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ヒプノセラピーを始めてから10年以上が経っているので(11年なんですね)本当に不思議なことには慣れっこになっています。時々われにかえると、あれ、これって普通だったらびっくりするよな、とか奇跡なんじゃない?と思いながら洗濯物を干したりしている毎日です。ですが、ヒプノセラピーそのものはふわふわした不思議ちゃん系のなにか、ではなくきわめて厳格な原理と仕組みに基づいています。瞑想というのは意識を科学のように捉えた癒しと内的進化の技法です。時々、宗教とは関係ないですか?と訊かれることがありますが少なくとも私は宗教とはまったく無関係です。先日、セッション後に「宗教やスピリチュアルなどと言われているものに疑念を持っていましたが宇宙と繋がると言われていることの意味がわかりました。幻想でもなんでもなくとても科学的な明確なものなんですね。」とお話くださった方がいらして、その言葉がとても嬉しかったです。科学的だと言われたからではなくその方ご本人の中で明確に感じ取っていただけたということがわかったからです。私にとってスピリチュアルとは人間とはどんな生き物なのか、ということと同じです。そこには中心があり様々な側面があります。スピリチュアルはその核心に迫るものです。人生を、その核心に触れ、受け入れ、核心とともに生きることは平安であり至福であると私は思っています。
2011.07.27
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私のしている仕事は「個が幸せになる」ことのサポート。幸せというと、かたちはそれぞれ違う、とか感じ方の問題だ、と言われることが一般的には多い。でも幸せというものを追求していくと辿り着くのだがそれはかたちの問題ではない。感じ方というのはとても気まぐれなものである時は「あれ」をサイコウ!と感じるけれど別の時にはもうなんとも思わない。その場合の感じ方をどうこうしても幸せへの歩みは着実とは言えない。あの人のここは好き、だけどここは嫌い、とか言うのが愛ではないのと同じこと。嫌いなものをじっと我慢することでもない。無視するのでもない。暗示をかけて好きになるように思い込むことでももちろんない。そういう好き嫌いとかいいわるい、ポジティブとネガティブという評価を超えて愛というもので自己の内面が満ちていくように積極的に変容に働きかけることがその方法だ。その作業こそが内面の進化とか成長とか言われるものと同じでありそしてそれでしか人は幸せにはならないと私は思っている。人が何かを手に入れようとするのはこの、愛で自己を満たしたい欲求への代償行為のようなもの。代償をたくさん得たとしても肝心の部分は決して満たされない。王様は実は空虚でした、とか、大富豪はいつも不安でした、とかいう寓話に代表されるのはこのこと。それでも王様になってみたいんだ、とか一度は大富豪とは言わなくても大成功してみたい、という願望に異論はないけれど人間の欲望は一度みたされるとエスカレートしていくものらしい。もういい、もう充分、やめます、と人がなかなかできないのは明らかだ。けれども内面が満たされて幸せになったなら願望を達成すること―内なる青写真を創造することに葛藤(罪悪感やら恐れ)がなくまた達成した後もそれに執着することなく手放すことも容易だ。幸せであることは自由なのであり潜在意識の記憶からくる概念や評価、執着から解放されている。究極的に内面の自由を得ることを悟りという。震災後、しばらくは原発の真実を伝えることに意識を投入した。そのわけは、震災直後の日記に書いたけれど誰にも間違って(心身ともに)死んだりしてほしくなかったからだ。知らずに、うっかりと、見過ごしてほしくなかった。私は健康長生きを目指しているのではなく魂の乗り物であるこの人生を誰もが存分に生きることを願っている。そんなこと願われても迷惑だと思われるかもしれないけれど、この(3次元の)世ははかなく無常で魂がこの短い人生で心底満足することなんて本当に奇跡であることをいつも見ているからこそそう願わずにはいられない。それで初心に立ち返り私に与えたれたこの仕事にあらためてエネルギーを投入しなおした。高次のマスターに改めて問い直したらあっさりと「癒し」なさいと言われたこともある。また、原発のことも書くけれど(言いたいことはたくさんある)でもこうやって私のブログを読みに来てくれる方々には緊急の危機であることは伝わったみたいだし嬉しいことではない事実も世間では少しずつではあるが明らかになりつつある。あとはあきらめずに自分の中で一つ一つかみしめながら真実を見つけては伝えること、また歪んでいることを修正できるよう働きかけることを続けていきたいと思う。それでも、私が迷いなく信じているのは本当に厳しい条件の中にあっても人は幸せになれるということ。内面に取り組みそこへ入っていって働く(ワークする)ことで傷と痛みは癒され、隔たりは統合され、記憶は浄化され、私たちは光と愛とひとつになれる。
2011.07.23
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写真は南城市玉城の山の茶屋です。南部でとてもいい雰囲気のカフェです。みなさんお元気でしょうか。先日は北部本部町の瀬底島でちょっとだけシュノーケリングをしました。小さな子供が立って歩けるくらいの深さで砂浜から数メートルと離れていないところなのに驚くほど色とりどりの魚がいて、珊瑚がいっぱいでした。あまりに魚がいるのでまるで深海にでもいるような気分になりますがふと立ち上がるとひざ上くらいの深さなのでだんなさんと、なにこれ~と笑ってしまいました。でもその日一番の驚きは水中めがねをして水中を見渡しているとこれまでに見たことのないほどの密度のプラーナが見えたことでした。だんなさんが「ほらほら!」と魚を指差して教えてくれるのですがプラーナがじゃまして魚が見えないほどなのです。何度もめがねをし直して潜り直すのですがどうしたって圧倒的なプラーナがまるであれです、3D映画のめがねでもかけているように現れて一生懸命よけながら魚を見る感じなのです。冗談のようなのですが。そういえばわが町豊崎のビーチでも顔にかけたタオル越しにプラーナが見えたのを思い出しやはり母なる海の生命エネルギーって本当にすごいんだな、と納得しました。そうとしか言いようがないような圧倒的な体験でした。私は海では特にこわがりなのですがだんなさんに強引にシュノーケリングを教わりグァムのコンビニで購入したおもちゃで何度か遊んでいます。水中めがねというものをつけると海は別世界でいつも、見えすぎちゃってこわい、と最初はびびりまくります。だんだん慣れてくるとめがねなしに水遊びしている人がもったいない、という気分になります。あんな浅瀬に珊瑚やきれいな魚やおかしな生き物がわんさかいます。知らずにいると、多分いろんなものをふんずけているはず。珊瑚はふんずけられると死んでしまうそうであの形になるにはとほうもなく長い時間がかかるそうです。今朝方、沖縄でも地震がありました。からだに感じる揺れはまだ2回か3回しか体験していませんが沖縄に地震が少ないのは珊瑚礁が守っているからですよ、と不動産屋さんが教えてくれました。地震があると珊瑚のことを思い出しありがとうね、と言わずにはいられません。みなさんも沖縄の海にエネルギーチャージにいらしてはいかがでしょう。あのプラーナを見てしまうととてもリアルに確信を持ってそう言えてしまいます。
2011.07.21
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本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること先日那覇ジュンク堂で惹かれて手に取った本はやっぱり強力に今を示していました。現在の原発と日本と世界の政治の多くの謎を解く鍵があります。原発の問題と沖縄の問題は根源を同じくするというメッセージは直観的にそうだ、と受け取れますが具体的な根拠がここにあります。日本は戦後、多くの光を封印しました。私たちがその封印を解くには何がどのように封印されているのかをみんなで共有することが第一だと思います。なぜ、多くの国民が望むごく自然な平和や平等がなされないのか、国民の利益どころか大きなリスクである原発をなぜ日本が持たなくてはならないか、国民の多くが忘れている、日本は敗戦以来いまだに占領されているという事実から真実がはっきりと見えてきます。多くの方にお勧めする一冊です。
2011.07.14
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台風2号の塩害で農産物はもちろん木々も多くの被害を受けここから見える山の一面が秋の紅葉のような色合いになっていました。外へ出ると多くの樹木が倒れたり抜けたり折れたり豊崎のビーチの木々は砂に削られて反面の皮がすっかりむけたようになっていました。あまりに激しかったのでだんなさんも私も少なからずショックを受けました。7月に入りこの夏は晴天が多く日照時間が長いせいか緑が随分復活しています。沖縄の植物、本当にすごい生命力。長い地球の生命の歴史の中、すべての生き物が、そして人間も、 何度も何度も何度も何度も・・・・・苦難から立ち上がってきたのでしょう。誰のどんな考えが本当に正しいのかはもしかしたらなかなかわからないのかもしれないけれど人が精一杯になにかを誰かを思い、行動し、生きたことのすべてが結晶し、次の歴史をつむいでいくのだと思います。途方もなく大きなうねりの中で小さな美しい結晶がすべてをつくり続けています。 今週はうるま市から海中道路を渡って宮城島と伊計島を散策しました。ぬちまーす(沖縄の海のまるごとミネラルが入った塩)の工場にあるカフェでお昼ご飯。外のテラスでの風景と庭先の展望台の景色です。海中道路わきの海の美しさがこの世のものとは思えませんでした。
2011.07.05
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