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トータルヒーリングスペースRuachは9月7日水曜日から9日金曜日までお休みをいただきます。メールと留守番電話でご用件を承りますがお返事は10日以降となります。お急ぎのご用の方は6日19時までにご連絡ください。ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。
2011.08.29
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日本の首相がまたまた変わるんですね。【送料無料選択可!】本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること (単行本・ムック) / 須田慎太郎/写真 矢部宏治/文を読んだらすごく明快にわかったのですが日本の首相には大事なところであまり力がありません。責任を取ってみんなやめてしまいますがあまり力がないのであまり責任を取れないようです。書いてあることが全部正しいわけではないのでしょうがそういう風に見方を変えると今世の中で起こっている原発の問題がどうして「全体のため」になるように建設的に動いていかないかよくわかります。私は脱原発を望んでいますがそれも本当に正しいのかどうかは歴史と言えるほどの時間を経ないとわからないかもしれません。ですから、原発を推進している人の意見もなるべく心を開いて聞いておきたいと思っています。人間は自分が正しいと思っていると正しくないと思っている意見を軽く聞き逃してしまうことが往々にして起こり得ます。ですから、何が何でも原発を全部止めさえすればいいんだ!それが目的だ!とは思っていません。起こっているすべてのことは私たちの内側にあった想念の投影でありそれが結果です。現在あるがままにこうなっている現象の因は私(たち)の中のどういった思いだったのだろう、という内省こそが人を進歩させます。投影は幻想ですから幻想に向かって怒ったり抵抗してみても何も進歩はありません。膠着させるだけです。ある人はこの原発の事件を苦渋の中にあっても「進化するチャンス」と受け取ってすべきことに取り組んでいます。またある人は、結果(原発を全廃する)を出すためには推進派や体制に対抗するような大衆へのコントロールが必要と考えているかもしれません。でも本当は、今起こっていることが結果です。この結果が気に入らないのなら私たちは因(内面の世界)へ戻っていってそれを変えなければなりません。この出来事がより高い意識への到達の結果としての「手放し」となるために最もスムーズで、より高い叡智の理にかなった道のりのシナリオはいったいどんなものなのだろう、と、考えています。確かに全体の価値観を塗り替え、これまでの体制を転換するには途方もなく大きなエネルギーを要するだろうという印象を受けます。きれいごとではものごとは変えられないとか「多少手荒なやり方」だとか「多くの日和見的な一票を取り込むための手立て」のようなことを人間が経験による智恵として考えるのは想定できることです。ではスピリチュアルな智恵によってそれを解決するなら実際にどのように物事を捉え、発言し、行動するのでしょうか。私は多くの人がスピリットに目覚め真の自己を探求する道を歩き始めるなら恐らく原発をどうしても持っていたいという欲求は消滅するのではと思っています。もし人々が欠乏という恐れ、サバイバルの恐怖、所有欲への執着を手放すことの「幸福」を知ったならきっともう少し無理のない、負担の少ない、そして夢と希望のある今に代わる方法を見つけることは人類にとってさほど難しくないような気がしています。現状はそのような状態にはほど遠くこんな悠長な話はばかばかしく聞こえるかもしれません。でも、果たして本当にそうなんだろうか、と私は思います。もしも今、原発を脱することを最大の目的としてそのためになら体制に対抗するような新たなコントロール支配(恐怖によるコントロールや盲信すること、そう仕向けること)で勝利したところでそれは政権が右から左へ振り子のように揺れ振り切れた振り子はまた逆へと振れるというこれまでの古いパワーゲームの応酬と同じことなのではないでしょうか。もちろん100%無意味ではないかもしれません。その振り子があと10回、100回、100万回触れたころに多くの人が「もうたくさん」だと心底気づくかもしれない。でもそれは長い魂の転生の繰り返しの中で暗闇の中を人間が人間のエゴイズムの投影の世界でこれまで繰り返してきた解消できないカルマから再び作るカルマの世界に没入しもがいてきた歴史となんら変わりがないものに見えるのです。私はこの苦難というチャンスに一人一人が人間の真の幸福についてもう一歩深く自己の内面へと踏み込み自己の愛を育てることへと取り組むことが最大の近道のように思えてなりません。放射能の危険性や反原発をこれ以上大きな声で唱えたところで内なる準備の整った人の耳には届き恐れや痛みの中にある人の多くは耳を閉ざすことでしょう。むしろ静けさと平安の中から、愛とともに真実をささやきたいものです。 いかなるときももしも自己を裏切れば欺瞞のカルマを作ります。それは問い直され、癒され浄化され手放されるまではそこに存在しています。情報は耳や心を開いた人のところへ届けられますが恐れと痛みはそれらを閉ざします。恐れと痛みに必要なのは、真実と愛と癒しです。たとえ遠回りに見えても自己に対して真実であり、愛をもって癒しに臨む姿勢こそが光よりも早く世界に伝わり根本から世界を変えるとやはり私にはそう思えてしかたありません。
2011.08.28
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ノープランドライブで、読谷村のやちむんの里へ降り立ちました。窯と工房と売店が一つずつ、みたいな規模を想像していたのですがここは本当に「里」でした。とても、とても、美しいアジアの夢の里のようなおとぎばなしの村のようなところでした。とてもいいお天気で、工房の皆さんは、瓦屋根のひさしの下で建物の壁沿いにずらっと並んで休憩なさっていました。一瞬、ほんの数十秒だけ大粒の雨がばらばらと降ってきました。するとあちらこちらからいっせいに数十人の人がダッシュで駆けてきて板の上に日干にされていた、まだ焼く前の器を取り込まれていました。その光景がなんとも・・・・本当にどこかへタイムスリップしたように静かに時が流れていました。豊崎タウンへ戻っておひさまが沈む瞬間に間に合いました。この世にはいろいろなことがあるけれどそれでも、心の中で幸せがどうしても優ってしまう。どうぞ皆さんもそうでありますように。
2011.08.22
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お盆あたりからの沖縄のお天気(天の気)の美しいことといったらありません。日本全体の波動もようやく少し落ち着いてきているように感じます。事態はもちろん収束などしてはいませんが。今回の日本の大きな揺れによって様々なことが浮上してきていますが大切なのは、ひとりひとりの幸せ、それに向かう意志だと思っています。世の中が平和で安定していれば確かに状況としては望ましいに違いありません。けれど人間は時として大切なことを学ぶために何かを手放したり、一見崩壊に見えることを体験することがあります。幸せに向かうこと、人間としての前進は内観、内省抜きにはかなうことはありません。なぜならそれらが私たちの無限の内奥に存在するものだからです。放射能という目に見えない脅威が在ると知りながらも多くの人は以前と同じ日常を生きなくてはならない状況にあるかもしれません。子供のいる人は東日本から逃げるべきだ、という考えを強く持つ人もいるかもしれません。でももしそう思うのなら、そう思う人がたとえ子供を持っていなくても移住をしてみるといいと私は思います。そうやって、お手本になってあげればそこに(エネルギー的にも)道が創られます。そうしたらそこで子供を持つ家族を迎え入れることができるかもしれません。私たち夫婦は、特に外的な必要性なしに、自ら希望して移住を試みました。ですがそれでも、移住はとても大変なことでした。もし子育て、教育、養育の義務を背負いながらでしたら当時の状況ではとてもじゃないけれど重圧に耐えられなかったかもしれません。私は東京という地に対して特に愛着を持っていませんでしたがそれでも慣れ親しんだ場所から離れて新たに磁場を築くには大きなエネルギーと時間が必要になりました。意識としては何も問題を感じていなくても身体は変化に対して防御策を取ったり敏感になったり反応するものなのだと改めて認識しました。2年を過ぎてようやく慣れて(馴染んで)きたのを感じるようになりました。2年を過ぎるまでは沖縄のどこへ行くのも学習をかねている感じがして心からは遊べなかった、と振り返ると感じます。沖縄はとても美しいところですがそれでも「みんな避難して来ればいいのに」と簡単には思えませんでした。やはりそれは、一人一人の覚悟があってこそ、だと思うのです。自主的に避難する、すなわち新たに生きる場所を選ぶにはそれなりの決断が必要ですし何を捨ててなにを採るのか、という選択が強いられます。生き方への問い直しが必要になります。今回日本に起こったことは、長期的な対処が必要とされるでしょう。とても大きな変化です。しかも誰もが望んでいないような変化が、その始まりでした。ただとりあえず逃げるだけ、という反射では対処しきれないことを国民のみなさん全体が感じているのかもしれません。震災当初は「揺れ」の中にいたのでぶれないことに必死でしたがそろそろ平常心に戻られた方から次への展望「生き方への問い直し」を試みられてはいかがでしょうか。この大きな揺さぶりという変化から新たな選択肢が見えてきているのも事実です。人生を問い直すことから、内なる指針を見つけだしさらに内奥に在る自己が望む生き方を歩みだすこともきっとできるはずです。今私たちに必要なものの中でとても大きなひとつは勇気だと思っています。いきなり巨大な勇気を出すことはできませんが今までよりもちょっとだけ、ほんのちょっとだけ余分な勇気をみんなで出せたらいいですね。
2011.08.20
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わが町豊崎タウンが進化し続けています。アウトレットモールあしびなーは現在増設工事中で12月に完成予定だそうです。(現在も営業中です)沖縄に来たころ、平日の閑散の閑散とした感じに寒さを感じましたが今はホットです^^周辺の緑地も工事中で、出来上がりが楽しみです。ルーア前の緑道と住宅地の中央の歩道にはこのほど街灯が点灯し夕方のお散歩が楽しくなりました。昨年グランドオープンした豊崎美ゅらSUNビーチもイベントやお祭りが度々開催されたりリゾートカフェ(KAI)がオープンしたりして本格的なリゾートの様相を呈しています。カフェ好きの私たちとしては嬉しい限りでオープン前の建設中に覗きに行ってみると工事していたおとうさんが「入って見ていいよ」と言って内装を見せてくれました。オーナーらしきイケメンさんも楽しそうに話しかけてくれてなんだろうこのフレンドリーな感じは!さすが沖縄、と感動しました。先月開催されたエイサー祭りは楽しかったです。極上の舞を見ることができて、今思い出しても感動します。私は保栄茂(びん、と読みます。3文字で「びん」です)青年会の舞が最高でした。と言っても何組かしか見ていないのですが、でも最高でした。広報とみぐすくの表紙にもなっていたので、きっと多くの人が心動かされたのでしょう。私は大学で和太鼓に夢中だったのですがエイサーには通じるものをびんびんに感じます。余分なものがそぎ落とされるほどそれは高みに昇って輝き魂に届けられる舞踊です。元は踊念仏なので、神聖なものに向けて捧げられたところも和太鼓と同じです。保栄茂のエイサーは喜屋武(きゃん)の青年会から習ったそうですが喜屋武のエイサーはやはりすばらしいです。一言で言えば「意識」が揃っています。なにに向けてどんな思いで踊っているのかをみんなが理解しているように伝わってきます。神聖さに対峙したときの謙虚さのような、無垢な感じです。真剣だけれどもがんばっていない感じ。それをみなが共有できて表現できているように見えます。すべては訓練の賜物だと思いますが、がむしゃらなだけでは得られない芸術だと思います。写真はKAIのテラスから。空港から15分です。パワースポットといううわさも出ています^^(私はそう思います)
2011.08.13
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沖縄最大の行事、お盆がやってきます。Ruachでは、お盆に備えてエネルギーの調整を、とのお客さまもみえています。沖縄では、霊感の強い体質の方を「さーだかんまり」と言って普通用語のように使われています。糸満にいたときには「そちらに行きたいけれどなぜかどうしても糸満には行けない」とおっしゃるお客さまもいらっしゃいました。スピリチュアルという言葉も沖縄では普通用語で市役所のサイトや公共の観光案内などにも「スピリチュアル」「魂の癒し」などという言葉はよくお目見えします。多くの日本人が沖縄のスピリットに強く惹かれるのがわかる気がします。そんなことごとを知っていて沖縄へ来たわけではまったくなかったのでだんだんと、じわじわと、移住してきたことにはいまだに新鮮な驚きを感じ続けています。私と主人は暇さえあると瞑想をしています。癒しの仕事をしていると瞑想はどうしても必須です。心を整える、と言っても間違いではないのですがどちらかというと、脳波を整える、のほうが合っています。(計測したわけではないのでですが恐らくそうなっていると思います。)シータヒーリングというのがありますが恐らく熟練したヒーラーはみなシータ波を出しているのではと考えています。ヒーラーがシータ波を出すとヒーリーも同調します。私の場合はレイキを使うようになってから圧倒的にヒプノの催眠状態へ誘導が容易になりました。そして、ライタリアンレイキを使うようになるとヒーリーがあっという間に丹光を見ることが増えました。一瞬で脳の状態が変わるのですっきり度が圧倒的に違います。すごいと思います。
2011.08.10
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うちがゆれてます。風のちからで。「あらしのよるに」って映画を思い出しました。アニメ映画で、たまたまGyaoかなにかで見ました。それが結構すごいおはなしでした。あらすじはこんなです。嵐の夜、雨宿りに入った古小屋の暗闇の中で出会ったオオカミのガブとヤギのメイ。2匹は、”食う者“と”食われる者“と言う立場を超え、友情を育むようになっていくが、それぞれの仲間はそれを許さなかった。そこで、追いつめられた彼らは群れを離れ、遠くに見える山の向こうにオオカミとヤギが暮らせる森があることを信じて歩き出す。だが、オオカミたちの執拗な追跡や山の上での猛吹雪に遭い、遂にメイが力尽き倒れてしまった。自分を食べて生き延びて欲しいと、ガブに訴えるメイ。そんなメイを守る為、かつての仲間たちに戦いを挑むガブ。とその時、ガブとオオカミたちを雪崩が飲み込んだ! 翌朝、山の向こうに緑の森を発見したメイは、雪崩から生還したガブとも再会を果たす。ところが、記憶を失っていたガブは、メイを捕らえ食べようとする。しかし、メイの必死の呼びかけでガブの記憶は蘇り、2匹は再び仲の良い友だちに戻るのであった。(goo映画より)おもしろいのは、ガブとメイはどちらもオスなんですね。これがどちらかがメスで恋愛ものだったらもしかしたらもっとメルヘンな感じで受け入れられやすかったかもしれない。でも、それだけのお話になってしまったかもしれない。この物語の純粋性が損なわれたかもしれない、と思う。これは本能と愛について究極的な問いかけをしている友情、友愛のお話。もし恋愛モノであったなら、あるいはどちらかが親でどちらかが子の立場だったら本能の延長上でのお話になっていた、かもしれない。惹かれ合う男女の本能、とか、母性と庇護とかいったエネルギーによってもっと見やすい物語になっていたかもしれない。人間という生き物が本能と理性、感情と知性とそれを超えた叡智というものを兼ね備えた生き物になったときから私たちは葛藤を始め己を超えて進むという冒険を始めたのかもしれません。もし、友愛などという意識を持たないただのオオカミだったならなんの苦しみもなしにガブはメイを食べて満足だったでしょう。メイだって、食べられる痛さ以上に心の痛みを感じることはなかったでしょう。私たち人間はそういった心情(愛もしくは苦しみと痛み)を感じうる機能を備えています。生存競争のためだけなら必要のなかった機能を。ではそれはなんのためにあるのでしょう。私は、それこそが神が自分の似姿をお創りになった、と言われているものだと思っています。私たちは痛みや苦しみから解放されたときそこに愛があることに気づくことができます。けれど、だからと言って最初から痛みと苦しみを感じない人間が愛にあふれているわけではありません。そもそもそこにあるべくしてある例えば友愛を知るがゆえの苦しみや痛みを己のものとして受け入れたときに初めてそれを超えた大いなるものに触れることができる。そこへ踏み込むことの偉大さや勇気を私たちはいつも思い出さなくてはならない。映画や演劇や音楽のような表現はそのためにこの世に遣わされたものだと私は感じています。心の栄養と言われる所以ですね。
2011.08.05
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先日、インナーチャイルドワークのあとで「インナーチャイルドって一生つきあわなくちゃならないものだと思っていました」とおっしゃるのをうかがって、なるほど、と思いました。確かに癒されたら終わり、というものではありませんがその付き合い方は圧倒的に変わります。チャイルドが満たされると彼らは、内なる創造の源と一致協力して働くパワーそのものとなります。その方は「自分に戻ってきて、一体になりました」とおっしゃいましたが本当にその通りだと思います。彼らは統合され、強い味方になりいつまでも扱いづらいお荷物のような存在ではなくなります。ですが、そういった側面は人間である限り薄くはなっても抹消されるわけではありません。ですから、気長に、根気良く、愛を持って彼らと向き合ってほしい、と私は願います。彼らに対して「消してしまいたい存在だ」というような思いが残っている限りそれ自体が癒されるべき課題となります。本当にどんな側面に対しても、大丈夫、愛している、という受容と慈愛のうつわが整うことが人間としての成長とも言えることでありまたその時友愛、隣人愛、世界平和の基礎を内的に構築したことにもなります。インナーチャイルドを癒し、愛し、受け入れることはこの世界を愛し、受け入れ、創造することの基本です。平和のために何かしたいとお考えの方はぜひ、チャレンジしてみてください。
2011.08.03
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