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『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹(講談社) 今回はちょっと、最初になぜこの本を選んだかを書いてみます。 そもそもは評論家の関川夏央が、私の読んだ二冊の本の中で共に高野悦子に触れていたことです。 この高野悦子とは、もう今となっては昔、1969年に二十歳で自殺をし、その後親族が彼女が残した日記を出版したらベストセラーになった『二十歳の原点』の作者高野悦子のことです。 実は以前にも私は、本ブログで確か『赤頭巾ちゃん気をつけて』を取り上げた時に上記の関川夏央の一冊に触れました。その高野悦子を取り上げた個所が、なかなかいい文章だったんですね。 今回読んでいた本にもまた高野が取り上げられ、そしてそれも感情の籠もったいい文章でした。 そこで私は、二回も取り上げた関川を少々訝りながらも気になっていたら、たまたま図書館にあったので『二十歳の原点』を借りて読んでみました。 私もかつて、たぶん二十歳前後の頃に読んだ本です。でもその時ははっきり言って、部分的には興味深く読みながらもトータルとしては一過性のベストセラーという感じが、たぶんしました。(だからその時読んだ『二十歳の原点』は買ったのですが、今わが家にはありません。) ところが今回読んでみると、何というか、いいんですね。 なんか読んだ後、柄にもなく心がざわざわするんですね。この心のざわざわは何だろうかと考えたんですが、これはやはり感動というものだろう、と。 そこで高野悦子『二十歳の原点』についてちょっとネットで調べてみました。 すると幾つかのことが分かったんですが、思いがけなく今でも『二十歳の原点』は一部で根強い人気があることを知りました。 そして、そんなページを幾つか覗いていたら、やはり関川夏央が出てくるではありませんか。 で、ああそうかぁ、と私は分かったんですね。 つまり、彼の高野悦子への強いシンパシィの理由が。 彼等は同年生まれでありました。(学年は一つ違います。) 後の話が早いので、3人の生年月日をまず並べてみますね。 高野悦子→1949.1.2 村上春樹→1949.1.12 関川夏央→1949.11.25 ……えー、さて、ここになぜいきなり村上春樹が出てくるかと言いますと、もちろん今回取り上げた作品の著者だからですが、そしてそもそもこの文章はこの方に繋いで行くために書いているのですが、これはやはり上記のネットのあるページに、お二人の同級生の指摘があったせいです。 とまれ、そういうわけで改めて関川夏央の高野悦子に触れた文章を読んでみました。 以下に上げた部分はその文章の末尾のところだけですが、こんな風に書いてあります。 六〇年代末、時代の空気には、彼女に限らず、誠実な青年に過剰適応を強いる悪意が潜んでいた。いたましい、とつぶやくのみである。(『本読みの虫干し』岩波新書) 「いたましい」も気になる表現ですが、その表現の真意をさらに知りたい箇所として「誠実な青年に過剰適応を強いる悪意」があります。 なるほど、高野悦子は時代の潮流に過剰適応を強いられたのか、そこのところを少し斜に構えられたらそうならずにすんだのか、ではそうならずに済んだ他の同時代人は何をどう表現したのか、と繋いでいった結果浮かんだのが村上春樹(高野とわずか10日違いの誕生日!)、そして冒頭の短編集だったという経緯であります。 というのが、……えー、本書に至った経緯なんですが、……でも、あー、はっきり言いまして、これはミスチョイスだった気がします。 村上春樹の本書にはどうも時代が青年に過剰適応を強いる悪意は描かれていない(もちろん、全く描かれていないとは思わないのですが)と感じました。(かつてあの時代、セックスは山火事のようにタダだったとかが書いてありますがー。) ではその代わりにあるものは何かといいますと、様々な現代人の「病み方」であると思います。 この短編集の主人公たちは様々な状況下で様々な原因で病んでいます。筆者はその姿を都会的にシャープに綴っているのですが、うーん、どうでしょうか……、私には少し設定の安易さ(みんなヤング・エグゼクティブみたいな方のアーバンライフの話です。バブル期直前はこんなのが流行りだったんでしょうが。)と深みにかける感がしました。 村上春樹の初期の短編集といえば、ほとんど奇蹟的に完成度が高い『中国行きのスロウ・ボート』が本作に先行してありますが、私としてはなんだかちょっと退行した作品群のように感じたのが少し残念でした。 以上です。あと言わずもがなのことを追記しますが、本年度のノーベル文学賞をカズオ・イシグロ氏が受賞したことで、村上春樹の同賞受賞は近づいたのですかね。スルーになったってことは、ないんでしょうかね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.11.25
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『日本文学盛衰史』高橋源一郎(講談社文庫) 今年もいよいよ終盤になり、漱石イヤー2年目も終わろうとしている、そのせいでもありませんが、なんとなく漱石関係の文芸批評をあれこれつまみ食いをしながら読みました。(ところで次回の漱石イヤーは、やはり約50年後なんでしょうかね。なんか少し寂しい気がしますね。……べつにしませんか。) 読んでいたのは本ブログに取り上げた作品以外に、小谷野敦、石原千秋、関川夏央といった方々の文章を集中的につまみ食いしました。 しかし実際、世界は平和や経済について混迷の度合いをますます深める21世紀前半に、こういった文芸評論のたぐいを続けて読むと、非現実的な気分をはるかに通り越して、なにかアブノーマル、変態的な思考のような気がします。 世間に背を向けて生きるのもなかなか大変なことです。はは。 さて、その「仕上げ」が本書です。講談社文庫658ページであります。再読です。 ……うーん、しかしこれは、いかにも長い。この著者には類似テーマの『官能小説家』とか『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』とか、これまたやたらと長い作品がありましたが、今回も長い。2回目読んでもやっぱり長すぎる。 作者も相当疲れていると思われますが、それもそのはずで、そもそもが文学なんていう「結論」の出るはずもないテーマをずっと考え続けるわけですから(それに高橋源一郎という方は、私生活についてはそうなのかどうかは存じませんが《クグるとなかなか興味深そうな私生活がいろいろ書かれてありましたが》、こと文学に関してはとても真面目な方です)、疲れるはずでそれが高橋作品の中の例の「ナンセンス」になるんじゃないかと思います。 例の「ナンセンス」とは例えば本書で言うと、二葉亭四迷の葬式で夏目漱石が森鴎外に「たまごっち」をねだるなんて場面のことです。 わたくし思うに、これは手塚治虫漫画の中の「ひょうたんつぎ」や「オムカエデゴンス」ってヤツですね。作品内の真面目圧力がかなり高まった時の「ベント」ですね。(「ベント」って言い方は少しよくないですかね。例の原子力発電所事故で人口に膾炙した用語ですものね。) (さらに少しだけ付け加えますが、えらいもので本書は1997年から書き始められ2001年に刊行された作品ですが、真面目に語った部分は全く古びていないにもかかわらず、こういった「ナンセンス」部は無残なくらいに古びています。他の「ナンセンス」部分も大同小異で、ひょっとした筆者の「ナンセンス」センスは、あまりよくないんじゃないかしら……。) しかし、田山花袋がAV監督になるというエピソードは「ベント」ではありません。 実は私は、この長い小説の中で、田山花袋と漱石の『こころ』の2つのエピソードが印象に残りました。この2つを少しだけ以下に紹介してみます。 花袋がAV監督になるというのは、花袋の自然主義についての信条「露骨なる描写」の敷衍を真剣に考えた結果なんですね。 そもそも高橋源一郎はAVへの文学的興味を描いた作品が他にありますが、花袋の『蒲団』の主人公の女弟子に対する感情を徹底的に「露骨なる描写」していくと、行きつくところは人間の考えうるあらゆる性的嗜好何でもありのAVに到達することは、まぁ、当然といえば当然であります。 ただそこに広がるものは不毛以外の何物でもなく、寓話としてはとても興味深く読むことができましたが、得たものは殺風景なものでしかなかったのが少し残念でした。 もうひとつの漱石『こころ』のエピソードですが、これはなかなか巧妙に書かれています。 なんでもありーの高橋源一郎ですから、最初は小説ではなくて文芸評論的に展開していきます。このエピソードは文庫60ページくらいの分量がありますが、冒頭から半分くらいまでが文芸評論的に進んでゆき、そこから小説描写がカットバックされて最後は二人の有名な文学者による会話描写で終わっています。 このエピソードで筆者が述べているのは、『こころ』の「K」のモデルは誰であったかということ、もうひとつは「K」の意味であります。 まず「K」のモデルですが、筆者は石川啄木がそうだと書いています。この結論に至るプロセスはなかなか興味深く、また本書には啄木の姿が様々なエピソードに点在していて、それなりの説得力を持ちます。 そして「K」の意味ですが、筆者はこれを『こころ』の不思議な伏線から説き起こします。『こころ』の不思議な伏線とは、作品冒頭のこの部分です。 私は最後に先生に向って、何処かで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じをもっていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚がありませんね。人違じゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。 筆者は、ここの伏線は作品の中でまったく回収されていないと指摘するんですね。そしてこの「極度に思わせぶりの書き方」の原因は何かと探っていくのが、このエピソードの眼目です。 ここを読みながら私は思い出したのですが、我が家に『漱石の実験』松元寛(朝文社)という本があるのですが、なぜこの本があるのか忘れていたのですが、この高橋作品で触れられてあったのでたぶんネットで買ったのでした。 それは、思わずネットで注文してしまうスリリングな展開でありました。 (松元氏の本についても少しだけ書きますと、例えば『こころ』の「先生」の自殺理由がよくわからないのは、「先生」が「私(青年)」に本当の自殺の原因を隠しながら遺書を書いたからだと喝破するというとても興味深い内容でした。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.11.11
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