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エディプス・コンプレックスと日本的ナルシシズム人間のこころについて、それを閉じた計算機のアナロジーで考える立場がある。この場合に、一人の人間という固体の中には、予め生存に必要な計算を行う材料が遺伝情報のような形で内在的に備えられており、それが時間経過に沿って展開することで、人間としての十全な知性が発揮されるようになると考えられる。この場合に精神の病は、機械の故障に譬えられる。それとは異なる考え方をする現象学や精神分析のような立場がある。こちらでは、閉じた個人としての意識を、文化的に複雑な作業を経てようやくに到達できるものであると考える。自我のまとまりは損なわれやすいもので、乳幼児の意識にとって母の意識が分離しがたいものであるように、私たちの意識は社会や周囲の雰囲気と一体化しやすい。また、性欲などの衝動は、特に思春期などの人生経験が不十分な時には、自我の中に統合できない精神の異物と体験されうる。個々の衝動が、個人の全体を飲み込んでしまうこともある。このような立場からは、個体と周囲との相互作用によって徐々に心の中に複雑な構造が形成されると考えられる。近代的な自我はそのような構造の一つである。筆者はこれらを排他的にどちらか一つだけが正しいと考える立場とらない。むしろ、どちらもアナロジーとして同等の資格があり、神ならぬ私たちが出来る最善の判断は、解決すべき課題に応じて最善のアナロジーを選択することであろう。もちろん、精神分析的な心の「構造」を考える立場に対しては、それが著しく実証性を欠くことについての強い批判がある。それが閉じた精神分析という空間の中で展開された空想の産物に過ぎないことを否定するのは、決して容易ではない。しかも私は精神分析家ではない。本論で述べるのは、決して学会等で認められた教科書的な事実ではない。単なる一人の精神科医の意見であり、そのように扱われることを私は期待している。筆者の目的は、それが「空想」に過ぎない可能性を認めた上で、その「空想」が実社会に影響を与えている様子の一部を記述することである。例えば「お金」のことを考えよう。私たちが「一万円」と考える紙片を得るために、私は献身する。それは、その紙に「一万円」の価値があるという空想を私たちが共有しているからだ。このように「空想」の力は侮られるものではない。また、私の一連の論述が進む中で、福島第一原子力発電所事故やそれによる「風評被害」について触れることになる。そして、「靖国問題」にも言及する。「放射能」や「靖国神社」が私たちの心を騒がせるのは、物理化学的な存在としてのそれ自体として以上に、それらが象徴的に私たちの中に喚起する空想が力を及ぼすからである。そして、これらの国家の命運を左右しかねない大問題を前にして、私たちは問題の現実的な部分と空想的な部分を腑分けできないまま、混乱を続けているような眩暈を感じることがある。私の目的は、日本社会が直面する問題の中の空想的な部分について、私が「日本的ナルシシズム」と名づけた空想的な構造を参照枠に、詳細な記述を行うことである。「日本的ナルシシズム」を説明する前に、それと対照をなす「近代的自我」という構造について確認しておきたい。フロイドは、「(近代的)自我」は、「エディプス・コンプレックス」という体制を通過することによって達成されると考えた。このエディプス・コンプレックスは、幼児が母と交わることを望み、その母との交わりを妨げる父に強い敵意を向けることであると理解されている。しかし本論では、エディプス・コンプレックスについてはそれよりも抽象的な水準での理解を用いる。個人が、自分の周囲と全く一致しているような(空想的な)一体感の中に満足しきっている状況をまず想定する。それに水を差す第三者が登場し、一体感の中に留まれなくなった個体は強い欲求不満を体験する。批判的な言説も、このような第三者の役割を果たすことがあるだろう。やがて強い葛藤を経て、個体と、元来は一体であった環境(母)と、欲求不満をもたらした第三者(父)の関係は、緊張を孕みながらも安定したものとなっていく。これを通過してはじめて「個」としての意識に目覚めた、「近代的自我」という構造が成立すると考えられる。「現代日本における意識の分裂について(1)」で論じたように、西洋近代の文化において「(近代的)自我」に与えられた価値は、とても高かった。したがって家庭においても、子どもに対して「個」の意識を高めるような働きかけが幼少期から行われやすかったと考えられる。そして、ある程度の年齢までにはこのような「近代的自我」という構造が成立している個人を前提として、法や契約などの概念を中心とした西洋近代の社会的な制度は構築されたと考えられる。しかし、日本社会は伝統的にそれとは異質の構造を持っていた。法学者の川島が1967年に、「日本社会の基本原理・基本精神は,『理性から出発し,互いに独立した平等な個人』のそれではなく,『全体の中に和を以って存在し,…一体を保つ[全体のために個人の独立・自由を忘却する]ところの大和』であり,それは『渾然たる一如一体の和』だ,というのである。(中略)『和の精神』ないし原理で成り立っている社会集団の構成員たる個人は,相互のあいだの区別が明らかでなく,ぼんやり漠然と一体をなしてとけあっている,というのであり,まさにこれは,私がこれまで説明してきた社会関係の不確定性・非固有性の意識にほかならないのであって,わが伝統の社会意識ないし法意識の正確な理解であり表現である」と記載したような姿の方が、少し以前までの日本の集団や組織の記述として正確であろう。筆者は、日本文化においては、個の分離を促すエディプス・コンプレックスの働きが弱かったことを主張したい。その結果として、日本人の意識の成熟は、西洋人のそれとは違った経路を経て行われたのではないかと推測している。西洋社会では幼児期に母との一体感からの分離を強制され、個人として社会や組織の中で法や契約を媒介として周囲との関係を作っていくことが標準的な有り様と考えられた。それと比較して、日本人の意識構造の成立においては、分離を意識することは先送りにされる傾向がある。母との一体感は、比較的強い形で家庭や学校、会社などへの一体感へと横滑りしていく。分離が強く意識されるのは、実社会において「社会的な役割への同一化」が果たされる段階である。ここにおいて、全体の空気に流されるままに「分不相応な」言動をすることについて、社会からの強い制裁を体験することとなる。その上で社会の中で「役割」を獲得し、その役割を通じての現実的な経験を積み重ねることで、個の意識の周囲からの分化が進み、西洋近代における「自我」と比べても遜色のない「日本人」の誇るべき精神性が作り上げられていったと筆者は考えるのである。しかしながら、「日本人」の意識の成熟を妨げる二つの発達上の難所が存在する。一つは、同一化すべき社会的な役割を得ることができない場合である。「個」としての意識が未成熟な場合に、職業などの立場を得られないことによる弊害は大きくなる。もう一つは、社会的な立場を得たとしても、所属集団が構成する意識への閉鎖的な同一化を強めるばかりで、その外部に働きかける「現実」に関わる経験から疎外される場合である。そういった状況で生じるのが、「日本的ナルシシズム」とも呼ぶべき病理的な精神構造で、全体に漠然と一体化している意識から根拠のない万能感を得て、刹那的な反応をくり返すことがその特徴となる。後者について、一つの例を挙げて説明したい。3年前の原発事故について、国会事故調査委員会の報告書では、電気事業者についての厳しい指摘が行われた。経営効率を高めることを共通の目的として同一化を深め、津波による事故のリスクについての外部からの指摘を過小評価し、それを意識から排除するように努めていた経営陣の意識の閉鎖的な様子が記述されたのである。「学会等で津波に関する新しい知見が出された場合、本来ならば、リスクの発生可能性が高まったものと理解されるはずであるが、東電の場合は、リスクの発生可能性ではなく、リスクの経営に対する影響度が大きくなったものと理解されてきた。このことは、シビアアクシデントによって周辺住民の健康等に影響を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、対策を講じたり、既設炉を停止したり、訴訟上不利になることをリスクとして捉えていたことを意味する。」科学的報告などの「外部の現実」を拒絶し、ある組織の内部的な利益を共有してそれへの一体化を守ることに執着し続ける病理的な意識構造を、「日本的ナルシシズム」と呼びたい。なお、筆者の目的は特定の組織や集団を攻撃することではない。むしろ、スケープゴートを作ってそれを攻撃することもまた、真に考えることからの逃避であると見なす立場を取っている。それよりも筆者が重視するのは、日本人の一人一人が、何らかの全体との一体感の中に安心し続けることを少しずつ断念し、個として考える意識を高めていくことである。筆者は現在東北に居住し、震災からの復興の仕事に従事している。ここで感じるのは、特に原子力発電所事故によってもたらされた地域の分断の影響の大きさである。放射能汚染の健康への影響に対する考え方や賠償のあり方の違いが、地域の人々に強い葛藤をひき起こしている。震災そのものの痛みと避難生活の困難に加え、一つにまとまらねばならない時に対立をせざるを得ない苦難が、人々を苦しめている。「国が悪い」「東京電力が悪い」と語ることで怒りや恨みの感情を発散させ、精神的なカタルシスを得ることの意義はある程度は許容されねばならない。そして、未来に向けて同じような悲劇がくり返されないためには、原因や責任を明らかにして適切な反省や処遇が行われることが必要である。しかし攻撃的な感情にのみ込まれ復讐の甘美さに浸り続けるのは危険である。事故を起こした原子力発電所の廃炉や震災からの復興は、国民全体が一体とならなければ成し遂げられない困難な事業である。この二つの矛盾した要請に応えるためには、「対決を通じての前進」といったものが必要であると考える。つまり、集団に所属することの価値を認めつつも、何らかの意味で自分と異質な人間と真剣にコミュニケートすることを拒絶するような、過度な所属集団との密着は、乗り越えられるべきである。私は第二次世界大戦中に、日本国の外交官としての立場と葛藤を起こすことを知りつつも、日本の同盟国からの迫害を逃れようとするユダヤ人に、多くのビザを発行し続けた杉原千畝のことを思い出し、讃えたい気持ちとなっている。複雑な社会の状況に対応するために、周囲の空気に合わせるばかりでなく、主体的に考える個人の力が強まることがどうしても必要とされている。
2014.01.31
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地球温暖化の終わり 2014年1月29日 田中 宇昨今の世界的な大寒波の原因について、太陽の活動が劇的に低下していく傾向の始まりであり、世界はこれから17世紀後半に起きたような「小氷河期」になる可能性が高まっているという指摘が、学者の間から出ている。黒点など太陽の活動は、11年周期のピークにあるが、ピークの高さが異様に低く、これから太陽の活動が低下していくと、マスコミや政府が喧伝する「地球温暖化」とは逆の「地球寒冷化」「小氷河期」が起こるという分析が出ている。 (Scientists baffled as Sun activity falls to century low) (Is a mini ice age on the way? Scientists warn the Sun has 'gone to sleep' and say it could cause temperatures to plunge) 米政府(大統領府)は、この冬に米国などを繰り返し襲っている、北極の気流のうず(極渦)が引き起こす大寒波について「地球温暖化のせいで起きているようだ」と発表している。「地球が温暖化すると、地球は寒冷化する」という学説を大まじめで主張する学者もいるが、オバマ政権が、地球温暖化懐疑派が多い連邦議会を回避しつつ炭素税を導入したがっていることから考えて、米政府のコメントは、政治目的の歪曲だろう。 (White House says `polar vortex' likely caused by global warming) (House slams door on carbon tax_) (Global Warming: The Wall Street Party Has Begun) (オバマ政権は、米議会の反対を無視して地球温暖化対策をやろうとしているだけでなく、水に関する政府の行政介入を強めようとしている。水に関する事業の民営化、事実上の価格引き上げ、水道水でなくミネラルウォーター利用の奨励、水など環境関係の大企業の利益拡大の誘導を目論んでいるように見える。TPPによって、大企業の権限を拡大して政府を超越する存在にしようとしているのと同根だ。世界的な水問題の政治化は、人類にとってプラスになりそうもない) (Obama's Climate Task Force Is a Treaty Trap) (Climate Change Hysteria Falters. Water Is The New Target) (The World Bank Is Quietly Funding a Massive Corporate Water Grab) (Water is "The Enemy" in Gatorade Video Game) 太陽は、宇宙の恒星の中で、非常に安定している方で、11年周期の太陽活動における光量の変化は0・1%にすぎない。しかし、太陽が地球に与えるエネルギーの総量は、地球上の他の動きによって発生するエネルギーの合計量の2500倍も大きい。だから、太陽の活動が少し変化しただけで、地球の気候に与える影響も非常に大きいものになると、米コロラド大学の学者が言っている。 (Is Polar Vortex Start of Little Ice Age?) 政府やマスコミ、学界が喧伝する「地球温暖化人為説」は、恣意性の高いコンピュータモデルしか根拠がなく、科学的に正しい可能性がかなり低い。これまでの研究を読むと、二酸化炭素の増加が地球を上げる要素なのか下げる要素なのかも確定的に言うことは困難だ。NASAでは昨年、二酸化炭素が気温の低下要因になっているとする研究結果が出された。それらを踏まえつつ、万に一つ、地球の二酸化炭素量が人為理由で増加し、それが地球を温暖化する要素として働いているとしても、その要素は、17世紀後半のマウンダー極小期のように小氷河期が来て太陽の活動が低下することによる地球寒冷化の規模をはるかに下回り、結果として地球は今後数十年間、寒冷化することになる。 (NASA report verifies carbon dioxide actually cools atmosphere) 「ならば数十年後、百年後に再び温暖化するに違いない。その時に備え、今のうちに二酸化炭素を減らすべきだ」と言う者がいそうだが、そもそも二酸化炭素増が温暖化の要因だと確定できないし、人為説も政治誇張の可能性がある以上、それは詭弁にすぎない。二酸化炭素削減先にありきで、人為説が確定的に論じられ、それを疑問視する人々を政治的に排除する近年の状況は、非常にいかがわしい。 (Report: World Entering a Period of Global Cooling) (地球温暖化めぐる歪曲と暗闘(2)) 予測されている寒冷化と関係あるとは言い切れないが、地球の平均気温は、すでに1997年から横ばい状態が続き、それまでの上昇傾向が止まっている。温暖化人為説の「総本山」である国連のIPCC(国連気候変動パネル)は、ようやく昨年からその傾向について認め始めた。しかし、その一方でIPCCは、97年以前の温暖化傾向の原因が、人為に基づく二酸化炭素の増加である可能性が95%だと発表した(以前は90%の確率と言っていた)。IPCCは「今は温暖化の傾向が止まっているが、今後再びひどい温暖化が起きるのは確実だから、二酸化炭素の削減が必須だ」と主張し続けている。 (Warming Plateau? Climatologists Face Inconvenient Truth) (95 per cent of intelligent people know the new IPCC report is utter drivel) 曖昧な根拠しかないのに「地球の温度は15年間横ばいだが、今後必ずまた上がる」と断言することが許されるのなら、太陽活動の傾向を根拠に「これから17世紀後半に起きたような小氷河期が来る」と断言することも許されるはずだ。「地球の気候変動の歴史を見ると、大きな寒冷化が来る前に、小さな温暖化の時期があることが多い。今回もそれだろう」と言っている学者もいる。 (Is `global cooling' the new scientific consensus?) ドイツの学者は、太陽活動の循環説に立ち、今後の寒冷化を予測している。気候変動の主因は人為でなく、太陽を含む自然活動の変化であり、その中には循環的なものが多い。そう考えるのが妥当だ。人類が出す二酸化炭素が地球を破滅的に温暖化するという理論は極論だ。極論を「真実」のように扱った学者が国際的に権威を持ち、それに対して科学的に反論しようとする学者が冷遇される時代が続いている。こうした状態は最終的に、学界や大学の全体の権威を落とすことになる(すでに多くの大学は、非常にくだらない存在になっているが)。 (German Scientists Show Climate Driven By Natural Cycles - Global Temperature To Drop To 1870 Levels By 2100!) 地球温暖化は、極地の氷が溶けて海面上昇を引き起こし、標高が低い土地が大半の小島群からなる島嶼の諸国が沈んでしまうと懸念されている。しかし実際のところ、モルジブでは海面上昇の懸念を無視して、海面すれすれのところに新空港が作られた。トンガでは海面が低下している。 (Maldives So Worried About Sea Level Rise, That They Are Building A New Airport Next To The Sea) (The UN Global Warming Hoax is Slowly Dying) 逆に今後もし小氷河期が来るとしたら、緯度の高い地域での生活が困難になり、それが大きな問題になる。娯楽の面では、たとえば日本アルプスの槍穂高や白峰三山など3千メートル級の山々や、北海道の大雪山系の主脈などが万年雪に覆われ、夏山登山ができなくなるおそれがある。登山が好きな人は、早めに飽きるまで登っておいた方が良いかもしれない。 英国とオーストラリアは最近、政府予算の中の地球温暖化対策費を、相次いで大幅に削減した。英豪とも、今の保守系の政権が地球温暖化対策に反対しており、そのため予算削減したというのが表向きの事情だ。しかし英国や、外交面で英米の影響が強い豪州のようなアングロサクソン諸国は、長期的な覇権戦略を重視し、国際的に重要と考える事柄について、誰が政権をとってもあまり変わらない政策を続けるのが通常だ。 (UK gov't slashes global warming spending by 41 percent) 米国はもともと議会が温暖化対策に反対している。日本も昨秋、2020年までに行うはずの温室効果ガス排出削減の目標を達成できない(する気がない)と発表した。カナダは3年前に京都議定書からの離脱を宣言した。このように、英米など先進諸国が温暖化対策に消極的になっている理由は、地球が温暖化していないという物理的な事象だけでなく、国際政治面で、かつて先進国が握っていた地球温暖化対策の主導権を、中国が引率する途上諸国が奪い、先進諸国が途上諸国に金を出さねばならない事態になっているからだ。 (Last-minute deal saves fractious UN climate talks) もともと地球温暖化問題の本質は、経済が成熟化して環境技術も高いため二酸化炭素などの排出量が減った先進諸国が、これから排出量を増やして経済成長(金儲け)しようとする途上諸国から資金をピンハネするための国際政治詐欺だった。ところが、米国の影響力の低下、中露などが率いる途上諸国の台頭、覇権の多極化により、09年のCOP15を境に「これまで二酸化炭素をさんざん排出した先進諸国が、途上諸国に金を出せ」という要求が国際的に強まった。 (新興諸国に乗っ取られた地球温暖化問題) ワルシャワで行われているCOP19の準備会合では、昨秋来、金を出すのを渋る先進国を途上国が非難して議事が進まなくなっている。先進国は、降参して金を出すか、それとも温暖化問題自体の存在を無視して離脱するしかなくなっている。その流れの中で、英豪で政権をとった保守派が、温暖化懐疑派を気取ることで、金を出すのを拒否している。 (Poor countries walk out of UN climate talks as compensation row rumbles on) (世界経済の構造転換) どうせ、もともと温暖化人為説が詐欺なのだから、温暖化対策が世界的に頓挫しても、人類の生活に何ら悪影響はなく、むしろ詐欺に乗ったマスゴミや学者の権威が失墜して好都合だ(米英では、クライメートゲートなどで関連学者の権威が落ちたところがあるが、学界後進国の日本では、温暖化人為説を声高に主張していた学者らが、まだのうのうと大学で給料をもらい続け、権威も低下していない)。地球温暖化は、温度上昇の停止や太陽活動の低下といった現実面と、先進国が途上国との綱引きに負けたという国際政治面の両方において、終わりになりつつある。 (地球温暖化めぐる歪曲と暗闘(1))
2014.01.31
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前頭前野とドーパミン 前頭前野の高次機能は神経伝達物質のドーパミン、セロトニン、ノルエピネフリン、GABA(ガンマアミノ酪酸)などによって支えられている。これらの物質が欠乏すると、ヒトはワーキングメモリー課題の遂行、プラニング、意思決定や反応抑制の障害を示したり、情動障害を示したりする。 ドーパミンは大脳皮質の中では前頭葉に最も多く分布しており、前頭前野の働きに最も重要な役割を果たす神経伝達物質である。ドーパミンの働きの異常に関係した病気であるパーキンソン病や統合失調症の患者は,前頭前野機能に関係した課題で成績が悪くなる。サルの前頭前野にドーパミンの阻害剤を投与してドーパミンを枯渇させると,サルは前頭前野が関係する色々な課題が出来なくなる。一方ドーパミンは欠乏だけでなく,多すぎてもこうした課題に障害を起こす。前頭前野のドーパミン量と認知課題の成績の間には逆U字関係が認められており、前頭前野が効率的に働くためには,ドーパミン量がある「最適レベル」にある必要があると考えられている。強いストレスは前頭前野内のドーパミン濃度を上昇させる。一方、老化に伴って前頭前野内のドーパミン濃度は減少する。どちらの場合も認知機能は低下するが、濃度を適度に下げる,あるいは上げるような薬物を投与するとヒトでもサルでも前頭前野は効率的に働くようになる。またワーキングメモリー課題の成績が良くないヒトにドーパミンの働きを高める薬物を投与すると課題成績が良くなる一方、もともと成績のよいヒトにそうした薬物を投与すると課題成績が悪くなる、ということも見られる[4]。ドーパミンの受容体にはD1からD5の5種類があるが、認知課題に最も重要なのがD1受容体である。ニューロンレベルの研究で、このドーパミンD1受容体の作動薬を微量投与すると、投与量とワーキングメモリー関連ニューロン活動の間にも、逆U字の関数関係が認められる。すなわち適切な投与量ならS/N比がよくなることによりワーキングメモリー活動は促進されるが、投与量が少なすぎる、あるいは多すぎる場合はワーキングメモリー活動が促進されることはなく、阻害される場合もある。サルの前頭前野の外側部にドーパミンD1受容体の作動薬を投与すると、視覚連合野の刺激反応性が向上するという報告がある。これはさきに述べた前頭前野のトップダウン信号にドーパミンが重要な役割を果たすことを示す。 カテコール-O-メチル基転移酵素 (catechol-O-methyl transferase; COMT)は、ドーパミンやノルアドレナリンなどのカテコールアミンとよばれる神経伝達物質の代謝酵素である。ヒトのCOMTには遺伝子多型があり、最初のメチオニンから数えて158番目のアミノ酸がバリン(Val)の場合とメチオニン(Met)の場合がある。COMTの酵素活性は、Val型の方が高いので、前頭前野でのドーパミンの分解はVal型で早く、Met型の者は、Val型の者よりも、ドーパミン代謝が減弱している。その結果Val型のヒトは前頭前野活動が非効率的で認知課題の遂行が落ちる傾向にある。ヒトにドーパミンの働きを高める薬物を投与すると、同じ量でもVal型のヒトではワーキングメモリー課題成績が上昇するのに、Met型のヒトでは課題成績が減少する、ということも見られる[4]。ここでも前頭前野におけるドーパミンと認知行動の間の逆U字関数関係が見られる。ただ、遺伝子多型と行動との関係は複雑であり、課題の条件やドーパミン量の操作法に関係して、いろいろな研究の結果は必ずしも一致しているわけではない。
2014.01.30
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2014年1月29日水曜日職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(2) それにしても最近急に増えている(らしい)新型うつ病。日本のうつ病のオーソリティーたちはどのような程度表明をしているのか?日本うつ病学会の立場うつ病学会ではそのホームページで次のような提言を行っている。「そもそも新型うつ病という専門用語はありません」[世間で新型うつと呼ばれているものの特徴は、]若者背愛に多く、全体に警鐘である。…訴える症状は、軽症のうつ病との判別が難しい。仕事では抑うつ的になる、あるいは仕事を回避する傾向がある。ところが余暇は楽しく過ごせる、仕事は学業上の困難をきっかけに発病する。患者の病前性格として成熟度が低く、規範や秩序、あるいは他者への配慮に乏しい。」(日本うつ病学会)なんだかわかったようなわからないような姿勢だ。新型うつ病は正式にはない、でも実はある。こんな特徴がある、みたいな。うつ病学会でこのような立場をとるのには理由がある。では従来の精神医学的な診断として同様のものがあったからだ。昔から精神科ではうつ病を二つに分けるという習慣があった。一つは本物のうつ病、もう一つは性格的なもの。前者はちゃんとした病気。後者は落ち込みやすい性格の人が、また落ち込んじゃっている状態。病気というよりも本人のせい。本人の性格的な弱さの表れだ、というわけである。これは日本の精神医学だけではない。米国の診断基準であるDSMでは形を変えた形でずっと存在していた。それが非定型うつというやつだ。 その前に「定型的」な鬱について復習しよう。それは「大うつ病major depression」と呼ばれる。大うつ病、というとダイオウイカ、みたいですごそうな印象を持つが、要するに「深刻な」「本格的な」というニュワンスだ。といってもmajor leagueメジャーリーグのことを、「深刻リーグ」「本格リーグ」とは言わないな。やはり「大リーグ」じゃないと。じゃ、「大うつ病」もいいとするか。ともかくこの「深刻な」正式なうつ病の主な症状 (DSM-4の診断基準)以下の項目のうち5つ以上に該当し2週間以上その症状が続く場合、うつ病が疑われる。 <大うつ病の主な症状(DSM-4の診断基準)>悲しみ 毎日のように悲しい、空虚感、憂うつな気分、涙が出やすい興味 これまで楽しかったことが楽しくない、興味・喜びの減退罪悪感 過度の罪悪感、ものごとに対する無意味感、無価値感エネルギー 疲労感、気力の減退、やる気が起こらない集中力 思考力、集中力の減退、決断することができない食欲 著しい体重または食欲の減少、増加精神運動 落ち着かない、または著しく緩慢(他人から見てもわかる状態)睡眠 寝てばかりいる、または眠れない、夜中に何度も起きてしまう自殺願望 死について何度も考える、生きる意味がない、消えてしまいたい他方、非定型のうつはどうか。<非定型うつ病の主な症状(DSM-4の診断基準)>上記の「うつ病の主な症状」の条件を満たした上で、次のA、Bの条件を満たす場合、非定型うつ病であることが疑われる。 A.気分反応性がある(現実の、または可能性のある楽しいできごとに反応して気分が明るくなる)B.次の4特徴のうち2つ以上に当てはまる 著しい体重増加または食欲の増加がある 過眠傾向がある 身体が鉛のように重くなる ちょっとしたことで拒絶されたと感じて傷つき、長期間、人とかかわることを拒む 2014年1月28日火曜日職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(1) 今日から新しいテーマである。それにしても・・・・風邪をひいた。解熱剤が切れるとダウン。幸いフルーではないが・・・。 新型うつについての議論があいからわず盛んである。最近とてもうつを扱うとは思えないような雑誌{週刊東洋経済」までうつを特集したので買って読んでみた。(2014年1月18日号) 新型うつ病は明らかに職場に影響を与え、それが日本経済に大きな影響を与えているということなのであろう。この雑誌を読んでも特に新しい内容は見当たらなかったが、私が最近持つようになってきている「新型うつ病」についての考えをより強く持つようになった。そこでここでまとめてみようと思う。 まずこのこの種の議論はいつごろから話題になったのだろうか?日本評論社の「こころの科学」は2007年に「職場復帰」という特集を組んでいるが、副題には「うつか怠けか」とある。香山リカ先生は私のお友達たが、この種の本を多く出版されている。•仕事中だけ「うつ病」になる人たち 講談社 香山リカ先生 2007年•「私はうつ」と言いたがる人たち 中公新書 香山リカ先生 2008年。•それは「うつ病」ではありません! 林公一先生 宝島社新書 2009年。•それってホントに「うつ」? 吉野聡先生 講談社α新書 2009年。植木先生も書いているぞ。•「うつになりたいという病」植木理恵先生 集英社新書 2010年•雅子さまと「新型うつ」 香山先生、朝日新書、2012年。•吉野聡先生が再び「現代型うつ」はサボりなのか 平凡社新書 2013年。 このように見るとこのテーマについては何人かの著者が同様の内容で出版をしている。香山先生の「雅子さま」の著書は、この現代型のうつ病が彼女の「病状」に対する関心と重なっているのがわかる。 ここでわかるのは、新型うつ病に関する私達の最大の関心事は、うつなのか、サボりなのか、ということ。彼ら、彼女たちは許されるべき存在なのか、ということなのだ。これは私たちが心の病に対して永遠に持つ偏見にも関係しているだろう。それは心の病は見えないというせいもあり、自分ででっち上げているのではないか、ということだ。 2012年の6月の週刊文春の記事に「新型うつ」は病気か?サボりか?というものがあった。見出しには「療養中なのに、海外旅行、合コン、結婚・・・・。職場だけで体調悪化。この記事の見出しからも同じことがわかる。現代型うつ病病気かサボりか、というテーマだ。実は精神障害をめぐる最大のテーマだといえるだろう。先ほど紹介した2007年の「こころの科学」の特集の最初に、松崎一葉先生が書いている。「本当にうつ病なんですか? なまけなんじゃないんですか?」こうした人事担当者の問いに窮する企業のメンタルヘルス関係者が増えてきた。近年、企業内で増えているのは、従来のような過重労働のはてにうつになる労働者たちではなく、パーソナリティの未熟などに起因する「復帰したがらないうつ」である。 従来のうつの場合は、治療早期にもかかわらず、早く復帰することを焦るケースが多かった。ところが近年では寛快状態となり職場復帰プログラムを開始しようとしても「まだまだ無理です」と復帰を出来るだけ回避しようとするタイプが増えてきている。(松崎一葉)」
2014.01.29
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◆◇◆日経新聞 「プロムナード」5月13日(木)夕刊◆◇◆ 中井久夫は精神科医で本もたくさん出しているが、意外なことに妻は最近まで知らなかった。しかし1年ほど前から知り合いの70代の人がどうやら認知症らしいということになり、私が中井久夫を見せたらいきなり熱中して読みはじめた。そしたら今度は8月に22歳だった猫のペチャが死んだ。それ以来、20年間、夫婦のように、恋人のように、兄妹のように、べったり寄り添って生きてきたジジがものすごく不安定になった。ジジもまた高齢による体調不良は当然あるが、その不安定さはペチャがいなくなったことと関係しているとしか見えず、妻は中井久夫の本をいっそう熱心に読むようになった。 「猫に精神医学か? 猫も高尚になったもんだ」などと呑気なことを言ってる場合ではない。人間にあるものは基本的にすべて犬猫にもある。人間は犬猫より少し知能が大きくなり、そのかわり感覚がだいぶ鈍くなった。だから体調不良は人間より犬猫の方がずっと深刻なのだ。中井久夫は、睡眠と排便のコントロールが大切と書いていて、睡眠には抗うつ剤、排便にはオリゴ糖を飲ませることで、ジジは一時期よりぐっと状態が改善した。精神に不調をきたしている人は体が曲がる、とも中井久夫は書いていて、実際ジジも一時期は上から見て体を「く」の字にして歩いていたが、今ではほぼ真っ直ぐになった。私は「中井久夫」と敬称なしで書いているが、一面識もない人にどういう敬称をつけたらいいかわからないからで、家では妻と2人で「中井先生」と呼んでいる。 このような個別の事例はともかく、中井久夫を知らない人にどう説明すればいいか? 人格が高潔で、書いたものを読むと、こちらの気持ちまで浄化される――と、私はとても抽象的な言い方をしてしまうのだが、そんな文章を書く人が他に誰かいるだろうか。普通のエッセイも数多く書いている。 中井久夫は精神科医だから科学の側の人間だ。ところが科学者というのは必ず、人間を高みから見下ろすようなことを言う。たとえば、 「宇宙の中で地球はごくありふれた惑星であり、宇宙全体の中で生物が生存している星はいくらでもある。人間とは広大な宇宙の片隅に生き、宇宙のほんのわずかのことだけを知って死んでゆく、とてもちっぽけな存在なのである」 なんて、そんなことわざわざ人に言わずに、自分の心の中に閉まっておけ!と言いたい。彼らがそれを人に言わずにいられない理由は、自分がそれを聞かされた衝撃を自分では解消できず、誰かに言ってその人の驚いた顔を想像することで、自分の体験が和らぐと錯覚しているからだ。彼らはそういう幼稚な人たちなのだ(なんて書く私も幼稚だが)。 しかし中井久夫にはそのような高みから人を見下ろす感じがまったくない。いま自分の前にいる人の話に静かに耳を傾け、その人がなかなか話し出さなければ話しやすいような話題を探し、少しずつ解きほぐす。中井久夫以前、精神分裂病(統合失調症)は治らないとされていたのだそうだ。科学者でも本当に自分で切り開いた人は、高みから見下ろしたりしないのではないか。自分自身が最前線にいるかぎり、高みから見る視点など、ない。文字どおり手探りだからだ。中井久夫の本は、何から読めばいいか? 私にはどの本も素晴しいとしか言えない。
2014.01.24
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冷戦体制終焉後のグローバル化が何をもたらすのかが、世界規模で自明化しました。賃上げ要求や増税要求があれば本社や工場を移転すれば良いので、格差化&貧困化を放置、〈社会がどうあれ経済は回る〉状態になります。 すると人々は不安化&鬱屈化しますが、それを利用した〈感情の釣り〉によってポピュリズムを駆動すれば、再配分などの手当をスルーでき、〈社会はどうあれ政治は回る〉状態になります。 面白いのは、実はそのことが大衆規模で自覚されていることです。にもかかわらず〈感情の釣り〉に釣られまくる。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」です。保守回帰とは、保守への回帰でも何でもなく、実際にはこうした〈感情の劣化〉です。 新聞的に穏当に言えば「この社会は希望がないから、今ある権益にぶらさがって行ける所まで行こう」というニヒリズムですが、実際は「自らの劣情への屈服」です。民主党政権への失望が引き金を引き、「いっとき夢を抱いたこともあったが幻だった」という具合になりました。
2014.01.23
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白鷺城の暗黒蔵にこもること三年、武蔵は名を宮本武蔵と改め、沢庵に別れを告げて剣の旅に出た。同行を願うお通が約束の花田橋に駈けつけたとき、武蔵の姿はすでになかった。三年後、京は祗園の色里で吉岡清十郎がお甲の娘朱実にうつつを抜かしていた。武蔵の幼馴染の本位田又八は、お甲の名ばかりの亭主だ。清十郎が伊勢に旅立った日、吉岡道場に現れた武蔵は門人数名を敗った。清水坂で武蔵に果し合をいどんだのは本位田家のお杉婆と権叔父だが、武蔵は相手にせず逃げ去った。木賃宿で逢った城太郎少年が青木丹左衛門の一子と知り、武蔵は弟子にすると約した。醍醐道で追いついた城太郎は、武蔵に又八からの書状を渡した。吉岡道場千人の門下が意趣をふくみ、武蔵を捜しているという。武蔵は明春一月、道場を訪ねると清十郎に返事を書いた。その手紙を城太郎が大和街道で落したとき、市女笠の旅の女--お通が教えてくれた。一方、奈良奥蔵院裏の畑で、武蔵は鍬を手にした老僧日観師のただならぬ気魄に舌を巻いた。訪ねる宝蔵院の胤舜は不在。どの修業者も高弟阿巌の敵ではなかった。が、武蔵の鋭い木刀に阿巌は血を吐いて息絶えた。その武蔵に「強さをためねばならぬ」と戒しめたのは日観で、武蔵は「敗れた!」と呟いた。その頃、奈良には素性の知れぬ牢人衆が多く流れ込み、町を荒らし回っていた。そして、武蔵に恨みを抱く牢人たちは宝蔵院の荒法師たちを煽動して、武蔵を囲んだ。武蔵は奮然と斬りまくった。加勢するはずの法師たちは、逃げる牢人衆を片端から突き伏せた。奈良の町を大掃除しようと、日観師が胤舜に策を授けたのであった。南無妙法蓮華経の題目を記した供養の小石を武蔵は空に投げた。「殺しておいて何の供養ぞ!」
2014.01.16
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現在の絵札のデザインの元となっているのは、16世紀にフランスのパリで作られたものであるが、その当時は以下の通りの人物に当てはめられていた。キング スペード : ダビデ王(『旧約聖書』の「列王記」に登場するソロモン王の父、古代イスラエル国王)ハート : カール大帝(シャルルマーニュ、中世のフランク国王)ダイヤ : カエサル(シーザー、古代ローマの政治家、軍人)クラブ : アレキサンダー大王(ギリシア時代のマケドニア国王)クイーン スペード : パラス(ギリシャ神話のトリトンの娘。もしくは友人であるパラス・アテナ。こちらはギリシア神話の戦いの女神で、ローマ神話ではミネルウァ)ハート : ユディト(英語読みから「ジューディス」とも。『旧約聖書』外典の一つである「ユディト記」に登場するユダヤの女戦士、もしくはカール大帝の子ルートヴィヒ1世の妻)ダイヤ : ラケル(旧約聖書のヤコブの妻)クラブ : アルジーヌ(英語読みから「アージン」とも。名前はラテン語の女王を意味する単語・regina(レーギーナ)のアナグラムから (regina→Argine)。モデルはシャルル7世の妻であるマリー・ダンジュー(Marie d'Anjou、アラゴンのマリーとも)、もしくは愛人のアニェス・ソレル (Agnès Sorel)、またはこの二人を混合したものとされている)ジャック スペード : オジェ・ル・ダノワ(英語読みから「オジーア・ザ・ダン」とも。カール大帝の騎士で、デンマークでは「ホルガー・ダンスク」の名で愛されている)ハート : ラ・イル(英語読みから「ラハイア」とも。ジャンヌ・ダルクの戦友)ダイヤ : ヘクトル(ギリシア神話に登場するトロイの王子)クラブ : ランスロット(『中世騎士物語』に登場するアーサー王に仕えた円卓の騎士の一人)
2014.01.15
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アスペルガー問題と自己愛ところでこのままだと自己愛と怒りの問題は終わってしまうのだが、どうしてもひとつ付け加えておかなくてはならないテーマがある。それがアスペルガー問題なのだ。私にとって気になってしょうがないアスペルガー問題。まさかここで「アスペルガー障害は自己愛の病理である」などと言い出すわけもない。両者は私の頭の中だけで根拠なくつながっているだけだ。でも彼らにとって尋常でない怒りの問題が、どうしても「どこから彼らの怒りが来るのか?」という問題へと関心を向かわせ、すると出てくるのが、やはり自己愛憤怒の問題なのである。これまで慣れ親しんできた自己愛の風船の比喩を用いようか。(スペース稼ぎでは決してない。) 過敏な自己愛を追加した図 病的な肥大した自己愛を私はもっぱら問題にしてきた。確かにやたら大きな風船を持つはそれだけ人とぶつかりやすい。自己愛的な人はちょっとした非礼も許さない。部下がチラッと怪訝そうな目で見た、というだけで「反抗的だ!」となるかもしれない。北の寒い国なら処刑ものだろう。でもどうだろう?それほど肥大していなくても敏感な風船はいくらでも考えられるのではないか? 昨日のブログで書いたEさんのように、膨らませようにも膨らませることができず、小さいままで燻っている人の場合はどうか。彼は家庭内で、小さな部署内で、小さいけれどものすごく敏感な風船を保つことになる。周囲はすごくピリピリするだろう。ここで風船が小さい、というのは、一歩外に出てしまうとそれをふくらませようがなく、小さくなっている以外にないからであり、要するにその風船を侵害する人の「人数」が少ないというだけだが、その人の数少ない部下にとってはあまり風船の大きさなど関係ないかもしれない。 さてもう一つ問題なのが、小さい風船の敏感さが、ある種の被害妄想的な色付けを伴っている場合である。私の中で確信に近くなりつつあるのは、「アスペルガー傾向が被害妄想傾向(恨み)を持ちやすい」ということだ。もちろん心優しいアスペさんもいる。でもその中核にある病理は恨みがましさである。中核症状=他人の心の分かりにくさだからだ。人は他人の心が見えない分だけ猜疑的になるだろう。ただし見えない分だけ楽観的になる人もいる。ということは「アスペルガー+Eさん傾向」というのが最悪の組み合わせということか。こうなると厄介なことになる。アスペルガー傾向の人たちは大きい自己愛の風船を持っているだろうか?必ずしも。というより周囲にあまり関心がないかも知れない。しかし彼らが関心がないのは周囲の人々の気持ちであって、自分自身は人恋しさや羨望を人一倍持つ。そう、彼らもまた小さいけれど敏感な風船を持つ人々の中に数えられてよく、周囲はそれなりの覚悟が必要だろう。でもこうなると私は自己愛の風船について二つのファクターを扱っているということに気がつくのだ。つまり風船の大きさと過敏さと。そしてこれが自己愛の問題でいつも行き着く問題、すなわち過敏性の自己愛の問題なのだ。この問題についておさらいしておこう。自己愛の病理には二つあるらしい。それは無関心型と過敏型である、ということだ。無関心型は、一般的なナルシシズム、つまり人に対して横柄で、他人を自分の満足の為に利用する傾向。それに比べて花瓶、じゃない過敏型とは、人に自分の自己愛を傷つけられることを常に恐れているタイプ。私はこちらの過敏性自己愛のことを、対人恐怖傾向と自己顕示傾向の混合であると論じたのだ。ここらへんはほとんど自分の体験だな。私は両方の傾向を持っている。人前で自分のことを滔々と喋る、というタイプでは決してない。だからそのようなタイプに出会うと、すぐさま観察する側に回ってしまう。人と対面していて自分が喋りだすと、その分目の前の人の時間が奪われていく様子がカウントダウン形式で心に表示される。 まあそれはいいとして、私はこの問題を対人恐怖と自己愛はどのように「打ち合うのか」(二つの波が「打ち合う」というニュアンスで)が常に興味があったのである。
2014.01.14
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教育現場は恥を利用している?さてこのような教育環境で、恥はどのように利用されているのであろうか?利用される、という言葉にはあまりよくない響きがあるが、私は恥自体を必ずしもネガティブなものとは考えていないし、それでも語弊があるならば、この文脈では「自意識」を利用している、という風に言い換えてもいい。先ず挙げられるのが、クラスメートの前での叱責である。私の子供時代はほかの生徒の面前で教師から叱られることはごく日常的なことであった。小学生時代に恥をかいた体験というのはほとんどこれに結びついている。小学三年生の頃、どのような事情からは忘れたが、クラスの三人の男児が悪さをした結果として、教壇に登って黒板に向かい、ズホンを下ろすように教師に命ぜられた。あわれなパンツ姿になった少年達は、クラスメート全員の見守る中で尻を叩かれた。これは強烈であった。自分がその三人の中に入っていないことに心底安堵すると同時に、自分がそのような形で叱責されることを心から恐れた。私にはそれは究極の恥の体験のように思われたのである。この種の叱責は、子供の虐待にやかましい現在だったら、教育委員会で問題になりかねないのではないか?(少なくともアメリカではそうである。)それを今から考えても極めて温厚で思慮深い教師がしたのであるから、時代の流れを感じる。もちろん誰も先生に反抗する者はなかった。そのような場面で反抗するということ自体が考えられなかった。そしてこのような形での叱責の効果は絶大だったのである。このように意図的に恥をかかせることによる叱責は別としても、学校の授業や行事は、ことごとく競争であり、出来ないものが明らかにされ、恥を体験するというプロセスであった。たとえば体育の時間がそうである。跳び箱、マット運動、鉄棒。一列になり次々と行い、出来るものと出来ないものが誰の目にも明らかになる。体育祭の時も校内マラソン大会でも、相撲大会でも水泳大会でも、出来ないことによりクラスメートや全校生徒の前で恥をかくという設定はいつでもあった。算数の計算競争もそうだったし、成績がいっせいに張り出される校内一斉テストもまた同じであった。学校でこうして教え込まれることを、子供はどの程度自分自身のためのものと思って受け入れているのだろう。たとえば逆上がりが出来ることが、自分の健康にとって、あるいは将来社会に出るに当たって重要だと考える子供などいないだろう。彼らが歯を食いしばって鉄棒にしがみつき、懸命に地面を蹴る唯一の理由は、ほかの子供が出来るのに自分が出来ないことによる恥の感覚からである。教育の場とは結局は、この種の力を当たり前のように使って子供を均一化していくプロセスといわざるを得ない。ちなみに米国においては、少なくとも教室における教育に関してはもう少し考慮されているようである。みんなの前で能力が劣っていることが明らかになるような状況は一般に避けられる。体育などの場合にも、一律にみなが鉄棒やマットをやらされて出来ない子は居残る、というようなことはない。しかしその結果として、例えば体育の授業は一種のお遊び、ゲームというニュアンスが強い。教室における計算やスペリングについても同じであり、米国では出来る子が校外の特別な競技に参加する機会はあるにしても、出来ない子供が明らかに目立つようなことは起きないよう配慮されている。しかしその結果として個々の生徒の能力はばらばらで、中学生になっても分数の基本的な理解が出来ていない、という子供はクラスでざらにいるというのが現状だ。結局ここでも私の立場は、恥のメカニズム自体はニュートラルなもので、それが過剰でも、過小でも、問題が生じるであろうということである。恥に関する教育さて恥と教育について考える以上、教育のもうひとつの機能であるべき、恥を克服することを援助する役割ということについても述べなくてはならない。しかし結局は、日本の教育はそのことに対してあまり役立っていないであろうと推測するしかない。教育が暗に恥の力を利用する側面がある以上、この問題について深刻に教育者側が取り組むことも不可能であろう思われる。ましてや教室で生徒との間でこの問題が正面切って扱われることは皆無ではないか?結局自分の持つ過剰な恥の感覚を克服するのは、あくまでも個々の子供でしかない。そして子供はたいてい孤立無援である。ただし幸いなことに、子供は互いにコピーすること以外にも、喜びを見出すことがある。それは自分自身を見出していくことであり、自己の能動性や主体性を発揮することである。これもまた本能のなせる業であろう。自分には自分の世界があり、好みがあり、それに従うこともまたその子にとって快適なことになりうるのだ。無論この自己の確立や主体性への願望は、仲間をコピーするというもう一つの衝動と容易にぶつかってしまう。大抵の子供は仲間の中で出る杭になりたくないだろう。ここで大げさに言えば、子供は人生の岐路に立たされるのである。そしてそれは潜伏期の終了が近づき、これまで不変定数であった自分の仲間との違いが視野に入るにつれて、ますます顕著になるだろう。子供は自分らしさを追求するという力に抗し切れなくなり、むしろその方に自然さを感じる。彼らは例えば一人だけ違う髪のカットをする。友達がカード集めに夢中になっているのを尻目に、ハンティングか何かの雑誌を持ち歩く・・・ここで彼がユニークだといってむしろ友達の尊敬を集めるのか、それとも仲間はずれになるのかは予測不可能である。ただしその際におそらく非常に重要な点がある。それはその子供の自己主張が単なる虚勢や注目を浴びることを目的としたものではなく、彼自身に心地よさを与えていることである。これは彼が排斥されたりいじめにあうかどうかを決める上で決定的とは言えないだろうが、かなり大きな決め手となる。皆とは異なった道を歩むことが、その子にとって内的な一貫性を伴っていること、そしてたとえ仲間が離れても、その世界で喜びを見出し続けることが出来ることが、その子自身を内面から強く支えるのである。そしてその子の自己主張が仲間に挑戦することを本来の目的としていないということも、自然と周囲に伝わっていくだろう。そしてそれは他の子供達に対しても、自分自身を追及するよう勇気付けることになるのである。恥を克服するのは、健全な自己愛や自己顕示欲であるさて以上は基本的には個々の子供の中に起きる内的なプロセスであり、おそらくそこに教育は関与しないであろうと述べた。しかしもし教室で教師と生徒が恥の問題について語るような機会があるのなら、以上の議論をもとにした私の次のような考えを参考にしていただきたいと思う。それは一言で言えば、深刻な恥を克服する上での決め手となるのは、本人の持つ健全な自己愛であるということである。この自己愛という言葉はいろいろな意味で使われるが、ここでは自分を他人に表現し、評価を得たい、認められたいという願望であり、一種の自己顕示欲という意味で用いている。これは具体的にはその人の持つ負けん気、意地、プライドなどとして発揮されるであろう。恥に関する常識的な理解の仕方からいったら、その予後を左右するのは恥の病理そのものの深刻さである、ということになるだろう。たとえば人目を避けたくて夜しか外出しないような人の方が、昼間の外出に耐えられる人よりその恥の病理は深刻であり、より克服困難である、という風に。しかしそれでは、その人が恥を乗り越えるバネとなるものを持っているかどうかという点を考慮していないことになる。そしてそのバネこそが、この自己愛なのである。恥の病理の典型である対人恐怖は、一般の人々からいろいろな誤解を受けているように私は思う。その一つの典型は、「対人恐怖的な人間は引っ込み思案であり、自己顕示欲を持つどころではない」という考えである。ところが対人恐怖的な人でも自己を表現したいという強い願望を持っている人は少なくない。恥ずかしがりやなくせに目立ちたがり屋、という人は結構いるものである。もう一つの誤解はその逆で、「対人恐怖は過剰で病的な自己顕示欲や自己愛の裏返しである」というものである。つまり過度な自己顕示欲や自己への期待が、それに失敗した際の恥の体験をより顕著なものにしている、というわけである。森田は対人恐怖のことを「負け惜しみの意地っ張り根性」と呼んだそうだが、これも似た路線といえよう。いずれにせよこの考え方によれば、自己愛は恥の病理を助長していることになってしまう。しかし私は対人恐怖の人が時に見せる過剰な自意識や誇張された自己顕示も、彼らの自己愛が対人恐怖症状のために思うように発揮できないことから来る焦燥感の表現ではないかと考える。彼らが人前でとっぴで奇を衒った行動に出たり、突然強気に出て人と衝突して周囲を戸惑わせるとしても、それは彼らの満たされない自己愛の発する悲鳴のようなものなのだろう。結局ここでの私の主張は、恥と自己愛とは別々の変数だということをご理解いただきたい。いきなり数学的な表現を用いるが、その議論の詳細は別の機会(「恥と自己愛の精神分析理論」1998年)に示している。要するに自分を他人に評価されることで満足を味わいたいという願望は、対人場面での緊張に悩まされるかどうかという問題とは独立して存在しうるのである。そしてもちろん両者は共存して差し支えない。恥と自己愛的な傾向とが独立の変数であるということは、理屈から言えば両者の組み合わせとして四通り考えられることになる。そして私がこれまで出会った患者さんの中でやはり特に苦労しているのは、一番不幸な組み合わせ、すなわち人前に出ることが苦痛なばかりでなく、主張したいような自分を持たないで悶々としているタイプである。その場合は治療の取り掛かりをつかむことが出来ない。しかしそれ以外の組み合わせ、つまり対人恐怖に悩む人がそれでも自己顕示的な傾向を少しでも持っているケースであれば、それが対人恐怖を乗り越える際の梃子のような働きを持つのである。このようにその人の自己愛を重視する立場は、治療的な介入にも影響を与える。もちろん対人場面での緊張や恥の感覚そのものを和らげるための認知行動療法的アプローチや薬物による治療は重要である。しかし同時に必要なのは、その人が自分の何を一番表現したいのか、それにはどのような手段がベストかを一緒になって考えることである。つまり当人の自己愛的側面のほうに働きかけるのだ。そしてそれを目指して人生を歩んでいるうちに、人は思春期から青年期にかけての、もっとも「皮膚感覚」が敏感な時期を乗り切り、自分をよりよく支え、自己表現の機会を提供するような資格や技能を持つことで、結果的に恥の病理は克服されるだろう。私の身近にもそのような経緯をたどった人は少なくない。* * * * * * * * *恥と教育との接点という「鉱脈」を、この短いエッセイでどれだけ掘り進めることが出来たかはわからない。しかし書き終わって改めて思うのは、私は恥という感情を結局は非常に貴重なものとして扱っているということである。恥じらいを知るということ、慎みを持つということは、日本人がこれからますます欧米型の個人主義に向かうとしたら、徐々に失われていくものなのかもしれない。とすればそれはもっとも残念なことである。恥の感覚を持ってしか成立しない人間関係や到達出来ない文化があるはずだと私は信じている。このエッセイで述べたように、あいにく学校は、頻繁に恥を体験する場でもある。しかし教育する側がそのことを十分認識しておくことで、そしてそれを生徒と共有することで、恥は子供にとってより建設的な意味を持ち得るのではないかと考える。
2014.01.10
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恥と教育 Shawnee Community Mental Health Center 岡野憲一郎・・・恥は知ってるに越したことはないだろう。「恥知らず」と呼ばれることは日本人なら誰にとっても屈辱である。それにこれはこのエッセイの一つの論点ともなるのであるが、教育の現場は恥の力を知らず知らずのうちに利用しているところもあるのだ。しかし恥と教育の関係はこれだけでなく、もう少し複雑なはずである。過剰な恥の感覚を植えつけたり助長させたりしないことも教育の役割と考えるべきだろう。そこで私はこのエッセイのタイトルを「恥と教育」へと代えさせていただいた。そこで私が見出した恥と教育のただならぬ接点とは何か?それは教育の場である学校や教室が、その隅々まで恥の力動が行き交う場面であるということである。具体的には、子供たちを突き動かしている中心的なもののひとつが、「友達や先生の前で恥をかくのではないか」という懸念や、実際にかかされた恥の体験なのである。これはおそらくは罪悪感よりも虚栄心よりも、愛情よりも嫌悪よりも強く彼らの行動を規定している可能性がある。私はこのことを、時には私自身の日本での小中学生時代の体験を思い出しつつ書いているが、恥の文化といわれる日本においてのみこれが生じているとは少しも思っていない。むしろ米国での思春期病棟における臨床家としての体験を通し、そして小学生の息子が級友とかかわるのを傍で見ていて、彼らの体験に占める恥の位置がこの地でも極めて大きいことを実感しているのである。結局子供の世界から大人まで、おそらく文化の差を越えて恥の感覚は普遍的なのなのだろう。恥は人と人とが社会生活を営む場面で、ある種の装置として存在している。この装置、という言い方は意味深長だが、後にもう少し詳しく述べることとして、その前にいくつかの基本的な点をカバーしておきたい。はじめに - 対人体験とは私は基本的には、対人体験、すなわち人が人と交わる体験は、多くの場合苦痛な体験だと考える。「人間は社会的な動物であり、常に群れているのが自然なのである」というのは嘘ではないとしても誇張がある、と言いたい。人の心はちょっとした揶揄や、差別のまなざしに傷つく。それは当たり前な反応である。人は他人が自分をどう観察し、どのように評価しているかを常に知ろうとするが、同時に自分たちも常に他人を観察し、値踏みしている。そもそも周囲を観察することは人間の防衛本能に根ざしている。人は常に環境に注意を払い、他人に対して警戒したり適度な距離を保とうと試み、同時に自分との力関係を把握しようとする。また同時に人は周囲に同調することで仲間として認識されようとする。つまり周囲の人間と相互に観察しあい、探り合うことは必要なことなのである。そしてそのような視線の交錯する対人場面を心地よく感じないとしても無理のないことである。その意味では対人体験における自意識は皮膚感覚のようなものである。皮膚が温度や湿度に敏感に反応するように、人も他人のまなざしを、時には痛みや快感を覚えつつ感じ続けるのである。それはむしろ生きていく上で必要なものといえる。恥の問題について論じる前に、以上の点は押さえておきたい。私としては恥の体験をそれ自体はネガティブなものでもポジティブなものでもなく、人間の本性に根ざしたものであるという理解からいつも出発したいのである。恥は一種の学習装置ではないか?さてその社会的な意味での皮膚感覚が最も敏感になる時期が、精神分析学でいう「潜伏期」である。これは小児期に始まり思春期にいたるまでの時期(6-12歳頃)であり、「認知能力や身体的能力の発達に従って興味の対象を外界に求め、仲間の中で多くのことを学ぼうとする時期」(精神分析事典)とされる。(思春期においては別の意味で対人的な皮膚感覚が再び敏感になるのだが、それはまずおいておこう。)潜伏期とは不思議な時期である。それは子供がその所属する社会の一員となるために必要なものを一心不乱に取り入れて行く時期である。人がこれほどに急速に学習をすることは、人生でこの時期を除いてはありえない。語彙や言葉のセンスも、味覚も美意識も、文化的な規範も、この時期に最大限に吸収される。これは人間が種々の能力を獲得する上での臨界期と考えられている。言語以外にも、器楽演奏の技術も、特定のスポーツや芸能に関しても、この臨界期を逃しては決して得られない能力が多く存在することを私たちは知っている。私はこの臨界期は大脳生理学的な変化と密接に関係していると見る。大脳皮質の神経細胞が有する樹状突起の数は生後6歳前後で最高に達した後に減少し、思春期にいたるまでに半減するとされる。これがまさに潜伏期に重なっているのだ。この時期にさまざまな能力や知識に関する神経ネットワークが急速に形成され、それに使用されなかったシナプスは消退していく。すなわちこの時期を逃してこれほど多くの神経ネットワークを獲得することは、大脳生理学的に考えてもありえないことになる。それがこの臨界期という意味である。このような潜伏期の特徴を端的に表現すれば、それは子供達がお互いをコピーする時期となる。その時期の子供は、仲間と自分が同じものを身に付け、同じ音楽を聴くことに最大のエネルギーを費やす。逆に仲間と自分とのちょっとした違いは大きな焦りや不安を生むのである。この仲間をコピーする志向性には驚くべきものがある。親が何度口をすっぱくして注意しても反応しない子供が、友人からいとも簡単に影響を受ける。たとえばこうである。私の息子(12歳)は何人かのクラスメートと泊りがけの旅行をしたが、そこで普段学校では気づかなかった自分と友達との「違い」をさっそく発見したらしい。帰るなり彼は真剣なまなざしで、今日限りこれまではいていたブリーフ型ではなく、トランクス型のパンツでなくてはならない、と宣言し、妻を洋品店に走らせた。また腋臭でもないのに、匂い消しのクリームを塗らないと仲間はずれにされる、と主張して私たちを当惑させた。(欧米人に腋臭が多く、このクリームを塗って、その香りをさせていることが身だしなみということらしい。)とにかく息子が頑固で容易に人の言うことを聞かないと思い込んでいた私と妻には、この彼の行動の変化の速さは驚きであった。潜伏期におけるコピーのし間違いは仲間の間ですぐさまチェックされるようである。ちょっとした発音の誤りとか訛りは、クラスで失笑の的になりかねない。そして間違いをした当人はそれに気づきさえすれば即それを恥と感じ、修正しようとする。このプロセスは子供にとってあまりに自然であり、この意味での異質なものへの気付きや排除はそのコピーのメカニズムと一体となっていると言える。これはしかし子供たちが「仲間はずれを探している」ということでは必ずしもないだろう。お互いをコピーして均一になるという子供の自然な志向性の、裏返しの現れと考えたい。ちなみに仲間と自分が異なるということによる不快感を恥の感情と呼ぶのが適当かどうかに関しては、私には今ひとつ確信がない。仲間をコピーする機能が一種の本能のように備わっている以上、それが失敗した際に生まれる違和感や不快感は、感情というよりはもう少し生理学的な反応という気もする。それを表現する用語は見当たらないが、少なくとも私たちが恥と呼んでいる感情にかなり類似しているのであろう。ところで潜伏期の子供がお互いをコピーし合う際に、同時に起きていなくてはならないことがある。それは子供同士がお互いの間にもともと存在している明らかな違いを無視することである。否認すると言ってもいい。教室にはデカもチビもいる。背格好も顔立ちも、人種も違う者同士が机を並べている。その彼らがお互いをコピーし合う際、最初から存在しているお互いの間の違いにはもちろん気がついてはいても、ほとんど頓着しないようなのである。(ただし性差に関しては別である。) 私は息子を見ていてもつくづくこのことを感じる。息子はクラスでただ一人のアジア人であり、あとは白人である。あれほど仲間をコピーするのに熱心な彼が、どうしてほとんどのクラスメート達のようになるために髪を染めたいと言い出さないのだろうか?なぜ一人だけ姿形が違うことで羞恥心にとらわれないのであろうか? ここにもう一つの、恥の装置の巧妙さがあるようである。最初から存在していて、当人のコントロール外にあって変更不可能な違いについては、恥の装置は大胆に無視するのである。皮膚の色や髪の色はその例である。それはそれで一種の不変定数としてそこに存在するのである。逆にこれが簡単に変わってしまえば問題が生じる。たとえば金髪の子がある日髪を黒に染めてきたら、それはたちまち注目を浴びるし、当人に羞恥の感情を誘発するだろう。こう考えると、子供が敏感に反応するのは、可能な範囲において、仲間がお互いが均一になろうとする意図を持っているか、あるいは逆にそれに抵抗しているか、ということらしい。このことは次に述べる集団に対する忠誠心の問題とも絡んでくる。恥の装置と仲間への忠誠心子供に「どうしてほかの子と同じ事をするの?」と問うた場合、おそらく彼らは当惑するだろう。彼らは多くの場合、それを考える以前に行なっているからである。しかしそれでも問い続けると、彼らはこう言うだろう。「だって自分だけ仲間はずれにされたくないから。」そして更に尋ねると、「同じことをしないと、友達を怒らせているような気がするから。」と言うに違いない。(これは実際に息子から返って来た答えでもあった。)彼らにとっては、仲間をあえて真似しないことで一人浮いてしまうことは、恥の感覚を生むだけでなく、仲間に対して挑戦しているというニュアンスが伴い、それによる仲間外れの恐れを招いてしまうのである。このお互いの違いの認識、恥への恐怖、仲間はずれになることへの恐れの相互連動は非常に興味深い。これらの複雑な絡み合いが、教室で起きているのである。つまり変更不可能なお互いの違い(不変定数)は無視して、それ以外の部分でお互いがコピーをしあう努力をすることでその集団に忠誠を誓ってるかどうかを、子供達は常に相互にチェックしているのである。さて本題からは多少外れるが、いじめの力動もこの集団への忠誠という文脈で多少なりとも理解できるだろう。ただしそれは忠誠を誓わない子が苛めの対象になるという意味では必ずしもない。苛められる対象はしばしばそれ以外の要素で恣意的に決まってしまう。転校生や学習身体能力の「異なる」子供などがその例だ。問題はそれがどのようにして維持されるかである。教室でいじめが生じている時は、いじめにあっている子供を助けるそぶりをすることは、そこでリーダーシップをとっている子供に対して、あるいはその教室の子供たちを支配する空気に対して挑戦をすることを意味し、今度は自分に矛先が向かいかねないということになる。こうしていじめる側に加わっている子供たちもまた凍りついているのである。もちろんいじめは不幸な現象ではあるが、これもまた相手をコピーして均一になろうとする子供の傾向の副産物と考えられないこともない。ちなみに米国のように、人間がお互いに均一になる傾向に対抗する形で、個の独立や独立性を尊重する考え方が共存する社会では、少なくともこのような悲劇は日本ほどは起きないようである(後述)。
2014.01.10
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安倍靖国参拝の背景 2014年1月6日 田中 宇-------------------------------------------------------------------------------- 昨年12月26日、政権の誕生から1周年の日に、安倍首相が靖国神社に参拝した。現役首相の靖国参拝は、06年の終戦記念日に小泉首相が参拝して以来、7年ぶりだ。安倍がなぜ、年末に参拝をしたのか、いろいろ憶測されている。安倍はもともと靖国参拝したかったが、06年から07年の第1次安倍政権の時、前任の小泉が靖国参拝して米国からやんわりと反対された経緯があったため、安倍は靖国参拝を見送らざるを得ず、2回目に首相になって1年以上政権を維持したら靖国参拝しようと思っていたのかもしれない。 (安倍訪中と北朝鮮の核実験) 安倍にとって1年という節目は大事だ。第1次安倍政権は、06年9月26日から07年9月26日までの、ちょうど1年しか続かなかった。安倍は、2回目の政権が1年以上続くことが確定した昨年12月26日に、小泉から受けた呪縛を解くかのように、靖国に参拝した。 小泉は01年から06年までの首相任期中、毎年1回ずつ、合計6回靖国参拝した(安倍も毎年1回ずつ参拝する気かもしれない)。小泉が最後に参拝したのは、辞める1カ月前の06年8月15日だった。その2カ月前の06年6月、小泉は訪米したが、帰国後に小泉が靖国参拝するつもりだと知った米議会では、当初予定されていた小泉の米議会での演説を許さない方針に転換した。米議会は、1941年12月8日、真珠湾攻撃を受けて日本に宣戦布告するにあたり、ルーズベルト大統領が史上有名な「date of infamy」の演説を行った場所であり、当時の敵国日本を率いていた東条英機首相らをまつっている靖国神社を参拝する小泉に米議会で演説する栄誉を与えるなどもってのほかだとの理由だった。 (米議会への訪問を拒否された小泉は、代わりにブッシュ大統領にプレスリーの家に連れていってもらった。結果、日本の指導者はまだ一度も米議会で演説する栄誉を受けたことがないままだ。対照的に、たとえば韓国の歴代指導者は、これまでに6回も米議会で演説している) (Will Shinzo Abe's Yasukuni Visit Hurt Relations in Washington?) 小泉政権時代、中国は何度か、日本との外交関係を改善しようと接近してきた。そのたびに小泉は靖国神社に参拝したり、参拝に関して中国を怒らせるような発言を発し、中国が日本に接近できないようにした。抗日戦争に勝ったことが歴史的な正統性である中国の共産党政権は、日本の首相の靖国参拝を容認できない。小泉ら日本側は、中国が容認不可能なことと知りつつ、首相の靖国参拝を繰り返してきた。首相の靖国参拝は、単に小泉や安倍や中曽根の「個人の信条」に基づく行為でなく、ずっと前から(78年の米中国交回復時に予防策のように行われたA級戦犯合祀以来)断続的に発露されてきた、日本の国家戦略の一つである。 (日本の孤立戦略のゆくえ) 02年4月には、中国の海南島で開かれた国際会議ポアオ・フォーラムに小泉が招かれ、当時の中国の朱鎔基首相から日中関係を改善しようと持ちかけられた。だが小泉は海南島から帰国した2週間後に靖国参拝し、中国側を怒らせて関係改善を防いだ。05年4月に小泉は、おそらく米国からの圧力を受け、それまでの中国への冷淡な態度を突然変えた。小泉は、ジャカルタでのアジア・アフリカ会議で日本の過去を反省する演説を行うとともに、小泉の方から中国の当時の胡錦涛主席のホテルを訪れて久々の日中首脳会談を行い、歴史認識や尖閣(東シナ海ガス田)問題で日中が対話することを決めた。中国側は「日中間で共通認識ができた」と大喜びで報じたが、翌月に中国から特使の呉儀副首相が訪日して会談する直前、小泉は、今後も靖国参拝をやめないと呉儀に対して言うと表明し、それを伝え聞いた呉儀は小泉に会わずに帰国し、日中関係は再び冷えた。韓国も反日的な姿勢を強めた。 (短かった日中対話の春) 小泉らが首相の靖国参拝によって中国を怒らせ、日中関係の改善を阻害する策を採った理由は、それによって日本の国是である対米従属策を維持できるからだ。冷戦後(もしくは72年のニクソン訪中以来)、米国は、日本や韓国、フィリピンなど東アジアから軍事的な存在感(プレゼンス)を減らしていく長期的な傾向にある。中国からの誘いに乗って日本が日中関係(や日韓関係)を改善すると、米国は「東アジアは地元の諸国どうしで安定を維持できるので在日・在韓米軍が不要になった」という姿勢を強め、日米同盟は長期的な縮小・空洞化が進む。これは、日本の権力を握る官僚機構が「米国(お上)の意」を解釈(曲解)する権限を持ち、民選された国会を越える権力を持ち続けてきた戦後日本の権力構造の終わり(日本の真の民主化)を意味する。だから、官僚機構に担がれて政権をとった首相ほど靖国参拝にこだわるし、官僚機構と対決する姿勢をとった政権(たとえば鳩山・小沢)ほど、対米従属をやめたがり、親中国的な姿勢になる。 自民党は小泉政権まで、対米従属でありながら中国とも良い関係を保つバランス外交を重んじる長老が多かったが、小泉は首相だった5年間に長老たちを次々と引退させて「自民党をぶっこわし」、対米従属を維持するため中国敵視を煽る戦略に乗せようとした。米国は、01年の911以降、単独覇権戦略をとり、イラク・イラン・北朝鮮の「悪の枢軸」を潰した後、中国やロシアの政権も転覆するだろうと、日本の官僚機構は考えていた。それが小泉の自民党ぶっこわしの背後にあったのだろう。しかし米国は、イラクとアフガニスタンの占領で04年ごろから失敗色が強まった後、中国やロシアの国際影響力を容認し、中露に助けられて世界運営していく方向に静かに転換した。米国は、中国に頼まれると、日本に対し、中国との関係を悪化させるなと圧力をかける状態になった。 (消えた単独覇権主義) 06年9月に首相が小泉から安倍に交代する際にも、おそらく米国から安倍に対し、首相になったらまず中国と韓国を訪問せよと圧力がかかったと考えられる。加えて、自民党内のバランス派(対中協調派)と、対米従属一本槍派(対中敵対扇動派)との相克もあった。その結果、首相になるまで中国敵視の傾向が強かった安倍は、首相になると真っ先に中韓を訪問した。安倍は一回目の首相だった1年間、中国敵視に転じず、一度も靖国参拝しなかった。それが当時の安倍に対する首相就任の条件だったのだろう。小泉のような行動の自由を、安倍は持たせてもらえなかった。だから12年に再度首相になったとき、安倍は、前回の束縛から解かれた反動で、中国敵視の加速に加え、改憲、国家秘密法など、小泉がやりかけたが達成できなかった案件を進めようとした。 (改善しそうな日中関係) 安倍が靖国参拝するつもりだということは、事前に米国も知っていただろう。安倍の靖国参拝を事前に制するかのように、昨年10月3日、日米の外相防衛相安保協議(2+2)のため訪日していた米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて献花した。千鳥ヶ淵に関しては、靖国神社をめぐる日本国内の議論の中で、戦犯が合祀されている靖国神社でなく、千鳥ヶ淵を、最も重要な戦没者慰霊の場所とすべきだという意見が、リベラル派や公明党などから出ている。首相が靖国でなく千鳥ヶ淵に参拝するのなら、中国や韓国との対立を扇動せずにすむ。 (Shunning Yasukuni would be one way for Shinzo Abe to say sorry) 安倍は米国のメディアに対し「靖国神社は、米国のアーリントン墓地と同様、国のために亡くなった人々を慰霊する場所であり、そこに指導者が参拝するのは自然なことだ」と述べていたが、ケリーらの千鳥ヶ淵参拝に際して米政府高官は「日本で、アーリントン墓地にあたるものは(靖国でなく)千鳥ヶ淵だ」と述べた。米国は、2閣僚の千鳥ヶ淵参拝によって、靖国にこだわる安倍や自民党や右翼でなく、千鳥ヶ淵重視への転換を主張するリベラル派や左翼や公明党(や、かつて靖国戦犯合祀に反対の意をお示しになった昭和天皇)の味方をした。 (Japanese prime minister's visit to war memorial was provocative act) 安倍は、米閣僚の千鳥ヶ淵参拝に機先を制され10月に靖国参拝できなかったが、その後12月に参拝するとのうわさが流れた。米国は安倍に、靖国参拝するなと非公式ルートを通じて何度も要請した。しかし安倍は、米国の要請を無視して年末に参拝した。米国は駐日大使館を通じて、安倍の靖国参拝を批判する表明を出した。米国は、日中関係を改善するための仲裁を準備していたが、それが安倍の靖国参拝によって無に帰したとも指摘されている。 (Japan PM ignored Washington to visit shrine, U.S. official says) 安倍は、靖国参拝したら米国に批判されることを十分に予測していたはずだ。米WSJ紙は「米国に非難されたことは安倍にとって意外だったようだ」と書いているが、たぶん違う。米国の中枢で日本を牛耳る担当者をしているとされるマイケルグリーンが「米政府高官の多くが、安倍の靖国参拝に驚いている」と言ったと報じられているが、これまた「いい加減にしろマイケルグリーン」である。米政府は事前に安倍の参拝予定を知っていたはずだし、安倍は米国に批判されるのを知りながら参拝したはずだ。 (Abe Visit to Controversial Japanese Shrine Draws Rare U.S. Criticism) (U.S. Criticizes Japan War Shrine) 小泉も、米国に批判されながら靖国参拝を続けていた。対照的に、米国に批判されるので靖国参拝しなかったのが、最初に首相になったときの安倍だった。安倍は、前に首相になったときに靖国参拝しなかったことを後悔していると表明したが、後悔の本質は、小泉のように米国に批判されても靖国参拝を敢行すれば良かった、ということだろう。今の安倍にとって、米国の批判は恐れる対象でなく、乗り越える対象になっている。 小泉は、颯爽と好き勝手な発言を繰り返しつつ自民党をぶっこわし、米国の批判を無視して靖国参拝し、うまくいきそうもなくなったらさっさと首相も議員も辞めてしまい、辞めてなお「原発を全廃すべきだ」などと、タブーを壊す正しい「問題発言」をタイミング良く発し、格好良く全国民の注目を集めている。何をやってもなかなかうまくいかない、格好悪さが本質の安倍は、小泉がまぶしく見え、コンプレックスを抱きつつ無茶を繰り返している。コンプレックスにまみれた安倍が独裁的な力を持っていることが、今の日本が抱える大きな危険の一つになっている。 安倍が昨年末に靖国参拝した背景にあった、もう一つの要件は「沖縄基地問題」である。安倍は靖国参拝する前日の12月25日、沖縄県の仲井真知事に対して恫喝を加え、普天間基地の代替施設を作るため辺野古沖を埋め立てることを了承させた。辺野古への基地建設は沖縄の島民のほとんどが反対しており、それまで仲井真知事も反対だった。しかし安倍や官僚機構は、上京したものの(安倍らからの圧力を受けて)不調を訴え、都内の病院に入院した仲井真にさらに圧力をかけ、無事に退院して沖縄に帰りたければ辺野古基地建設に同意しろと「琉球処分(1870年代)」以来の強い力で仲井真をねじ伏せ、辺野古への基地建設を認めさせた。
2014.01.08
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結婚はしたものの、どうしても気持ちを通わせることができない――。一見ありふれてみえる夫婦の悩みの中に、実はパートナーが発達障害だったという例がある。そんな事実が最近知られるようになってきました。夫がアスペルガー症候群と診断された体験をもつ女性たちに話を聞きました。 ■独特の感じ方を理解 いつも自分を肯定してくれた。つきあってからも丁寧語を使うような、風変わりなところも魅力に感じた。 「旦那(アキラ)さんはアスペルガー」(全3巻、コスミック出版)を描いた漫画家の野波ツナさん。編集者だったアキラさんと結婚したのは1994年のことだ。 2人の子に恵まれたが、「この人、変だな」と思うことが積み重なってきた。例えば、一緒に出かけても家族に構わずぐんぐん先に行ってしまう。電車で場所を詰めない女性に腹を立て、いきなり手をつかんでしまう。幼児の「遊んで!」という要求には応じられるが、思春期になった長女の興味関心や感動はうまく共有できなかった。 決定的だったのは、夫が仕事を辞め、借金が発覚したときだ。将来を話し合いたいのに、意思疎通ができなかった。ツナさんが受診を勧め、3年前、アスペルガー症候群と診断された。 「診断後、人生で経験がないぐらいアスペルガーのことを勉強した。『彼は変わらない』と、いい意味であきらめがついた」とツナさん。アキラさんは突然の予定変更や抽象的な話が苦手だ。込み入った話題で伝えたいことや質問はノートに書き、答えも書いてもらうなど、コミュニケーションを工夫する。 借金が原因で現在は別居中だが、いい距離を保てていると感じる。「アキラさん独特の見え方、感じ方を理解して、自分たちなりの家族の幸せの形を考えればいいと思えるようになった」 ■早くわかっていたら ある日、体調を崩し玄関先で吐いてしまった次女。その姿が見えているはずの夫は、声もかけずにパソコンで趣味の英語学習に没頭していた。 やはり、一緒に暮らし続けることはできない――。ユミコさん(47)が離婚の決意をしたのは去年の夏だった。結婚生活25年。夫がアスペルガー症候群と診断されて2年がたつころだった。 メーカーの営業マンだった夫とはお見合い結婚。3人の子に恵まれたが、わが子に関心をほとんど示さなかった。泣いていてもあやさない。一緒にお風呂に入ったり、公園に行ったりすることもなかった。「お父さんはあなたたちが『かわいい』って」。そんな作り話を子どもたちにした日もあった。 ユミコさんからみるとささいなことでキレてしまう。職場でのトラブルも多かった。 「うちのお父さん、発達障害じゃない?」 どこで知識を得たのか、次女がある日、そう言った。発達障害は子どもの問題と思っていた。夫は当時50歳。半信半疑でブログや掲示板を見ると「アスペルガー」という見慣れぬ単語と、自分が夫のことを書いたのかと錯覚するような描写が並んでいた。 専門病院で診断がつき、心が通わなかった原因がわかり、楽になった。「おかしな旦那さん」と思われるのが嫌で、誰にも打ち明けられなかった悩みを話せるようになった。けれど夫への違和感は消えず、昨年末に離婚した。 「鎖で縛られて結婚生活を送っていたわけじゃない。『お父さんの思い出はあまりないけど悪い記憶もないよ』と子どもが言ってくれたのも救いだった。ただ、もう少し早くわかっていれば、何か対処法があったかもしれない」 ■専門外来の相談増/悩み共有できる場も 昭和大学付属烏山病院(東京都)は、08年に成人のアスペルガー症候群の専門外来を開いた。この2、3年間は月初めの初診受付日だけで300件以上の電話が殺到する。 加藤進昌院長によると、人によって症状の現れ方はさまざまだ。穏やかな人もいれば、感情が激しやすい人もいる。有名大学卒や大企業に勤務する人も珍しくない。夫婦の場合、子どもの誕生など環境の変化をきっかけに問題が顕在化することがある。 ただし加藤院長は、診察を求める人の大半は、実際はアスペルガーではないと指摘する。うつ病や統合失調症など別の病気だったり、夫婦間にコミュニケーションがないだけだったり。加藤院長は「アスペルガーの人は初診全体の約2割にとどまる」と話す。 現時点で直接的な治療法はない。烏山病院では、相手の気持ちを考えるコミュニケーションの訓練や、ストレスや感情のコントロール方法を習得するプログラムなどをデイケアで提供している。定期的に家族会も開き、悩みを共有できる場も用意する。 何十年も悩み続け、還暦を過ぎて初めて診察に訪れる妻もいる。加藤院長は「診断がレッテル貼りに終わっては意味がないが、苦手なことを知り無理にやらせない、など本人や家族の負荷を減らす対処はできる」と話している。(堀内京子) ◆キーワード <アスペルガー症候群> 生まれながらの脳の機能障害が原因となる発達障害の一つ。言葉や知的能力に遅れはないが、対人関係をうまく築けない特徴がある。比喩や皮肉が伝わりにくい、限られた興味の対象にこだわる、などの傾向が指摘されている。記憶力や言語能力が高く、芸術や研究などの分野で活躍する人もいる。女性より男性の方が多いと言われている。
2014.01.08
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もうひとりの毒婦 北原みのりさんが、グラビアアイドル、壇蜜を『AERA』8月12-19日号の「現代の肖像」にとりあげているのをみつけた。みのりさんが関心を持つ女…壇蜜には何の関心もないが、それだけの理由で読んだ。みのりさんの嗅覚の赴くところには、きっと何かある、と思ったからだ。それが女なら、腐臭がする、と言ってもよいだろうか。 本書がとりあげた「毒婦たち」は、木嶋佳苗、上原美由紀、角田美代子…男を殺した女たちだ。他にも下村早苗と畠山鈴香が実名で出てくるが、彼女たちが殺したのは実の子ども。東電OLは殺された側だ。 で、壇蜜は何をしたひとだろうか? 男を「悩殺した女」といえば、わるい冗談に聞こえるだろうか? そういえば、ニホンゴには「悩殺」というコトバがあるのを思い出した。「悩殺」だって「殺」の一種。佳苗のように実際に男を殺さなくても、男を自縄自縛のシナリオのなかにからめとっていく。佳苗は「ケア」で。壇蜜は「エロ」で。 (中略) 佳苗が「援交世代」であることを指摘したのは、『毒婦。』(紀伊國屋書店、2013年)のみのりさんだった。壇蜜も援交世代に属する。 そう思えば、壇蜜と木嶋佳苗の共通点が、痛ましいほど見えてくる。30代、ブルセラと援交の90年代に十代を送っている。周囲に援交少女たちがいて、そのあいだの敷居を越すか越さないかは偶然でしかない。物心ついたら、自分の身体が男の視線にさらされ値踏みされ、価格がついていることに気がついた。自分がたくらんだわけでもないのに、売れるものなら売って何がわるい。どうせ賞味期限つきなのだし…と多くの援交少女たちが思ったかどうか。 (中略) 今から20年近く前、わたしは「女たちがふしだらになっている」と書いた。その名も『発情装置(エロスのシナリオ)』(筑摩書房、1998年)と題する著書のなかでのことである。題名の由来は、「エロスとは、発情のための文化的シナリオのことである」という命題から来ている。そこで論じたのは、しろうと女とくろうと女との区別があいまいになり、しろうと女たちが性の市場に登場し、とめどなく性的な存在になっていく…過程だった。(中略)「少女」とは「(使用可能であるにもかかわらず)使用を禁止された身体の持ち主」である、と定義したのは『少女民俗学』(光文社新書、1989年)の著者、大塚英志だったが、その少女たちが、「使用可能な身体」として性の市場に大量に登場しつつあったのが、援交世代だった。 しろうと女がくろうと女との境界を越えて領域侵犯し、しろうととくろうとの区別がつかなくなる…時代がやってくる、と予見したら、そのとおりになった。だが、向かう方向については、完全に予測がはずれた。(後略) ************ここから後は、本を買ってお読みください(笑)。
2014.01.03
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