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会社にいれば、内側なんて黙っていても目につく。それなら、むしろ、積極的に外に目を向けている必要がある。「意味は外にある」(あるいは「社内にはコストしかない」byドラッカー)昨日、ひとつ書き忘れていたが、おととい、こんな話を教えてもらったのだった。「小さい女の子」「おばあちゃん」「お花畑」「狼」この4つを使って物語を考えなさい。こんなゲームをすると、ほとんどの人が「赤ずきんちゃん」のバリエーションでしかない物語をつくってくるそうだ。中にはわざと「赤ずきんちゃん」を避けようとした痕跡が見受けられる物語もあるそうだが、結局、それも「赤ずきんちゃん」を脱しきれないそうだ。ようするに、頭のなかにある既存の知識、イメージの呪縛とはそれほど強力なものなのだ。きっとおなじゲームを「赤ずきんちゃん」を知らない子供にやらせれば、まったく予想外の物語が出てくるだろう。外を見るというのはそれほどむずかしいことなのだ。ただ見ていただけでは、いずれおなじようにしか見えなくなってくる。だが、クリティカルなことほど、内側の目からは見えないところに隠れていたりする。見えない外を見えるようにするためには、外の情報を一杯に浴びるなかで、隠れたメッセージを抽出する作業が必要になる。いずれにせよ、社内にはコストしかない。コストをかけて動く組織という仕組みが作りだすものに意味があるかどうかは、外に問うしかない。戦略思考。絶え間ない仮設(内)と検証(外)のループ。戦略とはミッションへたどり着くための道筋、方法だ。そして、そもそもミッションは外部に依存するから、戦略はとうぜん環境適応能力でもある。そして戦略の実行には、とうぜん、マネジメント層だけでなく、従業員それぞれが環境適応能力(外部への視線)をもっていなくてはとてもこのスピーディーに変化する世の中で組織は環境適応してはいけないだろう。戦略、人、組織(システム)。つまり、この三位一体がどれだけ環境適応能力をもっているかがビジネスがカギだ。
2003年08月13日
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昨日、独自の人力テキストマイニングにより、消費者の中に埋もれている貴重な暗黙知(経験のりそく)を掘り起こすことを事業にしている方に先方の業務の流れについて教えてもらった。メールでのインタビュー(not enquete)で集めた定性データをひたすら読み込んで、下線を引く(キーワードの抽出)。それを元にディスカッションを行ないながら、抽出されたキーワードを分類(体系化)する。ようするに商品の生きた経験者である消費者の声から彼らの関心を抽出して体系化することで、ことばに意味を見出すのだ。そうした蓄積をもとにして「ことば辞書」システムをつくりたいということで相談を受けたのだが、昨日はもうすこし考えてからでないとシステム化は危険ですねという話をした。なぜなら、それは抽出~体系化という作業に意味(=価値)があるのであって、抽出されたことばの体系自体に意味があるわけではないからだ。ようするに「辞書には意味が書かれていない」のだ。そのことばを口にしたのは、この日記にもたびたび登場のK。彼いわく「意味は外にある」。当たり前のことですね。商品には意味(価値)はない。それは顧客が買って評価してくれてこそ意味(価値)がある。アイスクリームの素材や製法がなんだとか、どういう技術によってシステムが構築されているかなんてとこには意味はない。意味はあくまで外にある。彼のたとえは、さらに納得するものだった。「癌で余命3ヶ月の人の残りの人生に意味はあるか?」「その人がいくら自分の内側だけで考えても絶対に意味は見つからない」「残りの3ヶ月を生きるあいだで外の人と関わることにしか意味はない」考えるまでもなく、余命が何年あろうといっしょです。だからこそ、人力テキストマイニングの事業には価値がある。それは外部のことばを大量に読み込むことで、意味を生み出す作業だから。外部の情報を頭に大量につめこむ以外に、凝り固まった意識の中で新しいものを発見することはむずかしい。もちろん、自分自身、外の人間とおなじ経験が可能なら、大量の情報は必要ない。だからこそ、消費者の声(それはVOCですらない)を大量に脳に浴びることが必要となる。この過程は決して、データマイニングソフトでは代用できない。さて、先の彼がいつも言っていることにもうひとつこういうのがある。「行為が合意だ」ようするに「見えない暗黙知」を共有し、そこに意味を見出し、そこからアクションプランを導き出すためには、経験もしくは行為の共有なくしては、ありえないということだ。
2003年08月12日
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日曜日に映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観た。そこで、印象に残ったのが「掟」を「ガイドライン」として捉えるということだ。通常、「掟」というものは厳格な「ルール」として捉えられ、タテ社会における命令、指揮系統の秩序の基盤となるものだ。しかしながら、「掟」を「ガイドライン」として捉えるようになると、そこにはいわゆる権限委譲が発生し、同時に個々の責任の下での判断という状況が発生する。ようするにこれはこれまでのタテ社会の命令・指揮系統から現在移行期にあるヨコ社会での個人権限・責任に関する言及としてみることもできるだろう。そんな中で活躍するジョニー・デップ扮する一匹狼の海賊の船長の位置づけもとても印象的だ。ジョニー・デップが演じる役どころは非常にユニークでユーモラスなものだ。それは強くて、カッコイイ、よくあるスター像とは明らかに異なるものだ。そして、何より重要に思えたのは、「掟」が守るべき「ルール」という解釈から参照すべき「ガイドライン」へと解釈が変わった瞬間、それまで一匹狼だった船長は、晴れて海賊仲間と自分の船をみずから取り戻すことになる。ようするに、ユニークでユーモラスな船長がその環境下では仲間に慕われるリーダーとして舵をとる役割に復帰するのだ。ようするに、ヨコ社会におけるリーダー像とはこういうものなんだろうなという気がする。
2003年08月06日
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いま書いている提案書、これまでになく切り口、提案のストーリーが明確にできて、作っていて気持ちがいい。まぁ、いい感触が残る打球でも野手の守備位置によってはアウトになることもあるだろうけど。いずれにせよ、どんなに論理的に展開する企画書でも決め手となるのはクリエイティブな力だと思う。もちろん、ここでいうクリエイティブは、デモデザインの良し悪しとかのことではなくて、論理や提案のストーリー自体のクリエイティビティです。そして、そして、どんなクリエイティブでもそうだと思うけど、クリエイティブが効果を発揮するのは、基盤となる思考力(is not 経験!)がしっかりしていてこそでしょう。尊敬する佐藤正美さんはこう言っています。 事実を調べて、次の対応を考えるというのが 正当なコンサルテーションである。 モデル(見本)の体系が先にあって、 体系にふさわしい事実を後から収集するなどという コンサルテーションはありえない。 事実を凝視する能力がコンサルタントの起点である。 コンサルタントの勝負点は「思考力」であって、 金輪際、「経験」ではない。勝負点は「思考力」であり「経験」ではない。まったく同感です。本質を「思考力」により捉えることのない「経験」なんて「数打てば当たる」的な確率論でしかないのだから。これは「経験」を否定するのではなく、「経験」を過信したり、過去の実績にたよるなという意味で。「思考力」がなければ新しい何かは生み出せません。ようするにクリエイティビティは「思考力」からってこと。You Know?
2003年07月30日
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「分ける」ことは「分かる」ことです。 ある人と別のある人を「分ける」ということは、2人の人の違いが「分かる」ということです。自分と誰かの違いが「分かる」ということは相手と自分の特徴を「分ける」何かに気付いているということです。ビジネスにおいても「分ける」ことで「分かる」が数多くあります。 市場をセグメント化する、顧客をセグメント化するというのは、 市場や顧客について分かることです。 組織を職能別部門に「分ける」ということは組織が価値を生み出す業務のフローとそれに必要な役割が「分かる」ということです。チーム内で役割分担を行なうということもおなじです。役割を「分ける」ことはやるべきことを誰にやってもらえばいいか、チームメンバーそれぞれの得意なことと照らし合わせて「分かる」ということです。シックスシグマで使うCTQツリーも 顧客の要望を分別し、枝ごとに分けることで、 どの要望が最もクリティカルで、どの要望の枝を優先的に 改善していかなくてはならないかを分かるためにあります。 その意味で、 顧客セグメント化を行なうということは、 顧客に合ったソリューションを適切な価格で、 提案できるようになるということにつながると思います。 もちろん適切な価格で、適切な効率で作業が進められることで 適切な利益があがるようになります。 すなわち、分けられないということは分かっていないということです。また、分け方を知ることは分かり方を知ることだとも言えます。
2003年07月29日
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B to Bのビジネスを行なっている企業は、多くの場合、顧客企業のビジネスに貢献する(販促、コスト削減など)ものを提供しているはずだが、ここでひとつむずかしい点があるのだと思う。昨夜、彼女と話していて話題になったのだが、ようするに、ある企業が商品なりサービスを導入する際には必ず窓口として立つ人間あるいは部署がいるものだ。たとえば、それは購買部であったり、総務部であったり、広報部であったりと提供する商品、サービスによって異なるだろう。いや、むしろ、顧客企業が何のために、どういう目的で、商品、サービスを導入するかにより異なる。企業というのは顧客に価値を提供するための、複数のプロセスを組織化するために、それに応じた複数の部門に分かれて、それぞれのミッション、タスクを管理し、実行するものであるから、とうぜん、商品、サービスの導入(購入)も部署ごとのプロセスのタスクの一部といえる。さて、そこで問題なのは、商品、サービスを売る側の企業にとって、顧客企業のビジネスへの貢献が必ずしも窓口として立つ個人への貢献と一致しない場合があるということだ。たとえば、・提供する商品、サービスが窓口となる部門だけでなく他の部門にも 貢献するような価値をもったものである場合 ⇒この場合、導入決定は窓口に立つ部門が行なったとしても、 実際にはそのために支払うコストは、他の部門への貢献のための コストも含まれる。ようするに自部門だけで必要なコストは その一部と考えることもできる。 商品、サービスの導入コスト総額と自部門への貢献度を比較した 場合、費用対効果に見合わない数字がでてくることもあるだろう。 売る側としては、顧客企業への貢献を100として、50のコストの商品を 売ったとしても、実際に窓口に立った部門に対する貢献が50以下なら そこだけを見ると費用対効果がないようにも見えるだろう。・顧客企業の部門の評価と個人の評価システムが一致していない場合 ⇒これは完全に顧客企業側のシステムの欠陥だが、 商品、サービスの導入やプロセスのアウトソーシングといったタスクが 組織の課題としてはあがっていても、その窓口に立つ担当者の個人の目標 とは重なっておらず、評価にもならない場合、担当者は決してその業務を 好んではやろうとはしないだろう。 担当者レベルでは商品、サービスの導入が自社のビジネスに 効果をもたらすことが理解できていたとしても、決済権限をもつ上層部が その商品、サービスへの理解が低く、担当者に必要な社内調整コストが 多くかかるほど、個人評価に直結しないような仕事をするのはなかなか むずかしい。ほかにもこういったケースがあるだろう。ようするに、これはシステムとしての組織に欠陥をもっているということである。組織のミッションと個人のミッションは有機的で矛盾のない連携ができていないとたがいのミッションがぶつかりあい、結果として双方に悪い影響を与えてしまう。組織は人材こそ貴重な経営資源だといいながら、こうしたことを見落としていたりする。事業の現場に対する知識への貪欲さが欠ける経営陣は、机上の理論だけで、個人をよりよく働かせようとする評価システムを作ったりするが、実はそれが足かせとなって個人の能力を封じ込め、しいては組織そのものの能力を減退させる。それは決して数字だけを見ていてもわからないし、形式ばった報告だけを受けていても決してわからない。知識には形式知と暗黙知があり、暗黙知は経験の共有、時間の共有によってしか共有化、移転ができない。事業の現場の人材に関する知識にはこうした暗黙知が数多く含まれる。それを理解せずに、現場を知っているふりをする経営陣には、本質的な意味で「費用対効果」が理解できない。とはいえ、企業のほとんどは多かれ少なかれ上記のような問題を抱えている。B to Bのビジネスを行なっている企業はこうしたことも踏まえて、自社の商品、サービスの販売を行なわなければいけないだろう。
2003年07月24日
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自分で信じてないものは売れば売るほど自転車操業になります。ツールは適切な使い方をしなければただのお荷物になります。短期的な売上額をあげるために、無理やりな販売をして自社の価値を下げる、自社商品の価値を下げるということはいたるところで起きています。愉快なことを考えず、肉体的な努力だけで汗水垂らして販売するのはあまり誉められてことではないのです。泥臭さは必要です。ただ、その泥臭さの中にも一筋の洗練された感性と信念が必要です。他人と自身にともに向けられた感性と信念のない努力はただのはた迷惑です。はやく。はやく、そのことに気付くべきです。
2003年07月23日
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ドラッカーは企業の唯一の目的を、「顧客を創造すること」だと言っている。私はそれをこう言い換えたい」。企業の目的は「顧客をデザインすること」だと。企業は自社のビジネスをデザインしなくてはならない。自社の従業員の働き方をデザインしなくてはならない。「デザイン」という言葉を使うのは、それが感覚的な意味でも美しく価値の感じられるものでなくてはならないと思うからだ。企業は従業員の仕事が美しく価値の感じられるものになるようデザインしなくてはならない。そのデザインが、顧客をデザインすることにつながる。企業は自社をデザインし、自社の事業をデザインしなくてはならない。自社の顧客へ提供する価値をデザインしなくてはならない。顧客の立場に立ってデザインしなくてはならない。単なる価値ではなく、デザインされた価値の提供をしなくてはならない。また、企業は顧客との関係もデザインしなくてはならない。売れたら終わりなんて考え方はもう完全に時代遅れである。顧客との継続的な関係を企業はデザインしなくてはならない。デザインとは決して線を引いたり、色をつけたりすることではない。そんなデザインにクリエイティヴィティは存在しない。企業は真にクリエイティブなデザインこそ行なわなければならない。何のためにデザインするか?デザインのためのミッションこそ重要だろう。今後、ますます企業は顧客にデザインされた価値を経験してもらうことが必要となるだろう。デザインせよ!
2003年07月22日
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昨日から『経験価値マーケティング 消費者が何かを感じるプラスαの魅力』 という本を読み始めています。読み始めたばかりなので、正確なことは言えませんが、 ようするに、前に書いたことのある「真実の瞬間」だったり、 「アウトプット要求とサービス要求」のサービス要求的な意味での経験 といったあたりに焦点をあてたものだと思います。また、ブランド価値はブランド経験がつくるといった話ともリンクしてくるのではないかと思って、興味をもって読み進んでいます。 その本のはじめに新しいマーケティングのトレンドとして、 以下の3つがあげられてました。 ①ITの発達 ②ブランド至上主義の展開 ③統合型コミュニケーションとエンターテインメントの普及 私は実務で、企業の総合的な意味でのマーケティング活動をインターネットを使って支援するといった仕事に従事しています。ですので、実は上記を読んだだけで「熱意」をさらに膨らませていたりします。なんだ、トレンドにのってるじゃん!ってな感じですね(笑) 本書では、伝統的なマーケティングと経験価値マーケティングの違いを以下のようにまとめています。■伝統的マーケティング ①機能的特性と便益 ②製品カテゴリーと競走の狭い定義 ③顧客は理性的な意思決定者 ④方法は、分析的、計量的、言語的■経験価値マーケティング ①顧客の経験価値 ②包括的経験価値としての消費 ③顧客は理性的かつ情緒的な動物 ④方法は折衷主義(適切なツール、方法を使う)私は、企業のWebサイト構築の依頼を受ける際、商品・サービスを紹介するだけのカタログサイトでは売れないと言っています。それは上記に即していうと、カタログは「機能的特性と便益」の紹介であり、自社の独自性を「製品カテゴリーと競走の狭い定義」にしてしまうからです。自社のコーポレート・ブランドを確立するには、顧客の理性に訴える「機能的特性と便益」だけでなく、情緒にも訴える「顧客の経験価値」をつくる情報の提供、コミュニケーション、サービスが必要だと思っています。もちろん、それを生み出すエンジンは「熱意」です。さて、『経験価値マーケティング 消費者が何かを感じるプラスαの魅力』には、 こんなことも書かれています。■長期的な視点での経済価値の進化は次のようなもの コモディティ→商品→サービス→経験 これは販売価格とも密接な関係があります。 たとえば、「コーヒー」 コモディティ:1ポンドあたり1ドル 商品 :1カップあたり5セントから25セント サービス :コーヒーショップで1カップあたり50セントから1ドル 経験 :スターバックスで1カップあたり数ドル さて、みなさんの会社はいったい何を売っていますか?「商品」ですか? 「サービス」ですか?それとも、「コモディティ」?「熱意」が重要なのは昨日書いたとおりです。でも、「熱意」をビジネスにつなげるには、それを形にしないといけなません。その答えが実は「経験」であり、顧客の「経験価値」ではないかと思っています。
2003年07月18日
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コトラーは、今日のマーケティングにおいて最も重要だと思われる80項目に関して、それぞれ身近な考察を行ない、アルファベット順に並べた最新著作『コトラーのマーケティング・コンセプト』の最終項目として、「熱意(Zest)」という項目をあげています。その理由をコトラーは、体裁を整えるためにZではじまる言葉が必要だったことに加え、もう1つ、「熱意に欠けるマーケターは効果的とはいえないからだ。 熱意に満ちた状態とは、生きていることを心から喜び、楽しみ、 人生に熱中している状態といい換えられる」としています。この言葉はとても重要だと思う。どうもビジネスにおいて、「生きていることを心から喜び、楽しみ、人生に熱中」することをあまりに軽視している人が多すぎると思うからです。日々の業務をイヤイヤやりながら、それを経たアウトプットを顧客に提出しておいて、「売れない」と嘆くのはナンセンスだと思う。自身が価値を認めて、それを創出することを「喜び、楽しみ」、そんなビジネスを行なっている「人生に熱中」できて、はじめて「売れる」企業になるのではないかという気がします。実際、「売れている」会社は、社内が喜びに満ちていて、モチベーションが高いところが多いと思います。さて、では、それを実現するためには何が必要か?・個人の取組み・組織の取組みこの双方が必要なのは言うまでもないでしょう。個人が自分のモチベーションを「熱意」ある状態に維持し、組織はそのモチベーションを組織力に変換しなくてはならないでしょう。いずれが欠けても、たぶん、うまくいきません。コトラーは「熱意に欠けるマーケター」と表現していますが、企業の中にいて、マーケターでない人はほとんどいないはずです。なぜなら、ドラッカーが言うように、企業には2つの機能があり、それはマーケティングとイノベーションだからです。マーケターでないなら、イノベーターということになるでしょう。ところで、コトラーは「熱意」の項目の最後に、こんなことを書いています。「マーケターとして採用するのは、人生に熱中できる人間に限るべきだ。 そうでない者は経理に回すべきである」と。ここだけはコトラーは勘違いしてますね。経理だって立派なマーケターのはずだからです。既存の売上データから販促に使える情報を引き出したり、経営戦略のための情報を引き出すことこそ、本来の経理の仕事だろうから。これもきっと熱意がないとできない仕事でしょう。とにかく熱意がないと何もできないってことですね。
2003年07月17日
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今日はちょっとシックスシグマの勉強をした。シックスシグマがどういうプロセスで問題解決を行っていくのか、興味があったから。実際には、「企業の独自性を捉え、独自性をアピールする」といった課題に汎用的に利用できるプロセスを考案するのに使おうと思っている。まだ時間はかかるけど、おもしろい課題になりそう。
2003年07月16日
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昨日、コンペで失注したお客さんのところにCS調査の一環で訪問した。そこで採用となった競合の提案書を見せてもらえたのだが、企画提案担当者としてはそれだけで十分失注理由が理解できた。そこで目にした相違は、提案のレベルが高い低いというものではなく、売っているものそのものが異なっていたのだ。提案内容のレベルの高低差であれば、比較の際、他の要素(金額、対応)なども検討材料になるであろう。だが、売るといっているものが異なれば、もはやどちらが必要で購入すべきかという比較になる。どういう違いだったか、もうすこし具体的にしよう。○こちらが出したもの あるプロダクトのベネフィットに関する資料○採用された会社が出したもの ベネフィットを約束するサービスの詳細資料どちらを選ぶかは、お客さんの状況によって異なるだろうが、今回採用されたのが後者であるのは事実だ。これは普段、考えていたことをまざまざと現実として示された気がして、ショッキングだった。何を売るか?は非常に重要で、何を売るか?という問題は価格設定にも関わってくる。実は売っているものはほとんどおなじように見えても、「何を売るか?」という意識、見せ方によって、おなじものが違う売り物になり、また、その価格も異なってくる。これは企業が事業を行っていくうえで、とても重要なことだ。
2003年07月15日
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夏風邪をひきました。昨日は熱にうなされた状態で、今日、プレゼンを行なうための提案資料を作成していたのですが、朦朧とした状態でつくる企画書って普段と違ったものになります。よくスポーツなんかでも、多少、からだに疲れがたまってる状態のほうが力みがとれて、いい結果がでるなんてことがあるじゃないですか。あんな感じです。面倒なところを省こうとするので、大切なところだけを書くことになる。これって結構いいかもなんて思う。まぁ、ほんとにいいかどうかはいまから行くプレゼンの結果次第ですけど。
2003年07月11日
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よく「あの会社は独自性がない」という言葉を聞く。だが、実はそういわれる企業も独自性がないのではない。私自身、ついこのあいだまでは、独自性がない企業が存在するのだと思っていたが、実際にはそうではない。正確には、そういう企業は「独自性が見えない」のだ。独自性が見えない理由はいくつか考えられる。 ○独自性のアピールが下手 ○独自性をアピールすることに関心がない ・独自性よりベストプラクティスへの追従に関心がある ・そもそもアピールすることに関心がない ○独自性の捉え方が間違っているいずれにせよ、独自性はどの企業にも存在するものだ。独自性とは、一般論と自社の相違である。あるいは競合他社と自社の相違であるといってもよい。(それゆえ、競合分析は自社分析のあとでしか意味をなさない)類似ではなく、相違を捉えることが重要だ。つい比較をすると、自社を強くしようという意識が先行して類似であろうと相違であろうとごちゃ混ぜに強さばかりが目に付いてしまうが、実は、強いか弱いかの前に、類似か相違かを分類しなくてはならない。なぜなら、競合と類似している要素なら、それはどんなにそう見えようと、強みではない。競合と横並びの要素が競走優位になることなどない。当たり前のことだ。だから、比較においては、強さ/弱さをはじめに分類するのではなく、他との類似、相違を分類することが重要である。そして、相違=独自性にこそ、本当の強み/弱みが存在する。この分類ができれば、実はあとの思考は意外と簡単になる。自社の相違=独自性の各要素を顧客要求、顧客ニーズと照らし合わせて、どれが強みで、どれが弱みかを見極めればいい。そして、強みをさらに増強するにはどうすればいいか、弱みを軽減していくには何が必要かを決める作業に入ればいい。そして、この独自性はあらゆる場面でアピールしていかなくてはならない。なぜなら、ビジネスにおいては、他人(顧客)が認めていないものは存在しないも同然だから。ここまでクリアできれば、先の「独自性が見えない理由」の3つうち、下2つはクリアしたことになる。残るアピールが下手というのをクリアする方法についてはまた別の機会に。
2003年07月09日
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ピーター・F・ドラッカーは、事業の基本的な機能は2つであり、それはマーケティングとイノベーションだけだと言っています。この2つの機能のうち、マーケティングについては、身体的な感覚として捉えられていたが、一方のイノベーションに関しては、いまひとつピンとこないというが正直なところだった。イノベーションが基本機能の1つであることはわかる。だが、それが具体的にどういったものなのかが実感としてわからなかったのだ。それがここに来てようやくイノベーションとは何をすることなのかがつかめてきた。それはようするに、自社のいまある事業を破壊することなのだ。言い古された感のある言葉だが、いまはそれをよく実感できる。いまある自社の事業を3年後には無意味なものとなるよう、新しい事業を開発すること。それがおそらくイノベーションということなのだろう。気がつかないうちにそういう仕事をはじめていたことに気付いた。
2003年07月07日
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人は自分で自分の評価を下すことはむずかしいものだと思います。自分の行動が正しかったかどうかは自分では決められないことが多い。自分のためだけにやること、たとえば、自分のための勉強や自分の目標達成のためにやることなら、まだ自己評価も可能です。それが正しいかどうかは達成率というよりも最初の目標設定が正しかったかどうかが判断基準になると思いますが、その場合、勉強でもなんでもそれが無駄になることはないという意味で、それは絶対に正しいと思うから。でも、相手があることでは、途端に判断ができなくなる。というよりも、相手のためにすることは基本的に評価するのは相手です。自分がしたことが相手にとって正しかったかどうか、相手が自分に何を言ってくれるかではじめて、それが正しかったかどうかが自分で理解できる。そんなことを思ったのは、今日、仕事で自分が開発に携わったあるサービスがリリースされたからです。正直言って、このサービスのリリースで、僕は結構ビクビクしてたりもします。もちろん、その一方でワクワクしてたりもする。このサービスはまったく新しい試みだと思うからです。そう考えると、ビクビクする気持ちを抑えてもやらなくてはいけないことがあることがわかります。怖気づいてやらない、怖気づいて人に言えないことはあったりしますが、その中のいくつかはやらなきゃいけないことだったりするのだろうと思います。たとえば、それは好きな人に「好き」と告白するときのように。ビクビクを乗り越えてやらなきゃいけないのは、きっと同時にそれがワクワクすることだったりするときなのでしょう。もちろん、それを実行したことが正しかったかどうかは、自分では評価ができません。それは相手が評価するものだからです。さて、新サービスはどんな評価をされるのでしょうか?まずはお問合せがくるのをビクビク、ワクワク待っています。
2003年07月04日
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昨日、会社である勉強会を主催しようと、イントラネットの掲示板を通じて、参加者の募集をしたところ、個別のメールで5名の参加表明をもらった。それぞれに返信のメールを送っていたのだが、おもしろかったのは、それぞれの人の参加のコメントに対して、返信のコメントをつけていくうちに、それまではっきりしていなかった勉強会の方向性ややり方がだんだん明確になってきたところだ。常々、知識やアイデアは人とコミュニケーションをする中で育まれるものだとは思っていたが、昨日はそれをあらためて実感した気がする。基本的に勉強会といっても、誰か講師役の人がいて、決まりきったことを教える座学といった形ではなく、ひとつのテーマを基点として、参加者みんなが自由にディスカッションを行なう中で、知識やアイデアを共有できる「場」にしたいと思っている。僕自身、自分の役割を①情報提供者、②触媒役の2つに定め、活発なディスカッションを行なう中で、参加者それぞれが自分が必要とする知識を蓄積していく場になればと思う。ようするに、そこでは昨日、僕がひとりが体験したことが、参加者全員の中でそれぞれ起こるのではないかと思うのだ。おそらく知識創造とはそういうコミュニケーションの過程で育まれていくものだ。これを理解すると、ナレッジ・マネジメントとは何をすることがより明確になってくる。さて、世の中の経営者はこのことをセンスで感じ取り、理解し、実践に落とし込めているだろうか?それは単に従業員のあいだのナレッジ・マネジメントではなく、顧客や潜在顧客を含めた市場のナレッジ、株主、投資家を対象としたナレッジもマネジメントの対象にできるかといったところが、この知識社会では非常に大きなウェイトを占める。さて、それを感じ取るセンスをどれだけの人が持っているだろうか?
2003年07月03日
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ひさしぶりにリーダーについて書いてみたいと思う。 すべてのマネジャーはリーダーであるべきだ。 だが、ほとんどのマネジャーは管理者にとどまっている。 大半の時間を予算や組織図、コスト、コンプライアンス、 その他のこまごました事柄に費やしているとしたら、 あなたは管理者といえる。 リーダーになるためには、 人々と接する時間、機会を探し求める時間、ビジョンを描く時間、 目標を設定する時間を増やさなければならない。 『コトラーのマーケティング・コンセプト』コトラーは上記のように言っていて、これ自体、同意するものだが、ひとつだけ意見を加えたいところがある。それはリーダーとは何もマネジャーだけの仕事ではないということだ。どんな人にもリーダーとなる場面がある。たとえば、会議の司会者はリーダーとしての役割を持つ。ファシリテーターという言葉があるが、会議の司会者は議論を妥協や譲歩によってまとめるのではなく、議論の中で、機会を探し求め、創造的な問題解決に向かわせるのがファシリテーターとしての司会者の役割だ。また、リーダーの定義はきわめて簡単にできる。リーダーとはリードする人である、と。命令や指示によって人を動かすのは、リーダーの仕事ではない。ビジョンによって方向性を指し示すことで、あとは人々を信頼し、人々の自発的な行動により、ゴールを目指していくものだ。その際、リーダーは細かな指示を出すのではなく、チームのメンバーそれぞれが自発的な行動をしやすくなるよう、声をかけ、話を聞き、質問をし、メンバー自身のモチベーションと頭の整理を手伝ってあげればいい。そして、なによりリーダーは人が信頼してついてくるようにならなければならない。では、そのようにするにはどうすればいいか?これは結構、簡単な話だ。自分自身が熱く、本気になれるようなものを見つければいい。それを他人に押し付けがましく伝えるのではなく、他人に共感を覚えるようなやり方で伝え、協力を仰げばいいのだ。そう。ようするにリーダーとは、リードする人ではあるが、まわりの人に協力をお願いする立場でもあったりする。とうぜん、その意味で謙虚でなければリーダーは務まらない。まわりの人がすこし自分の考えに反論を言おうものなら、とたんに怒鳴り散らしたりするような度量の狭い性格では、誰もいっしょにやろうなんて思わない。怯えるのではなく、素直な気持ちで助けてもらおうという謙虚さが必要だ。
2003年07月02日
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すべてが相対評価となるこの時代、人は「機能」ではなく「個性」を買います。こう言ってしまうと「機能も立派な個性ではないか」とおっしゃる方もいるかもしれません。もちろん、そのとおりです。機能も立派な個性のひとつです。ただし、その機能が明らかに他とは違うことを、他人が認識すれば、です。個性とは、他人から見た「他との相違」です。他と違っていればいいわけではなく、他と違っていることを他人が認識できるものが個性です。個性における相違はきわめてエモーショナルなもので、事実として違っているかどうかよりも、相手が違うと感じているかが重要だったりします。その意味では、個性とは自分のものでありながら、他人にわかってもらえなければ存在しない、間接的な価値だと言えます。ここ数年、ブランドが経営、マーケティングにおけるトレンドのように扱われていますが、実はブランドもこうした間接性をもっています。そして、この間接性ゆえに、「ブランドはむずかしい」という声も数多く聞かれますし、多くの企業がブランド構築に苦心されているようです。人は「機能」ではなく「個性」を買います。では、個性とブランドは同じものなのでしょうか?答えはNOです。すべての企業は個性を持っていると思いますが、決してすべての企業がブランドを有しているとは言えません。また、ブランドには個性が不可欠ですが、個性さえあればブランドになるわけではありません。ブランドには個性以上のものが必要です。たとえば、人がある企業や商品に触れたとき、その企業や商品に個性を感じることがあります。その個性を気に入れば(魅力的に思えば)、人はその企業と契約を交わすかもしれませんし、その商品を購入するかもしれません。では、当の企業、商品が目の前にない場合はどうでしょう?一度、その個性を知った人ならその企業や商品を思い出すことはできるでしょう。しかし、思い出すのにもきっかけが必要です。また、どういう個性でどう魅力を感じたかを覚えていなければ、企業や商品のことは思い出しても魅力が蘇ることはないでしょう。一方で、多くの優れたブランドは優れた連想を数多く有するものです。そして、その連想はブランドが目の前にないときでも、あるきっかけでふと蘇ったりします。個性は企業が1つの一貫した方向性さえ有してさえいれば自然発生的にもできるものですが、ブランドは単に方向性を共有するだけで自然発生的に生まれるものではありません。ブランド論の第一人者であるデービッド・A・アーカーは、ブランドを戦略的に管理するための、そのブランドがターゲット顧客にどのように受け入れられるべきかというビジョンとしてのブランド・アイデンティティを策定する必要があると言っています。ブランド・アイデンティティ、つまりはブランドの個性です。ブランド構築とは、ブランド・アイデンティティを元に効果的なコミュニケーションを計画的に行なうことで、顧客のブランド連想を豊かにする活動だと言えます。ブランドはあくまで中長期的な視点で計画的に構築するものです。それは自然にはできません。
2003年07月01日
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たまに企画というとアイデアを考えることだと思っている人がいる。もちろん、アイデアは考える。だが、企画の人間が考えるのは実行可能なアイデアだ。そして、企画をするというのは、その実行まで含まれる。もちろん、手を動かすのは自分でなくてもよい。だが、誰が手を動かすのか、いつ動かすのか、それには何が必要かなどを考えるのは企画の仕事だし、実際に動かしてもらうのも企画の仕事だと思う。ようするに、実行力のない企画者は無能である。企画者とは何より効果的でなくてはならない。とうぜん、何がいいアイデアかどうかだけでなく、何がいま可能なアイデアかという判断を行なわなくてはならない。企画とは机上の空論ではなく、何より現実に実行される活動の計画なのだ。よって、企画力とは、単なる形式知の案出ではない。それは暗黙知の移転も含めた総合的、現実的な知識活動である。
2003年06月30日
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情報は自分から発信しないと、なかなか新しい情報は自分にはいってこなかったりする。量的にはおなじような情報が次々飛び込んできても、違った形の新しい情報は思うようにははいってこない。もちろん、情報を自分から探しにいくことはできる。だが、それよりも自動的に向こうから飛び込んでくるようにしたほうが効率はいい。それには、やはり自分がどんな情報を欲しているか、情報の趣味がわかるよう、あらかじめ、あちこちに自分の情報を発信しておくといい。また、情報を誰かに発信すれば、相手も反応する。反応して、相手の中でなんらかの変化が起こり、そこから新しい情報が導き出せることもある。inputとoutput。効率的にコミュニケーションを行なうには、inputとoutputを普段からどれだけ効率よく行なっているかということにも関わってくるだろう。
2003年06月27日
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すこし前の日記に「センスのない人」について書いたが、その話をいっしょにしていたカノジョからこんな記事を教えてもらった。 → http://www.tryforce.net/b2bcontents/kikyou/k030625.htmlこの記事を読むと、ようするに、センスってこれ↓だなって思う。>しかし、鬼塚さんのその一言で「自分が忘れていたもの」に気づいた平野さんは、 やはり「カンのいい人」なのだ。自分の行いを自分だけの目線で見ていると、 鬼塚さんにそう言われても、「そうじゃない」と反論したくなる。 平野さんは、自分の行動を客観的に見ることができたからこそ、 「あっ、今の自分の料理の姿勢はまずい」とすぐ気づいたのだ。先のカノジョの会社の「センスのない人」、そして、その次の日記に書いた「肝のすわっていない人」の2人はそろって、やはり、すぐに人の意見に反論する人で、いっさい人の意見に耳を傾けることができない人です。昨日の日記で、プランニングにおける現状認識で、最も重要なのは、顧客分析であると書いたのもおなじことです。結局、自分や他人を客観的に見ることのできないことをセンスがないというのかもしれません。昨日買った本にもこんなことが書いてありました。イチローは、自分のプレーを客観的に見ているもうひとりの自分がいると言ってる、と。センスは「俯瞰的感覚」といっていいのかもしれません。さて、ところで、実は先の記事で取り上げられたシェフ(平野寿将)の店には、ほんとに偶然だけど、昨日、カノジョと行ったんです。それをカノジョに指摘すると、>そうだったのか!>一切気づかなかった・・・。(カン悪)というコメントが帰ってきましたが、カン=センスが悪いのではなく、この場合は、単に「注意力」とかの問題です。
2003年06月26日
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事業や事業戦略に基づく施策などのプランニングを行なう際には、まず、はじめに現状の分析を行なう必要がある。これはプランニングの基本ともいえることであるが、以外にこうした部分がおろそかにされることは多い。現状の分析の対象となるのは大きく分けて以下の3つだ。 ①顧客分析 ②自社分析 ③競合分析その中でも、顧客分析抜きではなにもはじまらない。顧客が何を求め、何に満足し何に不満をおぼえるかといった顧客の心理、顧客の行動を理解していなければ、いかに自社分析や競合分析を行なったとしても、何が自社の強みであり、何が競合他社の強みであるとかといった判断基準が得られないからだ。たとえば、阪神と巨人を比較分析を行なうとする。これをファンの心理を理解せずに、阪神と巨人の戦力や特性を比較すれば、巨人ファンを阪神ファンにできるといってしまうことがどんなにおろかかは考えてみるまでもない。いくら阪神と巨人を比較してベンチマーク調査を行なっても、巨人ファンが阪神ファンになることはない。むしろ、巨人ファンがなぜ巨人でないとダメなのか、巨人ファンの巨人ファンたる所以は何かと言ったところを分析しない限り、競合との比較はあまり意味のあるものとはなりえない。ファンの期待を理解してはじめて、もっと巨人ファンになってもらうための施策案を、巨人と阪神の比較(競合比較ベンチマーキング)から見つけることが可能になる。競合調査はあくまで顧客分析があってはじめて効果を発揮するマーケティング・ツールなのだ。それを理解せず、競合調査から見つけた施策案を実行しても、ただの労力の無駄となるか、下手をすれば、既存の顧客さえ失いかねない結果となる。もちろん、完璧な計画など、ほとんどありえない。だが、そのことと、だから計画など立てても無駄だなというのとはわけが違う。計画のもとで、計画どおりにいかない問題を発見するのと無計画な状況で、予期せぬ状況(無計画なのだから何も予期していないが)に出会うのでは、対応の仕方も異なる。そんなことはすこし頭をはたらかせればわかることなのに、どうも多くの企業で、多くの部署でそうした意識が著しく希薄なのには驚かされる。それは決して、経営トップやマネジャー陣だけに必要な意識ではなく、ほぼすべての従業員が等しく意識していていいビジネススキルだと思うのだが。いったい、どうして、みな、そうした意識を持たないのだろうか?
2003年06月25日
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おなじ言葉を聞いた場合でも、聞く人によって、その言葉に対する反応は異なります。コミュニケーションを行なう上でのひとつひとつの言葉の判断は、聞く側の内面にある、価値観や期待、知識ベースによって変わってきます。その中でも価値観や期待は通常、自分ではなかなか明確に意識していないことも多いです。中には、自分の価値観や期待をわかっている場合もありますが、それでも、価値観や期待を全部わかっていることは、まずありません。知識には表現可能な形式知と表現のむずかしい暗黙知がありますが、価値観や期待は暗黙知である場合が多い。わかっていても、はっきりと言葉ではいえない、対象に対する判断基準としては用いることができても、それが何かといわれたら、明確に示すことができない、といったように。そうした価値観や期待と同時に、その時々の自分の中での流行、トレンドのキーワードのようなものも存在します。ようするに意識しているものですね。そうしたキーワードに関するものが、外から飛び込んでくると、人はその言葉に、それを発した人に対して反応を示します。この場合は、価値観や期待でしか感知できないものよりも反応がすばやく、明確であることが多い。ようするに、すでに認知されたものと近いものを示された場合のほうが、食いつきがいいわけです。コミュニケーションとは、元来、こうした性質のものです。ようするに、人は知識の中に住んでいる。その知識は明確な知識の場合もあれば、はっきりとしない暗黙知の場合もありますが、個々人はそれぞれのナレッジ・ベースの上で生きているわけです。ナレッジ・ベースが異なれば、見えるものが見えなくなったり、聞こえるものが聞こえなくなる。これは企業がマーケティング活動を行なう上で重要なことです。マスコミュニケーションの時代とは異なり、もはや現在では、知識は公的な構造をほとんど有していません。知識の構造は、個々人でかなり異なっています。そのこと自体はおそらくマスコミュニケーションの時代でもおなじでした。ただ、商品、サービスの数や、コミュニケーション自体の数もいまより圧倒的に少なかったことで、個々人の中にある知識構造もある程度、似ていたし、また、異なっていても、おなじものと考えていいほど、個々人の連想が行き着く対象としての商品、サービスが限られていました。ようするに、コミュニケーションによる顧客の連想が途中、どんな過程を経ても、そこそこ目的とするゴールへ導くことができたわけです。ただ、いまの時代はそうはいきません。連想の過程をしっかり把握して、綿密にコミュニケーションが組み立てられていなければ、顧客はあなたが発したメッセージによって、競合他社の商品を連想する場合もあるからです。知識社会がどうしたこうしたといわれているわりには、どうもこういったことが理解されていない気がする。結局は、顧客のことになど関心はない、と言っているようなものです。既存の知識を援用するばかりで、まったく自分の頭を使っていない人が多すぎますね。馬鹿とハサミは使いようとはいいますが、ハサミの使い方を知らずにハサミを使う馬鹿は、役に立たないどころか、危険です。
2003年06月24日
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ほとんどの場合、勘違いされていることだと思うが、 自分で選択してやっているのではない仕事などない。 無理やり押し付けられただとか、 命令だからとか、決まりだとかは単なる言い訳にすぎず、 現にその仕事をやっている以上、それは自分で選んだ仕事だ。 そう。きっかけや理由がどうだろうとそんなことは関係なく、 やりはじめた以上、それは仕事をしている人の選択によるもので、 まずその選択にはきちんと責任をもつ必要がある。 とはいえ、通常、使われる意味での、 「自分で選んだ仕事をしたい」というのは 好きなことをやりたい=得意なことをやりたいという意味で 理解できるし、実際、それができるようになることは重要なことだ。 なぜなら、そのほうがその人個人にとっても有益だろうし、 成果も最大限になるはずだから、組織にとっても有益だからだ。 では、 「納得できないまま選択し行なっている仕事」と 「納得できてやる好きな仕事」のギャップを埋めるには どうすればいいのだろうか? まず最初から自分の好きな仕事ができるということはまずないし、 本当に自分が好きな仕事が何かをわかっている人も多くはいないはず。 好きなことが何かわからないが、嫌なことだけはわかるという人が ほとんどのはずだ。 それに対して何もおかしいと思わなかったら、ギャップは絶対に埋まらない。 嫌なことを嫌だと思うことなど、誰にでもできる。 必要なのは自分が好きなことは何かを明確にし、好き=得意を確立することだろう。 そのためにはまず嫌な仕事の嫌な部分に目を向けるのではなく、 嫌な仕事の中でも有益と思える部分に目を向ける意識を養うことが必要だ。 常に物事の有益な部分、いいと思う部分を見つけようという意識をもつことで、 自分がどんなものを「いい」と思うか、さらに「好き」と思うかが、 明確になってくる。 それが明確になってきたら、それが本当かどうか、実際にすこしずつ試せばいい。 試してみて「あれ?やってみたら違う」ということもあるだろう。 ようは仮説を立て、検証をするのだ。 自分の中で、自分の好きなもの=得意なものを知るためのPDCAサイクルを まわすのだ。 ギャップはおそらくそうやって埋めることができる。 それは短期の視点でなく、中長期的な視点でなければできない。 中長期的な視点において重要なのは意識をもつことだ。 現在の日本の企業は短期的な売上ばかりに目を向ける傾向があり、 中長期的な視点で投資や改善を行なえないところが多いが、 これも同じように意識のなさによるものだと感じる。 企業にとって意識とは、全社に共有された 「ミッション-価値観-ビジョン」のトライアングルだろう。 そうした視点をもたない企業は結局、 好きな仕事ができず、好きでもない仕事を嫌々行なうしかないという 悪循環にはまり、さらに業績を悪化させるのだろう。
2003年06月23日
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人生におけるプライオリティを根本ではなく、状況においていると、いつまで経っても成長はしない。もちろん、根本を変えることは短期的に達成できる目標ではないので、まずは状況を変える施策をとることで短期的な改善を行なうのは、筋道として正しい。だが、それが本当に正しいことになるのは、その後の筋道として、状況から根本を学び、状況の改善の積み重ねにより、根本を変えるという中長期的な視野における達成を徐々に実行していってからのことだ。状況の場当たり的な積み重ねでは何も変わることはない。リレーションとはそのような積み重ねによって、はぐくまれるものであって、成長のない関係はいずれ底が見える。美しく輝いていた月は、その瞬間、緑色のチーズに変わる。
2003年06月20日
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基本的に人は、好きなことやらせておくほうが力を発揮する。なぜなら「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように好きなことと得意なことは、結構、その領域が同じだったりすることが多いからだ。ところが、普通、会社にいると、なかなかそれができなかったりする。既存の事業をまわす上においては、まず先に業務ありきで、それを好む=得意とする人間を適材適所で配置することが必要となる。だが、新規の事業においては、事情がすこし違う。多くの場合、新規の事業をはじめるにあたっては、小さくはじめて効果が見えはじめたら大きくする。これはイノベーションの採用者に関する曲線を理解すれば当然のことだ。イノベーターおよびアーリーアドプターの数は全体の20%に満たない。ようするに初期市場は小さいのであり、小さくはじめる以外にないのだ。そして、何より新規事業は顧客を創造するかどうかもわからない。それがよりイノベーティブな事業なら、そもそも成功するノウハウなどない。こういう性質のある新規事業の開発においては、それこそ、その事業が好きだと感じる人にやらせるのが得策だ。なぜなら、好きな人なら多少効果が見えなくても、なんとかやり抜こうとしたり、次々と違うアイデアを試すといったモチベーションを維持できるが、そうでない人にはそれはむずかしい。成功するかどうかわからない新規事業の開発には、得意かどうかの基準は好きかどうかしかないからだ。既存の事業においても、新しい施策を展開する場合などはおなじことが起きる。好きでなければできないということが。ところが、ここで会社では、好きなことばかりやってられないという事態が発生する。それは結果が明白でない新規事業および既存事業での新規展開などでは、好きなことやっているという重要な事業推進エンジンが、周囲の人からは「あいつは遊んでいる」と感じられことが必ずあるからだ。そう。ようするに妬みだ。「好き嫌いで仕事をするな」と当然のように口にできる人がこうした妬みをもつ。その言葉は部分的には正しいが、「好き」以外に人の力を最大限に発揮させるものがないことがそこでは忘れられている。新しいことをはじめる自信がもてない人(自分が何が好きなのかがわからない人)がこうした妬みをもって、新しい試みの足をひっぱる場合がある。そして、新しい試みを行なうか、行なわないかの判断が多数決になってしまうとよほどの場合でない限り、新しい試みを支持する側が負ける。そして、最悪の場合、ただ手間だけが発生する中途半端な新しい試みが行なわれる。もちろん、それは新しさの肝心の部分が骨抜きにされているので、効果を発揮することはありえず、ただ新しいシステムをまわした疲労だけが残るのだ。こうしたことを回避できるのは、経営者によるうまいバランシングしかない。その場合、経営者は通常のように数字に頼って判断することはできない。なぜなら数字があるのは過去の事実だけであり、新しい事柄に関しては数字がないからだ。その場合、経営者は事業の推進者の熱意と人柄によって判断するしかないだろう。熱意と人柄。それこそが「好き」を外から判断する要素ではないだろうか。一方、従業員の側が経営的視点にたって、職務を行なおうとするなら、自分が何が好きでやりたいと思っているかを明確にしなくてはならない。また、好きなことを効果的に行なうためには、どのようなポジションで仕事をすべきかを自分自身で提案できなくてはならないだろう。もちろん、それを支えるきちんとした評価基準の整備が絶対条件だろうが、「企業の最大の資産は人材だ」という言葉をただのお題目とせず、真の意味で、人材を資産化し、個々の力を組織力に変えるには、上記のような考えが経営者、全従業員に共有されているような企業文化をつくることが重要だという気がする。
2003年06月19日
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昨日は「センスのない人」について書いた。今日は「肝のすわっていない人」について書こう。昨日の「センスのない人」もそうだったが、これも実は彼女の会社の人の話だ。そして、その人は彼女にとっては、上司である。彼のことは、私もよく知っているが、センスのある/なしで言えば、センスはあり、比較的、センスはいいほうだと思う。そんな彼なのだが、僕から見てもセンスを疑うようなことをすることがあるし、それは彼の部下たちにも気づかれてしまうようなところで、センスを疑われるようなことをしてしまう。結果、彼は部下から信頼されていないのだが、これはいったいどうして起こるのだろうか?カンタンだ。自分のセンスで感じたことを信じる度胸がないのだ。誰からも干渉されない比較的自由な状況でなら、彼の言うことはわりと的を得ているのだが、多くの場合、彼はさらに自分の上役から何か言われると、とたんに理性を失ったかのように、上役が言うことを鵜呑みにする。しかも、その言葉が自分のセンスでは理解不可能な場合、彼は中途半端に上役の言葉を、言葉のまま(真意を無視して)理解する。結果、やっても意味のない施策を無理に部下に強いることになる。しかも、「命令です」という言葉をつけくわえて。さらに彼の悪いところは、肝がすわっていないために、自分の部署が指摘された問題をすべて部下のせいにしてしまうところだ。「施策がまったく進んでいない」と言われれば、部下たちに「君たちがまったく提案をしてこないから僕が怒られる」という。実際には部下たちは目指すべき指針がないため、提案を示すことができないし、仮に提案した場合でも、彼が上役に通す力がないので、そもそも提案するモチベーションがもてないでいるのだ。これでは、彼が部下の信頼を得られないのは当たり前である。そして、彼は部下に対してさえ、怯えがあり、まともに部下の話を聞くことができない。部下を信頼し、部下を人間として尊重できないため、本来、部下の仕事であるディテールにばかり踏み込み、本来、彼自身の仕事であるリーダーシップとしてのマネジメントを行なわない。とうぜん、部としての目的は一向として達せられないし、部下もモチベーションが維持できず、育たない。究極の悪循環がそこには発生する。だが、繰り返すが、彼は決してセンスがない人ではないし、むしろ、センスはいいほうである。頭も決して悪くはないし、いろんなアイデアの出せる人だ。彼の問題は「肝がすわっていない」点、度胸のない点のみに集中する。度胸のなさが彼のセンス、彼の判断力をことごとく無力化してしまうのだ。これは極端な話、センスがないことより手に負えないのかもしれない。肝がすわるとは、単純に自分を知るということなのだろう。自分を知れば、適切に謝ることができるし、適切に人を褒めることができる。適切に自分の責任を負うことができるし、なにより適切に好きなことができる。それは自信がないというのとは話が違う。自信がない人はたくさんいるが、自信がなくても自信をもとうと努力を怠らない人とそうでない人には雲泥の差がある。そして、実際、肝をすわらせることは、自信のあるなしには関係ない。自分のために、人のために、何か事を起こそうとしたら、自信のあるなしに関わらず、肝をすわらせて、やるしかない。でなければ、中途半端な行動になるだろうし、期待した結果を得ることはできない。また、そのことで、自分もまわりも傷つけることになるかもしれない。自分を輝かせたいと思うなら、なによりまず、必要な時、いつでも肝をすわらせられるようになることだ。
2003年06月18日
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先日、彼女と”センスがない人”についての話になった。別にファッションなどのセンスの話ではない。ビジネスのセンスだったり、作業をするセンスだったり、人と関わりあうセンスだったり、そういうことだ。センスがないというのは、センスが悪いのとは違う。センスが悪いのは、ようは何かをやるのがヘタだったり、手際が悪かったり、出来が悪かったりということだ。注意したりすればなんとかなることも多く、ダメな場合でも、そのダメさ加減はなんとなく理解できる。ようするに、いい/悪いは程度の問題だ。ところが、センスがない人は文字通り、ゼロなのだ。ヘタだとか、手際が悪いとかの問題ではない。なぜできないのかが理解できないくらいのできなさを披露してきたりする。彼女と話していたとき、話題になったのは、クリエイティブとイマジネーションということだ。クリエイティブにものごとをゼロからはじめられる人はそうはいない。だが、いいものを想像して、それを真似してみることならできる。その真似がうまいかどうかがセンスのいい/悪いの問題であり、ようするに、センスのある/なしはイマジネーションがあるかどうかの問題ではないかということだった。そう。センスのない人は真似さえできない。いや。真似をするという発想すらないのかもしれない。なぜ真似ができないかということを考えると、まず、何がいいのか悪いのかが判断できないのだ。また、センスのない人はたいてい人のことに関心がない。まわりがどんな状況にあろうと呆けた顔をしている。それでいて、自分の気に入らないことがあったりすると怒る。これはもうどうしようもないダメだ加減だ。想像力のなさは周囲への気遣いさえ、ままならなくする。センスがないというのは本当にロクでもない。さて、翻って、では、センスがいちおある人はどうか。ようするに、センスはあるけど、悪い人はどうすればいいか。これは、センスのない人と混同されないよう、自分のセンスを磨くべきだ。ゼロでないなら、磨くことができる。ようするに、真似する能力、いいもの悪いものを判断する能力を養うことだ。それはきっとまわりに気を配って、周囲をよく観察することだ。人それぞれセンスのよさ/悪さにも差があって、センスが悪い人がセンスのいい人のようにふるまうことはできないだろう。だが、センスの悪い人だって、悪いのをよくすることはできる。それを怠ったり、センス=イマジネーションを発揮しなかったりすれば、それは結果として”センスがない人”と変わらない。救いようのないダメな人ということになる。大事なことは、一生センスを磨くために勉強し続けなくてはいけないということだ。そう。一生だ。休んでいるヒマなどあるはずもない。これがわかってない人はたぶんセンスが悪いか、センスがない。
2003年06月17日
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金曜日の夜に知人K・Iに会った。そのK・Iがこんなことを言っていた。「人は個性を買うものだよ。 みんな機能とか才能とかをどうにかしようとするけど、 それより大事なのは個性だよ。 機能や才能なんか、あとでいくらでもどうにでもなること」そのとおりだと思う。機能や才能など、もはやこの時代においては差別化の要因にはならない。すべてが相対評価される世の中では、明確な切り口だけが差別化の要因となる。明確な切り口こそ、個性に他ならない。では、個性とはどこから来るのか?K・Iはこんな例をあげていた。このあいだ、ひさしぶりに孫さん(ソフトバンク)がTVに出てて、孫さんにとって、ブロードバンドとは何ですか?と聞かれていた。孫さんは、ブロードバンドが全国にひかれるかと思うとわくわくすると言っていたそうだ。「ようするに、なぜ仕事をするのか?と聞かれて、 最後に残るのは”好き”ってことだ。 ようは、”好き”なことを命懸けでできるかどうかだ」そう。おそらく個性とはそういうものだ。好きであり、その”好き”はライフワークになるくらいの”好き”なのだ。そして、その”命懸けの好き”がブランドになる。まわりを気にして、右に習えをしていたのでは、つかめないものがそこにはある。それが個性であり、人はそれに惹かれるのだろう。
2003年06月16日
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あなたは、大切なあの人に、どう憶えてもらいたいですか?大切なあの人が、あなたのことを、どう思っているか知っていますか?あなたが、大切なあの人に、約束できるのはどんなことでしょう?大切なあの人は、あなたに、何を期待しているのでしょう?ところで、あなたは誰ですか?大切なあの人にとって、あなたは誰ですか?ブランドを通じた企業と個人の関係(リレーションシップ)は、個人におけるパートナー同士の関係に似ていると言えます。まず、パートナー同士は性格的に波長が合わないとダメですし(パーソナリティ)、おたがい付き合う上で両者にメリットがなければいけません(ベネフィット)。また、そもそも相手が誰なのかも重要な部分です(属性)。では、誰かと友好なパートナーシップを築くには何が必要でしょうか?とうぜん、パートナー同士には良好なコミュニケーションが大切になります。ブランド構築におけるコミュニケーションもおなじ意味をもつものです。ブランドを通じた個人と企業のパートナーシップのためにおたがいをよく理解するためのコミュニケーションが必要となります。顧客をたんに購入額や購入人数などの数値として見ているだけでは、パートナーシップは生まれません。女性20代何人、OL何人、東京都在住何人なんて顧客を数えているだけで満足しているようでは、顧客に興味がないのとおなじです。ブランド構築のためにはひとりひとりの顧客とのパートナーシップを目標に、人間同士のコミュニケーションをしていかなくてはなりません。ところで、いったん、パートナシップが築かれれば、阿吽の呼吸や目と目で会話ができたりするのがパートナー同士のメリットとなります。ブランドにおいては、ロイヤル・カスタマー(ファン)の存在がこれにあたる部分です。いったん、ブランドがロイヤル・カスタマーと良好な関係を築くことができたなら、わかりきった説明などなくても顧客は購買行動を起こすようになるでしょう。むしろ、必要なのは、ロイヤル・カスタマーを飽きさせない新鮮なコミュニケーションや、ロイヤル・カスタマー個人への特別なサービスだったりします。ただひとつ企業と顧客のブランドによる蜜月が、個人間のパートナシップと違うとすれば、顧客は企業に対して何の気兼ねもなく、他のブランドに対する浮気や移行ができるという点でしょうか。大切なあの人の心をあなたはしっかりとつかんでいますか?
2003年06月13日
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今日はお客さんのとこにプレゼンに行ってきた。前回、自分で書いた提案書がむずかしすぎて、うまく説明できなかった反省点を踏まえて、今回は逆に、すっきり明確に提案をまとめたが、その分、ちょっとインパクトや個性に欠けた提案になってしまった。そのへんのバランスってむずかしい。いま、ブランディングのサービスを提供するためにブランドについて勉強してるんだけど、自分自身、自社のブランディングについてもやっていかないとって思う。あらかじめブランド・イメージが明確に伝わっており、ブランド・ポジショニングによって、顧客の期待、こちらが約束するものが定まっていれば、個別の案件では、お客様独自のニーズを上乗せして、さらにその上にお客様の期待を超えるインパクトをちょっと足してあげればいいから、実際のプレゼンがずいぶん楽になる。ブランディングにおける信頼関係、リレーションシップって結局、そういうことなんだよね。つーかーで話せて、さらに相手が自分の期待を超えるみたいなそういう気心知れあっていて、おたがい相手を尊敬してる友人関係に似てる。そういう友人との関係の構築には何が必要かを考えれば、ブランディングってそうむずかしいもんではないんだと思うな。簡単ではないけど、がんばればできることでしょ、そんなの。
2003年06月12日
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今日の知識社会、情報社会において、これまで差別化要因として有効だったものが機能しなくなる一方で、ブランドがそれに代わる差別化の源泉として台頭してきたという背景を考慮すると、ブランドとは、これまでの競争要因、差別化要因の情報のフレームワークを、顧客本位でわかりやすく組み直すことで達成される、顧客にとって知覚可能な知的価値であるといえます。どういうことでしょうか?これまでも、顧客に対して発せられる企業側からの商品やサービスの便益を示すメッセージは、顧客本位の内容とはなっていました(例外も多々あり)。ただ、これだけ商品の数、それにともなうメッセージの数が膨大になれば、顧客の側はいちいちそのメッセージ内容の比較により、商品相互の違いを認識することがむずかしくなります。その場合、結局、顧客が「どれも似たり寄ったりだろう」と判断してしまえば、競争要因として残るのは価格くらいしかありません。ブランド構築が熾烈な価格競争を回避するための経営課題として重視されているのは、それが上記のような状況でも、顧客に自社製品の差別化を認識してもらうことを可能にするものだからです。ブランドはそもそも顧客の側での「比較」という情報認識のフレームワークを解体するものです。ブランド・コミュニケーションが構築する新たな情報認識のフレームワークは、顧客に「比較」ではなく、個々のブランドに対する好嫌、良悪、合う、欲しいなどの判断を行なわせるものです。明確に差別化された、ブランド固有のベネフィット、パーナリティ、商品・サービス属性などがそれを可能にします。比較は「似たり寄ったり」の状況でこそ想起される判断法です。まったく異なったものとして認識されれば、比較は行なわれません。従来のコミュニケーションは、違いを認識してもらうために、「似たり寄ったり」のコミュニケーションを行なうことで、違いを見えにくくしていました。とうぜんながら、違いを認識してもらおうと思えば、中身ももちろん、コミュニケーションそのものも、他と差別化することが必要となります。なにより、ブランドとは中身ではなく、コミュニケーションによって構築される知識そのものなのですから。
2003年06月11日
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ブランディング。勉強すればするほど、それは顧客や従業員、株主など、関係者すべてを対象にしたナレッジ・マネジメントだと思えます。ようするに、ブランドって知識社会、情報社会の経営資源なんですよね。情報はいくら事実を伝えたとしても、必ず視点というものがある。受け手は基本的に自分の興味、関心のある情報しか受け入れない。一方で発信する側にも必ず情報を発信する際には視点を固定せざるをえない。それがコミュニケーションである以上、すべてを伝えることが不可能。 ある角度から見た事実しか情報は伝えられない。 そして、伝わる人にしか伝わらない。ブランド論の第一人者デヴィッド・A・アーカーも、 ブランドの性格を決定づけるブランド・アイデンティティと それをコミュニケーションによって顧客に伝える際の ブランド・ポジショニングを分けています。 ブランド・ポジショニングはアイデンティティのどの部分を 伝えることが効果的かというプライオリティをつけたものです。 社会的情報環境、競合他社の状況なども把握した上で、 どのようなコンテクスト(文脈)をつかって、 顧客のブランド・イメージを刺激するか? という部分の設計が重要なようです。ナレッジ・マネジメントというと、なにかコントロールのきいた状態を想定してしまうので、ナレッジ・リーダーシップといったほうがいいのかもしれない。いずれにせよ、ブランド知識をリードする際のポイントとしては、 すべてが相対価値となる世の中では、 ブランドという明確な切り口が差別化のアングルになりますといったことでしょうか。
2003年06月10日
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約束を守るということは重要なことです。それは相手があなたに期待しているからです。約束を守らないということは相手の期待を裏切るということです。一度、裏切られた期待はそう簡単には回復できない。その一方で期待をもってもらうためにはとても時間がかかる。約束を信じてもらうのはそう簡単なことではないのです。重要なのは一貫性です。一貫したイメージを相手に植え付けること。一貫したコミュニケーションによって、相手の知識ベースにあなたの約束をイメージとして植え付けること、相手に期待を抱かせること、あなたとなら大丈夫だと信じ込ませること。相手が何を期待しているかを知り、その期待を超えようとすること。一貫性を持ちながらも常に革新的であり続けることで、相手が飽きることなくあなたに期待を寄せ続けるようにすること。相手の期待と共に成長すること。約束を守るということはそういうことです。約束が果たせず、相手が苦情をいってきたとき、どうするのか?誠実な態度で相手の苦情に接するとはどういうことなのか?ただ謝るのが本当に有効なことなのか?あなたが謝罪をすることが重要なのか?相手の苦情の原因を察してそれを可能な限り除去し、補填するのが重要か?自分の保身か?相手の痛みを軽減することか?あなたが大事だと思う人に飽きられないためにも、まずは相手を知り、自分を知ること。そして、相手にどんなイメージをもってもらうためにどんなコミュニケーションが有効なのかを知ること。ブランディングとはそういうものです。
2003年06月09日
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昨日、ほんとに頭おかしいんじゃないの?っていう話を聞いた。ある企業の取締役が他の企業との提携関係を優先するために顧客を犠牲にするという話だ。その取締役は営業を統括している人間で、とうぜん、普通なら顧客の声、ニーズにもっとも敏感でいいはずの人間である。それがどんな理由があるにせよ、「顧客などほっておけ」的な発言をするなど、もう会社として終わっているとしか思えない。企業という仕組みがどのようにして、利益をあげているのかまったくわかっていない。B/Sの見方もわかっていないのだろうか?企業に必要な投資の源泉は、B/Sの右部分である負債と資本から得られる。資本は主に、資本金、資本剰余金、利益剰余金などの項目からなる。このうち、利益剰余金の源泉はどこから来るのか?それは顧客以外ではありえない。そんなものビジネスをやる上で基本的な算数だ。小学生にだって、すこし説明してやればわかるようなことだ。そんな算数がわからない人間が企業の取締役として経営を担っているのであれば、会社が利益を上げ続けることなど、到底、無理な話だ。センスがないから即刻ビジネスなどやめたほうがいい。
2003年06月06日
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顧客満足、顧客志向を掲げる企業であれば、 「なぜ売れないのか」ではなく「なぜ買ってもらえないのか?」という 問いこそが正しい問いだと思っています。 買ってもらえないのは、なにかしら顧客の期待にそわない部分があるからで、 顧客の期待がなにかを知ることこそ、買ってもらうための最重要な要素だ。 それゆえ、問いの立て方を間違ってはいけないし、 ただ、顧客満足というのではなく、顧客の「何を」満足させるかを 明確にしなくてはならない。 それが明確でなければ、組織として顧客満足を目指すことは不可能で、 しょせんは俗人的な能力での顧客満足が実現できる程度だ。 さて、顧客の期待と顧客満足には関係があります。 実際、提供されるものが期待より低ければ顧客は不満に思うし、 期待どおりであれば顧客は満足を得る。 でも、真に競争優位を目指すなら、 顧客の期待を知った上で、顧客の期待を超えなくてはならない。 フィリップ・コトラーは、サービス企業における 提供サービスと顧客の期待サービスの間に生じるギャップの原因に関して、 次の5つの要因をあげています。 1.顧客の期待と経営者の知覚ギャップ ⇒顧客のニーズを経営者が理解していない、 間違って理解していることによるギャップ 2.経営者の知覚とサービス品質の仕様のギャップ ⇒経営者が明確な業務基準、サービス基準を定めないことによるギャップ 3.サービス品質の仕様とサービスの提供方法のギャップ ⇒顧客に接する従業員の教育が不十分であること等で生じるギャップ 4.サービスの提供方法とエクスターナル・コミュニケーションのギャップ ⇒広告等の内容と実際の提供物の違いによるギャップ 5.知覚サービスと期待サービスのギャップ ⇒顧客が商品・サービスの内容を誤解することなどによるギャップ 負のギャップを埋め、正のギャップを超えること。 すくなくともそれは俗人的な能力によるものではないようです。
2003年06月05日
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「冷蔵庫だって、アラスカにもっていけば凍結防止庫」昨日、そんな風に書いたが、現実には冷蔵庫を作って、売っているつもりの人にとって、それが凍結防止庫であるとはなかなか気づかない。あるいはもっとたちの悪い場合、気づいても、妙なプライドから「いや、これは凍結防止庫などじゃなく冷蔵庫だ」と言い張ったりする。まぁ、そんな頑なな連中はほっとくとしても、どうすれば、開発側、売り手側が自分たちの思い込みから抜け出すことができるのだろう?実は昨日、実際にそうした思い込みからの脱却が現実となったシーンに出くわした。それはある顧客に自分たちのサービスを説明した時だった。そのお客さんは、私が説明したシーンでの効果、そのシーンでのソリューションの必要性を十分理解してくれた上で、実はお客さんの会社にとっては、そうしたソリューションがより必要とされるクリティカルなシーンが存在すると言った。話を聞いてみればまったくそのとおりのことだった。しかも、そのシーンは同時に説明していた別のソリューションと大きく関係するシーンであり、私の側からすれば、まさに灯台下暗し的な見落としだった。お客さんの側も2つの異なるソリューションの説明から連想したのかもしれない。いずれにせよ、機会とは、異なる2つの文脈が重なるところにあるものなんだと思う。売り手の側には、なんらかのベネフィットをもたらすかもしれないソリューションがある。買い手の側に、なんらかの解決策が必要とされる問題がある。だが、この2つはそれぞれ文脈が異なり、なかなか交わらない場合がある。すでに市場が確立された商品、サービスにはすでに文脈が構築されている。言い換えれば、市場とは文脈を共有する売り手と買い手の集まる場である。だが、そこでは文脈を共有するがゆえに、文脈の読み替えが困難であり、イノベーションをもたらす回答が売り手の側でも買い手の側でも見つかりにくくなる。結局、思い込みの打破とは既存の文脈からの脱却である。であれば、文脈からの脱却を図るには、異なる文脈同士をぶつけてみるのが手っ取り早い。機会とは、新たな文脈の創造である。それは2つの言語の交差により、新たな方言を創出することだといえる。おそらくこうした感覚、嗅覚をもたないマーケターには、せいぜい既存製品の販促案を出す程度のことしかできないだろう。だが、そんなことなら、何かしらの書籍をめくることで、いくつかのアイデアを発見することができる。実際にマーケターに必要な能力とは、そうしたものではなく、新たな文脈を2つの言葉の交差から生み出す能力といえるだろう。
2003年06月04日
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マーケティングという言葉ほど、曖昧に、しかも、都合よく使われている言葉はないと思う。ほとんどSALESもしくは販促の意味で使われることも多いし、むしろ、しょせんSALESとか販促でしかない施策を御大層に表現したい輩がマーケティングという言葉で体裁を整えているようで情けない。そういう輩に限って、マーケティング・コンセプトの根幹にある「顧客の声に耳を傾け、顧客を知る」という原則からは程遠く、顧客なんか無視して自分が一番偉いとふんぞりかえっていたりする。それでいて、仮説~検証~コントロールなんていうお題目をまたもやエラそうに唱えたりするから始末に置けない。そういう人はジャック・ウエルチがGE流のシックスシグマに通常のMAICにD(定義)を加えたDMAICというサイクルを生み出した理由をよく考えたほうがいい。そう。品質改善は顧客においての品質の改善であって、自社にとっての品質の改善ではないのだ。DMAICのDは顧客にとって何が「品質」なのかを問うことからはじまる。さて、唐突ですが「今日の引用」。 人は製品を買うのではない。 製品がもたらすベネフィットに対する期待を買うのである。 人は製品やサービスのためにカネを払うのではなく、 買おうとしているものが自分にもたらすと信じる価値の期待値に カネを払うのである。 4分の1インチの穴を買うのであって、 4分の1インチのドリルを買うのではない。 セオドア・レビット 『レビットのマーケティング思考法』よりこの言い方ってすごくおもしろく、実は決定的なポイントをついているのだと思う。製品を買うのではなく、ベネフィットを買う。これはまずそのままとればいい。おもしろいのは次の箇所。買おうとしているものが「自分にもたらすと信じる価値の期待値」にカネを払うカネを払うのは、あくまで「期待値」であるというのがミソ。これは実際の商品、サービスなりの性能なり、効用が顧客の期待を裏切ってもいいと取るべきではなく、顧客には「期待」させなきゃダメだと取るべきだろう。ここがポイントで、顧客は期待もできないようなものは買わないということだ。例えば、ITバブルがはじけて以来、妙に低評価な「WEB」。世間の顧客はもうWEBに期待していないのだろうか?そんな風に考えた途端、行き詰る。実はそう問うべきではなく、顧客が期待するわれわれの売り物は何か?とこそ、問うべきだろう。前にも書いたが、冷蔵庫だって、アラスカにもっていけば凍結防止庫だ。WEBという売り物をどこの誰のところに持っていったら何になるかを考えてSALESすることをマーケティングという。
2003年06月03日
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どういう方向でいこうか?と行き詰っていた提案書が、ふとした瞬間に切り口が見つかり、突然、スムーズに進行することがある。当たり前のことを、どう印象的に見せるか?といった部分で迷っていたりするから、切り口(印象の部分)が見つかればスムーズに進むのは当然だったりもする。最近、そんな意味で「切り口」という言葉を結構意識している。そんなことをふと昔からお世話になっている知人にもらしたところ、> 切り口か~! いい言葉だ> > すべてが相対価値となる世の中では> 切り口が差別化のアングルになるだよね。と言っていた。う~む、いつもながら切れ味鋭いコメント。その知人はこんなことも言っていた。> まあ、ブランドもなにもかも> ようはしっかりした計画を効果測定と> 徹底的な修正だな基本は> > だが、いくら高速に修正していても> その効果は内部の人間にはわからない> だから、たまには馬鹿になったつもりで> 顧客や外部の人とふれてみることが大切> > なにごともバランスですなこの知人は、「内部外部理論」と称して、「内部にいると外部のことが認知できない。 感知はできるが、それが組織としての認知にはなりにくい。 それゆえ、改善はむずかしい」といったことを言ってる。この感覚はすごく重要だと思う。シックスシグマのDMAICの"D"の部分をいかにこの感覚で定義できるかがビジネスにおける勝負だと思う。
2003年06月02日
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「われわれは夢を売っている。 もし単に売上を上げるためだけならば、 明日にでも売上を現在の何倍にもすることができる」これはジョルジオ・アルマーニのゼネラルマネジャー、ジュゼッペ・ブルゾーネ氏の言葉だそうです。「夢を売っている」企業といえば、有名なところではディズニーがあります。スクウェアなんかも「夢を売っている」といってます。ディズニーやスクウェアだと普通に納得しますが、ジョルジオ・アルマーニのゼネラルマネジャーが言うと、ちょっと響きが違います。でも、前にも似たようなことを1回書きましたが、きっとすべての企業は「夢を売っている」と言えるんじゃないかと思ったりもします。実際にそうしてるかはともかく、「本来あるべき姿」と考えると、そうではないかという気がします。たとえ、顧客企業の問題を改善するソリューションを提供するような場合でも顧客があっと驚くような改善の図れる「夢」のようなソリューションというのもあるのではないかということです。顧客が当たり前のように購入、使用するのではなく、それを買い、使用することで「夢」がかなう、あるいは「夢」心地になる、そんなものを顧客との関係で気づくことができれば、それはブランドとなります。顧客だけではなく、従業員にとっても、自分たちが「夢を売っている」と思うことは、無理やり売らないと売れない商品を売るより、喜ばしいことのはずです。そして、おそらく、「夢を売っている」企業は、「もし単に売上を上げるためだけならば、 明日にでも売上を現在の何倍にもすることができる」企業だといえるのでしょう。
2003年05月28日
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最近、あらためてよく出来てるな~と思うのが、ユナイテッドアローズのサイト。http://www.united-arrows.co.jp 情報のまとめ方がうまくできているし、情報量も豊富。IR情報で参考にしてましたが、本サイトのあらためてみるといい出来。GreenLabel、District、SovereignHouseなど、複数あるブランドとの関係性(差別化とシナジー)もとてもうまくまとめられていると思う。もちろん、これはWEB上だけの話ではなくて、リアルにおいてもブランド間の設計が非常に適切な形でまとめられていることに基づくのだろう。反対にリアルでブランド体系があやふやになっている企業はやはりWEBサイトでもブランド個々の関係がわかりづらく、「何がどう違うのか?」という疑問が生じる。WEBサイトは、リアルなブランドを映し出す鏡。もちろん、リアルではしっかりしてても、WEBサイトを軽視していることが原因で、WEBサイトの出来が悪いというのもあるのだろうけど、むしろ、その多くはリアルでにブランド体系がお粗末であるという原因のほうが多いのだろう。
2003年05月27日
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よく企業においては「人材こそが資産だ」とかいいますが、組織というのは、目的のために構成された仕組みの複合体でもあります。「人材こそが資産」という言葉にはどうもそのへんが抜け落ちている。もちろん、新規に立ち上げる事業などにおいては、個々人の力の俗人的な組み合わせの効果がものをいいます。でも、それと同時に仕組み=システムとして構築された組織力がなければ、企業は効果的かつ効率的には動きません。「顧客をみる」そして「顧客を超える」いま、ブランド構築がビジネスにおけるトレンド的な課題ですが、それはトレンドである以前に、基本的な「顧客をみる」そして「顧客を超える」という企業の機能を表わしたものにしか過ぎないとも思います。それは別に根本的に新しい観点ではなくて、昨日の日記で書いたのと同じように、ものの見方を変えた基本的なビジネスの手法にのっとったものでしかない。ただ、「見方を変える」というのにもはっきりとした長所があります。ブランド構築という視点は、すくなくとも企業価値というものを顧客、従業員、株主といった利害関係者の価値をとてもわかりやすくバランシングできる視点だとバンビは思っています。いずれにせよ、とにかく頭を使ってみることが重要です。どんなツールを使うにしても、いまだ潜在的でしかない根本的な問題を見つけ、それに対して考えられうるソリューションのリストを作る。それがビジネスに必要な思考能力です。それは上流過程であるとか下流の過程であるとかは関係なく、それぞれの立場に応じた問題の発見~解決の思考が必要であるというだけでしょう。頭と感性をともに研ぎ澄ましていなければ、結局は人並みのことしかできません。ナンバーワンはともかくオンリーワンになりたかったら、自身の頭と感性を磨く方法を確立し、思考能力を研ぎ澄ますことです。
2003年05月25日
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製品・サービスの内容はまったく変わらなくてもちょっと見方を変えればまったく別のベネフィットをもたらす製品・サービスとなる。そういうと一見、詐欺みたいだが、そうではない。たとえば、冷蔵庫。それはアラスカなどにもっていけば凍結防止庫となる。そんな風に供給側の思い込みが、需要側のイメージさえも固定化してしまうことはよくあることだ。そうした製品・サービスに対する思い込みは、供給側の売上、利益をも限定してしまう、大きなマーケティング上の問題だ。製品・サービスは当然のこととして、自社がもたらす価値に関して、そんな風にポジショニングを間違えると、実際に秘めている能力を殺してしまうことになる。「われわれにできること」「われわえの製品・サービスにできること」の定義を不当に低く見積もってしまえば、その時点で可能性は途切れてしまう。おそらく、マーケティングにおいては、自社の製品・サービスのみならず、自社のもたらす価値についても、いったん現在の価値を白紙に戻して、未来にもたらす価値を創造する視点で見つめ直すことを定期的に行なう必要がある。いまある価値をもたらす自社のポテンシャルをいったん個別の要素に分解して、その要素を再構成する線(リレーション)を引いてみることで新たな価値をもたらすアイデアのリストを作成する。そんな思考能力がマーケターには必要なのだろう。
2003年05月24日
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最近、仕事の関係で、いろんな企業のホームページを見比べながら、それぞれの企業のブランドに対する姿勢について考えている。とうぜん、ホームページを軽視しているという理由もあるのだろうが、ホームページを見る限りでは、日本の企業のブランド戦略ってまだまだお粗末なものなんだろうなあという感じる。ホームページとは基本的に、情報をきちんと整理した情報アキーテクチャーである。図で考えればむずかしいこともよくわかるように、情報が整理され、構成された企業のホームページは、その企業を映し出す鏡だともいえる。ブランド戦略があいまいなら、ホームページを作ろうとした瞬間、そのあいまいさと問題が白日の下にさらされる。コーポレート・ブランドとプロダクト・ブランドが矛盾したり、複数のプロダクト・ブランド間に冗長性が見られたりといったリアルな現実世界ではなかなか気づきにくいこともメッセージ、データ、イメージによる複雑系の情報アーキテクチャーであるWEBサイトでは、すべてが明確になってしまう。こうした考え自体は『ブランド・エンジニアリング』(片平秀貴著)の影響だが、実際に企業のホームページを見ればそれは実感となる。中にはほんとに笑ってしまうようなひどい企業サイトもある。たかがホームページと考える企業が多いのだろうが、本気で自社のブランド構築を考えるなら、むしろWEBサイトでのブランド構築からはじめてみることこそ有効な方法だろうと思う。
2003年05月23日
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今日は「話題をつくる」ということについて書いてみます。まず、話題をつくるには、言葉と話題の対象が必要。言葉がなければ、対象があっても話になりませんし、対象がなければ、言葉をつなげて会話にするのがむずかしい。とはいえ、言葉と話題の対象を同時につくるというのも結構うまくいかないこともあるので、言葉先行あるいは対象となるモノや行動を先行とどちらか一方からはじめるのがいいと思う。対象が先なら、それを表す言葉をあとから付け加え、言葉先行なら、それにあったモノなり行動を提示すればいい。その2つを交互に行なうことで、話題をつくり、話題の輪を広げていく。そうした話題のスパイラルによって評判ができる。そして、評判の維持によって、信頼性が生まれたりする。信頼性が長く維持でき、かつ向上されていけば、それはロイヤリティとなっていく。たぶん、ブランドの構築ってそういうことです。それをいかに計画的にマネジメントするか、そしてマネジメントの対象となる人、モノは何か、そういうことをしっかり行なうことがいまの課題です。
2003年05月21日
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ひきつづき顧客満足について。一般消費者相手のBtoC市場の商品、サービスを扱う企業ではなく、BtoB市場での企業向けの商品、サービスを扱っている企業で働く人間にとって、マーケティング的に考える際、頭を悩ますのは、誰の"満足"が自分たちの売上、利益につながるのかということではないだろうかと思う。請求先は相手先企業であっても、購買決定、リピート決定するのは、企業そのものではなく、あくまで人です。購入判断を行なうのは、企業の担当者(許可は上司の承認がいるにしても)であって、企業そのものではないとこがミソだと思う。この場合、担当者が人間である以上、やはり仕事というものには、どこか面倒な部分があるものだと思う。そして、大抵の場合、他社から購入する商品、サービスは顧客企業のコアビジネスそのものとはすこし離れたものだったりする。(自社の強みでない部分をアウトソーシングするのが普通ですから)その場合、購入、導入にとまなう仕事が新たにくわわるのを担当者が面倒に感じる確率はより大きくなるのかもしれません。特に、他の仕事と兼任(たとえば広報だったりマーケティングだったり)だとその確率はかなり高くなるのではないでしょうか?もちろん、それを補うツール的なものはあるでしょう。でも、おそらく問題はもっと根本的なものじゃないかという気がします。問題の本質は、担当者が面倒を感じることそのものの改善を図らることにあるのだと思います。ようするに、やるべきことは、担当者の仕事を楽しくしてあげることです。人はなんだかよくわからない(効果の見えにくい)仕事はより面倒に思うもので、効果がありありと見え、しかも、それが自分が考えたものだったりすると、仕事をするのも楽しくなる。全面的に楽しくならないとしても、モチベーションはかなり高くなる。しかも、それで結果を出して会社に評価されるのがわかれば、仕事の面倒さはかなり軽減される。いや、仕事が楽しくなってくるだろう。ポイントはここだという気がする。われわれが提案すべきなのは、まず第一に担当者のやる気が出るような提案なのだと思う。顧客企業を相手に仕事をしていると、必ずといっていいほど、「担当者がダメだ」という声が聞かれる。もちろん、中にはホントにダメな担当者も中にいる。でも、ちょっと待ってほしい。それこそパレートの法則に従えば、ホントにダメな担当者など全体の20%くらいしかいないはずだ。だとしたら、そんなにたびたびダメな担当者に出くわすはずがない。それこそ確率的には20%なら5回に1回なんじゃないだろうか。だとしたら、5回のうち4回における問題は担当者がほんとにダメなことではない。むしろ、問題はわれわれの提案が担当者のやる気を起こさせるのに、十分ではない場合があるということだ。では、どうしたら効率的に担当者のやる気を起こさせることができるだろう。それにはまず購入する商品、サービスの導入する意味、それを導入することによるビジネス上の変化の意味を、本質的な部分で知ってもらうことが重要になる。提供される商品、サービスそのもの質がいいのは必須条件ではある。だが、それは担当者を満足させるための十分条件ではない。担当者を満足させるためには、提供される商品、サービスが彼(彼女)自身の基準において、役に立つものでなくてはならない。担当者がノリノリでその商品、サービスに関わりたくなるようなものならベストです。おそらく、顧客企業にプロフェッショナルなサービスを提供するものにとって本当に提案すべきなのは、そうしたソリューションではないかと思う。顧客企業の担当者にノリノリで仕事をさせるソリューション。そうした企業で働く人にとってはあ、顧客企業のビジネスを理解するのと同時に、顧客企業の担当者をひとりの人として理解する必要がある。ディズニーとおなじように、顧客企業に商品、サービスを提供する人にとっても顧客企業の担当者に"夢"を与えることが成功の秘訣じゃないだろうか。ディズニーとの違いを、しいていえば、それがビジネスに関連した"夢"だというくらいのものだ。それはむしろ大した差ではない。顧客満足ということを本気で考えれば、このあたりの感覚が微妙だが、とても重要な気がする。いかがだろうか?さて、今日の締めは、こんな言葉で。 わたしたちは人にその本当の価値に見合ったものを支払うことが できるはずもないのに、ときには、できるようなふりをする。 基本給のほかに奨励給を支払い、何でも金銭を基準に彼らの価値を 測ろうとする。 だが、本当に人のことを考えているなら、人間の価値の尺度を 報酬という金銭だけに限定してはいけない。 個人の価値を測るときには、その人がまわりの人たち、配偶者や、 子供や、同僚や、製品のユーザーや、指導やサービスを受ける人たちにとって、 どれだけ大切な存在で、どれだけ役に立っているかということも重要になる。 『企業のすべては人に始まる ―サービスマスター・社員の成長に献身する会社』 ウィリアム・ポラード著より。
2003年05月20日
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満足度の向上は、不満足要素の削減と、集中的な満足要素の提供により、実現される。ようするに、不満足要素の削減:満足度マイナスの要因満足要素の提供:満足度プラスの要因というわけで、この両方を行なわなくては満足度は向上されない。さて、そんなことを考えているとき、『サービス・マネジメント』という本の中で次のような記述を発見した。顧客の苦情対応に関する、eサティスファイ・ドットコムによる発見○不満を持った顧客の96%は、企業に対して何も言わない。 一般にクレームが1件あると、問題を抱えた顧客が他にも 24人存在することになり、そのうち6件は深刻な問題なのである。○苦情を訴えた顧客は、たとえその問題が十分に解決されなった としても、苦情を訴えなかった顧客よりも、その企業と継続的に ビジネスをしようとする傾向がある。○苦情を訴えた顧客の54~70%は、問題が解決されれば再びその企業と ビジネスしようとする。特に問題が速やかに解決されたと顧客が感じる ときには、その数字は95%にまで上昇する。○企業とのビジネスに問題があると感じた顧客は、平均9~10人に その事実について話す。特にその13%は、20人以上にも話をする。○クレームを訴え、問題が解決された顧客は、業界にばらつきがあるが、 平均5~8人の人にその事実を話す。○問題を解決しようとして成果が得られなかった顧客は、その悪い経験に ついて8~16人の人に話をする。苦情の対応(顧客不満足に対する対応)は、顧客のロイヤリティ(リピート)につながるかという問題だけでなく、それ以外の顧客(潜在顧客)に対しても影響をもつことが上記からわかる。『サービス・マネジメント』という本は、「真実の瞬間」が管理されないまま放置されると、サービス・クオリティは「ありきたり」なものに陥るというコンセプトを中心に書かれた本だが、「真実の瞬間」の管理に際しては、不満足要素の削減と集中的な満足要素の提供という考え方が非常に重要になると感じる。特にどんな「満足を提供するか」ということは戦略的かつ計画的に考える必要があるし、それが結局は、ドラッカーのあの有名な問い、「われわれの仕事は何か」の答えになるのだろう。
2003年05月19日
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バンビがいま読んでいる『マーケティングゲーム―世界的優良企業に学ぶ勝つための原則』(エリック・シュルツ著)という本に、マーケティングにおける、商品・サービスの戦略的コンセプトの要点として、以下のようなポイントが紹介されている。-------------------------------------------------■戦略的コンセプトのABC Audience:ターゲット消費者 Benefit:消費者便益 Compelling reason why:説得力のある「信じる理由」-------------------------------------------------ようするに、マーケティングにおいては、 ・誰に売るか? ・何を売るか? ・何故買ってくれると思うのか?という3つの視点が重要になるのだが、この戦略的コンセプトのABCでは、「誰に売るか?」をAudienceによって表現し、「何故買ってくれると思うのか?」を、BenefitとCompelling reason whyによって表現し、そこから、もう1つの視点である「何を売るか?」の回答を導き出そうとするものだといえる。この考え方は、商品・サービスを設計、開発する際の根本的思考において、すごく便利だと思えるし、また、その商品・サービスを顧客コミュニケーションにより、販促を行なう際にも便利で有益な考え方だと思う。顧客コミュニケーションにおいて、どのような表現をするかに関わらず、この戦略的コンセプトのABCの要素が、わかりやすくそのコミュニケーションに含まれていなければ、成功はおぼつかない。また、はじめにこれを考えておくことは、実際の業務がはじまってしまえば、具体的なコミュニケーション表現をどうするかという細かい日常的業務におわれてしまいがちなビジネス環境のなかでは特に重要な意味をもつ。さらに、この日記では、何度も書いているが、顧客に対するエクスターナル・マーケティングと同様の重要性をもつ、社内あるいは社外パートナーに対するインターナル・マーケティングにおいても、はじめに戦略的コンセプトが存在するということで、個々の業務の実行フェーズにおいて、ズレが生じにくくなる。この戦略的コンセプトのABCは、マーケティングにとってごくごく基本的なことだと思うが、すごくわかりやすくまとまっているツールなので、実務レベルでマーケティングをやっているときには、常に意識することができて、非常に便利だと思う。みなさんもぜひ活用してみてください。
2003年05月15日
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企業活動において、情報をうまく使うことは、大きなウェートをしめている。当然、情報の伝達には双方向性が必要だと思う。だが、双方向性ということをより深く理解するためには、そこには送信側と受信側がそれぞれいることを考えなくてはいけないと思う。送信側の行なうことは、情報の開示、伝達、理解促進である。これを特定の受信側に対して送信側は行なう。この「特定の」というのがまず重要な要素である。誰に対して、情報の開示、伝達、理解促進をするのかが明確になっていなければ、その試みはまず失敗する。受信者を特定できてはじめて、情報の開示、伝達、理解促進が成功するか失敗するかを議論できるのであって、特定ができていなければ、議論するまでもなく答えは必ず、失敗だといってよい。なぜ受信者を特定しなければいけないかといえば、情報の開示、伝達、理解促進するためには、受信者がどんな情報を受け取れるかが重要だからだ。そこにはプロトコル(慣習、手続き)があらかじめ存在しなくてはならない。聞き手は基本的には自分の知っていることしか聞くことができない。送信者は受信者の知らないことを教えるのではなく、受信者の知っていることを頼りに、別のことに気づかせる。情報の開示、伝達、理解促進というのは、ひとつのものをA地点からB地点に移すのとは違うのだ。むしろ、あらかじめB地点にある素材を用いて、A地点と同様(またはそれに値する)のものを新たにB地点に構築することをいうのだ。多くの場合、この理解に関して間違いがある。だから、相手に伝わらないし、理解してもらえないのだ。B地点に何があるのかがわからなければ、何も伝わらないし、何も理解してもらえない。それをA地点にいる多くの送信者はわかっていない。情報の開示、伝達、理解促進。それは単なるおしゃべりとはまったく別のもののことを言う。
2003年05月14日
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