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2018、4、8去年の春に学校を卒業してから始めたことの一つに、長居にある障害者スポーツセンターに通っていることがある。以前にも述べたが、学校三年間では体育の授業があり、週に一度結構きつい運動をすることで、なんと三年間通して風邪を引かなかった。この体育のおかげで、2月の寒い日に行われた国家試験にも万全の体調で望めた。それでこれは卒業しても是非とも運動を続けなければならないと思い、スポーツセンターに通うこととなった。この施設にはプール、ボーリング、バレーや卓球などのできる体育館、トレーニングルームなどがあり、上の階には食事のできるラウンジもある。ここは障害者のための施設なので、障害者手帳があれば無料で利用できる。僕はいつも入り口の受付でカードを提出し、トレーニングルームへの通行所を発行してもらって、ロッカールームに向かう。トレーニングルームにはかなり多くのマシーンがあって、体育大学を出た専門の若いトレーナーの先生が常駐している。周りを見ると「この人どこが障害者やねん」と思えるような人ばかりであるが、中には知的障害を持った若い子たちもいる。僕はいつもまずマットの上でストレッチングを行ってから、ルームランナーに乗って30分ほど走る。その時よく隣のルームランナーで走る、軽い知的障害を持った10代後半ぐらいの男性と一緒になる。彼はいつも何やら英語のポップスを大きな声で歌いながら機嫌よく走っているのだが、かなり早いスピードで延々と走る。横で僕がへとへとになっても、彼は一向息も切れる様子もなく、楽しそうに歌いながら走る。僕がルームランナーからトータルボディーというマシーンに移ったり、腹筋代やスミスマシーンを終えても、彼はまだ走っている。ものすごい体力である。パラリンピックで金メダル、銀メダルを度々取っている有名な全盲のランナーもここでよくトレーニングをしている。我々はルームランナーで時々隣通しになって、足音を揃えて走ることがある。もちろん彼についていけるものではないが。彼が先にマシーンを降りる時に一度「お疲れ様」と声を掛けてもらったことがある。僕たちが卒業するときに同時に退職された理療科の先生もここでトレーニングされていて、よくご挨拶をして軽い世間話をする。去年開催された「森の歌」の演奏会でもバスパートで合唱に参加下さり、在学中我々はこの先生から鍼実技の手ほどきを受けた。我々がトレーニングの手を止めて話し込んでいると、トレーナーの先生がやって来て「お二人はどういう関係なんですか?」と尋ねられる。「この方は僕の鍼灸の恩師なんですよ」と僕が説明すると「茶木さんは僕の音楽の恩師なんです」と先生が説明される。「良い関係ですね」とトレーナーはしみじみ言う。
2018.04.08
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2018、4、2毎週木曜日の夜にCAC混声合唱団の活動を行ってきたが、森の歌演奏会に参加して下さっていた方々により、土曜日の夜に新しい混声合唱団が立ち上がり、そこにCAC混声合唱団の方々が合体して「Chor Einsatz大阪」という新しい団となって、2018年から活動を始めている。と同時に京都、奈良でもChor Einsatzが立ち上がり、奈良では学園前西部公民館(第一土曜日15時から・第三木曜18時半から・第四土曜日10時から)、京都では堀川高校(第ニ金曜日19時から)で練習を開始している。CA声楽コンセルヴァトワール主催の「アンサンブル演奏会」が来る7月7日に豊中のステップホールにて開催されることとなっているので、そこへの出演のために今猛練習中である。「アンサンブル演奏会」ではちょっと色気がないので、今演奏会のタイトルを考えているところである。Chor Einsatzは大阪、奈良、京都と三か所合同で7月7日には舞台に初出演を果たしたいと思っている。Chor Einsatzでは団員大募集中であるが、不思議なことに男性が結構充実していて、女性、特にアルトパートが不足している。是非皆様の参加をお待ちしています。各会場で練習見学も可能です。お問い合せ:090−6900−6744
2018.04.02
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2018、4、1阿波座のCA声楽コンセルヴァトワールのスタジオにて、鍼灸院も開業したわけだが、一般の患者様に加えて、歌い手さんたちの声のケアとしての治療も手掛けて行きたいと考えている。声楽の世界から鍼灸院になったというような者はそういないだろうから、僕が舞台に向けてコンディションを整えるために鍼灸に信頼を置いてきたように、今度は歌い手さんの立場に立ってコンディションを整える仕事をしていきたいと思っている。声に対する治療としては、まず上に上がってしまった気を下腹部に下ろして安定させる。首や肩の凝りの原因のほとんどはこの逆気なので、これで上半身も解れる。横隔膜を柔らかく上から下まで運動することを助けるツボがあるので、そこにアプローチする。これがうまく行くと呼吸運動が促進されるので、CO2を充分に排出し、酸素をたっぷり取り入れることが出来るようになり、毛細血管でのガス交換が促進され、美しくなった血液を静脈が心臓にたっぷりと運ぶ。これは糖尿病の人にもとても大事な治療となる。同時にこのツボは、何かに向かって躍進する活力、根気、目的を成就させるねばりを司っている。と同時に、取り入れた水分を充分に粘膜に行きわたらせるためのポンプを力付ける。これによって喉が潤い、冷えが解消される。という風に多くの効能を秘めた名穴だ。歌い手さんが舞台に向かって必要とすることは、気持ち自体がストンとあるべきところに落ち着いていること、舞台を乗り越えるための活力、喉の潤い、柔らかく充分に横隔膜が運動できること、声帯を動かすための筋肉の働きを阻止するものを除去する、風邪を引かない体を維持する、何よりも健康を維持する、というようなポイントであろうか。ドイツの言葉に「Saenger sind Gesundesmaensch/最も健康な人々、それが歌い手」というのがある。結局歌い手が声のためにコンディションに気を配るということは、生きるための健康を維持するということだから、彼らは最も健康な人々、という意味である。
2018.04.01
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2018、3、21鍼灸の国家資格を取り、学校を卒業してから一年が過ぎた。その間修行を積んできた治療院で多くの患者様に関わって来たが、この度自分の治療院を開業することとなった。場所は今まで続けて来たCA声楽コンセルヴァトワール阿波座スタジオの空いている時間を利用して行う。治療ベッドを初めとして、治療院開業に必要なものをいろいろ買揃え、都道府県知事に開業届を提出し、保健所からの臨検検査を受けた。HPやチラシの製作も進めているところである。もう何人かの方をここで治療した。少しでも皆様のお悩みの症状を軽減していければ、これに勝る幸せはない。音楽共々、医療従事者としての魂も根強く自分の内側に育ち行く実感がある。音楽、特に声楽と医療、特に鍼灸との間には、意外に共通点があって、そういう点で僕にしかできない音楽と医療の補い合いのようなところを探って行きたいと考えている。今までどういった症状にお悩みの患者様を手掛けて来たかというと→●風邪を引いた●風邪が治っても咳が残って収まらない●女性の更年期障害にまつわる様々な問題(ホットフラッシュ、夜眠れない、いらいらする、頭が痛い、他)●花粉症で鼻と目が辛い●腰椎椎間板ヘルニアの痛みで夜が眠れない●ぎっくり腰●不眠症●肩、首の凝り、目の奥の違和感●腰、膝の痛みその他、もっと様々な症状に対応可能ですので、ご遠慮なくご相談の電話を下さい。例えば、私が修行を続ける流派では外には見えない体の内部の健康を整えて行く完全経絡治療ですので、それが不妊のお悩みを解決してしまう例も多いようです。※歌い続けて来た僕が新しく鍼灸の世界に足を踏み出す中で、是非行っていきたい治療に、声楽を志す方々のケアがある。舞台で活躍されている方、合唱をされている方、その他趣味で声楽を習われている方など、声のお悩み、ステージに向けての喉と体調の管理のことなど、鍼灸で出来ることで全力でサポートいたします。●何だかずっと声の調子が悪い●歌うと喉の乾燥が気になる●腹式呼吸での深い呼吸ができない●歌うとすぐ声が枯れる●ステージ本番に向けて、体調を万全にしたい他「茶木鍼灸院」の詳細情報を下記に記します。お気軽にお問合せ下さい。※※※※※※ 茶木鍼灸院新規開業!※体の総合的な健康状態を整えることによって症状を改善していく、完全経絡治療。肩凝り、腰が痛い、膝が痛いというお悩みだけではなく、不眠、不妊、長く続く咳、更年期障害にまつわる様々な問題にも、改善に向けて全力でサポートいたします。他にも気楽にお悩みの症状をご相談下さい。●茶木鍼灸院所在地〒550-0005 大阪市西区西本町2-4-8CA声楽コンセルヴァトワール内●アクセス地下鉄中央線・千日前線「阿波座」駅下車 1番出口より徒歩3分地下鉄四つ橋線「本町」駅下車 24番出口より徒歩7分●お問い合わせ090-6900-6744(茶木敏行)●営業時間年中無休、完全予約制10:00〜20:00(受付終了)●料金¥5000(治療時間は約1時間半)【下記の場所にて出張治療も行っております。ご希望の方はお問い合わせ下さい】河内長野:〒586-0084 河内長野市旭ヶ丘34-16京都:〒606-0902 京都市左京区松ヶ崎桜木町12-2
2018.03.21
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2018、2、19先日インフルエンザに見舞われた。何年も床に臥すということがなかったので、ほんと久しぶりに熱に苦しんだ。いつものようにスポーツセンターに行ってマシーンンを使ってトレーニングをこなし、ルームランナーの上で30分ほど走ったら胸の辺りがゼイゼイして、ああまたやり過ぎたか、と思っていた。普通数時間でその違和感も消えて行くのだが、この時は次の日になっても消えずそのままそこから炎症が広がって行き、熱が出始めた。今から思えば鼻や喉の粘膜から感染したのではなく、肺門に近い気管支でウィルスの感染が起こったらしい。だから喉も全く痛くないし、さほど鼻水も出なかった。8日から気管支に違和感が出て、10日の夜には布団にくるまれていてもブルブル寒さに震えた。これは「セットポイントが上がった」というのだが、我々の体温というのは常にセットポイントによって一定に保たれている。不通なら35・6度ぐらいのところにバーが設定されている。何かしら敵が体内に侵入した場合、免疫が 反応して倒す武器として用いるのが熱である。大概の菌やウィルスは熱に弱い。急に体温を上げて敵を死滅させるのである。いくら暖かくしても寒さでブルブル震え歯をガチガチ言わせるのは、体が突然セットポイントを上たことを意味する。熱を上げて敵に攻撃を加えるぞ、ということだ。セットポイントのバーが高いところに上がるということは、本人の体温感覚は低いところに置き去りになるということで、ものすごい寒さに襲われるということになる。本来はそれに過剰に反応して、すぐ熱を下げる薬など飲むのはよくないかもしれない。薬の力ではなく、自分の熱でウィルスを倒すことができれば、それだけ体は強くなる。潜在的な癌細胞もその時に死滅するとも言われている。ただ、高すぎる熱はやはり危険である。脳炎や目、耳の機関の後遺症の危険なども伴うから。どうだろう、やはり9度が目安になるだろうか。でもその人の体力、ウィウルスや菌の種類にもよるので一概にそうは言えないだろうが。今回は丁度連休だったので、病院にも行けず薬は一切飲まなかった。だから症状から見てインフルだと自分で判断しているだけで、本来はどうか分からない。熱が下がった後は腰が痛んで動けなくなった。3日ぐらいするとそれも消えて行った。運動さえしていれば風邪菌にもインフルにも打ち勝てるという僕なりの神話は、これで消えた。
2018.02.19
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2018、2、15京都の者が「どうぞお上がりやす」と言ったら上がっちゃだめ、とか「おぶ食べてお行きやす」と言われて「それじゃいただきます」と腰を据えたらえらいことになるとか他府県で悪口を言われているというのは、京都を出て初めて耳にした。でも現代そんなやつはいないだろう(笑い)。僕が人類文化比較論の観点から見分したところによると(笑い)、パリ、ロンドン、ローマ、イスタンブール、アテネ、京都のように以前一度華やかに栄えた町に昔から代々住み続ける子孫たちは、プライドが高く、他人を見下ろしていないと生きていけない、という者がいるようだ。人間が一旦持ってしまったいやなプライドは、家の中でどんどん子や孫に受け継がれて行くということだ。怖いものだ!他府県での京都への陰口のような内容は今としては誇張になるが、でもまあちょっと独特なプライドみたいなものは未だ内に持っている人もいるのかもしれない。東京人と京都人がなにやら似ているのもそういう理由かも。「家の中で脈々と受け継がれるメンタリテート」というものは、やはり一人の人間を作り上げる最も大きな要素になるから。もしその家系の悪いメンタリテートを断ち切りたいと思うなら、どこかの時点で誰かが子を儲けない、と決断しないといけないぐらいの強い伝達力を持っている。その上、京都という町は古来から女性がイニティアシブを取ってきた町である。逆に言えば男がとにかく頼りないのだ。今の京都の若い男の子たちはどうか知らないが、僕らのころでも女の影に隠れていないと生きていけない、というような男ばかりであった。それによって男通しの陰険さよりも、女通しの陰険さが町の風潮のようになって行ったのかもしれない。だからこそ女性の細やかさや優しさ、思いやりもそこに根付いている。現代ではどの町でも他府県との混血が盛んで、京都でも純血が減って行ったことで、悪いプライドみたいなものも少しずつ消えて行っていると考えられる。
2018.02.15
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2018、2、14頑固と意固地の違いについて考えることがある。僕は昔から頑固と言われることが多い。でも意固地の結果に頑固になっているとは思えない。世の中の常識や暗黙の了解や足並みを揃えることを重んじるこの国の大きな流れの淵でふと足を止め、自分の頭でものを考えようとすると「頑固者」と罵声を浴びるような気もする。今「天と地の守り人」という守り人シリーズの最終章を読んでいる。最初に11歳のチャグム皇太子の用心棒をバルサが引き受けたことから、ずっと彼との関わりが続く。その中で何年も合わない時期などがあり、父の帝に疎まれて、命を狙われ国を追われたチャグムがいろんな国を旅して、皇太子には考えられない下働きなどもしながらなんとか命を繋いで、我が国衙他国から攻められることを防ぐために他の国への同盟を希望して、一人で画策に走り回ることが描かれている。今読んでいる最終章ではバルサとチャグムが5年ぶりに再開して、再びバルサがチャグムを守りながらバルサの故郷の国王に同盟を嘆願するため旅をするのだが、5年ぶりに再開したチャグムは16歳、抱き合った相手はもう男の子ではなく、立派な男に成長し、バルサは自分よりはるかに背の高い青年の大きな腕に抱かれている、というシーンがある。5年前にバルサと別れるときに「いやだ、僕は皇太子なんかになりたくない、バルサとずっと一緒にいたい!」と泣いていた少年は、今は自分の国の民を何とか自分の手で他国の侵略から守りたい、という強い思いから信念を持って バルサの諭すことにも首を横にふるような頑固さを備えている。でも子供のころからずっと持ち合わせている「誰も死なせたくない、誰も血を流さず平和に生きて行く世を築いて見せる」という、皇太子としては優しすぎる心を持ち合わせている彼は、火事の中で自分を狙う死角をバルサが倒した後も、バルサが止めるのも振り切って火の中に飛び込んで敵を救うという青年。「誰も傷つけずに自国を救うなんてことは誰にもできやしないよ」というバルサの言葉にも「いや、まだ道はあるはずだ、私はそれをやってみせる!」ときっぱり言い切る彼をバルサは何も言わずに、彼のまぶしい成長に目を細める、というシーンンもある。信念を持って自分を信じて目的に突き進む力は、周りからは頑固と見えるかもしれない。それと意固地とはまた違う。女性ではる上橋菜穂子さんが描くチャグムの像は、全女性の憧れる青年ではないだろうか。大人たちなら簡単に諦めてしまうことを「できるはずだ」という思いで諦めずに乗り越えようとするこの青年の背中に、僕ですら心を奪われそうになる。
2018.02.15
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2018、1、17今まで明治の文豪たちの作品ばかり取り上げて、自然主義たるものの流行りのものばかり続けて読んでいた。今まであまり手を付けていなかった樋口一葉のものに至って、たけくらべはまだよかったにしてもその他の作品でとうとうくじけて途中で本を閉じてしまった。彼女の描く下流階級の生活を舞台としているところにはとても引かれたのだが、何のストーリーの起伏もなくだらだら進む話にとうとう根気がなくなってしまった。これは彼女の作品に限らず、自然主義に反発を表明していた谷崎潤一郎でさえよく似たものだった。このころの海外の作家からの影響だろうと思っていたが、まさにその現実的な日常をだらだらと紙の上に書き並べて行くことが、読み終わった時に知らぬ間に読者の胸に刻み付けられる、というのである。最近読んだだらだら小説では、徳田秋声がその最たるものであった。そしてこの間から突然現代作家のものに手を出した。上橋菜穂子の「精霊の守り人」というものである。これは今NHKのドラマにまでなっているので、多く知られているファンタジー作品であろう。そのような流行りのものを読むのは僕の趣味には大きく反するが、きっちりはまってしまっている。何しろどこを読んでも退屈させられるということがない。そのことが良いのか悪いのかは分からないが、たいした才能ではあると感心させられる。それにこういう架空の世界と、そこに渦巻く人々の心模様を描くには、相当いろんなことを勉強する必要もある訳で、そのことにも感心しながら読み進めていた。「精霊の守り人」を読み終わり、今その続き物である「闇の守り人」に取り掛かっている。でもこれらの流行り小説にも注意して読んでいると、作家の思念やメッセージや問題提示が見え隠れしている。それがなければ、ただの格闘マンガになってしまうだろう。まあとにかく気分を変えて、しばらくこのファンタジーを読んでみることにする。
2018.01.17
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2017、12、14去年で言うと、国家試験の追い込みに入っている12月である。全くあっという間の一年が経とうとしている。音楽の活動でばたばたしているうちに、すでに9か月ほどが過ぎた。目標である開業もまだ滞ったままで、務める場も未だ見つかっていない。それにはそれなりの理由があるのだが、まあとにかく修行の方だけはどんどん続いて、まあカメの歩みではありながら確実に前に進んでいるようである。今は21日、23日に控えている舞台本番に向かって、地道な練習と体調管理を気にしている。週二回スポーツジムに通うことも続いて、それが体調を維持する大きな要因となっている実感がある。後は風邪が体に入ったらいち早く察知して、即座に自分で鍼治療によって除去することも行っている。修行に入っている治療院の方では、歌い手さんが本番前に体調を崩されて駈けこんで来るケースも、おそらく冬だからだろうか多くなって来た。将来は歌い手の体調管理、舞台本番を健康に迎えるケアを行いたいと希望しているので、大変嬉しいことである。そのようにして2017年が過ぎていさこうとしているが、来年は望んでいる方向にグンといろんなことが前に転がり出す春になればいいと願う。
2017.12.14
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2017、12、5「最近日記、さぼっておられますね」と先日知り合いに言われ、「いや、本当だ!」と心ずいたようなことである。12月は第九、お座敷の仕事、それから23日のサロンコンサートと、歌う機会がたくさんある。お座敷の仕事というのは「茶木さん、あなたここへ来てちょっと歌いなさい」とお声がかかって、ミニリサイタルみたいなことをやる仕事を「お座敷がかかった」というのである。三年間歌うことから遠ざかっていたからこそ、歌わせていただけるというのは本当幸せなことであると感じることができる。何故なら僕の歌を聴きたいという方が居なければ、我々の演奏というのは成立しないのであるから。そして責任もそれだけ重くなる。とにかく年内は風邪を引けない。でも最近は便利で、修行しているおかげで、自分で脈診して風邪引いたかどうか調べることができる。風邪引いた、と意識するのは、もうかなり病状が進んだ状態なのである。風邪の症状が現れるまでには、何段階かのミスを重ねているものなのだ。脈診によって、風邪の一番表症、いわゆるまだ症状として表れていない段階を知ることができ、その時点で処置すれば容易に風邪を撃退させることができるのだ。それで最近は電車の中、ホームの上、エレベーターの中など、所かまわず自分で脈診しているので、さぞかし周りは変な目で見ていることだろう。それに大勢での会話の途中などで話題が怪しいところに行こうとするときや、手持無沙汰のときなど、必要がなくても脈診して、会話の外に出たような態度を示すこともできる。とても便利である。12月23日(土・祝)午後2時半より、阪急芦屋川で行うサロンコンサート「禁じられた風節」のチケットが未だ売り切れていない。今回この演奏会の企画として、時期と場所でしくじったようである。いつも僕の演奏会に来て下さるお客様は、大阪、奈良、京都の方々で、神戸の方はほとんどおられない。あまり神戸まで行慣れておられない各地の方々は、とても遠いと感じられるようである。それに12月23日という日時。調査によると、主婦はもうこの辺りになると気が焦って、暮れの仕事に追いまくられる強迫観念に迫られるようである。しかし実際にはこの日一日で何をするという計画もないのだが、とにかく差し迫ってくるという脅迫が彼女たちの気を焦らせ、そんな時期の演奏会に出かけていられるものではない、と思ってしまうらしい。よい教訓であった。皆さま、まだチケットはございますので、是非お越しください。今回はイタリアカンツォーネ、日本歌曲、ドイツ歌曲、それにオペラアリアと二重唱もソプラノにお手伝いいただいて演奏します。この歌劇「トスカ」の二重唱は濃厚な愛の二重唱であって、少し演技も付けてやるので何やらちょっと照れくさいのですが、まあこういうアンサンブルも久しぶりのことなので、精一杯楽しんでみたいと思うのです。足をお運びさえ下されば、たっぷり楽しんでいただけることと自負しておりますので、よろしくお願いいたします。
2017.12.05
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2017、10、27学校三年間在学中の週一回の体育の授業のおかげで、三年間風邪を引かなかったという話はすでに書いた。その教訓から、卒業後もスポーツジムに通っている。そんなところに通うのは生まれて初めてのことである。通い始めてもう半年ほどになるのではないだろうか。ロッカーで着替えてからまず準備運動とストレッチングをマットの上で行い、その後ウエイトのマシーンで筋肉トレーニング。その後に有酸素系のいくつかのマシーンを使う。大体ジムに滞在している時間は1時間半から2時間である。始めたときの目標は、無理をせずに長く続けること、筋肉をトレーニングするのではなく、有酸素運動が主なる目的であること、運動をすることで体調を維持することを主眼とする、などである。そう苦しいプログラムではないので、最初はあまり効果のようなものは見えなかったが、半年近く続けていると、まず食べても食べても太らない。ジムから帰った日はぐったりしているが、次の日はすっきりとする。未だ風邪は引いていない。何十年抱えていた腰痛が見事に消え失せた。よく眠れる。などなど。今は週二回通っているが、いずれは一回にして長く続けたいと思っている。
2017.10.27
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2017,10、17一昨日日曜日にMSK合唱Combinare演奏会を終えた。外は例によってどしゃぶりの雨である。僕が関わる演奏会、特に主催する会などは必ずと言っていいほどの確率で雨である。本人が雨が大好きだから仕方ない。そんな中、お客様は雨にも負けずたくさんご来場いただき、開場の随分前から入り口には列ができ、一階は満席、二階もかなり入って来場率は高かった。前日リハーサル、当日リハーサルと本番通りのプログラムでかなり厳しく練習したので、本番はとてもスムーズに進み、合唱団もオーケストラもとてもシャープなきりりとした良い演奏を聴かせてくれ、大成功に終わった。もちろんこれは舞台上の人間の感想でそう思うのであって、客席で観賞する者がどう感じているかは分からない。そこにはホールの音響の良し悪しも左右するし、初めて耳にする作品が、お客様にとってどう受け止められるかという、曲に馴染んだ関係者には分からなくなってしまっている感覚の問題もそこにある。まあでもそんなことを言い出すと切りがないので、とりあえず自分たちが良しとするものをお客様に提供するしかないのだ。一部のカバレリア・ルスティカーナと、二部の森の歌の組み合わせもとてもよかったのではないかと思っている。そこには特に表面的な内容の繋がりはないのだが、それだからこそ押しつけがましくなくよく合う。前日リハーサルの時に指揮者の高谷氏と僕の間で下記のような会話があった。「茶木さん、アンコールがないですね」「そうですね、でも今からじゃどうすることもできないし、最後に我々二人で出て行って挨拶でもしますか、それとも森の歌から一曲何かやりますか、まあそんなの不細工だけど」「いや、そんなことないですよ、やるとしたらやっぱり5番ですよね」「そう、やるとすれば5番しかない」「やるかやらないかは最高司令部として茶木さんが決めて下さい、やると言われれば僕がすべてお膳立てしますよ」「え?僕が決定するの?分かりました、やりましょう」ということでアンコールに森の歌5番(若者たちは前進する)が演奏されることとなった。当日リハーサルが終わって、楽屋で、バスのデニス・ビシュニャ氏にそのアンコールの話をすると、彼は下記のように提案した。「森の歌5番を客席の皆さんにも歌っていただきましょう」高谷氏はそれを聞いて「デニス、それは無理だろう、皆その曲は今日初めて聞くんだから」「いや、お客様が歌えるところが一つだけある」「え?どこ?」「ヘイ!という合いの手だ」それでマーチであるこの曲のオーケストラの間奏の最後に三回「ヘイ!」と声を張り上げるところが作れるので、それをデニス氏の指導でお客様に何度か練習いただくこととした。デニス氏は「このヘイは平和のヘイだ」と言った。我々が日本で口にする平板な口先だけの平和ではなく、彼の国ウクライナを取り巻く問題に深く胸を痛めているからこそ出るヘイであった。舞台入場寸前のデニス氏のアイデアで、高谷氏はオーケストラとの打ち合わせに右往左往していたが、でも何だかおもしろいわくわくするアイデアに皆興奮していた。舞台上でデニス氏のリードによりお客様との練習があり、高谷氏は振り出す前にオーケストラに向かて「テンポ早くするよ」と小声で言った。コンサートマスターの女性が「えー!」と嘆きの声を上げたのが聞こえた。この曲はただでさえ恐ろしく早いテンポなので、オケは大変なのだ。猛スピードで曲は進み、客席からはデニス氏の指示で「ヘイ!」の掛け声がすごく元気に会場に響き、オケは若干崩壊しかけながらも緊張感に溢れる演奏を繰り広げ、もちろん合唱団はのりのりでばっちり。会場が一体となって会は終了した。三年間鍼灸の学校に通い音楽活動を休止していたので、僕としても久しぶりの舞台に帰ってきた懐かしい思いがした演奏会であった。
2017.10.17
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2017、10、139月の初めにワイファイが壊れ、先日要約新しいルーターが来て、久しぶりにネットに繋がった生活に戻った。電波に支配された我々は、誰かの巻き起こす巨大な渦に抗う術もなく飲み込まれる哀れな小さな虫のようである。そのようにして不便な一か月の中で、10月15日(日)の演奏会の準備の大事な用事も出来ないまま日が過ぎ、二日前を迎えている。奈良県文化会館国際ホールにて、NSK合唱Combinare主催「森の歌演奏会」。一部にはマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の合唱曲をお届けする。去年の10月から練習が開始され、もう一年?驚くべく光陰矢の如し。僕は2月に国家試験を潜り抜け、三月に学校を卒業し、卒業式の後に謝恩会、その夜はオールナイトでカラオケ。何十年やったことのない徹夜でぼーっとした頭の儘朝6時に解散。そのまま女声合唱の指導に出かけ、その帰りに地下鉄のホームの上から線路に転落し肋骨を三本折、一か月ほど唸った。えーっとこのことは以前ここに書いたっけ?まあそんななんやかんやで、練習に参加したのは約半年間。いろいろ変化に飛び、試験に立ち向かう辛いこと、楽しいこと、痛いことと目まぐるしかった一年だった。そんなことを言うと年末みたいだけど、10月から10月までを振り返るとそうである。さて、明日は現地ホールでのリハーサル。朝早くから奈良に向かう。
2017.10.13
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2017、9、209月に入ってすぐ携帯が壊れて、買い替えざる負えなくなって、この機会にとうとうスマホにするかと意気込んだが、今のままガラ系とワイファイで行くのと、アイフォンでテザリングで行くのと見比べるとやはりガラ系とワイファイで過ごす方が安く済むことが判明し、新しいガラ系の携帯を買うこととした。そうこうすると突然ワイファイが壊れ、これは買い取りだったので直すとなると3万かかると言われ、契約更新期間の10月まで待つようにとOCNのお姉さんに指導を受けた。ということで9月中ネットワーク不通で過ごさねばならないこととなったのである。今ライトハウスに来て、有線ワイファイでこの文章をブログ掲載しようとしている。一旦ネットワーク不通となると仕事にならず、ブログも書けず、サピエ(視覚障害者用のネット図書館)からの小説のダウンロードもできず、世間から完全に切り離された心持ちがする。電波に支配された現代人の哀れな標本である。ということで、10月まで日記は書けないかもしれない。もしくはこのようにライトハウスで書く機会が得られるかもしれない。どうか悪しからずご了承を乞う次第である。
2017.09.20
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2017、8、27今朝8時前であろうか、ふとラジオをつけるとAMのNHKで、戦時中京都にも爆撃があったということから、視覚障害を持つ若い女性がその足跡を辿るという番組をやっていた。京都という町は重要な歴史的建造物が多いことから、我々はB29の爆撃はなかったと聞かされてきた。しかし実は五回にも渡って中心部の西陣織盛んだった地区に空爆があったという。ある店ではその爆弾の破片を今でも保存していて、レポーターの女性はそれに手で触れて、当時の爆撃の恐ろしさを垣間見ていた。このレポートを行っている女性は、20歳の京都外国語大学三回生で、全盲である。彼女のレポートの目的としては、当時戦禍の中、視覚障害を持った者はどのような境遇にあり、どのように過ごしていたかというところにあるようであった。彼女の声はまだあどけなさの残る可憐でかわいいそれであったが、語る内容や、インタビューの内容、レポートのまとめ方などは見事で、放送局のアナウンサーも顔負けという地に足のついたものだった。自分が何を知りたいか、人々からどのような話を引き出したいかを心得た、いかにも頭脳明晰な若者である。まず彼女がインタビューしたのは、90歳の全盲の女性。90歳とは到底思えない若々しいその女性の声は、京都の真ん中に落ちた爆撃の後の大きな穴のこと、報道では「負傷者なし」とされたが、実は数人の死傷者がいたこと、皆がそれぞれお国のために役立つことを念頭に置いて日々を送っていた当時、視覚障害者がどれほど役立たずの厄介者として卑下されたかを語った。その次に当時の視覚障害者に関する資料や道具などを見せてもらうために、彼女はある男性を訪ねる。そこでラジオに登場した男性というのが、僕の京都府立盲学校中学部での国語の先生であった。声には当時の面影はあまり感じられなかったが、紛れもなくその先生である。無理もない、何十年という膨大な月日が流れているのだ。その次に彼女がインタビューしたのは82歳の男性。京都府立盲学校理療科で定年まで勤務し、今は京都市内で鍼灸院を経営しておられるという紹介があり、名前を聞くとこれまた懐かしいよく知っている先生。僕は高等部卒業と共に音楽の方に進んでそこを離れたので、理療科のその先生の授業は受けたことはないが、当時意気揚々とされていて、少々上から人を押さえつけるような物の言い方がある先生だったので、理療科のおにいちゃんたちと大きくぶつかって、はでな喧嘩が繰り広げられていたのでよく覚えている。宮津出身の先生は、港に停泊する日本の軍艦を狙ってB29が爆撃を始め、たまたまその辺りで遊んでいた先生を含む10人ほどの子供にも爆弾の破片が飛んできて、隣にいた友人が即死したことを語った。この先生も全盲であるが、とにかく力強く前向きな方で、おそらく子供のころから視覚障害など物ともしないやんちゃぶりだったのだろうと想像された。今朝は思わず懐かしいお名前とお声を耳にして、遠い遠い京都の盲学校時代のいろんな記憶が蘇ったひと時であった。
2017.08.27
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2017、8、23昨日夕方、部屋でマグカップに紅茶のティーパックを入れて、熱湯を注いで手を動かした瞬間にティーパックから伸びている長すぎる糸の先に付いている四角い紙に手が引っかかって、僕の左足の内側の踝の上10センチぐらいのところにペタリと落ちた。熱湯を含んだティーパックは猛烈な熱さで、急いで取り除くとヒリヒリと痛んできた。風呂場に行って水で冷やしたが、水道から出る水はまるで生ぬるいお湯のようで、これは効果はないなと思い、冷蔵庫を覗くと炭酸水が冷えていたのでそれを患部に振りかけた。後で考えると、この炭酸水というものが傷に悪い影響があったかどうか、ちょっと不安であった。冷えたことは冷えたが、何しろ痛みが和らぐまで振りかけるほどはないので、どうしたものかと考えて薬屋に向かうべく短パンをはいて外に出た。近くの馴染の喫茶店の前を通りかかると、店のママが閉店の片付けをしていたので「火傷したんです」と言って患部を見せると「ああ、それはアロエの葉を張ると一番いいんですよ」と言い、店の中に僕を座らせて、植木鉢のアロエの木から葉っぱをもぎって、それを僕の足に貼り付けてテープで固定してくれた。「薬なんか塗るよりもずっとこの方が効きます。私も商売柄よく火傷をするので、いつもこのアロエの鉢を店に置いているんです」と笑う。礼を言って部屋に戻り、一時間もするともうヒリヒリ感も痛みも消えていた。今日の朝に葉っぱを剥がし、風呂に入ると瞬間すこし痛みはあったが、今はもう擦うが叩こうが全く痛みはない。ものすごい効果だなと感心した。確かに薬を塗るよりずっと健康的で速い。しかし一体どういう理由で火傷の痛みを消すのだろう。全く不思議である。でもとにかくもし世話が難しくなければ、僕もアロエの鉢を買い求めようかと真剣に考えている。
2017.08.23
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2017、8、15演奏会のお誘いです。今年秋の10月15日(日)に、奈良県文化会館国際ホールにて、第四回NSK合唱Combinareの定期演奏会を開催いたします。この度は、ショスタコービッチのオラトリオ「森の歌」を以て奈良県の国民文化祭に参加する運びとなりました。今回は二部に演奏いたします「森の歌」に加えて、一部にはマスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」から合唱曲を二曲お届けいたします。 「森の歌」は、第二次世界大戦で焼け野原となった町に森を植林することで、自分たちの故郷を取り戻そうとする人々の復興に掛けるエネルギーと夢を描いた作品です。三拍子の魔術師と言われたマスカーニの代表作である「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、1800年代後半にシチリアの農村で実際に起こった殺人事件を題材に作られた合唱オペラですが、多くは信仰を中心に農業に従事して暮らす村人の生活が描かれており、大編成のオーケストラによる雄大で夢のように美しいマスカーニの音楽をお楽しみいただけるものと思っております。演奏会の詳細を下記に記します。当日券は出払う可能性がありますので、是非前売り券をお買い求め下さい。お問い合わせは下記の連絡先にお願いいたします。関係者一同日夜練習に励み、皆様をお待ちいたしております。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーオラトリオ「森の歌」 2017 NSK合唱Combinare[日時]2017年10月15日(日) 15:00開演(14:00開場)[会場]奈良県文化会館国際ホール 奈良市登大路町6-2 TEL:0742-23-8921[アクセス]近鉄奈良駅下車・東改札口より1番出口東へ徒歩5分[入場料]¥2,000 障がい者・サポーターペアチケット ¥2,000 子供チケット(小学生) ¥1,000※未就学児の入場はご遠慮いただきます※点字プログラムを用意いたしております※介助の必要な方はスタッフがサポートいたしますのでお申し付けください【曲目】 第1部 オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より マスカーニ:作曲 前奏曲 オレンジの花は香り 讃えまつれわが主よ 間奏曲 第2部 オラトリオ「森の歌」作品81(日本語訳演奏) D.ショスタコーヴィチ:作曲 E.ドルマトフスキイ:詩 井上頼豊/櫻井武雄:訳詩【出演】指揮:高谷光信オーケストラ:奈良交響楽団ソリスト:テノール/茶木敏行 バス/デニス・ビシュニャ合唱:NSK Combinare 合唱団児童合唱:関目東小学校合唱クラブ 城東ジュニアエコー〈主催〉NSK合唱Combinare〈後援〉奈良県・奈良市[お問い合わせ]NSK 合唱 Combinare事務局(岸本)TEL/FAX:0742-45-6386E-mail:info@nsknara.com
2017.08.15
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2017、8、14母に誘われて、満州からの引き揚げ者である80代の男性の講座を聴きに京都まで出向いた。ひと・まち交流館という公民館のような建物の畳の部屋に椅子を並べて、満杯の聴講者である。矍鑠としたおじいちゃんが出て来て話始める。彼は図書館に長く勤め、読書が大好きであるというわりには自分のことを話すのが今一つ不得手なようで、子供のころに満州で体験したことや、引き揚げて来るまでの経緯のようなものは、まるで年表を読むがごとく淡々と、且つ事実だけをさらりと語られるだけで、その時少年であった自分が何を感じたか、どのように傷ついたか、どれほどの苦悩を抱えてそれ以後の人生を送ったかなどは何も語られない。そして最後には「憲法9条を守らねば」で締めくくられる。おそらく話の流れから想像するに彼が家族と共に満州に渡ったのが6、7歳。その時異国に渡ることについての子供なりの思い、親が口にしたことなど何もなし。それからも向こうでいろいろ見たり感じたりしただろうが、それも全てすっ飛ばされた。その後敗戦を迎え引き上げる時には彼は11歳。その時どういう経緯でそうなったか全く説明はなかったのだが、彼は軍医から渡された透明の液体を一さじ病弱な妹の口に流し込んで殺害している。その時彼は何を感じたか、妹に飲ませたその一さじの液体が彼女を死に至らせると分かって行ったのか、もしくは知らずにやったのかは不明である。母親は我が娘の運命を嘆いて、そのショックから歩けなくなり病院にいたが、そこでまた彼は医者なのか軍なのか分からないが誰か大人からまた別の色の液体を渡され、それを母親に飲ませて死に至らせている。これらすべて誰かに無理矢理にやらされたのか、または引き揚げの際の足手まといとして、当時当然のように皆やっていたことなのか、そのあたりの状況も説明なし。彼の講座の後に質問コーナーがあり、聴講者がマイクを持って自分や親の戦争体験を述べて最後には誰もが「憲法9条を守らねば」で締めくくる。僕は段々うんざりして来た。もちろん皆で平和を維持することは論を待たないベースラインである。しかし僕がこの講座に期待していたことは、11歳であった彼がその時何を思い、何を決断し、どのような傷を負ったか。一人の人間の生きざまを垣間見たくて足を運んだわけで、政治的にどう動くのかはまた別の問題である。彼の眼にも止まらぬさらさらした語りの中で、いくつか「え?今なんと言った?」と言いたくなる重要な発言があった。その中の一つが、敗戦が決定された時に満州国の周りに壁が作られ、そこから日本国民が逃げられないようにしていて、日本政府は満州国に住む日本人を日本人とは見なさないと述べた。ようするに敗戦と同時に手のひらを返して、ロシア軍に対しそこに住む日本人を生贄としたのだ。しかし勇気ある三人の男性がそこからの脱出に成功し、本土に渡り、吉田茂総理と天皇に直接嘆願し、そこで初めて引き揚げが実現したのだと。これも語り手が何ら重要でもないことのようにさらりと一言語られることを僕なりに創造しながらびっくりしていたので、本当のことは曖昧跋扈としている。でもこれが真実とすると、もし三人の男性の脱出がなければ、満州国の人々はどうなっていたか、想像するだけで恐ろしい。彼は最初にこの日本国が満州国の民を生贄にしたことと、福島の原発事故を並べてテーマとしたが、ここも彼が言いたかったことを僕なりに想像すると、70年以上経っても、日本政府の腹の中は変わっていないということが言いたかったようである。とにかく痒いところに手の届かぬ語りと、彼の春の小川のようなさらさらした話し振りから、自分なりに当たりを付けて話を聞かねばならぬのとで、建物を出た時にはぐったり疲れていた。
2017.08.14
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2017、8、5プロレタリアート文学と言われている短編は、労働組合が警察に弾圧を受けたり、北海道開発でのトンネル工事での恐ろしい労働の実態などが描かれていたが、すべて事実かどうかは疑わしい。それは13日の金曜日やジェイソンよりも恐ろしいオカルトである。すべて事実をありのままに描いているとしたら、封印されて来た隔離された場所での事実の重要な記録であり、人間がどこまで他人に対して残酷になれるかを目の当たりにすることができ、それは今の我々の中にも潜在する人間という動物の正体だし、もしそれらの話が労働者の悲惨さを強調したいがために脚色を持って大袈裟に描かれているとしたら、もうこれ以上関わるべきものではないし、それはドキュメント小説としても、記録文章としても価値の全くないものであろう。ただ言えることは、大正、昭和初期の労働者の待遇は悲惨なもので、死ぬほど働いても家族がその日を食べていくことすらできなかったということだ。雇用する側から見て、会社の利益のためには他の人間の人格、尊厳をどこまで無視して、生きている他人をどこまで物として扱えるか、他人の苦しみをどこまで感じえず対応できるか、という証明でもある。現在でも動物や植物に対してそのように接しても罪とは見られない。でも僕の定義では動物や植物に愛情を注げない者は、法律、倫理や監視者がない状況の中では、必ず他人に対してもそれをやるだろう。それは人間の中で今正体を潜めているだけのことなのだ。とにかくこれらの小説を読んで思ったことは、これは小説と呼んでは差し支えるものかもしれないということである。その後僕の読書は谷崎潤一郎へと移り、初めてこの作家に触れることとなった。
2017.08.05
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2017、7、28NSK合唱Combinareの取り組みによる、第4回演奏会となる「森の歌」「カヴァレリア・ルスティカーナ」の練習も、去年の10月から始まり、後三か月足らずを残すばかりとなった。最初は「一年間もまるまる練習するの?」と思うのだけど、なかなか細かいところまできっちり暗譜となると逆に時間が足りないほどである。こんにち合唱となるとどこも男性不足であることがほとんどだが、今回の我々のメンバーでは男性が特に充実しており、その中でもバスパートは人数も多く、皆さんしっかり声を出して下さるので、ロシアの音楽に相応しい豊かな男性の声が期待できる。日本における合唱という分野は、今ちょうど80代、70代の方々が20代のころに最大のブームを迎え、若者は猫も杓子も合唱であったらしい。だから今でもお集まりいただく方の年齢層はそのあたりが一番多い訳だが、それより若い層はガタッと少なく、学生時代に合唱に関わったからと言ってずっと関わるという方も、今は少ないようである。このような状況を見ていると、日本における合唱という分野ではどんどん人口が減少し、一つのところに集中していく傾向となるようだ。いろんな団による特色というものは消滅し、ベートーヴェンの第九やモーツァルトのレクイエムのような有名なものをオーケストラとの共演できる作品を演奏することだけが、かろうじて残っていくのかもしれない。僕個人としては、詩人たちが自分の人生を精一杯文字に表した詩に、作曲家たちがこれまた自分の人生を精一杯重ね合わせたような、室内楽としての繊細な合唱がとても好きなのだが、おそらくそういったものには誰も興味を持たなくなっていくのだろう。もちろん今から40、50年前に日本でブームを迎えた合唱の背景には、当時の歌声運動や労働組合の活動も大きな要因であるだろう。だからこそ貴族からの抑圧から解放されたウィーンの人々の歓喜を歌うベートーヴェンの第九が日本で受け入れられ愛されて、そこを中心に合唱に火がついていったのではと。そこで僕の話は文学の方に傾いていくのだが、先日述べたようにこのところ小林多喜二に手を付けて、その後葉山 嘉樹、それから聞いたこともないプロレタリアートな作家たち、そして沼田流人までいってほとほと疲れてしまった。つづく
2017.07.28
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2017、7、18学校を卒業してまずやりたかったことの一つに読書三昧がある。その我慢していた欲が下水道が破れたみたいに噴き出して、時間があればずっと本ばかり読んでいる。やはり明治から昭和の初めにかけて活躍した作家ばかりに興味が向いて、夏目漱石のまだ読んでいなかったもの、菊池寛、久米正雄、樋口一葉、壷井栄、国木田独歩、二葉亭四迷、その他その時代の作家たちから無名の作家の物まで読み漁ってから、とうとう小林多喜二に手を付けた。小林多喜二は以前からもちろん名前だけは知っていたが、あえて読んでみようとは思わなかった。なぜなら彼はあまりにもはっきりとした思想の持ち主で、それを守り抜くためにあえて撲殺されることを選んだ人物である。僕は常に思想や目的に左右されず、何にも染まらずに真っすぐその作家を覗き見ることを主眼に本を開いているので、あまりにも強い力を持つ彼のペンに恐れのようなものを感じていたからかも知れない。しかし今、何故今なのか分からないが、勇気を持って彼のプロレタリアートな世界に足を踏み入れてみた。手始めに手に取ったのは「蟹工船」。恥ずかしいことにこの有名な作品のタイトルすら僕は初めて聞いた。ノンフィクションな作品であるようだが、これがとんでもない話である。国土から離れた、いわゆる無法な船の上で繰り広げられる恐ろしい話。労働者がここまで非人間的に扱われて、使い物にならなくなったらゴミのように捨てられる世界。当時本当にこんなことが行われていたのだろうか。彼の大袈裟な脚色ではないのか。小林多喜二の文体には独特の表現と包み隠しのないえぐい描写で、顔をそむけようとする読者の鼻先に遠慮なく現実を押し付ける。歴史の中にはまだまだ我々に知らされていない残酷な現実が溢れていて、そこでは多くの人々が文字通り地獄を見て死んでいったのかもしれない。僕はいつも考える。それは昔話ではなく、平和な今の日本でも人々の中のスイッチがいったん入れば、すぐに100年前と同じ人格になれる。他人の苦しみに全く鈍感になり、金儲けのためにはどんな地獄も鼻で笑い捨てることができるようになる。昔の人間が下等で、今の人間が進歩して上等であるということではないのだ。そこでは教育というものが重要な要素となってくる。人間そのものが金銭よりも貴いという教育をどこかで踏み誤れば、何が頭を擡げるか分からないのだ。つづく
2017.07.18
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・2017、7、13我々はもう10年以上前から「NSK合唱Combinare」というプロジェクトを行っている。健常者だけではなく、各種障害をお持ちの方々にも積極的に参加していただき、オーケストラの伴奏でベートーヴェンの「第九」、ショスタコービィチの「森の歌」などをレパートリーに活動して来た。今年は奈良県で国民文化祭が開催されるということで、その一環として我らがNSK合唱Combinare」にお声が掛かり、「森の歌」の再演を行うこととなった。この「森の歌」という作品は、戦後焼け野原になったサンクト・ペテルブルグの町に村人自身の手で森を植林して、再び緑豊かな故郷を復興した、人々の湧き上がる情熱と希望を描いた実話がテキストとされたオラトリオである。今回はこの「森の歌」に添えて、一部にマスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」の中の合唱曲を二曲演奏する。このオペラは、1800年代後半にシチリアのある田舎町で実際に起こった殺人事件が題材になっているが、オペラ全体の中での合唱曲によって、その村の人々が農業と信仰を中心に生活を営む民族的な素朴さが表現される。三拍子の魔術師と言われたマスカーニの音楽によって、ダイナミックにかつ繊細にロマンティシズムの粋が描かれる。この、ある一日にエネルギーのビッグバーンを迎えるような演奏を、皆様に是非ともお聴きいただきたいと思っている。お問い合わせ先を含め、詳細は下記のチラシデータをご参照下さい。ーーーーーーーーオラトリオ「森の歌」 2017NSK合唱Combinare[日時] 2017年10月15日(日) 15:00開演(14:00開場)[会場] 奈良県文化会館国際ホール[入場料] ¥2,000 障がい者・サポーターペアチケット ¥2,000 子供チケット ¥1,000※未就学児の入場はご遠慮いただきます【曲目】第1部 オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より マスカーニ:作曲 前奏曲 オレンジの花は香り 讃えまつれわが主よ 間奏曲第2部 オラトリオ「森の歌」作品81(日本語訳演奏) D.ショスタコーヴィチ:作曲 E.ドルマトフスキイ:詩 井上頼豊/櫻井武雄:訳詩【出演】 指揮:高谷光信 オーケストラ:奈良交響楽団 ソリスト:テノール/茶木敏行 バス/デニス・ビシュニャ 合唱:NSK 合唱 Combinare 児童合唱:関目東小学校合唱クラブ 城東ジュニアエコー〔お問い合わせ〕NSK合唱Combinare事務局 TEL/FAX:0742-45-6386 E-mail:info@nsknara.com〔主催〕NSK合唱Combinare
2017.07.14
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2017、7、9今弟子入りしている治療院で、先生に横に付いてもらいながら僕の患者様に治療を行っているが、皆さん思ったよりもたくさん来て下さり、リピーターの方も増えてコンスタントに治療している。とにかくこの方法はとても勉強になり、先生からは遠慮なしに間違いを指摘していだだきながら、今のところ患者様には満足して帰っていただいているようである。どこかで間違えて治療が進んだとしても身体に悪い影響があるわけではないのだが、的を得た主訴の解決が速やかには進まないということになる。まず治療の最初は脈診で、そこから身体の様々な情報を看き取る。ここでは繊細な指の感覚が要求される。ちょっとした脈の形の違いや種類から、これからの治療法をより分ける。しかしこの治療の入り口である脈診で僕は躓いている。とにかく難しい。自分は人一倍理解力と触覚が鈍いのでは、と疑いたくもなる。一日も早く独り立ちがしたい一心で焦るが、ここは我慢と根気が求められる。「先を見すぎてはいけない。先を見すぎると、足もとがおろそかになり、人は往々にして転ぶ。かといって、足もとの細かいところだけを見ていてもいけない。よく前を見ていないと何かにぶつかることになる。だからね、少しだけ先を見ながら、手順にしたがってきちんとものごとを処理していく。こいつが肝要だ。何ごとによらず」とは、海辺のカフカに出てくるジョニー・ウォーカーの言葉である。
2017.07.09
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・2017、6、2317日(土)にCAC混声合唱団の定期演奏会を終えた。会場であった天満教会は、雰囲気の良いこじんまりとした良いところであった。今回の演奏会の準備は、僕が丁度国家試験で目の色を変えている時期だったため、団員さんとスタッフに任せきりにして、皆が探し出してくれた今回の会場も当日初めて訪れたという有様であった。チャージは天井が高く、ワーンと美しく響くためハーモニーを助けてくれたが、その分言葉と声が不明瞭となりがちという性質を持っていて、リハーサルの時に団員さんたちに随分前に出て来て立ってもらったが、それでもクリヤーさは充分ではなかった。まあ演奏会場ではないので、そこまでの響きの注文は付けられない。僕としてはお客様に歌詞を聴きとってもらうという点が重要となるため、演奏会場の選択というのは難しい課題となる。共鳴し過ぎると内容が不明瞭。デットに過ぎると合唱というものの演奏そのものが成り立たない。にも関わらずお客様からは好評をいただいている。僕が思っているよりもずっとお客様は曲の内容を受け取って下さっていたようである。その上ハーモニーの美しさや音楽表現の巧みさに大きく心を動かして下さった方がおられた。どうしても実務に追われる現代人の生活の中で、何かしら人々がその胸の奥で感じてくれたならば、これに勝る喜びはない。団員も少ない人数で表現豊かな素晴らしい演奏を聴かせてくれた。もう少し仲間が増えれば良いなと思う。この団の土俵際の求心力を信じたい。
2017.06.23
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2017、6、13思い起こせば盲学校、大学を出てから数年教師の真似事のような生活を送った他は、勤めるという経験がないこともあり、僕は逃げ出せない一つの箱の中で毎日同じ人たちと顔を合わせて生活をしたという経験が極めて少ない。よって職場やクラスの対人関係に悩むという経験もさほど思い出せない。まあ、今から思えば学生時代には周りから虐められても、嫌味や皮肉を言われてもほとんど気が付いていなかったようであるが。そんな人生を数十年送って来て、この年で学校という組織の一クラスに三年間席を置くこととなった訳だ。そこには僕が最も不得手とする集団生活があり、いわゆる対人関係があった。人間という集団性の強い動物が引き起こす意識や欲の流れのようなもの、人の気のようなものが巻き起こす渦のようなものが弾き合ったり融合したりする様がそこには合った。若い時には自分もその流れなり渦なりに身を投じないといられないところがあった。おそらく寂しいからだろう。そのため煩わしいこと、ばかげたことに振り回されることにもなった。だが今は人と上手くやれなくとも寂しいなどという感情はほとんど感じ得ないので、僕は三年間ずっと流れ、渦から外れたところに身を置くことに成功した。結果当然のことながら、あいつは自分勝手な奴、付き合いの悪い奴、変わった奴というレッテルで押し通すこととなった。どうして若い時からこれができなかったのだろうと思う。集団性の強い動物は寂しいようにできていて、田舎の者は都会に出ないと乗り遅れているような気がして、人と同じことをしないと仲間外れになるような気がする。夏目漱石は「硝子戸の中」という本の中で述べている。「とにかく私は早く死を迎えたい。不快に満ちたこの世にはもう耐えがたい」。つづく
2017.06.13
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2017、6、12国家試験を受けて、学校を卒業してからもう三か月半が過ぎようとしている。卒業当時僕は自分の進路として四つの未来を思い描いていた。まずもともとの目的である鍼灸での一つの流派の修行。阿波座スタジオを利用しての開業。今まで通りの音楽関係での活動の継続。それに加え何処かの治療院に勤めてみたいという希望である。予想していたことではあるが、このうち勤めるという選択はなかなか難しいということが分かって来た。毎日音楽関係の仕事があり、それの空き時間だけ雇ってください、なんて都合のよい希望が通る訳がない。何十件以上当たってすべてだめではあったが、これからも諦めず少しずつ探してみようとは思っている。開業の方は、諸事情があり今まだ話は進行中で実行に至っていない。さて修行の方だが、これはいろんな風に転回を見せている。以前にも説明したが、本番に向けて体調を整えるために長く通っていた鍼灸治療院に「三年間勉強して資格を取るので、その暁にはこちらの治療法を会得すべく修行させて下さい」と予め入門をお願いしていた。卒業後計画通り定期的にそこに通い研修を受けていたが、ある時院長先生から一つの提案があった。「研修や見学もいいけど、茶木さんももうプロなんだから、やはり患者様から幾ばくかの治療費をいただいて、確実に症状を改善してお返しするという厳しさの中で治療を学んでいく環境に自分を置くことが必要です。でもこの治療院に来られる患者様を茶木さんに担当いただくのはさすがにまだまだ無理です。ただ茶木さんの患者様をここにお連れして、ここのベッドを使って治療する。でもまだまだ茶木さん一人で治療は無理でしょうから、この治療院のベテランの先生が一人誰か横に付いて、指導しながら茶木さん自身が治療を行うというシステムを取ってはいかがでしょうか?」この話は僕にとって想像もしていなかった嬉しい提案であった。厳しいことではあるが、そのシステムは僕にとって最も有効的で早く技術を会得する方法であるように感じられたからだ。もちろんこのシステムは患者様に、僕の修行の一環としてのご協力とご理解をいただかなくてはならない。そのようにして案内文を配布したところ、すでに数人の方が治療に来て下さっている。(下記にそのチラシ内容を記載する)先生に横に付いてもらっての指導の下ではあるが、実際に鍼を打つのは僕であり、その治療効果に僕自身驚いている。この流派の治療法と、鍼という技術の巨大な可能性に改めて感服しない訳にはいかない。つづくーーーーーーーーーーーーーーーーーー皆さまへこの度鍼灸按摩で国家資格を取り、治療を始めると共に、私が以前から憧れておりました流派に弟子入りすることとなりました。つきましては、その治療院のお計らいで先生に横に付いていただきながら、私の患者様に安心して治療を受けていただき、同時に患者様から幾ばくかの治療費をいただくという厳しい条件の中で私も修行して行くというシステムを取らせていただくこととなりました。私の研修期間という意味も含みますので、一回¥3000~¥4000で、期間限定の上で治療させていただきます(ちなみにこの治療院の料金は¥6000~¥8000です)。何とぞよろしくお願い申し上げます。こちらの治療院にどのような症状の方がお越しになるか下記に記します。これはあくまで例ですので、これ以外の症状にお悩みの方もご相談下さい。《お悩みの症状》●風邪を引いたような気がする●咳が止まらない●不眠症●常に倦怠感がある●手足の浮腫みが気になる●じんま疹●胃やお腹の痛み・食欲不振・食あたり●下痢・便秘●月経によるさまざまな問題●更年期によるさまざまな問題●不妊●ED●肩こり●ぎっくり腰・腰の痛み●膝の痛み●肩の痛み(五十肩) その他《声楽を志す方への声のケア》(声楽家でありながら鍼灸師である茶木独自の声のケアとアドバイス)●何だかずっと声の調子が悪い●本番前に体調を整えておきたい●喉が変に乾燥する●腹式呼吸で深く息が吸えないような気がする その他《治療を行う治療院の所在地》*ベーネ南船場治療院住所:〒542-0081 大阪市中央区南船場3-12-3 心斎橋セントビル4Fアクセス:心斎橋駅1 (心斎橋駅)出口から徒歩約2分営業時間:AM11:00~PM19:00※この治療はベーネ治療院に場所とアドバイスを提供いただくのであって、治療院としての営業ではありませんので、お問い合わせは私の携帯電話かメールにてお願いいたします。お問い合わせ:090-6900-6044 (茶木携帯)メールアドレス:mamedanuki112@estate.ocn.ne.jp 茶木 敏行
2017.06.12
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・2017、5、29今日は演奏会のご案内をしたいと思う。僕はいくつかの合唱団に呼んでいただいて指導、本番の指揮を担当させてもらっているが、このCAC混声合唱団は唯一僕自身が立ち上げた団である。結成以来もう15年近くなるのではないだろうか。世の中にある合唱団はほとんどが美しいハーモニー、美しい声、そして美しい音楽を取り上げ、その音の魅力に取り組み、客席にそれを届ける、ということを念願に置いているように感じる。そしてそれを達成している団こそが世間で称賛されるべきものとして捕らえられている。しかしそこには文章からにじみ出て来た音での解釈というものは極めて希薄であるように僕は感じて来た。歌である限りそこに文章があり、文章こそが音楽の発露であるはずだと。だが合唱という分野において、ハーモニーの重要性の前には言葉などただの飾りにしか過ぎないと言わんばかりの演奏を、僕はずっと耳にしてきた。まあもちろん僕の少ない経験からということだが。また僕は極端な意見を持っている。音楽は畢竟詩の額縁であると。そしてそこにこそ合唱の醍醐味があると。例えば我々は宗教曲としての合唱曲を好んで歌う。しかしそこに出て来るKyrie eleison(キリエ・エレイソン)という言葉の意味を分かって歌っているのだろうか。もちろん訳せば「主よ、憐れみたまえ」とするだろう。しかしそこに含まれている言葉にならない意味を僕は肌では感じ得ない。当たり前だ。それは生まれ落ちた環境の中で、長い時間を掛けて心と肌に刷り込まれる言葉なのだから。じゃあ僕は宗教曲において何を演奏する?そう、そこでは額縁である音楽のみを切り離して演奏することになる。作曲者が肌に刷り込まれた言葉から音を染み出させたにも関わらずだ。僕は僕たちも肌に刷り込まれた言葉から生み出された音楽をより分け、絵と額縁を丸ごと味わえる合唱団が欲しくて、この団を立ち上げた。そのようなプログラムと演奏を是非お楽しみいただきたいと思っている。
2017.05.29
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2017、24、水我々の通う学校の校舎は、築60年は経っている鉄筋の古びた建物だった。壁はいたるところでボロボロと崩れ、冬は暖房が入っていても室内でダウンジャケットを着て授業を受けた。音楽室からの音が丸聞えで、授業を受けていると女性の声で歌われるトスティやドナウディの歌曲が聞こえて来た。この学校には音楽科があり、一人だけ声楽を志す女子高校生がいるということだった。音楽の世界から離れ、生理学や解剖学の話を聞いている耳にイタリアの歌曲が聞こえてくると、いつのまにかそちらの声に耳が集中していて、ふと我に返ることが度々あった。その時の慣れない苦しい生活の中で、聴き慣れたそれらの歌は何とも懐かしく、どうしてこんな遠いところに来てしまったのだろうというような思いになったものだった。それが二年生の夏休みが明けると我々はピカピカの新校舎に引っ越しをした。もう音楽室からの音は漏れて来ない。入学したときからすでに工事は始まっていて、大きなトラックやシャベルカーのような車が出入りし騒音を出していたが、ついに60年の校舎の歴史に終止符を打ち、快適で明るく綺麗な校舎に移り変わったのだ。我々は丁度その歴史的節目に在学していたということになる。その新校舎で三年生になると臨床があり、僕は一階にある臨床室で学期初めにすでに怪我をすることになった。ベッドが並ぶ治療室から準備室に抜ける入り口はドア一枚の狭いところで、治療が終わった我々は忙しくそこを出入りして片付けをしていた。その時は一回目の治療で、僕は新しい臨床室の間取りや感覚に当然まだ慣れておらず、そのドアの通り抜けに失敗して脇の柱に激突し、あっと思う間に額からぽたぽた血が床に流れ落ちた。手でその血を受け止めた時、人の血液というのはこんなに温かいものなんだなと思った。学生が校内で怪我をしたということで、結構大騒ぎになった。僕は保健室で手当てを受け、保健室の先生にガーゼで額を抑えられたまま到着したタクシーに乗り込んで近くの総合病院に向かうことになった。そのタクシーには副担任の先生も乗り込み、校門には校長先生、教頭先生、主事の先生が三人直立不動で我々のタクシーを見送っておられた。保健室の先生はずっとその間も僕の額を抑えたままだった。病院ではドクターが「ああ、これは縫ってしまった方が綺麗に治るからね」と言いながら手早く四鍼縫った。あれから一年が過ぎたが、今もその傷跡はくっきり残っている。つづく
2017.05.24
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2017、5、17体育の授業で行ったフロアー・バレーなる競技もここに紹介しておきたいと思う。京都の盲学校時代もよくやったもんだが、ここに来て再びこの競技をやることになるとは思ってもいなかった。フロアー・バレーとは視覚障害者用のバレーで、張られたネットの上ではなく、下をボールを転がして行うバレーである。全盲者は前衛(健常者や弱視者が前衛を守る時にはアイシェードを着ける)、弱視者は後衛を守る。前衛者は三人でしゃがんでブロックを作り、後衛者は立ったままで前衛のブロックを抜けて来たボールを打ち返す。アタックは前衛後衛どちらのものがやっても良い。後衛の者が後ろからアタックする場合は、前衛のものはブロックを解いて脇に開かないといけない。僕は常に前衛で、最初の頃このブロックを閉じたり開いたりの作業でへとへとになり、動けなくなっていた。とにかく動きが速いので汗だくになり、おまけに相手チームからのアタックを前衛がまともに受けると、内太腿にボールを受け腫れあがってしまうこともある。僕は一度相手からのボールが急所にまともに当たり蹲ってうなったことがある。次の日に慌ててスポーツ用品店に防御用のサポートを買いに走った。おもいっきりボールを打つため、肩から腕までの酷い筋肉痛にも悩まされる。視覚障害者の競技とはいえ、かなり激しいものなのだ。夏の終わりの体育でのプールも思い出深い。9月の終わり頃ですでに気温は秋に近付いていたが、体育の先生方は最後のプール授業をすると決められ、皆水着に着替えて屋上のプールサイドに集合すると、外は土砂降りの雨。それでも警報は出ていないということで、授業は続行。若い者たちは平気そうだったが、年配者は皆寒い寒いと言いながら25メートルプールを往復していた。僕は水の中にいるだけで震えてくるので、プールサイドに上がって背中や頭を強い雨に打たれていた。「茶木さん!さぼってないで泳いで下さい!」と情け容赦ない先生の叫び声。仕方なく水に入り泳いでいると、今度は「茶木さん!すぐ水から上がって下さい!」との声。顔色も唇も真っ青になっていたらしく、すぐに退場させられ着替えた。体育の先生方は皆20代の若い人たちだが、学生にはおじさんおばさんもいるので「あまり無茶をさせるとぽっくり逝くぞ」と憤然としたものだった。でもそれでも風邪は引かなかった。ただ、その日の夜に阿波座でレッスンするのも大儀であったことを覚えている。週一回のかなり激しい体育の授業が、三年間一度も風邪らしい風邪を引かなかった原因であったことは前にも述べた。結果インフルエンザの流行っている2月に、予防注射もしなかった僕の体を健康に保ち続け、国家試験当日まで無事に体調を維持できたのも、この体育のおかげなのだ。つづく
2017.05.17
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2017、5、16学校生活の一つの特徴として挙げられるのが給食である。公立の学校だから、当然給食がある。我々は高校生だからエプロンを着けて給食当番もある。四時間目が終わると給食室に降りて準備をし、みんなで「いただきます!」と言って手を合わせた。僕は給食に多くのおぞましい思い出がある。僕が京都の盲学校の小学部であったころ、校舎から出て少し離れた木造の建物に出向き皆で給食を食べた。がらんとした部屋の真ん中に今ではお目に掛かれない太い煙突のついた大きな石油ストーブがあり、上の丸い蓋を開けると中に石油が入っていて、ちり紙にマッチで火を点けてその中にほりこみ蓋をする。その周りに皆机を並べて食べる訳だが、これが説明のしようもない不味さなのである。当時は御飯はなく毎日食パンで、まずこれがとても食べられない味で、ストーブの上に網を置いてその上で味が分からなくなるまで真っ黒に焼いてしか食べられない。ここにマーガリンなりママレードなりが付くのだが、僕は今でもこれらの名前を聞いただけでも身の毛がよだつ。僕はこの給食室に入っただけでマーガリンの匂いに耐えられなくなり嘔吐したことがある。さておかずだが、どれを取ってもおよそ人の食べられる物ではないと思えた。一番記憶にあるのがクジラの肉である。これが結構な割合で登場し、銀のアルミの食器に入ったこれを見るだけで生きることの辛さを覚えたものだ。おまけに僕は牛乳がとにかく嫌いで、盲学校小、中、高の12年間の長く暗い少年時代を彩っている。当時皆がそうであったように、やはり僕も全部飲めるまで残されて苦労に苦労を重ねてやっつけていた。一口牛乳を口に含み、味が口中に広がらないうちにお茶を口に入れて流し込むというのを何度もやって、なんとか一本すべて飲むのである。母が見かねてコーヒーの粉を持って行って牛乳に混ぜて飲ませてやってくれまいか、と学校に願い出たことがあるが、ひとりだけにそんなことを認めることはできないということで却下された。カレーでさえも油を捏ねたような耐えられないしろものであった。僕はべつに味にこだわった家に育った訳でもなく、その当時それほど味に煩い子供ではなかった。にも関わらず、余りの難儀から、ある時食べ終わった食器を調理場に持って行った際、ねーねーと給食の叔母さんに声を掛けた。おばさんは嬉しそうに「うーん?どうした?」と近付いて来た。「ねえ、給食ってどうしてこんなにまずいの?」と僕は率直に尋ねた。おそらく小学部の三年性ぐらいだったと思う。おばさんはしばらくものも言わず立ちすくんでいて、それから落ち込んだような低い声で「私ら上からこの材料でこれを作れと言われるだけやからな」と答えた。僕の心中には、何とかしてこの毎日の苦痛を取り除いて欲しい、という切なる願いがあったのを覚えている。とにかく僕は子供のころ不思議やな、これは納得できんなと思うことはそのまま真直ぐに大人に質問する子だったようで、大人になってから退職された先生方にお会いした時に「茶木君からの質問にはいつもどぎまぎさせられたわ」と言われたことがある。あれは小学校の二年生の時だった。音楽の授業では先生は二人体制で、一人の女性の先生がピアノを弾いて僕らはそれに合わせて歌っていた。教室の後ろでもう一人の男性の先生が太鼓のスティックで机を叩き小太鼓の練習をしていた。するとピアノを止めて女性の先生が「だれですかスティックで遊んでいる人は!」と声を荒げた。後ろから男性の先生が「すみません」と誤った。すると女性の先生はにっこり微笑んで「ああ、先生でしたか」と穏やかに行った。僕はその場にいて、これはおかしいだろう!と憤慨したことを覚えている。それで後でスティックを使っていた男性の先生のところに行き「生徒なら怒り、それが先生ならにっこりとして怒らないのはなぜですか?」と質問してみた。その時の先生の答えを今でもはっきり覚えているが、今思えばそれは恐ろしい悪答である。「それはね、多分あの先生より僕の方がたくさん勉強してきているからだろうね」さすがに子供としてはその答えがとんでもない教育であることを知るすべはなかった。話がとんでもないところに反れたが、現代の給食に戻れば、そのころに比べて夢のように美味しいということである。僕は毎日ものすごくお腹が空いて、若い子たちと一緒にお代わりをして、40代50代のクラスメイトの倍は食べていた。有難いことにもうどこにもマーガリンやマーマレードの姿は見えなかった。つづく
2017.05.16
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2017、5、10一年生の授業は座学に加え、鍼や按摩の実技の授業もある。我々は新調した白衣を身に着けこの授業に臨んだ。白衣と言っても病院でドクターがはおっている長い白衣ではなく、半袖で首まできっちりボタンを閉め、丈の短い上下セットになったケーシーと呼ばれる医療用のものである。一同この出で立ちで授業に出たとき、始めて大きな責任の伸し掛かる医学の世界に足を踏み入れたんだな、と感じたことを覚えている。この衣装をケーシーと呼ぶのは、僕はずっとKCとアルファベットを略したものと思っていた。これが何を略した呼び方なのかひどく気になっていて、周りにそれを尋ねても誰も知らなかった。それから約三年後のことである。僕は鍼治療の臨床に出ていた。我々が臨床と呼んでいる授業は、三年生にだけある鍼の実地訓練で、学外から患者様がお見えになり、我々学生の治療技術の訓練に協力いただくという名目で台になっていただく。その時点で我々学生は免許を持っていないのだから本来は違反になるところを、横に先生方が付いて管理するということで特別に許可された授業のようである。三年生の一年間毎日その訓練を行い、免許を取得した卒業後もすぐ社会で使い物となるようにと設けられた取り組みだそうだ。そんな治療にももう随分慣れて来たころ、僕が担当していた70代の女性の患者様が「先生はベンケーシーに似てますよ」とおっしゃった。「は?何ですかそれ?」と尋ねると「白黒のころのアメリカのテレビドラマの主人公で、彼は外科医なんです」と教えてくれた。「もちろん先生はまだ生まれておられないころのドラマですが、でもすごくハンサムなんですよ」と。それで夜のレッスンの前に生徒さんたちにそのベンケーシーのことを尋ねてみた。年配の方はやはりそのドラマのことをご存じだった。その場でネット検索してみると、ベンケーシー扮するイタリア系の俳優の白黒写真が僕と同じ白衣姿で出て来た。「この俳優がとてもハンサムで、それに僕が似ていると言われた」と説明すると、皆その画面をのぞき込んで「これのどこがハンサムやね」と苦笑した。その時生徒さんの中におられた内科のドクターが「だからこの動きやすい白衣の形をケーシーと呼ぶようになったんですよ」と教えてくれた。僕はなるほど!と指をならした。アルファベットのKCではなかったのだ。まさかドラマの主人公から来ていたとは。ということは、患者様の目には僕がケーシーを来ていたからベンケーシーに似て見えただけのことだったのだ。つづく
2017.05.10
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2017、5、9入学して最初の中間試験を5月の中頃に体験した。約一ヶ月半授業で進んだ部分だが、まさかそれ全部が範囲なんて思っていなかった。が、もちろん進んだ分が範囲となるのが普通である。一教科だけみても恐ろしい量で、それが幾つもの教科に渡る。これを全部頭に入れるなんて人間業ではない、とまで思えた。今から思えば、それぐらいどんどん進まなければ三年間でこなすべき量は達成できないのだ。しかし、学期初めでいろんな紹介や説明に日を取り、授業の進んだ量としては三年間で一番少ない範囲の試験であることを、不幸にもその時は知りようもなかったのである。その時の生理学ではDNAや細胞の話が出て来て、それらの基本的な知識は高校の理科の授業で習ったはずなのだそうだが、例によって僕にはなんの記憶もない。考えてみれば中学高校の六年間に習う内容を何も覚えていないのなら、その六年間ずっと机の前に座って日々を送ったことは、全く無駄な六年間であった訳で、貴重な十代に狩りの方法を憶えて食料を手に入れることを身に付けたり、槍の砥ぎ方を教わったり、住処の作り方を覚えたり、森の恐ろしさを理解したりする方がどれだけ意味のある十代だろう。DNAや細胞のことを勉強しなければ上の学校に進めず、進めなければ思い通りの仕事に就けず、そうでなければ充分なサラリーが取れないというこの世界の成り立ちが根っこから間違っているのだろう。しかし今の僕はDNAと細胞のことを知らねばならないのだ。本当にそれを知らねばならない時に、本当の勉強が始まるのかもしれない。初めての中間試験が終わったとき、出来るはずないと思ったその膨大な範囲の勉強が意外に出来、成績もそんなに悪くはなかった。中学高校でも、またその後の人生でも出せたことのない集中力が発揮できたような気がした。何故か。それはどうしても手に入れたい目標が前にあるから。ここから振り落とされる訳にはいかない、という石にもかじり付く必死さがあるからである。それから考えると、義務教育というものに意味があるのだろうか、という疑問も生まれる。僕のように落第する危険の極めて少ない盲学校で、義務教育として中学部を卒業し、その六年間の内容は全く頭に残っていないことと、明治時代のように義務教育のない厳しい試験制度で振り落とされ中学を中退せざるを得ないこととの間にどれほどの違いがあるというのだろう。まあそれはいい。とにかく求むるところに勉強あり、なのだろうということを知った。つづく
2017.05.09
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2017、5、3四月の入学式までは結構長く感じた。しかしこれからの行き先が決まっているというのはまあ良いことである。入学式当日体育館に設けられた式場に入り、理療科一年の席に案内され座を占めた。この感じ、とても懐かしい。式が始まり、名前を呼ばれて大きな声で返事し起立した。今日から先生ではなく、一生徒なんだなと思った。ホームルームに入り、僕が最年長で、下は22歳の若者たちであることが分かった。彼らと机を並べ担任の先生が話す教壇に向かっていると、今自分がやっていることが滑稽に感じる。実際滑稽なのだろう。このようにして、がらりと変わってしまう僕の環境と生活が始まることとなるのである。周りのクラスメイトのことや、先生方のこと、ほかにも学校内のことを書けば僕の苦しい、そして楽しい三年間がよく分かっていただけるところだが、前にも述べたように個人情報に触れてくることになるので、結局ここには何も書けない。しかしざっと振り返ってみれば、やはり一度として気のほっと休まる合間のない苦しい時期だった。でもそれでもその時間は、僕に多くの体験と戒めと考察と自信を齎すことになる。つづくiPhoneから送信
2017.05.03
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2017、4、24僕の入学しようとしている学校は、府の視覚支援学校の小・中・高等部の上にある理療科である。ここは高等部専攻科理療科であり、年齢はいくつでもいいのだが高校生ということになる。府の学校機関なので当然入学試験があり、一般教養を問われる。勉強を始めてみると因数分解どころか分数の計算もろくに憶えていないし、各都道府県の県庁所在地も全部言えない。各県に流れる川の名前も言えないし、各国の首都も言えない。京都の盲学校時代の不勉強がこんなところで祟っている。小・中学校程度の社会と数学の勉強は同僚に見てもらっていたが「ちょっと、大丈夫?」と呆れられた。小学校高学年程度の算数は、当時小学校六年生だった息子に教えてもらったが、これが大変難しい。こんなこと自分が小学校の時に習ったかな、と思うことばかりである。あまりの理解の鈍さに「だ、か、らー!」と怒られながらの勉強であった。そんな泥縄な勉強が半年続き、入学試験当日を迎えた。二月の寒い日で雪がどっさり降り、駅から学校までの慣れない道のりで、点字ブロックが雪に埋まりうまく歩道を歩けなかったことを覚えている。鉄筋造りの古い校舎の会議室みたいなところで試験が開始された。女性は極めて少ないらしく、音楽の世界とは随分違うなと感じた。初めて点字で解答を筆記することにも難儀した。筆記試験の後には適応検査があり、鍼灸治療を行うに当たって、肉体的、精神的な問題が潜在していないか調べられた。帰り道「だめだなこりゃ」と思った。一週間後に合格発表の日となったが、朝起きるとまたものすごい雪。河内長野の住宅街から南海の駅までバスも出ない。学校に電話して「雪でそちらへ伺えないので、結果を教えてほしい」というと「来てもらわないと困るんです」と非情な応え。どうしようかと思案した結果、家から駅まで2時間ほど掛けて歩くしかなかった。駅に到着したときにはブーツの中に雪がたくさん入り込んで水浸しになっていたが、仕方なくそのまま学校に向かった。薄暗いローカに受験生がずらりと並び、そこに恭しく合格発表の紙が貼られた白板がゴロゴロと押し出されて来て、自分の番号と名前がそこにあることを教えられた。その後会議室で様々な注意事項があり、それが結構長い間だったので、ずぶ濡れになった靴下がたまらなく足を冷やし苦痛だったことを覚えている。それから白衣を注文するために、業者の人に体の寸法を図られた。なるほど、これがあるからどうしても来なくてはならなかったのだ。また雪の中を駅まで戻り、そのまま夕方のレッスンのために阿波座の教室へ。同僚に合格を告げると「えー!?」と驚かれた。そこから入学式まで約2か月、平穏な日々が流れた、つづくiPhoneから送信
2017.04.24
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2017、4、17周りの者にも相談してみた。皆仕事と学業の両立は無理ではと言った。特に母親は猛反対であった。家族を抱える身でありながら、それはあまりに自分勝手で無謀なことだと。しかし僕の心の内ではもう決まっていた。周りの人々で、自分にそのしわ寄せが来ると分かっていて賛成してくれた人たちもいた。見えないのに一人でドイツに渡ると決めた時の勇気と同じだけの勇気が再び必要とされている。教師をやめて、小さな体で関取を目指すと決めた舞の海のような気分である。そのころ、入学を目指す学校の相談窓口に足を運んで、理療科の進路担当の先生と話をして、僕の意志と今置かれている状況を説明し、意見を求めた。その時その先生は僕の話を聞いておっしゃった。「理療科の三年間の勉強はかなりハードです。どうしても仕事をしながらでしか無理なら、この道への挑戦は諦められた方がよろしいのでは?」と。学校機関の先生にそんな風に言われては、僕も勇気が滅却しそうである。それに勉強がハードとはどれぐらいのものなのだろう。俄かに恐ろしくなった。それから数日考えてみたが、やはりそのまま諦めるのは余りに残念で、なにやらつまらない。えーい、どうにでもなれ、と願書を提出した。さて、そうなるとまずやらねばならないことは、点字の勉強である。学校に入ると言っても、入学試験を受けなくてはならない。国家試験を受けるための資格として、訓練期間を卒業していなければならないのである。そしてゆくゆくの国家試験も、学校への入学試験もパソコン持ち込みは許されておらず、当時すでに大幅に視力の下がった僕は点字使用で受験するしかなかった。視覚支援の福祉センターの点字教室に入り、アイウエオから勉強し始めることとなった。入学試験半年前のことである。入学試験の科目は数学、社会、英語、小論文などなど。やれやれ、そんなもん一つとして覚えている訳ない。僕は友人に頼んで、因数分解から教えてもらうこととなった。つづく
2017.04.17
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2017、4、15結局のところ僕はかなり楽天家なのだと思うことがある。視覚障害の世界から飛び出て、健常者の中で見えないのは僕だけという生活を長く送り、その群れの中で皆が当然出来ることが自分にはできないということに長い間気付くことも出来ず、そこで泳げないと思い当たった時にはすべてを掛けて一心不乱に取り組んできた音楽から置いてきぼりになっている。これは客観的に見れば結構な悲劇である。鬱を発症しても恥ずかしくないことかもしれない。実際昔歌を共に勉強した友人や、共に舞台を踏んでいた知人がその事実を聞けば言葉を無くすことだろう。何故なら彼らは我々にとって歌うことがどういう意味を持っているかよく知っているからである。ところが本人はさほどの悲劇を感じていない。全くの絶望がなかったと言えば嘘になるが、何というのか諦めが早いというか、よく言えば前向き、悪く言えば感情が鈍いのか。大体泣こうが叫ぼうが逃れることのできないことで、それなら時間の無駄を省く方が得策なのだ。そこで考えることは、自分の中でまともに機能するところで、力を発揮できるところはどこだろうという課題である。取りあえず今の段階では目以外の部分は人並みに動いているようである。じゃそれらを使ってできることで、特に秀でて得意なことは何か?目だって特異なことはないようだ。見えないことをカバーできる才能は見当たらない。そもそも歌うこと以外で自分の能力を探すこと自体が苦痛である。じゃ好きなことはなんだ?人の書いた文章を読むこと。自分でも文章を書いてみること。人の身の上話を聞くのも嫌いじゃない。その人物がどのような境遇に生まれ落ち、どんな人生を送って来たか、というような話を聞くのが好きである。人嫌いでありながら人に興味がある。凝りを解すだけの鍼灸には興味はないが、特に例の流派で脈診を持って他人の体の訴えを聞き取ってみたい。そして自分の手で誰かの苦痛を少しでも軽減することができれば、どれだけの達成感だろう。そういう意味では鍼灸治療は自分に向いた分野であるようにも感じる。やれやれ、やはり鍼灸か、と思う。でも未だ医学の勉強に足を踏み入れる自信はない。でも年齢的にも今それをやり始めなければもう一生挑戦してみることはないかもしれない。家族があり、音楽の仕事がある。それらをどうするのか。やはり無理な考えか。つづく
2017.04.15
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2017.4.10視力が下がり続ける中オペラも出来なくなり、オーケストラとの仕事も困難となって行く中、その時点で自分の出来ることと言えばピアノの前に立って一人で演奏することぐらいである。年齢的に歌い手としては一番声の熟す時期を迎え、人生の内のそんな時代を精一杯歌うことで味わうためには、ドイツ歌曲に限局した活動でしかなかった。皮肉なことに、いや、皮肉と言うよりは不思議なことに視力の低下と声の成長は反比例して進み、その両者の進行は今も続いている。そのようにして10年間の間に何度もいずみホールでのリサイタルを開催し、チャールズ・スペンサー氏を迎えてドイツ歌曲によるプログラムを組んだ。リサイタルを企画し本番ステージまで持っていく作業は誠に大変な仕事である。どのような曲を選び(ただ選ぶだけではなく、一つの演奏会を持って何を表現したいか、その曲たちが本当に自分に合った作品化、耳にするお客様にとってそれをどう受け取って下さるかなど多くのことを考慮し決定していかなければならない)、百万単位で動くお金の工面を行い、どのようにして800席ほどあるいずみホールの客席を埋めるのか。その他新聞社、ホール、スペンサー氏との対応など、それらを一人で思案し行動に移して行かなければならない。その上最終的な自分の収入はゼロ、悪くすると赤字なのだ。そんな大変な作業の反面、そこには他のことには取って代われない楽しみと喜びがあった。すべての始まりは自分の意志であり、宝物のように大事にして来た曲の中からその演奏会に合った曲を選び、プログラミング、演奏に至るまで全て僕次第、100パーセント自分の企画による作品である喜び、達成感がそこにはあった。それは自分一人の部屋作りに似ている。曲選びにはスペンサー氏の意見が多く含まれているのではと思われているようだったが、彼の意見はそこに一つとして加えられていない。すべて僕が決定し、彼はどさっと楽譜を渡され、何も言わずただ伴奏してくれていた。イニシアティブを歌い手に委ねるというのが彼の信念でもあるようだった。それはある面厳しいことでもあるが、僕にはとても心地良い喜びである。舞台に立ち、彼の伴奏で演奏しているその時間は、最も生きている喜びに満ちることのできる時間だった。聴衆が僕の演奏を受け入れるか拒否するかはどうでもいい。結局そういうことなんだと思う。集大成としてスペンサーの共演でCDを作成し、10年が通り過ぎた。その間も鍼灸治療に通い続け、僕の中での治療への憧れも膨らみ続けた。つづく
2017.04.10
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2017、4、7そのようにして鍼灸と出会うことになった。と言っても出会ったその鍼施術の流派は、日本で行われている鍼治療という点からいうとちょっと特殊なものだったのだが、その時はもちろんそれが特殊かどうかなど分かるはずもなく、ただ先生たちがお互いに目の前の患者への治療について話し合う内容や、施術への一途でひた向きなその熱意に強く引かれていた。とはいえ、まさか自分でもそのような分野の勉強をしようとは思いもしない。長い間音楽の世界だけで生きて来て、今更巧妙な頭脳の必要とする医学の世界に足を踏み入れ、この年でまるで何も知識のない分野を一から積み重ねる勇気はどうしても持てない。でも僕もあんな風に毎日楽しそうにああだこうだと言いながら治療に当たり、人の苦痛を取り除くことができればどんなにすばらしいだろう。先生たちの会話は難しく、もちろん何を言っているのか分からない。東洋医学に関する用語やツボの名前らしき漢字二文字が飛び交い、何十年治療にあたっている先生方も日々勉強の積み重ねという風でものすごく治療が奥深そうである。僕は昔から人が一心不乱に何かに情熱を傾けている背中にとにかく弱いのだ。考えてみれば鍼灸という分野は日本に渡来してから一般の健常者によって継承され、江戸後期、明治大正、昭和にかけて視覚障害者の仕事としても確立し、戦後は一時視覚障害者の専門職のようになった。ということで、視覚障害を抱えていても健常者と同等に技術を競える分野ではないのか(そのような考えも、後に打ち砕かれることになる訳だが)。いや、それでもやはりそれを自ら勉強する勇気は到底持てない。そのような葛藤が10年近く続いた。つづく
2017.04.07
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2017、4、3二十代の頃はまだよく見えていたので(よく見えていたと言っても白杖は使わずに何とかいけたということだが)オペラにも進んで参加し、たくさんの舞台を踏んだ。しかしそれらを思い起こすと背筋が凍る。オペラの舞台上と言うのは一歩間違えば大怪我を招く危険に満ちているからである。セットというのはそこまで緻密な安全を考えられているというものではなく、歩いているすぐ脇にぽっかり大きな穴が開いていて、注意しないと晴眼者でもうっかりすると何メートルも下に転落することだってあるし、演出によってはオケピットに転がり落ちる可能性だってある。それで楽器を壊せば何千万の弁償ということにもなりかねない。舞台上に建築現場と同じ足場を組んで、遥か高いところから演技しながら歌ったこともあるし、暗い舞台上で高さ8メートルほどあるセットの上から階段を下りる演技で、本番突然その階段の位置が変更されていて、すんでのところで転落しそうになったこともあった。その後ドイツに暮らすころから視力が著しく下がりオペラは全くできなくなったが、それまでよくまあ無事に過ごしてきたものだ。歌は音楽なんだから、見えないことはそう決定的なハンディーにはならないだろうと言われることもあるが、決してそうではない。指揮者も見えないし、一人で舞台に出て行くことも困難となると、実質上音楽活動は閉ざされたということを意味する。先の閉ざされた袋小路に自分が入り込んで、前に進むことも、引き返すことも出来ないことに気付いたとき、睡眠障害、倦怠感、胃痛などの身体症状が現れた。それでもある程度のステージがあり、下がり続ける視力の中で、必死にそれらの舞台を務める中、精神的にもかなりの困難を極め、そのため声にも影響があり、そこでステージへのコンディションを整えるための鍼灸治療に通うようになる。つづく
2017.04.03
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2017、4、2僕は子供のころ6歳から18歳まで京都の盲学校にいて、一生懸命やったことと言えばギターを弾いてバンド活動をすることぐらいだった。しんどい、邪魔臭い勉強などほとんどやった記憶はない。またそのころの盲学校とはさほど勉強などしなくても泳いで行ける環境だったのだ。高等部三年間を終えると、その上に理療科三年間があり、ほとんどエレベーター式に入学できた。小学校から数えると15年間受験というものは全くなく、国家試験になる前の鍼灸資格はまず受けて落ちることも少なかったため、やはり仕事に着くまで厳しい受験というものはなかった。結果学生時代もさほど目の色変えて勉強する必要もないということになる。何故かというと、そこは視覚障害者の唯一の生きていく道として確保されていて、実際には他に選べる道は残されていないということだったのだ。先人たちが何とかそこにしがみ付いて視覚障害者が餓死せぬよう、何とか生きて行けるよう切り開いた道でもあった。今の時代パソコンでの音声ソフトの開発によって様々な可能性が出て来て、全盲者の翻訳者、弁護士、大学教授、研究者などが現れている。音声ソフトによって、視覚障害者の読み書きのハンディは大幅に軽減されたということになる。しかし当時はまだ鍼灸按摩しかなかった。我々の道が一つしかないというその現実を破りたくて、いや、そこからどうにかして逃げ出したくて、僕は音楽という分野を利用して脱出に成功したのだ。しかし飛び出したそこは荒々しい健常者の世界であり、当然彼らが出来ることが僕にはできない。彼らと自分は全く違う種類の動物なのだ。そういう言い方をすると「何という悲観的な考え」と人は思うかもしれない。だがそれは逆なのだ。別の生き物と思えなければ自分で自分を蝕み、やがて自分で自分を食い殺してしまうことになるだろう。我々は自らの身を守り、生きながらえなければならない。愚かなことにその生きる術に気付くのはずっと後で、若い僕は大きな勘違いを起こし、なんだって周りの友人たちと同じように出来ると、声楽の世界で生きていけることを夢見ていた。声楽における天性の秀でた才能があればそれはそれでまた話は違うが、そうでなければたたき上げる必要があり、視覚障害を持ってしてそれは不可能と言えた。何でも仕事にしてプロとしてそれで飯を食って行くとなると、好きというだけでは全く意味を成さない。その超えることのできない壁にぶち当たった時、理療から逃げ出した僕には他に縋り付くべき別の道も存在しなかったのだ。つづく
2017.04.02
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2017、3、28話の途中ではあるが、僕にとっては今日が記念すべき日なので、そのことを報告する。午後二時に国家試験結果の公式発表があり、三部門での合格を確認することが出来た。ようやく胸を撫で下ろしていると共に、医療従事者としての第一歩を歩み始める責任と緊張を感じている。資格、それは一つの玉を手に入れ、膝の上にそれを抱きかかえながらこれからその球を時間を掛けて、長い年月変わらない情熱と目的を持って、また楽しみながら磨いて行くこと。そんなくすんだ球を手に入れることができたことを心から嬉しく思っている。自分の前に磨くべき球が、そこにあることを嬉しく思う。今日の日を迎えることが出来たのには、二つの大きな要因がある。一つは何一つ知識の無い我々に一から一つ一つ根気よく手ほどきを施して下さった先生方への恩である。もちろんのことではあるが、一人でここまで辿り着くことは出来ない訳で、導いてくれる先輩方がいたからできたことである。その恩は一生わすれることはない。二つ目には、三年間学生生活に没頭する僕を支えてくれた人々の力である。そういうと月並みの感謝の言葉に聞こえるかもしれない。しかし三年前突然僕の我儘で鍼灸師を目指したいと言い出し、三年間の学生生活と共に音楽の仕事も続けるという、その時には無謀と思える僕の意向を陰で実際的に、また精神的に支え続けてくれた人々。歌の生徒さんはレッスンを減らされ、度々そのレッスンさえもドタキャンされ、合唱団では突然言われて代わりに指導に入らされた友人たち。すべての判断と実際の作業をすべて任されてしまった団の運営委員。毎回指導者がころころ変わる中で、文句も言わず付いてきて下さった団員。そしてそれらのシフトをその都度組み替えて皆に連絡し、苦渋の調節をし続けてくれた事務方。どの場に行っても一秒も惜しんで難しい顔でパソコンに向かう僕を傍らで支え続けてくれた人々の力なしではもちろんのこと僕はここへ辿り着くことはできなかったのだ。それを思うと、社会の中に生きて、自分一人で成し得ることなど何もないように思えた。今、様々なことが胸を去来し、感無量である。
2017.03.28
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2017、3、25三年間の学生生活ではもちろん様々な多くの体験があり、嫌なこと、嬉しいこと、感動、この年で初めて思い知らされたこと、若い人たちから教えられたこと、集団意識の恐ろしさなど、たくさんあった。それは自分自身を客観的に見直す機会にも繋がった。しかしここでそれを説明することは個人情報、学校の内容などを開示してしまうことに繋がり、まずいことになりかねない。特に我々医療従事者を目指すものとして、口うるさく戒められることの一つに「守秘義務」がある。よってここでは僕自身のことしか述べることができない。学問のことを言えば、僕は京都の盲学校で小、中、高とほとんど勉学に気を向けなかった。周りの者も勉学に力を入れているものはほとんどいなかったし、入れたところで大学への進学は困難を極めた。なぜなら盲学校での勉強は弱視者や点字使用者の読書スピードや勉強量の可能範囲の関係で、普通学校のそれとは異なり著しく遅れて、例えば数学では数1を三年間で終えるのが精一杯なのだ。よって高校卒業時に共通一次を受けるレベルに遠く及ばない。よって目の不自由なものは皆高等部の上に据えられている理療かに進む。当時はまだ国家試験が開始されておらず、地方試験という受ければほとんど通るというものだった。そのようにして視覚障害者の食べていく術がかろうじて確保されていたのだ。だから先生も親もそこまで強く勉強を強制しなかったように思える。よて本人たちも切羽詰まらないので勉強なんかしない。でも僕はそんな視覚障害者の生きる道がこの世に一つしかないという現実がたまらなく嫌だった。そして音楽というものを通じてなんとかそのレールから抜け出すことに成功した訳である。しかしそのことが自分にとっての地獄の蓋を開けることになろうとは、そのときは知りようもなかった。つづく
2017.03.25
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2017、3、13学生生活最初の一学期中間テストが終わった日、校舎を出て給食室に向かう僅かな間の青空の下、春の陽の光、風の香りを忘れてしまうぐらい久しぶりに身体のセンサーがキャッチしたことを覚えている。生活環境が変わったことや不慣れな勉強へのストレスのせい、それに体を動かすことなど何十年なかったところに週一回の体育の授業、そんなものも作用してか一学期の間に僕は7キロ痩せ、自分でも「ちょっとこれはまずい」と思うほど脂肪を失った。それらのせいもあってか、息絶え絶えにようやく辿り着いた夏休みの途中に突発性難聴を発症した。平日の夜、土日は音楽の方の仕事をしながらの学生生活だったので、せめて朝は5時に起きて登校までの数時間に昨日の復習と今日の予習をするという毎日。ストレスの多い日々である反面、規則正しい生活、栄養バランスを考えられた給食、週一回の体育などのせいで余分な脂肪のない身体、旺盛な食欲、快便、安定した体調が手に入った。今振り返ってみると、三年間風邪を引いたことがなかいことに気付いた。つづく
2017.03.13
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2017、3、8これはこの三年間で身に染みて体験してきたことの一つだが、だめだと思ってもとにかく最後まで手を緩めない、出来るところまでを精一杯やる。あまり先を見過ぎず、足元を確かめて一歩一歩を大切に前に進む。それらを胸に問題を一つ一つ解いていくと、結果全部手を付けることができ、自分の解答を書き写してメモする時間もあったし、簡単に見直すこともできた。「はい、そこまで!」という試験官の声を聞いたとき「ああ、三年間のすべてが終わった」と思った。全く自信はなかったが、その後自己採点によると合格と出た。正式な発表は3月末になる。この学校に入学することにした目的は大きく二つあった。一つはもちろん鍼灸治療への憧れ。二つには今一度生きがいを実感する一日一日を手にしたかったからである。しかし実際の学生生活は生きた心地さえしない、想像以上に激しいものだった。まず一年生の時の最初の試験、一学期中間テストの時のその各教科のテスト範囲にたまげた。このような広大な範囲をどうやって覚えろというのだ、と驚嘆した。つづく
2017.03.08
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2017、2、28最後日記を書いてからどれぐらい日が経っただろう。鍼灸を勉強するべく学校に入学して、まるまる三年が過ぎた。試験を乗り越えても乗り越えても目の前にはまた試験があるという生活。そこで成果を出さねば先はないという厳しさ。長かった。そしてついに2月25日、26日に国家試験というゴールを迎えた。ここで自分の人生の岐路の分かれ目と思うと大いに緊張すべきであるはずが、意外に落ち着いていたような気がする。朝8時10分に会場に入り様々な説明を受けた後試験が開始され、昼食時間40分ほどを挟んで夕方4時半まで。それを二日間、約320問ほどを解く。蓋を開けてみるとものすごく難しく、去年までの過去問に比べて随分出題形式が変わったように思えた。難問が多く時間が足りない。後一時間となったところで、まだ40問残っていた。これは到底間に合わないと思った。脂汗が流れた。つづく
2017.02.28
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2016、7、28皆さま大変ご無沙汰いたしております。長い間ブログをさぼり申し訳ありません。あと半年さぼることになると思いますが、何とぞご理解のほどをよろしくお願いいたします。さて今三年生の夏休みを迎えています。学校ではそろそろ国家試験に向けてラストスパートが掛かろうとしており、我々学生は夏休み明けから目には見えない空気の圧力をずっしりと感じる毎日となります。今日はそのこととは関係なく、合唱参加募集のご案内です。来年2017年10月15日(土)に、奈良県文化会館国際ホールにて、ショスタコービッチ作曲「森の歌」の再演の企画が持ち上がっております。これは「NSKコンビナーレ」といういろんなところからいろんな人々が集まり作り上げる演奏会の企画です。今年の10月から各都市で練習が始まります。是非ご参加をお待ちいたしております。詳しくはフリーページをご覧ください。皆さまと作り上げる舞台を楽しみにいたしております。茶木敏行
2016.07.28
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2015、12、29もうどれぐらい文章を書かなかっただろう。我慢強く時々ブログを覗いて下さっていた方には心から感謝申し上げます。14日に二学期の期末テストが終わりへとへとになって、それでもほっと一息ついている間もなく出された課題に取り組む毎日である。三年間の折り返し地点を超え、三年生が目前に迫ってくる。来年度は今までにも増していよいよ国試対策としての追い込みが始まる。先日、学内の給食習慣で給食室で歌ってほしいと要望があり「栗デブー」というトンカツと栗ご飯の献立の歌を歌った。これは以前紹介したシンガーソングライターの先生が作曲して、これを是非声楽の声で歌ってほしいということで、当日はその先生のギター伴奏で、バックにコーラス隊もついて演奏をした。小学部の子供たちからは「変な声!」と言って笑われた。それでも皆さんにはとても珍しがっていただき、僕としても久しぶりに人前で歌ったような気がして気持ちの良いイベントであった。週に一度ある体育の授業では野球、テニス、卓球などに挑戦し、これらすべて視覚障碍者用にアレンジされたものだが、なかなか難しく体力が必要でゼーゼーいいながらやっている。しかし入学してこの週一度の体育のおかげで何だかとても体の調子が良くなってきて、風邪も全く引かないし、腰痛もなくなり、冬になってもそんなに寒いと感じなくなって来たし、お腹の肉もすっきり落ちて良いことばかりである。どんどん厳しく難しくなる勉強にはアップアップしながらも、大詰め元気に学園生活を送っている。次文章を書けるのは春休みぐらいになるかもしれないが、どうか皆さん元気にお過ごし下さい。皆ですてきな2016年を迎えましょう!
2015.12.29
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2015、5、3また随分長く投稿していなかったので、もう誰も覗いてはくれないだろうと思いながらも、五月半ばにある中間試験に向けての勉強に疲れ、ちょっと気分転換に文章を書いてみたくなった。三月に年末試験があり、一年間全部という範囲の試験を全教科乗り越え、春休みを超え、二年生として新学期を迎えたと同時に校内模擬テストがあり、何とかそれも乗り越えて一年生の時の基礎的な勉強から、ようやく実践的な勉強に移ってゴールデンウィークに辿り着いた。先生方は「一年生の時の勉強は大変ですが、二年生になれば楽になりますから、今のうちにしっかり基礎をやっておいて下さい、ここでさぼれば二年生からが大変になりますよ」とおっしゃっていた。その言葉を慰めに頑張って来たが、春休みに先輩と会って「先生方が言うようにやっぱり二年生になれば楽になるんですか?」と尋ねてみた。先輩は力なく微笑み「僕もそう聞いて一年のうちは二年になるのを楽しみに頑張ったけど、楽になるって、そんな訳ないじゃん」と事もなげに言った。なるほど二年になってみれば、四つだった座学主要教科が八つに増えている。内容も当然難しく、その上実技では臨床も入って来るので、緊張の連続である。どこを見ても楽になったという印象はない。「峠はいつまでもは続かないので、今少しの間頑張りなさい!」という先生方の慰める目的の騙しだったのだろう。先日按摩臨床デビューを果たした。臨床というのは、学校の一階にある治療室に外部の方々が来られて、五百円取って治療院さながら施術者として我々が治療に当たるのだ。一年間訓練を受けて、もう実践なのだ。その五百円はもちろん我々のものにはならない訳だが、人様からお金を取って治療する限り甘い考えでは通らない。我々理療科のものは鍼灸の資格を取るべく勉強している訳だが、同時に按摩の資格も取る。按摩というものは、訓練を受けて初めてその奥の深さに感服した。技術取得が難しく、なかなか上達しない。そして按摩による治療効果も、考えていたよりもずっと大きいものである。どれもこれも先人が経験と研究から生み出した一筋縄ではいかぬ技術だが、その分やはりとても興味深く、これからどんどん面白くなるようである。我々の担任も変わり、兎に角毎日アハハ笑って楽しくはやっている。「苦しいことを笑いながら楽しく乗り越える、それが大人ですよ」と担任は言う。この担任の座右の銘は「人生は勢いだ!」ということである。
2015.05.03
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・2015、1、6、火冬休みに入って、久しぶりに日記を書きたいと思ってからばたばたとしているうちにあっという間に三学期始業式二日前である。幾つかの険しい山を越えて、ようやく冬休みにたどり着いた。12月12日に二学期期末テストを終えてから、急いで阿波座のスタジオに向かい、ベートーヴェン第九のテノールソロの練習をする。一年歌っていないまま、本番二日前。試験勉強で2週間ほど全く声を出していなかったことと、頭ばかり使っていたことなどから、全く声は出ない。焦って練習をし過ぎ、例によって声帯に筋疲労をおこしなお焦る。なんやかやとケアに明け暮れて何とか本番終了、その一週間後にヘンデルのメサイア本番。それもまた充分な練習期間のないまま当日。それでも何とか舞台を楽しみ無事終了。オーケストラの演奏する中で椅子に座り、つい先週と全く違う世界に身を置いている自分をおかしく思い、それでも故郷に帰ったようなほっとする思いでいた。大晦日には京都の母のところに帰っていたが、あくる日元日にものすごい雪が降り出して、あれよあれよという間に20センチほど積もった。「もう一日泊まった方がよいのでは」という周りの意見を振り払い、その吹雪の中大阪に帰って来た。大阪に着けば道路は濡れてさえいない。しかし、久しぶりにしんしんと雪の降る窓の外を見ながら母や妹といろんな話ができた。子供のころはこの家で一冬に三回はこんな雪を経験していたことを思い出した。家の前に積もった雪を長靴でざくざく踏んで苦労して大通りまで出て、路面電車に乗って学校に向かった。後でニュースでは「60年ぶりの京都市内の大雪」と言っていたが、60年ぶりということはあるまい。後冬休みに何をしたかというと、友人たちと食事に行ったことや、またタナカマサルさんのライブに同級生とともに出かけた。さて、次は春休みに向かってまた幾つかの山を越えるべく、山道に踏みは入ることになる。そしてうまくいけば二年生である。次またいつ文章を書けるか分からないが、時々覗いて下さい。
2015.01.06
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・9、22、月二学期が始まり、また雪崩に見まわれたあめんぼうの生活が始まってもう半月以上が過ぎた。今までとは全く違う世界の人々と関わる機会が多くなる中で、ある意味日本の世の中に疎いまま僕はこの社会で過ごしていたのでは、と思うことがある。まず一つ日本社会の特徴とも言うべき人間関係のかわし方というか、人との付き合い方として、難しい、やっかいなことは避けるという暗黙のルールがあるようだ。言い方を変えると、自分の考えや意見はできるだけ表明せず、議論を巻き起こさない話題を選んで話す。結果世間で反対意見を食らわない話題、または世間的常識を覆さない話題のみを口にする。「変わったやつ」と思われたくない、ということらしい。そこには事実を追及するという行為は存在しておらず、その場の会話を楽しく明るく穏やかにこなす、という大テーマがあるようだ。例えばこの国の行く末や今の政治について話題を向けるやいなや「政治的なことばかり言う人は嫌い!」と一蹴されてしまう。個人の意見というものは、必ずどこかで影響を受けた(感銘した)、もしくは著書などから仕入れた思想が根本になっているはずである。なぜなら我々は専門家ではないからであろう。しかしそれも「偏った思想」として眉を顰められてしまう。ここを見比べると、西洋とでは全く異なる傾向がみられる。いろんな国の若者が寄り合うドイツの学生寮にいたころ、寮内の飲み会があると、必ずビールを片手に政治の話になり、激しい議論が展開されていた。しかしあくまで議論を楽しむということであり、喧嘩ではない。日本社会では議論は嫌われ、議論を避けて生活し、議論は必ず自分と違う意見として喧嘩の対象となる。皆が同じ考えで、社会全体の頭の中が同じでないと安心できない。これは国民性であろう。しかしそれにしてもその日本人としての「議論を避け、喧嘩を避ける」という暗黙の生活は過剰とはいえないか。議論して喧嘩するからこそ、個人と個人の真の友情もそこから生まれようではないか。ヨーロッパでは、自分の意見を持たず、それを表明できない者はバカと思われる。別にヨーロッパに合わせる必要もないし、他が正しく我が間違いとすべて思うこともないが、しかし日本社会特有の奇妙な風調も考えるべきではないだろうか。
2014.09.22
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