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GWはどこへ行くでもなかったので、とりあえずゼットを転がして城跡めぐりに出かけて行きました。(フェアレディZの泣き所、フロントのブッシュをアーム毎交換したので、試運転も兼ねて)向かった先は、さいたま市岩槻区にある岩槻城(岩付城)で、現在は岩槻城址公園として整備されています。池に架かる橋は「八つ橋」と呼ばれています。八ツ橋当時の城郭は沼池に浮かぶ水城のような縄張りだったようです。現地解説板にある案内図現在では公園としての整備が進み、遺構としては戦国末期に南東側に造られた「鍛冶曲輪」の跡が残っています。土塁の跡が残っており、公園の入り口も虎口の跡に見えなくもありません。鍛冶曲輪内側の土塁と空堀跡「鍛冶曲輪」は北条氏が岩槻城を支配した時に造られたようで、鍛冶曲輪の空堀からは北条氏特有の障子堀が発掘されました。障子堀が発掘された後は埋め戻され、現在は遊歩道として整備されています。公園を散策してみると、明らかに曲輪と思われる跡が残っていました。縄張図と比較しても判然としないのですが、鍛冶曲輪の一部または竹沢曲輪かも知れません。江戸時代の岩槻城には岩槻藩の藩庁が置かれ、なんと当時の門が移築現存していました。黒門珍しい長屋門形式で、大手門だと伝えられています。裏門こちらも移築現存しているものですが、元々どこにあったかはわからないそうです。岩槻城の築城については、2通りの説があります。川越城と同じく太田道真・道灌父子とする説と、忍城の成田氏とする説です。それでも岩槻城は代々太田氏の居城であり、城主によっては上杉氏についたり北条氏についたりと、立場は目まぐるしく変わっていました。1486年に太田道灌が殺された後は、養子の太田資家が岩槻城に入り、小田原北条氏の北上に備えていました。太田資家は北条氏に寝返りますが、太田資家の子太田資頼が再び岩槻城を北条氏から奪還しています。以後太田氏は上杉謙信方につき、北条氏の関東制覇に抵抗し続けました。その中でも智略と武勇で有名なのは、太田三楽斎資正(道灌の曾孫)でしょうか。その太田三楽斎資正のエピソードとして、軍用犬の話があります。太田三楽斎は武蔵松山城と岩槻城を結ぶラインで、北条氏の北上に備えていました。そして犬を連れて、松山城と岩槻城の間を往復していたそうです。周りの人は「何を考えているのか?」と不思議に思ったそうですが、この策が後に功を奏しました。小田原の北条氏康は松山城と岩槻城の連絡線を断った上で、松山城を攻撃してきました。その時松山城ピンチの知らせを岩槻城に知らせたのが、それまで何度も往復していた犬たちです。太田三楽斎はすぐさま岩槻城を出発し、松山城救援に行くことができたそうです。そんな太田三楽斎ですが、留守中に息子の太田氏資が北条氏に内通したため、岩槻城を追い出されています。岩槻城には、北条氏政の子である北条氏房が太田氏房となって入城し、以後は北条氏の支配する城となりました。鍛冶曲輪や障子堀が造られたのも、この北条氏の支配にあった時です。1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、岩槻城も豊臣方に包囲されて落城しました。徳川家康が関東に移って来ると、譜代の高力清長が城主として入っています。高力清長と言えば、まだ若かりし頃の「岡崎三奉行」の一人で、「仏高力」と呼ばれた人物です。あとの二人は「鬼作左」の本多重次と、「どちへんなし」の天野康景で、徳川家康も相当に岩槻城を任せていたことになります。徳川家康が関東に移って来た時は、江戸城・川越城と同じくらいの城郭規模を持っていました。家康が岩槻城に本拠地を置いて、ここが首都になる可能性もあったのではないでしょうか。
2018/05/02
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鐘撞堂山から円良田湖へ降りてきた後は、さらに少林寺(花園御岳城)のある羅漢山と、なんともアップダウンのある行程となってきました。このまま秩父鉄道に沿って寄居駅まで戻るのが本来のコースなのでしょうが、城跡ハンターとしてはもうひと登りがあります。この山頂部に花園城跡があるはずです。山麓にある諏訪神社から登城道がついているようです。諏訪神社諏訪神社社殿のある周囲にも、土塁らしき跡がありました。ところで戦国城跡を探訪する時、不敬ながらも社殿の裏手に回ることはよくあることです。社殿の裏側に土塁が残っていたり、さらにその先に稜線が続いていたりして、尾根沿いに道がついていたりします。諏訪神社については、社殿の周囲に遺構らしきものは見当たらず、かと言って山頂部に続く道もなさそうでした。ふと目を凝らすと木の枝に「←花園城」と書かれた小さな板があって、先を見ると道とも呼べないような踏み跡が藪の中に続いています。鐘撞堂山のハイキングコースが快適だっただけに、最後にこの仕打ちとは思いませんでしたが、藪をこぎながら踏み跡をたどって行きました。それでも地形の変化する場所では、木の幹に赤いテープが巻いてあったりして、それなりにわかりやすい道ではありました。登城道脇にある石積み天然石を加工したようにも見えます。特に目立った遺構もなかったのですが、ほどなくすると登城道の左側に竪堀が現れました。この竪堀は頂上付近まで続いており、そのすぐ横を直登するような格好になりました。(元来ハイキング用の道ではないので、スイッチバックや巻き道などはありません)頂上付近には空堀が巡らされているようで、堀切の先で竪堀が空堀と交差するように入り組んでいました。堀切跡山城で空堀を巡らせるのも奇特な印象ですが、竪堀の先が空堀の底につながっており、この辺りは北条氏特有の縄張りを感じます。随所に城郭の遺構らしきものが見られたものの、あまりにも木々に覆われていて、なかなか判然としませんでした。土塁跡土塁に登ってみると、その先には曲輪と思われる削平地があります。空堀の西側と東側、どちらに登るか迷ったのですが、これは東側の曲輪です。それにしても木と藪が多すぎて、縄張りがよくわかりません。戦国の山城めぐりは真冬に限る、とつくづく思いながらも、腰曲輪のような削平地も見つけました。腰曲輪跡実は本丸は木々に覆われた西側にあったようで、完全に縄張りを見失っていました。戦国時代、この辺りは藤田氏が支配しており、花園城も藤田氏の拠点であったと思われます。藤田氏の養子となったのが北条氏康の四男北条氏邦で、花園城も北条氏の支配下となって鉢形城の支城のような役割だったかも知れません。随所に北条流の築城技術や、石積みなどの新しい技術が見られることから、鉢形城と共に花園城も北条氏によって改修されたように思われます。関連の記事鉢形城(2009年4月)→こちら花園御岳城(2015年5月)→こちら
2015/05/05
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鐘撞堂山を後にして、円良田湖の湖畔を巡りながら少林寺へとやって来ました。(鐘撞堂山から少林寺までは最短ルートもあったのですが、混雑を避けて大回りした経緯があります)少林寺のある羅漢山のピーク一帯には、戦国時代の花園御岳城が築かれていたようです。少林寺本堂裏手の羅漢山のピークには大きな広場があったのですが、実はこれが曲輪の跡だったとは思ってもいませんでした。さらに城郭の中心部もこの上の方にあったようなのですが、てっきり中心部が本堂の辺りかと思っていて、そのまま本堂の方へと降りてしまいました。頂上部の曲輪跡の端にある釈尊と菩薩像本堂に至るまでの斜面では、道の両側にも五百羅漢と千体荒神がずらりと並んでいて、圧巻の光景でした。それでも城郭の遺構ばかりに目が向いていて、あまり五百羅漢を意識することはありませんでした。背後にあるのは土塁のようにも見えますが、羅漢像越しに見ると不気味な感じです。こちらも背後に堀切のような跡がありますが、何とも奇特な光景です。五百羅漢と千体荒神の像は、江戸時代の1832年に安置されたそうです。戦国時代の城郭にこれらの像が並んでいたら、最大の防御になったでしょうか。五百羅漢の並ぶ道を降りた先には、少林寺の本堂が見えてきました。少林寺本堂(もちろん三十六房まではありません)それにしても古刹の山寺には、場所や季節を問わず、厳かないい雰囲気があります。少林寺の開山は1511年のことで、こちらは関東の戦国期の真っ最中ということになります。開基は北条氏第3代北条氏康の家臣藤田国村とも藤田康邦とも言われています。いずれにしても小田原北条氏とのつながりが深かったと思われますが、藤田康邦の婿養子となったのが、北条氏康の4男で名君として名高い北条(藤田)氏邦です。鉢形城の攻防戦もそうですが、もしも北条氏邦が氏康の長男だったら、関東の戦国史は違うものになったかも知れません。ところで花園御岳城の方ですが、その鉢形城の支城である花園城の、さらに支城だったと思われます。少林寺の駐車場の片隅、この方形の縄張りと土塁の傾斜を北条流の築城術を見るのは、ちょっと無理があるでしょうか。
2015/05/04
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関八州見晴台を後にして、せっかくなので高山不動尊にも立ち寄ることにしました。関八州見晴台にある高山不動尊奥の院から、標高差で150mほど下った場所に高山不動尊の本堂があります。高山不動尊の正式名称は常楽院で、本堂は不動堂と言うようです不動堂1830年に高山が焼失した後、江戸時代後期に再建されたものです。本尊の木造軍荼利明王は、国の重要文化財に指定されています開帳されるのは年2回、4月15日と冬至の日だそうです。奥ノ院から本堂、山門と下って来るのも珍しいことですが、山門を後にすると延々3kmもある表参道を下って行きました。山麓にある吾野は秩父往還の宿場町があったところで、当時の面影を残す町並みが続いていましたが、さすがにこの時は真っ直ぐ吾野駅を目指しました。正丸駅をスタートして正丸峠・伊豆ヶ岳・関八州見晴台・高山不動尊と歩き続け、ようやく吾野駅に到着、歩数計を見ると、この日だけで4万6,000歩を超えていました。吾野駅からも「関東ふれあいのみち」のコースがスタートしており、「義経伝説と滝のあるみち」となっていましたが、さすがにもう歩く気にはなれませんでした。
2013/08/16
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大宮宿で中仙道の旧街道から離れて、氷川神社へ立ち寄ってみました。表参道が中仙道から分岐し、街道沿いに一の鳥居が建っています。一の鳥居大宮の由来となった氷川神社は、現在の東京都・埼玉県の中で最も格式の高い武蔵国一宮です。一の鳥居横にある武蔵国一宮の碑二の鳥居元々はこの表参道が中仙道の本線だったようですが、畏れ多いとの理由で付け替えられたそうです。一の鳥居から約2kmの長い参道が続き、ようやく三の鳥居に到着しました。額殿と神楽殿舞殿氷川神社の祭神は、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコト(須佐之男命)、スサノオノミコトによってヤマタノオロチから助けられたクシナダヒメ(稲田姫命)、そしてオオナムチノミコト(大己貴命すなわち大国主命)と、いずれも出雲にゆかりのある神々です。武蔵国造となったエタモヒノミコト(兄多毛比命)が、出雲族を連れてこの地に移住し、氷川神社を氏神として崇敬したと伝えられ、氷川神社の名前も出雲の簸川(ひかわ)の地名に由来するとも言われています。行田市のさきたま古墳群は、その出雲の流れを汲む武蔵国造の墓とも言われており、この辺りは出雲系とつながりがあったのかも知れません。氷川神社には摂社がいくつかありますが、その1つが門客人(アラハバキ)神社です。東北系の神様で、こちらが先住の神とも言われています。
2013/04/22
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杉山城からの帰り道、地図を見ると国道254号線沿いに、「青鳥城跡」の文字がありました。全くノーマークだったのですが、青鳥城と聞いて「ようこそここへ」という気がしないでもないので、とりあえず立ち寄ってみることにしました。♪ようこそ千葉へ 富津、富津♪話は戻って、青鳥城です青鳥城の遠景実は青鳥と書いて「あおとり」ではなく、「おおどり」と読むようです。失礼しました。青鳥城ですが、城跡と思われる場所には解説板がぽつんと建っていたものの、周りは畑や私有地になっており、なんだかとらえどころのない城郭でした。本丸西側の空堀跡だと思われます。本丸跡でしょうか、土塁の跡が見られます。どうも私有地のような感じなので、むやみやたらと中に入っていくことはできませんでした。空堀と土塁だと思われます。本丸の周囲を探索してみると、方形に空堀が巡らされているようでした。右手の藪の中に空堀があります。仕方ないのかも知れませんが、全く荒れ放題の城跡でした。解説板にある縄張り図では本丸の他に二ノ丸と三ノ丸の曲輪があったようですが、かなりシンプルな感じがします。本丸が先にあって、その後に拡張されたようなので、元々は中世の居館だったのかも知れません。青鳥城の歴史は古く、平安時代末期に遡ります。「源平盛衰記」に記述があって、1183年に源頼朝が青鳥野に布陣した記録が残っているようです。解説板にはその後の経緯はありませんでしたが、1590年に前田利家の前に落城したとあることから、戦国時代は北条氏の拠点だったと思われます。
2013/03/31
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随分と前の話になりますが、菅谷館を訪れた後に、同じ嵐山町にある杉山城へ行ってみました。菅谷館跡や(武蔵)松山城などと共に、杉山城も「比企城館跡群」として国の史跡に指定されており、戦国城郭の遺構が復元・保存されていました。大手口から見た本丸方向訪れる人が意外に多いので驚きました。杉山城は東側を大手とし、丘陵の斜面に沿って南・西・北の3方に曲輪を配した縄張りのようです。縄張り図縄張り図から見てもそうなのですが、相当堅固に造られた印象がありました。大手虎口と外郭の間の空堀南三の郭の土塁南二の郭の空堀複雑に横矢が掛かっており、かなりの築城技術だと思われます。杉山城は武蔵松山城と鉢形城を結ぶ繋ぎの城であったとも言われていますが、実は杉山城については不明な点が多く、築城時期・築城主ともに明らかになっておりません。位置関係や築城技術からして、北条氏の配下にあったとも考えられるのですが、北条流の築城にしては何となく違和感のあるところです。この日訪れた滝の城や菅谷館では、北条流の築城術が随所に見られましたが、その比較で見ても少し違うように思います。東二の郭の土塁と空堀他の北条氏の城郭に比べて、空堀の幅が狭い印象がありました(土塁の傾斜も他と比べて急というか、荒っぽい印象があります)空堀の幅については、鉄砲戦では弓矢や槍を想定していると思われ、築城時期も戦国時代の早い時期かも知れません。それでも二の丸虎口には枡形があったりと、基本に忠実に造られているようにも思います。二の丸虎口二の丸と本丸の間にも空堀が巡らされ、ひときわ高い土塁で囲まれていました。本丸土塁本丸空堀ここだけ見ると北条流のような感じもします。本丸は意外と広く削平されており、現在は城跡碑が建っていました。復元や保存状態もよく、戦国城郭の姿をよく留めていますが、現在の杉山城跡は私有地にあります。地主の方の協力がなければ、これだけの城郭を目にすることはまずなかったことでしょう。杉山城の築城時期や築城主については明らかになっていませんが、地元では武蔵松山城主であった上田氏の家臣、杉山主水の居城と伝えられているそうです。北条氏による築城だとされてきたのですが、近年になって発掘調査の結果、山内上杉氏の築城との説が有力となっているようです。山内上杉氏の築城では、復元・保全されているものを見たことがなく、この杉山城が初めてのことでした。
2013/03/30
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中仙道の宿場町めぐりは蕨宿で撤退を決め、浦和宿へのアプローチは断念しましたが、蕨城には足を運ぶことにしました。旧中仙道の本陣からは東へ200mほど行った場所、蕨市民会館の敷地に蕨城址公園があります。別に何かを期待するわけでもなく、蕨城址公園へ向かってみました。蕨城址公園入口桝形虎口のようにも見えますが、気のせいかも知れません。こちらは土塁に見えるのですが、やはり気のせいでしょうか。他にも堀跡と思われる細長い池などもあったのですが、蕨城そのものは南北朝時代に築城されたもので、城と言うよりは土塁と堀を巡らせた中世の居館だったと思われます。本丸跡中世居館だと単郭なので、本丸と呼んでいいのかどうかはわかりませんが、よく残っていたと思います。水堀の跡本丸にある城址碑時代を錯誤して模擬天守を建てたりしなかっただけ、蕨市には良識があると思います。おそらく蕨城とは関係がないと思われますが、本丸には「ニュートンのりんごの木」なるものが植えられていました。ニュートンが万有引力の法則を発見した、そのりんごの木を接木したものだそうです。(なぜここにあるのかはよくわかりません)
2013/03/27
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菅谷館跡は埼玉県嵐山町にあり、現在は「嵐山史跡の博物館」が建っています。国道254号線に面した博物館の入口博物館入口は菅谷館の搦め手だったようで、敷地の周囲には土塁と空堀の跡が残っていました。菅谷館と聞いて方形の中世武士の居館を想像していたのですが、城郭の形は円形に近いようです。しかもいくつも曲輪を備えており、相当な規模があるようでした。まずは三の丸から西郭の方向へと行ってみることにしました。三の丸の跡三の丸の曲輪もとらえどころがないほど広く、森林公園を歩いているような感じでした。林の中に続く遊歩道を行くと、やがて前方に土塁が見えてきました。三ノ丸から西郭に続く虎口は「正坫(せいてん)門」の名前があり、空堀に木橋が復元されていました。木橋の向こう側に広がっているのが西郭の跡です。単なる中世居館跡ではないと思っていたのですが、三ノ丸と西郭の間の空堀を見る限りでは、まぎれもない戦国城郭でした。中世の居館跡の空堀で、こんなに複雑な横矢が掛かっているのも見たことがありませんし、またその必要もなかったと思います。三ノ丸から二ノ丸に来てみると、もはや館跡などではなく、立派な城跡となっていました。二ノ丸の空堀鎌倉時代には存在しなかった鉄砲戦を想定しているようにも思えます。戦国時代の後期に改変されたと見るのが妥当でしょうか。二ノ丸だけでもこの広さです。本丸に来てみると土塁は一段と高くなり、曲輪の周囲には空堀が巡らされていました。本丸虎口本丸跡この本丸までが、元々の菅谷館の城郭範囲だったようです。本丸周囲の土塁は複雑に横矢が掛かり、屏風折れの土塁が続いていました。掻き揚げの城で土塁の出隅を見るのも珍しいことですが、明らかに戦国時代後期に改変されたものだと思われます。本丸南側、南郭との間の空堀城跡の解説板には改修者が誰なのか書いてありませんでしたが、おそらく北条氏だと思われます。空堀の感じが滝山城に似ている気もしますし、この土塁の傾斜も北条氏の城郭にありがちだと思います。鎌倉幕府の御家人であった畠山重忠がここに居館を構えており、1205年の二俣川の戦いでは、ここから出発したことが吾妻鑑にも書かれています。時代は下って室町時代の1488年には、山内上杉氏と扇谷上杉氏がこの付近で戦った須賀谷原合戦について、漢詩集である「梅花無尽蔵」に書かれています。以後山内上杉氏の拠点となって、戦国城郭として改修されたものだと思われますが、河越夜戦で北条氏康が勝利してからは、北条氏の拠点となったようです。現在残る遺構も北条氏時代のものだと思いますが、八王子城から武蔵松山城へと続く繋ぎの城として機能していたと思われます。
2013/03/16
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滝の城は所沢市内から離れた場所にあるのですが、城跡を探すのにさほど苦労しないかも知れません。所在地はずばり「埼玉県所沢市城」となっており、「城の他に何があるんだろう?」といった感じです。それにしても「滝の城」の名前が奇特で、おとぎ話か何かに出てきそうですが、実はれっきとした戦国城郭です。土塁と空堀を背景にして、北条氏の家紋である「三つ鱗」が風になびく姿は、しびれるほどにマッチしています。ところで幟に書いてある北条氏照公ですが、小田原北条氏の第3代当主、北条氏康の三男です。(長男が早世したため、実質的には次男)長兄で4代当主である北条氏政と共に、初代北条早雲から続く関東制覇を成し遂げたとも言えるでしょう。現代風に言うならば、北条総軍の北関東方面司令官といったところですが、その北条氏照とはこんな人です。2009年2月八王子城にて本拠地である八王子城では「うじてるくん」と呼ばれ、しかも「ゆるキャラ」になっていました。(ひこにゃんと同時期くらいの早いデビューながら、ローカルすぎるのでしょうか、全く話題にもなりませんでした)その北条氏照の「持城」であった滝の城ですが、現在は城山神社の境内となっていました。城山神社入口神社としては入口ですが、滝の城の縄張りとしては搦め手、すなわち勝手口になります。二の丸の曲輪跡駐車場になっていて、てんでバラバラにクルマを停めてしまっていました。それでもここから先は、戦国時代の関東の城跡が随所に残っていました。二の丸の空堀この空堀のT字路がいい感じです。城跡でもありながら神社の境内でもあるので、すぐに本丸に着くことができました。本丸にある城山神社社殿城山神社の入口は南側にあり、拝殿も南側を向いているのですが、滝の城そのものは北側が大手口で、神社とは正反対の方角が表側となっています。奇妙なことに拝殿の裏側に回ってみると、本丸の大手虎口がありました。拝殿の裏側拝殿の裏側が本来の入口で、当時は四脚門があったようです。拝殿の向いている南側は、城跡のセオリー通りに急斜面となっており、その先には柳瀬川が流れる要害となっていました。本丸搦め手の空堀本来の表側である三ノ丸方向に回ってみると、戦国城郭の遺構がさらに残っていて、まさに圧巻でした。三ノ丸の空堀畝堀の跡のようにも見えますが、それこそ北条流の築城術です。右側が本丸の土塁で、かなりの傾斜があります。堀底道があったのかも知れませんが、T字路になって複雑に入り組んでいました。本来の大手口に回ってみると、神社の境内を離れて普通に住宅が並ぶような場所でした。おそらくここが滝の城の大手口だと思います。縄張りとしては北からの攻撃を想定しているように思いますが、やはりVS上杉謙信だったのでしょうか。
2013/03/15
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札の辻交差点から南へ延びる通りは「蔵造り通り」と名付けられ、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)にも指定されています。現在も残る蔵造りの町並みは、明治26年(1893年)の大火の後で建てられたもので、厳密には江戸期の創建ではありません。1893年の大火では中心部がほぼ全焼するほどの被害を受けた歴史を思うと、この蔵造りには大火後の復興の歴史が刻まれているような気がします。数々の建造物が焼失する中、焼失を免れたのが火災に強い蔵造りの建物でした。焼失を免れた大沢家住宅(国指定重要文化財)大火よりはるか前の1792年に創建されたもので、蔵造りとしては川越で最古のものだそうです。この火災で蔵造りの耐火性が実証され、各地からの支援などによって復興された町並みが、現在も残る蔵造りの町並みです。このどっしりとした重厚な町並みが続きます。ボンネットバスは昭和期のものでしょうか。蔵造り資料館蔵造り資料館の先で蔵造り通りを外れ、旧多賀町界隈へと入ってみました。旧多賀町にある「時の鐘」こちらも大火の後に再建されたものです。寺院か神社かは忘れましたが、境内入口の門にもなっており、珍しい鐘楼門形式となっていました。仲町の交差点からは、蔵造り通りに並走する「大正夢浪漫通り」を行ってみました。個人的にはこちらのネーミングに魅かれたのですが、ジャポニズムとモダニズムが融合した町並みは、何ともノスタルジックないい雰囲気を醸し出していました。江戸時代ももちろんですが、大正~昭和初期にかけての豪華絢爛な建物はとてもお気に入りです。(実はその良さに気付かされたのは台北赴任時代のことで、私としては少し寂しい気もありました)それでも江戸~明治~大正の町並みを一歩外れると、昭和の雰囲気が残っていました。「まんじゅう」ではなく、「まんぢゅう」というのが気に入りました。(「大名古屋ビルヂング」みたいに、昭和を感じます)
2013/01/09
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交差点ではよく耳にする「通りゃんせ」、この歌詞にある「天神様の細道」とは、三芳野神社の参道だとされています。三芳野神社境内にある「わらべ唄発祥の所」の碑いくらなんでも「わらべ唄発祥」とは大風呂敷だと思っていたら、横に小さく「ここはどこの細道ぢゃ 天神さまのほそみちぢゃ」と書かれていました。つまりは「通りゃんせ」のわらべ唄発祥ということのようです。三芳野神社は河越城本丸のすぐ隣にあり、三芳野神社の創建は平安時代初期の大同年間(806年~810年)と言いますから、河越城築城の600年以上前からここにあることになります。三芳野神社の主祭神はスサノオノミコトとクシイナダヒメノミコトだそうで、神社の名前にも「天満宮」や「天神」の名前はありませんが、菅原道真もここに祀られています。太田道灌が河越城を築城するにあたって、三芳野神社を河越城の鎮守としました。そしてここに「天神曲輪」を造ったことからも、古くは「天神様」であったことがうかがえます。江戸時代に入った1624年に川越城主であった酒井忠勝によって社殿が再興され、1656年に同じく川越城主であった松平信綱(知恵伊豆)によって改修されました。現在の社殿は松平信綱の時のもののようですが、松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」にもあるように、ここでも「天神」の名前が出てきます。川越城の本丸のすぐ隣にある三芳野神社ですが、江戸時代には日時を指定して一般の参拝も認められていたようです。それでも江戸防衛の要衝である川越城の、しかも本丸のすぐそばにあっては、参拝客も厳しく取り締まられました。そこから「行きはよいよい 帰りはこわい」の唄ともなったようです。その「天神様の細道」、三芳野神社の参道
2013/01/08
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江戸の大手が小田原ならば、搦め手は川越と言われたほど、江戸防衛の重要拠点とされていたのが川越でした。関東の戦国時代においてもその重要性は同じで、利根川を挟んで勢力がほぼ二分する中、利根川より東の防衛ラインを担っていたのが河越城でした。現在の川越の町並みには江戸時代の風情が残っているものの、城郭の方は江戸時代の遺構さえもほとんど残っていませんでした。川越市役所前にある大手門跡の碑江戸時代の近世城郭すらも市街地に変わってしまった現在、ましてや戦国時代の河越城となると、想像するしかないような感じです。それでも川越市役所前にある像に、かつての「河越」とその栄光を見たように思いました。やっぱりこの人、我らが太田道灌です。徳川家康以前の江戸城を築城したことで知られる太田道灌ですが、その太田道灌が江戸城とほぼ同時期に築城したのが河越城でした。むしろ河越城の築城の方が先で、太田道灌としては河越城の防衛強化のために江戸城を築いたとも考えられます。かつての河越城の縄張り図太田道灌の中世城郭ではなく、江戸時代の近世城郭の縄張りです。「蔵造り通り」や「大正浪漫通り」にかつての町並みが残る中、河越城の方は「何か残っていればラッキー」くらいの感じでした。その河越城の遺構として、二ノ丸虎口付近の「中ノ門堀」の跡が残っていました。幾重にも巡らされた堀の中で、唯一残るのがこの堀跡です。河越城には「七不思議」があるようで、その1つが「霧吹きの井戸」です。現在は市立美術館の敷地となった二ノ丸跡に、その井戸がありました。普段は蓋をしてあるのですが、いざ敵が攻めてきた時に井戸の蓋を開けると、中から霧が立ちこめて城を隠してしまったとされるのが、この霧吹きの井戸です。この出来事から、河越城は別名「霧隠城」とも呼ばれています。本丸は市立美術館から道を挟んだ隣の敷地にあり、かつての虎口跡には碑が建っていました。本丸本丸には本丸御殿が現存しており、河越城では唯一の現存建築物です。江戸時代末期の1848年に建てられた御殿です。本丸御殿の隣は三芳野神社の敷地となっていますが、かつての天神曲輪があった場所です。境内の盛土が土塁跡に見えて仕方がなかったのですが、神社の盛土にしては不自然な感じで、かつての枡形の跡のようにも思えました。河越城は太田道灌の命名によって「初雁城」とも呼ばれていましたが、これも川越城七不思議の1つ、三芳野神社の「初雁の杉」に由来しています。太田道灌の時代、毎年初雁が三芳野神社にやってきて、毎年境内の杉の木の上で3周して3度鳴いて飛び去っていたそうです。現在も本丸の隣にある三芳野神社境内には、その初雁の杉の碑が建っています。戦国時代城郭の名残でもありますが、現在の初雁の杉は三代目とのことです。太田道灌が河越城を築城したは1457年のことで、まだ小田原北条氏が関東に進出するよりずっと前の話でした。当時は鎌倉公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立に端を発して、さらには上杉氏も山内上杉氏と扇谷上杉氏が対立したりと、まさに三つ巴の混沌とした状況でした。扇谷上杉氏の家宰であったのが太田道灌で、後に古河公方を名乗る足利成氏への備えとして築いたのが河越城と江戸城でした。 そんな古河公方足利氏、山内上杉氏、扇谷上杉氏の三つ巴の争いの中、太田道灌亡き後で関東に進出してきたのが、小田原を本拠地とする北条氏でした。1525年には北条氏綱が川越城を奪取し、娘婿の「地黄八幡」北条綱成が入城しました。そして1546年の「河越夜戦」によって、北条氏康が歴史的な大勝利を収めています。 しかしながら1590年の豊臣秀吉による小田原城で川越城も落城し、以後は関東に移封されてきた徳川氏の拠点となりました。 北条氏が滅亡した後に徳川家康が関東に入封してきましたが、この時江戸城の他に本拠地の候補を挙げるとすれば、川越城や岩槻城があったのではないでしょうか。 (当時は城郭の大きさでは、大差はなかったと思います) 何らかの理由で江戸城が本拠とならなかったら、川越が日本の首都になっていた可能性は十分にあったと思います。(財)日本城郭協会「日本100名城」関東7名城
2013/01/07
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戦国時代の関東の勢力図を、まさに一晩であっさり塗り替えてしまった場所が川越でした。桶狭間の戦い・厳島の戦いと並んで「三大奇襲戦」に数えられるのが「河越夜戦」、北条氏康が10倍もの敵を相手に、乾坤一擲の大勝利を収めた舞台でもあります。現在は「小江戸」として江戸時代の町並みが残る川越にあっては、戦国時代のそんな面影は残っておらず、遠い過去のような気もしてきます。それでも蔵造り通りを北へ300mほど行った場所にある東明寺には、戦国時代の河越夜戦を伝える碑がひっそりと建っていました。東明寺口は激戦地の1つだったようです。東明寺戦国時代真っ最中の1546年、(扇谷)上杉朝定・(山内)上杉憲政・(古河公方)足利晴氏は、関東中の諸将を集めて大連合軍を結成、約8万の大軍で河越城を包囲しました。一方河越城の守将は「地黄八幡」の北条綱成でしたが、さすがの北条綱成でも城兵3千人では河越城陥落も目に見えている状況です。小田原の北条氏康は今川義元との戦いの最中でしたが、北条氏康は今川義元に駿河の一部領土を明け渡して和平し、河越城の救援に兵力を集中することを決断しました。それでもその兵力は約8千と、10倍の連合軍相手では多勢に無勢といったところです。河越に到着した北条氏康は、古河公方足利晴氏に対し「城を引き渡すから、城兵の命は保証して欲しい」と、降伏ともとれる申し入れを行いました。さらに北条氏康軍と(山内)上杉憲政軍の間で戦闘が始まると、北条軍はすぐに逃げるように退却して行きました。これは北条氏康の心理作戦だったのですが、連合軍は「北条氏康が戦意を失っている」と思い込み、圧倒的に優勢である安心感もあって、夜になると軍装を解いてすっかりくつろいでいました。その様子を見た北条氏康は、8千の兵を4隊に分け、その4隊が代わる代わる攻め込む戦法で、(山内)上杉憲政の本陣に夜陰に紛れて急襲を仕掛けました。さらにはそれを合図に河越城からも北条綱成軍が討って出て、(扇谷)上杉朝定と(古河公方)足利晴氏の本陣に襲い掛かりました。不意を突かれた連合軍は大混乱に陥った上に次々と敗走し、この戦いで(扇谷)上杉朝定は討死、(山内)上杉憲政も平井城へと逃げ帰っています。この「河越夜戦」は、北条氏康の作戦が光った戦いでもありました。駿河の今川義元に領土を明け渡してまで和睦し、すぐに河越城救援に向うあたりは並々ならぬ才知を感じます。そんな急な出撃にも関わらず、北条氏康は細かなルールを指示して周知徹底させていました。1.夜襲を想定して、識別ができるように全員に白い羽織を着用させた。2.敵味方の識別のため、合言葉を決めていた3.動きやすいように、旗指物や鎧などの重装備を禁じた。4.「敵を討ち取っても、首級はとるな」と厳命した。特に4番目は当時としては常識外れの指示だと思われます。恩賞のためには討ち取った敵の首級を持ち歩く必要があったのですが、北条氏康は戦いの邪魔になるので、それすらも禁じていました。さらには急襲に成功しても深追いはせず、早めに引き揚げ命令を出して、敵の反撃に備える念の入れようです。やはり一番的中したのは戦意を喪失していると見せかけた心理作戦で、北条氏康は最初から連合軍を油断させて急襲するつもりだったのかも知れません。連合軍はこの心理戦に見事に引っ掛かったことになりますが、連合軍にとっては「やはり油断は大敵でござった」などでは済まされないほどの大敗北でした。ところで江戸時代になって書かれた「南総里見八犬伝」では、最後に八犬士が集結して里見氏と共に関東大連合軍と戦う「関東大戦」のシーンがあります。作者の曲亭馬琴がモデルにしたのは、明らかにこの河越夜戦だと思われます。戦国合戦「超ビジュアル」地図戦国合戦「超ビジュアル」地図名城と合戦の日本史小和田哲男著名城と合戦の日本史
2013/01/06
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草加宿から旧日光街道を北上して越ヶ谷宿のあたりに行くと、「久伊豆神社」という神社がありました。(実は旧街道を見失った…)一度は通り過ぎたのですが、かなり社格が高そうな雰囲気なので、戻って立ち寄ってみることにしました。久伊豆神社拝殿久伊豆神社を普通に音読みすると「クイズ」神社となるのですが、正しくは「ひさいず」神社と読みます。そのためか、久伊豆神社にはクイズの優勝祈願に訪れる人も多いとのことです。ちなみに久伊豆神社はさいたま市の岩槻にもあり、こちらはアメリカ横断ウルトラクイズの会場にもなったそうです。久伊豆神社の境内には藤の木が植えられており、樹齢は200年を越すそうです。幕末の国学者の平田篤胤が、下総国(千葉県)の流山にあった樹齢50~60年の藤を植えたものです。平田篤胤は、久伊豆神社の中に仮寓居を構え、この藤を愛でていました。境内の奥にはさらに拝殿があり、「旧官幣大社南洋神社」と書かれていました。昭和13年にパラオ群島に「南洋神社」が建立されましたが、終戦後は廃止とされていました。平成16年に一部古材を使って再建され、記念式典にはパラオの大統領も参列したそうです。久伊豆神社の創立年代は不明ですが、平安時代末期の創建と言われています。鎌倉時代には武蔵七党の1つで、騎西(私市)城を本拠地とした私市党の崇敬を受けていました。室町時代になると、伊豆国宇佐見の領主であった宇佐見三郎重之がここを領有し、鎮守として社殿を再建、太刀を奉納したそうです。そんな由緒ある久伊豆神社だからでしょうか、ほとんどの参拝客が作法に則って参拝していたのが印象的でした。
2009/08/09
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信州からの帰りにたまたま見つけて立ち寄ったのが、埼玉県本庄市にある雉岡城です。雉岡城なんて聞いたことがないと思っていたら、実は山内上杉氏の居城だったそうです。(大変失礼致しました)現在本丸や二の丸は学校の敷地となっており、三の丸が公園として整備されています。三の丸その三の丸の周囲には、土塁や空堀の跡が残っていました。土塁空堀(水堀でしょうか?)雉岡城は山内上杉氏の居城でしたが、地形が狭いので平井城に本拠地を移したそうです。上杉憲政は河越夜戦で北条氏康に大敗を喫したため、河越城から平井城に逃れたものだとばかり思っていました。当時の山内上杉家の当主は上杉憲政であり、関東管領の居城だったことになります。そう思うと、なかなか立派な城構えに見えてきました。山内上杉氏の後は北条氏邦の支配下となり、鉢形城の支城としての位置付けでした。そしてこの雉岡城も1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、前田利家の北国軍に攻められて落城しています。関連の記事平井城→こちら平井金山城→こちら河越城→こちら河越夜戦→こちら鉢形城→こちら
2009/04/30
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建造物に「気の毒」という形容詞は当てはまらないかと思いますが、騎西城だけは気の毒なお城です。現在城郭の跡は住宅地になっており、わずかに土塁が残っているだけです。天神曲輪の土塁その天神曲輪の跡には模擬天守(御三階櫓)がありましたが、元々天守があったかどうかは不明です。江戸時代の縄張り図を見ると、なかなかの城構えだったようです。縄張り図気の毒なことに、今となっては見る影もなくなってしましました。しかしながら本当に気の毒なのは、騎西城の歴史です。騎西城の築城時期については明らかになっていませんが、戦国時代には小田原の北条氏の支配下にあったようです。1563年に北条氏康・武田信玄が武蔵松山城を攻めた時、上杉謙信が武蔵松山城の救援に駆けつけたのですが、あと少しのところで間に合わず、武蔵松山城は落城してしまいました。そこで上杉謙信がとった行動は、腹いせに近くの北条方の城を1つ攻め落とすことでした。そして見事に白羽の矢が立ったのが、この騎西城です。とんだとばっちりもいいところですが、上杉謙信軍に攻められてはひとたまりもなく、あっさりと騎西城は落城してしまいました。やはり今も昔も、気の毒な城というより他はありません。
2009/04/16
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埼玉県行田市と言えば、「のぼうの城」の忍城、B級グルメのゼリーフライ、そして埼玉の由来となった「さきたま古墳群」があります。今回ゼリーフライはやめて、忍城を訪れた後は、さきたま古墳群へと向かいました。長い間奈良で育ったこともあって、昔はその辺の古墳の石室に入ったりと、古墳には何かと馴染みがあります。それでもさきたま古墳の墳墓を見ると、かなり大規模な古墳が並んでいるのでびっくりしました。丸墓山古墳(円墳)こんなに大きい円墳は初めてみました。丸墓山古墳は、忍城攻めの時に石田三成が本陣を置いた場所でもあります。罰当たりもいいところですが、見通しの効く高台があって、しかも周囲に堀が巡らされているとなれば、石田三成ならずとも本陣を置きたくなることでしょう。二子山古墳(前方後円墳)。将軍山古墳。さきたま古墳が世界遺産に登録されたら、大和の「纏向(まきむく)古墳群」はどうなるのでしょうか。大和に長らく住んでいながら、実は古代史のことはよくわからないので、古墳についてもよくわかりません。それでも1つの古墳の前に来た時だけは、「これがそうなのか…」と妙に反応してしまいました。稲荷山古墳「獲加多支鹵(ワカタケル)」の銘が入った鉄剣(国宝)が見つかった古墳です。高校の日本史で出てきた「埼玉の稲荷山古墳」が、まさにこの古墳でした。ちなみに「ワカタケル」は雄略天皇だとされており、「倭の五王」の「武」だとされています。大和(奈良)では豪族の首長クラスの古墳ですが、すでに北関東も大和王権の支配下にあったのでしょうか。
2009/04/15
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埼玉県行田市の忍(おし)城は、「忍の浮城」とも呼ばれ、水に浮かぶ「水城」でありました。現在は完全に公園として整備され、往時の水城の面影は残っていませんでした。しかも城郭は土塁と土塀で囲まれており、江戸時代の近世城郭が復元されています。城内から見た土塁と土塀よく見ると、狭間の向きが内と外で逆向き…さらには、薬医門が建っていました。薬医門形式の門。これが何なのかよくわかりませんでした。御三階櫓も建っていますが、元々ここにあったのかどうかは不明です。忍城の歴史は古く、1478年頃成田顕泰により築城され、代々成田氏の居城でした。戦国時代の中頃になると、城主成田長泰は小田原の北条氏と敵対し、上杉謙信方についていました。そのため、忍城は北条氏康の攻撃を受けたのですが、さすがの北条氏康も攻め切れずに撤退しています。そして1561年、今度は上杉謙信が北条氏康の小田原城を攻めた時、成田長泰もこれに従って参陣していました。成田長泰は途中で上杉謙信から北条氏康に寝返ってしまうのですが、そのきっかけとなった事件は、関東の戦国時代の話にはよく登場してきます。小田原城を攻囲した上杉謙信でしたが、攻め切れずに鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行って引き返すことになりました。この時成田長泰は、馬に乗ったまま上杉謙信を出迎えたのですが、これが上杉謙信の逆鱗に触れ、激しく叱責されました。(烏帽子を飛ばされたとも…)大勢の面前で屈辱を受けた成田長泰は、以後上杉謙信から離れて小田原の北条氏に従うようになっています。ところでこの事件ですが、北条方と反北条方では、描写が違っているのが面白いとこりです。北条氏よりの小説などでは、直情的な上杉謙信の性格を挙げ、成田長泰が上杉謙信を見限って当然だされています。逆に里見や佐竹などの反北条方の小説では、成田長泰が上杉謙信の出迎え時にも私語をやめなかったため、義を重んじる上杉謙信の怒りを買って当然だとされています。真相は定かではありませんが、いずれにしても成田長泰は上杉謙信から北条氏康に寝返っており、1574年に今度は上杉謙信が成田氏の忍城を攻めて来ましたそれでも忍城は落ちることなく、成田氏は忍城を守り切っています。さらに1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時は、北条氏に従っていたため、今度は豊臣秀吉軍によって忍城は攻められることとなりました。この時の豊臣軍総大将は石田三成で、忍城の南側にある「さきたま古墳群」の上に陣を置き、そして忍城を攻めた方法は水攻めでした。石田三成は「石田堤」を築いていたのですが、「石田堤」が決壊してしまい、逆に石田三成方に多数の損害が出て、水攻めは失敗に終わっています。今も残る石田堤よく残っていたものです。実は忍城の水攻めを命じたのは、豊臣秀吉だったと言われています。この時に秀吉軍に参加していた常陸水戸の佐竹義宣などは、逆に水を干上がらせて攻めることを提案し、石田三成もその意見には同感だったそうです。そもそも水城を水攻めにすること自体、あまり意味はないような気がするのですが、豊臣秀吉が水攻めにこだわり続けたので、石田三成も仕方なく水攻めを続けたそうです。結局忍城は落城せず、豊臣秀吉軍が落とせなかった唯一の城となり、おかげで石田三成は「戦下手」のレッテルを貼られることとなってしまいました。のぼうの城関東七名城
2009/04/14
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鉢形城を見て回った後、本丸の背後を流れる荒川の河原へと下りていきました。鉢形城の縄張り。北側を荒川が流れています。この日は「北条まつり」が行われており、これから荒川の河原で鉢形城の攻防戦が再現されます。1590年に豊臣秀吉が小田原城を攻めた時、関東各地の北条氏の城にも豊臣軍が攻め込みました。この時鉢形城を包囲したのは、前田利家を総大将とする北国軍で、前田利家の他にも上杉景勝・真田真幸・本多忠勝など、総勢4万の大軍です。北国軍時流に乗って、「愛」の前立て兜をかぶった人がいます。(実際に直江兼続も、上杉景勝に従って参陣していました)真田の六文銭の旗印もあり、本格的です。対する鉢形城の守備兵は、城主北条氏邦以下、領民を合わせても3,500人ほどです。北条氏邦隊の入場。この後北条氏邦隊は対岸の鉢形城の方に船で渡り、そこに陣を置きました。実際に鉢形城の本丸は、対岸の断崖の上にあります。陣形が整うと、豊臣軍の前田利家から鉢形城の北条氏邦に対し、降伏勧告が発せられました。鉢形城からは「これが返答だ」と言って、いきなり大砲(おおづつ)を撃って来ました。もちろん空砲ですが、硝煙とともに轟音が荒川の川面と断崖に響き渡り、それからは豊臣軍と北条軍の激しい打ち合いとなりました。激しい撃ち合いですが、音がすごい。実際の攻防戦においては、他の北条方の城が落城していく中、鉢形城はよく持ちこたえました。1ヶ月にも及ぶ長い籠城戦だったのですが、最後は本多忠勝の放つ大砲の前に降伏・開城しています。鉢形城に籠城したのは城兵ばかりでなく、城下の住民も多かったそうです。「五公五民(税率50%)」が当たり前の時代に、北条氏の領国では「四公四民(税率40%)」の低い年貢率でした。そんな領主を慕って、自ら志願して籠城した人も多かったと言います。実はこの低い税率は北条氏邦だけが採用したものではなく、北条氏初代の北条早雲の時代から踏襲されていたものです。さらには第三代の北条氏康の時代になると、戦の都度課されていた雑税すらも撤廃する「公事赦免令」が出されました。当然ながら税収は下がるのですが、北条氏康は戦を回避することで、税収減を補っていました。武蔵の北部にありながら、今も輝く「三つ鱗」と「北条まつり」は、そんな人徳あふれる治世を今に伝えているのかも知れません。
2009/04/13
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埼玉県寄居町にある鉢形城は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害となっています。航空写真で見た鉢形城の縄張り現在大手門の跡は、八高線の踏切となっていました大手方向には水堀があったようで、わずかに池となって残っています。水の残る空堀跡。さらには「弁天社」のある池があったようですが、現在では盛土にその名残がありました。弁天社跡。おそらく池の中に祠か何かが浮かんでいたことでしょう。山城でありながらも水の手は豊富だったようで、「おくり泉水」の跡もありました。当時は庭園だったのでしょうか。この日は「北条まつり」があるため、あちらこちらに甲冑姿の人たちがいました。豊臣秀吉の北国軍の戦評定。立っているのはおそらく前田利家です。前田利家曰く、「兵糧・弾薬は十分にある」とのことでした。1人挟んで左の人は本多忠勝だそうですが、兜の前立てと甲冑が違うような気がします。(「一言坂の合戦」の記事→こちら)他にも上杉景勝や真田真幸などがいて、錚々たる面々でした。その三の曲輪には、虎口と四脚門が復元されています。四脚門。薬医門形式です門をくぐって三の曲輪に入って行くと、ここでは舞台が設置されて居合いが行われていました。戦評定だったり居合いだったりと、やっているこことがバラバラ…鉢形城は1つ1つの曲輪が大きく、城郭そのものも広大です。二の曲輪跡。こちらにも北条まつりの甲冑隊がいました。戦国時代もこんな感じだったのでしょうか。城の遺構もよく残っており、二の曲輪と三の曲輪の間には箱堀が掘られていました。箱堀。攻撃手段が槍や弓矢から鉄砲に移るにつれ、空堀の幅を広げるために、このような堀底の広い箱堀が掘られました。鉢形城の城内には「深沢川」が流れ、南にはさらに曲輪が大きく広がっています。深沢川。これだけでも防御としては十分な要害です。外曲輪。秩父の春は少し遅いようで、桜が満開でした。本丸方向へ戻ろうとすると、上州箕輪城からの援軍に出会いました。「高崎から来られたんですか?」と尋ねると、山伏姿の人が「そうなんです~。ぜひ遊びに来てください。」とのことでした。それにしても北条まつりじゃなかったら、ただの怪しい集団です。甲冑姿の人たちばかりとすれ違いながら、本丸の方へと向かいました。さすがに立入禁止のようです。鉢形城は1476年、関東管領山内上杉氏の家臣、長尾景春が築城したと伝えられています。後に小田原の北条氏康の四男、北条氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。1590年に豊臣秀吉が北条氏の本拠である小田原城攻めを開始すると、豊臣方の諸将は一斉に関東各地の北条氏の城に攻め込みました。鉢形城を攻めたのは、前田利家・上杉景勝などの北国方面軍で、その数は5万人とも言われています。「北条まつり」では、その鉢形城の攻防戦が再現されています。その激しい攻防戦については、北条まつりとともに後日紹介したいと思います。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2009/04/12
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松山城と言えば、伊予松山城(愛媛)、備中松山城(岡山)が有名かと思います。いずれも天守が現存する名城ですが、こちらは建築物こそ残っていないものの、戦国時代の城郭を残す名城だと思います。武蔵松山城の縄張り図。薄い緑色の部分が曲輪で、水色の部分が空堀です。(水堀ではありません)武蔵松山城の周囲には、市野川が水堀のように巡って流れ、南西側の搦め手方向は急な斜面となっています。市野川。護岸が施されていないため、戦国時代と同じ川面かも知れません。武蔵松山城の遠景はこんな感じです。山腹に寺院の屋根が見えていますが、これが「岩室観音堂」です。岩室観音堂。岩室観音堂は松山城よりもかなり古く、西暦800年代の築造です。代々松山城主が信仰していましたが、1590年の攻防戦で焼失してしまい、江戸時代になって再建されたものです。(それでも古い)松山城の縄張りが頭に入っていることと、元探検部の妙な気負いもあって、岩室観音堂の裏手から直登攀するという暴挙に出てしまいました。(本当は危険なので禁止されています)岩室観音堂を登り切ったところに「平場」と呼ばれる曲輪があるはずなのですが、何のことはなく、ただの畑でした登城道から登るべきだったか…途中の本丸脇にも曲輪の跡があり、ここが「兵糧蔵」の跡です。さすがに兵糧蔵は搦め手方向の、しかも本丸のすぐそばに置いてあったようです。そしてこれが本丸です。礎石の跡がありますが、ボルトが埋めてあるため、ずっと後世になって造られたものかと思います。(神社の社殿か?)本丸からは大手方向に下りていったのですが、周囲には空堀が巡らされ、その空堀や曲輪の跡もよく残っていました。本丸と二ノ丸の間の空堀。左が本丸で、右が二ノ丸です。二の丸の曲輪跡。さらに空堀があって、春日丸へと続いていました二の丸と春日丸の間の空堀。春日丸の曲輪跡。大手方向へ行くに従って曲輪の位置も低くなって行きますが、空堀はだけは変わっていませんでした。春日丸と三の丸の間の空堀。それにしてもよく残っています。三の丸の曲輪跡。城郭の遺構は驚くほどよく残っており、手軽に戦国の城郭を見るのにいいお城だと思います。武蔵松山城のある武蔵国北部(埼玉県)は要衝にあり、戦国武将の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。武蔵松山城の歴史を見ると、関東地方の戦国時代の歴史をそのまま見ているような感じです。武蔵松山城の築城時期は定かではなく、応永年間(15世紀初め)に扇谷上杉氏の家臣であった上田氏によって築城されたと言われています。扇谷上杉氏は武蔵松山城を、敵対する(山内)上杉氏や(古河公方)足利氏に対する重要拠点として位置づけていました。そして(扇谷)上杉氏・(山内)上杉氏・(古河公方)足利氏の3者の勢力争いに乗じ、武蔵に進出して来たのが相模小田原の北条氏です。北条氏の進出に危機感を抱いた扇谷上杉氏は、それまで対立していた山内上杉氏・古河公方足利氏と和睦、今度は3者が連帯して北条氏の進出に備えていました。そんな対立が続く中、1537年に北条氏第2代の北条氏綱は、(扇谷)上杉朝定の本拠地である河越城を攻め落としました。そして上杉朝定が、河越城から逃れて来た先が武蔵松山城です。河越城奪還を目指した上杉朝定でしたが、有名な1545年の「河越夜戦」で北条氏第3代の北条氏康に大敗を喫し、上杉朝定も討死してしましました。さらに1561年になると、北条氏と敵対する上杉謙信が武蔵松山城を奪還し、武蔵松山城の城代となったのが、岩槻城城主の太田資正でした。(三楽斎の呼び名の方が有名ですが)しかしながら1563年には、北条氏康と武田信玄の連合軍が松山城奪還のため、大軍で押し寄せて来ました。この時、「松山城危うし」の急報を岩槻城に知らせたのが、岩槻城の記事でもご紹介した、太田三楽斎の軍用犬たちです。(岩槻城の記事→こちら)武田信玄は金堀衆にトンネルを掘らせて攻撃するなど、その攻防戦は激しさを極めました。上杉謙信も越後から松山城の救援に駆けつけましたが、あと一歩及ばす、松山城は落城ししまいました。また1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時は、北条方の武蔵松山城も上杉景勝・前田利家の連合軍に攻められ、再び落城の憂き目を見ています。そして北条氏滅亡後、関東に徳川家康が移ってくると、武蔵松山城も徳川氏の支配下に入りました。このように武蔵松山城の歴史が、そのまま関東の戦国の歴史だとも言えると思います。武蔵松山城に攻め寄せた武将を挙げたたけでも、北条氏綱・氏康、武田信玄、上杉謙信、上杉景勝・前田利家と錚々たる面々です。それだけ要衝にある堅固な城であるとも言えるのですが、実際に松山城を訪れるとそれも納得です。
2009/04/11
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