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ヘヴンズ・ゲート(英: Heaven's Gate)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴを拠点に活動した、UFOを信仰する宗教団体である[1]。1997年のヘール・ボップ彗星出現の際に集団自殺を行い、消滅した。 目次 [非表示] 1 概要2 沿革と教義3 集団自殺4 自殺報道5 パロディなど6 脚注 概要[編集]この団体は、マーシャル・アップルホワイト(1931年-1997年)とボニー・ネトルス(1928年-1985年)の2人が1970年代に創設した。ニューエイジ運動から生まれたほかの新宗教と同様、かれらの信仰は、黙示録と救済の考え方を中心とするキリスト教の教義、進化論、他の世界(次元)への旅を題材とするSFを折衷したものであった。ヘヴンズ・ゲートの信者たちは、地球はまさに「リセット」(一掃、一新、若返り)の時にあり、人が生き残るためには地球から旅立つことが唯一の道だと強く信じていた[2]。かれらは、「人間」の肉体は「旅」の手助けをする乗り物に過ぎないとしていた。ヘール・ボップ彗星とともにやってくる宇宙船に魂を乗せるためとして、指導者アップルホワイトと38人の信者が自殺を遂げた。沿革と教義[編集]ジャック・バレー[3]の著書「メッセンジャーズ・オブ・デセプション」[4]によると、この団体はアップルホワイトが心臓発作による臨死体験から生還したとしている1970年代はじめに活動を開始した。アップルホワイトと、看護婦であったボニー・ネトルスは、みずからをヨハネの黙示録11章3節[5]に記された「二人の証人」になぞらえた。当初は精神的な書籍を扱う書店の経営を行ったがうまくいかず、国内を移動しながらその信仰を宣伝することにつとめた。アップルホワイトとネトルスは、自分たちをさまざまな名前で呼んでいた。「Bo and Peep(ボー・アンド・ピープ)」や「Do and Ti(ドゥー・アンド・タイ)」がよく知られている。また、団体の名称もさまざまなものが使われており、バレーが取材したときには HIM[6]を称していた。ヘヴンズ・ゲートの教義は、中世の修道僧と比較することができる[7]。信者たちは物質的なものを捨て、非常に禁欲的な生活を送った。教団は強く連結し、すべてのものが共有されていた。アップルホワイトを含む6人の男性メンバーは禁欲的な生活をしやすくするために自ら進んで去勢を行った[8]。 資金面では、ハイアー・ソース[9]という名称でウェブサイト構築のサービスを行って顧客から報酬を得ることで成り立っていた。[10]この団体は公式的には自殺に反対をしていた。かれらの考えによれば、自殺という行為はそれが示されたときに「ネクスト・レベル」にそむくものと考えられていた[11]。地球の「リサイクル」の前に地球を去って生き残る方法として、かれらはいくつかの方法を考えていた。そのうちのひとつは、この世界では忌み嫌われているものだった。「この世界や肉体さえも厭うわれわれの信仰心を試すのならば、たとえ「ネクスト・レベル」の存在を実証できなくても旅立つこともできる」。信者達は、「ネクスト・レベルの子供」であることの証として、名前(ファーストネーム)の後に「オディ」[12]をつけることになっていた。このことは集団自殺の数日前にあたる1997年3月19日に収録されたアップルホワイトの最後のビデオ「Do's Final Exit」で説明された。集団自殺[編集]教祖アップルホワイトと38人の信者達は、1997年3月26日カリフォルニア州ランチョ・サンタフェのアップスケールサンディエゴコミュニティにある賃貸住宅の中から遺体で見つかった。
2014.12.31
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臼井甕男出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内、 検索 臼井甕男臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書などさまざまに経験する。その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。1922年4月に指導法などを定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。関連項目[編集]レイキ林忠次郎高田ハワヨ <img xsrc="//ja.wikipedia.org/wiki/Special:CentralAutoLogin/start?type=1x1" alt="" title="" width="1" height="1" style="border: none; position: absolute;" />「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=臼井甕男&oldid=46619367」から取得 カテゴリ: スピリチュアリティ手当て療法岐阜県出身の人物1865年生1926年没
2014.12.30
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葦原金次郎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内、 検索 葦原の正装姿葦原 金次郎(あしはら きんじろう、1852年 - 1937年2月2日)は、明治後半から昭和にかけて実在した日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれる。 目次 [非表示] 1 生涯2 逸話3 脚注4 参考文献5 関連項目6 外部リンク 生涯[編集]金沢生まれの櫛職人であったが、24歳頃に誇大妄想症を発病した。病名については「躁病の誇大妄想」、「分裂病の誇大妄想」、あるいは「梅毒からくる進行麻痺の誇大妄想」など、医師によって診断が分かれる[1]。 1882年に天皇への直訴未遂事件を起こし、東京府癲狂院(1889年に巣鴨病院と改名)へ入院した。数度の脱走を繰り返した後1885年に再入院。彼の誇大妄想は日露戦争の戦勝とともに肥大化し、いつしか将軍を自称するようになった。さらに、昭和の頃には天皇を自称するようになった。1919年に松沢病院へ転院、以後1937年に88歳で亡くなるまで松沢病院で過ごした。 墓所は世田谷区の豪徳寺にある。戒名は至天院高風談玄居士。墓石には「自称芦原将軍として56年の生涯を狂聖として院の内外に名物男として知られ」と彫り込まれている。逸話[編集] 後半生を過ごした府立松沢病院病院に来る新聞記者や見物人に勅語を乱発しては売りつけたりした。乃木希典との会見や、伊藤博文に金を無心して無視された事もある。また、明治天皇が巡幸した際に、「やあ、兄貴」と声をかけたこともある[2]。日露戦争時、「相撲取りの部隊を出してロシア軍のトーチカを破壊せよ」と発言するなど、奇矯かつ過激な言動は格好のゴシップとなった。脚注[編集]^ 埴谷雄高との対談における北杜夫の発言。『埴谷雄高全集』第17巻、講談社、2000年。^ 大澤真幸『思想のケミストリー』紀伊国屋書店、118頁
2014.12.20
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