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『尊重すべき困った代物・太宰治』安藤宏(ミネルヴァ書房) 太宰治については、作家論的書物はもう読まないでおこうと、少し前に、わたくし思ったんですね。 常識的人格において(「常識的人格」というのは、まー、ざっくり「ええ大人やねんから」という意味です。作家に常識人を要求してどないすんねん、というご批判は甘んじるとしても、しかし何にでも「程度」というものはあるまいか、という思いであります。)、この作家は基本的に破綻しているという思いが、特に女性関係を中心として、作家論を読むたびに強くなっていくもので、でも一方で、私はやはり太宰作品が好きで、この二律背反にうんざりとして、片方に目を瞑ってしまおうと思った次第であります。 しかし今回久しぶりに太宰治作家論を読んで、とっても面白かったです。 なぜ面白かったのか、それは、今回の作家論の主テーマが太宰の女性関係とは少し異なっていたからです。これはわたくし的にはかなり助かりました。 では、太宰の女性関係の代わりに何が書かれているかというと、大きくまとめると、太宰治の生涯に起こした大きな二つの騒動についてであります。二つの騒動とは、これです。 昭和初年の「芥川賞騒動」 最晩年の「如是我聞」騒動 この二つについての筆者のとても分かりやすい分析に、私はとっても感心しました。 それに加えてもう一つ、私がとっても面白かった(ほとんど驚嘆!)のは、21世紀になってからも次々と発見された太宰の文章(書簡やメモ)が書かれていることでありました。(新発見というものが、今でも次々と出てくるんですねー。凄い!) 特に私が驚いたのは、芥川賞騒動時の佐藤春夫宛書簡(2022年発見)と最晩年の、井伏鱒二に対する驚くべき痛烈な感情が書かれた太宰自筆メモ(2001年発見)でありました。 この二つの内容は、驚きましたねー。未読の太宰ファンはぜひとも読んでほしいものでありますが、これだけ読んでると、あ、太宰、もう終わってる、と、感じざるをえない代物であります。(ただ、本書はこの太宰終わっている文書についても、実に冷静に分析がなされていて、これがまた大いにわたくし、啓蒙されました。) ということで、ではもう少し、本書に描かれている太宰テーマを具体的に報告していきます。 まず太宰の作家論のポイントとして、そこに作家本人の人格を疑うような破綻が実際に現れているのは、晩年の二つの不倫関係を外すならば(もちろんそれは外せないだろうという意見もごもっともながら)、上記の二つの騒動ではないか、と。 で、その原因を、筆者はどんどん突き詰めて分析し、そして二つのまとめ方で表しています。 一つ目は、それに近い分析は私も他の書籍でも読んだ気がする(古い所でいえば坂口安吾の「不良少年とキリスト」あたりでしょうか)のですが、太宰の出自としての特徴的な二点です。 1・津軽の「じょっぱり」。権威に対する異端的自負からの反骨心。 2・県下有数の大地主の4男「叔父糟(オズカス)」に産まれたこと。 筆者はこの二点を合わせて、このようにまとめています。 太宰治における「反骨」は、実は〈強い兄〉という庇護者の存在を前提にしており、多分にすねと甘えの心理をもって、したたかに自己を主張していく反逆精神にこそ、その真骨頂があったわけである。 ……と、ここまで書いてわたくし気付いたのですが、この調子で書いていくと、この先はたぶんここまでの長さの3倍くらいは必要になってしまいそうです。 そこで、あれこれ細かい感心納得部分はあえて省略して、本書によってわたくしが最も太宰作家論として啓蒙された部分だけの記述にとどめたいと思います。そんなにわたくしが報告せずとも、本書が名著であることはゆるぎない事実でありますゆえ。 さて、私がこの度の読書で最も蒙を啓かれたのは、太宰の本質がそんな「すねと甘え」にあったとしても、なぜそれが太宰において極端な形で表れてきたかの分析部分でありました。 筆者は、その原因を(驚くべきことに)太宰だけの問題ではない、近代日本文学史、特に大正期文壇の持つ基本的構造の故だと説いています。 それは本書中様々な所で触れられており、その中で以下幾つかまとめて引用してみたいと思います。 近代の「私小説」は、「事実である」というメッセージと「事実ではない」というメッセージとを同時に発信して読者にダブルバインド(背反する二重拘束)を仕掛けていく技術にこそその真髄があった。そのためには利用できるものはすべて利用され尽くされるのであり、同じ志を持つ者は当然のようにその生け贄に供される。 そもそもこうした「公」と「私」の混同、攪乱自体もまた実は日本の近代文学の大きな特徴の一つでもあったのだった。生活と作品との距離を近づけるだけではまだ足りない。"公私混同"をコンテクストに、いわば骨肉相食む関係を互いに私生活で実践し合うことが、次の小説を生み出していく活力源(バイタリティ)にもなるのである。 互いを褒め合っていても何も生まれはしない。小説はいわば公的な"道場"なのであり、退路を断った上で芸道への真摯な思いをぶつけ合うパフォーマンスにこそ、実は近代を支配した「私小説」の本質があったのだ。こうした中傷合戦によって互いの名はいわば文壇における"リングネーム"として流通し、読者の間に伝説化していくことになるだろう。 いかがでしょう。 ふと連想したのですが、確か筒井康隆も小説『大いなる助走』の中で、どこか同種の状況のことを書いていたような気がします。そして筒井康隆はそんな状況のことを、「一種の地獄」と書いていたように思い出しました。 最後にもう一度本書に戻りますが、「如是我聞」に典型的に表れている最晩年の太宰の「暴走」について、筆者は、そんな文壇認識に対応していく虚構性を、最晩年の太宰がすでに失ってしまっていたのではないかとまとめています。 そしてこの記述に、私はまたふと、坂口安吾が、最晩年の太宰は「М・C(マイコメディアン)」に徹することができなくなっていたのではないか、と触れていたのを思い出し、安吾の鋭さに、少し背筋が寒くなったのを付け加えておきます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.08.22
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『みどりいせき』大田ステファニー歓人(集英社) 今を去ること半世紀以上昔の文章の引用から始めます。 ……フィクションとしての小説は、 (一)言語表現による最終完結性を持ち、 (二)その作品内部のすべての事象はいかほどファクトと似てゐても、ファクトと異なる次元に属するものである。 と、筆者は定義づけて、特に(一)について、「おそらく芸術としての小説の、もつとも本質的な要素といへよう」と述べています。そして、そのことの意味について、「舞良戸」の例を挙げながら、このように続けます。 ……小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその「名」を知らねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はをはり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。 (略)私は明らかに、舞良戸は、ただ「舞良戸」と書くことを以て満足する小説家である。そして私は、読者に次のやうに要求する権利があると信ずる。すなはち、もし私が『舞良戸』とだけ書いて、ただちにその何物なるかを知り、そのイメージを思ひ描くことのできる読者こそ、『私の読者』であり、あなたはこの小説のこの部分において、古い一枚の舞良戸がいかなる芸術的効果を発揮してゐるかを知り、かつ、それは必ず舞良戸であるべく、ガラス戸であつてはならないといふ芸術的必然を直感することのできる幸福な読者である。 ……と、あります。実はこの後筆者は、私の小説の中にあなたの知らない語があれば、速やかに辞書を引いて、そしてその後に私の小説に戻ってきなさいと書いています。 さて、この引用文の正体ですが、1970年、筆者三島由紀夫の割腹自殺によって連載が中断された文学的エッセイ『小説とは何か』の一部であります。 三島由紀夫はこの作品で様々な興味深い小説についての考察を綴っているのですが、この個所も私は、小説について啓蒙された部分であります。 そんなことをなまじっか知っていたものですので、わたくし、今回の読書報告の本書を読み始めた時も、実はさほど慌てることもなくかつ「ときめく」こともなく読み進めていきました。 そして何単語かは、読みながら一時中断をして、辞書ならぬAIに尋ねてみました。 「バイブス」「ペニー」「キャパい」「ガンダ」等です。 なるほど、調べればとっても気持ちよく意味が分かるものです。 でもそれより、幾つかAIに尋ねてむしろ驚いたのは、AIに尋ねるとこれらの語のすべてについて私などが読んでもよくわかる語釈がちゃんと付いていることで、私の小さな驚きは、この筆者が勝手な造語を用いて書いているのではないという(やや失礼な)方面においてでありました。 今私は、上記に何単語か調べたと書きましたが、それ以外の表現についてはきちんと理解できたのかと言いますと、いえ、できていません。 ただ、けっこう文脈からも類推できますし、省略語やちょっとしたすぐにはわからないセンテンス等についても、基本的には、表現をより単純化する方向での変化ですので、なんとなくわかります。それでもまだわからない部分については、まー、わからなくても困りません。なにしろ「バイブス」重視の文体ですからー。 と、まぁ、そんな感じで読んでいきますと中盤あたりから、慣れてきたこともあって、なんか普通の文章を読んでいるような感じになってきました。文体の抵抗感がなくなってきたんですね。 そして、それに合わせて、そこに語られていることが、妙に素直な内容になってきたように思いました。 ちょうど物語の中盤あたり、後半の頭に出てくる「アクションシーン」の手前、ちょっと中だるみっぽい(この「~ぽい・ぽく」という用語も頻出ですね)あたりにかたまっていますが、例えばこんな感じです。 「だってさ、どんどん桁増えて、使いきれねぇ金あっけど、痛くなるまでおせっせしても、数えきれないくらいインスタフォローされても、ドリチケで声かけられても、愛なかったら意味なしじゃん。んなことよりみんなで吸いまくって吹っ飛んだり、電車で席譲って胸がぬくぬくしたり、あとみんなで吸いまくって焼肉行ったり、そっちのが大事じゃん? つか、はぐみが楽しそうにうた歌ったり、ひかるがゲーム没頭してるだけでうちは胸つまる時ある」 いえ、言ってみれば高校生が主人公の小説ですから、「青春小説」なのは当然といえば当然でありましょうがね……などの思いを持ちながらさらに読み進めていきますと、上記にも少し触れた「アクションシーン」があって、そして終盤、カタストロフィの予感をはらみつつ、その一歩手前で(ややファンタジーに)物語は終わったように思いました。 実は、この一歩手前のエンディングというのも、けっこう今までいろんな小説があったように思いました。あのノーベル賞作家の大江健三郎なども、けっこう使っていたのじゃなかったですか、例えば名作『芽むしり仔撃ち』とか、『洪水はわが魂に及び』などそうじゃなかったかなと、考えました。 そういえば、デビュー作(またはごく初期の作品)で「鬼面人を脅す」ような文体を用いるという作家も、古くからけっこういたように思います。(宇野浩二とか太宰治なんか、あるいは平野啓一郎や田中康夫、庄司薫、村上春樹なども……。) 私は読み終えて、決して良くない読後感は持ちませんでしたが、例えば「新しい酒は新しい革袋に盛れ」といった慣用表現(原典は聖書だそうですが)があるようですが、ふっと、新しい酒と新しい革袋は、どちらが作るのが難しいのだろうかなどと考えました。 いえきっと、それはどちらもかなり難しく、それに加えて、それらが本当に「新しい」ものであるのかどうかの判断は、もう少し時が立たねばわからないのかもしれない、などと思いました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.08.08
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