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その1・・・に続き、その2を書いてみました。休憩後、霊山歴史館へ行く事にした。円山公園から、南下して、円山音楽堂の横を過ぎ、豊臣秀吉とねねの寺で有名な、高台寺サイドを歩き、京都霊山護国神社鳥居のある分岐口へ到着。ここを、東へ行く。維新の道の石碑があった。突き当り右が、霊山歴史館で、左側に京都護国神社になっている。まずは、霊山歴史館に到着。入場料500円で入管。2階建てのようで、入ってすぐの1Fロビーに、「龍馬を斬った刀」と題して、ガラスケースに古い唾のない刀が展示してあった。長さ:42.1CM(1尺3寸9分)、反り:0.8CM、目釘穴:1個、銘:越後守包貞(偽名)と書いてあった。ひえ~。ほんまもんかな?!・・・と思ったが本物のようで驚きであった解説が書いてあったが、・・・京都見回組の桂早之助が、この刀で坂本龍馬を切ったと伝えられる。桂は、居合い斬りの達人で、コンテストに優勝するくらいの腕前だったようだ。なんでやね!・・・と呟かずにいられんやった。2階は、歴史年表や、幕末活躍した、人々などの写真などが展示してある。西郷隆盛や、木戸孝充、高杉晋作、新撰組の近藤勇、土方歳三もあった。また、近江屋の模型などもあった。2階奥の部屋で龍馬は遭難したようだ。外に出て、向かいの、京都護国神社へ参拝することにした。坂本龍馬のお墓があるようで、お参りしようと思った。300円入場料がいるので、今日は出費がかさむが、まあいいか!案内も書いてあり、有名なところのようだ。1000円払って、石板に願い事?を書いて奉納する案内書きがしてあった。いろんな石板があり、たくさんの方がおまいりに来ているのがわかった「龍馬様ここに来て元気になりました・・・また来ます」・・・と書いた石板もみかけた。当局も転んでばっかしや!!・・・5~6分歩くと、案内看板ナビで、すぐに龍馬の墓があり、それとわかった。右が、中岡(享年30才)、左が、龍馬(享年33才・2人ともまだ若い!)のようで、合掌!!。すぐ上に、桂小五郎や維新で打ち死にした志士の墓がつづいてあった。彼岸ではないのに、千羽鶴やお花がたくさん供されていた。国の為(日本国の為に戦って命を落とした志士たちを慰霊する為に、明治元年(1868年5月10日)に作られた・・コトを後で知った。それぞれに、合掌。この場所から、京都市内が一望できる。「これからの時代はどう生きるか・・・!」と自身に問いかけてみたが、ハッキリとした答えは出なかったが、少なくとも、この変わり行く今の時代は、維新に共通するものがあると感じた。たくましく生きようと思い。少し勇気をいただいた探索移動で京都東山をあとにした。
2006.02.19
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坂本龍馬と新選組を探しに京都へ行って来ました。今からおよそ150年前徳川幕府による幕藩体制が行き詰まりの頃、ペリーが黒船を率いの浦賀に突然来航しました。開国を迫りやがて、幕末→明治維新へと日本が変わって行きました。混乱しつづける歴史のなかで、活躍した坂本龍馬と、新選組。以前からその歴史探索をしてみたいと思っていた。その現場に立つことで、その時代のその瞬間にふれ、先人たちの深い志や、その想い、考えなどが分かれば自身のこれからの生き方、考え方の参考になるのでは・・・・?と考えたからである。地図を片手に持参で、いざ出陣!!さっそくご案内しましょう。(画像は、京都・円山公園にある坂本龍馬と中岡慎太郎像)2月10日、冬型気圧配置で気温は低いが、晴れ間がのぞき天気が良さそう。10時18分、京阪電車中書島駅到着。電車を降りてまずは、坂本龍馬が京都で定宿していたという『寺田屋』へ行こう。北の方へ歩き出す。ほうらい橋を渡りすぐの辻を左(西)へ行くと、寺田屋があった。ただの2階建て木造旅館にすぎないが歴史が語る趣がある。寺田屋のちょうちんや寺田屋騒動址の立て札などがある。龍馬はここでよく泊まっていたか・・400円で見学可と書いてあり、早速入ってみた。今でも、素泊りならOKのようで、表札は、坂本龍馬の表札がかかっている。1階は、龍馬に関する写真や小物また、風呂が展示してあった。2階へ階段をあがると、7つほど畳部屋があり、右側の「梅」と書いた部屋へ行くと、坂本龍馬の絵掛け軸がかかった部屋があり、龍馬がよく泊まってた6畳の部屋の様子。寺田屋騒動とは、文久2年(1862年)4月、尊皇攘夷派の薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新上有名な事件。その時か、龍馬が幕史に捕らえられかけ、戦いの時についたとおもわれる、刀傷や弾痕が、柱に今でも残っているのに驚いた。龍馬の刀と柱についている、刀傷お龍さん、(この宿で働いていた、のちの龍馬の嫁さん)の写真もかかっていた。寺田屋をあとにして、北へ行くと、「竜馬通り商店街」になっている。龍馬館と書いたみやげ物屋を見つけた。いろんな龍馬グッズを販売している様子。龍馬せんべいとかもあった。次は、近鉄桃山御陵前駅の前、高架下を東に行き、1つ目め辻を南へ行ったところにあった「伏見奉行所」を探しに行った。慶応4年(1868年)土方歳三率いる、新選組ら幕府軍が討幕派の薩摩軍と激戦を繰り広げていた所で、付近をうろうろするがよくわからず市営住宅の付近に着くと、その石碑があった。伏見奉行所跡・・石碑のみで当時の面影は何もない。駅の方へもどると、赤い大鳥居を見つけた。御香宮神社だ。薩摩軍が本陣を置いていた場所で、境内へ行って参拝後、本殿の脇に「御香水」という湧き水があり、ご婦人がペットボトルに汲みにこられていた。お茶にしたらなんとも美味しいようで、当局も杓子で飲んでみたがなるほど美味しい。平安時代に突然湧き出した・・・と書いてあった。伏見を終えて、三条まで京阪電車で移動することにした。12時20分、三条駅に着、地上に上がり、西方向へ進む。三条大橋から加茂川の上流の北山方向は雪景色で白くなっている。冬日で寒い。まずは、新選組の名をしらしめたとされる、池田屋事件の舞台になった。河原町三条の近くにある、池田屋を探しに行こう。しかし、池田屋は無く、パチンコ屋さんに変わっている。この『パチンコSOLT』前にて、石碑と案内板があるのを見つけた。「池田屋騒動の址」と書いてある。そのクーデター計画は・・・・・『元治元年(1864年)旧暦6月5日、祇園祭宵々山、四条小橋の古高俊太朗を捕らえて、調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、池田屋で密会中の長州、土佐、肥後藩の尊攘過激派浪士20数名を近藤勇率いる、新撰組10数名で襲撃し多くの死傷者を出しました。尊攘派は痛手をうけ、新選組はこの事件を機に一躍名をあげました・・・・と案内板が書いてあった。次は、河原町三条の交差点を南下して、1つ目を東に行ったところにある、材木商「酢屋」を探しに向かう。龍馬が隠れ住んでいたところで、龍馬の開運会社の「海援隊」の京都本部のあった場所。今でも、営業しているようで、すぐにわかった。2階は展示室になっている様子。石碑と、海援隊の名簿板が入り口にかかっている。隊長、坂本龍馬。隊士、陸奥陽之助、伊吹周吉…など58名の名前が載っている。河原町通りに戻り、南下する。人通りが多い京都のメーンストリートだ。今度は、龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われて暗殺されたとされる、近江屋(醤油屋)を探しに行ったが、その場所は京阪交通社にかわっていた。それを示す石柱がポツンとあるのみ。気を付けてみないと通り過ぎてしまいそうな所。遭難の碑の石碑があるのみ。すぐ、斜め向かいに、中岡慎太郎の隠れ住居の「あぶらとり屋 象屋」は、今も営業中で、石碑も店の前にあった。次は、河原町四条交差点を、東に行き八坂神社へいこう。本殿へ行くと、観光客やお参りの人が多い。・・・1200年にわたって、京の町を疫病から守る為に発祥して受け継がれる、祇園祭は、八坂神社の祭礼で・・・などと観光看板に書いてある。当局も、拍手を打って参拝完了。そのまま境内を東に抜けると、円山公園に到着。小池で鴨が5~6匹泳いでいる。のどかなところ。龍馬と中岡の銅像はここから東へ50Mほどの広場の前にあった。(その1 おわり。その2は、次回へ)
2006.02.17
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