2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全76件 (76件中 1-50件目)
三原脩と水原茂は戦前は巨人で活躍した選手でした。 しかし、ともに戦争に行くことになってしまい三原脩は負傷して帰還、それが原因でプロ選手として活躍できなくなってしまいます。しかし、戦後プロ野球が復活した折、三原脩は巨人の監督になって優勝もしていました。 そんな時、かつてのチームメートの水原茂が送られていたシベリアから復員しグラウンドに戻ってきました。まず発した言葉は「ただいま帰ってまいりました」。上の写真はグラウンドに戻ってきた水原茂を三原脩が祝福しているところです。 この後、彼らは同じチームから敵チームとなり、様々な試合を演じることになります。
2006年10月31日
コメント(0)
大川博オーナーは、元読売ジャイアンツ監督であった水沢茂を東映フライヤーズの監督に招きました。(上の写真) 今の団塊の世代にとって「巨人の監督」といったらV9戦士を率いた川上監督が知られていますが、それ以上の世代にとっての巨人の監督といったら、この水沢監督でしょう。 プロ野球草創期に貢献した人物としてこの水沢茂は欠かせない存在ですが、もう1人、この水沢茂と死闘をくりひろげた人物がいました。ご存知の方もいるかと思いますが、それこそ三原脩ですね。 この水沢茂と三原脩はこのフライヤーズからファイターズの歴史にとっても重要な役割を果たしました。 また脱線してしまいすが、この2人の関係と歴史をちょっと見てみましょう。
2006年10月31日
コメント(0)
東急フライヤーズはリーグ分裂時、パシフィックリーグに加盟し、れっきとしてプロチームになりました。当時、チームは後楽園を本拠地としていましたが、後楽園を使うチームが多いことや、東急電車の利用度を上げようと、新球場を建設しました。 それが、現在の駒沢オリンピック公園であるところで、駒沢球場といいました。もともとここは戦前にドイツのベルリンオリンピックをまねてオリンピックをやろうとしたとき、会場にしようとしていたところです。 上の写真がその球場の貴重な写真ですが、ここを本拠地として、岩本監督の下、選手たちが集まり始め、その戦いぶりから「駒沢の暴れん坊」といわれたのは有名な話です。 この後、東急は球団経営を直接しなくなり、子会社の東映に球団経営を任せていきます。そして「東映フライヤーズ」という球団名に変更、当時、東映の経営を立て直すため東急から来ていた大川博がオーナーに就任します。 そしたら、この大川博が、オリオンズの永田雅一に負けるとおとらぬ大の野球好きでして、このオーナーにもとチームは名将である水原茂を監督に招いて黄金期へと向かいます。
2006年10月30日
コメント(0)
戦争が終わり、混乱している経済の中、大東急の経営も社員もかなり混乱していたようです。 そんな時、前述したプロ球団が再度開催されてセネターズも復活したのですが、経営不振にあえいでいました。そこで東急は肥大化した東急をまとめるねらいから、セネターズを買収し「東急フライヤーズ」としました。経営側も労働者側もが一体になって応援するチームがあれば労使交渉も順調に行なえ、経営もうまくいくというわけです。 これは当時の国鉄も同じで、労使交渉が激化していくのを緩和するため「国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)」を創設したのと同じ理由です。余談ですが、「スワローズ」とは当時の国鉄の新幹線にあたる「特急つばめ」からとったものです。「特急つばめ」がなくなってもチーム名で残っているわけです。 会社をまとめようとした東急でしたが、当時GHQにより「過渡経済集中力排除法」という法律が出来ました。これは戦前とまったく逆でライバル企業のない企業を分割できるようにして自由競争を出来るようにしたものです。 当時まだこの法律は東急には適用されていませんでしたが、東急は健全経営を取り戻すため、みずから京王線、小田急線、京急線を再度分社化し大東急は消滅。今の形に戻りました。そのとき分社化をどのようにするか必死で考えたのが東急の重役であった大川博です。 彼は前述の井の頭線を資本のバランスを取るため小田急傘下から京王傘下にしたり、今の鉄道網の原型を作り上げました。 となると大東急の東急フライヤーズはあまり存在意味がなくなってしまい一時期、大映の永田雅一と共同経営し「急映フライヤーズ」となるも再度東急フライヤーズとなります。 そんなわけでセネターズはなんとか東急フライヤーズとして野球チームらしくなってきました。
2006年10月30日
コメント(1)
大東急とは戦争の最中に東京西部を走る「小田急線」「京王線」「京急線」がすべて東急電車と合併し「東急京王線」「東急小田原線」といった具合に東急電車になってしまったことをいいます。 また鉄道だけではなくバスも傘下におさめてしまい、もはや一つの「東急帝国」状態ですが、その中で代わりダネを一つ。 当時、小田急の創業者である利光鶴松(政治家でもある)は、渋谷と吉祥寺を結ぶ「渋谷急行」という会社(現在の京王井の頭線)を買収し、小田急井の頭線になりました。母体の小田急が東急になるので、当然井の頭線も東急井の頭線になったのですが、彼をはじめ当時の東京郊外鉄道の社長らは「山手急行」という鉄道会社を設立して経営しようとしていました。 これは今の大井町から明大前、中野、板橋、千住、小松川、州崎と山手線を取り巻く形で予定され鉄道営業の認可も下りていました。しかし昭和恐慌のあおりを受け結局失敗し、殆ど手付かずのまま終わっています。 ただ、発起人であった利光の影響か、現在の井の頭線の明大前駅近くには新線のためのトンネルが今もわけもなく残っているのですが、これが唯一の遺構だそうです。上の写真の手前側が空き地で線路が敷けるようになっています。 幻の山手線、もし出来ていたら、東京に大きな「大大東急」が出現したでしょう。 話がそれてしまいましたが、戦後の東急を見てみたいと思います。
2006年10月30日
コメント(0)
五島慶太という人は、もともと鉄道省(後の運輸省)のキャリア官僚だったのですが、前述した鉄道事業を改善するべく役人を辞めて社長になりました。 ここで五島は阪急の小林がやっていることをはじめ様々なアイデアで経営を立て直していきます。そんな時、関東大震災が起こり、東京西部に移り住む人が増えたことが更に追い風になり、渋谷と横浜を結んでいた鉄道を買収し会社は東京急行と改称します。 更に阪急梅田の百貨店をまねて渋谷に東急百貨店をオープンし小売業界にも参入、次は地下鉄とばかりに渋谷から地下鉄で浅草まで伸ばそうとしてこれはさすがに失敗。(今の銀座線)、他にも三越を買収しようとしたとかやってる間についたあだ名が「強盗慶太」。 そんな東急は更に大きな会社に発展していきます。アメリカとの戦争が本格的になる前に「重要産業統制法」という法律が出来ていましたからです。 これは同業会社がいい意味で競って社会を発展させるという資本主義のメリットを戦争に集中するため一時的にストップしてしまおうという法律で、ナチスドイツや日本のような第二次大戦で暴れた国が行なった「国家社会主義」の典型的なパターンです。 これが私鉄にも別法にて適用され東急は同業私鉄をことごとく合併してしまいました。いわゆる「大東急」なんて呼ばれるものです。 ではそれが野球となんの関係があるのでしょうか?詳しく見ていきたいと思います。
2006年10月30日
コメント(0)
東急電鉄は明治~大正にかけての実業家である渋沢栄一の創った組織が起源です。 渋沢栄一とはご存知の方も多いと思いますが、幕末は尊攘派の志士として、明治以降は実業界の様々な分野で起業した人であります。 渋沢は当時アメリカの田園都市を東京にも作ろうと計画、多摩川岸に区画を設けて町を作りました。今の田園調布、出来たのは大正中期の頃です。当時、大阪では阪急の小林一三がすでに事業を行なっており、それを東京郊外でもやったというわけです。 ただ、当時は何もない農村だったため、都会に出る汽車が必要だというわけで、目黒から田園調布を通って蒲田に行く、いわゆる「目蒲線」を電車として建設しました。更に大井町から線路を多摩川沿いに走らせ、今の溝の口までつなげています。今の「大井町線」ですね。 しかし、今でこそ高級住宅地の田園調布ですが、認知されるのにはかなり時間がかかったようで、目蒲線の収益は大きな赤字であったようです。そこで、それを打開すべくある人物が送りこまれました。これが五島慶太という人で、今の東急のまさに創業社長であり総帥であった人です。
2006年10月29日
コメント(0)
戦争が終わると、早速戦争から帰ってきた選手たちを中心に野球チームが再び作られ始めました。当然セネターズも再興されましたが、大きな問題がありました。それはスポンサーがいなくなってしまったことです。 元スポンサーの有馬頼寧は戦争犯罪人として収監されてしまい、他の元華族などをスポンサーにつけるのですが、すぐ失敗、もうだめかと思ったとき救世主が現れました。これが「東京急行」現在の東急電鉄です。 現在、東京南西部を中心に線路を持つ関東の代表的な私鉄である東急はなぜ球団をここで持つことになったのでしょうか? それには当時の経済を反映した事情がありました。ではその事情とはなんだったのでしょうか? ちょっと話がそれてしまうのですが、そのことについて調べてみましょう。
2006年10月29日
コメント(0)
当時のセネターズを率いていた監督は苅田久徳という人でもともと巨人にいた選手でした。しかし、後にセネターズに移籍し、プレーイングマネージャーとして自身もプレーしていました。 苅田は当時の名二塁手で打つ方よりまもる方に定評がありました。日本野球のセカンドに求められる緻密さを持った選手は彼が初代だといわれています。 また、この選手は審判をド突いて日本プロ野球退場第一号の栄冠?に輝いてしまいました。セネターズに移籍後は古巣巨人の伝説のピッチャー沢村栄治との勝負もファンをわかせていたようです。 このようにせっかく始まったプロ野球でしたが、戦争のため、多くの選手が兵隊に取られ、セネターズも他球団と合併後消滅、プロ野球自体が中止になってしまいます。また多くの選手が戦争で亡くなって行きました。 今でもその選手たちの碑が東京ドームに建ててあります。
2006年10月29日
コメント(0)
セネターズは多くの在京球団が後楽園を本拠地としているなかで、今の西武沿線にある上井草に球場をおいていました。駅から歩いてすぐのところで今ではスポーツセンターになっています。 当時は今と違って東京の西側は殆ど農村だったため、この場所も駅から近いとはいえ、雑木林や畑にかこまれた中にポツンと球場があったようです。 後にセネターズの後進であるフライヤーズは後楽園球場を本拠地としますので、ここの球場を使っていたのはほんの数年になります。
2006年10月28日
コメント(0)
上の写真は戦前のプロ野球草創期のチケットの一部です。昭和10年代初頭に行なわれたリーグ戦が後楽園球場(スタジアム)で開催されました。 参加チームをみると「セネターズ」の文字もしっかりありますね。当時、プロリーグといっても参加できたのはこんなくらいでした。よくみると「イーグルス」なんてチームもあったんですね。勿論今の楽天イーグルスとは全く関係ありません。 ちなみに上の部分に開催日時が書いてあるのですが、これは10月になっています。まさに今の時期に開催されていたのですね。
2006年10月28日
コメント(1)
当時、近衛首相のまわりを固めていたいわゆる「近衛ブレーン」は「昭和研究会」というのを建てていました。その1人が上の有馬頼寧(ありまよりやす)という人です。 彼は久留米藩のお殿様である有馬家の子孫でもちろん華族であり高等教育を受けて育ちました。しかし、近衛首相と同様に社会の下部構造に目を向け、部落解放運動や女性解放運動などを応援してきた経緯があり、かなり斬新な意見の持ち主でした。 そんな彼の一般庶民に向けた目が、当時庶民の間にやっと流行りはじめた「職業野球、いわゆるプロ野球」に向いていたのはいうまでもありません。ちょうど近衛首相が誕生する前、日本でも職業野球が始まり、早速有馬頼寧は球団を立ち上げました。その名は「セネターズ」。 セネターズは上院議員、当時の日本では「貴族院」をさす言葉を冠したチームです。これが一度合併、消滅してそのときの人々により再度作り直したのが今の日本ハムの前身の球団へとなっていきました。 他の企業のスポンサーがあったものの、若い貴族の理想から生まれた半ば「個人経営球団」のようなものだったのです。彼はセネターズを創った功績をたたえられ「野球殿堂」入りしています。 ちなみにこの有馬頼寧、野球よりもっと有名なのが「競馬」、庶民に向いた目は競馬にも向けられ今の日本中央競馬会の理事を務めて競馬を普及させていまして、年末の風物詩ともなっている「有馬記念」というG1の名前は彼からついたものです。
2006年10月27日
コメント(0)
日本ハムファイターズはどう成立したのか?これにはある程度長い歴史を話さねばなりません。 話は今から70年ほどさかのぼります。 昭和13年、日本はどうしようもない不景気で国家的な大ピンチでした。それを打開するために戦争主義がはびこり始め多くの国民が不安に感じているころです。まさに国家の一大事。 当然、政治家になんとかしてもらおうと、天皇をはじめ多くの国民から人気があった人が首相になりました。これが上の近衛文麿(このえふみまろ)さんです。当時45歳。安倍首相と殆ど変わりません。 彼は藤原氏の子孫で特権階級である華族でした。ただ、それにアグラをかくのでなく社会主義や民衆運動にも関心がある人で、色々な思想の人から受け入れられたのです。 ただ、人気があるとはいえまだ45歳、当然まだ若く経験は少ない。そこで彼の多くの友人が協力したのです。そんな中に今の日本ハムファイターズ生みの親ともいうべき人がいました。
2006年10月27日
コメント(0)
これからはなさせていただくことは、色々な資料をあつめ私が書かせていただいたものです。至らない面もあるかと思いますが、ご了承お願いいたします。
2006年10月27日
コメント(0)
今日でプロ野球の公式戦が終了しました。最後の最後まですばらしい試合をみせてくれましたね。日本ハムの日本一でしたね。 そこで、プロ野球史第2段「奄太郎が語るプロ野球史」として「北海道日本ハムファイターズの歴史」を連載させていただきます。 「44年ぶりの日本一」だそうですが、では44年前はどんな日本一だったの?などプロ野球ファンの方に見ていただきたく思います。勿論野球に興味の無い方もご覧いただければと思います。 最近日本ハムファンになった人はおそらく多いことでしょう。そんな方、これを見ればあなたもファイターズ通になれる(かも)。 ちなみに歴史を語らせていただくのに「週間ベースボール」や「プロ野球カード」などを掲載させていただきますので、ご了承願います。
2006年10月26日
コメント(0)
おから・・・・それはおそらく日本独自の味。好きなひともいれば嫌いな人もいるでしょう。ただ最近はダイエットとか健康志向で食べる人も多いのではないでしょうか? 実は私が日光に行くといつも通っているそば屋のおばあちゃんが奥日光産のおからを大量に送ってくれました。最初は普通に食べていたのですが、さすがに食べ飽きてきて近所に配ってもまだ余る・・・・ そこで考え付いたのが「おからカツ」です。メンチカツのなかがおからなだけ。でもこれはカロリーも控えられて美味しい。お肉を控えている方、ダイエットしている方、こう食べると満腹感がありますよ。オススメします。
2006年10月26日
コメント(1)
さきほどから眺めていた景色を下から見るとこんな感じになります。上の書院がお茶飲んだところです。かなり高いところにあるのがわかると思います。 下の池はまさに「借景」として庭園の背景に取り入れられていて大変美しく見えるのです。このような借景庭園は、日本ではよく使われる技法でおそらく欧米の庭園ではない考え方だと思います。 さきほど出てきた外人さんもこの池の景色を上から眺めて借景の説明を受けていました。 奈良の盆地にある小さなお寺ですが、歴史と芸術の凝縮した世界を見ることが出来ました.
2006年10月26日
コメント(0)
お茶を飲んで一服していると、やはり気になるのは美しい庭でした。さっそく縁側へ出ると綺麗に刈り込んだ青青とした緑が大変美しい!! しかも庭に下りることもできます。枯山水庭園になっていながらそうでない所もあるんでそこを歩いていきます。ただ、日本庭園ではあるのですが池や水は手水鉢以外はありません。それには理由があるのです。 ここは高台にあり、この庭園の真下には池があります。その池が「借景」となって池の替わりになっているという大変大掛かりな庭園なのです。ただ今ではここからその池を眺めると池の周りが車が走っていて風情がなくなっていますが、かつてはのどかな田園だったようですからちょっともったいない気がします。 庭園を軽く散策してまた元に戻ってみました。
2006年10月26日
コメント(0)
縁側に出て、庭園を眺めながらしばらく佇んでいると、お寺の人が抹茶に菓子を出していただきました。 なかなか普段このようなお茶を飲む機会が少ないだけあって、このような場所で飲んでみるとお茶の心得がなくとも美味しく感じます。 このお菓子は片桐石州の家紋をモデルにしたもの。 いやはや、仕事や人間関係に追われて生きる現世のあわただしさはなんなんだろう?と思えるひと時です。
2006年10月25日
コメント(2)
まず、お寺に入ると本堂があり、その右側がこのお寺の醍醐味である書院と茶室があります。茶室は上の写真の左奥のほう二畳台目のものがありました。 まず、心を奪われるのがこの空間の美しさと、奥に広がる枯山水庭園と借景。私の写真の取り方が下手でうまくお伝えでくなく申し訳ありませんが、ここから見る景色はまるで絵画のゆでした。 こんなところを着物着てる女性にあるかれたら・・・・「う~ん美しい!全て絵になります!」なんて考えていたらビックリしたことが起こりました。 羽織袴姿の外国人がお寺の人に説明を受けながら歩いているのです!!! 女性に限らず、男性も、外国の方の着物姿も美しい!!
2006年10月24日
コメント(1)
ここのお寺の門を入るとまず綺麗に整理された垣根の道を通って、さらにカギ形に曲がる道を進んでいきます。 すると門が見えてきてその奥に本堂、茶室、書院の建物が並んでいます。私が参拝したときには平日だったので、お客は私だけでした。この静けさ、いいですね。 私も茶道はよくわからないのですが、門を入った段階からもう茶の湯の道は始まってるそうなので、そう考えるとこの道も計算されたものなんでしょうね。
2006年10月24日
コメント(0)
茶の湯をご存知の方ならば、おそらく多くの方がご存知だと思いますが、「石州流」というのがあります。 これは江戸時代の大名であった片桐貞昌という人によって始められ、現在まで伝わる流派ですが、この茶の湯の発祥の地といわれているのが奈良にある「慈光院」というお寺です。定昌のご先祖はかつての堺の茶人今井宗久であり、その影響もあったのでしょう。 ここは貞昌がお父さんの菩提を弔うために建立したお寺ですが、ある意味お寺全体が茶室みたいな感じがします。このような建造物はとても有名らしく重要文化財になっております。 当然茶室なので美しい庭園もありまさに日本の美を凝縮した感じ。静寂した時間を過ごすことができます。 早速そのそれらを見てみましょう!!
2006年10月24日
コメント(0)
今日の朝はホントに寒かったですね。私も出社の折、上にはおっていきました。私の苦手な冬・・・・ついに来てしまった・・・・ 「冬は食べ物が美味しいし、スキーやスノボが出来る!!」と喜んでいる友人もいますが、スキーもスノボもできない私にとって、食べ物は美味しくなくていいから暖かくなったままでいてほしいです!!まぁどうあがいても無理な理想ですが、とりあえず本音をいわせていただきました。
2006年10月23日
コメント(0)
今日は朝起きたら異様に寒いですね。ついにこの時期がきたんだなという感じがします。冬の食べ物がこれから美味しい時期になりましたね。 寒い時期の食べ物といえば私はこのビーフシチュー!肉じゃがの元祖となったというビーフシチューは本当に温まります。 今年は何度だべるのだろうか・・・・・
2006年10月23日
コメント(0)
今日は昨日の反省をして日本シリーズをテレビ観戦しています。今まだ途中ですが、しっかしいい試合しますね。昨日もいい試合だったようで。 この時期にこんないい試合を見れるのは本当にありがたいことです。闘っている選手は勿論ですが、それを支えている球団の方、球場の方、盛り上げているファン、売り子のバイトの方までたくさんの方にお礼を言いたい気分で観戦しています。 それになんといっても野球そのものに感謝したいですね。
2006年10月22日
コメント(0)
最近テレビのチャンネルをひねっていると、奈良で起こった妊婦の方が病院をたらいまわしにされ亡くなったことが大きく取り上げられています。 マスコミ報道がどこまで詳しいかは解りませんが、私はこのような現象はもっと大きく他のところでも(とりわけ地方において)起こってくると思います。前政権において行なわれた「純資本主義化」の波がだんだん大きくなれば、地方の経済状態、人が少ない場所の経済状態は著しく悪くなるでしょう。夕張市のように破産してしまうところもあるでしょうね。 たとえば、今の経済状態を有効求人倍率で見た場合、都道府県で2倍のことろもあれば1倍ないところもあります。高いところは殆ど都市部が独占しております。まだ日本が発展途上国だったときの「都市の人間の生活水準が高く地方の生活水準は低い」という社会になりつつある。地域で格差はあったにしてもそれがだんだん広がってきているのは明白です。 このような状況を創ったのは政治家でも医者でもありません。そのような政権を熱狂的に歓迎した多くの国民が原因であると思います。「そうしてくれ」といった国民がこのような社会を望んだのです。
2006年10月22日
コメント(0)
ここの建物、前述のように全く違う建物がドッキングしたものですが、不思議なことに外観は全く普通で凹凸などありません。ここが設計の妙といえます。 また家の梁は家の両側(約30メートルはある)まで一本の木で支えられています。外観はこんな感じですがこの前にはちっちゃな枯山水の庭園がありのんびりした一角となっています。 ホームページはこちら
2006年10月22日
コメント(0)
この建物は面白い造りになっていて、農家と人を迎える応接間が別々に一つの家の中にあるということです。 ちょっと解りにくいのですが、上の写真をご覧ください。写真を撮っている場所が「応接間」で床の間があり天井が高く、ガラス障子で囲まれてお客さん用の玄関まで独立してあります。 ふすまの奥が生活空間で農家の造りになっています。だからご飯食べたり寝たりするのはこの部分、天井も農家なので低くしてあり屋根裏部屋があります。 更にその奥にはお風呂場とか台所とかの水周りになっています。 これらが全て一つにまとまって設計されているのは非常に貴重だそうです。 陰に隠れた文化財、説明をしてくれた係りの人はここが「美しいきもの」の撮影に使われたことを得意げに話していました。普段着の和装を引っ掛けていってみたいところですね。
2006年10月22日
コメント(1)
先日掲載しました「きものの似合いそうな穴場の日本家屋、いくつかのお問い合わせをいただきましたので、ここにご紹介いたします。 ここは東京墨田区にある「立花大正民家園」大正七年に小山さんという人の住居として、なんと平成まで使われていました。ゴミゴミした下町にいきなり門構えが見えてきます。この奥に家があります。 ただ、あまり改築せず、当時の戦災を逃れているのは奇跡的で(墨田区は火の海でここの近くに住んでいた私の祖母も逃げ回って大変だったそうです)今では保存家屋になっています。 次回ブログではここの住居の面白い特徴をお伝えいたします。
2006年10月22日
コメント(0)
今日は、日本シリーズとおいうこともあり、仕事をちと早めに切り上げ、つまみと飲み物を用意してテレビの前でスタンバイ!!いや~一番楽しみのとき!!! と思ったら寝てしまって・・・・起きたら、「世界不思議発見!!」をやっていました。しっかり終わったようですね・・・・
2006年10月21日
コメント(0)
上の写真、いかにも古都という奈良、京都の寺院にありがちな堂宇のように思いがちですが、とんでもない代物だったりします。 現在唐招提寺は金堂(本尊を安置するところ)工事しておりまして、全容を見ることはできないのですが、その後にある講堂は見ることが出来ます。 講堂とはお坊さんが勉強するところ、いわば教室の建物なのですが、この講堂はお寺が出来たときに造られたのでなく、そのもっと前、平城宮という今で言う皇居と役所があったところの「朝堂院」にあった建物を転用したものです。すなわち千年以上前の皇居の建物を移築したものが残っているのです。ただ、鎌倉時代に大きく改修しているので、屋根の形や細かいところも変わってしまっていますが、大きさは当時のまま、そんな木造建築を残していることろは本当に驚くべきことです。 石造より木造建築はもろいものですが、日本は昔から木造の建物ばかり造り、それは地震には強いのですが、火事なんかでなくなりことがあたかも「前提」ように造ってきたのに形を変えながらよくここまで千年以上前の「宮殿の木造建築」が残ったものです。 日本だけでなく、まさに世界的な宝。もちろん世界遺産に登録されています。
2006年10月21日
コメント(0)
鑑真和上、それは必ず歴史の教科書に出てくるお坊さんですね。 奈良時代、日本はまさに仏教全盛時代で、仏教を国家が手厚く保護していました。そこで、お坊さんに税金を免除していたのです。となると何時の時代の人間も考えることは一緒、税金を払いたくないがためにお坊さんになる人が続出してしまいました。 そこで、朝廷ではちゃんと国家試験をして合格した人だけお坊さんにしようとしたのですが、美味く試験が出来る人がいない。そこで中国の炒飯で有名な揚州からこの鑑真さんをお招きしたのです。 鑑真も日本に行くことを望み何度も実行するのですが、ことごとく失敗し時にはベトナムに近い海南島までいってしまったこともありました。 やっと日本に来た鑑真はすでに失明していたのですが、国家をあげて歓迎し今でも奈良に残る唐招提寺を設立、戒壇というのを設けてお坊さん試験を実行していくのです。 この鑑真のためにつくった唐招提寺は今でも歴史の宝庫!次回ちょっとお伝えしようと思っています。ぜひご覧を!!
2006年10月21日
コメント(0)
きもの流通新聞WEBサイトより全国1700店の呉服小売店で組織している日本きもの連盟が16日、記者発表。 「最近の一部弁護士による消費者保護、弱者救済の名のもとになされる弁護士活動について、一部小売業者が行っているとされる行為が、呉服小売全体にも準じるかのようなマスコミへの発信の下になされている」。 「これは日本きもの連盟ならびに会員にとって、呉服小売に対する中傷、営業妨害をも感じさせる迷惑千万な行為であり、早急に是正されることを要望する」とし、あわせてマスコミ各社へも部分報道の是正と公平公正な報道を要望した。 同時に、今回策定した「日本きもの連盟の行動規範」を発表し、これを会員に周知徹底することでマスコミで報道されるような社会の公正に反する事がないよう自らも襟を正す、とした。--------------------------------------最大手量販店の倒産から1ヵ月余り。余波が徐々に広がっている様子。展示会での過量販売が取り沙汰された影響が大とか何とか。。。京都の下請けさんらは納品完全ストップが続いているようで、益々厳しい状況が続くかもしれない。 私が応援していてかつリンクを貼っていただいている奄伽樂の岸田社長のブログをそのまま転載させていただきました。 情報はマスコミに動かされるのでなく、自分で選んで自分で確認して自分で決断して動かしていくべきです。いい呉服屋さんはたくさんあります。ご購入の際にはご自分の判断でしっかり選びましょう。
2006年10月20日
コメント(0)
神田神保町といえば喫茶店、その喫茶店でも「さぼうる」はかなり有名ですね。駅前にありながら独特の風貌、赤電話、時間が止まっています。 今回は久しぶりに寄ってナポリタンを食べてみました。いつもは混んでいることがおおいので他のところへいくのですが、もう2時を回っていたのですんなり例のナポリタンにありつけました。 しかし何時見てもこのボリュームには驚きますね。ほとんど「山」になっております。これで650円、学際の町ならではです・・・・でも値段だけでなく本当に美味しいんですね。服部先生もなんかでこのナポリタンを出していました。 私はもちろん完食し、腹いっぱいになり店を後にしました。
2006年10月20日
コメント(2)
東京にある水道橋駅はかつて本当に「水道橋」という橋があったことをご存知な方は多いのではないでしょうか? 上の写真はその模型です。実際のものはとっくになくなっています。水道橋は今の水道橋駅よりずっと御茶ノ水側にありました。 はるか彼方の玉川上水から飲み水を引いて、江戸城の外堀も兼ねているこの神田川を渡り、江戸の町に上水道の木で作ったパイプで水を送っていました。水は長屋の共通井戸の下で溜まるように出来ていて、そこに溜まった水を井戸であげて使っていたのですね。 江戸の町屋のある今の銀座や日本橋は全く井戸が出ず(埋立地だから当然)井戸を掘ると塩水しかでなかったので、こんな大掛かりに水をもってきたのですね。 今でも当時の上水道の木製の「とい」が東京からはよく出てきます。先人はえらい苦労して造ったんでしょうね。
2006年10月19日
コメント(0)
私は古書めぐりが好きで、今日も神保町を徘徊させていただいたのですが、いつも思うことがあります。 ○古書めぐりは宝探しである。 この本はいい!!と購入してみると、他店で安く売っていることがあります。逆に高く売っていることも・・・・前者は損した気分、後者は得した気分。これはいつも感じることですが、古書だけあってしかたないですね・・・・・
2006年10月19日
コメント(0)
前に浄瑠璃寺の極楽浄土のことに触れさせていただきましたが、その近くにもう一つ!極楽がありました。これが、円成寺というお寺の庭園です。 ここも山の中にありあまり人がいなく静寂としています。ここのお堂の前に広がる庭園はいったんは埋められていたのですが発掘調査をして蘇ったものです。 まん中に島をおいて、池には極楽の象徴ともいうべきハスの花・・・・・あるいみ前述した浄瑠璃寺より美しいと思いました。京都の平安期の貴族の庭園の影響もある大変美しくかつ歴史学的にも重要な庭園です。
2006年10月19日
コメント(0)
来期からオリックス監督に就任するテリー・コリンズ氏が日本にやってきました。今日、テレビを通してですが、初めて拝見しました。 私の好きなオリックス、来期はどんな試合を見せてくれるのでしょうか?「魅せてほしい」ものです。
2006年10月19日
コメント(0)
着物で行きたいところって色々ありますよね。そのなかでオススメなのはここ。東京都の下町にある大正7年に建てられた建物です。今回はそこに行ってみました。 関東大震災や戦災をくぐりぬけてきた建物は、和風の文化を所狭しと感じることができます。実際、ここで「美しいきもの」の撮影が行なわれているので、その筋ではかなり有名なようです。 一枚の写真ではお伝えできないのですが、「ずっといたい」そんな場所でした。
2006年10月18日
コメント(3)
大阪の梅田でたこ焼きを食べたのですが、やはり大阪のたこ焼きは美味しかったです。色々なトッピングが楽しめるのですが、ここでもやはり大好物の「九条ネギ」のたっぷり乗った「ねぎマヨ」、これで決まりでしょう。 未だにこのたこ焼きを食べたいと思っていますので東京でも食べられると思いますので、先のうどんと並んで「九条ネギ」行脚でもしようかと思っています。
2006年10月18日
コメント(2)
今日、帰宅し読売新聞を読んでいると、今問題になぅている高額の訪問販売が三面ででかでかと取り上げられていました。そこには「主婦が着物2700万」」の文字が・・・・ 認知症の老人に布団を何枚も売ったり、倒産した「たけうち」を中心に必要ない呉服を買わされたり、悪徳リフォーム会社に入り込まれたり・・・・・ しかしひどいもんですね。このような悪徳会社はもちろんですが、記事では簡単にクレジットを組んでしまう信販会社にも問題があることを指摘していました。 ちなみに「たけうち」の社長や役員はどこへいったのでしょうか?言葉は悪いけれど同業で仕事をいただいている身だけあって、消費者の皆さんや職人のみなさんの前に引きずりだしてやりたい気分です。
2006年10月17日
コメント(0)
この試合は、ビジターの読売巨人にとっては今シーズン最終戦でした。ヤクルトもですが、不本意な成績で終わった両チームの消化試合です。 私はジャイアンツ戦は混んでいることが多いので、自腹で観戦したことは殆どありません。必ず友人に無理やり連れて行かされるだけです。今回は時間があったから行っただけ、だから生でジャイアンツを観戦するのは10年以上ぶりでした。 ただ、最近「ジャイアンツの人気が低迷している」ということは聞いていましたので少しは空いているかな?ただ日曜日の最終戦だからちょっとは人が入るかな?と色々思っていたのですが、ご覧のとうり、ジャイアンツのスタンドは外野はある程度入っているのですが、内野は燦々たる状態です。ここはビジターとはいえ東京です。こんな人気が「がた落ち」したジャイアンツを始めてみました。知らない選手もいました。 これを見ると、私の球友であり多くの影響を与えていただいたトータルエージェントの高木さんの持論である「長嶋さんのような過去のヒーローに頼りすぎている、新しいヒーローを造らなくてはいけない」というのを思い出します。今の若い子供や私も含めて長嶋さんの現役なんか見たことがありません、「長嶋さんほどのスーパースターはいない」ではその時代を知るオッサンたちはいいでしょうが、これから未来を創る子供たちはどうするんでしょうか? 今年、成績の芳しくなかったヤクルトは試合前から監督をはじめ、選手もフェンスの下を空けてファンサービスしていました。 結局、この試合もジャイアンツが負けたのですが、スタンドに向かって帽子を取って挨拶したのは今年FAするという小久保選手だけ。ビジターとはいえ最終戦まで来てくれるファンにせめて一礼でもしてほしかったですね。 球場でたまたま新聞を読んでいたら、今年調子の悪かった千葉ロッテの渡辺投手が、地元の人やファンと一緒にゴミ拾いをしていました。最近パリーグの人気が出てきたのは、選手の頑張りも勿論ですが、このような小さなファンサービスをやってきたところにあります。子供にとって「渡辺投手とゴミ拾いした」というのも大きな思い出なんです。 いつまでも「野球は巨人」ではありません、ジャイアンツはゼロからはじめるつもりで、OBの人達も少し黙ってみていて、ヒーローのいる新しい球団に生まれ変わってほしいものです。素質のある選手はいるんですから。
2006年10月17日
コメント(0)
たくさんのコメント、ありがとうございます。返信必ずさせていただきますのでよろしくおねがいいたします。 ところで、先日、私にって今季最終戦になるヤクルト対巨人戦を神宮球場へ見に行きました。たまたま休みがいただけたので、少々寒かったのですが、体調を管理し、楽しんで観戦いたしました。 そこで驚くべきところをみてしまいます・・・・・
2006年10月17日
コメント(0)
今日は仕事が休みでのんびりテレビを見る機会があったのですが、九州で起こった中学生の自殺が再三流されています。 真相はもちろんマスコミを介してなのでなんともいえないのですが、教師の言葉にも問題があったということです。 これは多かれ少なかれ多くの人が子供の頃の教師の言葉にズシッときたことがあるのではないでしょうか?私も経験があります。 私が小学生の頃でした、画を描くのが結構好きでよく描いていました。すでに野球が大好きで野球をしている人を描いたり、粘土で後楽園球場を造ったりしました。 それを見た美術教師はみんなの前で私の作品を見せ「こんな野球の画はくだらない」といわれました。それ以来野球関係のものを全く造らなくなりました。子供心にショックだったのでしょう。 相手は当時50代後半の女教師で「クラハシ」という名前でした。おそらく教師はもうしてうないだろうし、すでに死んでいるかもしれませんが、もし生きていたらそんなことをいったことも忘れているでしょう。しかし、いわれた私は今だにしっかり覚えています。 学校の先生はとっても大変な仕事だと思います。なぜならその言葉や言動が人の人生を変えてしまうから。 もうこのような事件が起こらないことを願います。
2006年10月16日
コメント(4)
私は前述しましたように、塩分の濃いものはあまり好きでないので、東京でもそば、うどんは食べるのですが、やはり関西に来ての最高の楽しみはダシの効いた、薄い汁のそばやうどんを食べることです。しかもトッピングのネギは私の大好物の九条ネギなのがたまらないです! 上の写真は奈良県の高田市というところで食べたうどんですが、やはり安くてうまい!!関西は駅のそばやうどんでも美味しいです。お陰さまで旅行に行くと1日2回しか食事しないのですが、かならず1回はそばかうどんを食べていました。 私の関西の友人が東京に来てビックリしていたのが「真っ黒なお汁のそば」といっていたのを思い出します。
2006年10月16日
コメント(0)
お寺の入り口を通って150メートルほど歩くと境内に入りいきなりそこには「極楽浄土」が広がります。 ここは中心に池があり、向かい合って三重の塔と阿弥陀堂が向かい合っています。上の写真は阿弥陀堂側かわ三重塔を見た風景です。 池の造り、静寂さ、そして1000年弱当時のまま残っている三重塔や阿弥陀堂など、平安人が造ったまさにこの世の極楽、生きたまま極楽へいけてしまうという、たまらなく美しいです。 これから紅葉の時期になればまた美しいでしょうね。たまには都会を忘れ、着物でも着て極楽へ行くのもいいものですよ。
2006年10月16日
コメント(0)
平安時代の終わりになると末法思想の影響で極楽浄土を表す「浄土庭園」が出来るようになったのはこのブログでも取り上げてみました。 有名な浄土庭園といえば、平泉の毛通寺や京都宇治の平等院なんかですが、奈良の山奥にもとっても有名な浄土庭園があります。それが、今回ご紹介しようと思う「浄瑠璃寺」というお寺です。 ここのすごいところは、えらい山奥という立地からか、平安時代の庭は勿論、建物まで当時のまま残されていることです。勿論境内は「国史跡」であり、建物は「国宝」です。 上の写真は入り口の門ですが、平日なら人も少なく、また「境内では静かにしてください」と書かれているため、大変な静寂が味わえます。 この門の更に奥にある極楽浄土へいってみましょう。歴史好きは勿論、着物好きも必見です。
2006年10月15日
コメント(0)
ここ数日でドストエフスキーの代表作「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」を読んでいました。500~600ページを気がついたら5冊も読んでいたくらい、確かにドストエフスキーのものは面白いんですね。次がどんどん知りたくなってしまう。やっぱり文豪ですね。 他にも彼の作品を読みたいものですが、ちょっと休憩してチェーホフを読む予定です。 ズバリ「ロシア漬け・・・・」
2006年10月15日
コメント(0)
上のなんでもない、ちっちゃなつぶれた山を見て一首、 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山・・・・ ご存知な方も多い詩ではないでしょうか。百人一首に出てきますね。実は写真のつぶれたような山というか岡というか・・・これがまさに「香具山」です。 「天の香具山」は今から1300年以上前、持統天皇という女性天皇が詠んだもので、彼女は旦那さんの跡を継いで天皇をやっていました。 その旦那さん(天武天皇という)が造っていた宮殿の北にもっと大きな宮殿と町(すなわち都)を造ろうと、このちょうど写真を撮っている当たりに「藤原京」を造営しました。 ですから、このドコにでもある見事な田園風景地帯は、1300年以上前は思いっきり日本の中心の「町」があって人がたくさん住んでいました。 今では想像するのがちょっと、難しいですね。 でもこの詩、春から夏にかけてのこの(個人的に)ワクワクする季節を代表する詩で、私は好きです!
2006年10月14日
コメント(1)
昨日の日本ハムの優勝シーン、今から25年前の優勝シーンはこんなでしたね。胴上げされているのはご存知、今では球界のご意見番こと大沢啓二監督ですね。 当時、私はまだ小学生でしたが、パリーグ人気が関西より低いといわれる関東での優勝で、周りの子供たちには日ハムファンが多くいました。「ファイターズ友の会」なんかに入っていたり、この帽子をかぶったりしてましたね。 私の家は当時の本拠地後楽園球場から30分ほどの距離なので、日ハムの試合は「気が向いたらいつでも見に行ける試合」でした。 当日友人と学校で「野球観たいね」という話になり、家が学校のすぐ隣の友人が家に帰って新聞で試合があるか確認、そのまま後楽園に行って日ハムの試合を見るという感覚です。平日はぜんぜん観客がいなかったですね~。 今では、またこれから、札幌やその近郊の子供たちに「野球が身近なもの」という感覚が広がればいいですね。あの頃は楽しかったなぁ~。
2006年10月14日
コメント(0)
全76件 (76件中 1-50件目)