キャットデイズ・・・50過ぎたらスチャラカでいこう
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香山リカ氏による「東京都知事選2014」のラカン的解釈 今年(2014年)2月に行われた東京都知事選では,舛添要一氏が他の候補者を圧倒する得票数で当選した。2位の宇都宮健児氏,3位の細川護煕氏は脱原発という点で意見が一致していたものの互いに批判を繰り広げた結果,敗退した。一方,これまでの選挙戦の歴史を踏まえれば「泡沫候補」と見なされても無理はない保守の田母神俊雄氏が60万票超を獲得し,結果は4位と躍進した。立教大学現代心理学部教授の香山リカ氏は,京都国際ラカン精神分析コロキアム(4月10〜11日)において,フランスの精神科医ジャック・ラカンがその臨床経験から導き出した精神分析理論を援用して「憎悪」をキーワードに,選挙結果を読み解いてみせた。 2人の脱原発候補の間で引き裂かれた有権者 原発反対の立場を取る有権者は,自らの投票先を決めるに当たり宇都宮健児氏と細川護煕氏との間で揺れた。両者とも脱原発を掲げて立候補したものの,どちらかに票が集中しなければ共倒れになると予想されたからだ。市民団体の中には「一本化」を目指す勢力も現れ,「互いに協力しよう」という姿勢を見せたが,実のところそれは当選の可能性が低いと思われた宇都宮候補に辞退を迫るものだった。こうして「辞退が望ましい」「辞退など失礼だ」といった具合に,脱原発の有権者は2つに引き裂かれ,「一本化」は実現することなく宇都宮氏と細川氏は敗退していった(図1)。さらに脱原発陣営の対立は都知事選の後も尾を引き,「あのときなぜ辞退しなかったのか」といった批判合戦が続いた。 脱原発陣営の対立と敗退という出来事を解釈するに当たり香山氏は,ラカン理論において人間の心的構造を構成するとされる3範域(現実界・象徴界・想像界)の1つである想像界の機能に注目する。想像界とは自己が鏡像としての他人の中にとらわれている関係である。『ラカンの精神分析』(新宮一成,1995)によれば,「他人の中に自己のあるべき統一的な姿が映し出されている場合は愛の関係になるが,同じ他人が自己の統一性をとらえ占有していると感じられるときには憎しみの関係,すなわちパラノイアになる」関係だ。 「選挙というイベントにおいて,有権者は自分の姿を候補者の中に探し出そうとする。選挙は,自分がこうありたい存在だったり,自分の言いたかったことを言い当ててくれる人を探す試みといえる。今回,脱原発を訴えている有権者たちが自らの探し求める鏡像を探そうとしたときに,鏡像が2つに分かれている事態に出会った。自分の統一的な姿をそこに求めて映し出そうとしても既にイメージは2つに引き裂かれてしまっていたのである。その事実に有権者は戸惑い・苛立ち・不安を感じたのだろう」(香山氏) ラカン的に言えば,都知事選を通じて脱原発派の想像界は「憎悪」の関係に転じていると見ることができるのではないかというのが同氏の考えだ。 また,この対立が長引く理由について同氏は,争点が原発問題であることが大きいのではないかとみている。原発事故,そして放射能汚染という,捉えどころのない異様な事態が経済問題などにはない執拗な政治的対立を生んでいるのではないか。放射能は制御不可能でいかなる認識も成り立たないものであることから現実界に位置付けられるものである。こうした不可能なものを制御する意志をもって立候補したという背景が,両陣営の引き裂かれに関係しているのではないかと同氏は述べた。 ヘイトスピーチや極右勢力を支持する若者の心理とは? 現在,特定のアジアの国の人たちに退去を命じたり,「殺せ」「死ね」などとシュプレヒコールをしたりするデモが全国各地で毎週のように行われている。若い世代を中心として行われているこの「ヘイトスピーチデモ」について香山氏は「田母神氏が会長を務める『頑張れ日本!全国行動委員会』のデモをさらにラジカルにしたもののように見える」と述べる。そして,今回の都知事選で同氏を最も多く支持した世代がヘイトスピーチにコミットする世代と同様に若者だった(図2)ことから,若者の心理と排外主義についての考察を始めた。 なぜヘイトスピーチでは,特定のアジア人に対して憎悪が向けられているのだろうか。香山氏は,この現象を理解する助けになるのが「対象a」であるという。対象aとは,象徴化し切れないトラウマ的な原因であり現実界に位置付けられるものである。この概念を分かりやすく説明するために,ラカン派の哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがエイリアン映画『ボディー・スナッチャー』を評した著作を香山氏は引用する。 「平凡なアメリカ人が,人気のない田舎をドライブしている。車が故障し,彼は助けを求めに,一番近くの小さな町へ行く。じきに彼は,その町では何か奇妙なことが進行していることに気付く。その町の人たちの振る舞いは奇妙で,どこか自分自身ではないような感じなのだ。やがて彼は,エイリアンがこの町を占領し,人間の身体に侵入し,植民地化して,内部からコントロールしていることを知る。エイリアンたちは全く人間そっくりに見えるし,人間そっくりの行動をするのだが,ちょっとした細部(眼がおかしなふうに光るとか,指の間や耳と頭部の間に皮膚が余分に付いているとか)から彼らの正体がばれる。そのような細部がラカンのいう対象aである」(『ラカンはこう読め!』スラヴォイ・ジジェク,鈴木晶訳,2008) ジジェクによると,日常的な人種差別においても対象aが働いている。いわく,「われわれいわゆる西洋人は,ユダヤ人,アラブ人,東洋人を受け入れる心構えができているにもかかわらず,われわれには彼らのちょっとした細部が気になる。ある言葉のアクセントとか,金の数え方,笑い方など。」(同書) つまり人は,他人との大きな差異よりも小さな差異が気になって,そこに憎悪を抱き排除したくなる。香山氏が引用するジジェクによると,フロイトが練り上げた幼児の性理論においては意味の世界の割れ目を埋めるために外傷的な出来事が蘇生される。それと全く同じようにヘイトスピーチの場合,社会にもともと内在する憎悪を物象化した形としてそこに見たいという心理が働き,対象aの魔力によって特定の国の人が攻撃の対象に祭り上げられる。そしてそれを排除することで,排外主義者は「意味の世界の割れ目」を埋めているというのが香山氏の考えだ。 最後に,臨床医である自分がこうして饒舌に社会的問題を語ることについて同氏は,「患者さんの変化を捉えて何が起こっているのかを考えるのと同じように,社会的に見過ごせない兆しがあれば自らが慣れ親しんだ知を借りてそれについて考え語ることは,根源的な自由にさらされた,近代を生きる私たちの使命なのではないか。それこそがラカンが述べた『大文字の他者は存在しない』ということの意味ではないか」と語り,講演を終えた。 (宮下 直紀)
2014.11.25
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