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この度、奄太郎ブログで始めてかもしれませんが「予告連載」を行いたく思っております。 その題名は「ラストエンペラーの生涯」ご存知 愛新覚羅溥儀の一生を写真とともに振り返ってみたいと思います。 溥儀にまつわる「食」などについても触れようと思っております。 ただいま、資料を集めていますが、早ければ明後日から始められるかもしれません。 ただいまこじれている日中問題を考える上でも知っとくべく時代でしょう。彼の一生をぜひご覧ください。 乞う、ご期待を!!!!!!!!!
2006年01月31日
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上 両国橋詰の水茶屋と矢場 江戸での喫茶店は「茶屋」といいました。しかし、江戸は単身赴任者を含めて男が圧倒的に多い都市ですので、当然目は綺麗な女性へと向かいます。 そこで「水茶屋」というのがあらわれます。ここはウェイトレスさんに重点が置かれた茶店です。店を綺麗にして看板娘を置くと男連中が集まってきます。 当時の笑える唄「大たわけ茶見世で腹を悪くする」おなか壊すほど茶を飲んでしまうんですね。 これって今流行の「メイド喫茶」と近いものなのでは??? 商売っていつの時代もかわらないものですね~ ちなみに「矢場」とは今で言うダートするところでパチンコ屋のような遊戯施設で茶店とならぶ江戸の風物詩です。 ただこちらはそこの「矢取女」という人が陰で春を売るところなので茶屋とは違いますね。このことは改めて触れましょう! いつもの事ながら皆様からのコメント返信が遅れております(涙)心温かい皆様へのご返信など、必ずお伺いいたします!!
2006年01月31日
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上 江戸時代の両国橋(模型) この間、相撲の初場所が開かれた両国国技館のある「両国」はかつて江戸のなかでもとりわけ賑やかな繁華街でした。 当時、隅田川は「大川」とよばれ「武蔵国」と「下総国」の今でいう「県の境目」でした。 最初のころは江戸の防衛上、橋がなかったのですが明暦の大火という大火事で逃げ場がなくなった人が今の浅草橋あたりで大量に焼死してしまった事故を踏まえて幕府は両国にまたがる橋を架けてのです。これが「両国橋」。 つまり両国の地名は橋の名前からきているのです。 後、江戸時代も中期から後期にかけて、江戸は大消費地になりますが、その中でも特に栄えていたのがこの両国橋詰、つまり橋の両側ですね。 そこには今でいう「喫茶店」が軒を連ね、多くの行商人が商いをしました。 次回ブログでは「江戸の喫茶店」をみてみましょう。
2006年01月30日
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たまたま買った今日のスポニチをみてびっくりした。 NCB英会話教習所が突然閉校したそうだ。生徒の方々もびっくりらしい。 ここの会社は確か紀伊国屋とか三省堂のようなおおきな書店で必ずエスカレーターのところで綺麗なお姉いさんが必死に勧誘してたとこですよね。ご存知な方も多いのではないでしょうか? 私は歴史書を探しによく大手書店へいくのでしょっちゅう声をかけられていました。 あるとき勧誘場所の近くで立ち読みしていると勧誘している女の人があまりにしつこいので「黙れ!」と一喝したことがありました。女性に声を荒げることはまづないのですがあの時はさすがに腹が立ちましたね。 だって人が立ち読みしている本の間にチラシいれようとしてくるんですから。 企業理念がまったくなかったのではないでしょうか? でも、なぜ多くの方が英語を習いたがるんでしょうかね?仕事で必要ならわかるんですが、国際語だから?そんなに英語圏の文化が好きなんですかね? 私は中国語を勉強していますが仕事に関係なくただ「中国が好き」というだけで学んでいます。「好き」だから勉強するのです。英国も米国も私は興味がなかったから勉強あまりしなかったですね。お陰で大学受験で痛い目を見ました!! ヨン様が「好き」だから韓国語を学ぶ方と同じことですね。 なんで一部の人がやみくもに目標もなく「英語」を話したがるのか私には理解できません。
2006年01月29日
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上 焼塩壺 日本の食事で欠かせない調味料といえば味噌、醤油、そして塩ですね。日本では塩は岩塩を使わない精製された塩ですね。 その塩がとりわけ普及したのが戦国期から江戸時代にかけてでした。もちろん料理そのものを塩味にしたのがあったでしょうが、ほとんどが自分で塩を降って味付けするものでした。 上の壺は大阪の堺から発見された当時の「食卓用塩壺」です。いまの醤油みたいに食卓に塩の壺があり自分で食事にかけてたべていました。 大きさは一合あるかないかのとっても小さいもので、まさに「醤油入れ」や「味の素」と同じですね。 この壺が食卓にあって食事をしている当時の人々の風景が頭に浮かんできます。
2006年01月29日
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ドイツ連邦共和国国旗 唐突ながら皆様にご報告申し上げます。私のブログを愛読していただいているTomochanさんが主催する「Tomochan倶楽部」に私のブログも入れていただけることになりました。 氏はドイツの南西のデユッセルドルフという都市にご在住で、ドイツの食、文化などを美しい画で時差を超えて紹介されています。 また氏のもとには国境を超え、たくさんのすばらしい方々が集まっております。 今後、「着物の美」「日本文化の美」とならび「欧州の美」をTomochanさんとお互いコラボさせていただく所存です。 西ヨーロッパはかつての大生産時代も終わり、「いい品物をしっかり作る」ようになり、これは日本の大島紬や着物職人の心と一致するものです。 また着物の美しさは意外と欧州の美とあうんですよ! 私のブログを愛読していただいている皆様、ぜひTomochanさんのブログにもぜひご来遊ください。「あまから」及び「あまからグループ」同様にお願いいたします。
2006年01月28日
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上 中大兄、鎌足の出会い 中臣鎌足は後の平安貴族藤原氏のご先祖ですが、今日はそのいきさつについて。 飛鳥時代、鎌足は当時権力を実際ににぎっていた蘇我氏に不満をいだいていました。ただ彼にはそれを変えるコネクションがなかったのです。 蘇我氏に不満をもっていた人は多くいたのですが、鎌足は天皇家の皇子(皇太子)である中大兄皇子に接近しようとします。 あるとき、中大兄が蹴鞠にふけっていたころたまたまボールを蹴ったらその靴が飛んでしまいました。 鎌足はすぐに近づき、飛んだ皇子の靴をもっていき中大兄に接近しました。 彼らはお互いに意見交換し後に蘇我氏を滅ぼし「大化の改新」を実現します。「大化の改新」については後のブログに譲ることとしましょう。 中臣鎌足はのち中大兄皇子(天智天皇)から死ぬ前「藤原」の姓と「大職冠」を与えて、ここから藤原氏が始まり日本史に大きな影響を与えていくのです。 この靴片足が時代を変えた!!
2006年01月28日
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上 牛丼(松屋にて) すきやきの歴史に触れたら牛丼の歴史に触れないわけにはいかないでしょう。 と思い、吉野家にいくと「そういえば牛丼やってなかったな・・・」とわかり松屋へ。 実は牛丼は明治からあったものなのですが、本来はすきやきの残りの具と割り下をご飯にかけたものが起源なようです。 これは東京の桜鍋(馬肉のすきやきのお店に行くとわかるのですが、鍋を食べ終わると必ず「あとごはん」が出ます。ここに残りの具と鍋に残った汁をかけて食べるのです。昔は牛鍋にも出たようですね。 あくまで汁のみの丼ものだったのですね。それがしっかり肉も入ってメニューとして独立したものが「牛丼」になったんですね。 今の牛丼の人気は「残飯」が起源だったんですね。こんな人気になるなんて明治人にも想像できなかったでしょう。
2006年01月27日
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上 すきやき(自宅にて) 「すきやき」・・・肉が食べれない人以外嫌いな方はあまりいらっしゃらないんでしょうか? すきやきの歴史とはどんなものなのでしょうか? すきやきが始めて出来てきたのが1867年(明治元年の一年前)だといわれています。 欧米で食べられている肉牛を日本人が食べやすいようにしたものの一つだと思いますね。 明治になると政府の後押しも手伝って「牛鍋屋」の名前で一気に広まっていきます。 ただこれは関東風らしいですね。関東では割り下を使うのが当然なのですが、大阪は違うようですね。食べたことがないのでなんともいえないのですが、大阪にいったら食べてみたいですね。 「すきやき」の名前の由来は農具の鋤の上で肉を焼いたといわれているようですが、諸説あるようですね。 すきやきは関東大震災後、急速に広まったらしく、今の「すきやき」の名が定着したようです。 結構新しい歴史ながら、名前の由来とか結構知らないことがあるもんですね。 追伸、前回のブログのご意見、皆様ありがとうございました。多くの方々の意見をこれからも聴きたく思っています。 後ほど必ずお伺いいたしますのでよろしくお願いいたします!!!
2006年01月26日
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私は中国が好きで、中国人の知り合いが何人かいますが、そのなかでもとりわけ親切にしていただいている人にZ君がいます。 彼はバブル後の日本に来て新聞配達や皿洗いをしながら日本語を学び、日本の大学に行き日本の企業に就職して中国人の奥さんと2人の子供を日本で育てています。 今から1年弱前、中国の一部で反日暴動が起きていたころ、彼と共に寿司をたべました。 日本が好きな彼は「大変悲しい」といいながら日本政府の靖国神社に対する対応を非難しました。 「靖国神社に行くなといっているわけではない。思想は自由だから。でも多くの韓国人や中国人はとても不愉快に感じている現状の中で、東南アジアの会議で小泉首相がかつての侵略戦争を謝罪しているまさにその時に靖国に議員たちが行くのか? 行くのだったらバラバラで行くべくではないか?そこまで日本は配慮がないのか?思いやりがないのか?中国よりよっぽど民主的な国なのになんであんな国会議員たちを選ぶのか?だから表向き「仲良くしましょう」といっていても日本が信用できないのだ。 はっきりいって私も日本政府を信用していません。「なぜ今参拝に?」の質問に誰か忘れたが、ある議員は「あうんの呼吸です」などと神社の狛犬ばりのわけのわからない言い訳をしていていて、開いた口がふさがらなかった。 今日の通常国会でも靖国が取り上げられていたが、私は参拝反対です。 私は歴史が好きなので多くの神社や寺院を見ましたが、靖国だけは大嫌いで近づいたこともありません。 このことは改めて触れていきたいと思います。 中国人のZ君は、今上海に5月まで出張中。頑張れよ!!
2006年01月25日
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上 武士のサボル様子 上の画はなんでしょうかね・・・酔っ払ったちょんまげ姿が半裸になって乱れております。どうも江戸時代の様ですね。奥の壁に「天保」の文字があることをみると幕末になるころでしょう。 しかし酔っ払い振りがヒドイですね。そこらじゅうに箸や皿、酒の徳利がそして奥の机には刀がころがっております。え?刀!!! この連中は武士ではないですか!! これは久留米藩の江戸詰の侍たちです。江戸時代の殿様は自国と江戸屋敷を行き来していたのですが、殿様が領地に帰っているとき江戸屋敷を守る武士が「江戸留守居役」そしてこの「江戸詰」です。とりわけいつも江戸にいるのを「江戸定詰(えどじょうずめ)」といいます。 江戸は自国よりいい生活が出来るので、幕末になると武士の理念を忘れ、武士の魂の刀もほっぽりこのような生活をしていました。 当時の武士は「世襲制の公務員」です。今の公務員の方もぜひこの画をみて二の舞にならないよう切に願うばかりです!!!
2006年01月25日
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毎日寒い日が続いてますね。どうも来月まで続くとか・・・・・ はやく温かい春が来ないかなぁ~ せめて絵巻だけでも・・・・これをみて春を感じてください。
2006年01月24日
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上 石田三成画像 昨日、マスコミ批判を行ったところ、多くの方からご意見をいただきありがとうございました。この件に関しましては改めてお話しさせていただき、ご返信申し上げたく思っています。 さて、今日は、ある機転の利く人の話。 豊臣秀吉が滋賀県で鷹狩りをしたとき、のどが渇いたので近くのお寺に立ち寄りお茶を所望しました。 ある小坊主がお茶を持ってくると、とてもぬるいものでした。のどが渇いていたので一気飲みした秀吉はお代りを要求しました。 するとさっきよりちょっと熱いお茶がでてきました。秀吉は更にお代りをします。 今度はとっても熱いお茶が出てきました。 皆さんも暖房の部屋に長くいると初めは冷たいものが飲みたくなっても次は温かいものが欲しくないでしょうか? この機転に感心した秀吉は彼を部下にします。これが上の石田三成さんです。 三成はご存知の方も多いと思いますが、のち関が原で徳川家康と戦い敗戦、処刑されますが、彼の機転である「気遣い」「気働き」は今の時代にも通用するものですね。 「オレが」「オレが」を連呼する人が多い時代、他人に対する小さな機転が自分にも必要な気がしてなりません。 三成については後日また触れたいと思っております。
2006年01月24日
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現在、ライブドア社をめぐってえらい大きな報道がなされています。 元来そうなのですが、もう少し冷静に考えて報道してもらえないものでしょうか?たかだか1社の問題、郵政民営化はどこへいったのですか? 日本史を学んでいて思うのですが、日本人は明治以降、風潮や風説、情報に流される傾向があると思います。 それは「多くの人が自分の頭で考えて、自分の思想をしっかりもってないから」だと思いますね。 外国人にはこのような「前へならへ」の日本人の特徴をすごく不思議がっている人が多いのではないでしょうか? 私のブログを読んでくださる賢明なる方々は決して、マスコミなどにだまされず、しっかり自分の考えをもっていかれてください。 この件に関しては改めて触れたいと思います。
2006年01月23日
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上 斎院に従う女性の行列(葵祭りにて) かつて天皇の力があったころ、伊勢神宮と賀茂神社に天皇家の独身女性を送る習慣がありました。 伊勢神宮は崇神天皇という人(実在したかはわからない)がいたがこの時から始まり、天皇が変わるとき天皇家の皇女が選ばれ清めてから伊勢に住むのです。1300年代まで続きました。天皇が辞めたらお役御免でしたが一生独身でした。 賀茂の方は800年ごろ平安時代初期にはじまり、伊勢より京都に近いのでかなり重要視されました。伊勢と分けるため「斎院」と呼ばれていました。 斎院になった女性の特徴は文学的教養のある皇女が多くでていることですね。 斎院は、本来天皇が変わると変わり、結婚も出来ないのでしたが、だんだんいい加減になり、変わらなかったり、斎院が終わると結婚しちゃう人もいました。 鎌倉時代になると財政ピンチに終わり打ち切られました。 しかし江戸時代になると一応復活いたします。賀茂祭り{葵祭り」ですね。 賀茂神社は2社あり御所からそこへ行くのが賀茂祭りですが、そこの行列は華やかなことで有名で清少納言や紫式部も記しています。 神に仕える女性、今の時代には気の毒な気もしますが、当時としてはかなり栄誉のあるものだったようですね。
2006年01月23日
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上 いかめし 「駅弁」はいまや日本の食文化の中でも有名なものですね。そのなかでもとりわけ有名なのの一つに上の北海道、森駅のいかめしがあります。 イカの中にご飯が入っているわけですが、今日は実際私が食べたときのことをお話しいたします。 北海道旅行に行ったとき、札幌から函館までレンタカーで移動しました。その折、森駅近くのホテルに一泊したのですが、当然、このいかめしを買いに森駅へ行くと、真っ暗・・・・夜の7時ころでしたが、たいへんさびれたところです。 その駅前で田舎によくあるような雑貨屋があっていかめしを売っていたので、早速購入。 ホテルにいって食べてみると、う~ん、とりわけフツーの味ですね。 その時!弁当箱の下が落ちてしまいいかめしが床に落ちてしまい、結局1個しか食べれませんでした・・・・・ わざわざ北海道までいって悲しい出来事でした(涙)
2006年01月22日
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上 広隆寺 弥勒菩薩像 京都や奈良にいくと必ず仏像を見学すると思います。「ナントカ如来」とか「ナントカ菩薩」なんかがでてくると思いますが、これって何の違いなんでしょうか? とってもかんたんに言うと、会社で言う「役員」とか「部長」みたいな肩書きなのです。 一番上が「如来」次が「菩薩」です。「菩薩」の中にはお地蔵さんこと「地蔵菩薩」とか、かんのんさんこと「観音菩薩」がいますが、その中に「弥勒菩薩」がいます。 上が京都広隆寺の有名な弥勒菩薩です。「菩薩」にはそれぞれ衆生を救う役割が分担されています「経理部長」とか「人事部長」みたいに。 弥勒菩薩は釈迦さんが死んでから5億、もしくは56億年後に衆生を救うべくスタンバイしている仏さんです。だから「どうやって衆生を救おうかしら」と考えているポーズをとっていますね。 ここでは「地球の寿命は40億年なので56億年後に衆生を救おうとしても地球がないんですけど・・・・」などどイジワルな質問はさけてね(笑) じっくり仏像の美しさを鑑賞して拝みましょうね!!!
2006年01月21日
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個人的なことなのですが、かなりいただいている仕事でテンパっております。 昨日は帰社後すぐ寝てしまい、さっき(AM4時ごろ)起きたのですが、雪が降ってますね~ついに。ちょっとは積もるのでしょうか? 仕事は2月が決算なので今がヤマ場になっております。新しいネタの更改、ご返信、必ず致しますのでご了承ください~(涙)
2006年01月21日
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上 ダイエットカレー(自宅にて) 今日は今年初めてカレーを食べました。いわゆる「カレー初め」です。 私は大のカレー好きですが、正月明けから減量していて控えていました。カレーはカロリー、脂質が高いのです。 そこで、今回は味を薄くして肉類はひき肉を少し入れただけのカレーになりました。私の家ではカレーは薄味です。 また奄太郎の流儀として、「福神漬けやらっきょうは食べない」「必ず唐辛子をかける」というのがあり、それを実行して食べました。 う~ん、美味い!!今度はいつ食べようか。 今度、私を今の減量に追い込んだ年末のスキヤキの画像を載せたいと思います。スキヤキの歴史も考えてみたいですね。 食べたつもりになって・・・・・
2006年01月20日
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明日、東京はとんでもなく寒い気温であると予想されています。 私はかなり朝早くから勤務があり大変辛い日になりそうです。今日は明日のブログを書いてからすぐに就寝させていただきたく思います。 毎度のことながら私のブログにコメントを書いてくださった親愛なる皆様方、明日以降お返事させていただきます。 スミマセンお休みなさいませ~!!
2006年01月19日
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上 食事の前のお菓子「慕帰絵詞」より 先に予告しましたように、台所で調理が進行しているとき大きなお皿になにやらたくさんの食べ物が乗ったものが「歌会」の席に運ばれています。 これはおそらく食事前のお菓子かと思われます。手前で茶釜いじってる人がいますからお茶受けでしょうかね。 台所の画でまな板で何かを切ってる人がでていましたが、これは当時滋養によいとされていた「鯉」です。それを切っているということは出来上がりまでしばらく時間があるということ、また人数分のお膳が上の画ではみえませんがスタンバイされています。 ちなみに何のお菓子かというと残念ながらわかりませんでした。ただ、室町時代には饅頭や羊羹が初めて作られたころなので、その類でしょうか? 余談ですが、お菓子運んでいる人の後をご覧ください。箒とちりとりが壁にかけてありますね。これを見るとちりとりは今の時代と全くそっくりですね。ということは600年くらいそのまんまなんだ~!!! ちりとりってそう考えると大ロングセラー商品なんですね。
2006年01月19日
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今回扱いました、室町時代の記事について、私のブログを愛読いただいている、みかん2003さんから、「当時の甘いものはあったの?」いうご質問をいただきました。 実はこの絵巻の歌会場所と厨房の間に前菜かお菓子を運んでいる様子が描かれています。 次回ブログではこの部分を扱ってみます。
2006年01月18日
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上 中世の厨房「慕帰絵詞」より 先にお話ししました「歌会」の時用の食事を作っている風景が上画です。 厨房の指揮を執る人がいますね。また「順調に進んでいるかい?と覗き込む人がいて、手前ではせっせと盛り付けしたり右側手前では味見しているお坊さんのような人がいます。 なんせ偉い人たちの歌会の進行に合わせてうまい具合に食事をださないといけないのでみな必死ですね。 ただ、ここで必見なのは左側手前でまな板でなんか捌いている人。 この人捌くものをお箸でつまんでいるのがわかるでしょうか?この調理方法は儀礼的なもので今でも一部で伝承されています。実際の家庭ではほとんどやりませんよね。 この時期には箸でつまんで包丁で切る絵が多いです。当時の食事の風景や調理については幾つかの画が残っているので今後も取り上げてみたいと思っています!! 追伸、毎度の事ながらコメントいただいた心優しき方々への返信が遅れております。しばらくのお待ちを~~!!
2006年01月18日
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「室町の宴会と集会」の台所をご紹介する前に、一つご挨拶を。 気がついたら本日で書いた記事が300になっていました。 書くことに困った時期もあることが思い出されますが、ここまで書けたのは私のブログを見てくださる方々のお陰です。 本当にありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします!!
2006年01月17日
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上 歌会の様子 「慕帰絵詞」より 室町時代になると、今の日本文化の原型が出来てきます。日本文化の代表として茶道がありますが、このようなものは複数の人が集まってやるもの。 この「集会」の精神が文化になったのもこの時代です。 上の画はよりよい歌を創るため、みんなで「歌会」を開いているところです。もう歌ができちゃって扇子で余裕かましてる人の横では、お坊さんがほおづえついて必死に悩んでいますね。 よく見ると左上に画の描いた掛軸がかけてありますが、これ柿本人麻呂さんです。「歌の神様」状態だったのでしょうか?ご丁寧にお供え物までしています。 ちなみにみんなで集まったらやっぱり食事は付き物!!というわけでこの部屋の横の台所では必死に宴会のご飯をつくる様子が描かれています。 当時の調理法を知る貴重な写真、次回ブログでお見せしましょう!!
2006年01月17日
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江戸川区 「弁慶」とんこつネギらーめん 今回、夜に急に腹が減って弟とらーめんを食べに出ました。行った先は「弁慶」というラーメン屋、地元ではかなり有名なお店(だそうです) 私はネギが好きなので、なぜかネギらーめんをよく注文するのですが、今回もトッピングでつけられるのでネギらーめんにしました。 出てきたのは、まさに「盛り過ぎネギ」状態です!!!表面の白いの全部ネギだったりします。 ここはとんこつらーめん屋なので、個人的にはネギは合わないと思いました。(食べての感想ですが・・・・) ネギらーめんといえば二子玉川の「いっせいらーめん」が好きですが、そこは後日紹介しましょう!!
2006年01月16日
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上 聖徳太子画像 上の人、誰だかわかりますか?歴史に興味のない人でも知っている方が多いんではないでしょうか。そう聖徳太子さんですね。 聖徳太子は死後につけられた名前で上宮皇子や厩戸皇子などと呼ばれていました。 この聖徳太子さん、実は本人を直接みて描いたものではないんです。なんせ本人が死んでから100年後の奈良時代に描いたものですから。(もちろん伝承はそうなっていないが当時は似せ絵の技術がない) だから顔は全く違ったろうし、着ている服や冠も奈良時代のものだったりします。聖徳太子の着ていた服はおそらくもっと朝鮮や中国ににたものだったでしょう。以前お話しした「高松塚古墳」の壁画のような感じです。 でも、この画を見たら多くの人が「聖徳太子」というでしょう。 歴史の常識にも違うものがたくさんあるのですね。
2006年01月16日
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私の妹の息子、つまり甥ですね、1歳半になりますが、突然の高熱が続き入院することになりました。 私の妹は病院に泊まりこんでいるようです。 可愛い甥なのでショックですが、全快することを信じております。
2006年01月15日
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上 龍岡城跡 上の写真、長野県のある小学校を上空から撮ったものなのですが、よ~く見てください。学校の敷地がなんだか星のような形をしていませんかね? これ、実は五稜郭と同じく江戸時代末に造られたお城の跡なのです。 当時長野の小大名だった松平家に、大変西洋に関心を持った殿様がいて、早速自分の領地に五稜郭型のお城をつくっちゃったのです。 でも幕府直轄の本家五稜郭ですら、財政難で簡略化して作った時代、大名なんて火の車です。実際に設計はしてみても周りに堀も一部しか掘れないという情けない状態でした。 せっかく造ったこの龍岡城もすぐ明治になって不要となり、小学校に転用されました。だから星型の不思議な形の学校になってしまいましたね。 ただ、写真左側にグレーの屋根が見えますが、これが当時の建物で唯一残っている「台所」です。 ここは現在、小学校であると同時に、国の史跡になっていて、大切に保存されています。
2006年01月15日
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会社で様々な文章を作る機会が増えてから、うまく書くことができず悩んでいました。 以前、論文や小説まで未熟ながら書いていたので大ショックでしたが、最近ある本を読んでやっと解りました。 それは「ビジネス文書」はあくまで小説や論文と違うということです。冷静に考えれば当然なのですが、日本では「ビジネス文書」の書き方を教えることはほとんどないのです。 「ビジネス文書」の究極とは「ほとんど読まなくても、意味の解る文章」ということです。 理論的には解ったのですが、やってみると結構難しいんですね。 今日も、これから報告書のまとめの仕事があるのでチャレンジしたいと思います!!
2006年01月14日
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上 榎本武揚 それでは五稜郭のその後、箱舘戦争についてのお話しです。 江戸幕府が滅亡すると、当然多くの幕府に仕える武士が失業していきました。 幕府の滅亡は西日本を中心に起こり、京都で大政奉還したのですが、江戸まで新政府が支配すると幕府の知識人、榎本武揚は船で江戸を脱出して仙台からついに北海道まで逃げ出し五稜郭を占拠します。 榎本さんは幕府の留学生としてオランダに留学してオランダ語や国際法などを心得ている江戸幕府側ではかなりの知識人でした。 榎本さんはリストラされた幕府の武士を救済するため北海道に行ったのです。 北海道に入った榎本軍は新政府に明け渡した五稜郭を占領して「蝦夷共和国」という北海道の独立政権をたてて、列強諸国に認められ幕府側の武士の生きる道を創りました。 その時期だけ、北海道は独立国だったことになります。 しかし北海道の独立は明治新政府が認めず箱舘戦争となりました。海を渡ってきた多くの武士が五稜郭を背にして死んでいきました。新撰組の土方さんが代表ですね。 結局五稜郭は降伏し榎本さんは投獄されます。しかし外国に詳しい榎本の能力や人柄をかつて戦った黒田清隆や伊藤博文が高く評価し、後に明治政府に使え、大臣を8回も担当することとなります。 日本史の人物のなかでも、人生が大きく変わった1人であると思います。
2006年01月14日
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明日は、ジャンボ餃子でおなかも満足になったと思いますので、いよいよ幕末の箱舘戦争についてお話ししましょう。 様々な人々の生き様を出来る限り解りやすく書きたく思っています。ご期待ください!! なお、毎度の事ながら返信が遅れまして申し訳ありません。しばらくのお待ちを・・・・
2006年01月13日
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上 ひさご亭の餃子 函館戦争のお話をする前にちとおなかがすいてきました。 ここらで定番のグルメ紹介をしま~す!! 上の写真、何でしょうか?あるお店からテイクアウトしたものですが、大きさが握りこぶし大ほどですね。(左にある小皿が醤油皿です) これ、なんと餃子なんです。千葉県市川駅前にある地元では有名な「ひさご亭」というラーメン屋の餃子です。 私の父の地元なので小学生のころは頻繁につれていかれ食べてました。子供のころは1個食べるのがやっとでしたね。値段は6個で600円とかなりお手ごろです。 ちなみに食べてみると甘いんですね~。砂糖の甘さとは違う野菜の甘さがでていて、ここのメニューはなぜかみな野菜の甘さがでています。 私は久しぶりに行って炒飯を食べましたがこれも甘い!!こんどご紹介しましょう!! 話のネタに行かれてみてはいかがでしょうか。 ちなみに本場中国の餃子はこんな感じですね。
2006年01月13日
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上 五稜郭復元図(江戸時代末) 上が函館の名所、五稜郭の推定復元図です。奥に函館山と函館の町が見えますね。 江戸時代中期から、北海道にはロシアの船が頻繁に来ていて通商を求めていたのですが、幕府は拒絶すると共に、北海道(蝦夷)の防御にあたることとなり函館(当時は箱舘)に「箱舘奉行所」設置しました。 のち、通商条約が結ばれ函館を開港することとなりロシアと交流するようになると、海に面していた奉行所はなんかあったら危険ということで函館の奥の亀田というところに移したのです。 その時、万が一ロシアとの戦争に備えるため奉行所の周りに堀と土手を造りました。相手が欧州なのでオランダの築城技術と日本のとをごちゃまぜにして造りました。これが「五稜郭」です。正式には「亀田役所土塁」というので、あくまで「役所の土手と堀」なのです。 今では周りの堀と土手が残って役所が無くなってしまっていますね。 また五稜郭はなんで星型なのでしょうか?これは星の先の部分を砲台にしてどこから攻められても死角がないように設計されたためです。 当時、幕府は財政難でしたので、五稜郭はもっと大きく造る予定が小さくなってしまいました。 また、お城の裏側(上の写真の手前部分)は石を加工するお金もないため近くの川から拾った石をそのまま積み上げる情けない造りになってしまいました。 江戸幕府が滅亡したとき五稜郭も明け渡されましたが、ここに新政府に反対する人が集まり有名な「箱舘戦争」が起こります。 徳川家康が幕府を意作ってから266年後、はるか北のこの五稜郭で江戸幕府は完全に消滅することとなりました。 次回はその箱舘戦争とは何かをみてみましょう。あの人気人物もでますよ!乞うご期待!!
2006年01月12日
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上 現在の五稜郭 冬の雪化粧した函館の街に巨大な「星」がありますね。ご存知の方も多いと思いますが、「五稜郭」です。 函館に行かれた方は必ずといっていいほど見学するところですね。もちろん私も行きました。 ではこの「五稜郭」はなぜ星型をしているのでしょうか? またなぜ函館にこのような不思議なお城があるのでしょうか? どうやって、何の目的で造ったのでしょうか? 次回ブログでは、この五稜郭が出来た当時(今から150年ほど前)の復元図を元にお話したいと思います。 この写真と同じ角度からみた江戸時代の五稜郭をぜひご覧ください!!
2006年01月11日
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今日(というより昨日)の夜だったでしょうか?今冬初めて雪を見ました。 夕方から所用があり夜帰宅、近所(というより家から歩いて10歩ほど)のコンビニに向かうと雪が降っていました。 すぐ降り止んだようですが、北陸や北国の方は大変でしょうね。 私は寒いのが苦手なので今年の冬は辛いと思いますが、雪国に方のことを思うとそんなこと言えなくなります。 春は必ず来ますから今は皆様「忍」の心をもっていきましょう。 毎度の事ながら、いただいたコメントの返信が遅れて申し訳ありません。近々にお伺いいたします!!
2006年01月10日
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上 縄文人の食事の復元 前回の中世の食事が多くの方の反響をいただいたので、ついでに縄文人の食事も載せて見ました!! 縄文時代というのは今から1万2千年前ごろから始まったといわれる時代で、狩猟が中心でした。 お米を作るようになった弥生時代との区分がいまだにはっきりせず、論争になっています。 今回は紀元前5世紀ごろ(と思う)の縄文時代晩期のご飯を宮城県の縄文遺跡から出土した土器で再現したものです。 縄文時代に日本人は土器を創りだし煮炊きができるよになったので、食事のバリエーションがかなり広まったと思います。 献立は右が魚のハゼ、鶏肉、海草、山芋の鍋で左が海草や栗、クルミなどですね。 古代の食事よりなんだか栄養がつきそうですね。 この鍋、どんな味がするのでしょうか?食べてみたいんですがね~。
2006年01月10日
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上 中世の庶民の食事 以前、今から1300年ほど前の下級役人の食事を取り上げ反響が大きかったのですが、今回はそれから5~600年後の鎌倉時代の庶民の食事を再現してみました。今から700年ほど前の食事です。 愛媛県に残る遺跡からの研究で当時の秋の食事の再現されたものが上の写真です。 古代の食事はタンパク質がほとんどなく、様々な発育障害などを生んでいたようですが、このころになるとお魚がついて栄養面でもよくなっていたようです。 ちなみにお米は栗を混ぜた栗飯、魚は鰯の塩味、おかずは芋の塩汁といったやはりシンプルな内容になっております。 他には、豆、くるみ、梅、桃、タンパク源にイノシシ、ウサギ、鹿などを食べていたようです。 今でいう一汁一菜といったところでしょうか。でも今からすれば粗食ですね。これが当時は改まった席での食事だったそうです。 私も含め、ダイエットを目指している方、上の献立を食べてみてはどうでしょうか!!
2006年01月09日
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最近、ブログをご覧になっていただいた方の履歴を見ると、楽天ブログ以外の方のアクセスが大幅に増えています。 どのような方がご覧なのかわからないのですが、外部の方に読んでいただけるのはありがたいことです。 と同時書く記事もしっかりしたものにしなければなりません。私は歴史好きであって素人ですが、取材をしっかりおこなってこれからも「楽しいブログ」目指したいと思っています。 追伸 コメントいただいた方の返信が諸事情により遅れておりますが、ご容赦ください!!
2006年01月08日
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上 出島での調理風景 今日は最近リンクを貼っていただいたyumieさんご在住の長崎にちなむ歴史のお話をしたいと思います。 江戸時代、鎖国をしていた日本で貿易を許されていたのが中国人とオランダ人ですね。ただ、扇形の人口島である「出島」からでることは基本的に許されませんでした。 当時、出島に住んでいたオランダ人は何を食べていたのでしょうか?またお正月はどんなものを食べていたのでしょうか? 野菜は長崎の農家から買っていたようですが、問題は肉類です。 彼らは牛や豚を普段から食べていたのですが、日本ではそれらの肉を食べる習慣がなくわざわざ外国から出島にもってきて食用に飼っていました。 上の写真は調理台で調理をしているところ。肉を切っています。手前では豚をかわいそうだけど血抜きして、スパイスをすり鉢ですっていますね。 奥では釜でなにかをゆでていて上には煙突がついています。 この建物は現在復元されていますので長崎観光ではぜひ見学をお奨めします。 ちなみに正月は当時、旧暦を使っていた日本とずれていて「オランダ正月」といわれ、とりわけゴージャスな食事が並んだそうで、出島に勤める日本人も参加できたそうです。 ただ、カステラなどの珍しいものがでたので、くるんでもってかえる人が多かったそうです。 わざわざ日本に来て、食事も大変だったでしょうね。
2006年01月08日
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ベルツ先生ことエルヴィン・フォン・ベルツは明治9年に来日しますが、当時の日本は文明開化のまっだだ中と同時に貧富の差が歴然と出始めた時代でした。 ベルツ先生は東京医学校(今の東大医学部)で教師をするかたわら、医療に直接携わりました。 ベルツ先生は日本医学の父なのですが、日本滞在中に日記を書いていて歴史的にはこちらの方が有名になっています。 当時の東京では衛生が非常に悪くコレラが蔓延していました。政府はコレラ患者を隔離するのみで全く医療行為をいていなかったのですが、ベルツ先生は学生と共に病棟に入り懸命の治療をおこないました。 また吉原の遊女の非人道的な扱いに強い怒りを感じたりしました。 のちに日本人女性と結婚した先生は草津温泉の効用を科学的に認め、世界に紹介したり、アカギレがひどい女性のためのスキンケアを作ったり、庶民の立場からの医学を実践していきました。 先生は26年間教壇に立ち、多くの日本人医師を育てたあと、天皇家御用医師となり明治天皇の診察もおこなっています。 前述したベルツの日記は欧米主義に明け暮れる当時の日本人を不思議がる外人の目から見ているので興味深いものがあります。 上は天皇家、下は小作人まででてきて面白いのにこんなのがあります。 日本が大日本帝国憲法を制定したとき、日本中がお祭り騒ぎになりました。しかし、憲法の内容が発表されてないのです。日本人は憲法の意味も知らずにお祭りしていたのです。 また当時の宮中では宴会が行われたのですが、憲法の実質制定者の伊藤博文が酔っ払ってしまい、皇太子(大正天皇)の前で暴言を吐いちゃったりしています。 あげたらきりがないのですが、今、我々が受けている医療は、ベルツ先生が土台を築いてくれたものです。病院のお世話になることがあったらベルツ先生を思い出してください。
2006年01月07日
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上 ベルツ先生 私のブログを愛読いただいている方の中にTomochanさんが居られます。 Tomochanさんはドイツにご在住で、ドイツの食事のことや温かいご家族のことを伝えられています。 ブログで知り合った方でもぜひいつかお会いしたい方でもあります。 今回はTomochanさんにちなんであるドイツ人のことについてお話ししようと思います。 それは上の写真の「ベルツ」先生です。ベルツ先生はライプチヒ大学というところで勤務している医者でしたが、明治初期、ある日本人留学生と出会い日本に来る決意をします。 しかし、日本での道は平坦ではありませんでした。 日本についてのベルツ先生は次回ブログでお話ししましょう。
2006年01月07日
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本日の東京の寒さは尋常じゃなかったですね。 最高気温が4度だそうで、北国の方では当然の方もいるかもしれませが、温暖化の進んだ東京に30年以上住んでいる人間にはああまり経験できない気温ですね。 今日は新宿にいたのですが、サスガに外に出る勇気はなかったですね。日本全国がこの状態だそうですから、皆様、お体を大事に、お互いカゼひかないようにしましょう!!
2006年01月06日
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上 タンメン 珍来 おせちなどの正月料理に飽きてきた方も多いことでしょう。 私もそんな1人だったりするので、何を食べようか迷ったところ、タンメンにしました。 自宅近くの「珍来」に駆け込み今年の「ラーメン初め」をしてきました。ここはチェーン店ですが、私の好きな太麺なので気がよるといくお店です。あとは「カレー初め」ですね。近日中に敢行予定です!!
2006年01月06日
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上 お雑煮(自宅にて) お正月料理のなかで、おせちと同じく代表的なものがこの「雑煮」ですね。 今日はお雑煮の歴史を考えてみました。 実は、お雑煮はおせちと同じくお正月のみに食べられたものでなく武士の来客のもてなしや儀式的な食事のときに食べられていたようです。 いつごろから食べられたか解りませんが、室町時代中期ごろ(今から550ほど前)から始まったようです。 本来はあくまで「武士」の食べ物だったのですね。 また、お雑煮は各地方で入れるものや汁が違うのが有名ですね。各地の特徴を取り入れた食材でつくるようです。中に入れる餅は関東が角餅、関西が丸餅といわれているようですが、厳密な区分はないようです。 ちなみに私の家では、関東ですが薄口醤油で、中にはにんじん、大根、こんにゃく、芋、ごぼう、鶏肉などを入れ、上から青菜をかけるものです。私は餅を入れずに味噌汁のように食べますね。 う~ん、やはり正月はこれに限りますね!!
2006年01月05日
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昨年暮れに浅草寺の観音さんが盗まれたことは、私のブログにも取り上げましたが、今度は上野の寛永寺だそうです。 もちろん本尊ではないようですが、また私を含む下町っ子のお寺が盗難にあうとは・・・・ しかし許せんね~。数多くの文化財を見てきた人間として許せませんね。 犯人よ!はよ返せ~!
2006年01月04日
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上 薮入り 江戸時代には大消費地江戸にたくさんの人が田舎から出てきて住み込みで働いていました。 そんな奉公人も夏と正月には田舎に帰ることが許されていました。いわゆり「薮入り」ですね。 薮入りはみんなが楽しみ!なんせ仕事休めるんですからね。「薮入り」という名前はあまり聞かなくなりましたが、今でも多くの人が「薮入り」していますね。 上も田舎に帰った薮入りの人、子供たちもとっても楽しそうです。私は今日から「薮入り上がり」で仕事ですが「薮入り」はいつまでも残る習慣でしょうね。
2006年01月04日
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今日は友人と健康ランドでのんびりと過ごしました。 とはいっても朝早くいってきました。なぜなら混むから。 昼前後からいきなりの混みよう、すさまじかったですね。やはり休日を家族で旅行とはいかないけど健康ランドで過ごすのもいいものなんでしょう。 昼ごろには帰り、明日からの仕事の準備に入ります。とはいっても明日は「賀詞交換会」なので周りの連中が酒びたりになるから、実際はあさってからですね。 またデータに追われて楽しいな~(涙)
2006年01月03日
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上 郵便ポスト「郵便箱」 年賀状の歴史は郵便の歴史です! 日本で、近代的な今の郵便制度ができたのが1872年(明治4年)ですから、明治になってすぐに始まりました。 ただ、当然日本全国でなく東京、大阪間のみ、のちに拡大され全国に発展していきます。 ポストは最初「書状集箱」というのがつかわれていましたが、のちに上の「郵便箱」になりました。これで「ようべんばこ」といったので、トイレと勘違いされることも多かったようです。 郵便制度が普及してくると遠くの人への年始の挨拶が出来ないので手紙で行うようになります。そこで当時の逓信省(現在の郵政公社)が正月に届くようにそのような種類の手紙を分けたのが年賀状の始まりです。 1898年(明治30年)には今のように年始挨拶専用のはがきもでてきました。 当時は鉄道網の発達で出稼ぎ者や地方から出てきた人が多かったので、年賀状はすぐに広まりました。 パソコンや電子メールが当たり前の今の時代でも、当時の人々の心が脈々と残っているのです。
2006年01月03日
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今日はいただいた年賀状への返信作業です。 そういえば年賀状っていつから出来たんだろう・・・・そう思いつつ・・・ 毎年書いていた年賀状について、明日は書いてみようと思います。 ご期待ください!!
2006年01月02日
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