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『ここはとても速い川』井戸川射子(講談社文庫) この筆者も、令和以降のバリバリの新人で、新しい人の作品を読もうとする時は、少しドキドキしますね。 それはもちろん新しい世界や物事を教えてもらえるわくわく感もありますが、いわゆる「純文学」なんかの場合は、その新しさに自分ははたしてついていけるのかという不安みたいなものも伴っています。 これは、芸術的なものすべてに通じるのかもしれませんね。 新しい音楽や新しい美術などについて、我々素人が「んんーー、まるでわからん」と感じるのを始め、その分野の権威者たちが新人賞の審査で意見が食い違う、挙句の果ては大げんかになるという話もよく聞くようです。(芥川賞でも、もう新しい作品はわからないから審査員をやめると言ってやめた方がいましたね。) で、さて、今回の新人の作品ですが、この文庫本には2作の小説が収録されており、もちろんそれぞれ違いはあるのですが、まとめて鑑賞できる部分がかなりあって、でもそうしはじめると結構複雑で、わたくし戸惑いまして、はたと気づきました。 これらの小説は、内容と形式を分けて考えたほうが良い、と。 もっとも、内容と形式を分けて考えるというのは、小説鑑賞の基本ではあるのですが、なぜ今回私が特にそう感じたのかというと、本作(本作たち)は、おおよそ、以下の短文で評価できるんじゃないかと感じたからです。この短文。 「新しいうつわに古い酒を盛る」 (書いた後、気になってちょっとググってみましたら、この言い回しは「新しい」と「古い」が逆で、「古い容器に新しい酒を入れるな、新しさがだめになる」という意味の表現らしいですね。うーん、無知とはいえ恥ずかしい……表現が逆なうえに言いたいことがまるで違うと、少し困りましたなー……。) えー、ざっくり私の言いたいのは、 1.作品の表そうとしているものは、さほど新しいものではなく、普遍的な文学テーマともいえそうなものであるということ。 2.作品の描き方については、極端な改行のなさ、句読点のランダムとも言えそうな用法など、かなり新しい試みがなされているということ。 読み始めてすぐ気になるのは(この改行のなさは、読み始める前から「え?」ではありますがー)、上記「2」ですね。読みにくいこと甚だしい、という感じです。(ブログやSNSだったら一発で非難、というより誰にも読んでもらえない。) でも、仮にもこれだけの作品を書き上げている作者がそんなことに気づかないはずはないわけで、だとすると、これは意図してそうしているわけでしょう。つまり、狙いがある。 その狙いとは? わたくし、あれこれ考えまてそしてググって知ったのですが、この作家まず「詩人」系の方だったんですね。 なるほど、これは詩のイメージ作りだな、と。 例えば本文にこんな一文があります。 電車を待ちあちらのホームと向かい合っている、目前の男はひるがえる、大きなワッペンのついたリュックを体の前に抱えている。 ここに二つの読点がありますが、どちらも変なところに打ってありますよね。普通は(二つ打つとすれば)こうじゃないですか。 電車を待ちあちらのホームと向かい合っている目前の男は、ひるがえる大きなワッペンのついたリュックを、体の前に抱えている。 こちらのほうがはるかに読みやすいですよねー。 でも、原文のほうには、私が考えるに二つの詩的技巧がなされています。 まず一つは「ひるがえる」の下に読点を打ったことで、読者は一瞬ひるがえっている男をイメージすること。「ひるがえっている男」とは何のことか厳密にはわかりませんが、そんなイメージを文意とは別のところで持ちながら読んでいく、これは詩によく用いられる用法です。 二つ目、これは私の単なる思い付きなのかもしれませんが、元の一文は、読点と句点の前で、「いる」「える」「いる」と押韻しています。……うーん。 と、いう風に私は詩的な効果をまず読んでみました。しかし、加えて、まだ何か感じるところがあります。 それは「電車を待ちあちらのホームと向かい合っている、目前の男」というもののとらえ方が、なにかおかしい、なんかへんじゃないか、と感じられることです。 そして、この作品の描写には、少なからずこんな表現が出てきます。 これは、どう考えたらいいのでしょうかねー。 一番手っ取り早いのは、描写がへたくそ、でしょうかね。 でも、そういっちゃうと終わってしまうし、感覚的にそれはあまりない気がします。 次に考えたのは、改行のなさなどと合わせて、筆者は読みにくい文を読みにくい文をと考えて書いた、ということ。 なぜか。 ゆっくり読ませたいからでしょう。そう読んでもらうほうが私(筆者)の作品はよくわかってもらえると、筆者が考えたからではないでしょうか。(事実このいらいらしながら読む展開を経てこそ、終盤のカタストロフィーは確かに活きてきます。) これがたぶん正解な気がしますが、私はちらっともう一つ思ったことがあります。 それは、この文体の特徴(めいたもの)は、この筆者だけのものじゃないのではないかということです。つまり、21世紀になってすでに四半世紀になろうとしている今、日本語の表現が、まるで地殻変動のように大きく形を変えつつあるのではないかということです。 そんなことを、「形式」について考えました。 これが「毀」なのか「誉」なのか、私にはまだよくわからないのですが、新しさの形であることは間違いないと思います。 さて、「内容」が残りました。 これについては、上記に普遍的な文学のテーマと書きましたように、特に驚くほど新しいものではないとは思います。しかしこれは、文学の本道を歩んでいるものでもあります。 それはつまり、わたくしが思うにこういうことです。 何かが壊れている世界で(しかし世界はいつも何かが壊れていて、またそこに文学などの入る余地があるのですが)、その中に生きながら(普通の暮らしぶりのように装いながら)、しかしそれでは生ききれず、じわりと滲み出すように、あるいは突然の暴発のように、心から溢れはみ出していくひりつくような生の痛みの感覚。 本書では、一つ目の小説は少年たちの心を、二つ目の小説は若い女性の心を描いています。私は、作品としてこれらをこの形式で書き上げたということについて、まず力作であると大いに評価するものであります。 ただ冒頭にも書きましたが、本作たちはしかし読むにはあまりにつらい。文体の風通しが悪い気がします。 例えば一作目に描かれた少年の心には、普遍的な切なさが確かに常に内包されているとは思いますが、同時に、やはり純朴ゆえのたくまぬユーモアがあふれ出たりもするものです。しかしこれについては、残念ながら私は弱いと感じました。 まじめで一生懸命な作家なのだと、不遜ながら思います。 しかし、まじめで一周懸命であることは、何より才能の最強の伴走者でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.02.27
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『わたしがいなかった街で』柴崎友香(新潮文庫) この作家も、わたくし初めて読むのですが、新潮文庫の裏表紙にある「宣伝文」の最後に、「生の確かさと不思議さを描き、世界の希望に到達する傑作」とあって、まー、この文章なんかはいわゆる「仲人口」でしょうから、そのまま鵜呑みにしていたわけではありませんが、でも、読みながら、どの辺から「世界の希望」に連れて行ってくれるんかなーと、少しドキドキはらはらしながら読みました。 この引用文の前半の部分については、本書を読み始めてわりと早い段階で納得できる書き方になっていたんですね。例えば、こんな感じ。 長い間そうだったが、このところ特にまとまらない感じがする。人と話したり家にいたりテレビを見たり電車に乗ったり、勤務先でパソコンに向かって文字と数字を入力したり電話を受けたり、それから先週のことやおととしのことや前のことを思い出したり、そういうことが自分の一日の中に存在するのは確かだが、それらが全体として現在の「自分の生活」と把握できるような形に組み上がっていなくて、ただ個々の要素のまま、行き当たりばったりに現れ、離れ、ごみのようにそこらじゅうに転がっている。 いかがでしょう。主人公のこの感覚は、かなりストレスのかかった神経症的な状況の説明で、さらにざっくり「文学的」にまとめると、「存在の不安」とか「自同律の不快」とかで言い換えることのできるものじゃないかなと思います。(ということは、文学の普遍的テーマ、あるいは少し意地悪に言えば、よくあるパターン。) で、ここからどう「世界の希望」につなげていってくれるのか、という、期待と不安ですね、それを持って読んでいたわけですね。 でも、まー、よく考えたらこの「宣伝文」の「世界の希望」という表現がそもそも、なんのこっちゃかよくわかりませんねー。あまりにアバウトなまとめ方で、ほぼ何も言ってないのに同じでありますわねー。まー、そんな言葉に引っ張られる方もよくないのかもしれませんがー。 というわけで、私は「世界の希望」はわかりませんでした。 ただ、この作家が描こうとしているものについては、多分こんなことじゃないかなという感じがしました。それは、上記に私がこれもかなりアバウトにまとめた「存在の不安」についてであります。 例えば本書には、圧倒的な分量で様々な土地や場所のかなり細かい描写があります。そしてその様々な土地や場所で、主人公は存在論的不安に戸惑っているわけですね。 ただ、そこに描かれているかなり「客観的」な風景描写は、無機質に放り出されているように描かれながら、その量の異様な多さが、読者の感覚に質的な変化、つまり、「不快」なだけではない、何というか、透明感とか、懐かしさなどを感じさせるものになっているようです。 これこそが、言ってみれば、この作品の第一の魅力のように想います。 ただそれは、かなりマイナスなものとも紙一重で、まず、なんと言っても話の展開が退屈であること。そのクールな描写の先に意味づけがないので、読み進めていって結局肩透かしを食ったような感じになってしまいます。(本書には、本作の後に27ページの短編が収録されているのですが、基本的には同タイプの小説で、ただこのタイプの小説は「量」がかなり大切と思われ、30ページ足らずでは何のことかよくわからなく終わっているような気がしました。) ただし、筆者は作品中にけっこうたくさんの仕掛けも作っていて、それが肩透かし感をかなり薄めてくれてもいます。(そんな個所は、いってみれば普通の小説で、ただ、その前後が無機質っぽい描写だから、読んでいてほっとしたりします。) 海野十三の日記の引用とか、主人公が離職にいたるエピソードとか、有子の父親のキャラクターとか、いろんな工夫が見られるのですが、読み終えて結局の所よくわからなかった(初読だし読解力に少々難のあるわたくしですので)のが二つ残りました。 一つは、終盤にその理由について少し触れたところはあるのですが、主人公がなぜ世界の様々な戦場の残酷な場面を見続けるのか、それに惹かれる本当の理由であります。 もう一つは、中盤から存在感を増してくる葛井夏という女性について、主人公の女性との違いがよくわからないことであります。 あるいは、これは意図的に違いなく描いている、つまり、小説的には、同一存在であるとしているのか、そのあたりがよくわかりませんでした。 ただ、こんなある意味何も起こらない小説というのは、いかにも「小説的」といえば「小説的」でもあります。(よかれ悪しかれ「文学的」) 本作はそれでも(上記に記したように)日常生活の中の裂け目のようなものは描かれているのですが、この何も起こらない小説の「本家」みたいな作家は、たぶん保坂和志だと思います。 この作家の小説は、本当に何も「事件」が起こらず、しかし、かなり「玄人」っぽいファンが多いことで有名です。 本書も、似てるような似てないような、そんなところが、まー、魅力のひとつでもあるのでしょうかね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.02.12
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