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これまで学んできた様々なスピリチュアルの学びを脳の仕組みや働きと連動して理解することが多くなりました。私の中ではものすごくわかりやすいのですがセッションでご説明するときに脳と関連付けることが果たてわかりやすいのか難しくしているのかがやや疑問です。話は変わりますが私はレイキを使い始めてこの方本当にいつでもどこでも何もかもにレイキを使います。何より効果が絶大だと思うのは潜在意識の浄化、心の安定、瞑想の深まり、ヒプノセラピーのときの催眠(変性意識)状態への入りのよさ、気づきのレベルが一瞬で高くなる、など私の守備範囲である心、精神、魂、霊的な領域に関することです。やはり私が精通しているところは変化に敏感でもあるし私のイメージ力や叡智が高次元のエネルギーを呼び込むことことを容易にしているかもしれません。一般的にはレイキは手当て療法や健康法などとしてのほうが有名なのかもしれません。それはもっともだと思いますが物理への働きは絶対とは言えないと思います。物理次元は二元性の世界なので中庸へと導いたり極度に波動の低いものを排除することはできますし生命体の自然治癒力を阻害するものを排除し脳の働きを安定させて回復へと導く力はあると思います。ですがものごとを振り子の一方方向へずっと傾けておくことはできません。自然法則を逸脱することはめったに無いと言ってもいいかもしれません。キリストが死者を蘇らせた、ということを奇跡と呼ぶのと同じことです。けれども人間が内包する意識の世界というのは無限です。そこには完全性、全きもの、一なるもの、純粋で無欠なもの、というものが存在します。それを言い換えるなら神とも言えます。私たちの意識の最も高きところ、最も深きところ、中心なるところ、本来であるところにはそれがあります。そして、私たちの意識の浅い部分にある分離した部分の記憶はこの、神なる部分にいつか統合されるのを待っています。レイキはその高い波動によって私たちの意識をそちらへと引き上げようとするときその真価を発揮すると私は感じています。ところで、最近私が使っている肉体を癒す(?)のにとても有効な方法をご紹介します。私は子供のころから頭痛持ちでした。この痛みから私を救ってくれるのはバファリン以外にありませんでした。それで、この世からバファリンが無くなってしまう事を想像して恐れていたほどです。今は主人の鍼が痛みから救ってくれるようになりました。(鍼は麻酔の代わりに使われるほど、痛みの軽減に有効なのです。)なおかつ鍼は受けるほどに治癒力も高めてくれて本当に病気にかかりにくい、体調を崩しにくいからだにしてくれています。ですが、主人が眠ってしまった後、先日のことですがかぜっぽい感じとしつこそうな頭痛がやってきました。キッチンに立ちしばらくの間、バファリンにお世話になるかどうか考えた後私はなんとなく「飲んだ気になって」水だけ飲んでそのままベッドに戻りました。それから布団の中で、子供のころ頭痛がしてバファリンを口に入れて段々とそれが溶けていき飲み下す感覚を思い出してみました。思い出そうとするとその味や口ざわりなどをとてもリアルに思い出すことができました。私はよく、バファリンを水ですぐに飲み下さずにしばらく口の中で溶けていくのを味わっていました。そのほうがなんとなく実感がわいて、安心したのだと思います。しばらくするとからだがそれを吸収し、こわばっていた背中がふとやわらかくなり全身に温かみが戻ってきてなんとも言えない楽な感覚が広がるのを知っています。そのすべてを思い出しているうちに私のからだに実際にその感覚が起こりものの数分で頭痛は消え去りいい気分であっという間に眠りに落ちました。翌朝、私の体調は回復していました。それから、私は股関節に持病があるのですがその痛みにも何度かこの架空のバファリンを使いました。完全に消えることはないのですが痛みのことを忘れて家事や別の何かに没頭できるくらいにはすぐに効きます。起こってしまった肉体の痛みにはレイキよりも効くくらいなのです。レイキの効きは、根本治療という感じで症状が通過していくのにしばらく時間を要することが多いのですがこの痛み止めの効果は即効性があります。プラシーボ効果などと言われていますがヒプノセラピーの効果の仕組みもまったく同じで気のせい、などという曖昧なものではなく「明確にイメージすることで、脳は実際に起こったこととして対処する」という機能によって、実際に脳がからだに指令を送ったり脳内にホルモンを分泌したりしているはずです。私の場合は子供のころに潜在意識の記憶に鮮明に刻印されたバファリン効果がトリガーになっていますがこのトリガーをみつけることができると実際にいろいろな助けになると思います。最近本当につくづく人間の脳の働きと仕組みのすごさに感嘆しています。心と呼んでいるものは、脳が作り出しているわけですから。ヨガナンダは「人間の脳の美しいひだは、まさに神が住まうにふさわしい場所だ」と言っていて、彼が脳の働きというものに精通していたのがよくわかります。彼は脳と心、意識の仕組み、また自然科学などを統合して簡潔に説明する力を持っています。そうして理論的、科学的な観点から神を見ることのできた方です。この世界は、私たちは、電気であり磁気なんです。まったく見えてくるほどに感嘆してしまいます。
2011.12.29
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今年も残りわずかとなりました。おそうじは順調でしょうか。今年のおそうじのしめに、とヒプノのセッションにいらしてくださった方がいらっしゃいました。何度もいらしてくださった方ですがそんな風にお使いいただけると本当に嬉しいものです。仕組みをよくご理解いただいているあかしだと思います。我が家は沖縄へ来て3回目のクリスマスを迎えました。おうちでチキンを焼いてだんなさんがケーキとお花を買ってきてくれてベルギービールを開けて「イエスの誕生日を口実にすみません」と笑いながら乾杯しました。普通でしたがおそらく今まで生きてきて一番幸せなクリスマスだと感じました。それから、確か、去年もそう思った、と思い出しました。さて、最近改めて認識しましたが「本当の自分がわからない」と思っている時、人はその尺度を「他者と比較すること」としてしまっているようです。占いのようなものを自分探しに使っていると余計にそのようになるかもしれません。なぜならそれらはすべて性質的「傾向」について語っているのであり傾向は相対的なものだからです。傾向を知り対策を設けることはもちろん役に立つこともありますが本当の自分というのはそこにはありません。そういう性質的傾向に自己を見出そうとすると混乱が起こります。それは、青い鳥を探しに知らないところへ出かけて行ってしまって自己の居場所をお留守にしてしまうのと似ています。いかなるときもいかなる状況でも自分を幸せにするのは自己の本来なる住処に居るときです。そのホームを探しにどこかへ行ってしまうのでは心が落ち着くはずがありませんし、パワーも出ません。正しいことをすること、と、幸せになることをする、ということの違いにも私たちは用心したほうがいいようです。ライトワーカーの間で、ノンジャッジメントという標語があります。そこでは正しいかどうか判断しないことが正しい、と捉えられているようですが正しいことを判断することはもちろん人間にとって必要です。でもそれ以上に、それは自己と他者と(もとはひとつであるきょうだいともに)を幸せにするかどうか、という判断が最も大事でありその判断には「愛がある」のだと言えると思います。これは細かくいろいろな対立に当てはめていくととても勉強になります。例えば原発反対と推進、などにも適用できます。私も脱原発を願っていますがそれが人類にとって正しいからだ、と考えてしまうと絶対に解決へは繋がりません。戦いが繰り広げられます。なぜかというと、推進の人もそう信じている人がたくさんいるからです。どちらにも一理以上の理由があります。なおかつ、現在それが存在しているということはそれは現状では真実なのです。正しいことなのです。ですから、どのような理由であれ、対立する事柄に対して私たちは双方の幸せという観点から物事を見ていかないと新たなる融和、統合、進化という道(次元)へは進めないのです。戦争と平和、どっちが正しい?と問いかけても正しい答えはありません。でも今現在戦争は起こっています。ですから現状、戦争は正しい結果として起こっています。脱原発、平和、と答える人の大きな弱点はどうしてもそれが正しい、と信じてしまっていることです。そうすると、反対意見を持つ人がどうしても間違った人に思えてしまい彼らに愛を持って歩み寄ることができなくなります。現状から次の状態へ移行するときそれはどのような場合も現状を否定して、踏み潰してから進む必要はありません。これまでの状況を完全に受け入れ、認識し、納得してから次の段階へ進むことで私たちは初めて現状を本当に卒業したと言えます。現状が気に食わない、納得がいかない、罪悪感を感じるなどの理由で私たちはなるだけ早く、そこから立ち去ろうとしたり現状を否定しなくてはならないと感じたりします。でもどんな状況だろうと、それは、なるべくしてなっています。もし次にやってくるあるべき状況を変えたければ今、ここから、自分が変わるしかありません。今ここにあるというのは押し寄せてくる現実を全部受け入れることではなく押し寄せてくる外側の幻想に惑わされず内なる真実とともにあることです。
2011.12.27
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スピリチュアル界にワクワクすることをやりなさい、という教えがある。ワクワクすることは、魂が望んでいることだから、という風に説明されていた気がする。人間の知覚と直結しているのでわかりやすいサインだと思う。でも間違えやすいのは、人間の肉体レベルで強い欲求があることにも私たちはワクワクを感じるということだ。違うかな。クリスマスが神の子の誕生を祝う日だから魂が喜んでワクワクするのかそれともずっと欲しかったプレゼントがもらえる日だからワクワクするのかを見分けるのは難しいのではないかと思う。私たちには直観があるが、それ以上に習慣によって作られた知覚がとりあえず優位だ。訓練し直されない限り。バガヴァッド・ギーターでは人間がカルマの法則を逃れるための推奨される方法として欲望のない行為、つまり、行為の成果への欲求を持たない行動をすることだ、としている。結果にとらわれない、執着のない行動、と言ってもいいかもしれない。行為に関して言えば、それのみが人間を自由にするという。一見無関係か正反対の印象を持つワクワク、が本当に伝えようとしたのはこのことなのでは、と感じた。ワクワクすること、というのはその行為そのものに喜びがあるのであって結果や収穫という目的のための行為ではないから、というのが、ワクワクの真意なのでは。でも、ワクワクすることが本能的な欲求を次から次に満たすという行為なのだと勘違いするとそれはどこまでも増殖する迷妄にエサを与える行為になる。それともこのエサは、迷妄でおなかいっぱいになって絶望し、真実に目覚めるプロセスを早めるための方便なのかな。確かに欲求のリストをかなえるほどに選択肢は減り、人生への希望は減ったと感じた。それで、現実はなんでも思いのまま、のような肌触りのいいスピリチュアル教本に疑問を持つことができた。巷で人気のあるいろいろなキーワードはあくまで気づきへの起爆剤的な方便であることが多くその背後にある真実を見つけないと情報に踊らされるだけになってしまう。どんなことでも同じだけれど。
2011.12.18
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日本では3・11以来、多くの人の意識の中で、外側の世界との戦いが強いられている。意識しようとしまいとにかかわらず、大気が水が食糧が自然環境が汚染されている。その汚染が直ちに健康被害をもたらす程度ではないと国家政権が宣言しているが真実は隠蔽されているという事実を裏付けるような矛盾があちこちに見られる。震災と原発事故との関連すら明確で腑に落ちる情報の公表は何一つと言っていいほどになされていない。情報は交錯している。しかし、情報の混乱を一つ一つ解きほぐしていけばそれらは必ずある一つの方向を指し示すはずだ。事実を隠そうとするとき嘘が生まれる。その嘘からはほころびのように矛盾が生じる。矛盾が明るみに出ると真実を知りたい人々、あるいは一見その立場を装う人々は、その嘘を非難し攻撃する。しかしその糾弾が功を奏するとすれば本人に嘘を恥じて悔い改める気持ちがある場合だけだ。そもそも最初から真実を隠すことで利を得る意志がある人間であればつまり意図的に嘘をついて他者を欺くことを目的に持っている人間であれば嘘を非糾弾されたら、もっとうまく嘘をつかなければ、と考える。能力のある人なら、その嘘はどんどん巧みになっていくはずだ。非難し攻撃されると人は、より防御的な姿勢を強固にするのが普通だ。たとえ悔い改める意志がある人であってもつい防衛的になる。そもそも、真実を隠したくて隠蔽している人が非難と攻撃に屈するとしたらそれは逃げ道を完全にふさがれた場合に限る。権力者がその立場であるのなら非権力者の糾弾が権力を覆すほどの力を持たなければならない。何もかもを奪うような強力な力だ。非権力者である私が震災当初に必要を感じたのは「人数」だった。その人数の目安は「過半数」だと思っていた。国民の過半数が事実を知り、同じ意見を持つこと、だという風に。しばらく時が経ってわかってきたのは国家やそれ以上の大きな権力の意志に立ち向かうには過半数などという力では及ばないということだった。(そもそも同じ意見を大多数の人が持つなどということが可能なのだろうか)その気になれば権力はそんなものいくらだって捻じ曲げることができる。つまり、民主主義の社会に生まれ育ったと信じていたのは間違いだった。「私たちは民主主義によって人権を守られている」というのも真実かどうかと問い直せば思い込みにすぎないということだ。そういう風に思い込みを取り除く必要がある。私たちは人間の作った大義名分や道徳を生きているのではなく、知りたいのは真実だから。真実と出会うことでしか、私たちは前進できない。今起こっている矛盾は、事実を隠すために人々を混乱に陥れるにちょうどいい。いくらなんでも、こんな間違いが起こるわけが無い、こんなひどいことを誰かがわざわざ起こすわけがない、というような性善的な思い込みが真実を見ることを人々に避けさせる。誰かが無能だから、勘違いしてるから、気づいてないから、人間全体の責任だから、地球が怒っているから、神様に試されているから、今のような混乱が起こっている、と人々は理由を探す。でも、もっと、思い込みなしに起こっていることを見れば混乱しているのは自分の考えのほうだということがわかる。自分にとって納得のいきやすいほう、または都合のいいほうの理由を人は好む。でも、事実は混乱してはいない。混乱しているのは(自分の)考えのほうだ。そんなはずが無い、いくらなんでも、という思い込みと恐れを取り除いて事実を見ればおのずとその事実が指し示す方向が見える。その水面下で起こっていることが全部わからなくてもそれは見える。今日書いたことは、ストレスフルな考えを理解して真実を知るというカウンセリングの手法の「ザ・ワーク」を使って、社会問題と私との関係に応用している。外側は内なる世界の投影である、というスピリチュアルの原理に基づく手法だ。人間は、震災のような大きな問題があたかも外側から押し寄せるとこればかりは内面に取り組んだって解決されるわけがない、そこには救いはない、と考えて何とか外側の何かに頼ったり変えたりすることで解決しようとする。けれど原理というのは例外の無い法則だ。何にでも応用できる。私もしばらくの間、今回は人数が必要だから、という風に考え外側に働きかけることをいろいろと思案していた。けれどあるとき、世界を変えるには人数は関係ないことを思い出した。それから外側はない、ということも改めて思い出した。だから、この社会が民主主義でなくても問題は無いということがわかった。現実として民主主義が機能していないことに私が気づいていなかったことが問題だった。機能していないのを無視して機能している前提で物事を考えても正確な答えは出ない。隠蔽を選んで(好んで)実行している人にとっては隠蔽が必要だ。だから、「彼らは隠蔽する必要がある」という事実を受け入れると私たちは真実に近づける。隠蔽を糾弾している限り私たちは被害者や糾弾者になってしまう。被害者や糾弾者でいるうちは(抵抗にエネルギーを注いでしまうので)自分の真実(自分が本当に求めるもの・価値あるもの)には近づけない。原則に戻ろう。私たちを今よりも前進させるのは真実だけだ。私たちを本当に幸せにするのは真実だけだ。私たちがまず被害者や糾弾者であることを降りることで加害者は加害者でいることはできなくなる。そうなってみたら、真実はものすごいスピードで私たちに押し寄せてくるかもしれない。真実に気づいたら人は後戻りはできない。世界は過半数が同じ意見を持つまでもなく変わるだろう。つまり、世界を変えるのに必要なのは、私が変わることだ。私の真実への気づきは、言葉や時空を超えて伝播する。だから、私はこつこつと自分に取り組みまた誰もがこつこつと自分に取り組むめるようにお手伝いする自分の仕事にこつこつと取り組むことにした。
2011.12.11
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私は大学で演劇を専攻していたので感情というものをいつでもからだに再現する訓練を受けました。これは今では心理セラピーに本当に直結して役立ってくれています。催眠療法というのは脳の仕組みを利用して潜在意識に変化をもたらすのですが脳は、実際に起こったことと鮮明に想像したことの区別がつかない、という風に言われていてその特性を利用しています。演劇では「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいんだ」という風に感情表現について教わるのですがこの二点は繋がっています。演劇の台本にはセリフとト書きというものがあってセリフの後に(と言って泣く)などと書かれています。そのときのシチュエーションやセリフは確かに悲しいかもしれませんが演技者の生理がその登場人物とは違いますのでその役の人のようになれるとは限りません。それで、普通に考えると演技者は一生懸命にその役の気持ちになりきろうとしたり全然関係ない記憶を思い出して泣こうとする場合もあります。でもそれはしろうと考えなのです。だいたい、演技というのは日常とは違っていろいろなものが凝縮されていますので生身の人間の生理でたとえ泣けたとしてもその「間」や「質量」「寸法」は創造物上では嘘になってしまいます。演技者は台本や役について探求し、そのイメージを膨らませたら泣くときはそれにふさわしいであろう泣き方で泣いてみるのです。泣けようが泣けまいが、やってみます。そして一連の流れに違和感(嘘)がなくなるように工夫しながら何度もやってみているとあるときそこに命が吹き込まれるように感情と体と動きと言葉が一致します。そのとき初めて、役の人物の気持ちが全身でわかります。そのように泣いてみて、初めてそこで泣く人の内なる感覚がつかめます。まさに泣くから悲しいのです。催眠療法でも子供のときに退行してみてそのときのシチュエーションと行動を鮮明に思い出してそのときの気持ちが蘇って感情があふれるということがあります。子供のときに、受け入れることや理解すること、整理することができないまま状況や感覚、感情、アクションとリアクション、その出来事への評価などが絡まって未消化のまま記憶されていることがたくさんあります。それをしっかりと再体験しそのときに味わった気持ちや感情を感じきると記憶の中身が明確になり整理できます。その記憶がたとえ悲しい感情を伴うとしても今の理解力を持って再体験することで過去の自分の誤解が解けると脳は「解決した」という風に認知しその出来事を卒業することができます。つまり、過去を赦すとこができるのです。内側に恐れのような落ち着かない感覚があるとこれはなんだろう、その理由はなんだろうと人は考えます。ですが、この恐れの感覚は人が肉体を持って存在しようとするときどうしても起こってきます。外敵から身を守るための機能だからです。それからその感覚に見合うストーリーを人間の脳は探すのですがそのストーリーによってさらにその恐れを裏付けることになり怒りや悲しみや罪悪感へとストーリーを展開してしまいます。それで、そんな風に恐れにとられている状況や原因となっていると思われる環境や周囲の人を疎んだり憎んだりすることになります。敵がいるから恐れるのではなく恐れの感覚から、敵(があるというようなストーリー)を作っています。私たちの考える、原因と結果はまるでさかさまなんですね。原因を変えれば結果が変わります。それは、ストーリー(外側にある環境、人)を変えるのではなく内側にある私たちの恐れそのものとそこから発生しているストーリーに気づくことその仕組みを理解して、それを鵜呑みに信じることをやめるつまりその役を降りること、なんですね。
2011.12.06
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