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『奉教人の死』芥川龍之介(新潮文庫) 前回の続き、冒頭の短編集の読書報告後編であります。 近年、今更ながら、わたくしのなかなかフェイヴァレットな芥川の小説であります。 そもそもフツーの人の、芥川龍之介の小説との出会いというのは、どういうパターンがあるんでしょうね。 私思うに、ツー・パターンですかね。 (1)『トロッコ』『蜘蛛の糸』『杜子春』などの児童文学からの出会い。 (2)高校一年生の授業で習う(今でもそうですかね)『羅生門』との出会い。 まー、もちろん、芥川と出会わないというパターンもありましょうが、私の場合はたぶん(2)だったと思います。 以前にも本ブログで申し上げたような気がするんですが、『蜘蛛の糸』『杜子春』については、私、小学校一年生の時の雨の日の体育の時間に、担任の先生からストーリーテリングを受けています。(今でも覚えているくらいですから、かなり印象的だったと思います。) しかしたぶんその時は、作者名までは触れられなかったんじゃないか、と。 そんなせいでもないでしょうが、ともあれかなり「青春文学」的な要素が強い(この年になって、フェイヴァレットとして読んでいてもそんな気がします。)芥川の小説が、最近とみに面白いのですが、さて今回取り上げたのは、芥川作品の内の「切支丹物」11作であります。 『煙草と悪魔』『さまよえる猶太人』『奉教人の死』 『るしへる』『きりしとほろ上人伝』『黒衣聖母』 『神神の微笑』『報恩記』『おぎん』『おしの』『糸女覚え書』 これは収録順ですが、同時に作品発表順であります。 これをちょっと、今回私が読んでいて面白かった順に並べてみます。 『きりしとほろ上人伝』『奉教人の死』…… と、二作書いて、後が続きません。 第3位は、『おぎん』あたりかなー、と、そんな気もするんですが、しかしそれもなー、という感じです。 えーっと、前回に続いて、今回の報告も、どーも、「芥川話」といいますか、なんか、「芥川漫談」みたいになっているのですが(だって好きな作家の話って、そうなってしまいますよね。別に好きな作家じゃなくて、好きなアイドルなんかでも同じだと思いますが)、しかしこれではいかんと反省いたしました。 後は頑張って、すっきり短く切り上げます。 今回の私のテーマは二つです。 (1)なぜ芥川は「切支丹物」を書いたか。 (2)『きりしとほろ上人伝』『奉教人の死』のすばらしさ。 やれやれ、今回も残り少しになって、いきなりこんな大きなテーマを二つも持ち出してどうするつもりなんでしょうね、私。 いえ、でも、元々そんなに難しいことを考えることのできないアバウトな頭ですので、書き出せばきっとぱたぱたと書き終えてしまいます。 まず一つ目のテーマのキーワードは、「悪魔」ですね。 今回収録の11の短編の中にも、数多くの極めて魅力的で人間的な悪魔(悪魔が人間的!)が描かれています。 これはきっと、筆者は大いに楽しみながら書いたと想像しますね。 だって、切支丹物で悪魔とくれば、大ボラから真実がましい嘘まで、とっても幅広く何でも書けそうではありませんか。天性の小説家の芥川が、これを見逃すはずはありません。 というより、この「切支丹物」というジャンルに気づいた時、彼は思わず膝を打ったんじゃないでしょうか。 これは何と豊かな鉱脈を発見したものだ、と。 うーん、このテーマは楽しそうですねー。 しかし、二つ目のテーマに移ります。 とはいえ、『きりしとほろ上人伝』『奉教人の死』のすばらしさを述べるといっても、もはやこの二作は、芥川切支丹物の最高傑作として、すでに人口に膾炙されて久しいものであります。この上私がつけ加えることなど、ほとんどありません。 ただ今回、特に私が思ったのはふたつ。 (1)何といっても、この二作の文体のすばらしさ。特に『きりしとほろ』には、ユーモアの底にポエジーが煌めいていますよ。 (2)『きりしとほろ』と太宰治『ロマネスク』。『きりしとほろ』と中島敦『名人伝』。きっと、すでに比較研究があると思うんですが、特に『ロマネスク』は、剽窃とは言い過ぎとしても、換骨奪胎、影響下、続編のような、くらいの言葉は言えそうな影響関係だと思います。 ということで、いやー、やはり芥川は、ますます面白いですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.30
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『奉教人の死』芥川龍之介(新潮文庫) オカルト、好きですか? のっけから変な質問をしましたが、オカルティックなお話には古今東西、根強い人気がありますよね。 映画、小説、漫画などなど、「お客」を入れる最後の切り札はこれ、という感じですが、そんなことないですか。 (観客動員の最後の切り札という出し物は、昔からあったようですね。歌舞伎で言えば、何といっても『忠臣蔵』ですね。西洋のオペラでもそんなのがあると聞きましたよ。「ABC」というそうですが、「ABC」ってわかりますか。「アイーダ・ボエーム・カルメン」だそうです。ほんとかな。) 閑話休題。オカルトの話です。 さていったい、オカルトの魅力とは何なのでしょうね。 わたくし、思うんですが、これはきっと本能レベルにまで遡って、生物の存在そのものにインプットされている一種のシステムではなかろうか、と。 なんだか大層な話になってきそうなんですが、なーに、所詮私の考えることですから、いろんなところに穴があいている上に浅はかそのものであるんですが、一言で述べますと、「好奇心」ですね。 なーんだ、とがっかりなされた貴兄、どうもごめんなさい。 私の考えた浅薄な連想は、「オカルト→謎→好奇心」という、そういう単純な連想ゲームでありました。 (好奇心がなぜ生物の存在そのものにインプットされているシステムなのかというと、なんか、そんな動物行動学っぽい話を、どこかで読んだ気が、なんとなく、するわけですけどー。) 再度閑話休題。 そもそもいったい何の話かと申しますと、芥川のオカルト好きという話題であります。 しかし、もしも「オカルト→謎→好奇心」という図式が正しいとすれば、それは単に芥川だけ、オカルトだけ、という話ではないですよね。 「謎」は、小説の根幹であります。 あらゆる小説のプロットには「謎」の設定があります。 これを極めて効果的に用いた作家は、近代日本文学で言えば、何といっても夏目漱石であります。 『こころ』を筆頭に、ほぼ総ての漱石作品には「謎」の設定がなされていますが、今特に私が思いだしたのは、『行人』の第1部「友達」に出てくる、「娘さん」としか書かれていない、精神に異常をきたした女性のことであります。 この不思議な「娘さん」の存在そのものが、作品全体を覆う「謎」になっているんですが、この女性の扱いは、漱石、実に見事なものであります。 えーっと、なかなか話が、芥川の小説にまでいきませんね。困ったことです。 って、人ごとのように書いていますが、さて今回取り上げたのは、冒頭の短編集であります。 ここには11編の短編小説が収録されています。いわゆる芥川の「南蛮物=切支丹物」であります。 しかし、作家という商売も大変ですよねー。 芥川は、実際の作家生活は十年少々しかないのですが(『羅生門』発表→1915年、睡眠薬自殺→1927年)、その間いかに沢山の小説のジャンルとスタイルを開拓したか。芥川が手を付けていない短編小説のジャンルやスタイルはもはや存在しない、とまで言われるほどであります。 しかし逆の言い方をすれば、そこまでせねばわずか実動十年が持たなかった(「持たなかった」ってことは、まさかないでしょうが)、ということですね。 全く作家として生きるということは、なかなか大変そうですね。 さてまた糸切れし凧のように飛んでいった話を、頑張って元に戻そうとしているんですが、この本の中には11編の切支丹物小説が収録されています。 あのー、ここだけの話ですが(って、意味なし)、はっきり言って、これらの作品にはかなり出来不出来があります。 芥川の他のジャンルの作品にも、これほど出来不出来はあったのでしょうか。 ふーむ。ちょっと考えてしまいますが、……。 いえ、どんな出来不出来かというと、……あ、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.26
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『郷愁の詩人・与謝蕪村』萩原朔太郎(岩波文庫) こんな俳句が紹介してありましたよ。 水仙や寒き都のここかしこ 優しい感じの、可愛い俳句ですよねー。 しかし、単に可愛いだけではなくて、「寒き都」の語が句全体をぴしっと引き締めているのがよく分かります。 この句について筆者は、「芭蕉の『菊の香や奈良には古き仏たち』と双絶する佳句であろう。」と書いています。 かなり高い評価ですねー。 しかし、ちょっと、誉めすぎ、じゃ、ないですかね。 こんな句の鑑賞もありました。ちょっと工夫して、問題形式にしてみますね。 問1・次の句中の「人間」の読みは、ア・イのどちらがふさわしいか。 それぞれの読みの場合の解釈と、鑑賞もあわせて書け。 人間に鶯鳴くや山桜 ア・にんげん イ・ひとあい どうですか。なかなか難しいですね。 あっさり解答を書いてしまいますと、筆者はまずこんなふうに解釈しています。 「人里離れた深山の奥、春昼の光を浴びて、山桜が咲いているのである。」 と、ここまではア・イ共に同じで、違いはここからです。 ア・にんげん……「人間に驚いて鶯が鳴く」 イ・ひとあい……「行人の絶間絶間に鶯が鳴く」 なるほど。言われてみればその通り、という解釈ですね。 で、問題は(「問題」というほどのものでは全然ないんですが)、筆者がそれぞれの読みをどの様に鑑賞して、そしてどちらの読みを「よし」としているかなんですが、どう思いますか。 筆者はこう述べます。 ア→「人間」という言葉によって、それ(山桜が咲いていること)が如何にも物珍しく、人跡全く絶えた山中であり、稀れに鳴く鶯のみが、四辺の静寂を破っていることを表象している。 イ→句の修辞から見れば、この解釈の方が穏当であり、無理がないように思われる。 と書いて、最後はこう締めています。 「しかしこの句の生命は、『人間(にんげん)』という言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、(略)(『ひとあい』と)読むとすれば、平凡で力のない作に変わってしまう。」 ここまで書かれてしまうと、とたんに、よくわからないんですよねー。言葉の意味が入ってこない。そんなことありませんか。 それはつまり、こういうことではないでしょうか。 本書は、蕪村論と個々の俳句の解釈と鑑賞、「春風馬堤曲」という破天荒な「新体詩」についての論述、そしてその他として「芭蕉私論」よりなっています。 筆者は、蕪村の芸術性の中心を、「青春的」「音楽的」そして「郷愁」と捉えます。 ほぼ、納得のいく論理展開なんですが、ただこの評論を読んで私達が強く感じるのは、この蕪村像こそ朔太郎の自画像ではないかということです。 例えば、朔太郎のこの詩。 蛙が殺された、 子供がまるくなつて手をあげた、 みんないつしよに、 かはゆらしい、 血だらけの手をあげた、 月が出た、 丘の上に人が立つてゐる。 帽子の下に顏がある。 (『蛙の死』) 芸術作品は、ことごとくが筆者の自画像であるとは、すでにしばしば語られることであります。 本作も、蕪村についての文芸評論と捉えるよりは、詩人・朔太郎の蕪村をめぐる詩的随想と捉えた方がいいかも知れません。 そう考えると、筆者の鑑賞に対して「違和感」を持ったとしても理解はできるし、なによりその方が、朔太郎の表現に対して、遙かに柔軟に楽しく読むことができそうに思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.23
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『小説太宰治』壇一雄(岩波現代文庫) 本作中に、こんな爽やかな場面が、こんな風に描かれています。 太宰はちょうど東大仏文科に在籍して、五年目だった。私が、経済科の卒業間際、二人でよく制服制帽で出掛けたが、何度も書いた通り、ゆく先は大抵質屋であるか、飲み屋であるか、娼婦の場所ときまっていた。 それでも、両三度は大学の校門をくぐった記憶がある。 今でも覚えているが、ちょうど正門のところで大きな三角定規を小脇に抱えこんだ立原道造とすれ違ったことがある。たしか、正門の前の、私のゆきつけの質屋で、何がしかの金を握っていたところだった。私達が、「ようー」と呼び止めると、立原は帽子を取って、丁寧にお辞儀をした。何かテリヤの純粋種を見るようだった。 「立原君。浅草にでもいってみない?」 と、太宰は例の甘ったるい声で、呼びかけた。太宰は時々、不必要に媚びるような、声をつかうことがある。 「さあ、今日はちょっと失礼させていただきます。何か御用事?」 立原はためらいながらも断った。 「いや、いいんだ。何でもないんだ」 と、太宰はしきりに跋が悪そうに、そう云った。 「じゃ」と、立原は通りすぎた。 「オドかすねぇ、三角定規など抱えこんで」 羨ましかったのだろう。太宰はさっさと校内の方に歩みこんだ。 立原道造といえば、私は学生時代、「キザに」その詩句を口ずさんだりしていましたよ。 かなしみではなかった日のながれる雲の下に 僕はあなたの口にする言葉をおぼえた それはひとつの花の名であつた それは黄いろの淡いあはい花だつた (『ゆふすげびと』) 道造と太宰は顔見知りだったんですね。 本作に点景として、爽やかな風のように現れる夭折した浪漫派詩人の姿は、「テリヤの純粋種」と少々揶揄的な表現ながら、本当に一瞬の爽やかな風のように捉えられています。 では、本書の後の部分には何が書いてあるのかといえば、「テリヤの純粋種」とはまるで対照的な、筆者と太宰治との「惑溺」の日々であります。 それはまた少なくない学生達が、同様に送った青春の(いわゆる「シュトルム・ウント・ドランク=疾風怒濤」の)日々でもありましょうが、その日々を、筆者はこのようにも説明しています。 だから、私と太宰の主な交友の期間は、昭和八、九、十、十一、十二年の夏までだ。そうして、太宰の生活と私の生活とがほとんど重って、狂乱、汚辱、惑溺の毎日を繰りかえしたのは十、十一年の大半だ。太宰の移転していった先は荻窪、船橋、諸病院、それからまた荻窪。 溺れる者同士がつかみ合うふうに、お互いの悪徳を助長した。私は昭和十二年の七月二十五日、桜井浜江の家に妹が召集令状を持参してきてくれた時ほど、生涯にほっとしたことは他にない。 こういった自分で止めようのない「悪習」というのは、太宰の人生の最後までずっと続いていましたね。 太宰の中期の小説が、「惑溺」と「悪徳」の前後期作品にサンドイッチのように挟まれながら、向日的かつ芸術的芳香の漂う優れた作品群であるというのも、とどのつまりは、その時期が、日本が第二次世界大戦に国中の総てを絡み取られた真っ最中であり、太宰が「惑溺」しようにも物質的にそんなものがどこにもなかった時期だったに過ぎません。(だから戦後太宰は、再びみるみるうちにもとの「惑溺」の日々に戻っていきます。) さて本書は、上記の引用文にもあるように、主に筆者が太宰治と付き合った五年間の「狂騒の日々」が描かれています。 壇一雄といえば『火宅の人』が代表作かと思いますが、その「火宅」状況の第1部ともいえそうな青春の日々が描かれているわけですね。 それは本当に「どろどろ」の日々でありますが(上記に触れた道造のエピソードが、逆に、まるで山渓の湧き水のように瑞々しく心に染み込んでくるほど)、しかし崩壊に向かって突き進む彼らの意志は、ささくれあいながら触れ合うことで、両者の創作姿勢に質的な変化を生み出していったことが読みとれます。 そんな、天才・太宰治との、どう考えてもつき合いづらいだろう日々の様子が(天才との付き合いづらさは、おそらく枚挙にいとまがないでしょう。大物を挙げれば、ベートーヴェン、ゴッホ、ドストエフスキーなどなど)、これまた個性的な筆者の感情のフィルターを通して描かれた作品です。 やはり、なかなか、興味深いものであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.19
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『黒髪』近松秋江(岩波文庫) 人に、騙される。 え、いえ、特定の人物に騙され続けるというのは、一体どんな気持ちなのかな、と。 そんなことを思ったものですから。 日本文学史の教科書で、名前だけは見たことのあるこの作家の作品をこの度読んで、正直私は感心しました。(唖然としました、の方がいいかも知れません。) いえ、ここに隠れた大傑作がある、というのではありません。 じゃ何かというと、それが上記の、特定の人物に騙され続けるという、類例のほとんど思い浮かばない、極めてオリジナリティの高い小説であることに、私は感心(唖然と)したわけです。 上記の日本文学史の教科書(ブック・オフ105円也)によると、「日本独自の小説形式である『私小説』の本格的な出発は、近松秋江の『疑惑』あたりにある」と書かれていました。 そーかー。知りませんでした。 知らないのは、勿論私の無知故でありましょうが、私のように日本文学史がわりと好きな者(世間にはあまり分布していない、珍しい、絶滅危惧種の様な「マニア」)であっても、普通こんな事までは知らないですよね。違います? しかし、本作の筆者が「私小説」の鼻祖であるということは、ここに書かれた内容もほぼ作者の実体験かということで、そこで三度、特定の人物に何度も何度も騙され続ける気持ちってどうなんでしょうか、と。 近代小説でそんな体験を描いた作品は他にないかと思い出してみたのですが、うーん、確か谷崎潤一郎の『卍』がそんな内容ではなかったか、と。 そーかー。やっぱり。 「やっぱり」というのは、『卍』もやはり「恋愛=痴情」を描いている小説だからですね。 今回報告する『黒髪』と後二作品(この文庫本にはその三作が収録されているんですが、どうも後一作連作として続きがあるようです。なんで、もう一つ載せてくれていないんでしょうね。)も、男と女の話、というより男の側からの一方的「痴情」を描いている作品です。 (「ストーカー文学」という理解も、特に連作第三作目はできそうです。しかし同じ「ストーカー文学」でも、武者小路実篤の向日葵のような「天然性」はありません。) 「痴情」と書きましたが、これらの一連の秋江作品は、発表当時「痴情文学=遊蕩文学」として糾弾されたものであります。(赤木桁平が新聞紙上で秋江批判を中心に「遊蕩文学撲滅論」を展開しています。私は本作を読んでいるうちに、「あ、これが例の…」と思い出しました。) さて、何度も何度も騙され続ける男と言うことですが、そもそも設定が、これでは騙されても仕方ないだろうというものではあります。 主人公の男は東京に住んでいながら、京都・祇園の遊女に惚れて、五年にも亘って七夕なみにしか会えないにもかかわらず月々送金し続けます。しかし、女は別の男とも平行して旦那関係を持ちます。そして何度も行方をくらまします。病気を偽ります。療養場所を騙します。問いつめれば女の「欲深」の母親が、罵詈讒謗の居直りの棄てぜりふ。……。 こういう展開が、実に淡々と、いえ淡々というよりはウェット気味に、筆者のペンネームからも分かるように江戸文学にも底通した筆致で描かれます。 本文庫の解説を、筆者と同級生でもあり同郷人でもある正宗白鳥が書いているのですが、筆者の周りにやはり実際に同様な出来事があったようです。 葛西善蔵とか嘉村礒多とかの書く、スタイルが似ているようにも思う「マゾヒスティック」な私小説作品が他にもありそうですが、それらの主人公は、「金・女・病」のひどい目に会いつつも、どこか「己の高み」を自負するところが見られます。 しかし、本作にはそれがありません。 主人公の「己の高み」を裏打ちしているものは、文学者の自負であることが多いのですが、本連作の主人公にはそれが見事にありません。 第一、主人公の職業や仕事ぶりに触れた描写が、(見方によっては不自然なほど)全く描かれていないんですから。 これって、やはり、筆者の意図的なものですよね。 つまり、筆者・近松秋江は、主人公のような「痴情」を自ら実践し、信じがたいほど女に騙され続け、そしてその事を極めて理性的に小説に再構成しているわけです。 こういう一連のことを真面目に実践する感覚とは、はたして一体どんなものなのだろう、という疑問が、私を(唖然と)感心させている、ということですが、おわかりいただけますでしょうか。 ともあれ、そんな作品です。実に不思議なテイストの作品です。 そして、独創性ということでいえば、やはり本連作は、日本文学史上に他の追随を許さず、孤高を誇って屹立する「怪作」である、としか言いようがないと思います。 未読の方はぜひお読みください。本当に、本当に。唖然と。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.16
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『思い出す事など』夏目漱石(岩波文庫) 冒頭に、まるで老人のような漱石の溜め息が描かれています。思わず「えっ」と思ってしまうような漱石の弱々しいつぶやきです。 伊豆の修善寺から帰ってきて、長与病院に入院している漱石です。窓から見える風景を書いています。 向に見える高い宿屋の物干に真裸の男が二人出て、日盛を事ともせず、欄干の上を危なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向に寝たりして、巫山戯廻る様子を見て自分も何時か一度はもう一遍あんな逞しい体格になって見たいと羨んだ事もあった。今は凡てが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬという不確な点において、夢と同じく果敢ない過去である。 1910(M43)8月にいわゆる修善寺の大患があり、漱石は800グラム(一説には500グラム)の吐血をします。 「瀬戸引の金盥の中に、べっとり血を吐いていた。」 「白い底に大きな動物の肝の如くどろりと固まっていたように思う。」 こんなちっちゃな表現でも、とってもうまいですね。胃から出た血のにおいが、鼻先にむっとしそうです。 その大患後、同年10月末から翌年の2月末までの間、「朝日新聞」にとびとびに連載された随筆が本作品であります。 修善寺では布団に張り付いたままで、手ひとつ動かすにも一仕事であった漱石が、約3ヶ月後にはその時の様子を一応原稿に書いているんですね。えらいものです。 そしてこの作品は一方で、漱石晩年のテーマ、「則天去私」の証拠品のようにいわれている文章でもあります。 確かに洗面器一杯の血を吐いた後の、横になったまま身動きできない自らの内心を語る文章は、「白眉」と評価の高い部分が散りばめられており、とても感動的な筆致です。 その有名どころを、ちょっとだけ抜き出してみますね。 「安心して療養せよ」という電報が満州から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己や朋友が代る代る枕元に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またある者は眼の前に逼る結婚式を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼らは皆新聞で余の病気を知って来たといった。仰向に寝た余は、天井を見詰めながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住みにくいとのみ観じた世界に忽ち暖かな風が吹いた。 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事は勿論である。彼らを以て、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も蓋もない話である。けれども彼らの義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼らの所作がどれほど尊とくなるか分からない。病人は彼らのもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返しの大地に普ねき内にしんとして独り温もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉を見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語よりも黙。……肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」 しかし、こうして書き写してみると、やはり実に味わいのある文章ですね。 誠実さとか、暖かさとか、東洋的あるいは太古的な価値観・人生観とでもいえそうなものが、心の奥深いところまで静かに染み込んでくるような文章であります。 漱石の弟子ならずとも、生死の境を経験した漱石が、「則天去私」という「悟り」の境地にとうとう到達したかの如き気持ちになってしまいます。 しかしまー、小説の一つも書こうという人間が、そう簡単に悟ったりはしませんわね、普通。 現在では、好意的にいっても「漱石は晩年『則天去私』の境地を目指そうとした」というあたりの文言が、文学史教科書なんかに書かれていたりします。 修善寺の大患時、漱石はまだ43才であります。 しかし43才の、長期に渡って心身を激しいストレスに曝し続けた男が、また長期入院をして、そして自らの過去を振り返り未来のおのれの肉体の可能性(不可能性)を嘆いている……。 江藤淳以降の、近年の「晩年の漱石理解」は、そんな生命力の衰弱した、極めて死に近いところに位置取っている漱石の寂しい姿であります。 さて、本随筆に再び戻りますが、漱石の随筆には時に難解なものがありますが(なんといっても圧倒的に頭の良かった方ですから)、この随筆の前半部、上記に触れた漱石の吐血までの部分は、そう思って読むからかも知れませんが、表現がぶっきらぼうで話がふらふらと飛んで、なんとも「難解」な感じがします。いかにも疲れた人の文章です。 そして後半の打って変わった、上記に触れた、美しい宝玉を流し込んだような表現との落差に、この後続く『こころ』『行人』『道草』などに見られる、「漱石的破綻」をものともせずに突き進んでいく晩年の漱石作品の魅力が、そのまま伺えそうな気がします。 とすればやはり、本作は漱石の一つの転換期を描いた、極めて重要な「問題作」であるのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.12
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『芥川龍之介』吉田精一(新潮文庫) しかるに大正四年三月九日恒藤あての書簡には、 周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのままに生きることを強ひられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ。(僕自身にも)僕は時々やり切れないと思ふ事がある。何故、こんなにして迄も生存をつづける必要があるのだらうと思ふ事がある。そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失ふことだと思ふ事がある。僕はどうすればいいのだかわからない。 ストリンドベリイを除いて、とくに彼が愛好したのはボオドレエルであったかも知れない。彼の境遇と病弱な体質と、そしてその性癖とは、同じく病弱で孤独癖があり、のみならずダンディだったボオドレエルに共鳴する所があったに相違ない。程度の深浅はあれ、地上の汚穢に疲れて、晴朗な天国を欣求しつつも、絶えず過剰な感性と知性とに禍いされて、厭世の薄暮の中をさまよっていた点で、彼はボオドレエルと揆を一にしていた。 少年にして高科に上るは人生の不幸という。彼の一生を顧みれば、少年のころから成績がよくて一家一族のほめ者であり、知らず知らず彼の性格にある重荷や、ある負担をあたえた趣があるが、「芋粥」の成功も同じ意味で或は不幸の因をなしたといえるかも知れぬ。 いわば彼は鴎外、漱石ほどに、普通の意味では、健康ではなかった。思うに漱石や鴎外の健康さは、東洋的なものと西洋的なものが、広い人間性の根底に於て抱き合うことが出来た所の、明治という時代の特性だったであろう。彼等と彼とでは、明治と大正との相違が見出されるといってもよいかも知れない。 芥川龍之介の最大の謎は、いうまでもなく自殺ですね。その動機。 「ぼんやりとした不安」という有名な言葉が、遺書の一つである『或旧友へ送る手記』に書かれていますが、一体それは何に対する不安なのか、多くの芥川研究がいろんな説を唱えています。 今回私が、この芥川龍之介の評伝を読んだきっかけも、この自殺の動機にあるといっていいように思います。 しかし、その特定はなかなかに難しい。そんなに簡単にできるものではなさそうです。 本書にも幾つかの示唆が描かれていますが、それをポイント的に絞ってまとめると上記引用のようになりそうです。つまり、 (1)生母の発狂と養子体験を因とする、青春期からの深いニヒリズムと人間不信。 (2)読書の影響。 (3)秀才の試練と不幸。時代の不幸。 しかし、こんなのを幾つ挙げてみても、鶏と卵のどちらが先かを考えるのと同じ様に、一番中心にあるものが何であるかは、まるで分かりません。 それは結局、一般論的な言い方になっても、人の行動の動機などは特定しきれるものではないとまとめるべきなのかも知れません。 さて、本書は吉田精一による芥川龍之介の作家評伝であります。 なかなか読むのが重い評論でありました。 しかしこの重さは、ひたすら誠実かつ正確な表現を追求した結果が生み出すものであって、およそ「はったり」とか「けれん」などとは縁のない筆致であります。 実際その緻密な文章は、なんだかページ一面がびっしりと文字で埋め尽くされているようで、近年の小説に多く見られる、のほほんとやたらに多い改行や、ほとんどムダな会話に埋め尽くされてすかすかになってしまった記述(それはお前の文章じゃないかと言われそうでありますが…)とは全く対極にある、実に密度の高い内容であります。 上記に私は本書を手にした理由として、芥川の自殺の謎を書きましたが、この本はその謎の推理に特化したものでは全くありません。 むしろ、彼の特殊な亡くなり方とは無関係に、淡々とその個人史を追っていきます。 それはまさに、芥川龍之介研究の基本文献を目指す、学術的な筆致であります。 (あとがきに「厚顔のそしりを甘受しながら」と書きながらも、「この書は芥川龍之介を知ろうとする人にとってスタンダアドのものであり、この書を除いて、芥川を云々するは怠慢であろう」と強い自負を語っています。) 近年、なぜか私は芥川作品に対する親近感が強まっているのですが、もちろん今までの私の読書がおよそいい加減な読みであったせいもありましょうが、彼の作品を読むほどに感じられる筆者の「純粋性」の様なものが、すでに彼の享年を遙かに越えて、何か尊いものとして、ひしひしと身に染みてくるのでありました。 そういえば本書にも、こんな表現がありました。 ひたぶるに耳傾けよ 空みつ大和言葉に こもらへるくごの音ぞある(修辞学)の磨きに磨いた措辞の美しさを見よ。この美しさを得る為に彼がいかに苦労したかは、「澄江堂遺珠」や、小穴隆一の「わたりがは」という文章で明らかである。隆一と二人がかりで詩中に使う一語を拾っていた龍之介は「わたりがは」という言葉を見つけた時、「君、僕はわたりがはといふ詞を知らなかつた。こんないい言葉があることはいままで知らなかつた。僕は知らなかつたよ」とうっとりして云った。「僕は僕の一生に於て、ああもうつくしい顔をみることが出来ない」と隆一は自己の感想をつけ加えている。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.09
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『永遠なる序章』椎名麟三(新潮文庫) 全く個人的な話から始めてしまうのですが、将棋は、なぜかわりと好きな気がします。「なぜか」というのは、囲碁と比べてという意味と、なぜ囲碁より将棋かと言われれば客観的理由が何もないから、の二点ゆえであります。 よーするに、理由も何もない好みなんですけどー、ということです。 さてその将棋界に、早いものでもう亡くなって13年にもなるのですか、A級棋士の村山聖という青年(29才にて夭折故、永遠に青年になってしまいました)がいました。 5歳頃にネフローゼを発症し、以来病気に苦しみながら稲妻のように将棋界を駆け抜けた天才棋士でした。 彼の一生を描いた作品に、こんな本があります。僕は、読みながら何度か泣きました。とっても感動した本の一冊でした。 『聖の青春』大崎善生(講談社文庫) なぜこんな話から始めたのかというと、この本の中に、村山青年が爪も切らず散髪もせず将棋仲間から不潔だと言われていたエピソードがあったのを、ふと思い出したからであります。 このことについて大崎善生は、自分の体から生えだし伸び出しているもの、間違いなく生きているそのかそけき健気なものを、村山青年は慈しみ愛おしみ、切るに忍びなかったのだと説明しています。 少年時より、二十歳まで生きられないだろうと言われていた村山青年は、世の中のすべてに対して、「自らの死」のフィルターを通して感じながら成長していきます。それしか選択肢がなかったからでもありますが、そんな彼の見詰めていた世界とは、果たしてどんな姿をしていたのでしょうか。 その世界の一端が、小説世界にあります。 実は、小説世界には、探せば結構たくさんあると思います。一つだけ挙げておくと、それは晩年の梶井基次郎の作品の中にあります。 『冬の蠅』『愛撫』『交尾』……、梶井は結核であるおのれの死を、すでに身近に見据えながら様々な対象に迫っていきます。 彼の小説には、「自らの死」のフィルター越しの彼の見る世界、静謐であると同時に猥雑で、美しくも醜悪で、そして何より健気な「生の世界」が溢れています。 さて、やっとここから冒頭の椎名麟三の小説の話になります。 主人公・砂川安太は、戦争で片足を失い、肺結核の上、開巻冒頭、心臓疾患を医師に告げられます。さらに友人の破滅医者からも、三月も持つまいと言われてしまいます。 物語のスタートラインは、そこです。目の前の死であります。 ところが、ここからの展開が、何といいますか、その設定から我々の予想しうる展開を見事に裏切るんですね、少なくとも私にとってはそうでした。 彼は、奇跡のような充実した人生を生き始めます。 うーん、こんな展開って、本当に可能なんでしょうかねー。 ただ、この話の中に何とも魅力的なシーンが(それもよく似た表現で何度か)出てくるんですが、それは、「おかね」という中年すぎの醜い貧しい便所掃除婦についてです。 これも実に奇妙な展開で主人公と「夫婦関係」になるのですが、彼女が「大いびき」をかくシーンであります。 私は中年女性がいびきをかくこんなに美しい場面は、初めて読みました。 用をすませたおかねは、すぐいびきを立てている。おかねのはびきは、音高く、大きく吐き出されては、ふととまり、それが息がとまったのではないかという不安を感じさせるほど永びいて、それから再び音高く吐き出されるのだ。極度の疲労と衰弱のために、かえって眠れなくなっている安太は、いつまでもそのいびきを聞いている。その彼に、肉親や一緒に寝て来たいろんな仲間の顔が思い浮かんでいる。それらの一つ一つの顔が、彼の前に現れては、にこにこ笑いかけるのだ。そのたびに彼は微笑している。そしてやがてふと、彼は何の予感もなく、おかねへ身を寄せながら眠っている。 しかしこの、極めて観念性が高くも、間違いなく圧倒的な独創性を持つ作品を描いた椎名麟三が(ひょっとして私の誤解かも知れませんが)、その後「大作家」としての円熟を迎えなかったことについて、私は、小説以上の、運命の何とも言いようのない不思議さを感じるのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.05
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『桑の実』鈴木三重吉(新潮文庫) 今回私が読んだこの本は、例によって大型古書店で最安値で買ったものです。 奥付を見ますと、こんなふうになっています。 昭和二十四年十二月五日 発 行 昭和四十二年 八月十日 十九刷改版 昭和四十九年十月三十日 二十九刷 これを見てどう感じるかでありますが、どうでしょう。 私は、へぇー、結構読まれているんだ、と感じました。特に十九刷改版以降ですね。七年で十回増し刷りをしたんですから、結構売れた、つまり一応まずまず読まれていた、ということですよね。 漱石晩年の弟子である芥川龍之介、菊池寛を除けば、漱石の直系の弟子は小説家として大成した人はいませんでした。(白樺派みたいに、漱石には憧れてはいたが、という人々は外しますね。そういうのまで入れてしまうと、谷崎潤一郎だって対象になってしまいます。) 私の持っている日本文学史の教科書には、久米正雄、松岡譲という名前が、芥川を中心にした集合写真のコメントに載っているだけであります。 「出藍の誉れ」というのは、なかなか難しいものですね。 ということで、鈴木三重吉についても、私は「漱石の弟子の」という枕詞のついた人という印象がぬぐえません。そして、それと併せて、漱石の随筆『文鳥』に出てくる、という人。 この度、そんなことが気になってちょっと『文鳥』を久しぶりに読み直してみたのですが、思っていた以上に、「三重吉」の名前がそこいら中に出てきます。主要登場人物といってもいい位置づけです。 なるほど、鈴木三重吉の名が出た時、私が「あの『文鳥』に出てくる人」と反応したのも宜なるかなであります。 漱石の弟子である、あるいは漱石が自分の作品で触れたがゆえに有名である、という人は結構いるように思いますね。 「三重吉」を初め、森田草平や小宮豊隆、寺田寅彦なんかも「有名」ということでいえばそうだと思います。 鈴木三重吉は、日本の児童文学史上とても大きな足跡を残している人だそうですが、そのことで有名だとはあまり思えませんよね。 寺田寅彦も近代日本物理学の黎明期における著名人だそうですが、一般性ということで言えば、そのことで有名だとは言い難いように思うんですが、そんなことありませんか。 もちろん私自身の無知さ加減のせいですが、寺田寅彦といえば「天災は忘れた頃にやってくる」というアフォリズムと、椎茸を食べて前歯を二枚折った人、という理解であります。(しかし、えげつない記憶の仕方ですねー、我ながら。) そもそも文学作品のモデルになる(ならされてしまう)というのは、どういう感じのものなんでしょうね。 上記の「椎茸を食べて前歯を二枚折った」というのは、『吾輩は猫である』の中の水島寒月のエピソードであり、この人物は寅彦がモデルとされているんですね。 この水島寒月にしても、『文鳥』に出てくる「三重吉」にしても、漱石は愛情溢れる書きぶりで描いてはいるのですが、何といいましょうか、読み物ですのでそこには多少誇張があり、いわば少し、漫才の「ぼけ」的に書かれてあるのも事実であります。 これは又聞きの話ですが、晩年の寺田寅彦は、漱石に対する愛情は薄れなかったものの、『猫』とか『三四郎』の登場人物のモデルとして理解されていることについては(作中のエピソードを事実のごとく理解する人が絶えないことについて)、少々苦々しい気持ちを持っていたということであります。 いえ、気持ちはよく分かりますが。 えーっと、枕のつもりが、長い話になってしまいました。 今回報告の鈴木三重吉の『桑の実』ですが、内容は、実にどうって事のない話であります。少々誇張して言うと、あたかも明治時代にタイムスリップした保坂和志が書いたのように、ほとんど「日常生活の裂け目」的エピソードのない小説であります。(でも、保坂和志よりは少し「裂け目」はあります。) 特に今読むと、なにかノスタルジックな雰囲気だけがずっと作品中に流れていると感じる作品であります。(ノスタルジックというのは、現在の視点で明治時代の作品を読んでいるからと、「桑の実」から私がすぐに連想したのが童謡『赤とんぼ』であったからでしょうか。一般性のある感じ方かどうか、少し疑問がありますね。) これもふっと思っただけの印象ですが、同じく漱石山脈関係の作家・中勘助の名作『銀の匙』、あの小説にも少し似ていそうな気がしました。 悪くない優しい雰囲気があります。 しかし、筆者はその後、「小説家」としては筆を折ってしまいます。 児童文学者、特に雑誌『赤い鳥』の出版者としての道を歩むんですね。 上記でも触れましたように、それはそれで優れた業績なのですが、少しそのことは置いて、『桑の実』の様な小説を書いた作家が筆を折ったということは、小説における「物語性」の役割ということについて、またあれこれと考えることのできる事例であります。 さて冒頭で見ましたように、つい最近まで、この圧倒的に起伏の少ない小説は結構読まれ続けていたんですね。 しかし今回私も読み終えて、内容を反芻などしていると、なるほど何となく読まれる感じが分かるなと納得してしまう、そんな「魅力」の小説であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.03.02
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