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『英子の森』松田青子(河出文庫) この作者は、わたくし、初めて読んだ作家ではありません。少し前に『スタッキング可能』という本を読みました。(これは個人的な私の問題なのかも知れませんが、若い作家の作品を初めて読んで、また次も読みたいと思える方が、どうもあまりいないように感じるのですが、やはり私自身の問題なんでしょうかねえ。) 『スタッキング…』は、とてもおもしろかったです。 しかし、そもそもこの筆者のペンネームは、これは何なのでしょう。まあ、近代日本文学史を遡れば、二葉亭四迷という大物の人を食った筆名がありますから、この程度はまだおとなしいのかも知れませんが、このユーモラスさとシニカルさは、そのまま『スタッキング…』の中にありました。 扱っているテーマは、わりと正当なんですね。 人間不在の労働環境とかフェミニズムとか、そんなざっくりまとめが、(もちろんいろいろはみ出すところを持ちながら)できるかも知れません。 ただ、この小説達の(『スタッキング…』は短編集です)おもしろいところは、そんなざっくりテーマをずらしてずらして訳が分からなくなるくらいにずらして描いているところであります。いわゆる、論文や評論文とは異なる小説の醍醐味ですね。 そしてそこにおいて、筆者はとても魅力的です。 繰り返しになりますが、ユーモラス、シニカル、内出血のような笑いはとてもおもしろいし、言語センスには水際だったシャープさがあるように感じます。それは才能というよりも、運動神経みたいなものでありましょうか。 で、さて、冒頭の本書であります。 ……うーん、なんか、もひとつ。(ごめんなさい。) 『スタッキング…』の方が、深みというか厚みというか、展開そのものに小説的な「おいしさ」があったように思いました。 これは難しいところで、風刺だけでは文学的な深まりは、きっと難しいのでしょう。テーマがあまり剥き出しになると、作品がやせてしまうという、なかなか難しい所であります。 ただ、これは「おにいさんがこわい」という作品の一節ですが(本書も短編集であります)、テレビの幼児番組で「おにいさん」がいきなり本番出演中の幼児に大声で恐がられてしまいます。それをステージ脇から見ていた「おねえさん」の、次は私だという恐怖の独白場面です。 おねえさんはようやく決まった大きな仕事だった。評判も上々で、何の問題もなく一年が過ぎた。このままいけると思っていた。そうしたらこれだ。おねえさんなんて本当はどうでもいいと思っている私の気持ちを、あの子はすぐに炙り出すだろう。そりゃそうだ。おねえさんなんかじゃないのにがんばろうとするから。つまらない夢を見るからこうなる。もうたくさんだ。やめてもおねえさんだった事実は消えないだろう。ニセモノのおねえさんだったのに、さもさも本当のおねえさんだったかのように、ネットや見ていた人の脳みそに情報が残るだろう。私がこれからどんな仕事に就いても、私を見たことのある人覚えている人が、あなたはおねえさんだったでしょう、すごいじゃない、とにこにこ笑いながら言うだろう。すごくなんかないのだ。私はニセモノだったのだから。それよりいっそその記憶を大海原に捨て去ってほしい。セメントブロックの重りをつけて二度と浮き上がらないように。 どうでしょう。 軽くおもしろがって読み飛ばしてもいい場面なのかも知れませんが、この恐怖の独白にリアリティ、あるいは普遍性はあるのでしょうか。 私しばらくじーっと考えたのですが、ないとは言えないだろう、と思いました。 引用部の最後の方に描かれている事柄を、「デジタルタトゥー」という言い方でまとめることもできそうですが、そうでなくても、ここに描かれようとしているのは新しい社会で人間が出会う新しい「危機」と言えなくはないように考えました。少なくとも私は今までこのような「危機」について、人ごとでなく真剣に向き合った記憶はありません。そんな私にとっては、何か「新しい」ものと感じました。 実は、私は本短編集の作品には、結構「好き嫌い」を感じました。 6つのお話が収録されているのですが、私はその中の「おにいさんがこわい」と「スカートの上のABC」がおもしろいと思いました。 上記で触れた「おにいさん…」の話は、この後、どんどんストーリーがずれていきます。そもそも引用したおにいさんの話は、作品冒頭からずれまくった展開でありますし、この後のエピソードもどんどん地崩れのように横滑りしていきます。 こんなお話は、その終え方が結構難しいと私は考えるんですね。 上に挙げた「スカートの…」も同じで、両作品とも、筆者は実に興味深いエンディングを書いています。ただ、それが優れているのかどうかは、私には分かりません。深さとか趣とか余韻とかがあるわけではありません。(むしろそれらの極北。) ただ、このエンディングを、私は何となく捨てがたく感じます。 あるいは、こんな一種「人を食った」ようなエンディングを書いた筆者の内面が、興味深いのかも知れません。正体がまだ分からないという高揚感。 私はふと、初期の短編小説に安部公房は、こんな話を書いてはいなかったかしらと思ったりしました。……でも、まぁ、……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.03.26
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『猫の客』平出隆(河出文庫) えー、本読みの先輩に薦められた本です。初めて読む作家です。詩人でもある作家だそうです。なるほど、研ぎ澄まされたような文章力が、あちこちの描写から感じられそうであります。 しかし、実はわたくし、本書を薦められたとき、少しいやな予感がしたんですね。 なぜかというと、タイトルですね。「猫」とありますでしょ。 実は「猫話」は、わたくしの最も苦手とするお話なのであります。 たぶん、以下の文章にそんなことを説明するんだろうなと思いつつ、そしてその説明はたぶん、私の偏見にまみれているんだろうなと思うのがかなり重苦しいのですが、まー、やってみますね。 話題を大きく別に振って始めます。 太宰治の短編小説で、私がとても好きなお話に「鴎」という作品があります。 作者自身っぽい主人公が、ひたすら屈託としているだけの話なんですが、その作家らしい主人公が、編集者らしい男の人と話をします。 最近仕事がんばってますかとか、誰かのよい作品を読みましたかなどと聞かれても、主人公はグズグズとして、景気のよい返事ができません。 そんな会話が続くのですが、最後に主人公は、あなたが小説を書くにあたって最も大切にする信条は何ですかと尋ねられると、この問にだけは打てば響くように答えます。 「悔恨です。」と。ここだけ、少し本文を引用してみますね。 「悔恨の無い文学は、屁のかっぱです。悔恨、告白、反省、そんなものから、近代文学が、いや、近代精神が生れた筈なんですね。だから、――」 いかがですか、いかにも太宰らしいと言えば太宰らしい展開であります。 ところで、この度報告する本書にも、こんなことが書かれてあります。始まってすぐのあたりのところですが。 猫好きというものが親しい友人たちの中にもいて、その寵愛ぶりを目のあたりに、呆れたことがあった。身も心も猫に捧げつくし、恬として恥じるところがない、と思われる場面もあった。 でもこのすぐ後に、自分は「猫を身近に知らなかった。」と続いてその後、まー、わたくしから言わせると(ということは偏見に満ちた言い方で申し訳ないながら)、本書は「恬として恥じない」猫話になっていくんですね。 もちろん細かい違いはあります。 例えば、主人公とその妻が愛する猫は、自分たちで飼っている猫じゃないんですね。お隣の家族が飼っている猫なんですね。その猫が、いかにも猫的に主人公の家にも我が物顔でやって来て、主人公や、特に奥さんは、「身も心も」とは言いませんが「心」はかなり猫に「捧げ」ています。(でもこの隣家の猫という設定に、一つの客観性が生れます。) しかし猫話は、どうも私が思うところ、ほぼ「恬として恥じなく」なっちゃうんですね。 そんな意味で言えば、同じペットでも、わたくし「犬話」はさほど嫌いではありません。犬話の場合は、展開の多くが犬と一緒に何かに取り組むというパターンになり、それには違和感がありません、わたくし。 でも、猫ってどうですか。 そもそも人間と一緒に何かに取り組むという種類のペットですか。 猫話のほとんどは、人間とは本来没交渉な猫独自の行動に、人間が一方的に感情移入して、あたかも普遍性があるかのごとき意味づけを勝手にしているだけじゃないですかね。(あ、言いすぎかな) と、言うわけですが、本書の帯のところに「『吾輩は猫である』と並び、世界中で愛されている猫文学」とありました。私としては『我が輩は猫である』を「猫文学」とまとめる視点には大いに不満があります。 でも、「猫文学」と呼ばれるお話の類いが、世の中に多くあることについては認めるにやぶさかではありません。 むしろ、私はその視点で読み始めるべきであったと反省・悔恨いたしました。 ちょっとしんどかったです。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.03.12
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