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本荘屋台 布団台とその付近の説明です。布団台は、二重の総金具で覆われ、上から松竹梅となっています。松には鶴、竹には雀、梅には鶯が遊んでいます。布団台の下面にも金具があります。雲板の端部が、隅木と布団台の間から、隣り合う雲板と繋がっています。二重の丸桁。尾垂木はうっとりの透かし金具で木地の黒檀を見せています。隅木の金具で覆われています。二重金具で蔦の文様です。隅木受け、籠彫りの虎がよく分かります。の金具も、正面は鯛、後ろは蛸、左右が浜地鳥です。この付近もじっくり鑑賞してみたいところです。
May 31, 2008
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本荘屋台 鳴り太鼓の吊るし方です。太鼓の吊環から伸ばしたロープを、四本柱に巻きつけて吊るします。この欅製の鳴り太鼓は、鏡面78センチ(二尺六寸)胴回り、高さが共に約1メートルと大きいものです。明石から加古川にかけての地域では、最大となります。
May 30, 2008
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本荘屋台 天井は格子天井となっています。碁天(ごうてん)または格天(ごうてん)ともいいます。八つの区画に区切られた格子に合わせて、天井板を小さな正方形の欅板で木目を縦横、変えながら貼ってあります。一見、何の変哲もない天井ですが、屋根に上ってみるとその手の込んだ細工が分かります。太鼓の叩き手しか見えませんが、結構、手の込んだ仕事です。四隅の枠には天井板を張らずに、泥台と隅木を緊結するロープを通し、屋台全体を締め付け強度を高めます。四本柱から上の構造物は、芯棒は通っていますが固定はされていませんので、このロープを締め付けることで屋台全体が固定され一体となります。このロープは、屋台が運行するときは締めつけ、蔵に帰ってきたときには緩めます。滑原町では、夜宮の後、蔵に屋台を納めたらすぐに緩めて、翌朝、昼宮に出発するときまた締めなおしています。狭間彫刻の取り付け方もよく分かります。銅線で狭間同士を止めていますが、ココはやはりロープで上の桟にU字金具を固定し、それからロープでつないでほしいものです。下も止め金具がありますが、その他にもロープを使用して二重三重の安全策を講じて念入りに取り付けたいものです。運行中に狭間彫刻が落ちた屋台もあります。滑原町では、狭間全体が落ちたことはないですが、彫刻の一部は壊れてよく落ちました・・・トホホ・・・
May 29, 2008
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本荘屋台 跳高欄です。下地に銀メッキの二重金具です。上から「松」「竹」「梅」の意匠が透かし彫りの金メッキでデザインされています。先端の跳ね部分は蔦をうっとり彫りしました。木口には額縁付きで、阿閇神社の神紋「左三つ巴紋」、平桁には「獅子」、地覆には左右に本荘の「本」と「荘」を入れました。
May 28, 2008
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この泥台は、総幅131センチと非常に大きくとってあり、平屋根屋台としては比較的大きく製作されています。ちなみに滑原町屋台では120センチです。その結果、大径の鳴り太鼓を入れることが可能となり、2尺6寸、欅製の大太鼓が採用されました。高さ120センチ、担き棒高さ98センチ、泥台柱12センチ。泥台は、ほぞ細工で柱を貫通し、込栓で止めてあります。欅材ですから、これだけで十分な強度はあるのですが、今回、ボルト締めでも補強がされました。泥台は、建物で云うと基礎にあたる部分ですから、頑丈であれば云うことなしです。太鼓隠しには菱格子が採用されました。垂直に交わる平格子が多い中、工作の難しい菱格子としました。他には、大阪方面の彫刻が施された泥幕彫刻、姫路方面の一部には太鼓隠しがなく、鳴り太鼓をそのまま見せるものなどがあります。
May 27, 2008
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今朝から袈裟御前のことをアップしていたからではないのでしょうが、今朝、駐車場の前で、狐が口から血を出して死んでいました。車にはねられたのを脇に寄せていたものと思うのですが、ちょうどそこがうちの駐車場の前で、長女が出勤するのに、車が出せないといいますので、片付けてきました。柴犬くらいの大きさでしたから、まだ大人になりきっていない子狐でしょう。首輪もなく、耳がぴんと立って鼻が細くて長く、尻尾も太くて直線に伸び、一目見て、これは犬ではなく狐だなと思いました。犬やネコの事故死体を片付けたことはありますが狐は初めてでした。死骸をダンボールの箱に入れて、道路の血を洗い流しました。死んでから時間が経っているらしく、血が固まっていて、なかなか流れませんでした。9時になるのをまって市役所に電話して、死骸を引き取ってもらいました。係員は箱に「狐」と書いといてくださいと云いました。狐用の焼却炉があるのかなと思いました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶつ。合掌。
May 26, 2008
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芳年(左)と国芳(右)の浮世絵です。どちらも国会図書館デジタルデータベースにあります。左は、渡辺渡の寝所を伺う盛遠。右は、取った首が袈裟御前のものと知る盛遠です。袈裟御前の夫である渡辺渡は、頼光四天王の一人、渡辺綱の子孫に当たります。 文覚上人(?~1203)は、もとは武士で、遠藤盛遠と云いました。京都神護寺再興の勧進で後白河法皇に参加を強要し、伊豆へ配流された。配流地の韮山で源頼朝と出会い、平家打倒の挙兵を薦めた。後に頼朝の援助で江ノ島に弁才天を勧請し、また神護寺の再興に貢献した。頼朝が勝長寿院を建立するにあたり、頼朝の父・源義朝の首を京より持ち帰ったという。
May 26, 2008
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本荘屋台 高欄合 東面中 文覚上人のことを追加説明します。源平盛衰記に、文覚上人のことが下記のように説明されています。鳥羽上皇に仕える北面の武士遠藤盛遠が、従姉妹にあたる袈裟御前を嫁にしたく、おばであるの袈裟御前の母に願っていました。ところが、知らない間に同僚の渡辺渡の妻になっていることを知り、おばを難詰します。想いを寄せている袈裟に密かに会えるよう、おばを脅して仲立を頼み、想いを遂げようとします。袈裟は、母の命を取るという盛遠には逆らえず、袈裟は「本当に私を想うのなら、渡に髪を洗わせ、酒に酔わせて寝かせておくので、ぬれた髪を目当てに、主人の渡を殺してほしい」と話します。盛遠は喜んで夜討の支度をし、日暮れを待つ。家に帰った袈裟は、渡に酒を飲まし酔いつぶして別の部屋に休ませてから、自分の髪をぬらしてから渡の寝所に入り、目印に渡の烏帽子を置きました。「露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき」と辞世の句を詠み、燭台の火を消しました。盛遠は闇夜にまぎれ、ぬれた髪を目当てに渡と思い込み、一刀のもとに首をはね、袖に包んで持ち帰りました。しかし、月明りに照らし出された首は愛しい袈裟のものでした。袈裟の、渡への思いを目の当たりにして、ようやく盛遠も自分の罪深さを知り、渡辺の屋敷に取って返すと、渡にこれまでのいきさつを告げ、自分を裁き、殺してくれと刀を差し出しました。渡はひどく驚き、顔色を失いましたが、やがて「今更、そなたを裁いたところで何になろう……私は出家する。僧となって、袈裟の供養をして一生を過ごそう。それで少しでも袈裟の魂が安らぐのなら、それが私の幸せだ」と、髪を下ろしました。それを見た盛遠は、渡の心の深さと、袈裟への愛情に心を打たれました。渡のそれにくらべ、自分の袈裟への想いは、何と子供っぽく、身勝手なものであったのだろう。それは愛情などと呼べたものではない、ただの独占欲に過ぎなかったのではないか。そんなもののために、袈裟は命を失い、渡は最愛の妻を失って悲しみのどん底に沈んでしまった。自分は何と罪深いことをしてしまったのだろうか……。盛遠は自分の罪業深い身と世の無常をつくづくと感じ、出家して文覚と改めました。
May 26, 2008
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本荘屋台 高欄合 西面右 宇治川の先陣争いの場面です。寿永三年正月二十日。木曽勢が待ち受ける宇治川べり。佐々木高綱と梶原景季が、互いに、後先になりながら現れました。互いを意識し有って、堪らず梶原が6間余り前へ踏み出しました。 これを見た佐々木、「いかに梶原殿、この河は、西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えたり。締め給えや」 「さもあらん、川中で落馬しては一大事」と梶原、歩みを止め、腹帯を解いて締め直しました。すると佐々木、その間に、そこを、つっと馳せ抜けて、河へさっと打ち入れました。「謀られたか」と梶原、遅れてはならじと、佐々木の後に続きます。 「佐々木殿、功を焦って、不覚を取りなさるな。水の底に、大縄が有りますぞ。心得たまえや」と梶原。「さもあらん、足を取られては大変」と佐々木、太刀を抜いて、馬の足に掛かる縄を、ブツリ、ブツリと斬りつつ、さすがは生食(いけづき)日本一の名馬です、白波騒ぐ宇治川を一文字に突っ切って、遂には対岸へ打ち上げたのです。一方の梶原の摺墨(するすみ)は、川中から筋交いに押し流されて、はるかの川下に、打ち上げました。その後、佐々木は、鐙(あぶみ)に踏ん張り立って、「宇多天皇に9代の後胤(こういん・子孫のこと)近江の住人、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」と、声高らかに、名乗りを挙げました。
May 26, 2008
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本荘屋台 高欄合 西面中 逆櫓の論争の場面です。判官義経は、四国へ渡るために大物が浜に船揃いした。作戦会議中に、梶原景時が「船に逆櫓(さかろ)を立て、軍の自在を得る様にしたらどうか」というと、判官は「逆櫓とは何と云事ぞ」と問う。梶原は、「逆櫓とは船の舳先(前部)に櫓(ろ)を立てること。その訳は、陸地では前後に自在に進めるが、船での戦いは、敵が強い時は舳の方の櫓で押戻し、敵が弱ければ元のように艫の櫓をもって押し渡す」といった。しかし判官は「軍が逃げ支度して、敵に勝てるものか」といって彼の説をしりぞけた。梶原は「大将軍とは、我が身を全うしてこそ頼朝様のお役にこそ立てる、ご自分の命を返りみないのは若気の至りである」というと、義経は少し顔色を変えて「武士は家を出た日から敵と組んで死ぬ覚悟が必要。命を惜んで逃げることは考えられん」こうしたことがあって梶原は義経に恨みを抱き、讒言された義経は頼朝から誤解されることになる
May 25, 2008
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本荘屋台 高欄合 西面左 義経八艘跳びの場面です。版画は、 橘守国「絵本写宝袋」享保五年(1720)刊「義経八艘跳び」壇ノ浦の合戦で、平家の能登守教経は大将の義経と組まんと探していたところ、ついに義経の舟に行き会う。教経が義経目掛けて跳びかかろうとすると、義経は長刀を脇にかい挟み二丈(約6メートル)隔たった船へと跳び移る。義経は、八艘の船を跳んで逃れる。
May 24, 2008
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本荘屋台 東面右 難波六郎経俊、滝壺に怪異を見るの場面です。内大臣平重盛は滝壷の深さを知りたいと思い、「この中に誰か勇気があり、かつ泳ぎの出来る者はいないか」とたずねると、備前国の難波六郎経俊が進み出て「滝壷に入って見ましょう」と言った。彼が滝壷に飛び込むと、そこには不思議な世界が待っていた。東には春の景色、南には夏、西には秋、北には冬の四季の景色が広がっていた。経俊は機織りの女性からここが竜宮城であることを知らされ、やがて乙姫に面会したあと、水上に上がると重盛卿に中の様子を報告した。ところが彼の言葉の途中、滝の面を黒雲が覆い、雷鳴がとどろいて雨となり、経俊は雷に打たれて死んでしまう。重盛卿は勇者を滝壷に入らせ、竜宮のたたりに遭わせたことを悔いた。
May 24, 2008
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本荘屋台 高欄合 東面中 文覚上人、頼朝に父義朝の髑髏を見せ平家打倒の挙兵を勧める場面です。福原遷都から1ヶ月が過ぎたころ、文覚は、頼朝の父 義朝のものだという髑髏を持って頼朝に会い、頼朝に挙兵を促します。頼朝は「自分は勅勘(天皇のお咎め)をこうむっている身であり、勅勘を許されない限り、謀反を起こすことできない」とその申し出を断るのですが、「ならば、ただちに上京し、法皇からお許しをいただいてこよう」と、文覚は自身も勅勘の身ながら、新都に向かってしまいます。頼朝は、文覚のためにまた苦境に追いやられるのではないかと不安で仕方がなかったのですが、文覚は出発してから8日めに再び頼朝のもとに姿を現わしました。「そら、院宣よ」そう言って、文覚は後白河法皇から取り付けた平家打倒の院宣を頼朝に差し出しました。この院宣を、頼朝は手を洗い口をすすぎ身を清め、新しい烏帽子、浄衣を着て、三度拝して慎んで受け、そして、ついに平家打倒に立ち上がることを決意したのです。
May 24, 2008
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本荘屋台 高欄合 東面左 石橋山合戦伏木隠れの場面です。源平盛衰記の版画と国芳の浮世絵を載せました。版画と浮世絵のどちらにも、鳩?が飛んでいます。浮世絵をクリックすると大きな画面に飛びます。源氏にとって鳩は吉兆でしょうか?特に、国芳の浮世絵は、原画といってもよいくらいに構図が同じです。治承4年8月、石橋山に陣を張った頼朝は、谷を隔てて対陣した。平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎、圧倒的に勝る平家方に惨敗した頼朝は、郎党とともに土肥杉山の伏木の大洞に身を潜めた。梶原景時の配慮により一命を得た頼朝は、その後、再び反旗を挙げた。
May 24, 2008
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本荘屋台 高欄合 後面右 安徳天皇入水の場面です。女院二位殿(清盛の妻)は覚悟を決め、喪服の二衣を着、白袴のそば高く挟んで、安徳天皇を抱き、帯で我身に結び合せ、宝剣を腰にさし、神璽(しんじ)を脇に挟んで艇(ふなばた)に立った。安徳天皇は8才。不安げに「いづこへ行くのか」と尋ねろことこそかなしけれ。二位殿は「兵どもが船に矢を放つので、別の船に行きましょう。浪の下にも都があります」と言って海に入った。
May 24, 2008
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本荘屋台 高欄合 後面中 鱸(スズキ)船に飛び込むの場面です。平清盛がいまだ安芸守のとき、伊勢の安濃の津から船に乗り、熊野の社に参る途中で、大きなスズキが船に飛び込んできました。清盛は「昔、周の武王の船に白魚が跳び込み、これがもとで殷の紂王に勝利することが出来、周の国を守った」という故事を思いだし大いに喜び、自ら調理して食べ、そのあと周りのもの達にも食べさせました。
May 23, 2008
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本荘屋台 高欄合 後面左 蓮台野の狐です。清盛がある時蓮台野に行って大きな狐を追出し、弓手で射とうとすると、狐はたちまち童女に化けてにやりと笑ひ、「私の命を助ければ、汝の望みをかなえん」と云う。そこで清盛は弓から矢をはずし、如何なる人と問うと、童女は、「私は七十四道中の王である」という。さては貴狐天王と思い、馬から下りて三拝すると、童女はもとの狐となりコウと鳴いて消えてしまう。源平盛衰記では、平清盛は狐を弁財天の化身、貴狐天王とよんで尊崇し、清盛は、その神通力で栄達をとげたと信じられていたという。源平盛衰記の版画もご覧ください。
May 23, 2008
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本荘屋台 高欄合 正面右 富士川の合戦です。源氏、平家の軍は富士川をはさんで両岸に陣を敷いた。しかし敵が川を渡る様子もないので、平家方は酒盛をしていた。源氏の方は、明日に戦いあるべしと、終夜かがり火を炊き、敵襲に備えていた。夜半に、水鳥が一斉に飛び立ち、平家はその羽の音に驚き、「敵が来るぞ」「源氏の軍が来た」と叫んだ。平家は、大将を始め、上も下も取る物も取らず、甲冑をも置いて京へ逃げ帰った。
May 23, 2008
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本荘屋台 高欄合 正面中央 養和元年2月28日、清盛熱病にて死す。源平盛衰記図会の清盛熱死の場面です。この面は、高欄掛けを掛けてしまうと見えなくなります。こんなところまで彫り物があります。平清盛は重病になり、からだ中が燃え焦ける様は、火のなかにいるようだ。清盛は、「遺恨の事は、頼朝が首を見ずして死ることこそ口惜しけれ。死後は仏経も供養せず、頼朝の首を切って、墓の上にかけよ」という。水をくめども、苦痛はやまず、治療も祈祷も効き目がなかった。その女房の夢に、青鬼と赤鬼が出てきて「我等は閻魔大王の御使いでである。清盛は仏像経巻を焼き尽くすなどして、五逆の大罪を犯した。永く阿鼻叫喚の無間大地獄に墜ちて重苦を受くべきなり」と言った。
May 23, 2008
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木曾義仲が、垣生新八幡(はにゅうのにいはちまん)に参拝したとき、白鳩が飛んで来て、白旗の上に止まった。義仲は、これを吉祥と喜び、兜を脱ぎ、これを拝し奉った。源平盛衰記では下の絵が掲載されています。
May 23, 2008
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本荘屋台 高欄です。地覆から地覆の総幅は186センチです。高さ33センチ。この高欄も特徴ある高欄で、意匠を凝らした金具や彫り物で飾られています。まず大きく飛び出した、架木(ほこぎ)の跳ね部分です。架木が、斗束で支えられるところは、全て受けが入り補強と装飾を兼ねています。力金が地覆から平桁、跳ねを貫通して補強しています。地覆と平桁の間、斗束(とつか)で仕切られた空間に高欄合(彫刻)が三面ずつ付いています。普通は、?束(たたらつか)で支えていますが、この?束を空間いっぱいに引き伸ばし、高欄合(こうらんあい)彫刻したものです。この高欄合は、題材を源平合戦に求め、二枚合わせで立体感のある彫刻になっています。
May 22, 2008
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本荘屋台 隅木受けです。隅木受けとは、正隅三の尾垂木が彫り物に変化したもので、屋台の四本柱上の桝組み先端と隅木の間にあり、籠彫り仕上げや、丸彫り仕上げがあります。本荘屋台は、透かし彫りで、中が空洞となっています。古来、籠の意匠を彫られていたため籠彫りと呼んでいますが、動物や草花が彫られていても籠彫りというようになりました。一方、丸彫りで力士、天邪鬼、象、獅子、獏などの彫り物が採用される場合もあります。こういった丸彫りでは「重い屋根を支えていますぅ・・この屋根は重いぞー!!」という雰囲気がありますが、籠彫りなら軽やかな雰囲気となります。本屋体は、欅材で四神が彫刻され、正面右に朱雀、左に白虎、後面右に玄武、左に青龍となっています。
May 21, 2008
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本荘屋台 木鼻です。8頭の獅子がそれぞれ異なった小道具を持っています。正面には、打ち出の小槌と本荘と書いた扇子。続いて左面に、独楽、瓢箪。後面に、米俵、籠鞠。右面に、軍配、鈴と持たせ、阿吽としています。向かって右が阿形、左が吽形です。
May 21, 2008
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昭和10年発行「国史画帳 大和櫻」(定価2円50銭)の一番最初に出てくる素戔鳴尊です。説明文に「素戔鳴尊(すさのおのみこと)出雲の簸川上(ひのかわかみ)八頭蛇(やまたのおろち)を退治したまう図」とあります。目次の説明文には、「爛々たる眼、稲妻のごとき毒気を吐く舌、見るからに身の毛もよだつ大蛇をば十握剣を持って将に退治せんとする図」十握剣(とつかのけん)は高天原を追われるとき、姉の天照大神から持たしてもらいました。この剣は、十握りでほぼ三尺といわれていますから91センチということになります。本荘屋台の四本柱心芯も91センチで、何か符合しています。このとき十握剣は折れてしまうのですが、八頭蛇の尻尾からこれまた立派な剣が出てきます。この剣の上には、常に雲気がただよっていたので天叢雲の剣と名づけ、姉の天照大神に献じ、三種の神器のひとつとなりました。素戔鳴尊の胸には勾玉のようなものが見えます。
May 20, 2008
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「龍退治の高欄掛ですが、この図柄の人物は素盞嗚尊ではないでしょうか?服に勾玉がついてますし」貴重なご意見、ありがとうございました。そこに、気がつきませんでした。なるほどと感心しています。滑原町の高欄掛けのことが頭にこびりついていまして・・・図柄をよく見ないといけませんね。今後とも宜しくお願いいたします。
May 20, 2008
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きのう、衣装物のアップをガムバリ過ぎて今日はちょっと疲れた・・・
May 19, 2008
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本荘屋台 高欄掛け 龍退治です。霊界の王者、想像上の動物ですがたぶんあの世でも一番強いと思われます。そんな龍を退治してしまうとは・・・四神の青龍代わりですから、東の方向、屋台の中から南を見て、左手方向です。「都名所図会第3巻」の表紙にも「左青龍」とあり、御所から見て東方向です。さてこの龍を退治している人物ですが、源満仲と甲賀三郎の説があり、そのどちらも龍を退治した事実はありません。源満仲は清和天皇のひ孫に当たり、父の経基が源姓を賜り、源経基を名乗りました。経基を継いだ満仲は、摂津国多田(兵庫県川西市多田)を本拠地として武士団を形成し、摂津源氏、多田源氏とよばれました。満仲の長男の源頼光は、酒呑童子退治などで有名です。この源氏の系統が、中川清秀につながり長男の中川秀政は天正13年、三木城主(13万石)となっています。またその妹チホは天正16年、津山城主森忠政に嫁いでいます。天正20年、朝鮮征伐で中川秀政は戦死、弟の秀成が後嗣となったが、文禄2年、豊後竹田に転封され領地も6万6千石に半減された。文禄3年、秀成は竹田に「荒城の月」で名高い岡城を築き、中川家は明治まで続く。甲賀三郎という人物は、兄二人に、はからずも深い人穴におとし入れられ、地底の国々を遍歴した後、蛇体と変身して甲賀に帰国したという 不思議な経歴の持ち主です。大体、蛇体というと龍のことなので、龍が龍退治するということになってしまいます。最後には、信州諏訪神社のご神体になり、話が長くなります。結局、三木に所縁の深い源満仲ということで良いのではないでしょうか。しかし、源満仲はもうちょっと男前にしてほしかった。人物についてアドバイスがありました。「龍退治の高欄掛ですが、この図柄の人物は素盞嗚尊ではないでしょうか?服に勾玉がついてますし」ありがとうございました、素盞嗚尊とは気が付かなったですね。この、場面は「素盞嗚尊、龍退治」にお詫びして訂正いたします。
May 18, 2008
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本荘屋台 高欄掛け 虎退治です。虎を地上の王と見ています。当然、四神に「白虎」というのがありますから虎同士一緒の方向で、屋台の中から南を見て、右手方行が西ですので、そちらに付けます。地上の王という場合、普通は獅子になるのですが、どういうわけか虎です。獅子が簡単に退治されたら、面目ないということで、虎になったとか・・・???自然界では虎とライオンが出会って、どちらが強いか雌雄を決するというような話はないわけで・・・虎はアジアの密林というか、竹やぶ、ブッシュの中で餌を求めて生活しています。ライオンは、アフリカの大草原の見晴らしのいいところが餌場ですので、普通は出会えませんが、インドにはアジアライオンというのがいるそうです。インドなら出会う機会がありそうですが、ニュースでも聞いたことがありませんね。虎退治といえばこの人、加藤清正です。加藤家の紋所、ドーナツのような輪も見えます。
May 18, 2008
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本荘屋台 高欄掛け 後面です。坂田の金時、鯉退治です。水中の王者、鯉を退治しています。鯉=魚=水中=亀=玄武と見て北面、屋台の中から見て真うしろにつけます。これも何で鯉が亀やねんとか云われそうですが・・・大体、玄武がどこに住んでいるか知りませんので・・・これだけの鯉なら、鯉こくが何人前も取れ・・・昨日の新聞に320キロの本マグロを吊り上げた親子の漁師がいたとか・・・その切り身が1キロ1万7千いくらで競り落とされた・・・320キロで500万円以上になります。まあ、捨てる部分もあるのでしょうけど。坂田の金時も、足柄山から清水とか焼津が近いのですから「金時まぐろ退治」も面白いですね。坂田の金時ではなく、弁慶の幼いころ、鬼若丸という説もありますが・・・三木市の与呂木屋台の旧高欄掛けは「西塔鬼若丸、鯉退治」でした。暴れん坊の鬼若丸が延暦寺に預けられていた頃のお話だそうですが・・・以前、延暦寺に行ったときに根本中堂の案内僧に「ココには延暦寺という看板のかかったお堂とか建物はありません」といわれ、えっワタシはどこに来たのだろうかと思っていたら「比叡山の、お山の中にあるお寺全部を合わせて延暦寺といいます」とか・・・???
May 18, 2008
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本荘屋台 高欄掛け 鷲退治です。屋台の正面、中から見て前方につけます。鷲=鳥=朱雀ということで、四神のひとつ、南の方角につけています。何で鷲が雀やねん???とかいわないでください、そういうものなんです。四神を退治してしまってどうする!!とか云われても困りますが・・・ということで大空の王者、鷲すらも凌ぐ武者図です。義経の郎党、伊勢の三郎の鷲退治です。もっとも平家物語をいくら読んでも、伊勢の三郎の鷲退治の場面は出てきませんが・・・北面の武士(白川上皇を警備する武士)隠岐の次郎佐衛門の鷲退治とする説もあります。ただ、隠岐の次郎佐衛門が弓で射殺したのは「怪鳥イツマデ」といって、『太平記』に出てくる人面蛇体に鳥の翼が生えた化け物です。毎夜、紫宸殿の上空に現れ「イツマデ...イツマデ...」と鳴き続けたという。戦乱の世の中が、いつまで続くのか憂えて夜な夜な出てきたとか・・・それなら、民衆の側の怪物というか、民衆の代弁者ですね。隠岐の次郎佐衛門は、民衆の代弁者を射殺したことになりますが・・・ちょうど、チベットのデモ隊に発砲した何処かの警官隊のようなものです。この高欄掛けの題材をどこにとったか分かりませんが、退治されているのは、はっきり「鷲」で、「人面蛇体の鳥」ではありませんので「伊勢の三郎の鷲退治」でもよいかと思います。
May 18, 2008
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本荘屋台 昼提灯です。重たい提灯を持っていただいた役員さん、ありがとうございました。阿吽の龍の図柄です。大きく肉盛りして迫力を出しています。雌雄の対になっていますので、屋台には睨み合うように取り付けます。龍がその姿を現すときは、天下泰平となり、甘露の雨を降らすといわれています。また、江戸時代、幕府の将軍のことを「龍顔」と尊称していました。
May 18, 2008
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本荘屋台 水引幕です。長さ、5.2メートル、幅90センチ。大阪城夏の陣。馬に乗っているのは真田幸村。天王寺口での戦いで、徳川家康本陣を急襲し、徳川軍を一時総崩れになるほどの合戦を行った記録が残っています。この夏の陣で残念ながら命を落としてしまいました。水引幕をクリックして、大画面にてお楽しみください。
May 18, 2008
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本荘屋台 左面 雲板 見返りの龍です。龍は、向かい龍や追いかけの龍(追い龍)が多いのですが、三木市岩宮屋台の、旧水引幕がこの見返りの龍の図案でした。他には殆ど見かけることなく、たぶん、この岩宮屋台のものだけだったのではないかと思われます。それも、平成12年に更新され、昔の図案の紫震殿に戻されました。そういうわけでもないのですが、龍の彫り物には割りと珍しい、見返りの龍を彫刻しました。平成17年に与呂木屋台が城戸商店で改修されたとき、この見返りの龍の図案の水引幕に新調されました。以下、ウイキペディアより引用龍は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説以来、中国では皇帝のシンボルとしてあつかわれた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われる。「竜に九似あり」とされ、角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼(注:中国で言う「鬼」は幽霊のこと)あるいは兎、体は大蛇、腹は蜃(この場合の蜃は蛤ではなく蛟の意)、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似るという。また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。
May 17, 2008
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本荘屋台 後面。狭間は、神功皇后の三韓征伐、応神天皇平産す。雲板は龍馬(りゅうば)の雲板です。坂本龍馬はりょうまと読みますが、コチラは「りゅうば」です。龍は霊獣の親であるという説があります。それによれば、龍と牛のハーフが麒麟(きりん)。龍と猪のハーフが象(ぞう)。龍と馬のハーフが龍馬であるという説がWEBにあります。ちょっと、よく分からないですが・・・上雲板にも色々な鳥が描かれています。翼の生えている龍馬と共に、空の上で遊んでいるようです。本荘屋台の雲板には、今までの屋台と一線をかくした新工夫が施されています。それは従来の雲板では、上下の雲板とも水平面では透かし彫りで彫っていますが、垂直面では透かし彫りにはされなかったことです。従来の雲板厚さは約5センチで、横手方向にほぼ2メートルにもなる長い部材を使用するため、強度を待たすため垂直面には透かし彫りは入っていませんでした。今回、雲板厚さを約6センチとり、この垂直面にも透かし彫りを施しました。この透かしたところから、奥の赤布がちらちらと見えて、これがまたいいのです。このあたりもK商店のこだわりがあります。
May 17, 2008
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>江戸時代後期、播磨町に近い姫路藩にはお殿様の弟である酒井抱一が多種多芸な個性を持ち、風流人、趣味人として有名でした。その酒井抱一が描いた「風神雷神図」です。宗達の「風神雷神図」を尾形光琳が模写した「風神雷神図」を酒井抱一がまた、模写したものです。一説には、宗達の「風神雷神図」を模写したとも云われています。しかし、酒井抱一は師匠筋にあたる光琳の「風神雷神図」を模写したと考えるほうが自然ではないでしょうか。幕末当時、阿閇村は明石藩に属し、お隣の姫路藩から酒井抱一がこの地に足を踏み入れたことは想像に難くないと思います。ということで、酒井抱一が描いた「風神雷神図」をどうぞ。
May 16, 2008
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本荘屋台、正面の雲板、風神雷神の場面です。この場面も、屋台で始めて採用された物です。古くは敦煌莫高窟の壁画にも風神雷神図が見られるそうです。天候を支配するものとして、龍が採用される例が多い屋台装飾に、ここ本荘屋台に始めて採用されました。題材は宗達の風神雷神図、三十三間堂の風神雷神像からとっています.この雲板は、それらを土台に独自の解釈で彫刻されています。いわば「城戸製・風神雷神像」です。阿閇神社氏子地域の安寧を願い、また、末永く守ってくれることでしょう。
May 16, 2008
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俵屋宗達の江戸時代初期「国宝 風神雷神図」です。風神・雷神像 (ふうじんらいじんぞう)木造風神・雷神像 - 鎌倉復興期の作。京都三十三間堂内、左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。 ともにインド最古の聖典とされる「リグ・ヴェーダ」に登場する神で、その名が示すように自然現象を神格化した原初的な神々です。風神は、ヴァーユと呼ばれ、数頭立ての馬車で天を駆けて悪神を追い払い、富貴栄達を授ける神とされ、一方の雷神は、ヴァルナという水神だといわれます。仏教では、仏法を守る役目とともに、悪をこらしめ、善を勧めて風雨を調える神と信じられています。その像形は、古代の信仰や伝説的空想によって、全く日本化されており、後世の二神のイメージを決定づけた名作で、お堂の再建時に造像を統括した湛慶が、その作成に深くかかわっているとされます。
May 16, 2008
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本荘屋台の雲板の天女です。こちらも、天から妙なる音楽を奏でながら舞い降りてきます。ん?舞い上がっているのか?どちらにせよ、このような雲板を見たことがありません。冠と手に持った楽器は金色に彩色されています。羽衣というか、白い長布がたなびいているのが目を引きます。この雲板の図柄といい、金具の意匠といい、かなり斬新に考えられた屋台です。
May 16, 2008
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開山道の内部には飛天の壁画が描かれています。三体は仏様で、それぞれ楽器を持ち、天から妙なる音楽を奏でながら舞い降りているようです。二体の飛天は、紅白の蓮の花を持ち、羽が生え、足は鳥の足で描かれています。これは鳥が、飛天に変わりつつあるのか、飛天が鳥に変わりつつあるのか。どちらも鳳凰とか、朱雀のような鳥になるのでしょうか?
May 16, 2008
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桝組み部分をアップしました。屋台の桝組みと比べると少し斗共が省略されていますが、正真正銘の三手先組拵えの桝組みです。正面丸柱上の大桝から、左上に伸びている肘木や尾垂木を数えると、丸桁を受けている尾垂木まで三段です。これが「三手先組拵え」です。
May 16, 2008
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開山堂の中には三手先組拵えの廟があり、開祖の法道仙人をお祀りしています。この廟も、ごらんのように、外からではまったく想像できないくらいの豪華絢爛さです。こちらが三手先組造りの桝組みです。大桝から外へ三段伸びて丸桁を受けています。この形で行くと、今まで三木の屋台の三手先組といわれていた屋台の桝組みは、殆ど二手先組みということになります。正しい三手先組造りの桝組みを持つ屋台は、三木市内では、昭和3年に柏木福平に作られた「東這田」「与呂木」「安福田」屋台のみということになります。
May 15, 2008
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本荘屋台の桝組みも二手先組拵えになっています。四本柱上の大桝から二段の斗共を重ねています。一段のものは出組み(でぐみ)といいます。二段のものを二手先組拵え(ふたてさきぐみこしらえ)といいます。三段のものを三手先組拵え(みてさきぐみこしらえ)といいます。先の伽耶院開山堂の二手先組拵えは、寺社建築の中でもオーソドックスなつくりで、標準の組物となっています。奈良の大仏殿は、七手先組拵えになっています。本荘屋台の桝組みは、黒檀で製作し、すべての桝には皿受けがつきます。このことにより桝組み高さが増し、狭間彫刻も豪華なものとなります。丸桁は三手先の高さで受けていますが、丸桁の出は二手先の真上です。平隅の尾垂木も一段上になっています。装飾で、通し肘木と平肘木に獅子の彫り物が入っています。尾垂木は、透かし金具で装飾されています。隅木受けは、欅で四神の籠彫り彫刻となっています。四方向にそれぞれの四神が彫刻されています。ちなみに同じ方向の高欄箱隅金具にも、同じ四神が透かし金具で製作されています。平屋根三段の屋台の、最大の特徴は、この二手先組拵えの桝組みにあります。
May 15, 2008
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三木合戦で羽柴秀吉に伽耶院全山が焼き討ちされた後、江戸時代の初め「開山堂」は佐々木高綱につながる丹後峰山城主、京極右近源高供の寄進により、明暦2年(1656年)に再建されました。内部の廟に法道仙人が祀られています。
May 15, 2008
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三木市が誇る国の重要文化財、伽耶院にある開山堂の桝組みです。江戸時代初期の建物でこの建物は十分ではありませんが、私はこの建物が好きなのです。屋台の桝組みとそっくりの二手先組拵えの桝組みです。しかも「横綱大鵬」の参拝札が見えます。大鵬もお参りしたのですね。なんとこのお堂の中には、三代将軍家光をはじめ五代の将軍の位牌が祀られています。このお堂は二重構造で、内部にも廟があり、こちらは極彩色の桝組みになっています。そうして、このお堂の内壁には、五体の飛天が描かれています。しかも、そのうち二体の背中には羽が生え、下半身は鳥の足になっています。江戸時代初期に、これだけの壁画はすごいですね!!!追加:今までこの桝組みを三手先としていましたが専門書物で調べると 二手先組拵えであることが判明しました。 お詫びして訂正します。(5月15日)
May 15, 2008
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本体から取り出した鳴り太鼓、鏡面2尺6寸、欅、黒和牛メスの皮を張っています。城戸製です。鏡面の真ん中の線は牛の背中の筋です。この太鼓は、胴のよく張った気持ちのいい姿をしています。正しい扱いをすることで100年でも200年でも持ちます。太鼓の音は、鏡面の大きさが物を言います。特に湿気を嫌いますので、押入れのような狭いところにしまいこまないで、むき出しで台に乗せるか、滑原町の場合は天井からホイストで吊るしています。布カバーをかけるのも問題で、胴の部分に新聞紙をかけるぐらいにしておきたいものです。滑原町では何もかけていません。和太鼓グループが大きな布袋に入れるのは移動用のためで、また頻繁に出し入れしますので、袋に入れた状態で保管しています。屋台用の鳴り太鼓は、出番が一年に一回です。一年の殆どは、蔵で保管している状態です。蔵の中で一番乾燥している場所は、中央の天井近くです。滑原町の場合は、中央は屋台がありますし、後ろは衣装の保管場所です。ということで、屋台の前、天井の梁にホイストを設置し、吊り上げて保管しています。
May 14, 2008
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本荘屋台の鳴り太鼓を、取り出しています。鏡面2尺6寸は明石から加古川にかけ最大の大きさです。屋台をココから20センチ以上傾けて鳴り太鼓を取り出します。ただ、新品ということで音色が甲高いのはやむを得ません。滑原町屋台でも平成13年の新調以来、近年やっといい音色になってきました。7年も8年もかかっています。それも練習のときから結構叩き込んでの話です。本荘屋台もこれから楽しみというか、10年くらいの雌伏期を楽しんでください。決して酒などをかけぬよう、お気を付けください。特に年配の方は伝統的に、太鼓の打ち始めは酒を口に含んで、清めの霧吹きをすることを生きがいにしておられることもありますが、これはまったくの間違いで、太鼓の寿命を縮める原因ですと「太鼓正」からも注意されています。酒の中の糖分が太鼓の皮を犯し、カビの元となります。そして酒により伸びた皮は元に戻りません。酒を吹いた後で、きれいにふき取ればいいではないかといわれる方もいますが、それなら最初からしないほうがましです。太鼓の高音が気になるのであれば、きれいな水をよく絞ったタオルで鏡面のごみやほこりを拭い取るように、万遍にふき取るだけで良いかと思います。また撥に布をかぶせるのも、太鼓の音をやわらかくさせます。滑原町では未だに撥にネルをかぶせています。一度お試しください。ただ、太鼓の皮の張替え資金が、潤沢にある場合はこの限りではありません。
May 14, 2008
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国恩祭についての詳細を加古川市宗佐町内会ブログより紹介します。【豆知識】国恩祭とは、旧賀古郡、旧印南郡で毎年行われる祭りで、各輪番の神社(合計22社)で行なわれます。■ 国恩祭の起源(天保4年)■ 天保2年から4年にかけ米の不作から大飢饉となり、 人々の生活は苦しく全国的に百姓一揆が多発しました。 また、東播磨地域においては「加古川筋大一揆」と呼ばれる 大きな百姓一揆が加古川流域で起り、多大な被害があったと記録されています。 その後、天保4年に賀古郡と印南郡の神職が集い、平和な地域に戻そうと国恩祭が始められました。 ■ 国恩祭 輪番 //年度//////旧印南郡//////////////////////////旧賀古郡/////////////////平成20年 宗佐厄神八幡神社(加古川市八幡町)阿閇神社(加古郡播磨町)平成21年 日岡神社(加古川市加古川町) 高砂神社(高砂市高砂町)平成22年 稲根神社(加古川市神野町) 泊 神社(加古川市加古川町)平成23年 生石神社(高砂市阿弥陀町) 尾上神社(加古川市尾上町)平成24年 湊 神社(姫路市的形町) 浜の宮天神社(加古川市尾上町)平成25年 曽根天満宮(高砂市曽根町) 荒井神社(高砂市荒井町)平成26年 志方八幡宮(加古川市志方町) 天満神社(加古郡稲美町)平成27年 大塩天満宮(姫路市大塩町) 崎宮神社(加古川市尾上町)平成28年 平之荘神社(加古川市平荘町) 御厨神社(明石市二見町)平成29年 神吉八幡神社(加古川市西神吉町) 粟津天満神社(加古川市加古川町)平成30年 上之庄神社(加古川市上荘町) 五社宮野口神社(加古川市野口町) ※宗佐厄神八幡神社、日岡神社、生石神社は旧加古郡地域だが、 便宜上、伊奈美(旧印南郡)入っている。
May 13, 2008
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阿閇神社国恩祭第二日之儀 もち撒きです。写真をクリックすると大きくなります。最初に、後ろ向きに大きなお餅が撒かれました。ちょっと意表を付かれ、拾うことが出来ませんでした。このもちまきは、毎年の秋祭りに行われているのでしょうか?今回の国恩祭のみでしょうか?4月の宗佐八幡神社国恩祭では、もち撒きはありませんでした。4月の八幡神社の国恩祭の時もお天気が心配だったのですが、八幡神社の宮司が「大丈夫です。ちゃんとお天気にします」といわれていました。そのとおり何とか雨は大丈夫でした。今回、阿閇神社の境内で、八幡神社の宮司とお会いし、宮司の言われるのには「やっぱり国恩祭は晴れたでしょ!!」と自信満々に申されました。私も「やっぱり晴れましたねえ!!」と感心していました。
May 13, 2008
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阿閇神社国恩祭芳名板です。団体と企業の特別寄付だけで、なんと1千万円以上です。個人の寄付総額は計算するのがコワイ!!ワタシ共にはなんともうらやましいお話で・・・ショボン・・・
May 12, 2008
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11日、阿閇神社国恩祭 第二日之儀 です。朝からよいお天気でしたが少し肌寒い天気となりました。神事に引き続き、稚児の参拝、記念写真の後、もち撒きがありました。もち撒きの写真を撮影しながらでも3個拾いました。きっとご利益があるでしょう。その後、本荘屋台の晴れ姿を撮影し、宮出となりましたが、乗り子がいないということで太鼓を叩かない移動となりました。蔵の前で屋台を解体し、蔵に納めました。
May 11, 2008
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