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『俺の自叙伝』大泉黒石(岩波文庫) さて、大泉黒石であります。 って、果たしてどれほどの方がこの名前をご存じでいらっしゃったでしょう。 自慢ではありませんが、もちろんわたくしも全く存じ上げませんでした。 と、いうより、岩波文庫、ちょっと、やりすぎでないかい。 いえ、本来私は岩波文庫の出版基準については、大いに一目も二目も置いており、さすが日本文学の老舗出版社と「リスペクト」致しております。 本当にその敬愛と尊敬はかなり以前からなのですが、特にさすがだなあと思ったのは、上司小剣の作品集を読んだ時で、この時は岩波文庫の目の高さに、まさにひれ伏すような感覚でありました。 で、この度の大泉黒石でありますが、いえ、日本文学の研究者の方ならご存じの作家なのかもしれませんが、例えば高校レベルの文学史の教科書なんかには、まったく出てきません。(それは上司小剣も同じですが。) わたくし、気になったのでちょっと調べてみました。 まず学燈社の『日本文学全史』の第5巻「近代」の索引を見てみましたが、大泉黒石の名前はありません。(ついでに第6巻「現代」も見ましたがありません。) 次に新潮社の『日本文学小辞典』に当たってみたら、さすがにありました。 ただ、3段組みの本文体裁ですが、そのわずか10行だけであります。(これもついでに上司小剣を調べたら、3段組み丸々1ページ以上の記載がありましたよ!) そこで、冒頭に私が書きました「ちょっと、やりすぎでないかい」でありますが、しかし、わたくしもう一度考えたんですね。 つまり、本来このような作家の作品こそが、わたくしがこの拙ブログで取り上げようと考えていたものではなかったか、と。 思い起こせば、ぼそぼそと10年以上も本ブログを発信してきて、いつのまにかなんでありーになっていますが、(一応「純文学作家」というのを微妙に守っているような、破っているような……)最初に私が考えた、本ブログで取り上げる作品・作家の基準はこうでした。 1.メジャー作家の、相対的マイナー作品。 2.メジャー作家の中の、相対的マイナー作家の作品。 (2番の注釈を入れますと、日本文学史の中に名前が残るというだけで、その作家はすでに「メジャー作家」であると前提し、その中の「相対的マイナー作家」という基準ですね。) この基準に照ら合わせますと、この大泉氏なんかはまさに、ど真ん中のストライクであります。 ということもあれこれ考えつつ、私は本書を読み始めたのでありますがー……。 しかし考えれば、「自叙伝」というジャンルについて、今までわたくしあまり読んできませんでしたし、またあまり好みでもありません。 小学校のころ読んだりする『ナイチンゲール伝』とか『野口英世伝』とかも、あまり面白くなく、ルパンかドリトル先生のほうを好んでいました。(しかし、伝記文学というジャンルは、特に世界文学の中では優れたジャンルのものであるというのは、何かで読んだ気はしますが。) もっとも、日本文学は、「自叙伝」と銘打たないだけで、「私小説」なんかはよく似た内容のものだという気はしますが。 ともあれ、読んでみました。 ……長い。380ページ余りあります。 それが4つの章に分かれているんですね。章題をちょっと書き出してみます。 「少年時代」「青年時代」「労働者時代」「文士開業時代」 この第1章の「少年時代」が筆者のほぼデビュー作で、これが雑誌「中央公論」で評判になったそうです。そして、2編3編と書き継ぎ、それを書いている現時点あたりを第4章で書いて終わっているという形式であります。 そしてこの執筆当時は、売れっ子のベストセラー作家であったそうです。 なるほど、読んでいて、後の章になるほど、どんどん面白くなってきています。 第4章などは、それだけでまとまった作品になっています。というより、この第4章は「自叙伝」の形ではなくて、亡くなった祖母の遺骨を持って故郷長崎に行くという一つのエピソードだけが描かれています。(面白いです。) そんなお話でした。 で、読み終えて、わたくし的に感動したとか、ああー、面白かった、となったかというと、そこが少し当て外れでありました。(だから冒頭の「やりすぎ」うんぬんが出てきたんですね。) ただ、初出当時本作が大いに読まれたということについては、納得するところがありました。それは、主人公の人物(「俺」で、一応作者自身ということになっています)の性格設定が、とても魅力的であるからです。 それは例えば、同じく「俺」の一人称小説、漱石の『坊ちゃん』を並べて挙げてみるとよくわかると思います。主人公の性格に、適度な世間知のなさや愚かさがあり、そしてそれ以上の純粋さ、一本気さがあります。 ここに至り、私は、はっと気が付いたんですね。 あ、そういうことか、と。 それはつまり、そういった魅力を持つ主人公は、必ずや時代を超えて読者に愛されるはずであるということを、岩波書店の文庫担当の方々が、……なるほど、狙ったのか―、と。 ……うーん、穿った経営戦略でありますねー。 (私のこの推理のほうが、もっと穿ってますかね?) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.11.19
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『二百十日・野分』夏目漱石(岩波文庫) この文庫の解説の冒頭に、これらの作品がいつ書かれたかが述べられてあります。解説を書いているのは、小宮豊隆です。 それによりますと、明治39年の9月に4日間で「二百十日」が書かれ、12月に約二週間で「野分」が書かれたとあります。 うーん、唖然とするような、漱石の天才のほとばしりですよねー。 さらに、このころは漱石はまだ大学の先生をしている時でありました。唖然の上の唖然であります。 唖然と言えば、やはり唖然とするのが、本作前後の漱石の作品群です。ちょっとタイトルを並べてみますね。 『草枕』→「二百十日」→「野分」→『虞美人草』→『坑夫』 どうですか。あれこれ唖然とする材料はあるでしょうが、私が唖然とするのは、漱石の文体についての怖ろしいような引き出しの多さであります。文体がカメレオンのようにころころと変化していってます。そして、それがほとんど完成形に近い、と。 漱石は38歳から小説を書き始めるという晩成型であったせいか、発表作にいわゆる「若書き」といったものがありません。 しかしこうして並べてみると、やはり改めて唖然というか、圧倒される感が大いにありますね。 あと少しこれに付け加えると、「野分」の後に漱石は朝日新聞社に入社、つまりプロの小説家になります。もうひとつは、『坑夫』の次の作品が、漱石全作品の中でも大変完成度が高いといわれる『三四郎』であります。 さて、そのくらいの唖然を前振りとして、まず「二百十日」を読みました。 実はわたくし、漱石の主だった作品は3回以上は読んでいます。一番たくさん読んでいるのは『こころ』で、5.6回は読んでいると思います。 それと同じくらいにたくさん読んだのがこの「二百十日」で、その理由は、昔わが家に少年少女版の漱石作品集があって、その中に収録されていたからだと思いますが、短くて読みやすくて、なによりこの落語のようなセリフのやり取りがとても面白かった記憶があります。 冒頭近くの竹刀と小手の話などは、わたくし涙を流して笑いながら読んでいたような覚えがあります。 そんな思い出のある「二百十日」ですが、今回読んでみて、ちょっと、あれっと思いました。そんなに面白くなかったんですね。でも、まー、涙を流したのは半世紀近く昔のことでありますし、やむなし、かなと思ったわけです。 そのかわり続いて「野分」にとりかかって、私は、あ、「二百十日」というのは「野分」の序章のような話なんだなと分かりました。 面白くも観念的であった「二百十日」の圭さんと碌さんの会話に、少し具体性を加え小説的に展開させると「野分」になることがわかりました。 そして同時に、私は「野分」について、これもかなり昔に読んだきりでしたので、とにかく主人公が嵐の日に演説をする話だとしか覚えていなかったのが、思いのほかに小説的な展開(高柳や中野といった青年たちの話が絡んでくる)があることに、少し驚きました。(しかしよく考えたら当たり前の話で、主人公の演説しかないような小説を漱石が書くはずはありませんよね。) で、わたくしけっこう楽しく「野分」を読み終えました。そして、少しボーとしながら「教えられる喜び」ということを思い出しました。 これは以前にも拙ブログで書いたことがあると思いますが、小説を読む喜びの中に、作中人物に教えられて心地よい、というのがある(少なくとも私にはある)と思っています。 漱石作品でいえば典型的なのは『三四郎』の「広田先生」です。この「偉大なる暗闇」と別称される登場人物には漱石の身近にモデルがいたらしいですが、とにかく彼の言動から、文学や人生や学問などのことについてあれこれ啓蒙されるのが、読んでいて存外に楽しいと、私なんかは思っています。 この喜びは、例えば司馬遼太郎の小説にも、しばしば展開から横道にそれて語り手が顔を出して語り始めますが、同様の読書の楽しみだと思います。 白樺派の作家たちなんかは、そんな啓蒙話芸を小説のテーマにまでした一群の方たちという気もします。(武者小路実篤『真理先生』、長与善郎『竹沢先生という人』など。) と、そんなことを考えたのですが、さらに私はふと「白井道也先生」と『三四郎』の「広田先生」はどこが違うかと思いました。 ちょっと考えましたが、やはり両者は違うだろう、と。そして、漱石は、道也型から広田型にキャラクターを変化させていき、とうとう晩年の作品には、同じ「先生」と作中で呼ばれながらも、完全に形を変えてしまった『こころ』の「先生」に行きついてしまったのではないか、と。 「道也先生」の演説が代表する本小説のテーマもさることながら、この変わりゆく姿に、漱石の生涯の小説テーマの「主戦場」変貌のプロセスを重ねることも、あながち強引ではあるまいと、私は思ったのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.11.05
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