や記憶という、別の時間が背景化されることで、町を映している映像の意味が重層化される印象が共通していました。 たとえば、この「群山」でも、一瞬、何時のことなのかわからない困惑に連れ込まれるシーンがあったりしたと思うのですが、そのあたりも、言葉にするにはボンヤリしてしまってうまくいえません。 もう一つは、たとえば「柳川」という、列島の西の端、九州の水郷の町を舞台にした作品では登場人物の名前が町の名前に重ねられることで、町の歴史と、そこにやってきた旅人の記憶が重ねられている印象が残りましたが、この「群山」では、主人公、旅する詩人ユンヨンの「母の生まれ故郷」という設定で、本人にはあり得ない「既視感」が映画を動かしているようなのですが、うまくいえませんね。 ついでに、もう一つ、九州で生まれて、今はこの町で、母の死を見たことで心を閉ざしているらしい娘と暮らしているという、宿の主人のキャラクター、尹東柱という日本で殺された詩人の名前の登場、なによりも、旅をしている主人公が詩人であるということが、かなり大切なつながりで描かれていたと思いました。 今、映画の中で生きている一人一人の記憶と朝鮮族という民族の歴史が出会う場所に、チャン・リュルという監督の、それぞれの作品があるという印象なのですが、うまくいえませんね。 静かで、穏やかな会話が記憶に残る作品でした。拍手!監督 チャン・リュル脚本 チャン・リュルキャストパク・ヘイル(ユンヨン)ムン・ソリ(ソンヒョン)チョン・ジニョンパク・ソダム2018年・121分・G・韓国原題「頌」2023・08・03・no103・元町映画館no194追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.30
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安東次男「其句其人」(ふらんす堂) 元町の古本屋さんの棚に300円で立っていました。安東次男「其句其人」(ふらんす堂)、1999年の初版です。目次 其句其人 P4(飯田蛇笏集成第四巻月報) わたしの選ぶ「四季百句」-芭蕉から現代まで P9(「太陽」昭和62年三月号) 三句の覚書 P106(加藤楸邨全集第5巻解説) 文庫サイズの小さな本ですからポケットに入れて出かけています。「其句其人」と「三句の覚書」は、それぞれ、飯田蛇笏、加藤楸邨という、まあ、名だたる俳人について、句をひいての解説風エッセイですが、「四季百句」は古今の俳句から著者が選んだ、一句ごとの解説で、読んでいて楽しいことこの上ありません。なんとなく、繰り返し取り出して読んでいます。 ちなみに「春」の最初に登場するのが芥川龍之介です。 元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介 「夕ごころ」がうまい。元日の手を洗ひをる夕かな、では唯の記録になってしまう。造語という程でもないが「夕ごころ」は前に記憶がない。夕情(慕情)の和訳でもあるか。とはいえ、中七文字を「弓をひきをる」「葱きざみをる」あるいは「田村を謡ふ」などと作り替えてみると、中七の意味のうるささが邪魔して、物事の始終や心の旦暮(平常心)に働くそっちょくな興は現れてこない。どれでも句のさまにはなるが、それは別の「夕ごころ」だ。夕ごころは元日に勝るものはない、と読みとらせる仕草の無意味(「手を洗ひをる」)がよく利いた句である。「澄江堂句集」 とまあ、こういう調子で、おっしゃっていることに対する理解の程度はともかく、文章のテンポと心地よい言い切りに引き込まれます。 で、ノンビリ読んでいて、ふーん、そうか! という体験もあるわけで、その一つがこんな所でした。 頬白やそら解けしたる桑の枝 村上鬼城 「小鳥(小鳥くる)」という仲秋の季語がある。秋になると、渡鳥のはかに漂・留鳥も入混って里に姿を見せる。晩秋ことに、人家近くで見掛ける印象がつよい。昔の人が頬白・四十雀・眼白・山雀などをいずれも秋の季に部類しているのは、漂・留の生態区別がよくつかめていなかった時代のせいばかりではないのだろう。今の歳時記は、右のうち頬白を春(囀による)、その他は概ね夏(繁殖期による)に分類する。虚子の「新歳時記」ではどれもまだ秋である。鬼城のこの句や「頬白や雫し晴るる夕庇 川端茅舎」など、秋として詠んだものだ。これらを囀る頬白(春)の例句に挙げている歳時記があるが、よろしくない。「そら(空)解け」は紐の結び目が自然に解けること。言葉の面白さも与って出来た句のようだが、「桑くくる」という晩秋の季語があるから、「そら解け」も応用と読んでよい。乾いた土一色に枯葉の条々許、という殺風景のなかでまぎらわしい色をした小鳥が動いている、スズメかと思ったらホオジロだった、というちょっとした発見は一株の空解の面白さによく似合う。(P76 ~77) こういう本を持ち込んで、座り込んでいるわが家の某所の壁には、新聞の俳句や短歌の欄に載っている句や歌がポストイットにメモって貼ってあります。チッチキ夫人の仕業ですが、その中にケアマネのあゆみさん来る小鳥くる 加藤節江(1929生) という句があって、それを見ながら、この本を読むということになりますが、へえー、この句は夏か!? なのでした。貼った当人は春ちゃうの?小鳥がよく鳴くのって、今ごろでしょ。うん、でも、今ごろは、たぶん、夏やで(笑)。 ケアマネさんのピンポンの響きで、きた! と、こころと一緒に、お住まいになっているおうちの空気が軽やかにうごくのを感じていらっしゃる加藤さんといっしゃる方の様子が浮かんで、覚えてしまった句なのですが、季節と時間は初夏の午前中なのでしょうかね。 まあ、いつのことでもいいようなものですが、気になり始めてしまいますね(笑) それはともかく、この本、「すべての実作者へ」 とか腰巻で謳っていますが、ボクのようなただの素人読者にも、読みでがあって、おもしろかったですね。さすが安東次男! まあ、そういう感じでしたね。 なかなか、手に入りにくそうな本ですが、おススメですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.29
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ハロルド作石「ゴリラーマン40 第4巻」(講談社) 2024年4月のマンガ便の1冊です。ハロルド作石の「ゴリラーマン40」(講談社)の第4巻です。 40歳、不惑を迎えたゴリラーマン、1990年代に高校生ゴリラーマンとして活躍した池戸定治君が中年男になって帰って来たという設定で2022年から始まっている作品の第4巻です。 表紙の、顔はゴリラーマンで服装は女子高校生の女性は池戸芽衣ちゃんといいます。たぶん、ゴリラーマンシリーズでは初めて登場するキャラクターですが、ゴリラーマン、池戸定治さんの姪っ子で、定治さんのお姉さん、まあ、これまたゴリラーマン・ウーマンの池戸美穂さんのお嬢さんです。 実はこのシリーズの正式な題が「ゴリラーマン40 ファミリー編」というのです。池戸定治さんのご一家総出演編というわけですね。 で、本巻の前半は、まず、姪っ子のスーパー女子高生池戸芽衣ちゃんの日々が描かれていました。 身体能力は、ダンスから格闘技まで、超絶スパー・ガールですが、顔はゴリラーマン、友達からはゴリッチとあだ名されている女の子の高校生活を描いたお話でした。 顔がゴリラーマンで、あとはみんな今時の女子高校生なわけですから、笑っていいのか、同情していいのか??? ちょっと困りましたが、でも、まあ、可愛らいい同級生の男の子が、彼女のファンだったりもして、まあ、笑って読んでいていいんでしょうね(笑)。 後半は、今現在のゴリラーマン一族全員集合! で草野球というお話です。ハロルド作石さんは「ストッパー毒島」の作者ですからね、野球系の世界は、きっと余裕なのでしょうね。 正面のお二人が、41歳の美穂さんと女子高生の芽衣ちゃんです。 あとは弟さんとか、お父さん、甥御さんとか姪っ子さんのようです。ゴリラーマン、ご本人の定治さんはここには描かれていませんが、当然、登場します。 まあ、そういうマンガです。面白いと思ったのは、理屈で考えれば同じ顔ではありえないゴリラーマンのお母さんとか、芽衣ちゃんのお父さんが登場しないことですね。 ( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、どうでもいいっちゃあ、まあ、どうでもいいんですが。じゃあまたね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.28
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石塚真一「BlueGiant Explorer 9」(小学館) 「ブルージャイアント」のアメリカ武者修行編「Explorer」の第9巻です。トラキチクンの2024年、4月のマンガ便に入っていました。 アメリカ西海岸のシアトルだったかで、たった一人で始めた武者修行も、ピアノのアントニオ・ソト、ドラムスのゾッド、ベースのジョーの4人組のバンド「DAI MIYAMOTO MOMENTUM」へと成長してきた宮本大君ですが、この、第9巻ではフロリダを経由してボストンへたどり着きます。 いよいよ、夢のニュー・ヨークへ、あと一歩というところですが、本巻のエピソードは、フロリダでのシェリルという女性との出会いと別れと、ボストンでの沢辺 雪祈くんとの再会ですね。 大が日本でバンドを組んでいたピアニストで、今ではバークレー音楽院で作曲を学んでいるということなのですが、まあ、あれこれいうのはやめます。読んでください(笑)。 彼については、スピンオフというのでしょうか、南波永人という方が、彼を主人公にして「ピアノマン」という小説を書いていて、小学館から、すでに発売されているそうです。ちなみに、マンガの作者の石塚真一はその小説の挿絵とか表紙を描いているそうです。 これですね。 ウーン、映画もかなりよかったのですが、今度は小説ですか。気に入ったマンガに付き合うのも大変ですね。まあ、そのうち読んでみようかなという感じです。 というわけで、BlueGiantExplorerは第9巻で完結です。次号からはいよいよニュー・ヨークの宮本大です。 作者の石塚真一は、ここのところのコロナ蔓延の影響で、現地、アメリカでの取材もままならないままの展開で苦労していらっしゃるようですが、マンガは快調ですよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.27
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「ちょっと、この写真、いかが?」 ベランダだより 2024年4月24日(火) ベランダあたり 朝から、ベランダで、アゲハ蝶が舞っていたんです。「ちょっと、アゲハが来てるわよー!」 とまあ、叫ぶ人もいたりして、慌ててスマホ持ち出して、フワフワ飛び回るアゲハを追いかけるのですが、画面は光っているし、その上、老眼ですから、写っているのかいないのか、しばらくあたふたしましたが、結局、アゲハは飛び去って、「無理、無理、画面も見えんし、動くし。行っちゃったし。」ところが、どうですか、この一枚、写っていたんです(笑)。うれしいですねえ(笑)。 ベランダでは卯の花が満開なのですが、アゲハはここには近づきません。蜜柑の若葉がお目当てですね。 でね、同じアゲハかどうかわからないんですが、実は、数日前に、ここから巣立ったアゲハがいるんです。 これが、そのアゲハがサナギを抜け出たところを、偶然、写すことができた写真ですが、帰って来たのですかねえ? というわけで、ベランダでのアゲハ騒ぎ、当分続きそうですね(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.26
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「これ、ヤマブキですよね!」 徘徊日記 2024年4月25日(木)団地あたり サクラの花でソワソワした、3月の末からの一か月でしたが、終わってしまいました。次はツツジか? とかなんとか思いながら、団地の中をフラフラしていると咲いていましたよ。これって、ヤマブキですよね! 数年前まで、団地の真中の藪の中ですが、このあたりに、もう少し群生していたと思うのですが、すっかり見かけなくなったヤマブキの黄色い花です。 子どもの頃は、但馬の田舎の村の育ちですから、春先には、そこいらじゅうで見掛けたような気がするヤマブキ色なのですが、すっかり見なくなりました。 40年程まえに団地に住み始めたころにはレンギョウとヤマブキが黄色い花を咲かせるのが、サクラの季節の、もう一つの楽しみだったのですが、今は、オウバイモドキというのでしょうか、雲南黄梅一色です。 まあ、街中で見かけることは、もちろん、ない花なのですが、六甲や須磨の山すそあたりでも、本当に見かけなくなりましたね。なつかしいですね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.25
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クリスティアン・ロー「リトル・エッラ」元町映画館 予告編を見ていて、子供が主役のようなので出かけました。見たのはクリスティアン・ローという監督のスウェーデン映画「リトル・エッラ」です。 主人公のエッラは男の子だと思っていたら女の子でした。これで、まずびっくりでした(笑)。小学校の3年生くらいで一人っ子のようなのですが、両親は休暇に出かけると会って、彼女をおばーちゃんのところに預けていってしまいます。ここで二度目のびっくり(笑)。彼女は彼女で、おばーちゃんより、おじさんのトミーが大好きだということで、トミー叔父さんのところにもぐりこむというあたりからお話が展開し始めました。 で、大好きなトミーおじさんはエッラと大の仲良しで、プールとか、遊園地とか、一緒に遊んでくれるのですが、実は恋人がいて、その恋人はスティーブというオランダ人の男性だということに、三度目のびっくりでした(笑)。その上、恋人同士の二人はエッラの前で、何の遠慮もなく抱き合いますし、彼女にはわからない英語の会話で仲良くするのを見て、彼女はブチギレて、ボクは呆れました(笑)。 と、まあ、ここまでが前段で、ここから、エッラが転校生のオットー君の知恵を借りて、二人の仲を裂くというか、あれ、これ意地悪を実行してというふうに、まあ、お話はすすむのですが、見ているこちらは、展開のあまりのあどけなさについていけません。「なんなんだ、この映画は?」 見終えて、悪い印象はありませんし、お話もよくわかります。しかし「なんだったんだ?」 が残ります。 で、帰ってきて謎が解けました。スウェーデンの絵本作家ピア・リンデンバウムという人の「リトルズラタンと大好きなおじさん」という絵本童話の映画化! だったのです。ナルホド!(笑) でした。 ボクは、たいていの映画をジジーというか、大人の目で見ていて、たとえば、この映画のように、あくまでも子供にわかる子供の視線で描こうとしている世界に出合った時には、そうだと気付かない時には、ついていけないんですよね。 童話や絵本を、読んだり、見たりすることは、多分、同世代のじいさん、ばあさんよりは、多分、頻繁にしているし、好きでもあるんです。作品について理解もしていると思い込んでいましたが、怪しいものですね。 いやー、だからどうするというわけではありませんが、発見! でしたね。 子供や若い人の目で見るとか、まあ、そういう、きいたふうなことを言いたがることがあるのですが、まず、自分を振り返った方がいいですね(笑)。 まあ、それにしても、スウェーデンとか、やっぱり違いますね。イロイロびっくりしました。というわけで、エッラちゃんとオットー君に拍手!でした。監督 クリスティアン・ロー原作 ピア・リンデンバウム脚本 エラ・レムハーゲン ヤンネ・ビエルト サーラ・シェー撮影 シーモン・オルソン美術 オーサ・ニルソン衣装 エッベ・ハーデル編集 アーリル・トリッゲスタッド音楽 スタイン・ベルグ・スベンドセンキャストアグネス・コリアンデル(エッラ:少女)シーモン・J・ベリエル(トミー:叔父さん)ティボール・ルーカス(スティーブ:おじさんの恋人)ダニヤ・ゼイダニオグル(オットー:転校生)ウィリアム・スペッツ(マイサン)インゲル・ニルセン(おばあちゃん)ミカエル・バーデンホルト(三つ子)パトリック・バーデンホルト(三つ子)ロビン・バーデンホルト(三つ子)マリア・グルデモ=エル=ハイエク(オットーの母)テレース・リンドベリ(エッラの母)ビョーン・エーケングレン・アウグスツソン(エッラの父)2022年・81分・G・スウェーデン・ノルウェー合作原題「Lill-Zlatan och morbror Raring」2024・04・23・no061・元町映画館no242追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.24
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ジュリアーノ・モンタルド「死刑台のメロディ」シネリーブル神戸 「エンニオ・モリコーネ特選上映 Morricone Special Screening×2」という企画で、神戸ではシネリーブル神戸で上映されている作品です。予告編を見ていて、ジョーン・バエズの声が聞こえてくると、まだ20代だった学生の頃に見た頃のことがわらわらと浮かんできました。 「Sacco e Vanzetti」という、まっすぐな原題の作品が「死刑台のメロディ」という邦題で公開されていて、どこかの名画座で見ました。50年程も昔のことです。 歴史的な冤罪事件の映画化が事件の50年後に実現し、その50年後に映画音楽の特集上映で再上映され、今年70歳になるの老人は、50年ぶりに「これがアメリカだ!」 と再確認したのでした。国家権力としての、暴力国家としての「アメリカ」 ですね。 見たのはジュリアーノ・モンタルド監督のイタリア映画「死刑台のメロディ」です。 映画はフレーム・アップ、でっち上げの冤罪事件の真相を告発するドキュメンタリーの雰囲気で始まりますが、メインに据えられているの、フレームアップがいかに進行していくのかを、神に誓った真実のことばがやりとりされている「法廷劇」として描かれていました。 この年になってでしょうね、とりわけ面白かったのは権力者の言葉と、反権力者、抵抗者の言葉の違いを、実にクリアに描いていたことでした。 権力者は、あくまでも言葉の表層に拘泥し、揚げ足取りやアジテーションによって、権力の象徴であり、抽象的で、超越的な「法」の網に取り込むことができるかのように相手の言葉を誘導します。何の力もない、その社会の言葉である英語だってうまくしゃべれるわけでもない、一人でそこに、さらし者のように立っている人間が発することばに対する解釈の権力性を臆面もなく主張している姿を活写していました。 たとえば、現場に残された銃弾が32口径であれば、今、目の前にある32口径から「発射されたと言えないことはない」という論旨が、「発射されたにちがいな」へと変わっていく権力的な「ことば」の扱い方の描写は、バンゼッティの最後の言葉である「正義とは何かを証明するために生まれてきた。」 というような、内的真実の叫びというべき「ことば」の吐露と好対照でしたね。 裁判から判決の過程で精神的安定を完全に失いながらも、そこから回復した、もう一人の主人公サッコが「利他を尊べ」と子供に遺しながら、大人に対してはことばを捨てて殺されていった姿にも打たれました。貧しい、流転の人生を生きてきたこころを支える、正直で素直な言葉の存在を共有できないことへの怒りと絶望の沈黙という印象で、この人の姿に人間的な真実 を感じました。 エンニオ・モリコーネの映画音楽の企画なのですが、音楽としてはHere's to Youを歌うジョーン・バエズの歌声以外は、まあ、気付かなかっただけかもしれませんが、実に静かな(?)会話劇の印象でした。サッコとバンゼッティを演じる二人を始め、法廷に登場する人たちの、見ているこちらを、今でもシラケさせない堅実な演技に時代を感じました。50年前、単純な告発映画として見ていたということを実感しましたが、サッコの沈黙 については気づいていたようです。ボクにとってはしみじみと拍手!の懐かしい作品でしたが、できれば、若い人たちにも見てほしい作品ですね。 民主主義を標榜しているアメリカの底に流れるもの、アメリカにかぎらず権力のやり方、まあ、そのあたりは50年変わりませんね(笑)。監督 ジュリアーノ・モンタルド脚本 ファブリツィオ・オノフリ ジュリアーノ・モンタルド撮影 シルバーノ・イッポリティ音楽 エンニオ・モリコーネ主題歌 ジョーン・バエズキャストジャン・マリア・ボロンテ(バンゼッティ)リカルド・クッチョーラ(サッコ)シリル・キューザック(検事)ロザンナ・フラテッロジェフリー・キーン(判事)ミロ・オーシャ(弁護士)ウィリアム・プリンス(弁護士)クロード・マン1971年・125分・イタリア原題「Sacco e Vanzetti」日本初公開1972年5月2024・04・22・no060・シネリーブル神戸no239追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.23
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「鯉川筋のイペ、咲いてました!」 徘徊日記 2024年4月22日(月)元町あたり 神戸、元町の鯉川筋、JR元町駅から大丸デパートに行く道です。この季節になるとヒラヒラした黄色い花を付けます。木の名前はイペといいます。南米原産の広葉樹らしいですが、この通りでは街路樹として植えられています。 ボクは、このヒラヒラした黄色い花の雰囲気が好きで、毎年、咲くのを待っています。 これは、大丸前のスクランブル交差点の東側の角にある1本です。北からの角度で撮ったこの写真は、背景が大丸デパートです。 下の写真はJR元町駅前の広場のベンチの横にある1本。よく知りませんが、駅前のモニュメントも一緒に写っています。 で、この下の写真は、元町駅前の交番の前、南に下る交差点の角にある木です。 ちょっと、近寄って撮ったのが下の写真。天気が悪くて、青空じゃないのが残念です。 駅前の横断歩道を渡って南側から撮ると下の写真になります。 塔がのっかっているような建物が交番です。写真の向う、左が元町駅で、右側がJRの東海道線の高架です。 実は、この徘徊日記を書いているは4月22日ではありません。 というわけで、きっとイペのシーズンはもう終わっているのかもしれません。まあ、ボクにとっては、2024年の春の終わりの備忘録です。あしからず(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.22
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唐組 第73回公演『泥人魚』 湊川公園赤テント 劇団唐組のテント公演、「泥人魚」を神戸の新開地、湊川公園で見ました。この前はいつ見たのか思い出せないくらい久しぶりの赤テントでした。テント芝居どころか、生のお芝居を観るのも10年ぶりという感じで、湊川公園に張られている赤テントを見て、もう、(^<^)ドキドキでした。 今回の赤テントは50年来のお芝居友だちの入口君がチケットまで手配してくれて、こちらのお久しぶりの再会も(^<^)です。 演目は「泥人魚」でした。 テント小屋の、呉座を敷いた板の間に座り込んで、立膝する余裕があるだけ、昔に比べると楽ちんでしたが、日ごろ、柔軟体操だけは欠かさずやっていたおかげでしょう、ほぼ、2時間の座りっぱなしに、何とか耐えました。 お話は? と言われて、これがさっぱりわからないのが唐組にかぎらず、テント芝居のいい所(笑)ですが、今回もさっぱりわかりませんでした(笑)。 顔に見覚えのある役者は久保井研たった一人で、主役の泥人魚を演じている女優さん、大鶴美仁音の活舌の悪いせりふ回しを聞きながら「この娘、唐十郎のお嬢さんなんだなあ(笑)」 とか、時の流れというのでしょうか、妙にしみじみとしながら、わけのわからない展開を、それなりに楽しんで座っていましたが、とどのつまりになって、荒谷清水と内藤裕敬という、昔よく通った南河内万歳一座で、なんども笑わせてもらったお二人が登場して、拍手!でした。 いい加減で、猥雑で、ハチャメチャで、笑えるというのがボクの赤テントなのですが、ハチャメチャを演じるのも、やっぱり芸というか、役者の力量なわけで、今回の赤テントは、まだまだ学芸会でした(笑)。 まあ、そうはいっても、久しぶりの赤テント、拍手!でしたね。頑張って2時間、呉座に座って、思い出にふけりながら見た老人二人組にも拍手!でした(笑)。唐組 第73回公演『泥人魚』作 唐十郎 演出 久保井研+唐十郎出演 久保井研、稲荷卓央、藤井由紀、福原由加里、加藤野奈、大鶴美仁音、重村大介、升田愛、藤森宗、西間木美希、岩田陽彦、金子望乃、壷阪麻里子、髙橋直樹、舟山海斗、中村健、山本十三 福本雄樹、友寄有司、荒谷清水、内藤裕敬(2024・04・20神戸・湊川公園)追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.21
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ピーター・グリーナウェイ「ZOO」元町映画館 「ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師」のゴール、4本目は、企画チラシのメインを飾っている「ZOO」でした。 映画館に到着すると、お久しぶりのカウンター嬢でした。「グリーナウェイ、今日で最後、4本目やで。」「( ̄∇ ̄😉ハッハッハ、それはありがとうございます。最後がZOOですか!それは、それは。(笑)) と、まあ、なんだか意味ありげな笑いです。「えっ?どういうこと?」 とか、なんとか、フト、???だったのですが、無事、見終えました(笑)。 ピーター・グリーナウェイ監督、「魔術師」とか「唯一無二のセンス」とか、まあ、大変なのですが、ボクが鈍いんでしょうね、さほど、ギョッとするわけでも、目を瞠るわけでもなく、それでも、なんかひっかるよな? という感じは持続し続けて、4本見終えました。なんなんですかね、この人? 結局、そこのところにとどまったままでしたね。カウンター嬢に脅されましたが、事件は起きませんでした(笑)。 1本目以来の懸案事項だった、裸体ですが今回も、あちらこちらに出てきましたね。でもね、慣れちゃうとインパクトがありませんね。だから、忘れちゃうんですよね。 で、お話ですが、主人公の動物学者の双子、チラシの中央で裸で座っている二人ですが、彼らが働いているのが「ZOO」ですから動物園ですね、まあ、そこが舞台といえばいえるのお話でした。 で、今回のテーマは、まあ、勝手にそう思っただけですが、「死体」と「腐乱」でした。生き物の死から消滅までの変化の様子が、高速度フィルムというのでしょうか、具体的に映し出されていて、それが目に見えるように映像化しているのですが、グロテスクというより、フーンという感じで、映し出される死骸が、だんだん大きな動物になっていくのを眺めながら、「これって、結局、人間に行きつくのかな?」 そう、思っていると、やっぱり、人間にたどりついて、「で、何がいいたいの?」 が、残りましたね。 シーンがあるだけでコンテクストがないということなのですが、映画全体としては、シーンに何かあるのですよね。だって、意味不明な裸体に朽ちていく死骸なのですよ。そこにはこの映画作家の創作意図なのか、芸術的感受性の発露なのか、たしかなにかにある! のかもしれませんが、ボクにはピーンと響いてこないのですね。これを、極度に好む人も、嫌がる人も、きっといるんだろうな、とか何とかは思うのですが、ボク自身の実感はポカーンでしたね。好きとか嫌いとか判断しようがないというか。なんか見えるんじゃないか、なんか気づくんじゃないか まあ、そんなふうな自分に対する期待もあって、4本見て、結局、ポカーン???(笑) では芸のないことおびただしいのですが、美術でもそうですよね、話題になっているからというので見るのですが、なにも浮かんでこないってあると思うのです。 まあ、そうはいっても、この人の作品、見たことのないのが出てきたら見るでしょうね(笑)そういう興味深さは、やっぱり、感じるのですが、その正体がつかめない、4日続けての元町映画館通いでした(笑)。 監督・脚本 ピーター・グリーナウェイ撮影 サッシャ・ビエルニ音楽 マイケル・ナイマンキャストアンドレア・フェレオル(アルバ)ブライアン・ディーコン(オズワルド)エリック・ディーコン(オリヴァー)フランシス・バーバー(ミロのヴィーナス)ジョス・アックランド(ヴァン・ホイテン)ジェラール・トーレン(医師)1985年・116分・イギリス原題「A Zed & Two Noughts」2024・04・05・no056・元町映画館no240追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.20
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ピーター・グリーナウェイ「数に溺れて」元町映画館 2024年4月の第1週は、毎日、元町映画館通いです。「ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師」という、わけのわからない監督の企画に溺れています(笑)。3本目は「数に溺れて」でした。 「数」に溺れるという題の意味が、映画の冒頭から暗示されるシーンから始まります。 可愛らしい少女が縄跳びをしながら、まあ、日本語で言えば「一つ~、二つ~、三つ~」という感じで星の名前を順番に、たとえば、アンタレスだったか蠍座だったか、シリウスだったか大犬座だったか、そのあたりははっきり覚えていませんが、ともかく、空の星の名前を数えていって、100まで跳ぶんです。で、「100からは?」「あとは同じ」 とか何とかいうそばにいた少年との会話があるのです。まあ、それはそれで面白いシーンから始まります。 で、ドラマは、途中まではわからないのですが、3人の女性が、母、娘、姪ですが、何故かシシーという同じ名前で、それぞれ自分の夫や恋人を殺すのですが、みんな溺死なんです。溺れ死にですね。 死因は「数」じゃなくて「水」です(笑)。 で、検死官のおじさんが、それぞれの死因を「他殺」じゃなくて「事故死」だと認定するかどうかがサスペンスのはずなのですが、お話は検死官と一番最初の、お母さんのシシ―との、まあ、色恋の話になってしまって、別にドタバタするわけじゃありませんが、意味不明の「ドタバタ・コメディ?」 の様相で、とどのつまりには数を数えていた少女も、それを見ていた少年も、みんな死んでしまって、ついでに、検死官が、今乗っているボートも、今や沈み始めているというラストを迎えます。 「なんなの、これ???」 原題をみると「Drowing by Numbers」ですから、邦題でいじっているわけではありません。監督の何らかの表現意図が込められているのでしょうが、ボクにはすっきりしませんでした。 三人の同じ名前の女性、100までの星の数、数について暗示的ではあるのですが・・・??? いやはや、ピーター・グリーナウェイ、けったいな監督ですが、あと1本です。 はい、もちろん、見ますよ(笑) ボクも、ヒマなんですねえ(笑)監督・脚本 ピーター・グリーナウェイ撮影 サッシャ・ビエルニ 美術 ベン・バン・オズ ヤン・ロールフス編集 ジョン・ウィルソン音楽 マイケル・ナイマンキャストジョーン・プロウライト(母シシー・コルピッツ)ブライアン・プリングル(夫ジェイク)ジュリエット・スティーブンソン(娘シシー・コルピッツ)トレヴァー・クーパー(娘の夫ハーディ)ジョエリー・リチャードソン(姪シシー・コルピッツ)デイヴィッド・モリッセー(姪の恋人ベラミー)バーナード・ヒル(検死官マジェット)1988年・118分・イギリス原題「Drowing by Numbers」日本初公開 1989年2024・04・04・no055・元町映画館no239追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.19
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バス・ドゥボス「Here」元町映画館 「ゴースト・トロピック」という、題名だけ見ていると意味不明な作品を見て、「もう1本も見よう!」 と思ったベルギーのバス・ドゥボスという監督の、もう1本が、この作品「Here」です。見たのは2024年の3月の31日(水)です。もう20日も前なのですが、感想を今ごろ書いています(笑)。 「ゴースト・トロピック」を見て「いいよ!いいよ!」 と、先に見て騒ぐのを聞いて、自分も見てきたチッチキ夫人との同伴鑑賞でした。 で、帰り道です。「あれってルーマニアやった?」「違うわよ、ルーマニアから、あっこに出稼ぎに来てはるんやんか。」「女の人は中国人?」「顔はね、アジアの人。」「中華料理屋さんやから、中国の人かな、いう感じやったな。」「でも、あっこで生まれ育ってはったみたい。」「苔の研究とか不思議やんな。顕微鏡写真。」「でも、それと一緒にお日さんの光が漏れてくる、木立のシーンがあったやん。あれが、ものすごく自然でよかったわ。」「パーフェクトデイにも同じようなんがあったやん。」「あのな、あの映画な、ウソくさかってん、私には。」「えっ?どういうこと?」「役所広司さんには、別に文句はないねんけどね、まず、トイレの掃除の仕方がウソ臭いねん。」「どいうこと?」「職場のトイレ掃除とかしたことあったらわかると思うねんけど、床のゴミ、素手で拾ってはったやろ。帰りにお風呂に入らはるシーンで説明してはるつもりかもしれ知れへんけど、私やったら、手袋して拾うし、繰り返し手を洗う気がするし、だから、ピカピカのお便所やけど、あそこを使う気がせんかってん。それに、役所広司が持ってるカセットが、妙に価値があるのも変やなって。あの人、金持ちやんって。」「なんかを捨ててきた男をしゅじんこうにしてんねやろ。」「でも、今日の男の人はちがうねんよ。普通の人やん。」「冷蔵庫の残りもんでスープとか?普通?」「そうそう、あれすごくジーンときたわ。」「一人者の料理?」「いや、そうやなくて、暮らしてた国というか、故郷の普通の味のもんを知ってはって、出稼ぎ先で、自炊してはる時に、それがご馳走で、それを、仲間の人や、世話になった人に配って回ることが自然なんよ。」「歩いている林の木立を見上げて見える光のシーンも自然?」「そう、そう、なんか、パーフェクトデイやったら、主人公の、なんかを象徴するようになシーンのために撮ってて、わざとらしいと思うんやけど、この映画の木立は、あるがままなんよね。」「ふんふん。」「男の人と女の人の出会いも、なんか、事件が起きそうなのにそのままで、そやから、女の人が最後に男の人の名前もわからへんというシーンが、ものすごくいいなと思ってん。」「そうかあ、ヴェンダースのは、あれは、あれで、ボクはよかったけど、そうやなあ。」「ちょっと、田舎に帰るけど、冷蔵庫に野菜とか遺ってたからスープ作ってん、食べて、いうて、スープ作って知り合いに配るってすごくない?」「そうやなあ、ありへんな。」「みんな、違うとこから来て、ブリュッセルって、ベルギー?、あっこらへんに暮らしてる、いろんな人を描いてはる目線が自然なんよ。」「苔の研究なんて、変ちゃあ、変やけど、不自然とちゃうもんな。」「あのね、でもね、わたしはこの前のおばさんの話の方が好きよ。」「そうなん?」「そんでね、パーフェクトデイやけど、畳の部屋を歩く時の摺り足の音してたヤロ、あれはよかった思うわ。」「足音がか?」「いや。ほやから畳歩く時の足が摺れる音よ。」「うーん。それは小津かもな?」 と、まあ、帰り道の会話の実況ですが、二人とも、納得だったようですね。バス・ドゥボス監督に拍手!でした。 若い監督さんらしいですが、映し出される人の姿にウソがないというか、チッチキ夫人が「普通」といってましが、文字通り普通の人の姿が映っていて、事件なんて何も起きないのですが、そこがいいなあと思いました。 ああ、それから、話に出てくるパーフェクトデイは、昨年、2023年の暮れに話題になったヴェンダーズの「パーフェクト・デイズ」です。彼女は一人で見に行きましたが、帰ってきて首をかしげていました。ちょっと、そのあたりのことが、この日はことばになったようです。 ボクの感想は題名をクリックしてみてください。監督・脚本 バス・ドゥボス撮影 グリム・バンデケルクホフ音楽 ブレヒト・アミールキャストシュテファン・ゴタリヨ・ゴンサーディア・ベンタイブテオドール・コルバンセドリック・ルブエゾ2023年・83分・G・ベルギー原題「Here」2024・03・29・no051・元町映画館no236追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.18
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金聖雄「アリランラプソディ」元町映画館 待っていた映画です。金聖雄監督の「アリランラプソディ」です。 1990年の終わりから、ほぼ、20年がかりで撮り続けられた川崎市の桜本という地域のおばあちゃんたちが主人公のドキュメンタリーでした。 一番年の若い人で1950年代、登場する多くの人は1920年代に生まれたおばーちゃんたちです。ボクは1954年生まれで、今年(2024年)に70歳で、ボクの母は1928年、昭和でいえば3年生まれの辰年でしたが、亡くなって10年ほどたちます。まあ、その辺りの、だから。ぼくにとっては母に当たるくらいのお年の方が勢ぞろいです。 アリランを歌い、チマチョゴリの晴れ着を着て踊っていらっしゃる姿に涙がこぼれ始めたのが、映画の冒頭でしたが、70歳を過ぎて、初めて識字学級に通い、書けるようになった「日本語」の文字で「にんげんはつよい」 とお書きになっている色紙や、緑の木に雪が降り注いでいる美しい絵が映し出されるのを見ながら、揺さぶられ続けです。 ボクの母ががんの末期を宣告され、病院のベッドで付き添っているボクに語ったことで、覚えていることが二つあります。 一つは、南方へ出征した長兄が、遺品など何一つないまま、とうとう帰ってことを、母の父、ボクの祖父が、最後まで納得しなかったことを「わたしも哀しかったけどな、オジーちゃんはずーっとおこっとんなったなあ。」 そう語りながら、ボンヤリ病室の天井を見上げていたことです。 もう一つは、すぐ上の兄がシベリアに抑留されていた時のことです。「つーちゃんがな、今度こそ帰って来るいうてな、おばーちゃんなあ、船がつくという知らせが来るたびに舞鶴まで行きなったんやで。私が結婚する前やなあ。あんた、岩壁の母っていう歌知っとるやろ、あの歌はホンマことやで。」そう、語りかけながら、あるかなきかの声でひっそりと「はーはは きましーた・・・♪♪」 と口ずさんでいたことです。 スクリーンでは「夢は?」 と問われたオモニたちが、困った顔で80年の人生を振り返っていらっしゃるのが、胸を打ちました。十代で体験した戦争下での暮らしも、戦後の暮らしも、ボクの母の体験などとは比べものにならない悲惨で苛酷な、夢など何一つかなえられなかった人生がスクリーンにはありましたが、ぼくは、戦死した伯父や、それを悲しみ続けた祖父母のことを、亡くなる前の晩に思い出しながら逝った母を思い浮かべながら見終えました。 スクリーンのオモニたちが歌ってきた「アリラン」という歌の一節に、日本語にすればこんな歌詞があります。アリラン アリラン アラリよアリラン峠を越えて行く青い空には小さな星も多く、我々の胸には夢も多い。 インタビューは、おそらく、この詩を念頭にして行われたと思いますが、オモニたちの「夢」 を、言葉通り、生涯にわたって、踏みにじってきたのが、1920年代にお生まれになったときから、戦中、戦後、実は、今に至るまで、「日本」という国であったということは、やはり、忘れてはいけないことだと思いました。 思い出ついでに、もう一つ、ハッとしたことがあったことを書き添えておきます。 映画の後半、オモニたちが沖縄の読谷村を訪れるシーンがあります。そこで「恨の碑」、正式には「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」という石碑を訪ねられるのですが、石碑に縋り付いて泣き始めて、親戚や知人のことを思い出されたのでしょうね、泣き止むことができなくなったオモニの一人が写されるのですが、そのシーンに胸打たれながら、その石碑を作ったのが、金城実という彫刻家であることに気付いて、「ああー!金城センセーや!」 と噴き上げてくるものがありました。 金城実先生が西宮の定時制高校で英語の先生だったころ、教員初体験のボクは半年間、同僚だったのです。その後、先生が沖縄に戻られ、実にユニークな彫刻を発表され続けていたことは遠くから知っていましたが、こんなふうに、沖縄や朝鮮の人たちの心を打ち続けて来られたのだ! ということは、初めて実感したのでした。 なんだか、思い出ばかりの感想ですが、忘れてはいけないことがあることをつくづくと感じた映画でした。拍手!監督 金聖雄撮影 池田俊已 渡辺勝重 菊池純一 世良隆浩 石倉隆二 田辺司録音 吉田茂一現場録音 池田泰明 渡辺丈彦編集 金聖雄 康宇政音楽 横内丙午語り 金聖雄2023年・125分・日本2024・04・13・no058・元町映画館no241 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.17
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ピーター・グリーナウェイ「英国式庭園殺人事件」元町映画館 「ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師」の2本目は「英国式庭園殺人事件」でした。 1本目がシェイクスピアのテンペストのネタでしたから、まあ、イギリスの時代劇なわけでしたが、この作品も、多分、日本でいえば江戸時代のなかばというか、17世紀から18世紀くらいのイギリスの田舎貴族のお屋敷での話のようで、登場する画家が1枚8ポンドで12枚だかの絵を請け負うという筋立てなのですが、これがどの位の価値なのか、そこのところが妙に気になった映画でした。 固定相場で、ドルが360円だった1950年代にポンドは1000円くらい(?)だったと思うのですが、17世紀とかいうことになると、まったく見当がつきません。 まあ、ほとんど、どうでもいいことなのですが、映画の終わりまで気になっていて、帰って来て調べても、やっぱりわかりませんでした。 次に気になったのが絵画です。主人公らしき人物であるネヴィルという男が画家で、この映画ではハーバートという田舎貴族の奥方に雇われて、屋敷の風景を書くという設定で、前回は本だったわけですが、今回は絵でした。 まあ、その絵の描きかたあたりから、実に映像的に工夫されていて、この監督の、多分、味わいの一つなのでしょうね。 で、油絵を描くのかと思うと線描画だったことに驚きましたが、構図を縦横に糸を貼ったファインダーというか、構図用の枠を備えて、そこから覗いた風景が、リアルな描線に変化していって、1枚の写生画になっていくあたりの撮り方はとても面白いと思いました。 そうそう、絵といえば、シーンの中に、いかにも、これはフェルメールかな? という構図があったりしましたが、そう言えば、上に書いたファインダーというかも、フェルメールだったかの対象把握の道具と似ているかもしれませんね。でもね、結局、何で、フェルメールなの? という、まあ、ハテナになってしまうところが、この映画なわけです(笑)。 で、映画は、彼が描いた絵のなかに、結果的には殺されていたハーバート卿の遺留品が書き残されていたということから、その絵を描いた画家が、この殺人の真相を見ていたに違いないという推理としては全く成り立たない! 理由から、ハーバート卿殺しを疑われて、とどのつまりは屋敷に出入りしている男たちによって惨殺されて終わるのですが、この間のストーリー展開について理解している人がいるなら解説してほしいという「何があったの?ポカーン?」 という作品でした。 で、1本目で気になった全裸の登場人物(笑)ですが、この作品では屋敷の庭にあるブロンズの彫刻が、体を緑に塗った人間なのですね。 映画の途中で、庭の隅の彫刻が動き出すシーンが、わざわざ映し出されるので、「さて、これが殺人の真相を、なにか暗示するのかな?」 と思って見ていたのですが、どうも、何の関係もなかったようで、「なんやねん???」 というか、そういうのを登場させたいから映像にしたという感じでした(笑)。 画家と、屋敷の女主人、その娘の関係も、いってしまえば不倫ですが、肉体的交渉まで含む「絵」に対する報酬条件とか、興味津々で見ましたが、殺人事件の謎解きといい、それでなんやったん? という結末で、アゼン! でした。笑うしかありませんね(笑)。 とか、なんとか、いいながら、結構、面白がって見終えたことは事実で、確かにこの監督には「妙に引っ張られる、わけのわからなさ」がありますね。ということで、あと2本、やっぱり見てしまいそうです。ボクもヒマですね(笑)。監督・脚本 ピーター・グリーナウェイ撮影 カーティス・クラーク美術 ボブ・リングウッド衣装 スー・ブレーン編集 ジョン・ウィルソン音楽 マイケル・ナイマンキャストアンソニー・ヒギンズ(ネヴィル 画家)ジャネット・サズマン(ハーバート夫人)アン=ルイーズ・ランバート(タルマン夫人)ニール・カニンガム(トマス・ノイズ)ヒュー・フレイザー(ルイ・タルマン)デイブ・ヒル(ハーバート氏)1982年・107分・イギリス原題「The Draughtsman's Contract」(画家の契約)日本初公開1991年2024・04・03・no054・元町映画館no238追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.16
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井戸川射子「この世の喜びよ」(講談社) 井戸川射子という人の「この世の喜びよ」(講談社)という作品集を読みました。書名になっている「この世の喜びよ」は、ちょうど1年前、2023年1月に発表された芥川賞の受賞作ですが、ほかに「マイホーム」・「キャンプ」という短編が入っています。 西宮あたりで、公立高校の教員をなさっている方だと聞いて、2021年に野間文芸新人賞を受賞されたという「ここはとても速い川」(講談社文庫)という作品を読んで「あっ、この人は、ちょっとちがう!」 まあ、そんな、感想を持って注目していた人でしたが、最近気に入っている乗代雄介とは、まあ、好対象(笑)というか、2作目で芥川賞でした。 あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。豊作でしたのでどうぞ、という文字と、柚子に顔を描いたようなイラストが添えられた紙が貼ってある。そのまえの机に積まれた大量の柚子が、マスク越しでも目が開かれるようなにおいを放ち続ける。あなたは努めて、左右均等の力を両足にかけて立つ。片方に重心をかけると体が歪んでしまうと知ってからは、脚を組んで座ることもしない。腕時計も毎日左右交互につける。あなたは人が見ていないことを確認しつつ片手に一つずつ握っていき、大きさ重さを感じながら微調整し、ちょうどいい二つをようやく揃えた。喪服の生地は伸びにくいので、スカートの両側についたポケットにそれぞれ滑り込ませると、柚子の大きさで布は張り膨らむ。この柚子は娘たちに、風呂の時に一つずつ持たせてやろう、とあなたは手の中のを握りしめた。従業員休憩室に、おすそ分けがこうして取りやすく置いてあるのは珍しい。大きなショッピングセンターなので休憩室は広く、売り場のコーナーごとに仲良くまとまっている。仲間内でお土産が配られたりして、普段は分け合っているのを横目で眺めるだけだ、お菓子などは、あなたにはいつも回ってこない。(P7~P8) 書き出しの、最初のパラグラフです。「あなた」という2人称の代名詞で語られる「誰か」の行為(外面)から意識(内面)までが、この作品で、その「誰か」のことを「あなた」と呼んでいる書き手によって描かれていました。 誰かは、引用部で分かるように、どこかのショッピングセンターの喪服売り場で「仲間内でお土産が配られたりして、普段は分け合っているのを横目で眺めるだけ」 だと感じながら働いていて、もう少し読めば、ポケットに入れた柚子を「風呂の時に一つずつ持たせてやろう」 と思う二人の娘が、すでに就職したり、大学生になっていたりしている、おそらく40歳をこえる女性だということもわかってきますが、問題は、その女性を「あなた」と呼んで、この文章を書いているのは誰なのかということですね。 例えば、よく知られたこんな書き出しの小説があります。「或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。」 教科書でご存知でしょう、芥川龍之介の「羅生門」の冒頭ですが、この一文の「一人の下人」を「あなた」に置き替えてみると、読者はこの小説の「書き手」と「あなた」の関係は何か? から目を離せなくなると思いませんか。小説が説話物語的な構造を捨てて、書き手と、登場人物である「あなた」との「関係」を描かずに終えることはできないだろうという、まあ、ある種の緊張感 を内包する現代小説化していくと思うのですね。この作品は、そこに着目して現代を生きる人間を描こうとしているのではないか? まあ、そういうことを期待して、2ページ、3ページと、ほとんど何も起こらないこの作品のページを繰って読み続けながら、ボクの頭から離れないもう一つの疑問は「この世の喜びよ」と、作品名によって明示されている、「この世の喜び」とは何か? ですね。 で、この本の7ページから96ページまで、全部で89ページある、この作品の87ページまでたどり着いたのですが、語り方に変化はありませんし、題名理解への暗示もありません。 ところが、最後の2ページです。突如、もう一人の「あなた」が登場し、初めて、他者に2人称で呼び掛ける、1人称の「私」も登場します。「私は炎みたいな形の木とか、太い幹の根もとから色の薄い若木が取り囲むように生えてて、これから競い合うように、枝はどう伸びていくんだろうとか、そういうのを眺めてた。」 初めて、この小説に、一人称の「私」が出てきた一文の後半です。 で、作品は指示対象が異なるらしい二つの、同じ二人称代名詞「あなた」の出てくるこの一文でとじられます。「あなたに何かを伝えられる喜びよ、あなたの胸に体いっぱいの水が圧する。」 ここまで読んできて浮かんできた、あれこれの疑問が、この一文ですべて氷解したりはしませんでしたが、読み終えたとき、なんだか深くため息をつきながら、「胸に体いっぱいの水が圧」している「あなた」の姿を思い浮かべました。 わからないところは残っていますが、確かに、今という時代の、社会の片隅で、ひっそりと生きている人間の「希望」 を描こうとしている作品であることは間違いないと思います。 納得です。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.15
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NTLive ルパート・グールド「ディア・イングランド」シネリーブル神戸 久しぶりのナショナル・シアター・ライブです。上映館のシネリーブル神戸が、座席の改修工事とかで10日ほど休館していたので、この映画館に来るのも久しぶりでした。なかなか快適、贅沢な座席に変わっていましたよ(笑)。 で、演目はルパート・グールドという人の演出で「ディア・イングランド」という、どうも、サッカーを舞台でやる! お芝居らしいですが、「サッカーを舞台でねえ?」 まあ、「何でも見てやろう!」 という気分ではありましたが、実は、まったく期待していませんでした。だって、チェーホフやシェイクスピアをやるならともかく、サッカーですからね、何を期待していいのかもわからないじゃないですか。 で、これが、大当たり! 画面を見ていて、地元のイギリスというか、イングランドでは大うけだったのが画面の観客の様子からもよくわかりました。たぶん、実在の選手とかに似ているのでしょうね。もっとも、このお芝居の、ちょうど前の時代のベッカムとか、ウェイン・ルーニーあたりの名前は聞いたことがあるというのがやっとで、今では、イングランドの選手の名前どころか、日本代表選手の名前さえ知らない、サッカーなんて忘れて10年以上経った、70歳目前の老人が、舞台上の試合結果にワクワクし、選手や監督のセリフに、なんと、涙を流してしまった出来栄えで、拍手!、拍手!でした。 さすが、お芝居の国イギリスですね。ほんの小さな舞台の上で、ワールドカップの試合を再現して見せていて、もうそれだけですごいのですが、且つ、現在の世界で、多分、最も重要な思想的課題の一つである「ナショナリズム」について、かなり本質的な問題提起と、未来に対する希望を呼び掛けているドラマとして出来上がっている印象で、単に、「イングランド万歳!」 ではないお芝居になっているところに感心しました。やっぱり拍手!ですね。 ところで、これが今年のナショナル・シアター・ライブのチラシです。1本はチェーホフの新解釈のようですが、あと2本は新作ですね。楽しみです(笑)。演出 ルパート・グールド原作 ジェームズ・グレアムキャストジョセフ・ファインズ(ガレス・サウスゲート)ウィル・クローズ(ハリー・ケイン)アダム・ヒューギル(ハリー・マグワイア)ダラー・ハンド(マーカス・ラッシュフォード)エベニーザー・ギャウ(ブカヨ・サカ)ジーナ・マッキー(ピッパ・グレンジ)2024年・160分・イギリス原題National Theatre Live「Dear England」2024・04・12・no057・シネリーブル神戸no237追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.14
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「高倉台の桜の園」 徘徊日記 2024年4月11日(木)須磨・高倉台あたり いいお天気の昼下がり、須磨一の谷の丘の上で一服した後は、東に向かって下って、須磨寺あたりを抜けて、離宮公園の西隣のバス道を北に登って行くと、道路に沿って東側、満開の桜並木です。向うの山影は須磨アルプスですね。 ちょっと、写真を撮って、桜並木の向うにある中庭に入っていきます。一応、中に入る許可証は持っていますよ(笑)。 瀟洒というか、白い建物があって、その手前に、実に立派な枝垂桜あります。最初の写真も、そのサクラです。ただ今満開中! ここは学校ですが、学長さんとか、きっとご自慢でしょうね。 写真がへたくそなので、上手に撮れていませんが、この木を毎日眺めて暮らしている学生さんは幸せでしょうね、と、まあ、思うくらい立派です(笑)。 振り返ると、ここは広場で、噴水池があって、池の周りにはチューリップ、チューリップ、チューリップです。その向こうに、先ほどのバス道沿いのサクラ並木、向こうの山は須磨の鉢伏山ですね。 誰も写っていませんが、お昼休みなので、学生さんははたくさん歩いていらっしゃいます。 帰り道に、まあ、構内禁煙なので、このあたりで一服して、もう一度振り返りました。校門あたりの桜並木です。少し時間がたって、曇って来たのが残念ですが、来週には散ってしまっているでしょうからね。 今年度初仕事の帰り道です。じゃあね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.13
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「あの~、自慢の枝垂れ桜、もう1本あるんです!」 徘徊日記2024年4月7日(日) 団地あたり 同じ4月7日の日記で自慢の枝垂れ桜を紹介したんですけどね、こういう姿で枝垂れている、まあ、これも自慢のサクラが、もう1本あるんです。 全景はこんな感じです。 場所は、団地の東北の隅で、タケノコ山と、我が家では呼んでいる竹林のある、ハイ、わが団地には孟宗竹の林があって、もうすぐタケノコも出てくるのですが、その竹林の裏の、ちょっと小高くなっているところにあります。 団地の外側からも、内側からも、微妙に死角になっていて、目立たないのですが、花はご覧のようにすばらしいのです。 タケノコ山の、向こうは隣のマンションで、手前が団地の敷地です。あいだに近所の中学生や小学生のの通学路にもなっている歩道ですが市道があります。 歩道からはタケノコ山があっで見えませんし、団地からは、ちょっと小山の上で、周りのソメイヨシノが隠していて見えません(笑)。 で、咲き始めるのが少し遅れるのと、色がピンクなので目立たないんですね(笑)。 というわけで、ボクはこっそり待っていたんです。 今日のように、青空と竹林の緑を背景にした満開の枝垂れ咲きを(笑)。なかなかいいでしょ。 木の根もとあたりは芝生ですから、まあ、寝転がりはしていませんが、座り込んで見上げています。 見事な眺めですよ。 ということで、もう少しうろつきます。じゃあね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.12
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「須磨一の谷の小さな公園のサクラ。」 徘徊日記 2024年4月11日(木)須磨あたり 今日は2024年の4月11日です。週に1日だけですが、まだ、雇ってくれる人がいて、今年も出かけることになっている木曜日です。 午前中のお天気は快晴で、目的地は須磨の高倉台ですが、JRの塩屋駅にある「アキラッチ」というピザ屋さんで焼き立てのピザを買って、桜を見るなら須磨浦公園によればいいものを、横目で見ながら通り過ぎて昇って来たのが、須磨、一の谷の丘の上です。 愛車のスーパーカブ号を丘の上の公園の歩道に止めて、この見晴らしの石段の上に腰をかけます。 で、お昼がわりのピザを頬ばろうという目論見です。塩屋駅のアキラッチから、ここまでは10分もかからない距離ですから、ピザはホカホカです。「ごくらく、ごくらく」 と独りごちながら、フトの公園を見下ろすとサクラです。 この上からのシーンを撮り忘れてきたのが不覚です。来週には桜は、もう、ありませんから、1年後ですが、1年後にはここを通る用事があるかどうか名わけで、残念至極ですが、石段を20段ほど降りると砂場もある子供の公園でした。 こういう風情です。近所は公団住宅風のアパート群ですから、その頃は子供たちもたくさん遊んでいたのでしょうね。今は、誰もいません。 で、気になったのが、桜の木の向うに見えている大木です。いわゆる、照葉樹なのでしょうが、もちろん、クスノキではないことくらいはボクでもわかりますが、この木の名前がわかりません。しかし、見事な大木でしたね。 まあ、今年は、まだ、このあたりを通りそうですからね、そのうち調べることもできるでしょう。楽しみですね、まあ、それくらい大木だったということです。じゃあね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.12
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「咲いちゃった!」 徘徊日記 2024年4月10日(火)団地あたり まだ、若い木なんです。でも、不思議なのですが、この団地にはモクレンとかコブシとか、ないんです。 神戸の街には、元町のモクレンとか、北長狭のコブシとか、住んでいる垂水区だって、県商筋のコブシとか、街路樹になっていて、あちこちで見かけるのですが、おもしろい木がたくさん植えてあるこの団地には、この1本だけなんです。 それが、住んでいる棟のすぐそばにあるんです。うれしいですねえ(笑)。 ちょっと気取っている様子で、なかなか色っぽい木蓮って、イイと思いませんか? 全景です。 隣では箒桃が満開です。 モクレンの木から振り向くと、まあ、こういう、花ざかりの風景です。 青空、サクラ、箒桃、みんな満開で、陽気な気分が満ちています。あと三日もすれば、若葉の世界に変わります。 ところで、話は代わりますが、ダメとら・タイガース、やっぱり、苦しんでいますねえ。だめトラびいきにはいつものことの始まりですが、シーズンは長いですからね、そのうちなんとかなるでしょう(笑)。 まあ、そんなことを考えながら、ウロウロという、2024年4月10日の昼下がりでした。じゃあ、またね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.11
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「おや、モクレン、咲きましたね。」 徘徊日記 2024年4月7日(日)団地あたり 4月のはじめにようやく蕾らしいものを付けて、のんびり構えていたモクレンが咲き始めていましたよ。イッセイ開花とはいきませんが、そこいらじゅうで桜満開のなか、立派に自己主張しています(笑)。 おっと、先陣切って咲き始めた、こちらは躑躅です。 で、同じところに咲いていた、こちらはももの花ですね。「ここの団地はねえ、桜もいいんですけどね、この桃が好きなのよ。かわいらしいでしょ(笑)。」 写真を撮っているところに、下のサクラ並木から妙齢のご夫人が息を切らせて登ってこられておっしゃいました。「桃の花なら、向うの、棟の裏にも咲いているのご存知ですか?」「あら、そうなの。じゃあ、ちょっと覗いてみようかしら。」 花の季節はいいですね。普段、こんな会話できませんよね。 こちらはボケの花ですね。枝垂れ桜の近所に咲いています。 これは、もっと早くから咲き始めて、今や散る寸前のボケの花です。住んでいる棟のすぐ隣の芝生に咲いています。 で、その木の近くに植わっている椿です。今年は、ほかのツバキも、なかなかしぶとく咲き続けていますが、これは花の柄が八重ですからね。 で、その下の草むらには、ムスカリです。このあたりに小人の住まいとかあるのかな、という風情ですね(笑)。 サクラを撮ろうとウロウロしているのですが、いろいろあります。まあ、そうはいっても、4月7日のサクラ徘徊の団地めぐり、まだ、つづきますからね。じゃあね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.11
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和田誠「わたくし大画報」(ポプラ社) 市民図書館の新刊の棚で見つけました。はて、なんで? 著者の和田誠は数年前に亡くなった方のはずです。で、手に取って奥付を見て了解しました。1982年だそうですから、40年前に講談社から出版された本のポプラ社による復刊でした。 コミカルで、ほのぼのしたイラストの「のみのピコ」とか「あな」とかの絵本や、本の装丁、挿絵のイラストレイターとして、確か、1970年代半ばに人気者になった彼が、「お楽しみはこれからだ」(文芸春秋・国書刊行会)をはじめとする映画とかのイラスト付きエッセイで大活躍しはじめたころのエッセイですね。「麻雀放浪記」、「怪盗ルビィ」の映画監督になるちょっと前ですね。 で、借り出してきて、読み始めてとまりません。時間的には、40年以上も古い話で、いきなり、いずみたくとか永六輔とか中尾ミエとか出てきても、今の若い人には「???」 なのかもしれませんが、こちとらは、まあ、その時代の人間なわけで、懐かしさもあり、和田誠の物言いの楽しさもありで、速読(笑)でしたが、巻頭エッセイがこんな感じです。「猫について」 一九七四年十二月 わが家に猫が来た。 妻はこの猫の種類をアビタシオンだと言う。高級マンションのような名前の猫だなあと思ったが、よく聞いてみたらアビシニアンというのであった。そう言えば結婚した時に、いずみたく氏から蘭を贈られたのでありますが、この蘭の名をシンポジウムだと言うのですね。蘭の品種について討論でもするみたい。これも人に聞いたらシンビジウムというのだそうである。 さて、この猫だが、実は片親がアビシニアンで、どちらかが雑種なのだそうだ。ぼくはその方を好みます。名門は肌に合わない。ところでクレオパトラが飼っていた猫がアビシニアンだったそうで、アビシニアというのはエジプトの地名なのだという知識を妻はどこから仕入れて来た。妻はもうクレオパトラになった気でいるようだ。七月十四日生まれだから誕生日を憶えやすい。しかし猫の誕生日を憶えていても役に立つかどうか。それはそうと名前であるが、妻は「桃代」と名付けたのであります。何故か妻は幼い頃から猫に対して「桃代」というイメージがあったのだそうで、もっと正確には「桃代のシン子さん」というのが適当なのだと言う。「だって一重瞼の人はシン子さんていう感じだし、ネコは一重でしょ。どうしても洋子さんて感じじゃないもん」と言うのだが、このへんを理解できる人は少ないのではないかと思うのですけれども。(P17~P19) 巻頭のエッセイの出だし半分の引用です。後半は桃代さんとの暮らしですが、妻と呼ばれているのは平野レミさんですね。 上の左のページが桃代さんです。桃代はこんなふうに上むいて眠る とキャプションがついています。まあ、イラストがサイコーですね(笑)。 一九七四年の一二月から一九七六年九月までは「家庭画報」と題して、一九七九年一〇月から一九八一年九月までは「渋谷画報」と題して、隔月発売だったらしい「別冊小説現代」(講談社)、後に「小説現代」(講談社)に隔月連載されていたエッセイの単行本化です。 最後の記事は一九八一年九月号に掲載された分で、そこに「向田さん」という記事が載っていますが、まだ五一歳だった向田邦子さんが飛行機事故で亡くなったのは、この年の八月でしたね。和田誠さんも、今では、もう、この世にはいらっしゃいません。 楽しく読みながら、色んな人が亡くなっていくのを、まだ、若かった自分自身がどう受け止めていたのか、やはり考えてしまう読書でした。「同時代を生きる」とかいういい方がありますが、和田誠さんが、あれこれおもしろく書かれている、この時代を生きていたんですね。 新刊ですから、図書館で借りられます。なつかしい方はぜひどうぞ。イロイロ、思い出せますよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.11
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「あのチュ-リップが・・・!」 ベランダだより2024年4月5日(金)ベランダあたり あのーですね、我が家のベランダで数日前からチューリップが咲き始めていたんですが、最初、下の写真の様子で、いったいどうなることかと思っていたんです。花だけ植木鉢に乗っかってる状態でした。 それが、数日後の今日、最初の写真のようになりました。花が咲いてから、首というか、茎というかが伸びるんですね(笑)。 で、もう一つの植木鉢はこうだったんです。 それが、こうなりました。 こちらは、蕾がありましたから、まあ、こうなるわけですが、首が伸びたには驚きました。ろくろ首もどきの離れ業ですね(笑)。 こちらは、玄関前に一株だけあるクリスマス・ローズ。地味ですね(笑)。 で、こちらがスズラン水仙。茎は水仙、花はスズラン、棟の水場のあたりにお隣さんが植えられて、少しずつ増えていますね。静かな春で、イイですね。 その周りには、ムスカリです。 サクラ便りを書くつもりが、ベランダだよりになってしまいました(笑)。じゃあ、またね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.10
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小谷野敦「文学賞の光と影」(青土社) その昔「もてない男」(ちくま新書)という、まあ、衝撃的な(笑)書名の所為でベストセラーになった本を書いた小谷野敦という、多分、比較文学の研究が本業だったはずの方の「文学賞の光と影」(青土社)を市民図書館の返却の棚に見つけたので読みました。 一応、「読書案内」と看板を上げているわけですから、どうぞお読みください! というのが基本ですが、今回のように「まあ、こういう本もありますよ、別にすすめませんが」という時も、まあ、ないわけではないので、悪しからずです。 はじめにの終わりに、まあ、執筆意図についてでしょうね、こう書かれています。 芥川賞のように有名になると、ふだん文学を知らない人も関心を持つから、公募の賞だと思い込んでいるいつ人や、純文学って何?え?こういうのが「ジュンブン」なの?といった疑問を持つ人も多い。そこで本書では、内外の文学賞について、よもやま話を書いて、いろいろ疑問に答えておきたいと思う。まあ、この本自体がベストセラーにならないと、誤解を解くというわけにはいかないのではるが。 文学の素人の方には、まあ、様々な疑問や誤解があるようですが、疑問にお答えして、誤解を解きますということですが、要するにこの本が売れれば、いろいろ解決しますよという、まあ、読み終えて見ると、ちょっと誇大広告(笑)で、いや、儲かるのはあんたやろということらしいですが、目次はこんな感じです。目次第1章 芥川賞と直木賞の栄光と死屍累々第2章 ノーベル文学賞第3章 貰えなかった恨み第4章 新潮社の栄光と文学賞第5章 作家と学歴第6章 文学賞の女と男怨念の書―あとがき 目次を、まあ、索引がわりにして、あっちこっちのページを覗いているうちに、読み終えました。何が、どう書いてあるのかというと、今度はあとがきですが、 私は学者の道を歩み、博士号までとった。そうである以上、別に東大とは言わないが、しかるべき大学の教授になりたかった。というか、当然なるものと思っていた。ところが、時代が悪いのか自分が悪いのか、いや、時代が悪いに決まっているのだが、それはどうもないようである。そこで、大学教授より格が上である××賞をとってやろうと、邪念を抱いたのである。いや、本気で邪念だと思っているわけではない。 ぞんな時、たまさか、本書を執筆することになった。かなりの分量、文学賞をめぐる人々のやっさもっさについて書いていくうちに、私の中から、つきもののが落ちたように「賞などどうでもいいではないか」という悟りのようなものが生まれたのである。 ご本人がおっしゃっている通り、様々な賞をもらったり、あげたりする、あれこれの作家や評論家について、まあ、スキャンダルと云う程の毒があるわけでもない、「やっさ、もっさ」が書かれていて、こういう話が好きな人には面白いでしょうね。 多分、文芸雑誌や、ゴシップ雑誌のバックナンバーを、かなり丹念に調べた(根が学者なのでしょうね)その結果を、しかし、だから、憶測かうわさに過ぎないかもしれないゴシップ記事として書き連ねていらっしゃって、まあ、結果的に、ご本人の賞が欲しいという妄執 からは、解脱というか、悟るというかのメデタイ結果なのかと思うと、最後のページにのせられていた戯れ句がこうでした。 賞とれず 根岸の里の詫び住居 笑えませんね。 焼いても治らんといういい方がありますが、まあ、「もてない男」でもそうだったような気がしますが、ちょっと引きながらの上から目線というスタイルが彼のウケ狙いなのでしょうが、芸のないことですね。 ただ、何とか賞をめぐるゴシップは、ほんと、山盛りで、知ったからどうだという気もしますが、「読みごたえ」ありますよ。ボクの場合、こうして案内していて、すでに忘れてますから、まあ、こんな本もありますヨ! でした。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.10
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「自慢の枝垂れ桜です!」 徘徊日記 2024年4月7日(日)団地あたり 今日は4月7日(日)です。 団地のさくらが咲き始めて1週間たちました。朝から落ち着きません(笑)。団地をウロウロしています。 とりあえず、東の駐車場あたりにある枝垂れ桜です。 お天気は、少し青空も見える、絶好の「花曇り」です。気温も20度を超えていて、当然のことながら、気持ちも陽気です(笑)。 ソメイヨシノに比べて、特にこの木は色が濃くて、なんというか、独特の色気があります。 おなじ木の向うから、こっちからと角度を変えているつもりなのですが、まあ、似たような写真になりますね。 樹齢は、さあ、団地のできた頃に植えられたのでしょうから、50年前後だと思いますが、枯れ枝も年々増えてきていますが、まあ、見事なものです。 奥に見えているのは東の駐車場ですが、左手には普通の棟があって、お住まいの方はベランダに出れば、この時期、毎朝この木のこの花を眺めることができるお部屋もいあるるわけで、羨ましい限りですね。 この木の後ろの棟の4階、5階の方は、上からの姿も見ることができるわけですからねえ(笑)。 この団地には4本か5本の枝垂れ桜がありますが、特にこの木は、まあ、他の方がどう思っていらっしゃるのかまではわかりませんが、ボクの自慢の木ですね(笑)。 もう少し、ウロウロします。サクラ日記は続きますよ(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.09
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ピーター・グリーナウェイ「プロスペローの本」元町映画館 今日は2024年の4月2日、火曜日です。元町映画館でやっている「ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師」という企画に、なんとなく興味が湧いてやって来ました。 これが企画のチラシです。冒頭の「美しい狂気」という言葉が目に飛び込んできます。「狂気ねえ?!」 1980年代から90年代にかけて話題になった人らしいですが、まったく知りません。高山宏という、英文学の研究者、まあ、かなり変わった人ですが、が、どこかで話題にしていたような気がしますが、定かではありません。 で、見たのは「プロスペローの本」という、1991年の作品で、代表作の一つだそうです。「プロスペローだから。シェイクスピアか?」 まあ。その程度の予備知識です。で、見始めて、見終えて笑ってしまいました。たしかに、シェイクスピアのテンペストの、翻訳では「嵐」かな?の映画化でした。プロスペローもそうですが、娘のミランダとか、妖精のエアリエルとかの名前が出てくるたびに、ああそうだな、やっぱりそうだな、 と、気付き直し、気付き直し、しながら、えーッ?でも、これ、ちょっとちがうんちゃうか? とか思いながら見ていたのですが、終わってみてらテンペストでした。ハハハハハ。 何故、違うと思ったのかの、大きな理由は、この映画、筋を運ぶ数人の登場人物以外は全裸なのですね。 で、なんで、みなさん裸で、オチンチンとかオッパイとかブラブラさせながらウロウロするのかというのが、ボクには、まったくわからないんです。ただ、不思議なのは、慣れてくると、そういうシーンがイヤらしいとかエロイとかいうことにつながらないというか、まあ、そういうふうにしたいんでしょうかね??? という感じで、最後まで見ると、たとえば、ナショナルシアターライブとかで見る、まあ、演出に差はありますが、「テンペスト」という演目のひとつ、という印象なのですね。たしかに独特ですが、別に、狂気だとも魔術だとも思いませんでしたが、なんか、微妙に引きつけられることは事実ですね。 そういえば、「テンペスト」ネタのお芝居はナショナルシアターだったか、他の映画だったか忘れましたが、ここ、数年の間に見たような記憶があります。その時、「リア王」とかなら読み直したりしないのですが、この戯曲だけは読み直したはずで、まあ、だから、ああ。テンペスト! だったわけです。 で、この映画ですが、プロスペローが手にれる魔法の本の扱い方とか、いかにも映画的で、面白いし、プロスペロー(ジョン・ギールグッド)を演じている俳優のお芝居力も大したもので、奇妙奇天烈なシーン、いいようによれば荒唐無稽な展開を支え切って歴史劇を演じている印象で、シラケさせません。拍手!ですね。 なのですが、やっぱり、なんで裸なの?でした(笑)。 もちろん、その演出は、ボクごときには意味不明でしかありませんが、なんか、引っかかるのですね。そこで思い出したのが、高山宏ですが、でも、まあ、すぐには見つかりそうもありませんね。 ということで、グリーナウェイ、続けて見ることになりそうです(笑)。監督・脚本 ピーター・グリーナウェイ原作 ウィリアム・シェイクスピア美術 ベン・バン・オズ ヤン・ロールフス撮影 サッシャ・ヴィエルニー音楽 マイケル・ナイマン編集 Marina Bodbyl衣装デザイン ワダエミ ディーン・バン・ストラーレンキャストジョン・ギールグッド(プロスペロー)マイケル・クラーク(キャリバン)ミシェル・ブラン(アロンゾ―)エルランド・ヨセフソン(ゴンザーロ)イザベル・パスコー(ミランダ)1991年・126分・イギリス・フランス・イタリア合作原題「Prospero's Book」2024・04・02・no053・元町映画館no237 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.09
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「うちのサクラ、満開です。」 徘徊日記 2024年4月6日(土)団地あたり 住んでいる団地の中央に散歩道があります。歩道の生垣は雪柳です。並木は桜、ソメイヨシノ(?)、所々にベンチもあります。 今日は4月の6日で、雪柳は満開を過ぎたところですが、サクラが満開に差し掛かっていました。 少々、曇り空なのが残念ですが、見上げるとサクラの空です。 このサクラ天井が、団地を南北に横切っています。さっさと歩けば5もかからないかもですが、このあたりでは、チョットしたサクラの名所です。 まあ、こういう感じです。人が写っていませんが、実はお花見散策の方が、結構たくさんいらっしゃいます。バスに乗って、毎年来るのよ! と笑いながらスマホで撮りっこしてっておられた、女性のお二人連れもいらっしゃいました。うれしいですねえ(笑)。 昔は、団地の子供会とかのお花見会とかもあったのですが、今は、多分、子供会そのものがなくなってしまいました。 雪柳の生垣とサクラ並木がよく合いますね(笑)。 スマホとかをいじりながら、こんなことをいうのもなんですが、写真が上手に撮れたらなあ・・・ まあ、つくづくそう思いますね(笑)。 少し青空が見えてきて、いい感じです。 もう少し、向こうまで、続いていますが、とりあえず、ここまでです。まだ写真はたくさん残っています。団地のサクラ、徘徊日記はまだまだ続きます(笑) じゃあね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.08
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乗代雄介「皆のあらばしり」(新潮社) 2021年の「新潮」10月号に掲載された作品の単行本化ですが、文庫はまだありません。その年の芥川賞の候補作らしいですが、これで3回目の落選です。 「十七八より」(講談社文庫)で群像新人文学賞でデビューして以来、「本物の読書家」(講談社文庫)で野間文芸新人賞、「旅する練習」で三島由紀夫賞と坪田譲治文学賞のダブル受賞、で、「最高の任務」(講談社文庫)が2019年、「旅する練習」(講談社)が2020年の芥川賞の候補作になって、今回案内している「皆のあらばしり」で3回目、ちなみに、2023年には「それは誠」(文藝春秋社)で4回目の候補になりましたが、やっぱり落選でした(笑)。 というわけで、「皆のあらばしり」ですが、今回は書き出しではなくて50ページあたりからの引用です。「青年は小津安二郎は知っとるか?」「映画監督だろ。」男が黙って指さしたところには小津久足という名前があった。「小津久足は、伊勢の松坂の豪商、干鰯問屋湯浅屋の六代目当主や。家業の傍ら、歌に国学、紀行文と文事を重ね、歌は約七万首、蔵書は西荘文庫として残っとる。あの滝沢馬琴にも、その博識と文才を認められた友人として知られる江戸の文人や。『南総里見八犬伝』ぐらい読んだことあるやろ。」「ない」「そうかいな」男はそんなことは織り込み済みだとばかりに言った。「しかし、自分を偽らんのが青年の見込みあるところやがな。下に偽るならまだしも、上に偽って背伸びされたら話が一向通じんから困ったもんやで」「あんたはいつ読んだんだよ」「いつやったかな。青年が今、高二やろ。高一ぐらいで読んだんとちゃうか」学年を教えた覚えはなかったけれど、後輩にも会ったし、どこかで察したのだろう。「ほんとかよ」とぼくは言った。「下に偽ってるんだろ」「そう思わせたらこっちのもんやけど、まあええわ。話を戻そうやないか。その小津久足の、母違いの弟の孫が小津安二郎なんや」「その人がどうしたんだ」「その小津久足の著作として」と指をすべらせ「ここに「陸奥日記」と「皆のあらばしり」が一点ずつあると書いとるわな。このほんまにしょーもない蔵書目録、何を大層に目録やっちゅう漢字やけど、唯一おもろい、掃き溜めに鶴はこいつや」 とまあ、こういう感じなのですが、小説の登場人物は、ここにいる「男」と「ぼく」、舞台は栃木県にある皆川城という、室町時代の山城の城跡の公園です。二人は、ある日、偶然、その公園で出会います。「男」の名前は不明ですが、やたら、歴史に詳しい、単身赴任のサラリーマンで、「ぼく」は地元の高校2年生で、歴史研究会のメンバーです。 で、「ぼく」の一人称で書かれているわけですから、「ぼく」がこの文章の書き手ということになりますね。ただ、他の作品のように日記であるとか、手紙であるとかいう形式が選ばれていないところが、この作品の特徴ですが、実はここでは、もう少し違う形式が導入されているのですが、気になる方は、まあ、読んでみてください(笑)。 そのほかの登場人物は、同じ歴史研究会の後輩の竹沢さんだけです。古くからの造り酒屋だった竹沢酒店の娘です。彼女が登場して「ぼく」に呼びかけるシーンで。初めて、ぼくの姓が浮田君であることがわかりますが、名前はわからなかったと思います。 で、小説の不思議な題名である「皆のあらばしり」は、引用でおわかりのように、小津久足という江戸時代末期の文人が残した草紙ということなのですが、今、男が見ている蔵書目録は竹沢酒店にあったものです。ちなみに、お調べになればわかりますが「あらばしり」は、新酒を絞る時に、絞らなくても出てくる最初の酒のことだそうです。 で、最初の謎が、「皆のあらばしり」などという草紙が果たして実在するのかどうかでした。「偽書」といういい方がありますが、この「皆のあらばしり」は真書なのか、偽書なのか、男と浮田君の二人が、まあ、そのあたりをめぐっての会話劇で読み手を引っ張るわけですが、この作家得意の「オチ」まで来ると、小説の「語り手」も含めた手の込み方というか、実に技巧に徹した工夫が凝らされていたことが分かって、チョット啞然とします。 まあ、おすきなかたは膝を叩いて、という所でしょうが、ボクは「書く」という行為の信憑にこだわり続けているらしいこの作家の実験作の一つというふうに感じました。 サリンジャーの最後の小説ですが、「ハプワース16、1924年」(新潮社)という作品があります。シーモアという、すでに、死んでいる兄が、まだ7歳だった時に両親に向けて書いた手紙を、大人になって作家になった弟のバディが、そのまま写して小説作品にしたという不思議な作品ですが、あの、方法に少し似ていますね。「書く」行為から「書き手」を消す にはどうしたらいいかということが、乗代雄介の実験のようですが、さて、うまくいっているのでしょうか。まあ、それにしても、あれこれ頑張っていますね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.08
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「箒桃、桜、青空」 徘徊日記 2924年4月7日(日)団地あたり 今日は、春休み最後の日曜日です。 朝から青空です。 ポカポカ、ようやく春です。 団地は、今、サクラの園です。 青空とサクラを背にして箒桃がすっくと立って、私も満開だわよ! 背筋の伸びた態度が好きです。三つの花、いや青空は違うか? この取り合わせがサイコーです。 白、ピンク、紅、まだ若い木です。 住んでいる棟の東の斜面は「箒桃畑」です(笑)。 赤い箒桃の背景には住んでいる棟が写ってます。 空は青空です。 いい日曜日ですね。 向うに、いつもの小学校も写っています。 さて、今日は満開を迎えてにぎやかなサクラを撮らなくっちゃ。 サクラって、焦っちゃうんですよね。じゃあね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.07
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「かりんですね、これは。」 徘徊日記 2024年4月3日(火) 団地あたり バスを待っていて、気付きました。そのあたり一帯、桜が嵐のようにやってきているのですが、バス停横のかりんの木に花がついていました。 小さい花で、ボクの腕前では上手に撮れませんが、まあ、忘れるのもしゃくなので撮りました。大寺のしかも禅寺花かりん 森澄雄 ここは、お寺じゃありません。公団住宅のバス道に沿った道端の生垣です。 なかなか、イイですね。秋には大きなかりんの実に変身するんですよね、この花が。今日はバスで垂水まで行く予定です。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.07
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